後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「何故か昔の日本の農村を思い出させる韓国の田舎の風景」

2024年05月30日 | 写真
韓国の釜山の北の慶尚北道にある河回村と良洞村の平和な農村風景の写真をお送りいたします。何故か昔の日本の農村を思い出させる韓国の田舎の風景です。何故か懐かしい農村風景です。
この2つの村は農村ながらも世界の文化遺産に認定されています。李朝朝鮮時代の農村が昔のまま残っている珍しい文化遺産なのです。
写真はいろいろありますが、何と言っても次の写真集が抜群の出来なので、その写真集から7枚を選びお借りすることにしました。
韓国の歴史村:河回と良洞の絶景写真画像、https://dlift.jp/photo/photoDisplayWorldHeritage921
これらの写真を撮った方へ敬意を表します。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「札幌のアカシアの白い花」

2024年05月29日 | 写真

札幌ではアカシアの白い花が札幌を象徴する花でした。古き良き札幌を思い出させてくれる花です。北国らしさの漂う花です。

札幌の風物詩とも言われたアカシアは、正確には「ニセアカシア」という外来種で、明治初期に輸入され、札幌駅前通の並木道として使われたものが最初でした。

札幌のアカシアの白い花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://poros.exblog.jp/13485739/ です。


「5月に咲くリラ(ムラサキハシドイ)の花をお楽しみ下さい」

2024年05月29日 | 写真
ライラックは東京だと5月に咲く花木で、葉はハート形、花は円錐形に小花が房咲きになり紫色、藤色、紅色、白色などの一重や八重の花をたわわにつけます。
香りが良いので世界中で愛されている花木です。フランス語でリラ、和名はムラサキハシドイと呼ばれています。ハシドイは、日本に自生する近縁種の落葉小高木のことです。
ライラックは冷涼な気候を好み、特に夏の夜温度が下がる環境を好みます。そのため東北北部や北海道、本州の高原地帯が適地といえます。
 
ライラックとアカシアの関係:
ライラック(あるいはリラ)は札幌の樹でです。赤紫や青紫、ピンクや白などが5月中旬から下旬にかけて花開きます。
一方、アカシアは6月中旬から下旬にかけて白い花を咲かせ、通りの緑の列に白い飾りが加わります。札幌のアカシアは植物辞典的にはニセアカシアです。
ムラサキハシドイの写真を送り致します。写真はインターネットからお借りしました。

「美しいアカシヤの大連の花の写真」

2024年05月28日 | 写真
『アカシヤの大連』は詩人の清岡卓行の最初の小説作品です。
雑誌『群像』 1969年12月号に発表し、第62回芥川賞(1970年)を受賞 しました。当時読んで感動しました。
それを思い出したので大連のアカシヤの花の写真をご紹介いたしす。写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10244256 です。
大連は昔から「東方魁城」(東方のアカシアの都)と呼ばれており、毎年5月になると一斉にアカシアの花が咲きます。アカシア祭りが毎年5月に開催されます。
アカシアと言えば清岡卓行著の『アカシアの大連』で、この花を見たいと思う人も多いと思います。
アカシヤの花はその清楚とも言える白い花と芳醇な香りに大いに酔いしれます。
 
この花は注意深く見ると日本の山にも沢山咲いています。札幌などにははアカシヤの並木道があり歌になっています。
 
「この道」、北原白秋作詞・山田耕筰作曲
 
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
 
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
 
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ
 
あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂(た)れてる
 
今日はアカシヤの花の写真をご紹介いたしました。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
 
 
 

「中国の各地の花園の写真」

2024年05月28日 | 写真
中国の各地の花園の写真です。
写真は「中国の花園の写真」を検索して出て来た数多くの写真の中から美しいものを選びました。
1番目と4番目の写真は洛陽の中国国家花園です。2番目と3番目の写真は福建省の国家花園です。

「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」

2024年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。
金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。
日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。
 戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。
私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。
丁度その年にヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たのです。
文化大革命で破壊された教会がまだ復興していなかった時代でした。北京にはカトリック教会が幾つかありましたが、まだ再開していません。ところが瀋陽まで来たら再開していたのです。そして瀋陽のカトリック教会の人はヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たことを知っていました。
金応培さんは瀋陽のいろいろな所へ私を観光に連れて行ってくれました。
瀋陽は何と言っても、清朝の発祥の地です。満州族のヌルハチが瀋陽に都を置き、清朝の初代皇帝になったのです。
1番目の写真は瀋陽の故宮です。勿論、この宮殿はヌルハチの時代のものではなく、後の時代に次第に増設していった宮殿です。
北京の故宮と同じような配置になっていますが、規模はずっと小さい宮殿でした。
(瀋陽の故宮の写真。出典:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0819&f=column_0819_003.shtml&pt=large )
 
観光案内をしながら朝鮮族の金応培さんが何故、中国共産党員になって瀋陽市に住んでいるか説明してくれました。
旧満州の奥地の森林地帯での生活は苦しかったのですが、向学心の強い金応培さんは自分で学費を稼ぎ東北工学院へ入学したのです。
旧満州の奥地の森林地帯に入ると人間の拳くらいの大きな松ボックリがあるそうです。その松ボックリを拾い集め、中にある松の実を収集したのです。それを持って町に出て、中華料理店へ高く売ります。
こうして中学校、高校を優秀な成績で卒業し、瀋陽の東北工学院に入学したのです。
大学に入学すると優秀な金さんはすぐに共産党への入党を誘われたそうです。否応はありません。
当時、日本へ留学できたのは共産党の党員に限られていました。1981年はそういう時代でした。
なお金さんは日本語を瀋陽で習ったようです。流暢な日本語でした。そして2度目に瀋陽に行った時には私と妻を温かく自宅に招待してくれました。
その後、金応培さんは東北工学院の教授になり定年退職しました。最近でも年賀状をくれ幸せな老境のようです。
 
今日は瀋陽の金応培先生の思い出を書きました。旧満州の奥地の森林地帯で松ボックリを拾い集め自分で学費を稼いだことに感銘を受けます。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
2番目の写真は現在の瀋陽市の駅前広場です。
3番目の写真は現在の瀋陽市の中心街です。

「秦の始皇帝陵と兵馬俑を見た時の驚き」

2024年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
中国に行って驚くことは古い歴史的なものが昔のままに保存されていることです。例えば古都、西安の近くには紀元前246年に作られ始めた秦の始皇帝陵と兵馬俑があります。
私は1982年に西安に泊り郊外の秦の始皇帝陵と兵馬俑を訪れ非常に感動しました。特に兵馬俑坑にある武人像の表情が千差万別で活き活きとしていることに感動したのです。
さっそく始皇帝陵と兵馬俑の写真を示します。写真は「秦の始皇帝陵」と「兵馬俑」を検索して出て来た数多くの写真から鮮明な写真を選びました。 
1番目の写真は西安から約30Kmにある秦の始皇帝陵です。陵の小山にはわけなく登れました。頂上には幾つかの石像が祀られていました。眺めが良かったです。
2番目の写真は始皇帝陵から1Kmはなれた兵馬俑坑です。巨大な覆いの屋根がかけてあります。武士俑は等身大の素焼きで8000体あるそうです。
3番目の写真は軍馬と武人の像です。馬の手綱まで精巧に出来ています。
4番目の写真は私が一番興味を持った4頭立ての馬車です。馬が生きているようです。大きな車輪なので悪路でも行けるようです。
5番目の写真は武人の隊列です。武人なので、みんな怖い顔をしています。
6番目の写真は個性がいろいろな武人の顔です。髪の結い方が違います。出身地がいろいろ違うことを示しているそうです。
7番目の写真は位の高い武人を乗せる馬車です。屋根がついているので風雨の中でも長距離行けそうです。
さて秦の始皇帝は中国の初代皇帝です。紀元前3世紀、7つの国が覇を競い合った戦乱の時代を制して、中国に巨大な統一国家の秦を打ち立てました。始皇帝の業績は郡県制の施行、文字・貨幣・度量衡の統一等々で、後の皇帝政治の基礎を築きました。
始皇帝陵は紀元前246年から紀元前208年にかけて造られたと推定されています。70万人の労働力と40年の歳月をかけて作り上げた巨大な陵です。
1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然地中に埋まった素焼きの像が発見されます。
その地下5メートルに、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていたのです。「兵馬俑」は始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており巨大な陵の一部を成しています。
1974年地元の住民により兵馬俑が発見され、1975年の新華社の報道で世界的な大ニュースとなったのです。
兵馬俑は陵墓の1.5km東にあります。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあり、みな戦闘態勢で東を向いています。
この兵馬俑の発見は当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものです。
 
今日は秦の始皇帝陵と兵馬俑をご紹介いたしました。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)

「驚異的な周口店の北京原人遺跡」

2024年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
周口店の北京原人遺跡訪問して感動しました。人間は20万年前から火を使って料理していたのです。

周口店の北京原人遺跡は北京から南西に50キロほど離れた周口店村の竜骨山の上に、「北京原人遺跡」はあります。

1920年代、考古学の世界に激震が走りました。この地で約70万年前から20万年前のものと推定される頭蓋骨が発見されたのです。この発見により、類人猿とは異なる原始人類の存在が明らかとなり、その頭蓋骨は北京原人と名付けられました。また、後に原人の使った石器および火を使った跡も次々と発見されました。

北京原人遺跡は人類進化の鍵です。
北京原人化石は全部で頭蓋骨6個、骨の砕片12片、下顎骨15個、歯157枚および割れた大腿骨、脛骨、上腕骨などが出土。これらの骨は老若男女約40体のもの。

このほか、石器材料10万点、及び火を使った灰燼遺跡と焼いた石や骨などが発見され、北京原人は直立歩行し、集団生活を営み、斧のような道具を使っての狩猟や採集、獲物を火で焼いて食していたことが明らかになったのです。
人類の進化を紐解く鍵、それが「北京原人遺跡」なのです。

https://worldheritagesite.xyz/peking-man/ より、