後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「菊と刀」で2つの事に感動した思い出

2008年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ルース・ベネディクトの名著、「菊と刀」には色々な読み方がある。

1958年、大学生の頃に読んで感動した。特に2つの性質の異なる感動を一生忘れられない。

(1)世界中の民族文化を比較するのは重要だが、倫理的な視点から民族文化の優劣を考えてはいけない!

比較文化人類学という分野の学者だったベネディクト博士にとっては当然な研究態度である。

この態度は将来、研究者になろうとしていた小生にとっては衝撃的な指導であった。科学と道徳を、そして宗教を一緒にしてはいけない!一緒にすると学問は進歩しない。一生忘れらえない教訓であった。多くの宗教画が芸術的につまらないのも一例である。アメリカ人の研究成果は優れているという一般的な結論にはなんの意味もない。日本人の研究より優れている場合もあれば劣っている場合もある。研究成果は国籍、研究費の大小で決めるのではなく、あくまでも個々の研究論文の内容の価値だけで評価すべきである。

もう一つは、種々の民族文化をあるがままに、それぞれ尊敬する。これこそ、どんな外国を訪問した場合でも通用する「普遍的な行動規範」になる。人間は違った文化の人々を軽蔑したくなる。とくに貧しい民族の場合は。この原理で外国生活がどんなに気楽になったことか。

(2)敗戦国の「恥の文化」を軽蔑したり、おとしめていない。
戦後すぐの日本人がこの本を絶賛したのは「菊と刀」が決して「恥の文化」を劣っていると評価していなかったからある。敗戦で自信をなくしていた日本人が、大きな勇気を貰った書であった。そのお陰で気を取り直して、戦後の復興に努力した人々も多かったに違いない。

少なくとも自分は、日本人は決して劣っていない!と思うようになった。この思いは40年後の現在も変わっていない。
この本を現在、若い日本人が読めばこような評価は出来なかったと思う。この視点や、色々な性質の異なる感動もあることを若い人々へお伝えいしたくて拙文をお送りする次第です。(終わり)


「菊と刀」の日本人の行動規範は、ブログの隆盛に影響を受けない(続き)

2008年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、日本では1000万前後のホームページやブログが飛び回っているという。

ブログの内容は、個人的な生活の日記も多く、創造的な意見の発表もある。また美しい写真作品もある。話題は千差万別で想像以上に多岐に亘っている。以前の日本ではこのように個人の意見を堂々と発表はしなかった。ブログを書いている人々にとって「恥の行動規範」など、想像も出来ない遠い昔の話になってしまったのか?

日本から「恥の文化」は消滅したのであろうか?

日本人の行動規範が大きく変化したようだ。

しかし、もう少し緻密に考えてみよう。

ブログでは本名や住所を発表しない。仮名やふざけた愛称で意見を書く。もし本名で書くとしたら、こんなに盛んにならなかったと思う。

ブログは匿名によって守られている。ブログ文化に限界があるとすれば、この「匿名性」が足枷になっていると思う。もっとも「匿名性」のもたらす良いことも多いが。

ここで、ブログを書いていない日本人の数を考えてみよう。総人口1億人以上である。子供、老人を差し引いても、ブログ人口、約1000万人は圧倒的に少ない。

前回書いた戦前の、日本人の行動規範、「他人から見て恥ずかしいことはしない」は最近確かに弱くなり影響力が小さくなった。義理人情もあまり重要でない。

さらに、「何が恥か?」という問題は、戦後大きく変化した。

しかし人間の深層心理や行動規範は母親から子供へと刷り込まれることが多い。

母が子供を叱る時、「ご近所に恥ずかしいから大声を上げないで!」と言う。冠婚葬祭の折には細君が、「その金額では恥ずかしい」と金額を決める。

こうして「恥の文化」が幼少のころから刷り込まれている。

幼少のころ食べた母の料理の味を一生美味しく思うように、「恥の行動規範」は一生消えない。ただ口に出して言わないだけである。

ブログには恥ずかしいことも多く書いてある。匿名でだから書ける場合が多いと思う。しかし、無意識のうちに書けない場合も多いのではないか?

どうでしょうか?皆様のご意見をコメントとして頂ければ幸いです。(終わり)

付録:講談社より「菊と刀」が学術文庫(1313円)で販売されています。

注文は、http://shop.kodansha.jp/bc/ から出来ます。


ブログ文化(4)「菊と刀」の日本人の行動規範は、ブログの隆盛に影響を受けない

2008年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

「菊と刀」は文化人類学者、ルース・ベネディクトによって1946年に出版された不朽の名著である。学問的客観性を基盤として日本文化と日本人の本質を解明している。

戦後この本を読んだ日本人は驚愕した。敵国アメリカが、これほど深く日本人を研究していたことに。

日本人の性質は菊のような優美なものを愛する一方で、刀の殺伐を大切にしている複雑な人々である。

そして日本人の行動を律するものは「恥の文化」であると結論している。

この本の学問的独創性は素人の日本人にも理解できる。学術書が素人にも分かる。そうのように書ける人は天才である。(凡庸な学者は「素人に理解できない一般向けの本」を出版する)

本の内容は多岐にわたり、深淵であるが、日本人の行動規範に関する部分のみを要約すると以下のようになる。

他人の目から見て恥ずかしいような行動は絶対にしない。武士道を大切にし、封建時代から現在へ続く「階級性」や生活習慣を守ることが美徳である。

冠婚葬祭に際しての日本人にとっては、恥ずかしくない程度の金額を支払うことが重要だ。金額と自分の立場のバランスを考える。適切でなければ恥である。発言は分を超えていないか?目立つ意見は言わず、曖昧に微笑んでいれば無難にことがすむ。他人から批判されるようなことはしない。すべての行動は、こんな判断基準で決める。

社会生活における人間関係では上司は部下の世話をし、部下は上司へ忠義を尽くす。たとえ、上司が間違っていても、敢えて自分の意見は言わない。そういう人が会社の中で尊敬される。後輩は先輩へ忠義を尽くし、若者は老人へ敬意を払う。こうしていれば他人から笑われない。戦争中には天皇陛下を神と思い、自分の命をささげる態度を取れば、それが最高の正義であった。

日本人の全ての行動規範は「他人から見て恥ずかしいことはしない」、「他人から批判されることはしない」という基準で決まる。そして、本音と建前は別だ。本音は人前では絶対に言わない。

ルース・ベネディクトが研究の対象として、アメリカ本土で会った当時の日本人捕虜は上記のような行動規範で行動していた。

1936年生まれの筆者のまわりにいた日本人は、皆な、まさしくこのように行動した。義理人情を大切にして、他人様に笑われないようにしなさい!と言われて育った。ルース・ベネデクトの観察は客観的で正確な結論を出している。

何故、日本へ来たことの無い彼女がこんなにも明確に日本人を活写できるのであろうか?吃驚した記憶がある。このような日本人の行動規範が消滅したのだろうか?

いささか長くなったので、その解答は続編で出す。(続く)


お見せしたくない写真ですが、

2008年06月28日 | 写真

Dscn4141 狭い港の中で前帆と主帆の両方を上げてはいけません。岸壁から写真を撮って貰うとして、失敗しました。

前帆の手綱(ジブシート)を、ツイ手放したところ、風に煽られてこんな見っともない写真を撮られてしまいました。こんな写真を見たら他のヨットマンから軽蔑されそうです。前帆と主帆に満々と風を受けて大海原を快走しているヨットの写真は良くみます。現実はそんな場面ばかりではありませんね。

お恥ずかしい写真ですが、現実もお伝えします。(終わり)

撮影日時:5月24日、撮影者:Mrs.Fujiyama、撮影場所:茨城県、土浦港内


外国体験のいろいろ(50)ベネズエラの風景のスケッチ3点:         補足、「リトアニアからの亡命者」

2008年06月27日 | 旅行記

        @憂国の亡命者、ボルサイテス博士

ボルサイテス博士に会ったのは1976年、ベネズエラの首都カラカスであった。ソ連領リトアニアからの亡命者という。何時もの笑顔が時々、フッと消えて、深い悲しさを漂わせた表情を見せる。

カラカスにある鉄鋼分野の国立研究所の研究部長であった。「日本―ベネズエラ鉄鋼技術共同会議」を主宰してくれた。

ポーランドの北にあるリトアニアは完全な独立国だった。第二次大戦中にソ連が武力占領し、併合した。30年前の家族離散の悲しい出来事を昨日のことのように話す。ソ連はいつかは崩壊する。そうしたら祖国に帰り政治家になる。と言う。

ベネズエラの奥地の鉄鉱山の見学へも同行してくれた。リトアニアからの亡命者の眼前には祖国の林とはあまりにも違う熱帯の林が豊かに広がっている。暑く乾いた風が熱帯樹林を騒がせている。往復の車の中で、祖国の白樺林の新緑や紅葉の美しさをしきりに説明してくれる。  

「ソ連はいつかは崩壊する!」、彼が断言した通り、1989年ベルリンの壁が崩壊した。リトアニアも独立した。 すぐに、ボルサイテス博士が祖国へ帰って国会議員になったという。そんな噂が流れて来たのはベルリンの壁崩壊から数年後のことである。

彼の為に、リトアニアに栄光あれと念じつつ、時々ベネズエラでの日々を思い出している。(この稿の終わり)


蓮の花の名所をご案内します

2008年06月27日 | 写真

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都心から約90km、東北高速道路の加須ICを出て、西へ行くと、埼玉県 行田市に着く。遠方なので行く人も少ないが、広大な蓮の花の公園がある。「古代蓮の里公園」である。10万株、世界中の蓮の花を集めている。以前に3,4度訪れたので、6月7日に寄ってみた。その折の写真を上に4枚示す。

最近の開花状況は、

http://www.ikiiki-zaidan.or.jp/kodaihasu/ に出ている。今年も咲き出して、見事な花が広がっているので、是非ご覧になって頂きたい。最後の2枚の写真はこのURLから引用したものである。

この公園は蓮の花だけでなく、広大な芝生と高い展望台が楽しめる。都内の公園とことなり建物に取り囲まれていない。周りの水田が樹木で見えないので、日光連山の山裾まで芝生が広がっているような錯覚にとらわれる。以前ご紹介した行田城(忍城)や さきたま古墳群も近いので1日遊び回ることが出来る。東京の人は行田にあまり観光に行かないが、隠れた名所と思う。大きな無料駐車場もある。

撮影者:Mrs.Fujiyama (終わり)


外国体験のいろいろ(50)ベネズエラ風景のスケッチ3点

2008年06月26日 | 旅行記

ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。1976年に、2週間ほど滞在した。

貧しい人々が都会を囲む山の斜面にビッシリと住んでいる。

巨大な、荒れた闘牛場を埋め尽くし、貧しい人々がキリスト教のミサをしている。

ジャングルの奥地で鉄鉱石を掘ってているスペイン人技師は、望郷の念からスペイン料理の材料を本国から取り寄せている。

熱帯特有の、あくまでも深い色合いの青空と白雲の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさは想像を絶する。ベネズエラの風景は何故か悲しい思い出だ。

@山の斜面の貧民住宅地帯

首都、カラカス市の国際会議で知り合った研究者に山の斜面を案内して貰った。彼も貧民地帯の出身と言う。斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れている。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行く。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように、斜面を埋めて、上へ、上へと続いている。誰も居ない。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いている。悪臭もせず清潔な感じである。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしている。我々をとがめるように、険しい目つきで見ている。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶する。途端に笑顔を見せる。彼と老婆が何か話し合っている。

後で彼に聞いた。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で、皆な出た後だからと言う。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。案内してくれた彼とはしばらく付き合っていて、後に日本へもよんだ。

@荒れた闘牛場でのキリスト教のミサ

ホテルでキリスト教のミサに行きたいと言った。受付机のところにいたボーイが、それなら裏にある競技場へ、朝7時に行けと言う。翌朝行く。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。清潔そうではあるが、みんな貧しそうな身なりである。真ん中の円形の土の上に小さな絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者を務める者の姿が見える。

普通のカトリックのミサのようでもあるが。スペイン語が分からない。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと違うようだ。現地に昔からある原始宗教と交じり合ったようなミサの雰囲気である。ああ、これも良いものだ。

回りの人々はスペイン人とインデオの完全な混血で浅黒いひとが多い。日本人のように見える人々も多い。そんな中へ溶け込んでしまい、一緒に祈った。賛美歌も一緒に歌った。メロディーを鼻声で。忘れられないカラカスでの思い出。

@ジャングル奥地のスペイン料理

早朝のカラカスの街を、四輪駆動車で出発する。舗装の無いジャングルの道を4時間。鉄鉱石を露天掘りしている鉱山に着く。

スペイン本国から来ている技師が英語で説明しながら採掘現場をあちこち案内してくれる。見学後、会社のゲストハウスで一緒に昼食をとる。案内してくれたスペインの技師がワインを勧めてくれる。良く冷えた辛口の白。スペインのある地方から取り寄せたと彼が説明する。アペタイザーに、透きとうる細長い小魚のカルパッチョ風の皿がでる。

味が良い。感心して褒める。それまで悲しそうな顔をして一度も笑顔を見せなかった技師が始めて笑顔になる。これはアンギュラスと言ってスペイン独特の魚です。これが無いとスペイン料理になりません。本国から取り寄せました。日本人がスペインから輸入して、養殖してウナギにするので高くなりなかなか食べられません。

急に饒舌になり、説明してくれる。ジャングルの奥地に住んでいると、料理の材料をスペインから取り寄せる以外、何の楽しみも無いと、寂しそうに話し続ける。

食後はシエスタ(長い昼寝)をしますと言って別れた。彼は本国の故郷の夢でも見るのかも知れない。我々は赤茶けた凸凹道を車に揺られながらカラカスへ帰る。

道路沿いには幹がスラリと高い椰子類のような樹木が茂り、木の下には見慣れない草が生えている。鉄鉱石を運ぶ長い無蓋貨物列車がゴットン、ゴットンと熱帯樹の向こうを走って行く。スペインから来た技師の寂しさが身にしみる風景である。(終わり)   


梅雨空を忘れるような写真をどうぞ!

2008年06月26日 | 写真

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1976年、2週間、滞在した南米、ベネズエラの写真です。カナイマ国立公園で、観光客が丸木舟のような形の船に乗って、写真の奥の方の瀑布を見に行こうとしています。

抜けるような青い空と白雲が力強く湧いているのをご覧下さい。しばし日本の梅雨を忘れましょう。出典http://www.lonelyplanet.com/worldguide/venezuela/


森閑とした森だけが残った・・・大会社凋落の風景

2008年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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JR中央線沿線に、一つの大きな家庭電器メーカーの中央研究所があった。優秀な研究者を多数揃え、研究関係者の訪問が正門守衛所に列をなしていた。筆者も足繁く通い、研究情報を頂いた。専門書を共同執筆した研究者も居た。

車で買い物に行くとき正門の前を時々通る。人の気配がしない。受付に人が居るので閉鎖した訳ではない。

バブル経済の崩壊のあと、多くの研究者がちりぢりになって居なくなる。生産現場へ、関連子会社へ、大学・専門学校へ、そして転職へ。あれから20年近くなるが、あの人々の生き生きした顔を昨日のことのように鮮明に思い出す。正門の前を通るたびに。(終わり)


ブログ文化(3)タテ社会の崩壊は何故?

2008年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

長い間、大学の工学部で研究をしていた。研究の関連で幾つもの大会社の中央研究所の方々に大変お世話になった。一緒にビールも飲んだ。

研究所の人々は優秀で、人格の高い人が多い。でも雑談中に時々ハッとする発言をする。傘下の子会社の人々を軽蔑したような発言をする。他社や他の業界の研究者を、地球以外の惑星の生き物のように距離を置いて、あしざまに批判する。

そして酔いが回ると、会社内の出世速度と派閥の関係をクドクドと説明してくれる。転勤は絶対命令だと学生によく分かるように就職指導をして下さいと言う。会社への忠誠心が最も重要だと教えてくれと言う。自分へも言い聞かせているようだ。

要するに、会社への忠誠心を持続する。会社外の人とは親しくならない。終生同じ会社で働けば、出世も出来る。会社の中は年功序列のタテ型身分制度である。そして、定年後は子会社へ天下りさせてくれる。

これが高度成長期の大会社で働いていた人々の共通な考え方であった。

1990年前後に「バブル経済」が破綻した。不動産を担保にして業務拡大してきた大手銀行が破綻する。銀行から多額の借り入れをして、生産設備拡大を繰り返してきた大会社も当然、経営に行詰まる。関連子会社を独占的に傘下に入れて面倒をみる経済的な余力が無くなる。子会社群の解散が必然的に起きる。

忠誠心さえあれば絶対に解雇しないという暗黙の約束を経営者側が破る。多くの有能な人々を肩たたきで辞めさせる。天下り先の面倒もみないで放り出す。

ここで重要な事実は、大会社の凋落が高度成長の後に起きたことである。

日本全体が豊かになっていたので、大会社を辞めた人々が生活には困らない。タテ社会が崩壊しても生活は大丈夫である。そのことに気が付いた人々の数が多かった。もともと、タテ社会へ不満や疑問を持つのが自然な人情であろう。

上の例は大会社だけで起きた現象である。省略するが、中小企業はもっと悲惨であった。

タテ社会の崩壊は民間企業で起きた。しかし、官庁や国立大学は経済不況と直接関係ないので、タテ社会が残った。タテ社会の残った組織は他にも多い。

そんな変化の後でインターネットが普及する。個人が自由に、そして平等な立場で考えや作品を発表するブログ文化が盛んになってきた。

ブログ文化の隆盛はタテ社会の崩壊のお陰で起きた。同時に、国立や公立の組織や、その他、多くの組織に残ったタテ社会を弱める重要な社会的貢献もしている。

ブログを単なるお遊びの流行と理解するのは自由だ。しかし、社会の変化の結果でもあり、社会変化を加速する重要な役割をしている。と理解することも出来る。(続く)


気分が晴々する写真をどうぞ

2008年06月25日 | 写真

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梅雨の季節、ジメジメした気分が続きます。でも昨日は晴天。霞が浦の沖です。水が青く広がり、白い雲が浮かんでいます。こんな空間に身を置くと毎日の鬱陶しい気分を忘れます。

029 水平線に棚引く白い雲。吸い付かれるように船が動く。

あの白い雲の向こうには潮来のアヤメ畑の花々が

風に揺れているはず。

023 船の傾き加減が、スピード感を出している写真。時速10km(6ノット)で快走中(このヨットで時速10kmは最高速度)。この写真だけでは気分が晴れないと思うが、爽快感をご想像下さい。

009 帆に乾いた初夏の風がいっぱいに吹き込んでいます。

すがすがしい気分になります。マスト天辺の風見の方向をご覧下さい。風へ向かって走っていますね。心地良い空気が頬をなでて通りすぎて行きます。

008若者が3人乗って沖へ急ぐヨット。早く広々した所で帆を揚げようとしている気持ちが分かる。爽快な天候を惜しむかのように。このヨットには前の持ち主に乗せてもらった。

大洗から買ってきた外洋向けのヨット。

034  港近くまで帰ってきたら、さざ波が太陽の光で一面に輝いている。この太陽の輝く惑星の上に生きる幸を、一瞬だけ感じる。そのお陰で雨が続く日々を忘れる。

書いているこの一瞬も。

撮影日時:6月24日午後1時から3時。撮影場所:茨城県、土浦港から出た霞ヶ浦


ブログ文化(2)タテ社会の崩壊とブログの隆盛を考えるための参考書

2008年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

これから2、3回に分けて、ブログの隆盛は何故起きたか?という問題について考えて行きたいと思う。

明快な解答をみちびくために、2冊の本の助けを借りることにした。

用いた古典的名著はルース・ベネデクト著の「菊と刀」と中根千枝著の「タテ社会の人間関係」の2冊である。

論理の流れは以下のようになる。

タテ社会は日本の戦中、戦後を通して基本的な社会構造であった。しかし1990年頃の所謂「バブル経済の崩壊」でタテ社会が崩壊した。その結果いろいろ新しい社会現象が起きたが、ブログの隆盛もそれら新しい社会現象の一つである。

一方、「菊と刀」では、日本人の考え方、深い心の動き(コア・メンタリテイ)と日本人特有の行動様式の関係を明快に分析している。研究対象が、心の奥の動き、日本人特有の深層心理になっている。

タテ社会が崩壊しても、ブログが隆盛しても日本人特有の深層心理にはあまり大きな変化がない。と筆者は思う。

簡潔に言えば、ブログの隆盛、日本のタテ社会、日本人の深層心理の3項目の関係を描く予定である。

この回の最後に中根千枝の本の内容抜粋を講談社Book倶楽部(http://shop.kodansha.jp/bc/)より引用した。1960年から1990年に至る間、実社会で働いてきた人々にとっては、自分の体験と見事に合致することに驚くと思う。

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中根千枝著、講談社1967年初版、「タテ社会の人間関係」の内容の一部。

日本社会の人間関係は、個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせている。「場」を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する日本的社会構造にはどのような条件が考えられるか。「単一社会の理論」によりその本質をとらえロングセラーを続ける。

〈ウチの者以外は人間にあらずの感〉「ウチ」「ヨソ」の意識じ強く、この感覚が尖鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。知らない人だったら、つきとばして席を獲得したその同じ人が、親しい知人――特に職場で自分より上の人――に対しては、自分がどんなに疲れていても席を譲るといった滑稽なすがたがみられるのである。――本書より(終わり)


老人よ、英語を思い出そう!

2008年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

Lotusflowerbyodoinmattberlow1 小生は昭和11年生まれの老人です。最後は小さな会社で働いていました。若い社長が、「引退後のためにもインターネットの使い方を憶えてください」、と自分が以前使っていた小型のデスクトップとPCを自宅から持って来ました。それから10年以上になりますが、何時も感謝しています。

最近は特にブログを始めましたので、記事の掲載前に、いろいろと検索をして調べます。

最近は検索のキーワードに英語をよく使います。すると外国人が書いた情報が出て来ます。話題の種類が日本と違うだけでなく情報の整理・編集の仕方が違って興味深いことが多いのです。

多くの皆様も、昔、仕事で外国へ行ったことがあると存知ます。どこの国へ行っても英語が通用するので、つい英語を使ってしまいます。国際用語です。その英語を思い出しましょう!

キーワードをうろ覚えの英語で入れて、間違っていても検索結果が出ることが多いです。(正しくはこういうスペルでは?などと出ますが)

英語を使うと情報の幅と質が違ってくることを最近知りました。愚かな老人です。

一例を示します。この写真は鎌倉に長い間住んでいた外国人の花の写真集から転写しました。同じ日本の花でも写真の取り方が面白いと思います。名前などは調べません。Unknown Flower と題してアップします。すると物知りの人(大抵、女性)が名前を教えてくれます。URLはhttp://www.onmarkproductions.com/kkflowers/HTML/lotus-hasu.html です。

英語を用いると、当然ながらアメリカや他国の情報を直接取り出せます。我々の年代はもう外国語を忘れて、ホッとしている方々が多いと思います。小生がそうだから、このように書くのは間違いかも知れませんが。でも、思い出して、検索には英語で調べて見ましょう!新しい世界が広がります。老人の無駄話ですが。(終わり)


スウェーデンの花々の写真のURL

2008年06月23日 | 写真

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前回の記事でスウェーデンの花について書きましたが、その写真が紹介してあるURLをご紹介します。上の2枚の写真の出典はこのURLから感謝しながら転写しました。http://www.flickr.com/photos/marcusengstrom/42829615/

キーワードとして、Swedish Flowers としてGoogle検索すると、他にも色々なサイトが出てきます。(終わり)


外国体験のいろいろ(49)民族と花々の好み

2008年06月23日 | 旅行記

このブログでは、梅の花、桃の花、桜、山林の中の花々、日本サクラソウ、アヤメ、アジサイなどと、季節季節の花々を取り上げてきました。

花の好みは人それぞれ、また時代によっても変わって行きます。

そこで、今回は外国での花々の様子を書いてみました。 

◆高山植物の花々が裏庭に(1972年、ストックホルムにて)
 イワカガミ、コマクサ、ミヤマウスユキソウ、チングルマに良く似た花々が裏庭一面に咲き乱れているスウェーデンの初夏。
 「エケトルプ先生、驚きました。日本では高山にしか咲かない花々が低地の野原に咲くのですね」「緯度が高いのでそうでしょう。でも良く見ると花々は日本のものとは違う筈です。植物は気候と土地の成分の違いによって同じ種類でも違った外見に育ちます。名前も地方にしたがって違うのが普通です」
 「西洋の花々は色鮮やかで派手な花が多いのにこんな素朴な美しさを持っている花々もあるのですね?」
 ◆派手な美しさと可憐な美しさ
 「日本人は野生のニホンサクラソウやスミレ、ナデシコのように小さくて可憐な花が好きです。西洋人は薔薇やチューリップ、ガーベラのように派手で装飾的な花が好きなのですね。日本人の美意識は余計な装飾的なものを削ぎ落としたものに美の極致があると感じるのです。洗練された感覚と思います。西洋人には理解出来ない境地です」「フジヤマさん、そう決め付けないでください。東京の花屋さんには派手で大きな薔薇やランの花々が並んでいましたよ。サクラソウなんて今日始めて聞く名前です。日本人の花の好みも欧米人と同じですよ」
 「欧米人は好みに合わせて、花の品種改良をしてしまい野生の花々の本来の美しさを忘れていますね」「それは偏見です!この裏庭に小さくて可憐な花を咲かすには苦労が多いのです。雑草を根気良く取ったり、花々に合った肥料を秋の間に撒いたりしたので次の年の初夏にこのように一斉に咲くのです。このように何気無く咲いている野の花々が好きな西洋人も多いのです。でも色鮮やかで派手に大きい花々も好きです。美しい花々を大切にする心は民族の違いに関係なく人類共通の本質です」
 「でも民族の違いや時代の流行によって好みの花は変わると思います。日本のアジサイ、ツバキ、フヨウなどが西洋に行って改良されて別物のように派手な色彩や大輪になって帰ってきます。やはり好みが違うのですね」
 夕食後の庭は白夜で暗くならない。ほの明るい夜目に、一面の花々が高山のお花畑のように輝いている。スウェーデンの初夏の夜。

 ◆食糧難でも花を飾るベトナム人(1994年のハノイにて)
 1994年の初夏。1988年のドイモイ政策発表後、経済発展の遅いベトナムにはまだ食料難が続く。ハノイ郊外の紅河の堤に闇市が並んでいる。農産物を売る農民もそれを買うハノイ市民も栄養失調で土色の顔をしている。敗戦後の日本の闇市と同じ光景。よく見ると彼方此方で純白の花束を売っている。トルコキキョウのような形の花を、束にして農民が大量に運んでいる。自転車の荷台とハンドルにあふれるように積んでいる。全てが貧しい風景のなかで、純白の花の美しさに息を呑み、立ち尽くす。

朝からハノイ市を案内してくれている若者のチューさんへ聞く、
 「チューさん、ベトナムはまだ食料難と聞きますが、花なんか買う余裕が有るのですか?」「生活が苦しいからこそ家の中に花を飾るのです。米軍のハノイ爆撃が激しかったときもこの花を欠かしませんでした。季節が変われば違う花になりますが」「素晴らしい人々ですね」、と言いながら日本の戦後の闇市を思い出していた。

記憶ははっきりしないが、どうも花など売っていなかったような気がする。

 その後、サイゴン市に行った時も市場に花々が並んでいた。ただハノイの白い花ではなく、色彩鮮やかな熱帯の花々である。

ベトナムの農村地帯を車で通ると所々の道端に花が飾ってある。案内人に聞くと地雷で死んだ人の家族が死者の冥福のために手向けたものと言う。
 花の咲かない砂漠や極寒の地に住む人々は別にして、世界中の民族はそれぞれの花を大切にしている。太古に人間が死者を悼むようになるのと同じ頃から花を好きになったのではないか? ただ好きな花とその楽しみ方は民族によって少しづつ違うようだ。
 春爛漫の川沿いに豊かに咲き誇る桜並木の美しさ。大勢の人々がその下で花見酒を楽しむのは日本人だけであろう。花の美しさに酔い、酒に酔う。酒と花を組み合わせて楽しむ民族はそんなに多くは知らない。礼儀正しく飲むかぎり、この風習はいつまでも存続すると思う。(終わり)