後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「コロナ問題による日常生活、仕事、思想宗教の変化」

2020年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
新型コロナウィルスは世界中に蔓延して1700万人の患者、66万7千人の死者が出ています。アメリカでは450万人が感染し15万人が死亡しました。日本では3万3千人が感染し約1000人が死亡しました。我が町、小金井市にも昨日まで60名の感染者が発生しました。
このコロナ問題は人々の日常生活や仕事の仕方に大きな影響を与えています。そして現代の人間の思想や宗教へも影響を与えています。
そこで今日はコロナ問題の発生によって日常生活や仕事の仕方がどのように変化したかを総合的に考えてみます。そうして現代思想や宗教の考え方の変化を考察したいと思います。
議論は多岐にわたるので分かり易くする為に箇条書きにします。

(1)コロナ問題によって日常生活はどのように変化したか?
我々の日常生活はどのように変化したでしょうか?
まずレストランや料理店へ行かなくなりました。食料品をスーパーマーケットで購入して自宅で料理して食べる生活になりました。酒を飲む時も居酒屋やビアホールに行かないで自宅で飲むようになりました。テイクアウトする人が多くなりました。
観光旅行にも行かなくなりました。劇場や映画館にも行きません。プロ野球や大相撲もテレビで見ます。

大学もインターネットを用いた遠隔授業をしています。小中高校も人数制限をして登校、短縮授業、給食も厳しい制限が行われています。運動もスポーツ大会も平常より大きく変わりました。児童、生徒,学生の心身への影響が心配です。

生活全般が質素になり無駄なお金を使わなくなりました。戦後の貧困生活を経験した我々高齢者にとっては2番目の耐乏生活です。しかしスーパーマーケットに行けばいろいろな食料品が豊富にあります。戦後の貧しい食生活とは雲泥の差です。
むしろ自宅で料理する楽しみが増えています。ただ料理が嫌いな人や忙しくて料理をする時間の無い人々は困ります。不幸な状態です。
観光旅行や劇場や映画館に行かなくなり、プロ野球や大相撲もテレビで見ていますと、どうしても運動不足になります。そして考え方も内省的になります。社会生活の重要さを忘れがちになります。
考えの視野が狭くなりがちです。
以上がコロナ問題の日常生活への影響です。

(2)コロナ問題によって仕事の仕方はどのように変化したか?
仕事や職業にはいろいろな形態があります。しかし大別すると、職人として個人的に仕事を行う形態と会社や役所に勤めて集団的に行う形態とに大別されます。前者はコロナ問題の影響を殆ど受けません。しかし製品が売れません。後者は大きな影響を受けます。
医療関係者、配送など現場に出て、対面しなければならぬ人々は危険にさらされています。

会社や役所に勤めている人には満員電車で通勤している人が多いのです。満員電車はコロナの感染の危険な場所です。従って会社や役所に勤めている人の多くは自宅で仕事をして上司とはインターネットを用いて話し合います。通勤の時間が無くなるので仕事の効率が上がります。
しかし会議がしにくいので意見の交換や議論が少なくなります。これは仕事の質を低下させる可能性につながります。
そして日本の会社や役所で重視されている集団体制や団結が弱くなります。結果として上司の指示に従うことが損なわれるのです。
このように自宅で仕事をする形態には一長一短があります。コロナ問題は会社や役所に勤めている人の仕事の仕方に問題を提起しているのです。
(3)コロナ問題は思想や宗教の考え方へどのような影響を与えているか?
現代の思想や宗教は科学や技術の重要性を否定してはいませんでした。科学や技術の重要性は現代人の暗黙の了解事項なのです。
ところが発達した現代医学でも新型コロナウィルスに対してはなす対抗手段が無いのです。新型コロナウィルスのためのワクチンが開発されていないのです。現代科学は無力なのです。
科学技術が進歩して人類を月迄送っても、新型コロナウィルスに対しては無力なのです。
この事実は科学技術の重要性の暗黙の了解事項を揺るがしいています。
人類の自然の猛威に対する弱さを示しているのです。人類の将来の運命は予測出来ず、人類の消滅さえ暗示しています。
従って現在人々が信じ信頼している宗教や思想の弱さを暗示しています。コロナ問題は人類の将来の運命に一抹の暗い影を投げかけていのです。
人間ははかない存在だというお釈迦様の教えは正しいのです。私は人類の運命を悲観的に考えがちになります。
しかしそれではいけません。常に明るい希望を持って生きることがもっとも重要だと信じています。
こんなことを考えている今日この頃です。

今日の挿絵代わりの写真は自宅の庭に咲いているムクゲの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





「優しい美しさを描く小野竹喬、そして息子の悲劇」

2020年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画と西洋画は非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しいうえに人間の考えや精神が深く描き込んであります。
日本画では人間と自然が調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように自然の風景を客観的に描くのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、知らず知らずのうちに平安な世界にいざなってくれます。人間の優しさを風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。そして絵を描く技ももちろん天才だったのです。

1番目の写真は「西の空」です。素描で1967年作です。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

2番目の写真は『夏の五箇山』です。 1933年(昭和8年)作で笠岡市立竹喬美術館が所蔵しています。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品で山々に茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

3番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)の作で東京国立近代美術館にあります。
この絵は碧い池の中に淡い色の水草が浮き、葦が茂っている風景です。水草が水に溶け込んでいるように見えます。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。

4番目の写真は「沖の灯」です。1977年作です。
茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。自然の大きさと静謐さを感じられます。

5番目の写真は「春耕」で1924年作です。 絹本着色,二曲一双で笠岡市立竹喬美術館にあります。
これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのです。大きな犂を引くことに疲
れた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。これで小野竹喬の画の紹介は終わりにします。
彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。息子の悲劇です。
昭和17年に長男の春男が出征して戦死してしまったのです。

6番目の写真の画は遺作の屏風絵です。戦死した小野春男の屏風絵の「茄子」です。1941年(昭和16年)の作でした。
この絵は信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」にあります。
春男は1917年、京都市生まれ、1941年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征し1943年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。これまで知られているのは、屏風絵の「茄子」と自画像のみです。息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。
春男は昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充されたのです。翌年、常徳殲滅作戦に参加し、11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。その日、彼は歩哨に立ち、狙撃され死亡します。
私は小野竹喬の絵が好きな妻と無言館を3度ほど訪れました。上田の奥の遠い所にあります。
無言館には戦没画学生の遺作が展示してあります。鎮魂という言葉を連想させる修道院のようなコンクリート製の建物です。
水上勉の息子が館長でした。彼が全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画が展示してあります。

7番目の写真が無言館です。
この無言館に小野竹喬の息子、春男の屏風絵が展示してあったのです。春男の戦死は竹喬の一生の悲しみでした。
そして無言館に数多くの戦死した画学生の日本画や油彩画が展示してあります。戦争の悲しみが身に沁みます。

今日は優しい美しさを描いた小野竹喬の日本画をご紹介しました。そして息子の戦死と彼の遺作の屏風絵を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年) - 1979年(昭和54年))は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館

「戦後の貧しさ、そして現在の豊さをしみじみ幸福に思う」

2020年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前生まれ、戦後育ちの私は少年時代にひどく貧しい生活を体験しました。私だけが貧しかったのではなく日本中が貧しかったのです。進駐して来たアメリカ兵のジープが走り、その一方で復員兵がギターをかき鳴らしながら物乞いをしていました。
食料も乏しく住宅は戦災に焼け狭い部屋に家族が重なるようにして寝ていました。
現在の豊な生活に比べると戦後の貧しい時代は悪夢でした。現在の豊さを思うとしみじみとした幸福感につつまれます。戦後の悪夢は忘れることが出来ません。
しかしそんな苦しい経験をしたからこそ現在の幸福を一層深く感じるのです。それは貧乏を経験した人の特権です。そしてその特権は貧しい家に生まれ大人になって豊な生活をした全ての人々の特権なのです。

今日は戦後の生活がどんなに貧しかったか、食生活を一つの例としてご紹介いたします。食生活と言っても昔食べた魚と、豊な現在に食べている魚の比較をしたいと思います。
戦中、戦後、私は魚をよく食べました。もっと正確に言うと魚しか食べられませんでした。漁港の塩釜から少し内陸に入った仙台市に24歳まで住んでいました。
私が戦前に食べた魚は塩イワシ、塩タラ、イカ、塩ニシン、塩鮭、それに多量のクジラ肉でした。どれも塩釜の北にある三陸海岸の近海で多量に獲れる魚ばかりです。イカ以外はものすごく塩が強いものばかりでした。
戦前、戦後は氷が無いし、ましてや冷凍技術などほとんど無かったのです。腐らないように塩漬けにして塩釜から仙台へ鉄道輸送しなければならなかったのです。
料理方法はといえば、塩漬けのイワシ、タラ、ニシンを焼いて食べたのです。イカは煮つけにします。イカの塩辛もよく食べました。クジラ肉は味噌をつけて焼きました。
当時は三陸海岸近海に多数のクジラが回遊して来ました。小さな捕鯨船で獲って、女川漁港で解体して仙台へ送るのです。それが戦後、南氷洋の捕鯨が始まると多量の冷凍クジラ肉が仙台の魚店で売られるようになりました。今でも覚えていますが高校時代の弁当のおかずは味噌漬けのクジラ肉でした。
生の魚は塩釜の近海で獲れたボラ、カレイ、スズキ、などでした。煮つけで食べました。
牛や豚や鶏の肉は全然食べられませんでした。それに外食は出来ませんでしたから江戸前の握り寿司は見たことがありませんでした。外食には外食券が必要だった時代だったのです。
お寿司と言えば海苔巻寿司と稲荷寿司だけでした。
戦前、戦後の仙台の庶民は塩釜が遠方なので生の刺身は食べられません。それからどういう訳かアジやサバは無かったのです。食べた記憶がありません。その上、ウナギの蒲焼は見たこともありませんでした。
北海道のタラバガニや毛ガニは遠方過ぎてだめです。ですから蟹と言えばワタリガニだけでした。しかし三陸沖で毛ガニが獲れる季節があったらしく塩釜で大釜で茹でたものを食べた記憶があります。

さて現在はどうでしょう?
何よりも世界中の美味しい魚が鮮魚として、あるいは刺身として食べることが出来るのです。
輸送中も冷凍装置を動かし、魚類を完全に冷凍状態で南米沖やアフリカ沖や北大西洋から日本各地のスーパーへ直接送る流通システムが完備してあるのです。
冷凍も極低温にし、解凍技術も進歩したので地球の向う側の魚や貝でも刺身で食べられます。
近海もののメバル、カレイ、ギ
キンメダイ、イナダ、タイ、カツオ、ノドグロ、から淡水魚のアユ、イワナ、コイまで活きの良い状態で売っているのです。
そんな魚の写真を「角上魚類」、東久留米店で撮った写真で示します。









こういう時代になると魚の食文化は日本全国が皆同じになってしまいます。
私がよく行く山梨県の山の中のスーパーの魚の売り場は東京と寸分変わらない刺身が並んでいるのです。その光景を昔の仙台の魚屋と比較すると感慨無量です。
そして現在の幸福を一層深く感じるのです。こうして私は幸福な老境を過ごしています。
日本の経済成長に努力した全ての人々に感謝しています。感謝しながら最近の豪雨と山崩れで悲嘆にくれている熊本をはじめ九州の人々や最上川が氾濫した山形の人々の苦難に心を寄せ祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ウナギの蒲焼ものがたり」

2020年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になると土用の丑の日が来ます。その日はウナギの蒲焼を食べる風習があります。日本の風習を大切にしている家人が今年の7月21日の丑の日に蒲焼を出してくれました。丑の日はまた8月2日に来ます。土用とは立秋の前の18日です。そこで今日はウナギの蒲焼ものがたりをお送りいたします。

1番目の写真はウナギの蒲焼の写真です。
この写真の出典は、http://www.nishitomo.co.jp/foods/foods_kabayaki.htmlですが、2番目の写真以降の写真葉全部私が以前に撮った写真です。

2番目の写真は北関東の行田市の魚豊のうな重です。カバヤキの味は甘くなくさっぱりしていて粋な江戸前風でした。ウナギの身は厚すぎずしかもふっくらとして脂も乗っていて申し分が無い

3番目の写真は川越市の小川菊のうな重です。江戸末期から続く老舗です。味は砂糖が少なめで醤油味が強い昔風です。昔風というより土着の味のようでした。

4番目の写真は川越市の「ぽんぽこ亭」のうな重です。カンター席に座ると目の前で盛大に蒲焼を焼いていて食欲をそそります。

5番目の写真は上諏訪の「うな藤」のうな重です。蒲焼の身が厚く、しっかりした歯ごたえ。タレは蜂蜜入りの甘い醤油味。上の写真は上うな重(2300円)だが厚いウナギが3切れもついていた。焼き方は焦げ目を十分つけた深い焼き方。濃厚な味の厚い身を食べこの上ない充足感を得た。諏訪湖の周辺のカバヤキは焼き方を十分にし、甘い濃厚な醤油味が特徴らしい。東京の味とは違ってローカル文化の主張があります。

さて活き鰻の産地は日本と中国と台湾です。日本での養殖はニホン・ウナギで中国と台湾のものはヨーロッパ・ウナギで大きさが違います。
平成30年のうなぎの国内供給量は、輸入33,236トン、国内養殖15,104トン、国内天然68トンです。輸入ものの方が多いのです。
活き鰻を割いて蒲焼を作った場所が日本なら「国産の蒲焼」、あるいは単に「国産」と表示して売っています。一方、蒲焼を作った場所が中国なら「中国産の蒲焼」あるいは単に「中国産」と表示されて売っています。
このようにクドクド書くのは「国産の蒲焼」の原料に中国から輸入した活き鰻がよく使われるからです。さらにうな重専門店では季節によって中国から輸入した活き鰻を使います。季節によっては中国の活き鰻の方が美味しいからです。良い「うなぎ専門店」は純粋に活き鰻の質だけを目利きします。産地に対する偏見がないのです。ここが重要な点です。
一方、「中国産の蒲焼」を敬遠する人が多いのも事実です。味が日本人の好みに合わないとか製造過程が衛生的でないという問題を指摘する人が多いのも事実です。私はそう思いませんが、家人は絶対に「中国産の蒲焼」を食べません。飼育する餌に問題があるというのです。
鰻に関するうんちくを傾けていたらキリがありませんので止めます。
かわりに私が鰻の蒲焼を作った体験を書きたいと思います。ドイツで作ったのです。
1969年にドイツのスツットガルト市に住み着いて、よく農民市場で野菜を買っていました。ある日、生きたウナギを水槽に入れ売っているのを発見したのです。ライン河で取れた天然ウナギです。売っている人に料理法を聞くとブツ切りにしてウナギのスープ(アールズッペ)にするか塩味の燻製にして食べろと教えてくれます。
日本のウナギの2倍くらい太いものを一匹買いカバヤキを作ることにしました。せっかくなので日本人の男性を招待し、カバヤキでドイツビールを楽しむ会をすることにしたのです。ところがウナギの蒲焼が非常に難しいのです。
まず頭を取っても胴体が動いて一本のまま裂いて2枚に下ろせないのです。そこで20cmくらいのブツ切りにして、完全に動かなくなってから2枚に裂きました。しかしウナギの背骨は3角形で切り出せません。骨のついたままの2枚下ろしを蒸して身を固めます。そうすると竹串が打てます。串を打ったあとは蒲焼にするのです。醤油、ミリン、砂糖を混ぜウナギを漬け、耐熱皿に載せてオーブンで焼たのです。何度もタレをつけ、ひっくり返しながらオーブンで丁寧に焼き上げたのです。タレが焦げて台所中にウナギの蒲焼の匂いが充満します。

お客が「いい匂いですねー」と台所を覗きに来ます。私はオーブンを開けて、誇らしげにウンチクをかたむけます。
いよいよカバヤキ・ビールパーティーの開始。焦げ目のついた分厚いカバヤキを数枚大皿に盛り付けて運ぶ。串はついたままにする。雰囲気を盛り上げるために。琥珀色のビールをなみなみと注いで、ライン河の天然ウナギのために乾杯!
カバヤキを自分の皿に取り、串を抜いて食べはじめる。ところが不味い!生臭くて、泥臭くて食べられない。でもせっかく苦労したので一串は食べた。死ぬ思いで。
生臭いだけでなく、小骨が縦横無尽に入っていて食べ難い。お客は礼儀上、「うん、これはいける!」などと言ってくれる。でも顔があまりにもの不味さ、生臭さで歪んでいる。泣きそうな顔にも見える。「止めましょう! 今、チーズを色々持って来ますから」
あれ以来茫々50年、スーパーでウナギの蒲焼を見るたびにライン河のウナギと格闘したこと、生臭かったことを思い出します。
カバヤキの価格の大部分は蒲焼を作る職人技の技術に対する料金なのです。蒲焼が高い理由を深く納得した体験でした。
ウナギの蒲焼を美味しいのは日本の伝統文化です。素人は作ろうなどど考えないで下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カナダとスペインの強烈なヒマワリとその広大な畑の写真」

2020年07月27日 | 写真
カナダとスペインの強烈なヒマワリとその広大な畑の写真をお送りいたします。日本のヒマワリ畑と比べると何故か強烈な印象を受けます。

1番目の写真はカナダのヒマワリ畑の写真です。写真の出典は、https://chibicanadablog.com/canada-life/sunflowersです。

2番目の写真もカナダのヒマワリ畑です。写真の出典は、https://chibicanadablog.com/canada-life/sunflowersです。

3番目の写真はスペイン南部のアンダルシア地方のヒマワリ畑です。出典は、https://tabit.jp/archives/378 です。

4番目の写真もスペイン南部のアンダルシア地方のヒマワリ畑です。出典は、https://tabit.jp/archives/378 です。

5番目の写真もスペイン南部のアンダルシア地方のヒマワリ畑です。出典は、https://tabit.jp/archives/378 です。

「写真で見る130年前の明治時代の日本人の生活の様子」

2020年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年07月20日に「夏が来れば思い出す、茶の間、花火、金魚売、海水浴の光景」という記事を掲載しました。この記事で昭和時代の日本人の生活の様子をご紹介いたしました。
今日は明治時代の日本人の生活の様子をご紹介したいと思います。エドワード・モースが明治20年から明治30年頃に撮った写真でご紹介いたします。
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。
彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。
その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。
その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。
今回はその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつを5回にわたりご紹介いたします。
1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いようです。今日は生活のために働く日本人の写真をお送りいたします。
その写真を見ると明治時代は江戸時代とあまり変わっていない事に吃驚します。写真を見ると漁具や漁船や大型の輸送船など全てが木造です。金属が使われていないのです。現在のタクシーのように使われていた駕籠も木と竹で出来ています。家庭で洗濯や洗い張りに使うものもすべて木製です。明治時代の生活を支えたのは木製の道具でした。金属は高価であまり気軽に使えなかったのです。そんなことを考えながら写真をご覧頂けると嬉しく思います。

1番目の写真は明治時代の漁師の写真です。藁製の腰蓑が古風です。担いでいるすくい網も無骨な作りです。

2番目の写真は下の舟は五丁櫓の快速舟です。木造の漁船で明治期は沿海漁業だけでした。大型船による遠洋漁業はまだ普及していなかったのです。

3番目の写真は遠い海を渡る運送用の和船です。江戸時代そのままの木製の帆船です。

4番目の写真は駕籠を担ぐ人の休みどころです。現在ならタクシーの車庫のようなものです。庶民が乗る駕籠は簡素な造りで、簾などついていません。裸の「駕籠かき」の様子が生活の厳しさを暗示しています。

5番目の写真は裕福そうな家庭の夫人が着物の洗い張りをしている様子です。カラー写真ではなく彩色した写真です。
こんな光景は第二次大戦頃まで見られました。私の家でも祖母が洗い張りをよくしていました。その時使っていた洗い張り用の長い板がその後何十年もあったものです。それにしても現在、絹織物の和服の洗濯はどうするのでしょうか?不思議です。

このような写真を見ると明治期の日本の庶民の生活の様子は江戸時代とほとんど変わっていなかったのです。
しかし日本の政治体制は近代西洋の議会制に大改革され軍備を中心に富国強兵策が強力に押し進められたのです。
庶民の生活では金属が殆ど使われていないのに軍艦も戦車も銃器も全て鋼鉄がふんだんに使われていました。
そんな時代だったのです。130年後の現在と比較すると隔世の感を深くします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏の風物詩、ヒマワリの写真をお楽しみ下さい」

2020年07月26日 | 写真
毎日、毎日が雨で気が滅入ります。そこで夏の風物詩、ヒマワリの写真をお送りいたします。写真をお楽しみ下さい。写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/19/ です。

1番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。

2番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。
3番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。

4番目の写真はラベンダーの花で有名な富良野の8月のヒマワリ畑です。

5番目の写真は北海道の北竜町の150万本のヒマワリ畑です。北竜町は札幌と旭川市のちょうど中間にあります。

「今日の年間第17主日のミサは動画配信で与りました」

2020年07月26日 | 日記
今日は年間第17の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めていましたが、制限しながら教会でのミサが始まりました。けれども高齢者は出席しません。
東京大司教区では土曜日の夜に行う主日のミサを動画配信しています。
古い伝統では土曜日の夜に日曜日が始まるのです。ですから土曜日の夜に日曜日の主日のミサも行えるのです。
私どもは何時ものように今日の午前に昨日の土曜日の夜の年間第17主日のミサにあずかりました。
何時もながらタルチシオ菊地功神父の信者への愛の深さや優しさに感動しました。
そして説教も格調高く、しかも分かりやすいのっです。
そこで以下に今日の菊地功神父さまの説教の冒頭を示します。

「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、わたしたちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。
人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。
もちろん、趣味で何かを集めているときなどに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろわたしたちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富としてわたしたちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものをさして、「宝」と呼んでいます。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。
すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。
以下は、「司教の日記」菊地功司教 - ホーム | Facebook に続きます。Googleで、『「司教の日記」菊地功司教 - ホーム | Facebook』を検索すると出てきます。

3枚の写真は今日の動画配信のミサの場面です。





「日本にはある13仏の仏像のそれぞれの役割」

2020年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日曜日は宗教に関する記事を書くことにしています。自分がカトリックなのでついキリスト教に関する記事が多くなります。
そこで今日は日本の佛教でかねがね不思議に思っていることを書きます。
不思議なこととは数多くの仏像を作ってそれを拝む偶像崇拝のことです。
釈迦は偶像崇拝を禁じました。ですから釈迦の死後400年くらいの間は一切の仏像は存在していませんでした。
しかるに日本には数多くの仏像があるのです。その仏像の如来や菩薩がお寺の本尊になっているのです。
そこで私は日本にはある13仏の仏像と、そのそれぞれの役割を調べてみました。

13仏とは次の13の仏像のことです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BB%8F )
1、不動明王、
2、釈迦如来、
3、文殊菩薩、
4、普賢菩薩、
5、地蔵菩薩、
6、弥勒菩薩、
7、薬師如来、
8、観音菩薩、
9、勢至菩薩、
10、阿弥陀如来、
11、阿閦如来、
12、大日如来、
13、虚空蔵菩薩、

1番目の写真は東村山市の正福寺本堂の前にある13佛の石像の写真です。以前に私が撮った写真です。
一番右に不動明王があり、その隣が釈迦如来です。そこから左方向に文殊菩薩、普賢菩薩、普賢菩薩、、、、、阿弥陀如来、、虚空蔵菩薩と並んでいます。

2番目の写真は正福寺の国宝の地蔵堂です。

3番目の写真は正福寺の山門と国宝の地蔵堂です。
国宝の地蔵堂は鎌倉幕府執権の北条氏によって1407年に建てられました。東京都にある唯一の建造物の国宝です。
ただし国宝でも日光の東照宮や平泉の中尊寺より簡素過ぎた御堂が一つポツンと建っているだけです。

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BB%8F )
また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられています。
人は亡くなると冥界にいる10人の王から7日ごとに審判を受ける、という十王信仰があります。元はインドの輪廻転生の思想が起源とされ、その後中国を経由して日本にも入ってきました。(https://syukatsulabo.jp/obosan/word/1730 )
その十王それぞれに本地仏として仏様を対応させたのが鎌倉時代です。そして江戸時代にはさらに3人の冥界の王と対応する仏様が加わって十三仏となりました。
冥界の王はそれぞれの仏様が姿を変えたものですが、死後に通過しなければならない審理を見守ってくれていると考えます。
この13仏のそれぞれの役割は次の通りです。

1、不動明王は人の煩悩を焼き払い、願い事を浄化して人を救う。
2、釈迦如来は仏教の祖であり、全ての人々を救うためにおられる最高位の仏。人々に悟りを開かせる。
3、文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」で知られる通り、人々に悟りを導くための智慧を与える。
4、普賢菩薩は慈悲により過去に犯した罪を消滅させて人々を救う。法華経では女性救済でも知られる。
5、地蔵菩薩は釈迦の入滅から弥勒菩薩が如来として現世に現れるまでの期間、人々を救済するためにいる。
6、弥勒菩薩は釈迦の次に悟りを開くとされており、釈迦の入滅後56億7千万年を経て、人間界へ下って人々を救済することになっている。
7、薬師如来は現実的な願い事をかなえてくれる。主に人々の病気の回復や延命を願いを聞き入れてくれる。
8、観音菩薩は常に人々を観てその声を聞いて救済してくれる現世利益の仏。33通りの姿になって人々の前に現れる。
9、勢至菩薩は智慧の光で六道に迷う人々に救いの道を示す。
10、阿弥陀如来は無限の空間と無限の寿命を持つ如来。南無阿弥陀仏を唱えるものは、西方にある極楽浄土に導く。
11、阿閦(あしょく)如来は怒りを断つことで悟りを開いたことから、物事に動じない強い心を授けてくれる。
12、大日如来はすべての仏の根源。全ての仏は大日如来が姿を変えて現れた化身であり、大日如来がいなければ仏の存在はない。全ての仏から導かれた教えのさらに上を導く。
13、虚空蔵菩薩は無限の智慧と慈悲が収められた蔵から、人々の願えを叶えるために必要のものを取り出して与えてくれる。

以上のようなことです。しかし分かったようで私には判然としません。これが日本の仏教の風景なのでしょう。
偶像崇拝と多神教的な仏教が日本の佛教の風景なのです。それが日本文化の多様性と寛容性の基礎になっているのです。
日本に生まれて良かったと感謝している人も多いのは日本の佛教の多様性と寛容性のお陰と言えば言い過ぎでしょうか。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「八ヶ岳山麓の清里、八千穂高原、松原湖、原村の絶景」

2020年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
八ヶ岳は何度も噴火した大きな火山で、その山麓は広大な高原になっています。そこには美しい風景があり、東京から近いので多くの人が観光に訪れています。
その八ヶ岳に近い所に私の山小屋があります。1974年に建てた小屋です。それ以来、八ヶ岳山麓の美しい風景を写真に撮って来ました。
今日は八ヶ岳山麓の清里、八千穂高原、松原湖、原村の風景写真をお送りしたいと思います。

1番目の写真は北杜市の私の小屋の近所から見た八ヶ岳です。手前の家々は北斗市の白州町です。

2番目の写真は清里の清泉寮の前に広がる牧場です。観光客が自由に入って遊べるので人気のある所です。何時もは子供連れの家族がいっぱい遊んでいます。この脇の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを朝9時から販売しています。

3番目の写真は八千穂高原の白樺林です。
雄大な八ヶ岳の東側の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。シラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。何度も行って写真を撮って来ました。

4番目の写真も八千穂高原の白樺林です。
その佐久穂町は長野県ですが、南方向に県境を越えると山梨県側の北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があります。

5番目の写真は八ヶ岳の東側の山麓にある松原湖です。 あれはもう50年以上も昔になりましたが、まだ若かった妻と一緒に散歩した松原湖です。北八ヶ岳の長野県側の小海町にある高原の自然湖です。

6番目の写真は八ヶ岳の西側の山麓にある日本一美しい村、原村から見た八ヶ岳です。

7番目の写真は日本一美しい村、原村の湖と八ヶ岳です。
原村は「日本一美しい村」と自称しているだけあって、確かに美しい村です。原村の道からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。

さて八ヶ岳山麓にはもっと沢山美しい所がありますが今日はこれで止めておきます。その代わり八ヶ岳の観光で欠かせない清泉寮というホテルの物語をお送りします。
清泉寮はアメリカの聖公会の宣教師のポール・ラッシュによって昭和13年に作られた宿泊施設です。ポール・ラッシュはやはり聖公会のウィリアムズ主教によって1874年に作られた私立学校の後身にあたる立教大学の教授をしていたのです。
ところが日本の真珠湾攻撃が始まった戦争でそのポール・ラッシュは敵性外人としてアメリカへ強制送還されたのです。日本へ再び行きたい彼はアメリカ軍の将校になりマッカーサーの占領軍の一将校としてやって来たのです。そして清泉寮を復興し、清里地域への開拓民の定着を促進したのです。それまでは清里地域は人の住まない山地だったのです。
現在、清里周辺で高原野菜を栽培したり牧畜をしている人々はでそのポール・ラッシュと清泉寮を大切にしています。
近年はジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが爆発的な人気を博し若者が多数清里を訪れるようになりました。
現在、清泉寮は設備の良いホテルとして一般の人々も宿泊出来ます。新館と旧館がありますが新館のほうが施設が良く、その奥にはポール・ラッシュの記念館もあります。
普通のホテルと違うところは館内に聖公会の礼拝堂黙想室があることです。
この八ヶ岳高原の清里地域は戦前は人のいない荒地だったのです。それが一人のアメリカ人によって開拓が進み、現在は観光地として有名になっているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
清泉寮を作った人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。
以下は省略します。でも続きは是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE を開いてご覧下さい。面白いですよ。


「今日の日記、石窯パン工房に行って美味しいパンを買う」

2020年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は午前中に「多くの日本人が憧れる上高地、その物語」という記事を書きました。
午後から日野市迄ドライブして、アイグランというパン屋さんでいろいろなパンを買って来ました。
パンというものは店によって味が違います。美味しいパン。不味いパン。本当にいろいろです。近頃は生クリームやバターを大量に入れたパンを売り物にしているパン屋がありますが、私たちはあまり好きにはなれません。
原料の小麦粉が良質で、発酵が上手で、焼き方が職人わざであれば美味しいパンになります。
しかし良い粉、上手な発酵、職人わざの焼き方、の三拍子がそろったパン屋さんはなかなかありません。
ところが日野市の石窯パン工房アイグラン泉塚店はこの三拍子がそろったパン屋さんです。ライ麦の香りのするパン・ド・カンパーニュが気に入っています。店の雰囲気が良く応対も親切です。いつ行っても清掃が行き届いています。
先程、撮って来たこのパン屋さんの写真をお送りいたします。









この店の詳しい情報は「パン工房アイグラン泉塚店」、https://info-hachiouji.tokyo/eigrain201805 に掲載にしてあります。

「今日の日記、盆の入りなので墓参りに行きました」

2020年07月23日 | 日記
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。
今日は日野市の盆の入り日です。午前中から家内の実家の墓参りに行きました。あいにくの雨だったので家内だけが墓掃除をして花を供えて来ました。私は寺の前に停めた車の中で家内の先祖の冥福を祈っていました。
大昌寺は浄土宗知恩院末のお寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したといわれています。江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました
日野宿の名主を務めていた、新選組の育ての親である佐藤俊正(彦五郎)の子孫の墓もあります。
今日は雨で写真が撮れなかったので、去年の盆の入り日に撮った大昌寺の写真と家内の実家の墓の写真を掲載いたします。この写真を撮ってから早くも1年が経過してしまったのです。時の流れの早いことに驚くばかりです。









「美味しい黒毛和牛のルーツ、見島牛のものがたり」

2020年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
世界に誇る美味しい黒毛和牛のルーツは萩市の沖にある見島の「見島牛」です。
今日はこの「見島牛」にまつわる物語をお送りいたします。
山口県萩市から北西約45kmの沖にひっそりと浮かぶ小さな島が見島です。ここに生息する牛が見島牛です。離島であるが故、西洋種との交配を免れたことから和種としての原型と純血を保っていました。昭和3年、国の天然記念物に指定されました。高価な松坂牛や神戸牛もこの見島牛の子孫なのです。

1番目の写真はいわゆる黒毛和牛を飼育している牧場の風景です。(写真の出典は「和牛写真集」です。)
最近は日本の黒毛和牛が美味なことが世界中で有名になりました。ですから黒毛和牛は世界中で飼育されています。
特にオーストラリア、カナダ、アメリカで飼育される一部は日本へ逆輸入されています。
日本の大商社が日本へ輸入するために和牛の飼育をオーストラリア、カナダ、アメリカの牧場へ奨励したのです。その後、現地の人々が好んで食べるようになって黒毛和牛が美味なことが世界中で有名になったのです。

2番目の写真は和牛がオーストラリアから世界各国へ輸出されている経路を示した写真です。

3番目の写真はその和牛の肉の写真です。
これら外国産の和牛には松坂牛や神戸牛のようなブランド名がついていません。
外国では日本種の牛肉とか和牛と呼びますが、ブランド名はないのです。そこが日本産と外国産の違いです。

ところで、和牛と言っても、純粋の和牛など現在の市場に出回っていなのです。
三大和牛といって松坂牛や神戸牛や近江牛などは明治維新以来何度も体の大きい西洋牛と交配しています。要するに血統が正しくないのです。古来の和牛と西洋牛の雑種なのです。
本当に純粋な和牛を、「西洋種の牛の血が混じっていない日本古来の牛」 と定義すると、現在は2種類の牛だけになってしまいます。
萩市の沖合の離れ島の見島に生存している天然記念物の見島牛(みしまうし)と鹿児島県の離れ島に居る口之島牛だけです。
口之島牛は日本で唯一の野生(化)牛です。西洋種の影響を受けていません。
鹿児島県鹿児島郡十島村、トカラ列島北端の口之島に棲息する野生の牛で、トカラ牛の俗称があります。
大正7 - 8年(1918年 - 1919年)に同列島の諏訪之瀬島から導入された数頭の牛の子孫です。急峻な島の地形のために放牧地へ管理が行きとどかず、その肉は商品になっていません。

一方、見島牛は7戸の「見島牛保存会」の農家が純粋種を守り続け、食肉用として市場へ出荷されています。出荷されるのは年間12頭から13頭と言います。これこそが現在賞味されている全ての「霜降り肉」の元祖なのです。

4番目の写真は昭和4年の見島牛のセリ売りの様子を示す写真です。
見島牛は現在、萩市の「みどりや」という肉屋がネット販売しています。
(http://www.mishimaushi.com/concept/index.html 〒758-0057 山口県萩市大字堀内89番地)

5番目の写真は萩市の「みどりや」という肉屋の見島牛です。
さて日本では縄文時代から弥生時代の頃に野牛は家畜化が始まったとされ、牛の骨が多く発掘されています。
また、弥生時代の貝塚から牛、猪、鹿、野ウサギなどの肉を食料としていたと思われる出土品もあり、この頃から日本人は牛肉を食べ始めたと推測されます。
日本書紀や続日本書記には、牛や馬などの肉を食べることを禁止する令が出ていたため、弥生時代から奈良時代の千年ほどの間で牛肉が食されていたとされています。
そしてずっと後の時代に黒毛和牛は中国から朝鮮へ伝わり、そして見島へ伝わったそうです。やがて見島から日本全国へ伝わったとされています。
すると、「見島牛(みしまうし)」は「朝鮮牛」と呼んでも間違いがありません。
しかしこれも変な話です。中国の福建州や中国の東北地方の沿岸から直接日本へ運ばれてきた牛もいた筈です。それらは「中国牛」と呼ぶべきではないでしょうか?。

しかしもっと判然としないのは国産和牛とか黒毛和牛という表示です。国産和牛とか黒毛和牛というものには、外国で飼育されてから成牛のまま日本へ輸入され、ちょっと日本で飼育され、それから食肉として加工された牛肉も含みます。ですからスーパーで売っている黒毛和牛は外国で成牛になり、そのまま輸入されて日本で食肉として加工されたものが大部分です。
詳しくは、「国産牛と和牛・輸入牛の違い」、http://www.yamashin-beef.com/kokusan.html をご覧下さい。

今日は美味しい黒毛和牛のルーツとしての見島牛の物語を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「またまた老人の悪い癖、他人に訳の分からぬことを強要する」

2020年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
老人の悪い癖は枚挙がありません。その一つに自分の思い込みにこだわり他人に説教することです。
これは重要だと思い込んだらそのことだけにこだわり、クドクドと言い続けるのです。クドクドと書き続けるのです。まったくはた迷惑なことです。

今日の記事はまさしくそういうものです。黒人差別は重大な問題だからこの問題を考えるべきだと強要しているのです。そして訳の分からないことをクドクド書いているのです。
黒人差別に関心の無い方々は読まない方が良いのです。無視して下さい。

さて2020年5月25日のフロイドさんの死から2週間の間で、アメリカでは、フロイドさんを殺害した警官が属したミネアポリス警察署を解体し、警察署にあてられていた資金を治安を守る別の組織と仕組みを作るのにあてると表明されました。そして欧米で大規模な人種差別反対のデモが続いているのです。
イギリスではロンドン市長が市内にある奴隷に関連する銅像を取り壊し新たな銅像を建てる計画を発表しました。
その他ヨーロッパ各地、カナダ、オーストラリア、日本などで抗議デモが行われ、ニュージーランドの国会議員2人がトランプさんを差別主義者だと非難しました。紛争中のシリアでも空爆で破壊されたビルの上に2.5メートルのジョージ・フロイドさんの壁画が作られました。
世界中で起こる抗議デモを受け、アメリカでの人種差別の深刻さを問題視したアフリカ54カ国が、国連人権理事会に対して黒人差別・警察の不正・その他黒人に対する不当な行為に関する討論会の至急開催を要請しました。

私はこれらの運動は西洋文明の革命と思い込んでいます。だから何度でもクドクドと書くのです。
そしていろいろな資料を読み続けています。
そうしたら驚くような素晴らしい資料を見つけたのです。それは次のものです。

「黒人差別の問題|アメリカと日本での差別の歴史と私たちにできること」、https://sdgs.media/blog/4871/

このブログは長文の学問的な調査報告書です。讀むのに1時間くらいかかります。まず目次だけを示します。せめて目次だけでもお読みください。内容が大体分かります。

目次
・用語の整理|固定観念・偏見・差別の違いと関連
   固定観念(ステレオタイプ)
   偏見
   差別
・アメリカで起こった黒人差別に関連する4つのできごと
   ジム・クロウ法
   奴隷制
   憲法修正第13条と現代の奴隷制
   黒人差別が組織化した刑事司法制度
・黒人差別は日本にも根付いてしまっている
   日本歴史と黒人差別
   今の日本での黒人差別
・流行するまで「ゲットー」とされる黒人カルチャー
・制度的な差別が中立の立場では断ち切れない理由
・制度的な差別の特徴と差別解消に求められる行動
・差別解消に向けて私たちにできること
・プロテストの意義と抗議デモ後の変化
・私たちが日本からできること
・まとめ

ほんの少しだけ抜粋します。
・・・現在、世界中で起こる黒人差別への反対運動の報道を受けて、どう感じているでしょうか。今まで気にしなくてもよかったこと、見えていなかったこと、目をそむけていたことをいきなり目の前に突きつけられて動揺している人や、人種差別の話をしたり、話されたりするのが気まずいと感じる人も多いでしょう。
ぜひ、この機会にその気持ちの源泉を考えてみましょう。
意識が高いと思われたくないから?
間違うのが怖いから?
静かにしていたほうが楽だから?
自身の言動を「差別」だと認めたくないから?
しかし、このように自身の心地や私情を優先できるのも、人種差別を日常的に受けていない人の特権なのかもしれません。差別問題を無くすには、まず私たち一人ひとりが問題の背景や状況に関する知識を得ることが大切です。そのため、この記事ではアメリカと日本で存在し続けている黒人差別問題の現状と歴史、私たちに今できることへ焦点を当てていきます。・・・
今回の記事はこんな人にオススメの内容です
黒人差別反対運動やBLMのニュースを見て気になっている
黒人差別の歴史や背景を理解したい
差別に対して自分ができることを知りたい・・・・

この記事を書いた人はRionaさんです。
彼女はオーストラリアのクイーンズランド大学在学中。専門分野は国際関係学、平和学、宗教学。国連の情報分析官として紛争地域の平和構築に携わることが目標だそうです。
趣味は新しい言語を学ぶことで、現在はサンスクリット語とスワヒリ語を勉強中とのことです。
それにしても若い人にも感服しますね。
今日の挿絵代わりの写真はRionaさんの記事から転写した、1、黒人差別反対のデモの写真と、黒人の美人の写真と、紛争中のシリアで空爆で破壊されたビルの上に描かれた巨大なジョージ・フロイドさんの壁画の写真です。

老人の悪い癖で、黒人差別問題が重要だと思い込んでクドクドと書き続けました。お読みになって迷惑なことだったらお許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「夏が来れば思い出す、茶の間、花火、金魚売、海水浴の光景」

2020年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。
私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。食べるものも少なかった貧しい時代でしたが夏の日々がめっぽう楽しかったのです。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。

1番目の写真は当時の茶の間の写真です。東京の芦花公園に展示してある茶の間です。
茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。
夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。この写真の左端に夜に敷く布団が積んであります。
当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。
寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。

2番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201508/p1_0008264353.shtml です。
花火遊びで一番魅了されたものが線香花火です。
線香花火は細い小さな花火ですが赤い丸い火の球が出来、そこから柳や松葉のような繊細な光が飛び出すのです。出来の良い線香花火は何時までも松葉の光を出します。そして散り菊の形になり、丸い火の玉がポトリと落ちて終わります。その後のシンとした静かさ。あの笹の葉が擦れるような線香花火の音が84歳になった私の耳に鮮明に残っています。
夏の夜の思い出でもう一つ忘れられない光景があります。それは夜店の並んだ通りの光景です。当時は電灯を並べるなどという贅沢が出来ません。ローソクの炎がゆらゆら揺れて幻想的なものでした。その夜店でひときわ明るい店が所々にあります。カーバイトに水を少しずつ供給しアセチレンガスを発生させ、大きな炎を出させるのです。その炎がシューシューと大きな音を立てます。カーバイトから出る特有の臭いを思い出します。夏の夜はこうして楽しい思い出が沢山ありました。
そして朝になり、時が過ぎ、太陽がまぶしく中天にかかるころになると金魚売りがやって来ます。キンギョ、キンギョーとよく透る呼び声が路地に響きます。

この3番目の写真は金魚売の写真です。出典は、read:http://www.city.shimabara.lg.jp/mailmagazine/backnumber/no135(270401)/270401.html です。

4番目の写真は金魚売りの売っていた金魚の写真です。
出典は、http://ameblo.jp/rika-131/entry-11485194425.html です。金魚は秋になるとよく死んでしまったのです。飼い方が悪く可哀そうなことをしたものです。
そして夏と言えば海水浴です。当時は貧しい時代だったので娯楽といえば海水浴しか無かったのです。国内旅行などまれで、海外旅行は夢の夢でした。
海水浴では海で泳いで、砂浜に寝そべって甲羅干しをします。海水で冷え切った体に熱い砂が心地良く感じました。
当時はスイカ割りなどしませんでした。スイカは貴重品です。もったいないのです。私は一度もスイカ割りの経験がありません。
そんな当時の海水浴の光景を思い出すような写真を探しました。

5番目の写真は海水浴場の写真です。この写真は熱海の最近の海水浴の光景です。当時は日本中が貧しく写真に写っているようなビーチパラソルやテントはありませんでした。しかし海水浴には多数の人が集まりました。ただ泳いで砂浜で遊ぶだけです。
そして夏休みになると子供たちは徹底的に遊び回ったのです。私には夏休みの宿題など熱心にした記憶がありません。
海水浴に行けない日は、セミ取り、トンボ取り、ドジョウ掬い、小鮒釣り、肝試し、なんでもやりました。

遊びは何でもやりましので思い残すことはありません。そんな遊びの光景を楽しみながら老境の夏の日々が静かに流れて行きます。今日も厚くなりそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)