今日は日曜日なので少しだけ宗教のことを書きたいと思います。
そして宗教の立場から最近言われている朝日新聞は国賊だという意見を考えてみます。
私は仏教が好きで趣味のようにいろいろなこと調べたり仏教の本を読んできました。
例えば禅宗とは何でしょうか。
簡単です。お釈迦様が悟りを開いたのは菩提樹の下で座禅をしていた時ということになっています。ですから座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。
文字とは経典の言葉のことです。「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。
座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。
私は思わず、「そうだ!」と叫びました。カトリックの信仰において、教会でのミサが一番大切にされています。それは宗教的体験を重要視しているからです。
そのミサの中でイエス様が最後の晩餐でパンを裂き、弟子たちに与えた行為を再現するのです。そして信者の一人一人が神父さまから小さなパンを貰うのです。
これを毎週繰り返していると聖書の文章が活き活きと理解出来るのです。
宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。それを宗教的訓練と言います。
それはさておき、朝日新聞は本当に国賊でしょうか?
諸行無常の考えに従えば、朝日新聞が隆盛をきわめた時代も、そして国賊だと非難されている時代も諸行無常ということを証明しているに過ぎないのです。
国賊だという理由はこの新聞社が韓国の味方をして日本を貶めたからです。最近の雑誌を見るとこのような売国的な新聞社の存在は許せないと書いてあります。
しかしこのような騒ぎはイエス様やお釈迦様から見たらどのように見えるでしょう?
朝日新聞社も私利私欲で経営利潤を増大し、日本の俗世界を言論で支配しようという欲の亡者です。
それに反対する人々も日本の利益だけを考えて動いているのです。そして右翼的な言論を弄して日本社会を支配したいと願っているのです。韓国人の感情などあまり重要視していないようです。
ですからイエス様やお釈迦様がこれを見て人間の欲望の大きさに落胆していると思います。二人とも、そのような此の世の欲を捨てなさいと教えているのです。
国賊だ、売国奴だと言ってはいけません。諸行無常なのです。そして毎日を涅槃寂静の境地で過ごしたいものです。
今日の挿絵代わりの写真は涅槃寂静のような多摩川の流れです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
日本と朝鮮半島の交流を考える時、日本による朝鮮合併の時代から後のことだけを考えることが多いものです。
そうすれば現在の日韓関係の不毛な感情的対立が起きるのは当然です。
しかし日本と朝鮮半島との交流は石器時代から縄文時代、弥生時代、、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と連綿と続いていたのです。
なんといっても対馬から釜山市近辺の山並みが見えるくらい近いのですから、人間の往来は容易だったのです。
そこで今回は仏教が朝鮮半島から伝わった経緯を見てみましょう。
日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。しかし538年という説も有力です。
そうして朝鮮半島出身の慧慈(えじ)が聖徳太子の師になっていたのです。
それはさておき、朝鮮半島へ仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代でした。
最初に伝来したのは372年の高句麗であり、中国か ら伝わったのです。
中国の前秦王の苻堅(在位357年~358年)が僧侶の 順道と仏像などを高句麗に送ったのが半島への仏教伝来のはじめであると考えられています。
苻堅は、中国仏教史上、重要な人物である道安を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(350年?~409年?)を獲得するため西域に兵を派遣していた王様でした。
その苻堅から仏教を伝えられた高句 麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣しました。
そして日本へも聖徳太子の師となった慧慈(?~623年)をはじめとして、多くの僧侶を日本へ派遣したのです。ですから日本の仏教は朝鮮半島出身の僧侶たちによって創られてきたと言うことも出来るのです。
以下に(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/20.html)から一枚の表を転載いたします。
676年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせました。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめるのです。
中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていったのです。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称します。
詳細は省略しますが、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/21.html)より下に朝鮮仏教の流れの表を転載します。
上の表で注目すべき点は李氏朝鮮で朱子学が盛んになえり、江戸時代の朱子学へ深い影響を与えたことです。
このように朝鮮半島は、1910年の日本による支配に入る前まで、常に仏教と朱子学の先生的な立場にあったのです。
勿論、遣隋使や遣唐使が派遣し、仏教を中国から直接取り入れた事実も日本仏教へ大きな影響を与えました。
日本の学校では遣隋使や遣唐使だけを強調して教えています。盲目になっても日本へ渡来した中国僧、鑑真のことを教えます。
聖徳太子の師が朝鮮の慧慈であったことや、朝鮮仏教が日本へ深い影響を与えたことを教えません。公平を欠いています。これは日本人が伝統的に朝鮮半島を軽視する精神文化を持っていたためです。
それはさておき、下に朝鮮仏教の美しいお寺の写真を示して終わりと致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
韓国・慶尚南道にあって、世界遺産に登録されている海印寺の伽藍全景。802年の創建で、13世紀半ば制作の「高麗八万大蔵経」の版木が1398年以来、所蔵されている。伽藍は1817年の再建。 写真 田村 仁
私は以前、趣味のヨットを霞ヶ浦で25年間していました。ヨットは時々葉山沖の相模湾や清水沖の駿河湾、そして東京湾でも楽しんだこともあります。
2011年に後期高齢者になったのを機会にそのヨットの趣味をきれいに止めてしまいました。
しかしヨットは懐かしくその後もあちこちのマリーナへ行って、ヨットの姿を眺めて楽しんでいます。
そんな方々のために今日はHiroshi Ogawa さんの今年の5月19日の葉山沖でのヨットレースの記事と写真を以下お送り致します。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
====Hiroshi Ogawa さんの5月19日の記事============
「最高のヨット日和」
昨日はクラブ恒例のレース、年一度の運営でした、コースはいつもと少し違う葉山御用邸前にブイを打ち回航マークとした約11マイル。参加艇16艇。南の順風に恵まれスピンランの長いコースでした。
本部船はスタートさせた後、ブイで待機、1艇ずつ富士山バックに写真撮影。防水カメラも古くなり、写りが悪くなって来た、又は気温のせいかピンとがぼける。
それでも全艇快適なセーリングを楽しんだ様だ。
パーティー後は大島レースの準備、2次会はいつもの川端亭で楽しい気持ち の良い1日でした。 https://www.facebook.com/hiroshi.ogawa.357?hc_location=timeline より転載致しました。
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日本人の考え方の基底には仏教の無常(つねならず)の思想が流れています。それは「もののあわれ」ともなり、私たちの心の基調となっています。
この仏教の教えをはるばるインドへ旅をして持って帰って来たのが唐時代の玄奘三蔵法師でした。現在、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
ですから私は玄奘三蔵法師こそ日本文化の産みの親と信じています。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。それでは下に彼の旅の道程を示しましょう。
(この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。)
インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。
当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが勉強していました。玄奘は、彼らのなかでも誉れの高い戒賢(シーラバドラ)について『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだのです。
さてそれはさておき、何故、私は玄奘三蔵法師のことを親しみをこめて「彼」と書くのでしょうか?それには私が彼の遺骨が埼玉県の慈恩寺にあることを知り、2009年の9月に訪ねて行ったことがあるからです。
遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。
詳しくは、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp の2009年9月14日の掲載記事、日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました に書いてあります。
その経緯は省略して以下に慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔の門と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。
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この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。その入れ物の上に傘がさしてあるのを見逃さないで下さい、自分の身より経典を大切にして、はるばるインドから運んできたのです。
現在、日本の多くのお寺にこの 玄奘さまの像があります。そんなお寺を散歩していると何故かホットします。蛇足に下にこの埼玉県の玄奘さまの像の周囲の風景写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
この自動車博物館の方は数十年前に開設され、以前は通年開館していました。私も何度も見に行きました。
それが随分前に閉館となり暫く公開されていませんでした。...
ところがいつのまにか夏の8月だけ公開されるようになったのです。
今日は朝から家を出て、久しぶりにゆっくり見て来ました。
自動車の展示は以前と変わらずイギリス、ドイツ、イタリア、フランスなど各国。数多くのクラシックカーが展示してありました。
1886年から1950年までの車はHALL-Aに展示してあり、1950年から2000年までの車はHALL-Bに展示してあります。
自働車には作られた国々のいろいろな時代の文化を積んであります。乗り回した家族の喜びと悲しみが沁みこんでいます。戦前生まれの私にとって、いろいろな時代の車を見ると当時の社会の雰囲気がよみがえって来ます。
自動車はまさしく文化遺産です。展示してある自動車の一台、一台を見ながら過ぎ去りし日々の思い出を楽しんで来ました。
一番目の写真は1933年のイギリスのライレー/ケストレルで6気筒1083cc・26馬力のスポーティ・セダンです。イギリスの落着いた伝統的なスタイルをしています。当時のイギリスの中流階級に人気があったそうです。
二番目の写真は1934年のシトロエン7CVで4気筒1303cc・32馬力です。
前輪駆動、フラット床、独立懸架など現在の前輪駆動の乗用車の構造の基礎を作った車です。
1934年から1957年までの23年間で75万台が作られたそうです。
尚、河口湖自動車博物館の別館には河口湖飛行機博物館もありゼロ戦や戦後のジェット戦闘機が展示してあります。
詳しくは、http://www.car-airmuseum.com/ をご覧下さい。
なお、http://www.interq.or.jp/sun/mm-kas/hakubutu/hakubutu.htm や、http://waypower.blog.so-net.ne.jp/2012-09-02 にもいろいろ情報があります。
この写真は2013年の8月31日に撮影しました。
この写真の出典は、http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/130922-5.html です。
関東平野は広いものです。その一隅の小金井市に50年以上住んでいますが栃木県、群馬県、茨城県などははるか遠方で行ったことがほとんどありません。
しかし2009年7月に思い立って、栃木県、足利市へ小さな旅をしました。それには特別な目的があったのです。
日本へキリスト教を伝えたザビエルが日本にも大学があると称賛した足利学校を見に行こうと計画したのでした。何年も行きたいと思っていたところです。
自分で車を運転して行った1泊2日の小さな旅でした。
一日目は東北自動車道路を経由して足利市に入りました。
その学校は平安末期の足利氏の堀に囲まれた館の跡地にありました。
お堀にかかった橋を渡り正門から入ると足利学校の復元された校舎、施設などがあります。下に堀に面した正門の写真を示します。
そして下の写真は堀の向こうに見える校舎を示します。
堀に囲まれている範囲の右半分に足利学校が復元されています。そして左半分が現在の鑁阿寺(ばんなじ)の境内になっています。
足利学校は一説には平安時代の小野篁の創建、鎌倉時代の足利義兼、そして室町時代の1487年、時の関東管領、上杉憲実による創建など3説があります。
いずれにしても、堀に囲まれた広い敷地に、平安時代末期から学校があったらしいのです。日本古来の広い校舎を持った学校を見るのは初めてなので非常に感動しました。
この足利学校と室町幕府を開いた足利尊氏とはほとんど関係が無かったと言えば正確な表現です。足利尊氏の祖先が足利の出身だったに過ぎないのです。
足利尊氏は京都で育ち、関東へは鎌倉までしか来なかったそうです。
それはそれとして、足利学校では何を教え、学生たちは何人くらいいたのでしょうか。
正確な記録は残っていないようですが、教育内容の主なものは儒学でした。孔子の教えとその弟子たちに関する講義が主でした。そして唐時代の漢詩や漢文学も教えました。儒学も漢文学も、漢文の文法と無数の単語の意味を勉強しなければなりません。勉強はかなり厳しかったようです。
学生は全国から集まった裕福なお寺の子弟、そして有力な武士階級の子弟でした。学生の総数は時代によって変わりましたが、おおよそ数百人と言わています。
学生の一部は学校内の宿舎に泊まり、他は近所の家々に下宿していたそうです。修業年限は2年から4年で学生の実力や個人的理由で自由だったようです。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代の我が国の儒学の総本山的な学校だったのです。
足利学校の見学を終えてから宿泊地の前橋市に車を走らせました。
予約してあったホテルに着いたら傍に不思議なお寺があります。屋根の構造がタイのお寺の特徴を持っているのです。
直ぐに境内に歩いて入って行きました。そのお寺は東福寺(真言宗)と書いてありました。下にそのお寺の写真を示します。
そうしたら本堂の正面にいきなり仏足石があるのです。下がその写真です。
お釈迦様は、亡くなるとき仏像などの偶像を厳しく禁じたのです。弟子たちは困って足跡なら良いだろう考えてつくったものです。それが仏足石です。
下の写真はこの仏足石の説明です。
上の説明板によると、このタイ式の屋根を持ったお寺の住職さんが、インドのブッタガヤまで行って、そこの佛足石の拓本をとってきて再現したものです。
その真摯な姿勢に感動しました。
そこで翌朝、もう一度訪ねました。出て来た住職様のお話によると、先代の住職だった父がブッタガヤへ行って写してきたそうです。
その帰りに、タイを巡礼し、何故か感動してタイ式のお寺を作ったそうです。
作る時に日本の屋根屋さんが苦労して作ったことも話してくれました。
私が「お釈迦さまを身近に感じられることに感動しました」と申しますと、若い住職様は「そうです。それが一番です」と答えます。
まあ、それだけのことですが、祖父がお寺の住職をしていたのでいろいろ昔のことを思い出して大変楽しい旅になりました。
そんな5年前の家内と一緒のささやかな旅でした
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
gaku404さんはタイのチェンマイにご夫婦で数年間、優雅な暮らしをなさっています。「Wooたんのチェンマイ通信」(http://gaku404.exblog.jp/)というブログに南国、タイの美しい写真を数多く掲載しています。許可を頂いてそれらの美しい写真を何度もご紹介してきました。今回もチェンマイの立派なお寺の写真を3枚お送りします。
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1287年に創建されたこのお寺の歴史は以下の通りです。英語で済みません。
Wat Chedi Liam (The name of thsi temple.):http://en.wikipedia.org/wiki/Wat_Chedi_Liam
Wat Chedi Liam (originally Wat Ku Kham; also written as Wat Chedi Liem) is one of the wats in the ancient Thai city of Wiang Kum Kam, now part of present day Chiang Mai. The original name Wat Ku Kham means 'The temple of the Gold Chedi (stupa)' and the later name means 'Temple with Angular Chedi'. Monks still reside here.
The temple was built c.1287 and remained in use during the early Lan Na period after the new city of Chiang Mai had been established by King Mangrai the Great.
The current buildings are from a renovation in 1908 CE by a Burmese trader. Because of this many of the decorations of the wat are Burmese in style. For example, all but one of the Buddha images on the chedi are wearing the yellow Burmese colourings rather than the white Thai colours.
The chedi was also renovated in 1992 CE when a number of other improvements were made to the site. Not all of these improvements were popular, nor were some needed repairs carried out. Despite its great age the wat is used in much the same way as later wats (for example, there is a weekend market there).
The Chedi (Cetiya) is a five-tiered design common in the early Lanna period and shows clear influence of the Mon Haripunchai design. Each corner of the chedi is guarded by a large, outward facing lion, and there are Buddha statues showing different mudras on four of the tiers of the Chedi. The main hall decorations are in very good condition both inside and out.
この夏は連日の猛暑で大変でした。数日前から少し涼しくなり寝る時はエアコンを消してもよく寝くれるようになりました。季節の変わり目です。
この夏にあったことをいろいろ思い出します。そして今朝、庭の温度計を見ましたら19度になっていました。
何故か急に寂寥感が襲ってきました。亡くなった親しい人々の顔が浮かび、声も聞こえます。
そこで今朝は「秋立つ」という季語を用いた俳句を読んでみました。そうしたら平穏な気分になりました。
下に私が気に入った幾つかの俳句をご紹介いたします。
秋立つや素湯香しき施療院 蕪村
秋立つや雨後の夕ベは樹も匂ふ 田口泡水
秋立つや軽井沢にて購ふ髪飾り 柴田蓉子
秋立つや残り風鈴鳴りやまず 永野秀峰
身ほとりに物を少なく秋立ちぬ 田中藤穂
川波の縹渺として秋立てり 斎藤道子
灯台の白さに風の秋立ちぬ 須藤常央
秋立つや山に小さな美術館 前田達江
熊笹の鯖街道に秋立ちぬ 大島翠木
秋立つや蝉声はたと止むあした 久保晴子
以上は季語、「秋立つ」の句集(http://www.haisi.com/saijiki/akitatu.htm)より。
「秋たちぬ」とは美しい言葉です。秋風が吹き清涼の季節が始まるという情感が込められた言葉です。
そこで以下に過ぎ去った夏の花、日輪草(ヒマワリ)の花の写真をお送りします。
(写真の出典は、http://reokun.blog.jp/archives/55533577.html です。)
毎年、秋が始まると咲き出すカラスウリの花が庭の垣根に今年も咲きました。秋雨に濡れるその花の写真を下にお送り致します。
それにしても広島県の集中豪雨による山崩れの悲劇に心が痛みます。亡くなった方々の冥福を祈り、残された方々の平安をお祈りいたします。
明日から空高く晴れわたるように お祈りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
しかし全般的に見れば、漢民族は中国内のイスラム教徒やチベット仏教信者(ラマ教信者)を、現在でも大切に思い、共に仲良く暮らしてゆこうと努力しているのです。
日本のマスコミはこのことを一切報道しません。そこで今日は私の見た中国国内の実態を報告します。少し昔の話ですが、ご勘弁下さい。
◎中国のイスラム教徒と漢族の食習慣
北京の大学へ何度か行ったのは1981年から数年間です。観光客の行かない学生食堂で学生と一緒によく食事をしました。
当時、中国の大学は原則として全員寮生活で、朝昼晩の三食は大きな学生食堂で取ります。料理の品数は少ないが美味しい北京料理です。
食器は自分が寮から持ってくる琺瑯引きの鉄製のドンブリです。食べ終わったらまた寮へ持ち帰り自分で洗います。
よく見ると、隣にもう一つ広大な学生食堂があります。イスラム教信者(回族)の学生専用の食堂です。回族は豚肉を一切食べません。ラードでいためた料理もだめです。回教の定めに従った方法で殺した羊は食べます。
一方、豚肉抜きの北京料理は考えられないので、異なるメニューの学生食堂が二つ必要になります。
また一歩外に出ると北京の街には回族食堂という看板を掲げた店が多いものです。白い布で髪の毛を隠した女や丸い帽子をかぶった男の回教徒が大勢歩いています。あるとき、中心街に近い大通りを、羊の大群が悠々と流れている光景を見て驚いたことがあります。
独特の帽子をかぶった回族の羊飼いが一人ついています。だれも非難がましく見ません。回族の当然な権利なのです。ある季節になると北京の市内で羊の市が立つそうです。羊の群れは北京の風物詩でもあったのです。
この光景は1985年頃まで続きました。高層ビルが林立する現在では見られない中国の風景でした。漢民族とイスラム教徒は仲良く混じって暮らしているのです。
宗教的戒律のない漢民族は、北京料理に飽きると回族食堂にはいります。漢族は羊に違和感を持たないのです。回族食堂では帽子をかぶったイスラム教徒も漢族も肩を並べて仲良く料理を楽しんでいるのです。
共産党独裁の中国でも回族はその伝統的食習慣を守りながら悠々と生きているのです。この状態は中国の歴史とともに古い生活様式なのです。
@北京の北、承徳にあるチベット仏教のポタラ宮
中国が歴史的にチベットを領有した時代がありました。特に清朝の皇帝はチベット仏教を大切にして、ラサにあるポタラ宮と同じ寺を北京の北230Kmにある承徳の郊外に作ったのです。
私も1981年に、この清朝の避暑山荘を訪問しました。
郊外にある豪華絢爛たるラマ教寺院の壮大な規模に圧倒されました。
当時は文化大革命で建物が徹底的に破壊されていましたが規模の大きさと崩れたレンガの華やかな装飾に圧倒されたのです。このような中国とチベットの友好関係の時代があったのです。
ダライ・ラマ氏は傑出した仏教徒です。彼はチベットの独立を主張していません。自由な宗教活動を要求しているだけなのです。中国政府が誠実にダライ・ラマ氏と話し合うことを祈っています。
承徳にあるチベット仏教のポタラ宮風の寺院は、現在、完全に復元され「世界遺産」として登録されているそうです。下にその写真を掲載します。
写真の出典は、承徳の避暑山荘:http://ja.wikipedia.org/wiki/外八廟 です。
ダッシュ島とはTOKIOという若者のグループが瀬戸内海の無人島に生活に必要な小屋や井戸や水路の樋などを作る番組です。この無人島はその形や風景から愛媛県の松山市に近い由利島と考えられています。
この番組を私は非常に興味深く見ています。現在の若者たちが汗を流して無人島での生活に必要な小屋や井戸などを手作りしている様子がすがすがしく感動的なのです。
しかしその一方で、この番組は日本の漁村の過疎化問題を提示しているのです。
この由利島にはかつて数百人の人が住んでいたようです。それが次第に消えてしまったのです。
この番組ではTOKIOの若者達が島に残された昔の生活の遺物を探し出して、もう一回利用しようとするのです。その態度が好ましく思えるのです。
この番組を通して私は人々が生活のために移住して行く歴史を考えています。
魚を取って生計を立てる人々にとって魚群が移動すれば移住するのが当然です。その現実を下の写真でご覧下さい。数百人が定住していた頃の航空写真なので人家らしいものや田畑の様子が鮮明に写っています。
この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%88%A9%E5%B3%B6 です。
この由利島は松山市の島で、船で30分位の沖にあるそうです。そして同じ松山沖の二神島から人が移住し、特に昭和初期には好漁が続き、夏の漁期には数百人が暮らしていたというのです。
太平洋戦争時には日本海軍により、大きな方の島の大由利に監視台が置かれました。
しかし戦後はイワシの魚群も少なくなり、やがて不漁となったため、人口も減り、1960年(昭和35年)には人口6人との記録がありましたが、1965年(昭和40年)にはこの6人も島を離れ、無人島となっってしまったのです。
ですから大きな島と小さな島を結ぶ砂州にはかつて集落や漁港があったのです。
下に松山市在住の方のHP(http://nowhotnews.blog.so-net.ne.jp/2012-10-15-1)から由利島の図を示します。
上の図面で電話ボックスと示してあるところには1965年に無人島 になってから1993年まで公衆電話が設置されていた場所です。キャンプをする人々のために電話だけは存続していたそうです。
下にTOKIO達が作った舟小屋の写真を示します。
上の写真の出典は、http://www.ntv.co.jp/dash/contents/island/index.html です。
この番組は以前、「ダッシュ村」でアイドルグループが米をはじめさまざまな野菜を作っていました。その作業の様子を丁寧に放映していました。その村が2011年3月11日の福島原発の爆発で放射能を浴び、立ち入り禁止になったのです。
そこで農作業を指導していた明雄さんというおじいさんはその後も元気に番組に出ていましたが、残念ながら亡くなってしまいました。
この番組の魅力は古くから続く農業や漁業のありかたを示しながら娯楽的にも非常に楽しい作りになっているところです。良質で良心的な番組です。そしていろいろなことを考えさせる番組です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
現在、日本と中国は尖閣諸島の領有権をめぐって対立しています。そして南シナ海での中国の横暴な振る舞いでアジア諸国が緊張しています。
軍事的対決がやがて戦争になる可能性もあり、日本にとって中国は警戒すべき仮想敵国だと言う人も多くなっています。
しかしその一方で、やく20000社(2万社)の日本の企業が中国に支店や工場を持っていて中国との経済交流を行っています。
したがって戦争を避け、中国との友好関係を築くことは日本の将来にとって非常に重要なことです。いたずらに感情的なっては国益を害するのです。
そこで以下に中国人を愛し、中国の土になる決心をした日本人達をご紹介いたします。
少し昔の話ですが、以下の歴史を忘れないようにしましょう!
@日本へ帰らない中国の残留孤児達の育ての親への愛
1980年代末、北京でのこと。日本の新聞には戦争残留孤児が続々と帰って来たというニュースが溢れていました。
当時、筆者を北京へ招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授が、ある日、私を庶民向けの北京ダック専門店へ招待してくれました。
その周教授の言葉です:「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうですが、それには中国では別の問題が起きているのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親と言うでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いのです。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」
日本の新聞は名乗り出ない残留孤児も多くいることを一切報道しません。ですから私は大変吃驚しました。 しかし私は中国の土になると決心した残留孤児を誇りに思いました。と同時に、彼等の郷愁を想い、深い同情を禁じ得ませんでした。彼等に幸多かれと祈りました。
@中国に永住している残留技師
自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいます。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏である。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記です。
市川氏は東北大学の金属工学科の同じ研究室の先輩であったため、的場教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれたのです。それは1981年のことでした。
そこで次回に北京へ行った折に、中国政府の金属工業省に市川氏の調査を頼みました。
そうしたら、4、5日して人民大会堂で開催された歓迎会の折、市川氏が現れたのです。そして私の隣の席に座ったのです。小生は市川氏へ的場教授が心配していることを伝えました。
「先生のご恩は忘れたことがありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べます。あまり話さず、ニコニコして食べるだけです。
彼は日本へ帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずです。そうしなかったのは中国の独立と建国へ日本人として貢献したかったらしいのです。中国人へ対する愛着や愛情がそうさせたに違いありません。
中国の土になると決心した日本人達の動機は「愛」に違いありません。愛は国家や人種を超越するという実例です。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/china-hana.html です。
上は善巻洞の近くの張公洞の2次林に自生する中国石蒜(Lycoris chinensis)。
下は焼き物で有名な江蘇省宜興に近い善巻洞の松林の中に咲いているヒガンバナ科の換地錦(Lycoris sprengeri)。