ミステリーツアーの2泊目は知床のウトロ港の前のホテルに泊まりました。
そうすると3日目の普通のコースでは知床五湖を観光し、運が良ければ野生動物が見られます。それから峠を越して知床半島の反対側の羅臼に出ます。そこから船に乗り、ホエールウオッチングの為に沖に出ます。クジラやシャチ、アザラシ、いろいろなイルカが群れ遊ぶ光景を楽しみます。そして帰りは女満別空港から羽田に帰るのが普通です。
ところが、流石にミステリーツアーです。知床五湖までは行きましたが、そこから引き返し斜里から網走、そして天都山のオホーツク流氷館をゆっくり見たのです。予想外のコースでした。
本物の巨大な流氷の展示も感動的でしたが、その屋上から見た網走湖や能取湖やオホーツク海の眺めが雄大で印象深いものでした。
それでは3日目のツアーで見たものを写真に従ってご説明いたします。
ホテルを出て知床五湖に近づいた頃、バスの傍の白樺林の中に大きなヒグマが悠然と歩いています。下の写真はバスの窓から撮ったヒグマです。
この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。
さてそこからかなり走った所で、下の写真のようにエゾシカが草を食べている光景を見ました。
エゾシカは熊を恐れるのでクマからは数キロメートル離れた雑木林にいたのです。
その次は下の写真のようにバスの前方の路上で遊んでいる北キツネが2匹見ました。
このように道路で遊んでいるキツネは観光キツネと言い、観光客の与えるお菓子を待っているようです。野生動物へは餌やりは厳禁ですが、それでもたまに誰かがお菓子を投げ与えるのでしょう。
次の2枚の写真は知床五湖のうちの一番近くの一湖の写真です。
駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。
この木道の展望台から北の方角を見ると下の写真のようにはるか向こうにオホーツク海が青く見えます。
そして西の方角を見ると下の写真のように知床連山が斜里まで連なっているのが見えます。
知床連山の西の端は斜里岳で、そこで知床半島は終わっています。
知床五湖の観光の後はバスが引き返しました。
そしてウトロを過ぎて斜里へ向かいます。
下の写真はウトロを出た所にあるオシンコシンの滝です。
バスを駐車してお客がオシンコシンの滝壷の近くまで歩いて行きます。
国道のすぐ傍にこんなに大きな滝があるのは流石に北海道です。写真の手前に写っている人間に比較するとこの滝の巨大さが想像出来ると思います。
この後は騰沸湖を左にしてオホーツク海の岸辺を走ります。
斜里を過ぎて網走に行き、そこで焼きサンマや鮭鍋のついた昼食を摂りました。
網走の寂れた繁華街を散歩して、時の流れを想います。
その後は天都山に上がり「オホーツク流氷館」に入ります。年中マイナス15度に保った流氷体験室で濡れタオルを振り回し、棒状に凍るのを実験します。去年の流氷も展示してあります。
そして屋上に上がり下の2枚の写真のような眺望を楽しみます。
上の写真の左前の湖が網走湖で、右遠方にあるのが能取湖です。
上の写真は東北側の眺望で網走市とその向こうにオホーツク海が見えます。
「オホーツク流氷館」を楽しんだあとは網走湖を右に見ながら女満別空港へはバスで40分の行程です。
途中、右手に網走湖に続く湿原の水芭蕉の群落地が見えます。数年前に訪れ、一面に咲いた水芭蕉の白い花に感動したことを思い出していました。
そして下の写真のように女満別空港を飛び立って一路羽田に向かいます。
これが今回の2泊3日のミステリーツアーの終りになりました。
それにしても知床の大自然を見るとどうしても其処に住んでいたアイヌ民族をことを考えてしまいます。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
その土器が本州の古墳時代の頃に土器の模様が竹筆で擦ったような模様になって擦文文化時代になります。
そして13世紀になると北方のオホーツク文化と鎌倉時代の日本文化が混然と流入しアイヌ文化が出来上がったのです。
しかし北海道に住んでいる民族は石器時代からアイヌ文化時代になっても同じアイヌ民族だったのです。大規模な民族移動は無かったのです。アイヌ文化の特徴はそれまで使っていた土器が無くなったことが特徴です。
そして日本から入手した鉄鍋を囲炉裏にかけて料理し、木製の食器とスプーンや箸で食べるようになったことが特徴です。囲炉裏の火を煮炊きに使っていました。
そのアイヌ民族は戦前、戦後まで北海道の二風谷や白老などの辺鄙なところに集落を作って生き延びていたのです。
私は少年の頃、一人のアイヌ人の友人を持っていました。
終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開いて生活していました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。79歳になっても、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいましたが、その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいたのです。
同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり鉄鍋がぶら下がっています。
それで全ての料理を作り食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒い髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。
一説によると日本共産党が戦後にアイヌ人を助けるために本州への移住を進めていたそうです。でもその真偽もさだかではありません。
そして終戦後、アイヌ民族はしだい、しだいに日本人と同化して消えていったのです。
国会議員になった萱野 茂(1926年 - 2006年)が最後の誇り高いアイヌ民族の一人でした。
ご興味のある方は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82をご覧ください。
それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)