後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日韓友好ムードに変わる日本のマスコミ

2015年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のマスコミは何故か急に日韓友好ムードに変わりました。岸田外務大臣と韓国の外務大臣が会談したり、額賀日韓友好議員連盟会長が朴大統領を訪問した記事が大きく出ていました。そして先の日韓友好50周年記念会議に東京では安倍総理が出席し、ソウルでは朴大統領が出席し、両国の未来志向的な協調の重要性を訴えていました。
そのようなニュースを大々的に流し、日韓関係の咽喉に刺さったトゲには一切触れないようです。この変化の一つの原因はアメリカの要請です。日米韓3国の軍事同盟を緊密にし、南シナ海に軍事基地を作っている中国に対抗する必要性に迫られているのです。
このようなマスコミのムードの変化を感じ、私は二つのことを考えています。
ひとつはアメリカの軍事同盟の重視姿勢とそれに従っている日本と韓国の弱さです。
アメリカ軍は韓国に2万人以上、そして日本に5万人位駐留しています。その一方、日本の自衛隊は陸海空あわせて約25万人います。韓国も日本以上の兵員がいます。
これで北朝鮮や中国の侵入を防止しているのです。この厳しい現実を考えると日米韓の友好関係の維持が如何に重要か誰にでも理解出来る筈です。
安保関連法案を改正して日米同盟を強化し、膨張しつつあるロシアと中国の軍備強化に対抗しようとしている安倍政権にとっては日韓友好は避けて通れない政策のようです。
日韓友好ムードのマスコミを見て感じたもう一つのことはマスコミの信念の無さです。政府の方針が変わるとそれに追従するように態度を変える軽々しさを感じます。
日韓関係を悪化させるようなことをさんざん報道して扇動していたくせに最近は何も報道しなくなり静かになりました。
しかしマスコミの扇動的な体質は相変わらずで、その矛先は安保関連法案の審議の混乱ぶりと、ギリシャの財政危機に向けられています。
ヨーロッパ連合がギリシャを救う為に示した提案をギリシャ政府が拒否し、いよいよギリシャ財政が破たんする日が迫ってきたのです。そしてギリシャはヨーロッパ連合から離脱してヨーロッパは大混乱に陥るのです。このような扇動的な報道ぶりなのです。
しかしギリシャが国家倒産しても日本へは殆ど関係が無いと言う人もいます。ギリシャの国債は無に帰しますが、日本人はギリシャの国債などごく少数の人しか買っていません。
ギリシャがヨーロッパ連合から脱落しても、それが日本へ大きな影響を与えるのでしょうか?
このような視点からの議論がマスコミに皆無なのがその扇動的体質の証明と思います。
ギリシャの国家倒産は株価を下げます。日本からギリシャへのいろいろな投資も回収出来なくなります。輸出品の代金の回収も困難になります。しかしその金額的損害がいくらになるのかという真面目な議論がないのです。
銀行の休業で貯金封鎖になり生活に困る人が沢山出てくるでしょう。お気の毒です。心から同情します。そういう人々を救済する方法もマスコミでは一切論じられていません。困ったものです。
さて日韓関係の問題に戻ります。私個人はあくまでも日韓友好の重要性を信じて来ました。それは私個人と韓国人の関係において、彼等は常に友好的だったからです。
戦後すぐに、少年だった私はよく近所の朝鮮人の家に遊びに行っていたのです。あるとき大な鍋一杯の牛肉を貰ったのです。この恩義が忘れられないのです。「汝の隣人を愛せ」という言葉も忘れられないのです。
一方韓国人の悪口を叫ぶ人は個人的に韓国人から酷い目にあったのでしょうか。それなら悪口を言うのも理解できます。
確かに韓国政府は尊敬出来ないような浅慮にもとづいた言いがかりをつけて来ます。
ですから二国間の政府の関係は個人的な好き嫌いだけで判断すべきではありません。
問題は「言いがかり」を受けたときにどのように反応するかという一点にあります。
可能なかぎり感情的にならないことが肝要です。そして日韓友好の為にはそのような言いがかりがとても邪魔になると諄々と話してあげることが重要です。
こちらが感情的にならない限り彼等も理解しようとします。その説明を途中で放棄して喧嘩になってきたというのが過去の不幸な二国間の関係だったと私は考えています。絶対に話し合いの努力を捨てない態度が双方の利益になると私は信じています。
韓国政府を世間知らずと言うかぎり彼等は日本人の説明を聞こうとはしません。それがニ国間の交渉を困難にしているのです。日本人はもっと大人であるべきと思います。
それにしてもマスコミの扇動的な報道ぶりは尊敬出来ません。
そんなことを感じさせる最近のマスコミの報道ぶりです。
今日の挿絵代わりの写真は三鷹市の「花と緑の広場」で一昨日撮って来た花々の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









鎌倉の楽しみ方いろいろ(3)美しい古刹めぐりの魅力

2015年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。私はもう40年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど30位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。下に写真を示します。

上は海蔵寺です。
(写真の出典:http://c-saito.at.webry.info/theme/b81436e5da.html)

上は報国寺です。(写真の出典:
http://matome.naver.jp/odai/2139072013871894901/2139088534565345703)

上は光明寺です。(写真の出典:http://blog.takuzousuinari.com/?eid=674527)
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。この寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気が侘しいのです。誤解を恐れずに書けば貧乏くさいのです。
しかしその侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。日本文化の底に流れる侘びと寂びが強く感じられるのです。
その魅力にとりつかれて以来、何故、鎌倉のお寺はそのような雰囲気を持っているか考えてきました。
一番大きな原因は古来からの天皇や貴族のための仏教を改革し、武士や庶民の為の仏教にしたからです。分かりやすく言えば鎌倉時代に起こった日本の宗教改革のためなのです。
この宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。
現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。
ところで、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になったいたので華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗の寺院を格付けし、管理コントロ-ルをする制度で選ばれたお寺です。京都・南禅寺を別格上位とし、第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
現在の政教分離の考えからあまり尊敬すべき制度ではありません。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。
そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「わびさびの世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの「わびさびの世界」を感じ鎌倉を再訪する人も多いのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺 東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺 扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市) 立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山 臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺 泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US

今日は心温まるエピソードをご紹介いたします

2015年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
まだ梅雨が続いていますが、皆様お元気でしょうか?いつも私の拙文を読んで頂きまして有難う御座います。
さて今日は日曜日です。そこでキリスト教に関連した心温まる3つのエピソードをご紹介したいと存じます。つまらない話なのでキリスト教にご関心のない方にはお読み頂くほどのものではありません。
私に会ってくれて、私を大切にしてくれた人の話です。
心に残る3人を選びました。
(1)ドイツのローテンブルグで会ったインド人のフェルナンデス君のこと・・・
それは1969年の夏から秋にかけてたった3ケ月間だけのお付き合いでした。
毎週日曜日に私を誘ってカトリックの教会へ行ってくれました。ドイツ語のミサなので理解出来ません。
ミサ後、一緒に昼食をたべました。メニューは毎回決まっていて、チキンの半分をオーブンで焼いたものとパンとスープでした。
彼は細身で小柄なインド青年でした。英語で会話をしました。
しかしキリスト教のことは一切説明しません。ただニコニコと笑って食事をするだけです。
何も話しませんでしたが彼が私を非常に大切に思ってくれている事が分かります。彼の優しくて穏やかな笑顔を見て私は決心したのです。来年帰国したら日本で洗礼を受ける決心をしたのです。1971年、私は家内と一緒にカトリック立川教会の塚本金明神父さまから洗礼を受けました。
(2)神田、ニコライ堂で会った金田一豊さんのこと・・・
宗教で一番注意しなければいけない事は狂信しないことと思っています。ですから私は仏教も勉強しますし、キリスト教の他の宗派の教会も広く訪問しています。
色々な神父様、牧師様とお会いしましたが、ニコライ堂で偶然お会いした伝道師の金田一豊さんの事が忘れられません。
ロシア正教の影響を深く受けた日本正教会の本部教会はニコライ堂です。
その歌ミサの藝術的美しさに惹かれて見物に行ったのです。2009年の11月の事でした。
そこでお会いした金田一豊が初対面の私を昔からの幼馴染のように大切にしてくれたのです。
彼は聖職者ですからミサの最中は他の聖職者と一緒に祭壇の上に立っています。それが途中で祭壇を下りて、私のそばに来て、「どうですか?違和感を感じませんか?」と聞いてくれたのです。
それも3回もです。カトリックの私が正教会のミサへ自然に溶け込んでいるか気をつかってくれたのです。
正教会もカトリックも同じイエス様を拝んでいるので私は大らかな気分で歌ミサを存分に楽しみました。一緒に御祈りもしました。
そこでニコライ堂の歴史を詳しく調べました。幕末に函館に来たニコライさんが建てた古い教会です。彼は卓越した宣教者でした。終生ロシアに帰らず日本の土になりました。東京の谷中の墓地に眠っています。
(3)ネットで知り合ったオカブさんの事・・・
オカブさんは「昼のガスパール」というブログを書いています。
ヨーロッパ文化を愛し、ウィーンに何度も行っている方です。
ある時、下北沢の喫茶店で会いました。そして彼の行っているプロテスタントの世田谷教会の礼拝へ誘ってくれたのです。
数週間後に三軒茶屋駅のそばの世田谷教会の礼拝に出席しました。彼はその独立採算の教会の運営責任者の一人でした。
牧師さんへも、そしてオルガンを弾いている奥様へも紹介してくれました。
オカブさんは宗派の違う私を非常に大切にして下さったのです。そして他の宗派の教会を訪問することを薦めてくれました。
そのお陰で小金井市内のメノナイト系の貫井南町教会の牧師様や日本キリスト教団の小金井教会の牧師様にもお会いし、親しくお話を聞くことが出来ました。どちらの牧師さんも初対面の私をとても大切に思ってくれたのです。
以上の文章の中に「私を大切にしてくれた」という表現が何度も書きました。そのことで、皆様は下手な文章だとお思いになったことと存じます。
実はこの大切に思われた体験こそが、私にとって「イエス様に愛されている」という体験と同じなのです。
イエス様の愛は神父様を通してだけ感じるのではありません。何気なくお会いした方々を通して感じることが出来るのです。
そういう事を私に感じさせてくれた全ての人々へ感謝しているのです。
ここでは3人の例だけを書いたのです。私の心の中の財産として大切にしている心温まるエピソードです。
今日の挿絵代わりの写真は4月10日から12日の長崎県五島列島に旅で撮った教会の写真です。順々に井持浦天主堂、堂崎天主堂、そして青砂ケ浦天主堂です。明治維新以後に隠れキリシタンの子孫が建てた教会です。現在は長崎大司教区の教会として使われています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









また蓮の花の写真を撮って来ました

2015年06月27日 | 写真
先日、行った時はまだ満開ではありませんでした。先程、再度また行って今度は満開の蓮の花の写真を撮りました。もう散ってしまった花も数輪あります。
小金井公園入口の左手にある真蔵院です。
真言宗豊山派寺院の真蔵院は、慈眼山普門寺と号します。真蔵院の創建年代は不詳ながら、御嶽山世尊寺の塔頭だったといいます。関野新田を開発した勘左衛門の父甚五左衛門(享保16年1731年没、法名真蔵院勇寛義鋭)を開基として、延享2年(1745)当地へ移転、秀典(宝暦12年1762年寂)が開山したといいます。多摩八十八ヶ所霊場31番です。詳しくは、「小金井散歩みどころ散歩」(http://koganei-kankou.at.webry.info/201107/article_4.html)をご覧下さい。









鎌倉の楽しみ方いろいろ(2)海水浴、サーフィン、ヨット

2015年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

(上の写真の出典は、http://orimasa2005.web.fc2.com/km-1.htm です。)
鎌倉の海岸は白い砂浜が続き、はるか西の江の島の向うには上の写真のように雪を戴いた富士山が見える美しい海岸です。
この海岸は東端から材木座、由比ヶ浜、そして稲村ケ崎の西の砂浜は七里ヶ浜と呼ばれています。
材木座と由比ヶ浜の境は滑川です。東側を「材木座海岸」、西側を「由比ヶ浜」と呼びます。
この材木座の砂浜や由比ヶ浜は明治期に海水浴場となり、東京の人々が沢山来るようになりました。特に夏目漱石の『こころ』に描かれて有名になると一層海水浴客が増えたそうです。
しかし近年の海の楽しみ方は海水浴だけでなく、サーフィンやウィンド・サーフィン、そしてヨットなどを楽しむ人々も増えています。海水浴は夏だけですが、これらの遊びは四季を通じていつでも楽しめるのです。特に材木座にはサーフィンや小型ヨットを教えてくれるスクールがあり、気軽に始める人も多いようです。

(上の写真の出典は、http://surf-diary.surf-paradise.net/?eid=136 です。)
上は由比ヶ浜でサーフィンを楽しんでいる人々です。

(上の写真の出典は、http://jmty.jp/kanagawa/com-spo/article-s88r です。)
上は材木座のヨット・スクールの訓練風景です。

(上の写真の出典は、http://homepage3.nifty.com/88yokohama/ksummerfw.htm です。)
上は夕陽の由比ヶ浜を走っているウインド・サーフィンの姿です。
これらの写真のような光景を見て私もヨットを始めました。48歳になってから始めたのです。
最初は材木座のヨット・スクールに行きました。しかし、砂浜をヨットを引きずって海に出したり陸に上げたりする労働が48歳の自分には厳しすぎたので、すぐに止めました。その代わり江の島にあった「レッツ・ゴー・セイリング・クラブ」に入り直してヨットの帆走技術を覚えました。
その後は葉山マリーナで帆走技術の訓練を受けました。2年間ぐらい訓練を受けてからキャビンのついた大きな中古ヨットを購入し、23年間、霞ヶ浦でセイリングを楽しむことを経験しました。しかしその間も鎌倉の沖では何度も友人と帆走を楽しんだのです。
4年前の75歳の時、ヨットを手放し、止めてしまいました。体力が無くなったのです。

上の写真は暴れるヨットを何とかしようとしている私の写真です。霞が浦です。

上はヨットを正しい姿勢にして気持ちよく帆走している様子です。このヨットはキャビンも広く楽しいヨットでした。
このように鎌倉の楽しみ方の一つにその海で遊ぶ楽しみがあるのです。
何故、鎌倉周辺でヨットの趣味を始めたかという理由を簡単に書いておきます。それは家内が昭和12年に鎌倉で生まれ、終戦前には御成小学校に通っていたためです。
家内が懐かしがるので何度も鎌倉に遊びに行きました。昔は自宅から歩いて、松林を抜け、よく海水浴に行ったり地引網もしたそうです。鎌倉に行くと必ずのように材木座や由比ヶ浜の砂浜に出ます。ヨットスクールが目に入ります。
私は戦前の小学校で海洋少年団に入っていたのです。自然にヨットを始めました。少し遅すぎましたが。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

鎌倉の楽しみ方いろいろ(1)建長寺を見て精進料理を食べる

2015年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉は何時行っても観光客が道路に溢れています。歩道が狭いので車道まで溢れるようにして歩いています。鎌倉は余程楽しい所に違いありません。
そこで私なりに考えて、「鎌倉の楽しみ方いろいろ」という連載を気軽な気持ちで書いて行きたいと思います。
昨日は禅宗の建長寺を見てから総門の前の「鉢の木」で精進料理を楽しみました。
建長寺は座禅や修行を強調する禅宗の一つの臨済宗の建長寺派の本山です。
建物は大きいのですが禅宗なので華美な感じがしません。大きいのに何故か侘しい感じなのです。その総門、鐘楼、三門、仏殿、法堂、方丈とゆっくり散歩して行くと戦前、戦後の貧しかった頃のことを思い出します。
鎌倉時代の建長寺にいた1000人以上の修行僧の食べ物も貧しかったに違いありません。
そんなことを考えながら寺を出て、「鉢の木」の精進料理を食べると至極美味しい料理に感じるのです。これも鎌倉を楽しむ一つの方法です。
それでは昨日、撮った写真を示します。

建長寺は禅僧の蘭溪道隆(1213年 - 1278年)の作った日本で最初の禅寺です。上の鐘楼の鐘はその頃に鋳造された国宝です。鐘楼の屋根が茅葺なのが古さを感じさせます。

上は仏殿の中にある仏像です。大変素朴な感じの像です。

上は柏槙(ビャクシン)の大木です。760年前に植えられたものだそうです。

上は庫裏のたたずまいです。なんとなく美しいと感じたので写真を撮りました。

上は一番奥にある方丈の裏庭の風景です。立派な方丈には座禅用の座布団が並んでいて一般の人々の座禅に使っているのです。
方丈の外廊下を裏に回ると静かな裏庭に出ます。そこには幾つも椅子があり、座ってゆっくり庭を楽しめるようになっています。私もしばし庭と山の緑を楽しみました。右手の建物は大切な客人を泊める客殿のようです。
久しぶりに建長寺を見てまわりながら曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三つの禅宗のあれこれを考えていました。私の祖父は兵庫県の山郷の曹洞宗のお寺の住職でした。朝食はお粥に漬物、佃煮だけでした。なるべく精進料理にしたいのか祖父の家では魚や肉を食べた記憶がないのです。
そんな思い出に浸りながら「鉢の木」の精進料理を楽しんで来ました。
なお鎌倉には臨済宗円覚寺派の本山の円覚寺もあり、そこも好きなお寺です。そして鎌倉には沢山の小さめのお寺があります。皆質素なお寺ですがアジサイやスイセンで有名なお寺もあり、少し調べてから訪れると一層、楽しくなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日は鎌倉、建長寺と江の島を訪れました

2015年06月25日 | 写真
自宅から20分南下して中央高速道路の府中インターから入ると、八王子JCで圏央道につながります。そのまま南下して厚木を通過すると新湘南バイパスに直結します。
そのまま南下すると茅ヶ崎海岸に出るのです。そこで交差している湘南道路を江の島、鎌倉方向に走ります。
このルートは圏央道が新 湘南バイパスに直結したので自宅から鎌倉まで1時間30分の最短のコースになったのです。
今日は、ためしにこの新しいルートを往復して建長寺を散歩し、鉢の木で精進料理を食べ、江の島に寄って帰って来ました。
お送りする写真は江の島の遠景と建長寺の境内の花々の写真です。
お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









行き過ぎた自然環境保護が深刻な鳥獣被害をもたらす

2015年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は勝手なものです。都会に住んでいる人は山の森や林などの自然環境の保護を叫びます。しかしその結果、野山に鳥や獣が増えます。そうしてその周辺の農作物が毎年のように深刻な被害を受けます。
とくに過疎地の零細な農家にとっては移住を考えざるを得ません。それが過疎化の一つの原因になっているのです。
戦後70年、日本の社会は大きく変化しました。それと関連して日本の山々の動物の世界も様変わりをしたのです。甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を建てて40年間、その山林に通ってみるとこの動物の世界の大きな変化を実感できます。
1974年から1995年頃までの20年間は大型の野生動物は見たことがありませんでした。
リスや可愛いカヤネズミやキジは何度も見ました。特にキジのケーン、ケーンと啼く声は何故か哀愁があり山小屋の生活を淋しくさせたものでした。
ところが1995年頃からそれらの小型の鳥獣の姿が見えなくなりサルやイノシシが跋扈するようなります。サルは大群で雑木林のなかを遊びまわっていて、私と会っても平気です。10m以内には絶対に近づきませんが私を無視しています。
一番目から三番目までの写真は私自身が撮ったサル、キツネ、鹿の写真です。そして四番目の写真は群馬県のHPからお借りした夜のイノシシの写真です。







イノシシも沢山居ますが姿は見えません。しかし山小屋の周囲をメチャクチャに堀り荒らします。地中のミミズや蝉の幼虫を掘りだして食べるようです。イノシシの掘った穴を埋め戻すのが大変なのです。
そのうち2000年頃から鹿も増えて道路を横切って跳んでいくのを見かけるようになりました。鹿が増えるとヤマヒルが増えるらしくて小屋の中にヒルが侵入して来ます。夜寝ている間に足の血をさんざん吸われ、蒲団が血だらけになったこともあります。部屋の四隅に大量の塩を撒いたらヒルが侵入しなくなりました。
イノシシや鹿、そして猿による農作物の被害が深刻になったのは1995年以後のことのように記憶しています。
山小屋の近くの農家は水田を持っていない零細農家です。イノシシと猿の被害は深刻です。畑を放棄して移住した人もいたようです。当時は武川村という村でしたので役場の予算で農地の回りを金網で囲い電流を流していました。
ところが猿の大群やイノシシの群れはその金網を突破します。被害を防止するのは至難なことなのです。
ある時はサルの大群が私の目の前で高い金網の下を行ったり来たりしているのです。金網の下をイノシシが夜に掘った通路を昼間はサルが利用しているようです。
私は山に行ってサルや鹿を見ると可愛いと思います。自然の豊かさを感じ楽しいのです。ですからサルや鹿が増えて山小屋も一層楽しくなりました。
しかし農家の鳥獣被害を考えると複雑な気持ちになります。
ある時、全国の鳥獣被害をネットで調べてみましたら山沿いの県や市町村が大変苦労していることが分かりました。
一例として5番目と6番目の写真に平成23年度の群馬県の約10億円余の鳥獣被害の内訳を示します。出典は、https://www.pref.gunma.jp/06/f0910021.html 群馬県 - 特集 野生動物から農林作物を守るからです。



群馬県では野生動物による農林業への被害が県内各地で発生し、深刻な状況が続いているのです。耕作放棄地や野生動物の生息数が増加し、人と野生動物とのすみ分けができないことが、原因の一つになっているのです。被害は、キャベツやトウモロコシなどの野菜を中心に、コンニャクなどの工芸作物や果樹、イネ、イモ類など、さまざまな作物に及んでいます。またスギやヒノキの樹皮が剥がされ、幹が傷付けられるなど、森林の植栽木への被害も増加しています。23年度の被害額は、約10億2200万円に上りました。
このような鳥獣被害は全国の都道府県で起きているのです。
注意すべきは統計表の平均的な数字ではなく、被害が山に近い過疎地に集中する傾向があることです。このことが鳥獣被害の悲劇性を増大しているのです。
さてこの記事の題目に、「行き過ぎた自然環境保護が深刻な鳥獣被害をもたらす」と書きましたがこの表現は誤解をもたらします。鳥獣被害の増加の原因は環境保護だけではないのです。
まず安い輸入木材の輸入で国内の林業が成り立たなくなりました。従って山に入りチェーン・ソウのけたたましい音が深山に響かせる人がいなくなりました。その音を嫌がる野生動物が安心して増えます。
昔は猟犬を駆ってシノシシや鹿を打ち殺す猟師が沢山いました。しかし彼等も高齢化し山の猟が途絶えたのです。現在の若者には山の猟は厳しすぎて趣味としては敬遠されるのです。
その上もっと重要な原因は苦労して山郷で鳥獣被害の防止をするより都会へ移住して別の職業につたほうが生活が安定するという事情です。
このように鳥獣被害の増大の原因は複雑で、なかなか一朝一夕に解決が出来ない困った問題なのです。
日本の経済成長は多くの人々を幸せにした事実は間違いありません。しかしその一方で苦しみ不幸になった人々がいるのも事実です。本当に世の中は難しいものだと考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今年も小金井の真蔵院のハスの花が咲きだしました

2015年06月24日 | 写真
季節が早く進んでいます。毎年、7月初めに咲く真蔵院のハスの花が咲きだしました。駐車場まで用意してくれて気持ち良く写真を撮らせてくれます。心の広い住職様へ感謝しつつ先程撮って来ました。











国際情勢、波高しーそして日本の安保法案改正

2015年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年から45年間も続いた厳しい米ソ冷戦が1990年前後に解消して世界は平和になりました。ドイツが統一され東ヨーロッパの国々がソ連の圧制をはなれそれぞれ独立国になったのです。
当時、私は人類の英知の素晴らしさを感じ、とても明るい気分でした。
しかしその後、ロシアと中国が経済的に成長してくるに従って、両国の無法な行動が再び冷戦時代と同じ様な緊張した国際情勢を作りつつあるのです。
ロシアはクリミア半島をウクライナから奪い、更にウクライナ東部の地域を軍事占領しています。
一方、航空母艦を有する中国は太平洋の覇権を求めて南シナ海の砂州を埋め立て飛行場を作りました。国際的には中国の領土と認められていない南シナ海の幾つかの砂州を埋め立て軍事基地を作っいるようです。
このロシアと中国の行動を止めるためにアメリカは以下の二つの政策を実行しはじめました。
(1)ヨーロッパに駐留している65,000人の米軍の支援のもとに東ヨーロッパの7け国に戦車250両と装甲車両、長距離砲などの重火器を配備する新しい政策を発表しました。
配備する国々はエストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、ルーマニア、そしてブルガリアの7ケ国です。
一方、ロシアは核弾頭を付けた大陸間弾道ミサイルを新たに40基も配備すると発表しています。これは新しい冷戦の始まりのようです。
(2)中国の南シナ海での軍事基地化の対抗としてアメリカは軍用機や艦船を派遣して中国の主張している領海を侵犯しようとしています。そしてフィリピンに海軍基地を再び作ろうとしてります。そればかりではなく日本もフィリピンと共同軍事演習を実行し、ベトナムへ巡視艇の供給もしています。
南シナ海でアメリカ軍と中国軍は一触即発のような対立を続けているのです。その米国を安保条約に従って支援しているのが日本の立場です。
この現在の軍事的な対決は1945年から1990年まで続いた鉄のカーテンや竹のカーテンとは本質的に異なりますが、軍事衝突の可能性という視点からは同じような現象です。
冷戦時代は東西の情報交流も経済交流も極端に少なかったのですが、現在は対立する国家間でもいろいろな分野で交流があることが救いになっています。
しかし情緒的に表現すれば、「国際情勢、波高し」と書いても大きな誤りはありません。
この国際情勢は日本へ深い影響を与えています。
例えば日韓関係の改善はアメリカの指導で進んでいます。それは日本、韓国、米国が団結して中国に対抗しようとするアメリカの国際政策の一環なのです。
それだけはありません。安倍政権は大きく舵を切り、アメリカとの安保体制をより強固なものにしようとして、安保関連法案を大きく変えようとしています。
日本の将来の運命をアメリカに託そうという政策なのです。
これは明治維新以来の外交戦略を振り返ると大まかには正しい外交政策と考える人も多いのではないでしょうか。
明治時代の日英同盟で日本は日露戦争に勝ちました。第一次世界大戦でもドイツと戦い戦勝国になりました。しかるに第二次大戦では日英同盟をやめて日独伊同盟で戦い、敗れてしまったのです。戦後70年の歴史を見ればアメリカの圧倒的な強さを認めざるを得ません。
この流れの延長として安倍政権が日本の将来の運命をアメリカに託そうという政策は間違いのないことかもしれません。
最近の国内の議論は憲法9条を守るべきか、軍備強化し戦争も辞さなのが良いかなどと国内事情にだけ視点を置いた感情的なもののように感じられます。
憲法9条も誇りにすべき立派な条文です。自衛戦争なら勇敢に戦うという考えも立派です。
しかし憲法9条を守るべきという人々を、自衛独立を強めようとする人々が非国民というような非難をしています。憲
法9条を守る人も愛国者なのです。私自身は憲法は見直した方が良いと思いますが、それに反対する人々も愛国者だと尊敬しています。
問題の核心はそこにあるのではなく、日本がアメリカにより強く頼って、日本の運命をアメリカに託くすことが良いのか悪いのかという問題にあるのです。
アメリカに強く頼りながらロシアや中国と日本独自の外交をどのように進めるべきかという問題が重要になってくるのです。
例えば北方四島の返還ためにロシアと仲良くするということは如何なものかと思います。どうせ返す筈がないのならシベリア開発に日本企業が参入出来るように外交を展開すべきではないでしょうか。日本とロシアの交流は新たな冷戦状態になったら一段と貴重なものになる筈です。
大雑把過ぎますが最近の国際情勢をに感じることを書いてみました。今日の挿絵代わりの写真は先月行った長野県の八千穂高原の風景写真です。日本一の白樺林です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





伊豆半島で縄文人の魚の食べ方を偲ぶ

2015年06月23日 | 旅行記
旅に出ればいろいろなことを考えます。大体、脈略の無い考えなので、その全てを書いても面白可笑しくもありません。
そこで先週の伊豆半島の旅で考えたことを一つだけ取上げてご紹介いたします。
それは魚の食べ方です。縄文時代には魚を生で、そして大雑把に焼いたり、煮たりして食べたに違いないと考えたのです。そのような大雑把な料理を漁師料理とか磯料理と言います。
少し高級な旅館や料亭ではもっと手の込んだ優雅な魚料理を出します。それとはまったく違うのが漁師料理なのです。
泊まった旅館で上品な魚料理を食べて、何故か魚を食べたような気がしません。何となく魚を沢山食べたという充実感がないのです。
帰りにアジの干物を買い、真鶴半島の原忠で漁師料理を食べて、やっと海の魚を充分食べた満足感が得られたのです。
そしてこの食べ方は縄文時代から基本的に変わっていないという考えにとらわれたのです。
伊豆半島や真鶴半島では山が険しく水田は勿論、畑すら作れません。食べるものは魚しかないのです。そんな場所を旅すれば自然と縄文人の食生活を想像したくなります。
古くから住んでいた人々の食生活を偲ぶ旅になってしまったのです。
それでは写真を用いて簡略に説明いたします。

上の写真は旅館の窓から見た相模湾です。稲取温泉の沖はキンメダイの宝庫です。アジやサバのも豊富に取れます。サワラもイサキもメバルもイシダイも、そしてサザエやアワビからヒジキやモズクも取れます。野菜が無くても海藻類でなんとかなりそうです。

上の写真は淡水の一碧湖の写真です。大きな湖なので淡水魚も取れます。従って伊豆半島の山間部でも魚貝類に困らない筈です。

上の写真はアジの干物とキンメダイの味噌漬けで有名な徳造丸本店です。稲取漁港の前にあり新鮮な魚で干物や味噌漬けを作るので味が抜群なのです。
国道沿いに大きな徳造丸の販売店が数カ所あり干物を大量に売っていますが、どうもその味は本店の干物と少し違うような気がします。ですから稲取に行ったら徳造丸本店に行き、アジの干物を買うようにしています。

上の写真は真鶴半島にある漁師料理の原忠の店内にある生簀です。昔はコンクリートは無かったので木桶や土器の大甕を使っていたのではないかと想像しました。
兎に角、干物にしろ生簀にしろ、魚を数日間は保存する必要があったのでしょう。海が毎日、凪(なぎ)なら良いのですが、荒れる日が必ずあります。その間、家族が飢えないようにしなければなりません。原忠の店内にある生簀を見ながら、料理が来るのを待ち、そんなことを考えていました。
そうしたら下にのような感じの料理が出て来ました。

この写真は原忠のHPから借用しましたが、料理の仕方や盛り付けが大雑把な様子がよく表現してあります。
私の取った料理は生の刺身のイカ、コチ、サザエ、アジ、などで遠洋もののマグロやカツオはありません。すべて相模湾で取れるものです。
他にサザエを焼いた壺焼き、サワラの焼いたもの、ヒジキの煮もの、モズクの酢の物、貝の入った茶碗蒸し、ご飯、漬物、味噌汁がつきました。
一方、家内はキンメダイの煮魚定食をとりました。
魚貝類が新鮮なので手の込んだ料理をしなくても非常に美味しいのです。
食べながら縄文時代のことを想像していました。
当時は刺身包丁が無かったので鋭利な黒曜石の刃物で魚を切った筈です。従って上の写真のサシミのようにキチンとした形ではなく小骨も混じっていたことでしょう。
焼いた魚は同じ様だったに違いありません。塩は海水を煮詰めて作っていたので粉末の塩よりも煮詰めた海水を少々かけて食べる方法もあったに違いありません。
魚の煮ものは土器の鍋で煮たのでしょうが砂糖や醤油は無かったのでショウガやワサビ・サンショウと塩で味を調えたのでしょう。
つまらない話で恐縮ですが、私には縄文の血が流れているらしく、旅に出るとつい訪ねた地方の歴史を想い、そして縄文時代まで遡って考える癖があるのです。
そうすると旅が一層楽しくなるのです。まあ趣味と言えば趣味の一つです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「玄奘三蔵法師の遺骨が埼玉県、慈恩寺にあることをご存知ですか?」

2015年06月22日 | うんちく・小ネタ
現在、日本の仏教界で読まれている経典の殆どすべては唐の玄奘三蔵法師が645年にインドから持ち帰り、漢文に訳したものです。
ですから日本の多くのお寺の本堂の脇には、玄奘三蔵法師が経典を大きな箱に入れ、背負ってインドから帰る姿の像が立っています。
私は玄奘三蔵法師が好きで、以前からいろいろ本を読んでいました。
したがって玄奘三蔵法師の像を見ると大変嬉しくなります。
彼は日本の仏教の大恩人なのです。
この玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあるというのです。
数年前に私は車を駆ってこのお寺を訪れ現在の住職さんと、先代の住職さんの奥様の話をお聞きしました。先代の住職さんが遺骨を受け取り、立派な玄奘塔を作り、遺骨をその塔の基部に祀ったのです。その玄奘塔も参拝して来ました。
しかしその玄奘三蔵法師の遺骨は本物でしょうか?
本物でないかも知れませんが、遺骨が中国から渡って来た経緯が面白いのでご紹介いたします。
埼玉県にある玄奘塔は慈恩寺から少し離れた畑の中にありました。
それは西遊記(孫悟空物語)で名高い玄奘三蔵法師の霊骨を埋めた石塔です。十三重で高さは約15mあり、慈恩寺が管理しています。
三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になりましたが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)しました。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。
日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。 第2次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。 その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。
この遺骨は考古学的にも文献学的にも本物であるという証明は不可能です。しかし関係者の玄奘三蔵法師へ対する尊敬と崇拝の気持ちを考えると、それは本物でないと言うべきではありません。ある人々が信仰の対称としているものに真贋の詮索をしないのが良いと私は考えています。
一番目の写真は西遊記の絵で、出典は、http://4travel.jp/travelogue/10706944 です。
二番目の図面は玄奘が629年から645年までの16年間のインドへの旅の行程を示す図面で、出典は、「中国思想史」http://www42.tok2.com/…/yasu…/chinashisoushi/12tenjikuhe.htm です。
三番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の脇にある玄奘の像です。
四番目の写真は玄奘塔の門です。
五番目の写真は玄奘塔で、その基部に現状の遺骨の一部が埋まってあります。
これら3枚の写真の出典は、http://www.ukima.info/feature/jionji/jionji.htm です。
====参考資料===============
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。以下は、https://ja.wikipedia.org/…/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%9… に続きます。