間もなく麗しの皐月がやって来ます。そして青空に鯉のぼりが泳ぐ端午の節句になります。
青空に鯉のぼりが舞う写真をお送りし、端午の節句はもともとは女の節句だったというお話しをしたいと思います。
昭和の初めころの鯉のぼりは真鯉と緋鯉と吹き流しの三つが普通だったような記憶があります。昭和11年生まれの私の家の庭には太い丸太の棒を立て、真鯉と緋鯉と吹き流しが五月の風に青空を泳いでいました。それは戦前のつかの間の平和な時代でした。その頃は鯉のぼりは男の子のいる家で上げるという風習でした。
1番目の写真はそのような時代の吹き流しと鯉のぼりです。写真の出典はhttp://nobrin7.exblog.jp/11057098/ です。
2番目の写真は長野県阿智村の鯉のぼりです。
出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/938/ です。
さて端午の節句にまつわるお話しをしたいと思います。端午の節句は時代によって随分と変化したようです。
端午(たんご)は五節句の一つです。端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれます。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習がありました。
現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ国民の祝日「こどもの日」になっています。地方では旧暦や月遅れの6月5日に祝う地域もあります。
旧暦では午の月は5月にあたり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になったのです。
ところが端午の節句はもともと女の節句だったのです。
昔、中国では五月は悪い月とされ、薬草をとって悪い気をはらう行事がありました。かおりの強いアオイや菖蒲には、魔よけの力があると信じられていたのです。
また、このころは、ちょうど田植えのシーズンでした。田植えは、昔、女性の仕事だったので、この日は女性が大切にされ、女性だけが菖蒲をふいた屋根のある小屋に集まり、そこで過ごし悪い気をはらう行事がありました。
これが「菖蒲の節句」でもともとは女の節句だったのです。
中国の「女の節句」が日本の鎌倉時代ごろから、菖蒲が「尚武(武を重んじること)」に変わり、男の子の節句となったのです。
鎌倉時代ごろから、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句となったのです。
端午の節句では鯉のぼりだけでなく、鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾ります。
ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となりました。
しかし京都を含む上方では、当時は見られない風習であったようです。
また端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習があります。
柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まりました。 以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/端午 からの抜粋です。
それにしても端午は元々女性の節句だったとは面白いですね。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)