後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夕づくる 梅をさびしと ながめいる」

2014年02月28日 | 写真

今朝は晴れあがり、暖かい陽射しでしたが、午後からは曇り日になってしまいました。

小金井公園の梅林へ行き、家内に写真を撮ってもらいました。私は先日、山の雪道を歩いて足を痛め、あまり歩けませんので車の中で昼寝をしていました。

帰宅後、写真を一枚、一枚、見たところ、曇りだったのでどれもさびしげな写真になっていました。

家内が、「梅の花は淋しいものよ」と言い、そして、「夕づくる 梅をさびしと ながめいる」 という伯父の辞世の句を今年も口にしていました。(伯父は有山董糸という俳号、実名は亮でした。)

それも風情があると思い、下にお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

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福島原発の汚染水問題で絶対に極秘にしてある基本的な情報

2014年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

約3年前の3月11日に福島原発が水素爆発しました。

すごい衝撃で原子炉の冷却水のパイプラインがぐずぐずに破壊され、汚染水が工場の地下室や別棟の発電工場の床にも溜まりだしたのです。

東京電力は地下室や地中へ浸みだした汚染水の量を推定出来るのに、それは国家的極秘事項と考えているのか一切の発表がありません。

融けだした原子炉の炉心を冷却するため現在でも毎日200トンから400トンの真水を注入しているようです。

最近、その80%は漏れていて、残りの20%だけを冷却後の排水管から回収して汚染水貯蔵タンクへ貯蔵しているという情報が流れています。

下の図はその情報の出ている、http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1696.html から転載しました。

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ロボットなどを使用した福島第一原発の内部調査によって、冷却水の大半が格納容器から漏れていることが判明しました。

2014年1月30日に東京電力が記者会見で発表した最新の情報によると、福島第一原発1号機に注水している毎時4.4トンの冷却水の内、全体の8割に匹敵する毎時3.4トンが汚染水となって漏れているとのことです。

毎時3.4トンということは、24時間で81.6トンです。これは1号機だけの量なので、福島第一原発全体の事を考えると、途方も無いほどの莫大な量の汚染水が日々誕生していることになります。

1号炉だけで毎日81.6トンの汚染水が工場の床に、そして地中へ浸み出しているのです。

福島原発は4つの原子炉があるので、この81.6トンを単純に4倍すると326.4トンもの汚染水が毎日漏れ出していることになります。

この概算した326トンもの汚染水は一体どこへ消えて行くのでしょうか?

これこそが極秘にしたい情報なのです。

単純に科学的に考えれば地中に沁みこんで、地下水と混じって、やがては海に出る可能性があるのです。

これを否定するように以下のような対策が発表されています。

【原発問題/福島第1原発の現状】(2014年2月24日) 汚染水のリスク低減急務 タンク漏えい問題で東電:http://www.47news.jp/47topics/e/201888.php からの図面を下に示します。

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上の図面の左に地下水が1日で400トンが流入していると描いてあります。

原発工場の床から毎日組み上げている汚染水の量が400トンありますが、高台から海の方向へ移動している地下水の量はその何倍もあり、誰もその推定方法が分からないのです。

「原発工場の床に流入している地下水を毎日400トンを漏れた汚染水と共に汲み上げているから汚染水はわずかしか海の底には移動していない筈だ」と主張したいのが東京電力の報道姿勢です。

毎日漏れ出している汚染水の総量を素人が推算出来ないように冷却水の注入量を明確に発表しません。そして漏れた汚染水の行きさきも推定していません。

しかし虚心坦懐に考えれば簡単なことです。

仮に毎日漏れる汚染水が約326トンあると仮定してみましょう。

この多量の汚染水が全量が工場の床に溜まれば良いのですが、かなりの部分は地中に沁みこんで地下水と混じると考えるのが自然科学の考え方なのです。

こうして原発工場の下で汚染水と混じった放射性を持った地下水が海底の方向へ移動すると考えるのが自然ではないでしょうか。

そうすれば風評被害で福島沖の魚介類は売れなくなります。

しかしここで又簡単な物理現象を考えます。

すると、地下へ浸みこんだ汚染水の放射性物質は海底方向に移動する途中で、土壌を形成している酸化ケイ素や酸化アルミニュームや酸化鉄の粒子に物理的吸着にする筈です。

簡単に言えば汚染された地下水は地中を移動している間に濾過され浄化されるのです。

この自然現象が起きなければ福島沖の太平洋は今後数十年以上にわたって汚染され続くのです。

このように科学的に考えて東京電力は全ての情報を開示すべきです。何かを隠そうとする文化を克服すべきではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料=======================

【原発汚染水】直面する「2つの汚染水」問題

・写真の出典は、http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130903/dst13090319210016-n1.htmです。

写真は2013年8月31日撮影の汚染水を貯蔵するタンク群の写真です。

【原発汚染水】「オールジャパン」で対策も効果不透明

下は水素爆発直後の福島原発の様子です。

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直面する「2つの汚染水」問題2013.9.3 19:26 

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130903/dst13090319210016-n1.htm

汚染水が地上タンクから漏えいしていた東京電力福島第1原発

 東京電力福島第1原発の汚染水問題は建屋地下に流入する地下水が汚染されていく地下汚染水と、それを貯蔵するタンクからの漏洩との2つがある。

 福島第1原発の1~3号機では、溶けた燃料を冷却するために原子炉に水を注入し続けている。その水が燃料に触れた後、放射性物質に汚染され原子炉建屋地下などにたまっている。

 冷却した水は循環させて再び冷却に使用するので、これだけでは増えない。問題は建屋地下に1日約400トンの地下水が流入していることだ。このため汚染水が増え続けている。

 トレンチ(地下道)内には高濃度汚染水がたまっており、この水が原発の港湾内の海に流出。東電の試算ではトリチウム40兆ベクレル、ストロンチウム10兆ベクレル、放射性セシウム20兆ベクレルが流れた可能性がある。

 こうした汚染水をためているのが地上タンクだ。構内には約930基の地上タンクに34万トンの高濃度汚染水が保管されている。うち約300基は鋼板をボルトでつなぎ合わせた簡易な「フランジ式」。8月19日に推定約300トンの漏洩が合ったのもこの型だ。

 タンクの信頼性が崩壊したことで、多核種除去装置ALPSの活用や、地下水の流入を阻止し汚染される前に井戸でくみ上げ海洋放出することが抜本的な解決策となる。

 しかし、ALPSはトラブルが相次ぎ停止中。タンクからの漏洩場所は井戸の近くで海洋放出も漁業関係者の理解を得るのは難しい状況となっている。


南房総の花だより

2014年02月27日 | 写真

房総半島の南側を黒潮が流れるので早春でも花々が咲いています。栽培した花畑に客を迎え入れ花摘みをさせてくれます。ストック、キンギョソウ、キンセンカなどです。

3月中旬に鴨川一泊の旅行に行く予定なので、どのような花が咲いているか調べて見ました。美しい写真がありましたので以下にお送りいたします。

3月は南房総へ花摘みの旅へお出掛けなっては如何でしょうか。

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上と左の2枚の写真の出典は、https://www.mboso-etoko.jp/c_course/c25.htmlです。

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下の写真の出典は、http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/40688/CUSTOM/4068881221092317.htmlです。

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世界の僻地に住む日本人の魅力的な個性と心豊かな人生

2014年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真は中国の菜種畑の風景です。出典は、http://blog.livedoor.jp/loveai0221/archives/34296047.html です。)

朝からテレビ番組の話でいささか気が引けますが、テレビ朝日に「世界の村で発見!こんなところに日本人」という番組があります。

タレントが独りで、世界の僻地に住んでいる日本人を探して行って、何故そんな不便な所に住んでいるのかを聞き出すという趣向の番組です。

私は毎回見ている大好きな番組です。

僻地に住んでいる日本人はみないろいろな個人的な事情でそこに行く羽目になったのです。しかしその人生に満足し、その地の人々に尊敬され、幸福な人生を送っているのです。

ある人は独身で貧しい村に小学校を作り子供たちへ教えているのです。ある人はその土地の人と結婚し大きな家族に囲まれて幸せな生活をしています。

僻地に住む人々は日本のことを絶対に忘れません。しかし帰ろうとしません。その思い切りの良さが現地の人々の心に感動を与えています。

毎回、感動し、感激しながら、豊かな人生とは何かと深く考え込んでしまいます。

そして自分までが幸せな感じになるのです。

世界中の僻地に日本人が独り幸福に暮らしている姿を見て私は日本も豊かになったと感じます。衣食足って、心が豊かになったのです。

そこで今朝は外国に暮らしている日本人の数を調べてみました。

下に外務省の海外在留邦人数統計を示します。それによると、平成23年10月1日現在の推計で、在外日本人数は、1,182,557人です。

 

在外日本人(ざいがいにほんじん)は、海外に長期在住する日本国籍者のことです。日本人の留学生や海外出張者などが含まれます。滞在先の国の国籍を取得した者は日系人と呼ばれ、下の統計には含まれいません。

 

====地域別在外日本人の数====================

(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%A4%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BAです。)

アジア

国・地域20111996
中華人民共和国の旗 中国 &0000000000140931000000140,931 &000000000001937900000019,379
タイの旗 タイ &000000000004998300000049,983 &000000000002329200000023,292
大韓民国の旗 大韓民国 &000000000003038200000030,382 &000000000001277800000012,778
シンガポールの旗 シンガポール &000000000002603200000026,032 &000000000002535500000025,355
中華民国の旗 中華民国 &000000000002239600000022,396 &000000000001366400000013,664
フィリピンの旗 フィリピン &000000000001770200000017,702 &00000000000046080000004,608
インドネシアの旗 インドネシア &000000000001246900000012,469 &000000000001119300000011,193
マレーシアの旗 マレーシア &000000000001040100000010,401 &000000000001114400000011,144
ベトナムの旗 ベトナム &00000000000093130000009,313 &00000000000019130000001,913
インドの旗 インド &00000000000055540000005,554 &00000000000015720000001,572
カンボジアの旗 カンボジア &00000000000012010000001,201 &0000000000000309000000309
パキスタンの旗 パキスタン &0000000000000908000000908 &0000000000000769000000769
スリランカの旗 スリランカ &0000000000000882000000882 &0000000000000855000000855
ネパールの旗 ネパール &0000000000000840000000840 &0000000000000448000000448
バングラデシュの旗 バングラデシュ &0000000000000667000000667 &0000000000000370000000370
ラオスの旗 ラオス &0000000000000554000000554 &0000000000000205000000205
ミャンマーの旗 ミャンマー &0000000000000543000000543 &0000000000000439000000439
アジア計 &0000000000331796000000331,796 &0000000000153386000000153,386

オセアニア(大洋州)

国・地域20111996
オーストラリアの旗 オーストラリア &000000000007467900000074,679 &000000000002568800000025,688
ニュージーランドの旗

曾遊の地、伊豆の爪木崎の野水仙の花を懐かしく想う

2014年02月26日 | 写真

伊豆半島の突端、下田にに近い爪木崎へは家内と数回行きました。交通の便の無い岬にあるので車で行きました。

そこは海に向かって、たなだらかな丘が連なり、暖かい南風が吹いています。

12月から1月、2月に訪れると一面に野水仙が咲いています。

海の青さと空の色に競うように水仙の花々が咲いています。

もう体力も衰え遠方過ぎて簡単には行けないところになってしまいました。

その風景を想いながら、日向ぼっこをしています。

下の写真は2009年12月と2011年1月に撮った写真です。

いかがでしょうか?お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

詳しくは、こんな冬の最中に野生のスイセンが満開になっている地方があります と 伊豆半島突端、爪木崎の満開の野水仙の群落の写真をお楽しみ下さい に御座います。

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群馬県下仁田町の大雪の記

2014年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログに時々、寄稿してくれている下仁田町にお住まいの横山美知彦さんから今回の大雪に関する記録をお送り頂いたのでご紹介いたします。

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大 雪 そのⅠ

一昨日の夜半からの雪で路上は20cmも積もりました。小学校校庭は、まさに銀世界です。

蒟蒻加工業の荻野商店の社長さんが、ショベルカーを持って来て路上の雪を清掃してくれ、大いに助かりました。

何年ぶりかの雪かきはつかれました。そして翌朝しばらくは、腰痛で布団から出られませんでした。高齢者にはつらい作業でしたが、もつと苦しんでおられる農家の皆さんのことを考えると、そんな我が儘は云えませんね(平成2629日)

大  雪  そのⅡ

 9日の雪も解け出し、歩行が出来るようになった矢先、14日一晩で100

 間もなかった異常降雪となり、自宅近辺も70cmもの雪があり、除雪も出来ない

 状態になってしまいました。町内の幹線道路も、その規模の除雪車を保有してお

 らず、不通個所があちこちに出来て混雑しています。

 15日は、歯の治療を予約してあったので、午後雪の上を歩いて遠回りして行

 くつもりで早めに家を出たのですが、とても歩ける状態ではなく、途中で引き返して来ました。

 17日は小学校、中学校も臨時休校となる様です。何ともひどいことになってい

ます。(平成26216日)

 子供達が通学可能になったのは、24日からで生活道路も一寸した空き地には雪が山になっています、平常に戻るにはまだ時間がかかりそうです。

 テレビのBSの共聴ANTが雪の重みで横を向いてしまいました。修正するには屋根の上の雪が解け出し、道路上に落ちた雪を除かないと、高所作業車が近寄ることが出来ません。しばらく様子を見ることになりそうです。(平成26225日)

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日本の行なった戦争の歴史を客観的に考える欧米諸国(3)中国を占領し満州国を作った事実

2014年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人が忘れたい満州国のことを今更持ち出して恐縮しています。

しかし安倍総理が村山謝罪文を変えようとし、アメリカの反対を押し切って靖国参拝をしました。そして安倍総理は東京裁判を否定しています。

これらの行動は日本の中国侵攻と満州建国の正当性を主張しているように判断され、アメリカ政府は本気で怒り出したのです。これを敷衍すれば真珠湾攻撃も正しかったと主張しているようなものです。

終戦後、このような思想の持ち主が総理大臣になったのは初めてのことです。

それは日本の歴史の一齣として静かに眺めるほかありません。

しかし欧米諸国は日本の行った中国占領と満州建国を客観的に見ているのです。そうして中国へ同情しています。それが人間の心情というものではないでしょうか。

1910年に朝鮮を併合したときは、事前にイギリス、アメリカ、ソ連の合意を得ていたのです。しかし満州j建国の場合には事前合意無しに関東軍が勝手にしてしまったのです。

当然、アメリカ、イギリス、ソ連が怒り出し、中国が国際連盟に提訴し、1932年に国際連盟からリットン調査団が派遣されたのです。

リットン卿の報告書は2つの結論を示しています。

張作霖を爆殺し、柳条湖事件を起し、満州事変を行っている日本軍の行動は自衛の戦争とは認められないと総括しています。

その上で満州地方における日本のいろいろな既特権は尊重されなければいけないと明らかに書いてあります。

この報告書を受けて、後に国際連盟は満州国を国際管理する決議をし、日本はそれを不服として国際連盟を脱会するのです。これが真珠湾攻撃とその後の太平洋戦争への一番大きな原因になったのです。

三国同盟のドイツ、イタリアなど枢軸国側の国々は満州国を承認しました。

しかしそれ以外のイギリス、アメリカ、ソ連、フランスなどなどは日本が中国を侵略し、勝手に満州を建国したと非難したのです。

その満州建国を指導して、続いて太平洋戦争をした東條首相らの当時の指導者を東京裁判で死刑にしたのです。この裁判の正当性を日本はサンフランシスコ講和会議で認めているのです。それから日本の戦後体制が出来上がってきたのです。

安倍総理は正式発表ではありませんが東京裁判は間違っていると言っています。その東京裁判に基いて出来上がった戦後体制(戦後レジーム)はご破算にして本当に独立した日本を取り戻すべきだというのが安倍総理の主張なのです。

安倍総理はその主張を軽々しくは言いません。慎重です。しかしアメリカ政府は1年位前から安倍総理の真意を見抜きはじめ本気で怒りだしたのです。

例えば親日派で有名なアーミテージ氏すら安倍総理の靖国参拝を厳しく非難しているのです。

以前に能天気な鳩山総理が米軍基地は沖縄から撤廃すると言ってアメリカ政府の失笑を買いましたが、今回のアメリカ政府の怒りは非常に根深いものなのです。

あなたは「アメリカ政府が怒りたければ勝手に怒れば良い」と簡単に言いきれますか?

非常に複雑で厄介な歴史的な展開になって来たものです。

それも時代の変化なのでしょうか。それも日本という国の運命なのでしょうか。

===参考資料:リットン調査団と報告書の骨子==========

1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%9B%A3

調査団はまっすぐ満洲入りするのではなく、日本、中華民国(上海、南京、北京)の視察も行っている。日本では荒木陸相、中華民国では蒋介石、汪兆銘、張学良、満洲国では当時「執政」の座にあった溥儀と会談している。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は1932年6月に完了。8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日、報告書を公表した。

報告書では、もと不毛の荒野であった満州の住人の大半がいまや支那人でありこれは日本の地域経営の成果である、この地域の主要勢力であった張作霖はこの地域の独立を志向していたのではなくあくまで支那の政権であると自認していた、支那中央政府の権力が極めて微弱であり日本人が保護されていない、といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。

(1)柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。

(2)満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。

と、中華民国側の主張を支持しながらも、

(3)満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発(irritation)を行使している限り、平和は訪れない。

などの日本側への配慮も見られる。

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上の写真は靖国神社に参拝したリットン卿(杖を持っている人)とその一行。  http://www.asahi.com/international/history/chapter05/01.html

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の写真では杖を手にした人物がリットン卿です。 http://ktymtskz.my.coocan.jp/agia/mantetu3.htm

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)


雪に埋もれる山林と小屋の写真

2014年02月25日 | 写真

2月14日に甲府は50年ぶりの大雪で積雪が1m位までになりました。

小生が趣味として通っている甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋の付近も深い雪です。その様子は近所の山荘に独り住んでいる木内正夫さんのブログに出ていました。

大雪の日から10日も経過したので、昨日はその雪景色を見に行ってきました。

小屋から1.5Kmほど下の松尾さんの家の前に車を駐車させてもらい、そこから杖をついて徒歩で登りました。往復3Kmほどの雪中の散歩でした。

その折に撮った雪に埋もれる山林と小屋の写真を下にお送りいたします。

新鮮な空気の雪の雑木林を散策している気分で写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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下の写真の左の奥のほうに見えるのが木内正夫さんの山荘です。この雪原を漕いで横断すると全身びしょびしょに濡れてしまうので木内さんの家には寄りませんでした。

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さらに登り、小屋から50mくらいの地点に到達しました。しかし下の写真のように膝上までの積雪なので小屋までは行きませんでした。

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下の写真は43年前に建てたままの小さな白い小屋の写真です。山林の中で深雪に埋まっている様子が写っています。

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この地域は標高約900mの寒冷地です。気温が低いので雪が融けにくい地域です。たぶん3月末頃までの根雪になるでしょう。

3月の中旬過ぎにまた新鮮な山林の空気を吸いに行きたいと思っています。(終わり)


小さな幸せが大きな幸福へ(4)深雪に突っ込んだ私の車を引っ張り上げてくれた井藤さんへ感謝

2014年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日も小さな幸せを頂きました。

甲斐駒岳の麓の小屋の雪景色を見にいきました。帰り道で深雪に突っ込んでしまい絶対に出られません。

200m位先にユンボが見えます。家内が走って行って、救助を頼みました。

こころよく来てくれて引っ張り上げてくれたのです。井藤さんという中年の男性でした。土地の土建関係の会社の人でした。性格が純朴で、本当に熱心に難しい作業をしてくれました。

200m先に車椅子に乗ったその土建関係の会社の社長さんが見守ってくれていました。

とにかく全くの他人の私たちを長年の友人のように暖かく助けてくれたのです。

幸せな気分で帰って来ました。そして大きな幸福を感じてこの記事を書いています。

井藤さん有難う御座いました。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)


日本の行った戦争の歴史を客観的に考える欧米諸国(2)日本よりも韓国へ同情的なアメリカ

2014年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事で私は2つの客観的歴史的事実を書きたいと思います。

一つは1910年の朝鮮併合はアメリカとの合意によって行われた事実です。

しかしその合併は安重根による伊藤博文の暗殺の原因になり、朝鮮民族の恨みは現在も消えていないという事実です。

もう一つはアメリカ軍と韓国軍は朝鮮動乱とベトナム戦争とイラク戦争で共同作戦のもとに戦った軍事同盟国だという事実です。お互いに血を流しあった同盟国なのです。

その結果、アメリカは最近の日韓抗争において日本より韓国へ同情的なのです。

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さて朝鮮併合ですが、それは1905年の「桂・タフト協定」によってアメリカ政府の合意のもとに実行されたのです。その代わり日本はアメリカがフィリッピンを植民地として領有することに合意したのです。この協定は後にイギリスとロシアの合意まで得たのです。

判りやすく言えば日本が朝鮮を領有し、アメリカがフィリッピンを領有するという領土の山分けをしたのです。

事前にアメリカ、イギリス、ロシアの合意を得ていたので、日本が朝鮮を併合しても欧米諸国は黙認したのです。詳しくは末尾の参考資料をご覧ください。

この歴史的事実は満州建国と大変違います。満州国に関しては事前に欧米の合意を取らなかったのです。

その一方、朝鮮の人々やフィリッピン人の意見は完全に無視したのです。

その結果、安重根は朝鮮初代総督の伊藤博文をハルピン駅頭で暗殺したのです。

この朝鮮併合の恨みは深く、現在まで続いています。その証拠は昨年、韓国大統領の要請で中国がハルピン駅に「安重根記念館」を開設した事実です。

さてそれはそれとして、戦後のアメリカと韓国の共同軍事行動の歴史を見てみましょう。

(1)1950年から始まった朝鮮動乱ではアメリカ兵と韓国兵が肩を組んで北朝鮮軍と中国軍と戦ったのです。38度線まで押し返し現在の大韓民国が独立したのです。

(2)1966年から1976年まで続いたベトナム戦争では、韓国はアメリカにつぐ世界第二位の軍事力をベトナムに送り、アメリカの作戦を支援したのです。これにはアメリカ人が恩義を深く感じているのです。

(3)2004年にジョージ・W・ブッシュ大統領の要求に応じて韓国はイラクにザイトゥーン部隊という実戦部隊を派遣したのです。この時日本は実戦部隊を送っていません。

このような韓国軍とアメリカ軍の親密な関係から、アメリカはどうしても韓国の肩を持ちます。日韓抗争では韓国側に同情します。

その証拠はアメリカ国内に従軍慰安婦像や記念碑の建立がなされているのです。そして日本海という地名を韓国の呼び名の東海と書くようにしたのです。

アメリカの地方自治体がそれを決定しています。この事実はアメリカは日本より韓国へより同情的だということを示しています。

このような日韓関係のもろもろの歴史的事実を日本人はもっと客観的に、そして真摯に考える方が良いのではないでしょうか。その方が日本の国益のためになると私は信じています。

下に関連の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)

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上は昨年の韓米合同軍事演習の様子です。出典は、

http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/35369-%E7%B1%B3%E9%9F%93%E3%80%81%E6%9D%A5%E6%9C%88%E4%B8%AD%E3%81%AB%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E5%90%88%E5%90%8C%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E6%BC%94%E7%BF%92%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD です。

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上は韓国の公園にあるマッカーサー像です。下は朝鮮動乱の犠牲者を韓国とアメリカ軍が共同で慰霊式典をしている様子を示す写真です。

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===参考資料:桂・タフト協定とは==============

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[10]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。

1、日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。

    2、極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。

      3、アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める。

      会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。

      桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる。

      ===参考資料:韓米共同軍事行動=============

      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E9%9F%93%E9%96%A2%E4%BF%82

      大韓民国とアメリカ合衆国は1953年に軍事同盟を結ぶ事に同意した。彼らは同盟を「血で作られた関係」と呼んだ。更に、約2万9千人の在韓米軍が韓国に駐留している。2009年には、韓国とアメリカは将来の防衛協力の為に同盟を展望させると誓約した。

      アメリカ側の要求によって、朴正煕大統領はベトナム戦争の時にアメリカ軍を補佐する為に韓国軍をベトナムに送った。韓国軍はアメリカ軍に次いで世界第二位の規模の外国分遣隊を維持した。その替わりに、アメリカは韓国に対し軍事的かつ経済的援助を増加させた。リベラルな土壌から選ばれたにも拘わらず、盧武鉉大統領も2004年にジョージ・W・ブッシュ大統領の要求に応じてイラクにザイトゥーン部隊を派遣する事を承認した。

      アメリカのシンクタンクピュー・リサーチ・センターによると、韓国国民はアメリカ合衆国やアメリカ人に対して最も大きな好意を寄せている(世界中の国々の中でアメリカは4位以内にランクされている)。同様に、韓国のギャラップの調査でも、韓国はアメリカを世界中の国々で最も友好的だと見ている。

      政治的側面では、アメリカ合衆国は1945年以降、韓国が独裁政権に支配されていた頃でさえ、韓国を「誠実な防共の砦」として支援した。2011年3月のギャラップの世論調査では、74%の韓国人がアメリカ合衆国の世界での影響に好意的だと信じている。同様に、アメリカ国民は韓国をより前向きに見る事に堅実である。2011年のギャラップの調査では、65%のアメリカ人が韓国に好感を持ち、最も高い数字を出した。従って、両国が共に友情の精神で取り組み続けなければならないより小さな課題が残ってはいるものの、両国関係は堅実に改良されている。


      南京虐殺は無かったという主張の虚しさ・・・感情を静めて幸せになろう

      2014年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

      私は南京虐殺は無かったのかも知れないと思っています。しかしそれを声高く叫んでも虚しく感じるだけです。虐殺が無かったという証拠を書き連ねているのを読んでも虚しくなるだけです。

      中国の教科書には南京虐殺が詳細に書いてあり、その上、南京市には「南京虐殺記念館」まであるのです。中国人は学校で習い、信じています。

      海を隔てて日本からいくら大声で叫んでも聞こえる筈は無いのです。

      こういう場合は自分の感情を静めて、中国人を非難するのを止めたほうが良いのです。自分は許せば自分が幸せになります。

      まず自分が許すのです。

      韓国の従軍慰安婦に日本政府は関係しなかったと主張すればするほど韓国人は感情的になってアメリカ中に従軍慰安婦の像を建てようとします。

      許して、何も言わないのが最良の策なのです。日本人はもっと誇り高くあるべきです。低次元な言いがかりに取り合うべきではないのです。

      このように書くとすぐに説教する人がいます。「国際関係はそんな綺麗ごとではありません。声を高くして、何度も言ったほうが勝つのです」と私を叱るのです。

      私は叱られて結構です。

      今日のミサではイエス様の「汝の敵を愛せ」、そして「右の頬うたれたら左の頬をも向けなさい」という言葉を教わりました。

      日韓関係と日中関係での感情的な喧嘩外交は日本の国際的な地位を落し、日本の国益を損なっていると思います。

      もうそろそろ止めにしませんか?


      聖ヨセフ・ディン神父様と住田省吾神父様のお写真です

      2014年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

      今日のミサの光景です。聖ヨセフ・ディン神父様と住田省吾神父様のお写真をご紹介いたします。
      祭壇中央で祈っている神父様はイエズス会の住田省吾神父様です。
      約500年前にイグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルによって作られたイエズス会が現在でも世界中で活動しています。
      この住田神父さまは時々カトリック小金井教会に来てミサをあげてくださいます。奥深い信仰を持っていられる神父様です。
      左隣の神父様はこの教会の主任司祭のディン神父様です。
      ベトナム戦争の終わりごろボートピープルとして日本へ来て神父になられた方です。小金井教会のお世話を熱心にしてくれています。強い信仰で信者を指導しています。
      他の3人の白衣の人は侍者です。

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      小さな幸せが大きな幸福へ(3)54年前の思い出の場所を散歩する幸せ

      2014年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

      昨日、54年前に家内と散歩した日野の多摩川の堤防の上を散歩して来ました。

      風の無い「光の春の日」の午後でした。

      その近所に家内の家があったのです。

      54年前は多摩川の堤防まで一面の水田でした。その水田の中に小さな島のように養蚕試験場の桑園が緑に盛りあがっていました。

      その試験場の跡地は仲田蚕糸公園という公園になっています。

      その蚕糸公園と多摩川の堤防を家内と一緒に歩いたのです。小さな幸せをしみじみと感じました。この54年間にいろいろなことがありました。

      それを少し思い出しながら静かに語り合う老境の散歩でした。それこそ小さな幸せです。いろいろな人々に助けられ辿り着いた境地です。今は亡き恩人たちに感謝しながら歩いてきました。

      そうして昨日も過ぎて行きました。流れ行く日々です。

      下にその散歩の折に撮った写真をお送りします。

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      上と下の写真は仲田蚕糸公園の風景です。広い駐車場がついています。

      下の写真は「光の春」の感じを撮ったつもりです。

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      この公園を抜けると多摩川の堤防に出ます。

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      ・堤防の土手には可憐なイヌフグリの花が咲いていました。

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      今日は日曜日なので、これから 教会のミサへ行きます。 これも幸せなことです。

      教会では、

      皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)


      日本の行った戦争の歴史を客観的に考える欧米諸国(1)北方四島をロシアへ与える約束

      2014年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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      1945年2月に8日間にわたって開催された米英ソ連3国によるヤルタ会談ではおもにドイツ領を大きく取り上げてしまい、戦後のヨーロッパの国境を決めた会議でした。ドイツはその侵略戦争の償いとして広大な領土を失ったのです。

      侵略戦争を始めたのはドイツで、負けたのはドイツですから戦争の責任をとって領土を失うのは客観的にみて当然です。これが欧米の考え方です。ドイツ人自身も客観的に考えて仕方のないことだとし、取り上げられた領土を返せという要求はしていません。

      ですからこそ日本が戦争で失った北方四島を返せと言うのに対して欧米諸国は冷ややかに見ています。

      ソ連が8月9日以前に日本を攻撃したら南樺太と千島列島をソ連領にしてよいと約束したのはアメリカイギリスだったのです。それはヤルタ会談の密約だったのです。

      8月9日にソ連が突如攻撃してきたと言って悪いのはソ連だけのように理解している日本人が多いのは事実です。事実はアメリカもイギリスも同罪だったのです。

      戦後、アメリカは具合の悪いこの密約を可能な限り報道規制をして隠していました。

      ですからこそアメリカもイギリスも北方四島に関しては無言をつらぬいています。

      さて千島列島とは何処まででしょうか?地図を開いてみるとエトロフ島、国後島までは千島列島に連なった島々です。客観的に見れば国後島までは千島列島です。

      歯舞島と色丹島は千島列島の線から外れています。

      しかし客観的に考えれば歯舞島と色丹島は千島列島に付随する島々と理解するのが自然です。

      この客観的な考えに立ってロシアと根気よく交渉すれば歯舞島と色丹島は返してくれるかも知れません。

      その交渉は残念ながらシベリア抑留とは切り離して相談しないと交渉がまとまらない可能性があるのです。

      それが欧米流の客観的交渉ではないでしょうか。

      ドイツ兵は日本兵をより多数シベリア抑留され、より過酷な取扱いを受けました。

      しかしドイツ人はそのことでロシアを非難しません。口惜しいが我慢しているのです。客観的に考えてそれが敗戦の現実なのだと認めて我慢しているのです。その方が自分の誇りが守れると信じているようです。

      ドイツ人は過去の戦争に真摯に対峙して考えているが日本人は真摯に対峙していないと言われて」いる理由はこの辺にあるのでしょう。

      参考資料ヤルタ会談の「極東秘密協定」によるロシア領土の拡大の密約:

      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87

      (1)1945年2月のヤルタ会談に付随して、主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。

      (2)ソ連の日本攻撃を促すアメリカ。

      1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

      (3)ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた 。

      この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。

      (4)真珠湾攻撃直後にアメリカはソ連が日本を攻撃することを要請したのです。

      アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている[。このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。

      (4)スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。

      (5)ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。しかし、ソ連参戦の翌日(1945年8月10日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(9月2日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。