後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、マリア様、国立青柳緑地、谷保の天満宮」

2020年05月31日 | インポート
午前中に自宅で10時からの聖霊降臨のミサに動画配信で与りました。しかし教会に行きたいので午後から行きました。献金をして、教会の留守を一人で守っているマリア様へお祈りを捧げました。
それから国立市の小川のある青柳緑地で写真を撮りながらゆっくり座って五月最後のさわやかな風を楽しみました。
近くに樹木の大きな谷保の天満宮があるのを思い出しました。菅原道真が何となく好きなので、谷保の天満宮にちょっと寄ってから帰って来ました。静かな日曜日です。
マリア様、国立の青柳緑地、谷保の天満宮の写真をお送りいたします。









「今日の聖霊降臨のミサを動画配信で与りました」

2020年05月31日 | 日記
今日は聖霊降臨の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、https://www.youtube.com/watch?v=UABAO7Gt2jA で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの聖霊降臨のミサに動画配信で与りました。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
関口教会の写真と今日のミサの写真2枚をお送りいたします。





「『万葉集』に詠われているアジサイとアオイの咲く季節になる」

2020年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は初夏のような陽射しでした。近所にアジサイとアオイが美事に咲いています。
季節のうつろいは早いものですね。昨日撮って来た写真をお送りいたします。









この2種類の花は1250年前の万葉集の時代から、毎年初夏になると日本人を楽しませて来たのです。
そこで今日は万葉集にある歌をご紹介いたします。もっとも写真のタチアオイは万葉集のアオイと見かけは違います。しかし同種の植物なので勘弁してください。

(1)アジサイ(紫陽花)の歌
言問はぬ木すら紫陽花諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり (大伴家持、0773)

意味:
ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように移りやすいものがあります。(言葉をあやつる)諸弟(もろえ)たちの言葉にすっかりだまされてしまいました。
大伴家持が心変わりした女に送った歌です。なお諸弟(もろえ)は人名とも考えられていますが、はっきりとはしていないようです。

紫陽花の八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ (橘諸兄、4448)

意味:
紫陽花(あじさい)の花が八重に咲くように、いついつまでも栄えてください。あなた様を見仰ぎつつお慕いいたします。


アジサイ(紫陽花)の原種は日本に自生するガクアジサイです。花の色がよく変わることから、「七変化」「八仙花」とも呼ばれるそうです。
漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者 源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれています。
ガクアジサイは日本が原産地で房総半島、三浦半島、伊豆半島、伊豆諸島、足摺岬、南硫黄島、北硫黄島に自生しています。
普通あるアジサイは18世紀にヨーロッパへと持ち込まれ、多くの園芸品種が作られたものです。

(2)万葉集のアオイの歌
梨 棗(なつめ) 黍(きみ)に 粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の 後(のち)も逢はむと 葵花(あふひはな)咲く
(巻16-3834  作者未詳)

意味:
梨が生り棗(なつめ)や黍(きび)、さらに粟(あわ)も次々と実り、時節が移っているのに、あの方に逢えません。
 でも、延び続ける葛の先のように、「後々にでも逢うことが出来ますよ」と葵(あふひ)の花が咲いています。 

これは言葉遊びの戯れ歌です。
葵は古代「あふひ」とよばれ、他の食用の植物と共に詠われているので「冬葵」(フユアオイ)とされていますが牧野富太郎博士は立葵(タチアオイ)と言っています。

タチアオイはトルコ原産種のようです。日本には古くから薬用として渡来したといわれています。

このように花の写真を撮りながら万葉集の出ているか調べるのが面白いのです。日本にもともと咲いていた花か外国からやって来た花か花の素性を知ると花々の美しさが一層身近に感じられます。その花への愛着が強くなります。
こんな私はマニュアック過ぎるのでしょう。花は単純に見て美しければ良いのでしょう。反省しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「中国の香港支配の強化と宗教の自由」

2020年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、北京で開催された全国人民代表大会で香港に「国家安全法」を施行することが決議されました。これで今後、香港では反政府デモは出来なくなります。反政府的な本の出版が出来なくなります。北京政府にたてつく意見も言えにくくなります。
香港の民主主義は風前の灯になったのです。この昨日の全国人民代表大会の決定で私は改めて中国人の自由というものを考えこんでいます。共産党独裁でも自由はあるのでしょうか?
中国の共産党独裁の特徴は「政府の全ての政策に反対しない限り自由を与える」という方針にあります。今回の香港の「国家安全法」ではこの制限的な自由が露骨に説明されています。
当然アメリカは激しく非難し中国バッシングを強めています。

今日は「政府の全ての政策に反対しない限り自由を与える」という政策を知るために宗教の自由の実態を見てみましょう。そこで現在の中国にあるキリスト教の教会とイスラム教の寺院とお寺の写真を示します。

1番目の写真は天津にあるキリスト教の天津西開教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/西開天主教堂 です。

2番目の写真は天津西開教会の内部です。

3番目の写真青海省の西寧にある巨大イスラム教の寺院の東関清真大寺です。
写真の出典は、https://www.china-arekore.com/entry/xining_mosque です。

4番目の写真は深圳の仙湖植物園の中にあるお寺です。写真の出典は、http://aabbcc358.n-da.jp/e116239.html です。
高齢者だけじゃなく、若い人もたくさんの人がお参りにに来ています。

5番目の写真は洛陽にある白馬寺です。出典は、https://www.arachina.com/culture/religion/temple.htm です。
白馬寺は、東漢永平11年(西暦68年)に中国河南省の洛陽市の郊外に中国で最初に建てられたお寺で、中国仏教の「祖庭」と「釈源」と呼ばれています。中国で第一級の古刹です。主な建物は天王殿、大仏殿、大雄殿、接引殿、毗卢閣、斎曇塔などです。
これら5枚の写真が示すように中国には一見信仰の自由があります。
しかし、それには厳しい条件が付いているのです。「政府の全ての政策に反対しない限り自由を与える」という条件です。
神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。ですから中国の共産党員は宗教を信じないたてまえです。

しかし多くの人々は宗教を信じ、家族の幸福を祈りながら穏やかに暮らしているのです。
そこで中国の宗教の信者のことをもう少し詳しく見てみましょう。
中国では道教が仏教と儒教とともに三大宗教と言れています。ですから大部分の中国人はこの三大宗教を信じています。そのどれかを信じる人もいますが、多くは同時に信じています。中国の仏教はおもにチベット仏教(ラマ教)と、日本と同じ大乗仏教です。
その他に2300万人ほどのキリスト教信徒や1800万人ほどのイスラム教徒がいます。なおこれらの信徒数の数は資料によって多少違います。中国の宗教に対する政策の概略は末尾につけた参考資料をご覧下さい。
最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化し、それぞれの信者数が急増しているようです。
中国の民主化を主張したり、独裁政治を批判しない限り、自由に宣教し、自由に信仰してて良いのです。
ただし全ての宗教組織は政府へ届けるのが命令されています。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。

今日の記事は中国の宗教事情について明るい面を強調して書きましたが、アメリカ人は完全な宗教の自由が無い中国を許しません。この宗教の自由をめぐるアメリカと中国の対立は重大です。
そして今回の香港に「国家安全法」を施行する決議は長年の宗教の自由に関するアメリカと中国の対立にふたたび火をつけ燃え上がらせるものです。トランプ大統領の中国バッシングが一層激しくなるのです。日本の外交が一層厳しくなるのです。香港は日本にとっても重要な問題なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人

======参考資料:「中国の宗教政策」===========
 1997年10月発表の中華人民共和国・国務院報道弁公室の宗教に対する政策の概略;
http://j.people.com.cn/special/religion/baishu.html
1.中国の宗教の現状
2.宗教信仰の自由の法的保障
3.司法と行政による宗教信仰の自由の保障および監督
4.独立自主運営の宗教事業に対する支持
5.少数民族が宗教を自由に信仰する権利の保護

1.中国の宗教の現状

中国では様々な宗教が信仰されている。中国には主に、仏教、道教、イスラム教、カトリック、キリスト教の信者がいる。中国公民は、信仰する宗教を自由に選び、自分が信じる信仰を表現することができ、また宗教的身分を明らかにすることができる。統計によると、国内には宗教を信仰している人々は1億人おり、宗教活動施設は8万5千ヶ所、宗教関連の教職員はおよそ30万人、3千以上の宗教団体がある。これらの宗教団体は、宗教関連の教職員を育成するための宗教学院・大学74ヶ所を運営している。

――中国では、仏教は2千年の歴史を誇る。中国には現在、仏教寺院がおよそ1万3千ヶ所あり、出家した僧侶・尼僧は20万人、そのうち西蔵(チベット)系仏教のラマ僧は12万人、活仏は1700人、寺院は3千ヶ所、巴利語系仏教の比丘(びく)や長老はおよそ1万人、寺院は1600ヶ所に上る。

――道教は中国で生まれた宗教であり、その歴史は1700年以上も前に遡る。国内には道教寺院1500ヶ所があり、2万5千人以上の乾道、坤道の道士がいる。

――イスラム教は7世紀に中国に渡った。イスラム教は主に回族、ウイグル族など10の少数民族の間で信仰されている。これらの少数民族の人口はおよそ1800万、モスクは3万ヶ所、およそ4万人の伊瑪目や阿ごう(勹+言)がいる。

――カトリックは7世紀に中国に渡り、1840年のアヘン戦争後、信者の規模が増えた。中国には現在、カトリック信者400万人、教職員4千人がおり、教会などの活動施設4600ヶ所がある。

――キリスト教は19世紀に中国に入り、アヘン戦争後、信者数が増加した。中国には現在、キリスト教信者1千万人、宣教師1万8千人がおり、教会1万2千ヶ所、活動場所や集会所2万5千ヶ所がある。

中国で全国的な活動行なっている宗教団体には、中国仏教協会、中国道教協会、中国イスラム教協会、中国カトリック愛国会、中国カトリック教主教団、中国キリスト教三自愛国運動委員会、中国キリスト教協会などがある。各宗教団体は、独自の規定に基づいて、指導者や指導機関担当者を選挙、選出している。

中国の各宗教団体は自主的に教務活動を進めており、必要に応じて、宗教学校の開校、宗教経典の発行、宗教的刊行物の出版、社会公益事業を行なっている。中国は各国同様、宗教と教育の分離を原則としており、国民教育に宗教教育が持ち込まれることはない。一部の大学や研究機関では、宗教学教育や研究が行なわれている。各宗教組織が運営する宗教学校では、その宗教の必要性に基づいて、宗教的な専門教育が行なわれている。宗教教職員による正常な教務活動については、宗教活動の場所で、あるいは宗教的習慣に基づいて信者の自宅で、あらゆる正常な宗教活動が行なうことができ、これらは法的により保護されており、いかなる干渉も受けない。

1966年から1976年にかけての「文化大革命」では、宗教をはじめ、中国社会のあらゆる分野が大きな被害を受けた。中国の各級政府は「文化大革命」の誤りを訂正する過程で、宗教信仰の自由を保障する政策を復活させ、政策を確実に実行するために、大きな努力を払った。

長い歴史の中で、中国にあるあらゆる宗教文化は、中国の伝統的思想や文化の一部に組み込まれている。中国の宗教信者の間には、国と宗教を愛する伝統がある。中国政府は、宗教界の信者が団結して積極的に国家建設に参加することを支持し、推奨している。

中国では、あらゆる宗教の地位は平等で、調和と共存を基礎としているため、これまでに宗教的紛争が発生したことはない。宗教を信じる人々と信じない人々はいずれも互いを尊重し、団結して付き合っている。
・・・以下省略・・・・ 

「今日の日記、武蔵野の竹林の写真を撮りに行く」

2020年05月27日 | 写真
江戸時代には、武蔵野の新田開発が進み、あちこちに大きな農家が点在するようになりました。
そんな農家は屋敷林に囲まれ、竹林もありました。
その竹林の景観を保存するために東京都東久留米市は「竹林公園」を整備し一般に開放しています。今日はそんな武蔵野の竹林の写真を撮りに行ってきました。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









「166万人のコロナ感染者のいるアメリカが中国に仇討」

2020年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
真面目にお読み頂くほどの記事ではありません。
コロナ問題が起きた時、うちの家内が言いました、「中国に責任があるのだから中国は謝罪すべきだわ」
私が言いました、「新型コロナウイルスの感染拡大は自然現象なので中国は謝罪する必要がないと思うよ」
この考えは台風がフィリピン領海で発生して、日本に被害を与えた場合、その被害に対してフィリピンが謝罪する必要のないことと同じことなのです。
私は昔科学者だったので自然現象に対して人間は責任が無いと信じていたのです。
しかし私が間違っていました。トランプ大統領はうちの家内と同じなのです。
「アメリカの166万人のコロナ感染者は中国の武漢の研究所がコロナウイルスを漏らしたのだから責任がある」と主張します。
中国はこの主張に真っ向から反発して謝罪なんてしようともしません。
その結果、トランプ大統領の激しい中国バッシングが続いているのです。
この中国バッシングはアメリカの大衆の感情に訴え、トランプ大統領の再選を大いに有利にします。
そしてアメリカと中国の世界覇権の抗争の戦略上、アメリカが有利な立場になっています。
このトランプ大統領の露骨な中国バッシングは良識的な人々の顰蹙を買うのではないでしょうか。
しかしトランプ大統領の言行の背景を理解することは日本にとっても重要なことです。
以下にある記事を示します。

「トランプ大統領の“中国バッシング”その背景に・・・」
(20/05/13)、https://www.youtube.com/watch?v=eGaP-bSe62s
アメリカと中国の間では、新型コロナウイルスが新たな対立の火種となっています。両国は、新型コロナへの対応を互いに批判しあい、ウイルスの発生源をめぐってもなすり付けあっている状態です。トランプ大統領は、中国への責任追及として、関税の引き上げにも言及。後押しするかのように、上院議員たちは、中国への制裁を課す権限を大統領に与える法案を議会に提出しました。

トランプ大統領が中国に抱く不満は、国内経済の悪化とともに、強くなっている感があります。さらに、見過ごせないのは、このタイミングで中国の海洋進出が活発になっていることです。中国は、先月、西沙諸島と南沙諸島での新たな行政区を突然、設置しました。このころ、アメリカ軍では、空母での集団感染が発生。混乱するアメリカの隙を突くかのように、中国の実効支配は進んでいます。

テレビ朝日・山下達也前ワシントン支局長は「アメリカが中国への批判を強めている理由の1つには、新型コロナの影響が安全保障にも及んできていることがあります。大統領選を控えるトランプ大統領にとって、経済の落ち込みに加え、安全保障で中国に遅れをとったということになれば、ダメージは計り知れない。手遅れになる前に国内の批判をかわしたい狙いがある」と指摘します。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

以上の記事は中国バッシングの背景には、米中の経済戦争と中国の太平洋進出をおさへる意図があると説明しているのです。
米中の経済戦争のことを書き出せば長くなります。そこで最近のアメリカの戦略を一つだけを書きます。
それはアメリカ主導による汎太平洋経済圏構想です。この汎太平洋経済圏はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本、インドなどで経済圏を確立しようとしています。
この構想は明らかに中国の「一帯一路経済圏」に対抗しようとする構想です。

日本は困難な立場に立っています。アメリカの汎太平洋経済圏構想と中国の一帯一路経済圏に対してどのような関わり合い方が最善なのでしょうか? 難しい問題です。
コロナ問題に端を発したトランプ大統領の露骨な中国バッシングで日本はますます難しい立場になっています。
コロナの緊急事態宣言は解除になりましたが日本を取り巻く国際情勢は緊迫しているのです。このようにコロナ問題は世界に甚大な影響を与えているのです。

今日の挿絵代わりの写真は以前に東村山市の公園で撮ったアジサイの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)





「恥多い生活で周囲の人々を悲しませた太宰治」

2020年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
来月の6月19日は太宰治が死んで72年目の桜桃忌です。お墓のある三鷹市の禅林寺は毎年多くの太宰ファンが訪れています。
太宰治は才能ある作家でしたが、荒れた生活で周囲の家族や恩人を深い悲しみの淵に落としたのです。

今日はそんな太宰治(本名、津島修治)をとりまく家族や恩人の苦悩と悲しみの深さを書いてみたいと思います。

1番目の写真は銀座のバー・ルパンで撮った元気だったころの太宰治の写真です。この写真は有名な写真なので皆様もご存知だと思います。写真家、林忠彦の代表作です。
今日取り上げる人々は太宰の結婚の仲人をした井伏鱒二と兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そして妻の美知子と3人の子供、愛人の太田静子と子供のことです。
太宰は昭和23年に山崎富栄と心中しました。享年39歳でした。

(1)恩人の井伏鱒二の深い悲しみ
井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について次のように書いて悲しんでいます。
・・・・少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう。・・・
井伏鱒二は太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んであげ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
東京大学を退学になった郷里へ連れ帰ろうとした兄の津島文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の、荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。その結婚は太宰にしばしの間、幸せな家庭生活を経験させたのです。

2番目の写真は井伏鱒二です。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。以下はその太宰の遺書です。
======妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめ、こちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」・・・

(2)子守の越野タケさんの困惑と悲しみ
太宰治の死を悲しんだのは彼の子守をしていた越野タケさんもでした。
越野タケさんは彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていました。
彼女は小作の年貢米の代わりに13歳で津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。我が子のように愛した太宰が、「津軽の恥さらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
・・・それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
・・・両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。・・・

3番目の写真は晩年の越野タケさんです。

4番目の写真は青森県の小泊にある太宰治と越野タケさんの銅像です。

(3)実兄、津島文治氏の苦悩と悲しみ
さて太宰治の生家は、「斜陽館」という名前で津軽地方の観光名所になっています。津軽地方では太宰の兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた偉い方です。その上、陸奥銀行や津軽鉄道や津軽酒造などの重役を務め実業界でも活躍した方です。この兄は太宰の死を深く悲しみます。と同時に一族の恥さらしが死んで複雑な思いをした筈です。

5番目の写真は兄の津島文治さんです。
文治さんは1923年の父の死後、津島家の当主になり、兄として太宰治の共産党シンパ活動を諌め、金銭の支援をし続け、4回もの心中事件の後始末をしたのです。
太宰治は中学校入学以来、数々の問題を起こし、津島家から勘当されていました。それが許されたのは母が昭和17年に亡くなった後でした。そして結婚して家族を持っていた太宰治一家は昭和20年7月に金木へ疎開してきたのです。
生活の上では「失格者」だった太宰を終始温かく世話をしたのが兄の文治だったのです。
勘当しても世間は津島家の息子と言いますから面倒を見ないわけにはいかなかったのかもしれません。この兄、文治の保護は太宰治が昭和23年、玉川上水へ身投げして愛人と心中するまで続いたのです。
この兄は、政治家として立派な人だったようで青森県知事として1947年に当選し、3期9年間も知事をつとめました。
知事になる前の1946年には衆議院議員になっていますし知事辞任後の1958年から衆議院議員として2期務め、1965年から参議院議員として2期半務めました。
いろいろな業績を残しましたが十和田湖畔の3人の裸婦像、「乙女の像」は文治氏が青森県知事のとき高村光太郎氏に依頼して製作されたものです。
尚、太宰治は1946年の兄の衆議院選挙運動にはリュックサックを背負って駈けずり回ったそうです。それは世話になった兄への唯一つの恩返しでした。津島文治氏は1898年生まれ、1973に亡くなりました。

(4)太宰の奥さんたちの話
太宰と奥さんの美知子の娘の津島佑子さんは作家として良い作品を残しました。山梨県の母、美知子の実家のことを書いた「火の山ー山猿記」という名作を残しました。
さて、最後に、一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。
この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。
私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。
何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸なほど悲惨なものはありません。見合いをさせ、自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。
この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。
一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。
太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。
そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。

太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑子)と、愛人の娘、太田治子も作家として世に出ております。津島佑子の長女石原燃は劇作家で、今月「赤い砂を蹴る」で小説家としてデビューした。
太宰治の孫の淳さんは自民党の衆議院議員です。
いろいろありますが、あまり長くなるので止めます。

(5)太宰治の生家の「斜陽館」にまつわる話
斜陽館は太宰治が生まれ東京帝国大学に入学するまで住んでいた青森県の津軽平野にある大きな家です。
占領軍の農地解放、小作人制度廃止で大地主の津島家が没落し、昭和23年に当主の津島文治氏が同じ金木町の角田唯五郎氏に売り渡しました。
昭和22年、太宰治の「斜陽」という小説が大ベストセラーになったので買い取った建物を、角田氏は昭和23年に斜陽館という名前の旅館にしました。
小説、「斜陽」の甘い、そして悲しい男女の物語と太宰治の文章世界に魅了された人々が宿泊し併設されてあった太宰治展示館を見て帰りました。
この経営方針は始めは成功しましたが、その後、次第に客足も減り、最後は、斜陽館は廃屋同然になっていました。
その後、昭和51年に黒滝氏が買い取りました。
平成8年には、金木町が地域の活性化のためにこの家を買い取り、1億5千万円をかけて復元工事を完成し、太宰治記念館として一般公開しているのです。この金木町の企画は大成功のようで、この「斜陽館」を訪れる観光客が後を絶たないのです。
私も2013年5月30日に訪れました。

6番目の写真はその時撮った斜陽館です。

7番目の写真は斜陽館の内部の様子です。

今日は太宰治を偲ぶ桜桃忌や太宰治をとりまく家族の苦しみと悲しみを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「アイヌ民族の人権蹂躙と北海道土民保護法」

2020年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道には明治32年から平成9年、1997年まで北海道土民保護法という法律が存在していました。法律の名前だけを見るとアイヌ民族の保護を目的にした大変良い法律のように見えますが実態はアイヌ民族の収奪に使われた法律でした。
アイヌの財産を収奪し日本の帝国主義に従った同化政策のための法律でした。
具体的には 次のことを実行するための法的根拠だったのです。
1、アイヌの土地の没収
2、アイヌの収入源である漁業・狩猟の禁止
3、アイヌ固有の習慣風習の禁止
4、日本語使用の義務
5、日本風氏名への改名による戸籍への編入
この法律は 北海道開拓の犠牲となり疲弊したアイヌ民族に対し、和人の立場から見た保護を目的とした法律でした。
アイヌ民族の同化と農耕化を前提に,一戸あたり最大1万5000坪(約5ha)の土地の給付,生活保護,小学校の設置などを主な内容とする立派そうな内容でした。
しかし給付地の全面積は9061haで,アイヌ民族の生活圏だった北海道の全面積の約0.1%にすぎず、その土地の多くは耕作不適地であったのです。
その後、農地改革で多くの土地が没収されます。そして土地給付条項などはその後の改正で削除されます。
1997年5月の〈アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律〉(略称,アイヌ文化振興法)の成立にともない廃止となりました。しかし北海道土民保護法は長い間、アイヌ民族の人権を蹂躙しアイヌ民族の財産を収奪して来たのです。1997年の廃止は遅すぎました。

今日はアイヌ民族の写真を示し彼等の暮らし方を簡単にご紹介したいと思います。
ここに示す写真は大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが130年前に撮ったものです。
小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集から転写しました。









これらの写真が示すように明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。これらの写真は彼がアイヌ人を集めて撮影したと思われます。
北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。
しかし、第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。
そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。
以前、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。敗戦後の仙台の郊外で付き合ってアイヌ人一家のことを懐かしく思いながら感慨深く見て回りました。

明治時代まではアイヌは誇り高い民族だったのです。その民族の名誉を後世に伝えた4人の人を以下に示します。
民族の名誉を守ったアイヌ人、知里幸恵さん、知里真志保さん、川村カネトさん、萱野茂さん。みんなアイヌ民族の豊かな文化を日本人へ伝えたのです。
幸恵さんの事は有名ですが、弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。
萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。
この中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。
彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。

話はそれましたが今日はアイヌ民族の写真を示し彼等の暮らし方を簡単にご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「今日の主の昇天のミサを動画配信で与かりました」

2020年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、https://www.youtube.com/watch?v=r6xTo3Ths-Q で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの主日の主の昇天のミサに動画配信でミサに与かりました。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。





それにしても自宅でミサにあずかれるとは、インターネットは素晴らしく多様な機能を持っているのですね。
これも現代の奇跡です。

「キリスト教を『愛の宗教』と理解出来ないのは何故か?」

2020年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には広く使われていませんでした。
しかしキリスト教によると、神は人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサや、インターネット配信の動画でミサにあずかります。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれるので、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
その他、歴代の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮って来た花々のの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「北海道のロマンと『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』」

2020年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道に行くたびに風景に新しい感動を受けます。ヨーロッパのようです。氷河にけずられた丘がなだらかな曲面を見せ、かなたに白樺林が光っています。四季が巡るにしたがって風景も華やかに変わって行きます。
この北海道には昔からアイヌ民族が住みつて豊かな文化を花咲かせました。
今日はアイヌ民族の文学作品の中から『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』をご紹介したいと思います。尚、アイヌ民族の文学、北海道にまつわる文学作品などの詳細は、http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/pdf/list.pdf に集大成されています。

さて『アイヌ神謡集』は知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多くの叙事詩、「アイヌ神謡集」の冒頭の詩です。後半は省略しましたが、http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html をクリックすると全文を見ることができます。

知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』

「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.

海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,

「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。

この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.・・・以下省略
詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。

この「アイヌ神謡集」を読むと、アイヌ民族は自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。

そして続けて短歌を「若きウタリに」(向井バチェラー八重子)からご紹介します。
(https://researchmap.jp/kaizen/八重子若きウタリに )

ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき
野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
せまき野も ありなば飼はむ 親子鹿 赤き柵など 廻らしてしも

野より野に 草食み遊びし 鹿の群 今はあとだに なき寂しさ
國も名も 家畑まで うしなふも 失はざらむ 心ばかりは

古の ラメトク達の 片腕も ありてほしかり 若きウタリに
夏ながら 心はさむく ふるふなり ウタリが事を 思ひ居たれば
いにしへの ユーカラカムイ 育てにし 姉君今も 在らまほしけれ

愛らるる 子より憎まるる 子は育つ などてウタリの 子は育たぬぞ
ウタリ思ひ 泣き明したる この朝の やつれし面わ はづかしきかな

たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道なきか
灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる
寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は

作者の向井バチェラー八重子の経歴です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/バチェラー八重子 )

1884年(明治17年)6月13日に生まれる。
父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロでした。母もアイヌで、フッチセという名前でした。
父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認します
八重子が13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通い、さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通ったのです。
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となります。22歳のことででした。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となります。

1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命されます。
イギリスから帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開します。
そして1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版されたのです。
1940年12月、太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、養父ジョン・バチェラーは帰国させられるのです。八重子は1962年4月29日、関西旅行中に京都にて死去します。77歳でした。

日本人のことを和人と言いますが、和人はアイヌ民族を差別し迫害しました。その悲劇を美しい短歌にしたのが バチェラー八重子の「若きウタリに」です。

他にもアイヌ民族による文学作品はたくさんありますが、今日はこれで終わりにします。

今日の挿絵代わりの写真は北海道の新緑の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






「幸せに死ぬための終末期医療を実践する山崎章郎氏」

2020年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム
近所に幸せに死ぬための終末期医療の施設があります。山崎章郎氏が作ったものです。
幸せに死ぬためには3つの方法があります。1、神を信じ天国によんでもらう。2、家族、友人に囲まれて医者の治療を受けながら自宅で死ぬ。3、神を信じ、なおかつ医者の治療を受け自宅で死ぬ。
2の方法を実践するシステムを作り、その拠点として「ケアタウン小平」を作ったのが山崎章郎氏です。「ケアタウン小平」は近所なので昨日写真を撮ってきました。「ケアタウン小平」の山崎氏の発想は小金井の桜町病院のホスピスで生まれたのです。
山崎氏の運動のお陰で同様のシステムの拠点が全国に710ケ所もできました。皆さまのお住まいの所にも必ずあると思います。
この拠点のことを在宅緩和ケア充実診療所・病院と言います。それを利用する費用は介護保険が支払います。市役所の福祉課にお問い合わせください。

今日は昨日撮って来た「ケアタウン小平」の写真を示し、山崎章郎氏の考え方をご紹介したいと思います。

1番目の写真が「ケアタウン小平」です。「ケアタウン小平」に隣接する「いつぷく荘」です。

2番目の写真は「ケアタウン小平」です。
ゴルフ場、小金井カントリー倶楽部の樹木群に隣接した土地なので「ケアタウン小平」の敷地にも大木があります。
詳しくは、http://caretownkodaira.net/npo/ をご覧下さい。

3番目の写真は山崎 章郎氏です。
山崎 章郎(やまざき ふみお)は1947年に福島県で生まれました。1975年、千葉大学医学部卒業し、1984年、千葉県八日市場市(現匝瑳市)市民病院消化器科医長になります。1991年、小金井市のカトリック聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長になります。
そして2005年に在宅診療専門診療所のケアタウン小平クリニックを作りました。1991年、『病院で死ぬということ』で日本エッセイストクラブ賞を受賞し、1993年に市川準監督で映画化のされました。

さて山崎章郎氏の考え方のご紹介をしたいと思いいろいろ調べました。
その結果、次のインタビュー記事の抜粋をお送りすることにしました。インタビュー記事の全文は、
https://www.jusei-news.com/gyoukai/topics/2018/10/20181001_01.html に出ています。
山崎章郎氏は〝患者さんのための終末期医療を提供するには、如何すれば良いか〟として自問自答、葛藤を続け、聖ヨハネ会桜町病院ホスピスで実践し、在宅ホスピスケアのための「ケアタウン小平」を作ったのです。

(1)山崎院長のこれまでの歩みを教えて下さい?
私は1983年に1年間大学病院を休み、船医として、前半は北洋のサケマス船団、後半は、南極海底地質調査船で働きました。後半の南極海で、故エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」という本を読んで、感銘を受けました。船をおりてから再び外科医として勤務していましたが、今までの自分の終末期医療に対する考え方が全く変わってしまいました。
1980年代の頃は、未だガンの告知もされていない時代で、亡くなる時は必ず心臓マッサージや蘇生術等をした後に、初めて〝ご臨終です〟と言えるような時代でした。そこで私は、終末期医療の一つ一つの行為の在り方について確認をしていきました。その本を読んで、臨終の場面で蘇生術を行うというのが本当に正しかったかどうかを考えることになり、家族の人たちに〝もう直ぐ臨終は近いけれども、心臓マッサージは出来ますがどうしますか?〟と尋ねると多くのご家族から〝静かに見守りたい〟と、断られました。そういうことを積み重ねてきた訳です。人生の主役は本人ですが、その当時、がんの告知はタブーでしたので、自分は何で死んでいくのか分からないままに殆どの方が死んでいきました。これはおかしいだろうということで、タブーだった末期の癌告知をするようになりました。

(2)桜町病院には何年位いらしたのでしょうか?
桜町病院ホスピスには1991年から2005年までの14年間勤務しました。ホスピスケアは、人生の終末を過ごさざるを得ない人にとって、大切なケアですが、医療保険制度に基づいたホスピス(緩和ケア病棟)では、そのケアは終末期がんの人たちにしか出来ませんし、ホスピスに来られた患者さんしか診ることが出来ません。また、患者さんの多くはホスピスに入院したことをとても喜んでいたけれども、やはり〝本当は家に居たかった〟という人も多かったのです。家に居たかった人と癌ではない人も診るためには、ホスピスのチームが家に出向けば良いのです。しかしそれにはどうしたら良いかと考えた時に、ホスピスのチームが地域に出やすいような拠点を作ろうとなったのです。「医療」と「看護」と「介護」のチームが一か所にあれば、いつでもカンファレンスも出来ますし、それはホスピスと変わりません。距離3から4km圏内の所に行きますが、その患者さんに関わる職種は皆同じ所に戻ってきますから、桜町病院ホスピスのケアと変わらないケアが出来るだろうと思って、そのために必要なハードを作ろうとなりました。

(3)「ケアタウン小平」は、幸運にも理想とされる場所を見つけられたということでしょうか?
ここまで来たのはそんなに簡単ではないんですよ(笑)。地域の中でホスピスケアをというケアタウン小平構想に、桜町病院ホスピスでコーディネーターとして一緒に仕事をしていた長谷方人氏が、共鳴してくれて、ホスピスを辞めて「暁記念交流基金」という不動産会社を立ち上げてくれたのです。そして、ハードは私が担う、ソフトは先生が担ってと言うことになったのです。実際に1年近く土地探しをして、あの頃はバブル崩壊の時期で、銀行が土地をいろいろ手放していて、ここは東京都民銀行の運動場の跡地だった所です。この「ケアタウン小平」の一階部分の多くは、大家である長谷さんから借りているんです。また、ここの建物を運営するのは1階だけの収入では無理なので、であれば2階3階はアパートにしようということで、「いっぷく荘」というアパートになりました。「いっぷく荘」も大家さんが管理しています。

(4)いま、地域包括ケアシステムが推進されていますが、そのモデルのような場所という感じがします。
ケアタウン小平チーム活動当初は、よく厚労省の方がお見えになっていました。地域包括ケアシステムの旗振り役を務めておられる当時厚生労働省の事務次官をされていた辻さんも何度か来られて〝此処は一つの理想ですね〟と仰られて、いろんな講演等でもモデルとして「ケアタウン小平」をよく紹介してくれました。我々自身は、地域包括ケアシステムという構想をもっていた訳ではなく、地域の中でホスピスケアをしようと思って取り組んで来たのです。ただし、地域の中でのケアというのは、生活継続の上で出来るものであり、医療だけでは出来ません。必然的に医療と介護が連携を組まなければ、地域の中で最期まで暮らすことは出来ないということは、最初から分かっていました。
・・・以下省略します。

さて患者の尊厳を守る終末期医療の考え方は欧米では数十年前から根ずいています。
日本のこの分野は数十年遅れていたのです。日本では個人を尊重するという文化が弱く、この文化が患者の尊厳を守る終末期医療の導入を遅らせたと私は個人的に思っています。残念なことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「新型コロナウイルス問題で何故失業する人が多いのでしょうか?」

2020年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のコロナウイルス問題で多数の会社が倒産しました。多数の人が解雇されました。交通機関を運営している会社や、ホテル、旅館業や、居酒屋などの外食産業や、接客サービス業などなどで数多くの人が解雇され、また多数の会社が倒産しました。
今日は日本の非正規雇用の人の解雇とベンチャー企業の倒産の問題を取り上げて考えたいと思います。
日本社会では何故失業する人が多いのでしょうか?
結論を先に書けば次の2つが原因になっています。
(1)非正規雇用の人口の拡大
(2)経営基盤の脆弱なベンチャー企業の数の拡大
最近の日本人は正規雇用で大会社で働くことを嫌います。会社によって個人の自由が束縛されることが嫌いなのです。
仕事が気にくわない時にはすぐに辞められる非正規雇用のほうが理想的という社会風潮なのです。
そして大会社で奴隷のように働くなら自分でベンチャー企業を作り大会社の束縛から離れ自由に企業活動をした方が良いと考える人が増えたのです。
しかしこの2つの考え方には大きなリスクがあるのです。今回のコロナ問題がこの2つの考え方のリスクを浮き彫りにしたのです。

そこで上記の(1)と(2)の問題を考えてみたいと思います。
(1)非正規雇用の人口の拡大と日本の貧困率の増大
生活に充分な厚生年金を貰っている高齢者と毎月5万円の国民年金だけを貰っている人の間の格差は増大しています。
正規社員と非正規社員の間の格差も増大しています。能力主義による正規社員の間の年収の格差も増大しつつあります。
日本の貧困率は先進国の中ではアメリカについで2位です。日本より貧困率の低い国はオーストラリア、イギリス、カナダ、ドイツ、フランスなどなどです。

そして正社員の比率が大きい製造業は生産拠点の海外移転などで雇用が減り、パートの多い小売やサービス業で働く人の割合が高まっているのです。
なかでもパートやアルバイトとして働く人が多い女性は、2012年にはすでに非正規の比率が57.5%と、半数を大きく上回っているのです。現在はもっと増えています。
さらに 正社員だった人が転職の時に非正規になる流れも強まっています。
ある調査では過去5年の間に転職した人を見ると、転職前に正社員だった人のうち40.3%が非正規になったのです。
この状態でコロナ問題で経営の苦しくなった会社が非正規社員を辞めさせるのです。その数は非常に多くなります。辞めさせられた非正規社員は文句も言えません。それが日本社会の現状なのです。

(2)経営基盤の脆弱なベンチャー企業の数の拡大の問題
1990年ころのバブル経済の崩壊によって日本は長い不況に苦しみました。
政府や経済産業省などの省庁では何故不況が長期になるかを研究しました。
そのなかで経済産業省はアメリカの経済社会構造を調査しベンチャー企業が経済活性化の鍵になるという考えを出したのです。
特に日本の大学、官庁、民間の協力によるベンチャー企業の創出が重要と判断し、それを促進するいろいろな政策を実行しました。
所謂「産学官連携推進運動」の諸政策です。とくに平沼氏が経済産業大臣のとき全国の大学からベンチャー企業を1000社創出させる社会運動を起こし、関連諸政策を進めてきたのです。
社会運動としては非常に意義深い方針でしたが大学発1000社運動は失敗に帰しました。
日本の大学は教育や研究の閉鎖的な組織なのです。アメリカの大学の人々のように気軽に大学を辞めてベンチャー企業を起こす人などは非常に少なく、皆無と言っても過言ではないのです。
ですから「大学発1000社運動」は机上の空論でした。

そして政府はベンチャー企業に対する強力な資金援助はしませんでした。その上日本の銀行は安全主義で大会社とのみ取引しベンチャー企業を見向きもしません。
この状態でコロナ問題が起きれば多数のベンチャー企業が倒産するのは当然ではないでしょうか?

今回のコロナ問題で日本で貧困になり食物に困っている人が増大する原因は日本社会の在り方にあるのでしょう。

それでは非正規雇用の人口とベンチャー企業の数の多いアメリカではどうなっているでしょうか?
コロナ問題で失業する人が多いのは日本の状態と同じです。しかしアメリカの社会では慈善事業が非常に盛んなので貧困の故に食べ物が無いという悲劇は少ない筈です。
また倒産するベンチャー企業は多いでしょうがアメリカの銀行はベンチャー企業を支援する文化なので再起は容易なのです。アメリカの銀行は担保がなくてもベンチャー企業の企業計画が独創的で有望ならば資金を提供します。そういう精神がアメリカの銀行の文化です。アメリカでは倒産の悲劇が緩和されていると考えられます。

今日は日本の非正規雇用の人の解雇とベンチャー企業の倒産の問題を取り上げて考えまっした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵代わりの写真は私が好きなトルコキキョウの花です。
1番目の写真の出典は、http://floatbridge.blog61.fc2.com/blog-entry-42.html です。2,3,4番目の写真の出典は、
https://horti.jp/2287 です。5番目の写真の出典は、
www.aoyamahanamohonten.jp/blog/2017/08/07/トルコキキョウの日本一の生産現場を訪れました/ です。









梅雨入りのこの季節、北海道の爽快な風景に憧れる

2020年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ梅雨です。最近は梅雨のような雨が降り続いていて憂鬱です。梅雨の時期は太陽の光を諦めて日々を過ごします。そして、梅雨という季節の無い北海道の風景を想い憧れます。
そこで「後藤和弘のブログ、北海道の風景写真」というキーワードを検索しました。
今日は爽快な北海道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は長万部町の静狩の牧草地風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの牧場には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

2番目の写真は北海道の稲作地の風景写真です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景の丘が北海道らしい風景です。空には白い雲が流れ爽やかな風景です。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

3番目の写真は私が撮ったルピナスやマーガレットの花の写真です。2016年5月12日の「後藤和弘のブログ」の記事に掲載した写真です。

4番目の写真は道端に咲いていたアヤメです。同じく2016年5月12日の「後藤和弘のブログ」のブログ記事に掲載した写真です。
北海道では5月頃からルピナスやマーガレットやアヤメの花などが咲きだして美しい野原が広がっています。そして街路樹のアカシアも咲き出します。本州では季節ごとにずれて咲く花々が5月や6月に一斉に開くのです。
白樺や楡の木やブナノキの若葉が萌え、北海道の風景は急に華やかになります。

5番目の写真はシバザクラです。木に咲くサクラと違って地面にじゅうたんのように広がって咲くのが「シバザクラ」です。花の形はサクラに似ており、芝生のように広がることからこの名が付いています。
写真の出典は、旅行情報ブログ、https://www.t-marche.com/tripper/article/970/ です。

それにしても北海道に梅雨の季節が無いのは羨ましいです。北海道の風景に魅了され何度も訪れました。しかし現在はもう元気が無くなりました。それも自然なことと思いますが、北海道の写真を見ていると毎日の梅雨の季節の憂鬱な気分が吹き飛んでしまいます。
皆様も爽快な気分になられたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

戦没馬の鎮魂記、加藤康男著「靖国の軍馬」

2020年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
大学時代からの友人の竹内義信さんが一冊の本を送ってくれました。
加藤康男著「靖国の軍馬」(祥伝社刊)という本です。「戦場に散った100万頭」という副題がついています。
日清戦争では13万頭、日露戦争では47万頭、そして日中戦争から太平洋戦争では数十万頭、合計ほぼ100万頭の馬が戦死し日本に帰った馬は1、2頭と書いてあります。
私はこの本を手にして、いろいろな感慨の襲われました。まず虚を突かれたような気持ちになりました。知らなかった戦争の悲劇です。優れた戦没馬の鎮魂記です。戦死した馬たちへの哀惜の念に心打たれます。
この本は戦争の残酷さを浮き彫りにしています。平和を願う人々は皆読むべき必読の書です。
内容を少し具体的にご紹介します。
戦争では日本軍がいかにして馬を全国から集め大陸や南洋の最前線で軍馬がどのような運命をたどったかを克明に調べ上げた本である。
前線で馬たちは斥候の足となり、重い火砲を引き、糧食を前線に送り続けたのです。そしてほとんどは敵弾に倒れ、祖国に戻れたのは数頭だけだったのです。倒れた軍馬たちを悼んで戦後、靖国神社に「戦没馬慰霊像」が建てられました。
本の目次です。
第1章 靖國神社の軍馬慰霊像
第2章 国民の歌・国民映画と軍馬
第3章 天皇の馬
第4章 輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち
第5章 テンノウサマの馬が泣いている
第6章 前線の軍馬はどう記録されたか
第7章 世界戦争史、最後の騎兵戦「老河口作戦」

そして著者の加藤康男の略歴です。
1941年、東京生まれのノンフィクション作家です。出版社勤務で雑誌や文芸書の編集に長く携わり、その後独立しノンフィクション作家になりました。
『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書)で、山本七平賞奨励賞を受賞しました。

文章は読みやすくこの本の目次のどの部分を選んで読みはじめても良いように構成されています。
例えば俳優の池部良が太平洋戦争で馬69頭を抱えた小隊長としていた時の体験には驚かせられます。池部少尉が69頭とともに輸送船に乗っていたときアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け輸送船は沈没します。池部少尉や兵達は助かりますが馬は皆海没し戦死したのです。同じ輸送船に乗っていた500頭の馬たちはことごとく海の藻屑となりました。これが戦争です。

さてこの本を読んだ人はどのような感想を持ったでしょうか?
いろいろな感想文がありましたが、高校時代に馬術部だった宮崎さんのブログから感想文をご紹介いたします。
(https://blog.goo.ne.jp/singcang/e/ba6fbd594cd71df6645cf57028833c6f )
・・・・・靖国神社へ行く所用ができた。本書にしたがって、境内右奧の小さな広場に建つ『戦没軍馬慰霊像』を拝観し、合掌した。
 戦争馬の運命を著者は克明に辿った。珍しい記録である。
私は高校時代、馬術部でした。
 朝夕の馬の手入れ、食事、便の処理、食料の確保と配合など、乗馬の裏を支える作業の重要性も知っているが、なによりも馬術部での貴重な経験とは、馬が人間の心理を読み取り、そして賢い馬には精神が宿り、仕草によって会話が成立することである。
じつに賢い動物なのである。
 そしていまひとつ教わったのは蹄(ひづめ)の重要さです。
日本の馬は草原や農耕地を走るので、岩盤や曠野を走った大陸の馬とことなり、明治時代まで蹄を必要としなかった。
箱根などを超えるときに草鞋を履かせたが蹄鉄はなかった。
 日本の馬は小粒であり、堂々とした体躯で長距離を疾駆するわけにはいかなかった。
だから日清・日露戦争を前にして、日本は急遽、フランスとドイツからヨーロッパの軍馬に必要な蹄鉄技術を学び、外国人技術者を招聘し、学校も開設し、蹄鉄技術をマスターし、騎馬戦を戦った。
 加藤氏によれば「西欧式蹄鉄文化が入ってきたのは江戸末期のことで、歌川広重などの浮世絵に描かれた馬はみな草鞋姿である。
 ・・・以下省略

蛇足ながら私の妻も学生時代に馬術部だったこともあり馬の賢さをいろいろ聞いています。観光旅行をすれば馬の居る場所を訪れます。今日の挿絵代わりの写真はそんな折に撮った馬たちの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)