私のこの欄ではいろいろな方にお願いをしてご寄稿を頂いています。
ブラジル在住の平峰盛敏さんにもお願いし、19歳でのブラジル移民から、ブラジルで体験なさったいろいろな興味深いお話を3回ほどご寄稿して頂きました。
さてそれはそれとして、平峰盛敏さんは「生長の家」という宗教の指導的な立場におられる方です。
私自身はカトリックの信者ですが「生長の家」は穏健で、その上、真面目に慈善事業もしている宗教組織だと尊敬しています。
以前にも日本在住の「生長の家」の幹部の方に、この欄でその教義の説明をして頂いたこともあります。ご記憶の方もいらっしゃると思います。
そこで今回は平峰盛敏さんにお願いしてブラジルにおける「生長の家」に関してご説明をして下さいとお願いいたしました。
お願いしました理由は2つです。
一つは「生長の家」の考え方が世界の平和にとって役に立つのではないかと考えたからです。宗教間の対立や争いが「生長の家」の教えで無くなると考えられるのです。楽観的過ぎるでしょうか。
二つ目はキリスト教文化圏のブラジルで日本独自の新興宗教がどのように受け入れられているか興味深いからです。
それでは平峰盛敏さんの文章を前編と後篇の二つに分けて、今日はまず前編をご紹介致します。
なお挿し絵代わりの写真は平峰さんからお送り頂いたブラジルの風景写真です。
===平峰盛敏著、ブラジルに於ける「生長の家」の布教状況(前編)=====
(1)生長の家の教えの簡単な紹介
情報テクノロジーの発展に伴って 以前は お知り合いになれない方々と、お友達に なれるように なりました。 それで、後藤和弘先生に 出会う事が 出来た事は、本当に良かったと思っています。広大な文化や豊かな 未知の世界に誘っていただきました。また、日本の現状、日本の国際関係の実情など、貴重な情報を、簡潔に伝えて下さるので、いつも愛読しております。
さて、生長の家では、人間は、皆神の子、仏の子であると教えられます。 皆神様の知恵、愛、生命の現れである。大自然も、同じ様に、神様の自己顕現であると教わります。 また、全ての宗教の神髄は、一つの創造神から出た 完全な救いの光である と、教えられます。
五官を通じて見る世界の事を、現象世界または、投影世界とよびます。神様の、陰りの無い世界のことを、実相世界と呼びます。真理、実在、理想世界、天国、極楽、倫理、平和等は実相世界に属します。病気、不幸、戦争、 悲しみ、罪等は、神様がお造りになったものではないから、実在ではない。実在でないものは持続しないから気に掛けるな。気に掛けている期間だけ、持続する心の投影であるから意識をもって否定しつつ生活するよう、教えられます。
神様が造られなかった 多種多様の不幸が、何故、人間の目前に アリアリと現れるのであるかと質問があるでしょう。答えは、それは、人間が、神と一体・自然と一体である自分の実相に気づかず人間本性の理解不足であるからです。
人間は迷い、無明、非実在、悪夢を見ているのであると、教えられます。
迷いの心で見る世界は、曲がったレンズ、曇ったレンズで撮った写真のように、実相そのものが現れないのであると教えられます。
また、現象投影以前の実相世界には、全ての時間空間が一点に 収まっていて完全円満である。 けれども、心の投影によって現れる現象世界には、あたかも大学を卒業して一人前の博士になるまで時間と云う要因が必要であるのと同様、その時その時のシーンでは、実相の完全性全部を投影していないのです。その恵みが確認出来ないと教えられます。焦らず信仰を堅持すると天国的世界が現われると教えられます。
以上が「生長の家」の教義の簡略なご紹介です。
(2)自分が入信し たきっかけや経緯
鹿児島県のある中学校通っていた頃、叔父に勧められて「生長の家」の創始者の谷口雅春先生の本を読むようになりました。
誌友会や講演会などに誘われ、父母の信仰している神道、仏教の素晴らしさ、キリスト教の素晴らしさ 及び日本の素晴らしさを知りました。 それらの教えを実践するように教えられました。要は、知恵を使って愛と感謝を表現しなさいという事です。 勉強に、仕事に最高の 真心を注ぎ込みなさいと言うことです。
高校進学前の冬休みに叔父の援助で、霧島神宮で催された中学生高校生向けの二泊三日の神性開発練成会に初めて参加し、感動に溢れました。山々が一面雪に覆われて育てて下さっている恩恵に感謝しなければいけないと云う意識がうまれました。
その時、お父さんが戦死したある中学生が号泣しました。"お母さん、赦して下さい。私は、これまで、感謝が足りませんでした。" と、叫んで号泣しました。
感受性の強い年代の少年達が、彼を囲んで泣きました。講師もその輪に入って泣かれました。 二十分後、御昼を頂いている時100 km 離れている処にいた母親の心に伝わったので、居ても立ってもおられず、喜びの発信をされたのである、と、説明されました。 それからは、人間は肉体以上の霊的存在であると云う信念が、揺るぎませんでした。強い愛念感謝の想念は、物質に頼らず空間を経て伝わるものである事を信じる様になりました。
(3)ブラジル移民後の「生長の家」の布教活動の体験
尊敬している その叔父が ブラジル移民の計画を話したので、直ぐ賛成しました。日本で、四年間生長の家の信仰を深める努力をした事が 渡航後役立ちました。今いる環境で最善を尽くせるよう 自分の内面にいらっしゃる神様に祈り続けました。
1962年にブラジルに着いて日系社会の中に生活がはじまりました。遠く離れた日本のもうひとつの島の様なものでした。その中に 沢山の生長の家家族がありました。日本で親しんだ通りの和やかな大きい組織が 機能していました。それは、大きな神様の恵みでした。毎月数回、日本語誌友会、講演会、年に数回、 慈善バザール、海岸供養 として溺死霊 の供養を海開きの頃していました。海水浴を兼ねたピックニックでした。その上、 演劇会 等に家族で参加出来る環境がありました。
そのほかにも、日本人会、県人会、日本ブラジル文化協会、総領事官等の主催になる 運動会、日本映画観賞週間、等も有り、移民の先人達の愛を感じました。
そうして私自身もこのような活動の発展を担うな立場になって行きました。それはごく自然なことに感じられました。
1963年に、生長の家の創始者の谷口雅春先生は、南北アメリカ、ヨーロッパ数国を巡る世界平和祈願の旅をされました。
ブラジルでも 主な都市で講演をされました。その時初めて遠くから私の恩師を拝む事ができました。その時は、ポルトガル通訳はありませんでした。10年後、またブラジルに見えられました。今回はポルトガル語同時通訳を使われ、ブラジル社会への伝道を推進する方針を出されました。 数日にわたる厳格な幹部講習を受けた後、試験を経て、講師の辞令を頂きました。背後で支えている日系人社会に感謝しつつ、私は出来るだけ早く非日系人のブラジル人の方々にこの御教えをお伝えしたいと大きな夢を抱いて講師としての伝道生活がスタートしました。それは1973年の頃でした。
しかし、現実は厳しいものでした。言葉や文化の壁にぶつかりました。10分間の講話の準備をするのに、10時間以上勉強する必要がありました。
外国語のポルトガル語で仏教が説く世界観を伝えることは、本当に難しい事であると痛感しました。
"色即是空!" " 物質は無い"。"物質に見えていても、物質ではない"。中々伝わりません。悪戦苦闘する年月が続きました。
三年経ってやっとポルトガル語講師としてラテンアメリカ伝道本部から認められ、ブラジル社会への伝道のやり甲斐が あると感じた地方へ移住しました。
妻と13歳から2歳の子供7人を連れて、ブラジルの南部から北東へ、約3千キロの距離を移動しました。生活の目処もない、ただただ生長の家をお伝えしたいとの夢に人生をかけて、大きな冒険をしたのです。
若さからうまれたその気概を、今、自分自身を祝福しています。その移住先の町には幸運にも本田オートバイ系の下請け会社がありました。その製作所に通訳として現地雇用されました。 苦学独学で修めたポルトガル語のお陰で、やっと安定した生活が、出来る様になりました。 文化の壁から間違いも多かったけれども、愛を込めて話すと伝わるものであると、体験しました。
(以下は後編に続きます。)
ブラジル在住の平峰盛敏さんにもお願いし、19歳でのブラジル移民から、ブラジルで体験なさったいろいろな興味深いお話を3回ほどご寄稿して頂きました。
さてそれはそれとして、平峰盛敏さんは「生長の家」という宗教の指導的な立場におられる方です。
私自身はカトリックの信者ですが「生長の家」は穏健で、その上、真面目に慈善事業もしている宗教組織だと尊敬しています。
以前にも日本在住の「生長の家」の幹部の方に、この欄でその教義の説明をして頂いたこともあります。ご記憶の方もいらっしゃると思います。
そこで今回は平峰盛敏さんにお願いしてブラジルにおける「生長の家」に関してご説明をして下さいとお願いいたしました。
お願いしました理由は2つです。
一つは「生長の家」の考え方が世界の平和にとって役に立つのではないかと考えたからです。宗教間の対立や争いが「生長の家」の教えで無くなると考えられるのです。楽観的過ぎるでしょうか。
二つ目はキリスト教文化圏のブラジルで日本独自の新興宗教がどのように受け入れられているか興味深いからです。
それでは平峰盛敏さんの文章を前編と後篇の二つに分けて、今日はまず前編をご紹介致します。
なお挿し絵代わりの写真は平峰さんからお送り頂いたブラジルの風景写真です。
===平峰盛敏著、ブラジルに於ける「生長の家」の布教状況(前編)=====
(1)生長の家の教えの簡単な紹介
情報テクノロジーの発展に伴って 以前は お知り合いになれない方々と、お友達に なれるように なりました。 それで、後藤和弘先生に 出会う事が 出来た事は、本当に良かったと思っています。広大な文化や豊かな 未知の世界に誘っていただきました。また、日本の現状、日本の国際関係の実情など、貴重な情報を、簡潔に伝えて下さるので、いつも愛読しております。
さて、生長の家では、人間は、皆神の子、仏の子であると教えられます。 皆神様の知恵、愛、生命の現れである。大自然も、同じ様に、神様の自己顕現であると教わります。 また、全ての宗教の神髄は、一つの創造神から出た 完全な救いの光である と、教えられます。
五官を通じて見る世界の事を、現象世界または、投影世界とよびます。神様の、陰りの無い世界のことを、実相世界と呼びます。真理、実在、理想世界、天国、極楽、倫理、平和等は実相世界に属します。病気、不幸、戦争、 悲しみ、罪等は、神様がお造りになったものではないから、実在ではない。実在でないものは持続しないから気に掛けるな。気に掛けている期間だけ、持続する心の投影であるから意識をもって否定しつつ生活するよう、教えられます。
神様が造られなかった 多種多様の不幸が、何故、人間の目前に アリアリと現れるのであるかと質問があるでしょう。答えは、それは、人間が、神と一体・自然と一体である自分の実相に気づかず人間本性の理解不足であるからです。
人間は迷い、無明、非実在、悪夢を見ているのであると、教えられます。
迷いの心で見る世界は、曲がったレンズ、曇ったレンズで撮った写真のように、実相そのものが現れないのであると教えられます。
また、現象投影以前の実相世界には、全ての時間空間が一点に 収まっていて完全円満である。 けれども、心の投影によって現れる現象世界には、あたかも大学を卒業して一人前の博士になるまで時間と云う要因が必要であるのと同様、その時その時のシーンでは、実相の完全性全部を投影していないのです。その恵みが確認出来ないと教えられます。焦らず信仰を堅持すると天国的世界が現われると教えられます。
以上が「生長の家」の教義の簡略なご紹介です。
(2)自分が入信し たきっかけや経緯
鹿児島県のある中学校通っていた頃、叔父に勧められて「生長の家」の創始者の谷口雅春先生の本を読むようになりました。
誌友会や講演会などに誘われ、父母の信仰している神道、仏教の素晴らしさ、キリスト教の素晴らしさ 及び日本の素晴らしさを知りました。 それらの教えを実践するように教えられました。要は、知恵を使って愛と感謝を表現しなさいという事です。 勉強に、仕事に最高の 真心を注ぎ込みなさいと言うことです。
高校進学前の冬休みに叔父の援助で、霧島神宮で催された中学生高校生向けの二泊三日の神性開発練成会に初めて参加し、感動に溢れました。山々が一面雪に覆われて育てて下さっている恩恵に感謝しなければいけないと云う意識がうまれました。
その時、お父さんが戦死したある中学生が号泣しました。"お母さん、赦して下さい。私は、これまで、感謝が足りませんでした。" と、叫んで号泣しました。
感受性の強い年代の少年達が、彼を囲んで泣きました。講師もその輪に入って泣かれました。 二十分後、御昼を頂いている時100 km 離れている処にいた母親の心に伝わったので、居ても立ってもおられず、喜びの発信をされたのである、と、説明されました。 それからは、人間は肉体以上の霊的存在であると云う信念が、揺るぎませんでした。強い愛念感謝の想念は、物質に頼らず空間を経て伝わるものである事を信じる様になりました。
(3)ブラジル移民後の「生長の家」の布教活動の体験
尊敬している その叔父が ブラジル移民の計画を話したので、直ぐ賛成しました。日本で、四年間生長の家の信仰を深める努力をした事が 渡航後役立ちました。今いる環境で最善を尽くせるよう 自分の内面にいらっしゃる神様に祈り続けました。
1962年にブラジルに着いて日系社会の中に生活がはじまりました。遠く離れた日本のもうひとつの島の様なものでした。その中に 沢山の生長の家家族がありました。日本で親しんだ通りの和やかな大きい組織が 機能していました。それは、大きな神様の恵みでした。毎月数回、日本語誌友会、講演会、年に数回、 慈善バザール、海岸供養 として溺死霊 の供養を海開きの頃していました。海水浴を兼ねたピックニックでした。その上、 演劇会 等に家族で参加出来る環境がありました。
そのほかにも、日本人会、県人会、日本ブラジル文化協会、総領事官等の主催になる 運動会、日本映画観賞週間、等も有り、移民の先人達の愛を感じました。
そうして私自身もこのような活動の発展を担うな立場になって行きました。それはごく自然なことに感じられました。
1963年に、生長の家の創始者の谷口雅春先生は、南北アメリカ、ヨーロッパ数国を巡る世界平和祈願の旅をされました。
ブラジルでも 主な都市で講演をされました。その時初めて遠くから私の恩師を拝む事ができました。その時は、ポルトガル通訳はありませんでした。10年後、またブラジルに見えられました。今回はポルトガル語同時通訳を使われ、ブラジル社会への伝道を推進する方針を出されました。 数日にわたる厳格な幹部講習を受けた後、試験を経て、講師の辞令を頂きました。背後で支えている日系人社会に感謝しつつ、私は出来るだけ早く非日系人のブラジル人の方々にこの御教えをお伝えしたいと大きな夢を抱いて講師としての伝道生活がスタートしました。それは1973年の頃でした。
しかし、現実は厳しいものでした。言葉や文化の壁にぶつかりました。10分間の講話の準備をするのに、10時間以上勉強する必要がありました。
外国語のポルトガル語で仏教が説く世界観を伝えることは、本当に難しい事であると痛感しました。
"色即是空!" " 物質は無い"。"物質に見えていても、物質ではない"。中々伝わりません。悪戦苦闘する年月が続きました。
三年経ってやっとポルトガル語講師としてラテンアメリカ伝道本部から認められ、ブラジル社会への伝道のやり甲斐が あると感じた地方へ移住しました。
妻と13歳から2歳の子供7人を連れて、ブラジルの南部から北東へ、約3千キロの距離を移動しました。生活の目処もない、ただただ生長の家をお伝えしたいとの夢に人生をかけて、大きな冒険をしたのです。
若さからうまれたその気概を、今、自分自身を祝福しています。その移住先の町には幸運にも本田オートバイ系の下請け会社がありました。その製作所に通訳として現地雇用されました。 苦学独学で修めたポルトガル語のお陰で、やっと安定した生活が、出来る様になりました。 文化の壁から間違いも多かったけれども、愛を込めて話すと伝わるものであると、体験しました。
(以下は後編に続きます。)