後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何も考えずに相模湾の海を眺めて日が暮れる

2015年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は晴天でした。午前中は教会のミサに行きます。そして午後は中央高速の八王子インターから圏央道に入りそのまま真っ直ぐ南に走り茅ケ崎漁港脇きの広大な砂浜に出ました。
そこで何も考えずボーッと海を眺めて帰って来ました。帰宅しても相模湾の風景が網膜に焼き付いていて長い間海を見ている気分でした。そしてそのまま日が暮れて一日が過ぎ行きます。
何も考えなかったので書くことがありません。
昨日撮った海の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

上の写真は茅ヶ崎の西の方向の海です。右の方向に富士山が見える筈ですが昨日は雲の中でした。遠景の山並みは伊豆半島でしょうか。

上の写真は沖の方に時々見える太陽の写真です。にぶく輝く海面にサーフィンをしている人々の姿が影絵のように見えています。

上の写真はドドーンと絶え間なく打ち寄せる波の写真です。沖の方から弱い風が吹いているのか懐かしい潮の香がまわり一面に漂い、アア、海を眺めているんだと何となく幸せな気分になります。

上の写真は東方向の浜辺です。後ろの消波ブロックの向こうが茅ケ崎漁港です。

上の写真は広大な無料駐車場の写真です。湘南海岸で一般車両が砂浜まで直接入れ、その上無料駐車場のあるところは茅ヶ崎海岸だけです。
湘南道路の「茅ケ崎漁港入り口」という標識のある交差点を海の方向に曲がるとあります。
サーフィンを楽しむ人。海をただ眺めている人。車の中でコーヒーを淹れている人。子供を思う存分走りまわさせている人。広い砂浜をペットと一緒に歩いている人。スケッチを描いている人。皆が静かに時の流れを楽しんでいるようです。
皆様も一度お出掛けになってみませんか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

中東の混戦を見て太平洋戦争のことを思い出す

2015年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム





先日この3枚の写真のような国立市の青柳北緑地を散歩しながら考えたことす。
中東の戦乱はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスなど数多くの欧米諸国とサウジアラビア、アラブ首長国連邦、などが連合してイラクとシリアに展開している反体制派武力集団とイスラム国に熾烈な空爆を連日続行しています。その結果、何百万人という難民が各地に発生しているのです。人類の大きな悲劇です。
青柳北緑地を散歩しながらこの中東の戦争の結末は一体どのようになるのだろうかと考えていました。欧米諸国が中東から手を引き、アラビア半島や北アフリカをいろいろなアラブ民族の自治に任せるようになるでしょうか?
現在の混乱した中東の戦争を観察していると、このように簡単な結末にはならないようです。
そこでその比較として太平洋戦争の事を考えていました。この戦争では日本の軍隊をアメリカ軍が完膚無きまでに打ち砕いたのです。勝ち負けの明白さを見ると理解しやすい戦争でした。
この太平洋戦争の結果起きたアジアの植民地の独立について以下に簡単に書いてみます。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参戦した日本は、快進撃を続け、瞬く間に東南アジアを占領してしまいました。
その地域はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地だったところです。
ですからその地域の日本軍の占領は植民地の解放とも強弁できます。
欧米人を追い出し、大東亜共栄圏という経済圏を作るというのが日本が主張した大義名分でした。
建て前はそうでも、多くの日本人の本音は自分たちの植民地にしようという意図だったのです。それが証拠には日本は既に台湾や朝鮮を領有しており、満州という傀儡国家も作っていたので言い逃れは出来ません。
もし日本が本気で植民地の解放を目的にしていたなら、占領と同時にその地域の独立を宣言し、新しい国家へ自治権を与え、国家の建設に協力すべきでした。
随分と後になってから東條総理は各地の首脳を東京に集め、大東亜共栄圏を作るためのアジア会議を開催しましたが、各国の独立を直ちに認めようとはしなかったのです。
しかし1945年の夏に日本が敗北するとビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリッピンなどが一斉に独立運動を開始したのです。
ベトナムでグエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍が、曾ての宗主国であるフランスと激しい戦争をして勝つのです。
そしてスカルノ将軍の率いるインドネシア軍も、宗主国のオランダに勝利して独立を勝ち取るのです。
4番目の写真の図面は日本が占領する前の東南アジアの植民地を地図で示したものです。

(この図の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm です。)
そしてインドネシアの独立戦争に現地に残留した日本兵が多数参加したのです。
従って、独立後のインドネシアは非常に親日的な国になりました。
ベトナムでも多数の日本兵がホーチーミンの部下としてフランス軍と戦ったのです。その実態は、「外国体験のいろいろ(5) 温顔の将校ホーチーミン」と題した記事に書いてあります。
太平洋戦争の初めの期間は日本軍がイギリス、フランス、オランダ、アメリカの軍隊を蹴散らし、イギリスの戦艦ウエールズも撃沈してしまったのです。
白人の国家の軍隊を日本人がいとも簡単に打ち破ったのを見て、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールの人々は勇気づけられたのは自然なことです。「やれば自分たちにも出来る」と独立戦争に立ち上がったのです。
ですから第二次世界大戦に日本が参戦し、快進撃を見せて、その後、間もなく敗れた事実が東南アジアの植民地の独立のキッカケになったことは間違いの無い事実です。
現在は学校で教える歴史には残っていませんが、敗戦後各地に起きた独立戦争に日本軍からの志願兵が多数参加したことは忘れられない事実です。
従って対日感情の良い国々はビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールです。
西のインド、バングラディッシュ、パキスタンも対日感情の非常に良い国々です。
しかしフィリッピンだけは例外です。占領した日本軍がアメリカへの恨みから、かなり残酷な占領政策を敷いたのです。例えば戦後、アメリカが宣伝したバターン死の行進がその例です。フィリピンの軍隊はアメリカ軍と言いましたが、大多数のフィリピン人が参加していたのです。
朝鮮半島と中国本土でも日本軍の政策は過酷なものでした。現在、対日感情の悪いのは仕方がありません。それと対称的に台湾は対日感情が良いのは日本の政策が良かったからのようです。
アジアの植民地の独立はやがてアフリカにも波及します。そして現在はこの地球上に植民地がほとんど無くなってしまったのです。
このような事は人類の歴史に空前のことです。そのキッカケを作ったのが日本の参戦と快進撃と敗北でした。日本が参戦しなかったら世界中に数多くの欧米の植民地がまだそのまま存在していたと思います。
日本が植民地を手に入れようとして参戦し、快進撃をし、その後敗北したことが皮肉にも世界中から植民地を無くしたのです。歴史の不可思議さに打たれます。
動機は立派でなかったが結果は立派だった場合に、それをどのように評価するかは人それぞれです。しかし激動の昭和時代を客観的に見直すと、日本が世界へ与えた影響の大きさは率直に認めざるを得ません。
この太平洋戦争と現在、中東で起きていて戦争を比較すると明快な違いがあります。
太平洋戦争の敵と味方は明快でした。日本はアメリカ、オーストラリア、蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産党軍と戦ったのです。
中東における戦争はどの国が敵で、どの国が味方かが明快に分からないのです。
この状況はヨーロッパの17世紀に起きた30年戦争とよく似ています。国家の大義名分と領主の私利私欲が複雑にからみあい欧州のほとんど全ての国々を巻き込んだ国際戦争が30年も続いたのです。
この中東での混乱した戦乱に日本はどのようにかかわったら良いのでしょうか?
実に困った問題です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======
外国体験のいろいろ(5)◎ 温顔の将校ホーチーミン
2007年11月14日、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に掲載記事の抜粋:
第二次世大戦後ベトナムに残留し、ホーチーミンの部下としてフランスと戦った二人の日本兵と一人の銀行家から1990年に直接聞いた話です。
以下はフランス軍と戦った日本兵の話です。
「作戦の最中、川を渡ることがしばしばあった。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡るのです。軍隊では当たり前の習慣でした。残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡るました。ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのが見えました。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っています。こんな場合、日本軍出身の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動を続ける。ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しないし、そんなことを期待もしてない。しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです」
ベトナム兵の士気が上がるのは当然であろう。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言っていました。
  @日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返した。F氏とY氏になぜ残留したのですかと聞いた。「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人のH氏は元横浜正金銀行の幹部であった。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
以下省略。

晩秋の公園を歩きながら人生は邯鄲の夢としみじみ想う

2015年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

上の写真は武蔵野公園のススキの原です。
昨日は久しぶりに青空が広がり晩秋の空が輝いています。午前10時前に武蔵野公園に行きました。誰もいない公園には初冬のような寒い風が吹いています。今年は紅葉が遅いようです。
尾花の原のそばを独りで歩いていると自分の人生がアッという間に過ぎ去ったという感慨にとらわれます。唐の沈既済が人生は邯鄲の夢だと言ったのがしみじみと本当だと思います。
来年の1月には満80歳になります。昨年から足が弱くなりもう山には登れません。
このように平らな公園なら杖を使えば4Km位は歩けますが山道は無理です。
昨年の初めまで高尾の小仏峠や城山に登っていたのが嘘のようです。
脚が弱いので山登りをしなくいても良くなり、ホッとしています。しかし邯鄲の夢も間もなく店仕舞いです。
それが悲しくもあり嬉しくもあるのです。何故か充実感も感じるのです。
そして毎日生きているだけで幸せを感じこの世に感謝したくなるのです。
これが老境の幸せなのでしょう。
静かで平和な公園を独り歩きながらしみじみとした幸福感に包まれるのです。
下にもう少し公園の風景写真をお送りします。
そして参考資料と」して「邯鄲の枕」という唐時代の小説が日本にいろいろな影響を与えた様子を示してあります。日本は本当に中国の文化に深い影響を受けていたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











====参考資料===========
邯鄲の枕:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95
邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。
「由来と同義語」
趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
中国においては粟の事を「黄粱」といい、廬生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。
同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。
能『邯鄲』
能『邯鄲』は、『邯鄲の枕』の故事を元に作られた能の演目である。しかし道士・呂翁にあたる役が、宿屋の女主人であり、夢の内容も『枕中記』とは異なり、『太平記』巻25などに見えるような日本に入ってから変化した『邯鄲の枕』の系譜上に位置づけられると言えよう。舞台上に設えられた簡素な「宮」が、最初は宿屋の寝台を表すが、盧生が舞台を一巡すると今度は宮殿の玉座を表したりと、能舞台の特性を上手く利用した佳作である。
なお、盧生の性格や描写から憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し、能『邯鄲』の盧生役のほか、能『高砂』の住吉明神などの若い男神の役でも使用される。
芥川龍之介は能『邯鄲』をモチーフにして『黄梁夢』という作品を書いた。また三島由紀夫は『近代能楽集』の中に能『邯鄲』を現代風の戯曲に翻案した作品を書いている。また古井由吉にも『邯鄲』をモチーフに『邯鄲の』という作品を書いている。
邯鄲師
邯鄲とは古くは、宿泊して目覚めたら就寝中に盗難の被害にあっていたという状況を指す。また宿泊施設で宿泊客の就寝中に盗みを働く者を邯鄲師(かんたんし)といい泥棒の一種であり、また枕探しとも言う。
古くから日本では宿屋(旅館)の客室に鍵はなく、また相部屋も多かった。そして習慣として枕の下に金品を隠す事が多く、泥棒も安易に盗みを働く事が出来た。ゆえにそれを専門とする者を「枕探し」といったのであるが、湯につかりご馳走を食べ極楽気分で床(とこ)に就いて目覚めたら不幸のどん底に落とされるという体験と正式な題名である「邯鄲の枕」の枕を掛けて邯鄲にあったといい、それを行う者を邯鄲師といった。
曲芸「邯鄲夢の枕」
邯鄲夢の枕(かんたんゆめのまくら)とは、軽業師や曲芸師の技の一種。演芸場や見世物小屋などで見られた。「邯鄲は夢の手枕」、「邯鄲の夢」や「邯鄲の手枕」などと呼ばれ、ただ単に邯鄲ともいわれた。
涅槃仏の様に肘を付いて手を頭に添え横臥体勢を取り、この状態のまま空中浮遊をするという技である。今は観る事は出来ないが夏目漱石の『我輩は猫である』や上方落語の『軽業』の一節に描かれている。(現在この技を伝承する者がいるのかは定かでない)そして手枕をすることが、この曲芸の種の一部であり、枕と寝る姿勢をとる事や軽業師の他の芸と比べると軽業より手品に近い事もこの技の命名に一役かっている。

ロシア軍機の撃墜とパリの同時テロの原因の一つ

2015年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシア軍機の撃墜とパリの同時テロは悲しい事件でした。そして遠方に住んでいる我々には理解し難い事件でした。
中東で起きている戦乱の原因は中世の十字軍とヨーロッパの植民地主義の代償です。その犠牲になったイスラム教の諸民族が復讐をしているのです。日本は十字軍にも植民地主義にもかかわりが無いのでイスラム教の諸民族から復讐されません。
このような考えがマスコミやインターネットによく見られます。
これだけの原因でロシア軍機の撃墜とパリの同時テロが起きたのでしょうか?
もっと直接的な原因があったに違いありません。
例えばロシア軍機の撃墜に関してはもっと直接的なトルコのロシアに対する怨念があった筈です。
それは以下のように考えられます。
トルコのロシアによる領空侵犯が繰り返され国家の威信が傷つけられただけではありません。トルコ国境に沿ったシリア領内のトルコが支援していた反体制派をロシア軍機が連日猛烈な空爆を加ええていたのです。この反体制派はトルコ系のトルクメイン民族です。
領空侵犯機を撃墜するのは国際的に認められた正当な行為です。トルコがロシア軍機を撃墜しても国際的には非難されません。トルコは躊躇しませんでした。
墜落したロシア機はシリア領内のトルクメイン反体制派の地域に落ちました。パラシュートで脱出した2人のロシア兵の1人を反体制派の武装集団が射殺しました。救助に向かったロシア軍のヘリコプターもトルクメインの武装集団に襲われます。この凄惨な状況こそロシアに対する怨念の凄さを示しています。
怨念といえばトルコは第二次大戦中はソ連に攻め入ったドイツ側に立っていたのです。ですからトルコはソ連の敵でした。
ドイツに行ってみると、ドイツ人はトルコ人を優遇し戦後多数のトルコ人移民を受け入れたことが分かります。
多数のトルコ系の人が住んでいます。ドイツにトルコ料理のレストランが多いのもこのせいです。
その上トルコを主体にしたオスマン帝国はロシアと激しい敵対関係にあったのです。
このようなトルコとロシアの抗争の歴史が今回のロシア軍機の撃墜の原因なのかも知れません。このように考えればこの悲劇の性質がより深く理解出ると思います。
さてそれではパリの同時多発テロの直接的な原因は何でしょうか?
直接的な原因はフランスがシリア内のイスラム国の拠点を爆撃しているからです。その報復としてパリで多発テロを行ったという理解がされています。
しかし事情はもう少し複雑です。それは同時多発テロの数人の実行犯が「れっきとしたフランス人」だったことが示しています。イスラム国の支援を受けたフランス人が自分の国のフランス人を130人も殺したのです。
この事件の実行犯は元フランスの植民地だったアルジェリア系のフランス人だったのです。
フランスにはアルジェリア系のフランス人が多数住んでいます。
努力してフランス社会に溶け込んだ人は問題を起こしません。しかし大多数はフランス社会で阻害され差別され貧困にあえいでいるそうです。
そのような差別の報復としてこの貧困層が実行犯になったのです。フランスで生まれ育った彼らはパリの地図に詳しく警察の警備の弱点もよく知っています。民衆を犠牲にするテロは彼らにとって易しいことだったのです。
ですからパリのテロはイスラム教と直接的な関係が無いとも言えます。むしろフランスの階級制と排他性にあったと理解すべきと考えられます。
この階級制と排他性はヨーロッパ諸国にある伝統です。
ドイツ人はイギリス人を差別します。フランス人やイタリア人を軽蔑する傾向があります。フランス人はドイツ人を田舎者と言います。こんなことは昔ドイツに住んでいた時にさんざん見聞きしました。
しかしドイツにはイギリス人もフランス人も沢山住んでいます。それにもかかわらずお互いに排他的になっているのです。
これこそがヨーロッパ文化の特徴です。その結果、各国に独自の素晴らしい民族文化が発達したのです。その反面弊害も生まれます。ヨーロッパはアメリカ流の自由と平等とは違う文化圏なのです。
アルジェリア系のフランス人がパリの同時多発テロの実行犯になった原因は現在のフランス社会の差別と貧困が原因なのです。決して遠い昔の植民地政策の報復ではありません。自暴自棄になった貧しい若者がイスラム国の勧誘に負け実行した事件なのです。
全ての民族文化には良い面と悪い側面があります。今回のパリの多発テロの原因にはフランス社会の排他的な文化にあると言ってもそれほど大きな間違いは無いと思います。
今回の事件は日本にとって対岸の火事のように関係の無い事件なのでしょうか?それは人それぞれ違った感想があるのが当然です。上に書いたことは私の個人的な感想です。正しいと主張する気持ちはありません。
今日の挿絵の写真は神代植物公園の平和な風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





淋し気な晩秋の多摩川の流れ

2015年11月26日 | 写真
午後に雨が止み薄日も射して来ました。
晩秋の多摩川の写真も良いのではないかと思い先程、府中の郷土の森公園のそばの多摩川の岸辺を散歩しながら写真を撮ってきました。
多摩川は奥多摩の峰々からの清流を集め青梅市の上流は急流の渓谷美を見せています。そしてその下流の羽村の堰から府中市にかけては流れも穏やかになり、岸辺から眺めると悠然とした気分になります。
調布市から下流の羽田空港の傍までは川幅も広がり河川敷には野球場などのスポーツ・グランドがあります。
以下に示す写真は中流域の風景で対岸には連光寺の高台が豊かな自然を見せています。
今日は曇り日で冬のように寒い日でした。淋し気な晩秋の多摩川の流れの風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。





ヨットの趣味で体験的に理解出来たヨーロッパ文化の素晴らしさ

2015年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、いろいろなことが起きるものですね。今朝の新聞を見たら原節子さんが亡くなっていました。戦後たくさんの映画を見て憧れていた女優です。引退後は完全に姿を消すという毅然とした大女優でした。女優の矜持を守った生き方にも感心していました。淋しくなります。・・・・原節子さんのあの世での幸せをお祈りいたします。・・・・
さて混迷の続く中東に目を向けるとトルコがロシアの攻撃機を撃墜しました。領空を侵され、シリア内のトルコ系のトルクメイン反体制軍をロシア機が爆撃していたからです。その上トルクメイン反体制軍はパラシュートで降りて来るロシア兵を銃撃して殺してしまったのです。救助に向かったロシア軍のヘリコプターも攻撃されました。
この予想もされていなかった事件で、アメリカとフランスが頭を抱えています。シリア情勢はますます混迷を深くしているのです。
この中東の混戦状態を見ると、アメリカ人、ロシア人も含めてヨーロッパ人は残忍で戦争が好きな人々のように見えます。
その文化には暗い闇がひそんでいるようです。
しかしその一方、ヨーロッパ文化には素晴らしい側面もあるのです。それは人類の歴史に燦然と輝く文化なのです。音楽・絵画・建築・文学などなど、人類の叡知と優れた感性を示しました。
その素晴らしさを全て理解することは非才な私には出来ません。
しかし25年続けたヨットの趣味を通じてその素晴らしさの一部を体験的に理解出来たのです。今日はそのことを書いてみたいと思います。
本で読んだり、想像したりして「理解したつもり」のヨーロッ文化ではないのです。机上の空論ではなく体験的に理解出来たことです。
25年間、独りで、ヨットという西洋の小型帆舟を走らせて骨身に沁みたことを書きます。それは「帆船はヨーロッパ文化の神髄」という私の体験的理解なのです。
一般に日本人はヨットに関心がありません。
まず2008年に撮った帆走中の4隻のヨットの写真を示します。場所は霞ヶ浦の土浦の沖です。

上の写真はディンギーと呼ばれる小型のヨットです。
この小さな帆舟には三角形の2枚の帆がついていて写真の右の方向に走っています。それも帆の開き方から風上に向って走っているのが分かります。
風に向って走れる帆舟を改良に改良を重ね、完璧な構造を作ったのがヨーロッパ人なのです。
中国の船も日本の船も風上にはほとんど登れないのです。

上の写真は西洋の帆舟をもう少し大きく写した写真です。
真ん中に胴体の中に、「船室」のあるヨットが2隻写っています。右側にカバーのかかった大きなモーターボートも写っています。
高いマストが一本立っています。マストの前後に大きな帆を2枚てっぺんまで上げられるような構造になっています。ちなみに黄色の線の描いてある帆舟は私が2011年まで、昔13年間乗っていた舟です。
こんな高いマストに帆を上げて、横風を受ければ簡単に横転しそうです。
私自身もそれが心配でした。強風で横転しそうに傾いたことは何度も経験しました。しかし不思議にもしばらく我慢していると帆舟が自分で立ち上がるのです。その復元力の大きさには何度も驚いたものです。

上の写真は前方の横45度の方向から風を受けて走っているヨットです。乗っている私はこんなに傾いても悠々としています。
傾いても絶対に横転しないことを体験的に分かっているからです。

上の写真はヨットの大きな復元力の原因になっている船底から下に伸びているキールを示しています。2008年に撮った写真です。
この舟は昔、私が1988年から足掛け1998年まで10年間乗ったものです。その後は群馬県のある方が美しく保ちながら大切に乗っています。ヤマハ19という現在は船齢37年くらいの帆舟です。
この写真の右側に大きくぶら下がっているのが舵です。
この大きな重い舵の前方の船底から鉄製のキールがぶら下がるように固定されています。写真の真ん中より少し左に舵より小さく写っていますが、実際は舵より広く大きな鉄製の板です。
これこそが復元力の秘密のカギなのです。舟の全重量の三分の一以上から半分近くの重量があります。
沖で強風に吹かれて、45度以上も傾いたこのヨットにしがみついて我慢していると、間もなく立ち上がってくれるのです。その度に西洋人に助けられたと実感するのです。体験的に西洋文化の素晴らしさが理解できたような気分になるのです。
その上、このキールのお蔭で横流れも防げます。ですから2枚の三角形の帆を立てると風上45度までは登れるのです。45度ずつジグザグに登れば、完全に風上に向って走ったことになります。
この様に完全に風上に向って走るのがヨットの一つの醍醐味で、風上に向かって走っている間中、前のジブセイルのすその綱を握っている家内が、「西洋人は偉い、偉い」と呟いているのです。私も同感です。
ヨットという小型帆船を走らせていると、その構造や部分品には全く無駄というものが無いのです。不必要なものをそぎ落として、そぎ落として軽くしてスピードが出るような構造にしてあるのです。それは合目的性の極致なのです。
不必要なものをそぎ落としても、必要なロープや部分品は間違いなくついています。
そのお陰で強風の怖い状況から逃れたことが何度もありました。その度に西洋人の英知に感服するのです。
この帆舟の体験のあと、横浜に係留展示してある大型の帆船日本丸を何度か訪問して、その船長の大西さんに詳しく説明してもらいました。

上は2008年に撮った日本丸の姿です。
詳しいことは省略しますが、ただその時年老いた船長の云った言葉が忘れられません。「帆船はヨーロッパ文化の神髄」だと言ったのです。そして帆船を実際に体験するとヨーロッパ文化が判るとも言っていました。全く同感です。
どんな民族文化でも悪い性質の文化と素晴らしいものとの両方があるものです。
現在、中東での戦乱はヨーロッパ文化の悪い部分が露呈されています。しかしヨーロッパ文化には皆さまご存じのように素晴らしいものがあるのです。今日は私が体験したヨーロッパ文化の素晴らしいほんの一部分をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考記事2件==================
横浜に展示、係留されている日本丸のこと:
・・・・・この日本丸を訪問すると、一番、目立つのがロープ類です。
ところが、帆船の船乗りはロープという言葉は絶対に使わないのです。
使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前で呼ぶのです。
日本丸では29枚の帆と横桁(ヤード)を動かすためのロープが245本ついているそうです。
甲板上の装置は全て人力で動かします。ロープを手で引っ張ってみて、何処が動くか見ればロープの操作方法が理解できるのです。
その仕事をするのがセーラーという水兵達なのです。セーラーは直訳すれば帆走員です。水兵というと誤訳になります。そのセーラーを管理するのがオフィサー(将校)です。
こような海軍の組織もヨーロッパ文化の一部として高く評価すべきと思います。・・・・・・・
(訪問した日時:2008年4月25日午後2時、横浜市西区みなとみらい2-1-1岸壁にて)

恐竜の1億4千万年間の繁栄と絶滅に想う人類の運命

2015年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は少し壮大な想像力を働かせて恐竜と人類の運命を考えてみます。
恐竜はその定義にもよりますが約2億年前に出てきて非常に繁栄し、地球上の全地域に住んでいた動物です。雑に言えば現在の爬虫類を大型にしたような動物です。それが6600万年まえに突然絶滅しまったのです。大型隕石がメキシコ湾に落ちて、その粉塵が地球の上空に長期間漂い寒冷化し全ての恐竜が絶滅してしまったのです。それは全ての生物の進化の歴史において最大級のドラマチックな現象でした。
地球上を覆うように多種多様な恐竜が一夜にして消えてしまったような出来事でした。
6600万年以前には勿論日本にも恐竜が数多く闊歩していたのです。
日本の現在の風景と恐竜の姿を重ねて想像して頂けるように数枚の写真を示します。
しかし、当時は日本列島は存在していなかったのです。
ですから現在の福井県の風景と恐竜を組み合わせるのは荒唐無稽です。第一、植生があまりのも違います。そして山並みも後に海底の隆起で出来たのでしょうから荒唐無稽です。
それにもかかわらず恐竜の存在を身近に感じて頂くために現在の風景と恐竜を合わせてみました。

上の写真は10月19日に撮った北海道の知床の風景です。当時は別の種類の樹木だったと思われますが。

上の写真も10月19日に撮った知床五湖の風景です。
これらの土地には現在多数のエゾシカとヒグマは住んでいて私共もバスの窓から見ました。
しかしここに恐竜しか住んでいなかったのです。その時代にはエゾシカやヒグマやキタキツネなどは影も形もありません。そのような哺乳動物の出現はずっと、ずっと後なのです。
恐竜が日本全土に繁栄していた証拠は福井県から恐竜の化石が多数発見されたことです。それらの化石は勝山の恐竜博物館に展示されているのです。下にその博物館の屋外に展示されている恐竜の復元像を示します。

上の写真は福井の山波を背景にした草食恐竜の姿です。

上の写真は福井の勝山の盆地を背景にした草食恐竜の姿です。

上の写真は日本の山脈を背景にした肉食恐竜の写真です。
恐竜の化石は少数ながら全国で発見されています。しかし福井県では非常に多数出土しています。その理由は簡単です。
恐竜の棲んでいた頃の古い地層が福井県だけで地表に露出しているからです。
私は恐竜の繁栄と突然の絶滅に興味があります。
2つの理由で興味があります。
一つは恐竜の繁栄を証明したのが1840年以後の近代科学の発達によるものだからです。それ以前の人類は恐竜の存在を想像すら出来なかったのです。
もう一つの理由は6600万年前の突然の恐竜の絶滅は未来の人類の絶滅を暗示しているからです。
何時の日か巨大隕石が地球に衝突し、地球を破壊する日がやってくると暗示しているのです。
そのことを想像すると戦争の無意味さがしみじみと理解出来るのです。
日韓や日中の抗争も無意味に想えるのです。人間は限りある期間だけ地球上に生きているのです。生きている間だけでも仲良く平穏に暮らしたいという思いに駆られるのです。
私は恐竜の繁栄と絶滅の歴史を大切にしています。こんな考え方は間違っているでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================
恐竜とは:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E7%AB%9C
1842年、それまでに発見されていた3種の化石爬虫類(イグアノドン、メガロサウルス、ヒラエオサウルス)の新しい分類名として、リチャード・オーウェンによって命名されたものである 。
定義:
通俗的には、「恐竜」という言葉は往々にして「大昔の爬虫類」という程度の把握しやすいイメージで認識されており、同じ地質時代に生息していた翼竜や魚竜・首長竜のほかに、古生代に生息していた一部の非哺乳類型の単弓類(いわゆる哺乳類型爬虫類)なども含めた概念として呼ばれる場合が少なくない。“恐竜展”や子ども向けの“恐竜図鑑”などではこれらの各種爬虫類や、さらには恐竜絶滅後の生物(マンモスなど)まで含めて展示/掲載するものがよく見られる。 しかし正確には「恐竜」は、系統的に異なる翼竜、魚竜、首長竜などは一切含まない独立した分類群である。この分類群、即ち恐竜類はそのもっとも際立った特徴をして「直立歩行に適した骨格をもった爬虫類」と呼ぶことができ、ほぼすべて地上棲である。
絶滅:
K-Pg境界(以前はK-T境界と呼ばれた)の大量絶滅は、恐竜のみならず数多くの動植物を巻きこんだという意味で大規模な絶滅であり、事実、K-Pg境界における恐竜の絶滅に関する科学的な研究は長い間なされてこなかった。
絶滅の主要因に関する仮説には以下などのものがある。
短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)
そのうち、確定的とされているのは巨大隕石の衝突である。1980年、地質学者のウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる中生界白亜系と新生界古第三系を境する粘土層(通称K-T境界層)に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であり、かつ、イリジウムは地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めた。
その後、1991年メキシコ・ユカタン半島に、直径180キロの巨大クレーター(チチュルブ・クレーター)が再発見され、このクレーターを形成した隕石の衝突が恐竜絶滅の原因だとする説が提唱された。この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張された。

昔懐かしい餡パンとシウマイを買いに銀座まで行く

2015年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム
人間はそばにいる人の影響を受けやすいものです。私も例外でなく家内の影響を随分と受けています。良い影響もあればつまらない影響もあります。
今日はつまらない影響を書いてみたいと思います。
一つは餡パンでは木村家の酒種のが最高に美味しいという考えを持つようになったことです。
そうしてもう一つは横浜の崎陽軒の昔風のシウマイが美味だと信じるようになったことです。真空パックをしたシュウマイではなく昔風の箱に無造作に入っているものです。
家内の父はどちらも好きでした。
木村家のあんぱんは明治の初めに作られ、明治8年には山岡鉄舟の橋渡しもあり、明治天皇に桜あんぱんが献上されたのです。酒種発酵種を使用したパンと餡のバランスが絶妙で美味この上ないのです。
そして崎陽軒は戦後すぐの1948年に創業され、横浜駅のシウマイ弁当が評判になりました。それ以来シウマイだけでなくいろいろな食べ物を販売しています。
先日の日曜日の昼食後、何故か急に海を見たくなり晴海ふ頭へ車を走らせました。家内は源氏物語の下調べがあるので行かないと言います。
道中考えました。海を見て自分だけ遊んで帰るのでは気が引けるので、途中木村家の本店に寄って桜アンパンを家内のおみやげとして買うことにしました。
銀座四丁目に来たら銀座通りは日曜の歩行者天国です。何時も店の前に車を止めてアンパンを3分以内で買うのです。ところが歩行者天国で木村家の前に車が入りません。
仕方なくて三越の裏の路地の駐車場に車を入れ、やっと桜餡パンを6ケ買えました。
三越の中を通って、ついでに横浜の崎陽軒の真空パックでない昔風のシウマイを2箱買いました。
車に戻るともうあたりは暗くなり始めています。晴海ふ頭に行っても暗い海では心が晴れません。そのまま帰りました。銀座までわざわざ餡パンとシウマイを買いに行ったことになります。
老人は暇だということを納得しながら、四谷、新宿、幡ヶ谷などを通って帰って来ました。
帰宅すると家内は大好きなお土産に喜んでいます。しかし銀座の三越に行くのならついて行くはずだったと残念そうです。それを後の祭りと言います。
つまらない話はこれだけです。銀座や新宿の風景写真をお送りします。

上の写真は木村家本店の写真です。

上の写真は歩行者天国になっている銀座の大通りです。

上の写真は晴海通りから見た服部の時計台です。戦前からある時計台なので多くの若者がこの時計台を見上げて出征したのです。帰らぬ人が沢山、沢山いたのです。

上の写真は新宿駅南口の交差点を横断する人の群れです。

上の写真は新宿駅南口前の通りをデモ行進している人々の風景です。横断幕を持っている左端の若者が写真を撮っている私に気が付き、幕を上に引っ張り写真を撮りやすくし、微笑んでくれました。最近の若者は親切です。でも沖縄の真ん中にある広大な普天間基地は辺鄙な端の方に移転したほうが良いのではないでしょうか。デモ行進ご苦労さまです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考です==============
木村屋のアンパン:http://www.kimuraya-net.jp/shop/e/eanpan?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=0017
1869年創業当時、日本においてパンは普及していませんでした。どうすればパンが食べられる様になるのか。 木村安兵衛、英三郎は考え抜いた結果、酒種発酵種に出会い酒種生地が出来上がりました。 日本人の嗜好に合わせて酒種発酵種を開発し、始めてあんぱんを作り上げたのは明治7年、洋のパンに和のあんが融合した和洋折衷の画期的なあんぱんでした。 明治8年には山岡鉄舟の橋渡しもあり、明治天皇に桜あんぱんを献上しました。 その後も日本人の嗜好に合う製品作りという考えは受け継がれて、ジャムパンや動物パン…、日本人の嗜好に合う製品作りをひたむきに邁進して参りました。 酒種を使用した当社オリジナルの酒種パンは、米と麹と水から作る昔ながらの製法で作られた酒種発酵種を使用しており、 使用する材料は常にもっともおいしいあんぱんにあうものであるかを吟味され作り続けております。 144年代々の種師が絶えず受け継いできた酒種パンは米食文化で育った日本人に合う心地よい香りと144年の歴史が詰まっております。 職人が作る酒種パンは一つ口に入れば奥深い風味と時代を越えたおいしさが広がります。以下省略。
横浜、崎陽軒のシュウマイ:
崎陽軒の名前の由来:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%8E%E9%99%BD%E8%BB%92
創業者の久保久行(横浜駅(現・桜木町駅)の4代目駅長)が長崎出身である事にちなみ、長崎の漢文風の美称である「崎陽」に由来する。なお、崎陽軒の工場見学の案内では、長崎にある場所で太陽が昇る岬という意味を持つ「崎陽岬」を由来と説明している。
ひょうちゃんの醤油入れ
ひょうちゃんは1955年から同社製シウマイの箱中に封入されている陶器製醤油入れの愛称で、ひょうたん型容器に多種多様な表情が描かれている。ファンも多く、ひょうちゃんコレクターも存在する。1996年、フタがコルク栓からゴム製のものに変わる。また、関連商品として同社からひょうちゃんサブレなども発売されている。ひょうちゃんの顔を書いていたのは「フクちゃん」を書いた有名なマンガ家、横山隆一の手によるものだったが、その後イラストレーターの原田治に変わった。2003年からは横山隆一の作品に戻っている。製造は愛知県瀬戸市にあるヤマキ電器が担当している。2008年、崎陽軒創業100周年記念としてサントリー洋酒のアンクルトリスを手がけた柳原良平による絵柄のひょうちゃんが封入された。
以下省略。

カトリック小金井教会創立40周年(1)記念ミサと初代ムニ主任司祭のことなど

2015年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はカトリック小金井小教区創立40周年の記念ミサがありました。
私共は小教区の認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので40年以上もこの教会に通っていたことになります。
それだけに今日の40周年記ミサは感慨深いものがありました。
そこで今日の記念ミサと初代ムニ主任司祭のことなどを気楽に書いておきたいと思います。
この記事の続編として3代目の主任司祭の山本量太郎神父さまの思い出や現在のヨセフ・ディン主任司祭のことなどを書いてみたいと思っています。
さて今日の40周年記念ミサを写真にしたがってご説明いたします。

上の写真は岡田大司教が香炉を振り回して会堂の中を清めている場面です。
この40周年記念ミサには小金井教会の3代目の主任司祭の山本量太郎神父さまや4代目の辻茂神父さまなどが来賓として出席していました。
特に3代目の主任司祭の山本神父さまは私の洗礼の時、代父をしてくださった山本大二郎先生のご子息なのでいろいろとお世話になりました。その山本神父さまが傍に居てくださるだけで感動します。
今日の40周年記念ミサは何時もの日曜日の主日のミサと同じでした。
聖歌を歌い、聖書の朗読があり岡田大司教さまの説教がありました。
ミサの終りの方ではイエスの体としてパン片を信者一人一人へ手渡します。

上の写真は山本神父様が信者へパン片を手渡している光景です。

上の写真はミサ後の記念写真を撮る準備をしている様子です。皆が楽しそうにしています。

上の写真はミサ後の祝賀会の様子です。小金井市にあるいろいろな宗派のプロテスタント教会の代表者も出席してくれました。
祝賀会の時、山本神父さまと握手をしました。神父様は時々このブログをご覧になっているそうです。
今日は朝から、親しくお世話になった主任司祭のヨゼフ・ムニ神父さまのことを思い出していました。
ボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。
めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。
そして1988年の夏に突然のように帰天したのです。
聖堂に置かれたお棺の中のやすらかなお顔を見たのが最後になりました。

上は府中市にあるムニ神父さまのお墓です。右側の質素な木造の十字架が墓です。
ムニ神父さまのことは何度かこのブログに書きました。
そこでその一部を再録いたします。
・・・・2008年4月24日掲載記事・・・・
ヨゼフ・ムニさまの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供える。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思う。以下省略。
実はムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に着任して、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。その当時の信者さんから私のブログへ以下のような投書がありました。
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた... (中根)2012-04-11・・・
ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、朝のミサでの従者をする為、自転車でよく教会に通いました、小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、今でも大切に保管をしています。
もう私も60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントとあの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。
今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。
そして以下のような記事もあります。
ムニ神父様を偲んで
http://www4.cty-net.ne.jp/~johnmary/ribero217.htm
・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたしは翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星学園に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。
・・・以下省略・・・
ヨゼフ・ムニ神父の追悼集の本は平成元年8月14日に発行されています。この446ページの本を見ると情熱的に活躍しご自分を日本の信者の為に捧げたムニ神父の業績が詳しく書いてあります。私共の知っていることはその万分の一に過ぎないことがしみじみと判ります。
日本を占領したアメリカ人とは全く違った考えで日本人を助け、日本の地になったアメリ人もいたのです。わすれられません。(続く)

老境の幸せは美しい秋の空を眺め単純に生きること

2015年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて分かったことですが人間は単純に生きていくのが重要だということです。
無心に生きて、幸せに感謝しながら日々を過ごすのです。
特にしなければならない仕事が無いのでそのように毎日を過ごすことが出来ます。ぼんやり樹木を眺めたり、美しい空を見上げたりして時を過ごすのです。すると生きていることに対して自然と感謝の気持ちが湧いてくるのです。
自然と自分が一体になったような幸せな気分です。これも老いのはなやぎの一つなのでしょう。
昨日は久しぶりに晴れ上がって空に秋特有の美しい雲が広がりました。その秋の空の写真を撮ろうと小さな公園に家内と行きました。国立市の青柳北緑地と日野市の仲田の森蚕糸公園です。その二つの公園の間で渡った立日橋の上からも空の写真を撮りました。それらの写真をお送りいたします。











このような美しい空を見てるだけで幸せを感じます。しみじみと感じます。若い時には気を取られることが多く、こんなにゆっくり空の美しさを楽しむことは無かったのです。
ゆっくり見ると空の高さや深さが分かります。この青い惑星に一瞬の命を生きているのです。生きているだけで満足です。他には何もいりません。
昨日は家内とともに空を見上げて過ごしました。単純に過ごしました。
帰宅後、秋の空をよんだ漢詩が無いものだろうかと探してみました。見つけたものを以下にお送り致します。

長安秋望  杜牧  (長安の秋望)

 楼倚霜樹外  楼は倚る、霜樹の外
 鏡天無一毫  鏡天、一毫も無し
  南山与秋色  南山と秋色と
  気勢両相高  気勢、両つながら相高し
実際に目に見える南山と、秋の気配とが、雲一つ無いなく澄みわたった空に、高らかに並び立っている、という。正に秋の透き通った空に、思わず吸い込まれていってしまうかのような、気宇壮大でさわやかな詩です。(http://nora-p.at.webry.info/200809/article_7.htmlより)
杜 牧(と ぼく)は803年(貞元19年)に生まれ、 853年(大中6年)に50歳で没しました。晩唐期の詩人でした。現在の陝西省西安市の人です。あざなは牧之、号は樊川でした。
調べたことによると、晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作ったそうです。
李白や韓愈、柳宗元などから影響を受けたと言われています。
年老いてくると何故か漢詩に興味が湧いてきます。高校時代に漢文をあまり熱心に勉強しなかったのが悔やまれます。何の役にも立たないと思い勉強しなかったのです。しかし老人になって少し役に立っているのです。当時の漢文の先生に感謝です。これも年老いたお陰で分かったことです。

昨日は美しい秋の空に感謝しながら過ごしました。こうして日々が流れて行くのです。単純な時が流て行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

プラド美術館展を見てヨーロッパ文化の暗さを感じる

2015年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
プラド美術館展を昨日、見て来ました。ギリシャ神話やキリスト教の宗教画が主な展示です。その上、プラド美術館で有名なゴヤの「着衣のマハ」と「裸のマハ」や宗教画の大作が来ていません。大部分は暗い小さな宗教画です。ギリシャ神話や旧約・新約聖書を題材にしたもの、王家・貴族の一家を描いたものが主でした。
一緒に行った家内がほとんど素通りしてドンドン歩いて行きます。帰りの車の中で聞くと何も言わずに微笑んでいます。感心しない絵画を見ると悪口を言わずに沈黙を守ります。
そうです。今回の展覧会はそのようなものでした。
私は印象派の絵画が好きです。そのような好みを持つ人が見たらあまり感動しないような宗教画がえんえんと並んでいるのです。
その上、絵の作品としての出来が悪いように感じました。
感心したのは三菱一号館美術館の重厚なレンガ造りの建物です。
それではこの美術展は行かなくても良いのでしょうか?
答えは否です。キリスト教と中世ヨーロッパの関係の深さが理解出来るのです。あまりにも日常生活まで宗教が支配していたヨーロッパ文化の一面が感じられる展覧会なのです。その暗さと息苦しさから人間を解放したのがルネサンスでした。
そしてイタリアのメジチ家の支配していたフィレンツに起きたルネサンスの影響が、スぺインまでは及んでいなかったのも分かります。
ルネサンスで生まれたラファエル、ボッチチェリー、ダビンチ、ミケランジェロなどの明るくて開放的な宗教画とはあまりにも違う暗い絵画が並んでいるのです。
しかしこれも間違いなくヨーロッパ文化の一部であることには違いありません。
私は昔ドイツに住んでいました。週末には南ドイツ、スイス、リヒテンシュタイン、そしてライン河沿いの東フランスを旅しました。行き先の町では必ずのように美術館を訪れました。ホテルで聞くと場所をすぐに教えてくれます。
数十ケ所の美術館を見ますとその大部分は宗教画だけが展示してあるのです。印象派の絵画や抽象画はめったにありません。ギリシャ神話や旧約・新約聖書を題材にしたものだけです。あとは貴族がお金を出して画家に書かせた肖像画が多いのです。画家の芸術的な衝動の感じられない絵画です。多くは暗い色のニスを塗った絵画です。
そのような種類の絵画を大切にして多くの美術館に数多くえんえんと飾っているのです。
これも現在のヨーロッパ文化の一部なのです。
ところがそのような宗教画はめったに日本にやって来ません。当然です。日本のキリスト教信者は人口の3%位なのです。展示会を開催しても観客が少ないと考えて、そのような宗教画が日本にやって来ないのです。
しかしこの暗い中世の文化を背負った宗教画を数多く見ることも重要です。見た後で印象派の絵画を見ると、その素晴らしさに感動するのです。あの色彩の華やかさ、人間の感性で描いたのびのびした構図、そして狂気に近いゴッホの絵の魅力などが如何に素晴らしい感動的なものであるかが分かるのです。
そのような感動を教えてくれるのがプラド美術館展なのではないでしょうか。
いきなり話は飛びますが人類学の中には比較文化人類学という一分野があります。いろいろな民族の文化も比較してみるとそれぞれの民族文化の良さが理解出来ます。また同じ民族でも違った時代の文化を比較するとそれぞれの文化の良さがより鮮明に判るのです。
そんなことを考えさせるプラド美術館展でした。
ここで示す写真は三菱一号館美術館の写真と一枚の油彩画の写真です。展覧会では撮影禁止だったので、http://art.pro.tok2.com/V/Velazquez/v031.htmから引用させて頂きました。
この絵画はベラスケスの『ヴィラ・メディチの庭園』です。ベラスケスはスペインでは最も有名な画家の1人です。バロック期の画家ですが、この絵では印象派的な光の使い方がされているそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









懐旧の情をかきたてる小江戸、川越の町

2015年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
埼玉県の川越市には時々行きます。これといった目的は無いのですが町のたたずまいが戦前の町のようなのです。関東地方では珍しくアメリカ軍の空襲を一切受けなかったので戦前の日本の町がそのまま残ったのです。
川越の歴史を書けば長くなります。なにせ縄文時代から人が住んでいたのですから。長い歴史は末尾の参考資料にあります。地方史のに興味のある方はご覧下さい。
簡略に書けば、戦国時代に江戸城作った太田道灌が川越城をつくり現在の街並みが生まれたのです。
その後は小田原の北条一族の支配下になり、そして北条一族も秀吉の軍勢によって一瞬にして消えてしまいます。
徳川の世になると川越藩という幕府の直轄領になります。
直轄藩なので藩主は幕府から派遣される幕閣が就任します。ですから城主は短期間で交代してきたのです。
川越は新河岸川から墨田川へと船で江戸と結ばれていて物流が盛んでした。城主が江戸から来るので自然に小規模な江戸の町が出来てきたのです。
そのせいで現在の川越市は小江戸とも呼ばれ江戸の町の雰囲気が残っています。
しかし川越は何度も大火に見舞われました。大火の被害を少なくするために火災に強い蔵造りにして家を建てました。
現在残っている商店街は明治26年の大火の後に出来た蔵造りの商店街です。
その商店街を散歩したり川越城の本丸御殿や名刹の喜多院を訪ねるために幾度となく訪れています。文政年間創業の古いウナギ屋もあります。
昨日は久しぶりに車を駆って出掛けてきました。それでは昨日撮った写真を示します。

上の写真は中心部にある「時の鐘」の塔です。情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえるのがこの川越のシンボル「時の鐘」です。
江戸時代初頭から城下の町に時を告げてきた時計台です。
約400年前、川越藩主だった酒井忠勝によって創建されました。火災で鐘楼や銅鐘が焼失して、度々建て替えられてきたのです。
現在建っているのは4代目で、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたものだそうです。
木造3層のやぐらで高さは約16メートルあり、1日4回鳴り、鐘の音を小江戸川越の町へ響かせています。

上の写真の蔵造りの商店も明治26年以後に作られました。後ろの大きな建物は明治時代に作られたレンガ建ての銀行です。

上の写真も蔵造りの商店です。ぶ厚い壁の厚さが火災の火を防ぎ内部の商品を守るのです。

上の写真は蔵造りではありませんが、明治期の商店のたたずまいです。写真の左に自宅に入る門がついています。この写真を見るとこの店は左半分を切って住宅を広く作った様子です。

上の写真は横丁に面した家の昔風な玄関です。川越のイモ羊羹で抹茶を楽しみながら向かいに見えたこの古風な玄関の写真を撮ったものです。
昨日は昼過ぎに家を出たので時間が無くて川越城の御殿も菓子屋横丁も喜多院も見ないで帰ってきました。
帰る車を運転しながら何故川越に何度も行くのか考えていました。理由は懐旧の情をかきたてられるからです。
老境に至ると父母は勿論、私を大切にしてくれた人が次々とゐなくなります。幼な友達も次々とゐなくなります。気がついてみると私を知っている人は誰もいないのです。
家内と子供や孫は残っていますが彼らは私の幼少のころや少年だった頃のことは知っていません。
知っている人がみんな、みんないなくなったのです。淋しいです。これが老境の淋しさというのもでしょうか?私は時々しみじみと寂寥感に襲われます。
そんな折に川越に行くのです。町が戦前、戦後の私の育った昔の仙台市に似ているのです。
川越の町をなんとなく歩いていると亡くなった人々に会えるような錯覚を覚えるのです。錯覚と知りながらも楽しいのです。
私はそのうちまた川越に行きたくなると思います。そんな町が近くにあることは幸せなことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料:川越の歴史===========
原始・古代
http://www.kawagoe-rekishi.com/info/reki.html
大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。
その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。
古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。 中世
平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府の御家人として力を持っていき、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。しかしながら源頼朝と義経の不和により悲しい結末を迎えました。その後河越一族は再び盛り返しますが、平一揆の乱で失敗し滅亡します。
後に現れた上杉持朝は川越一帯を治め、家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。初雁城とも呼ばれた美しい城は城下に町を広げながら発展していきます。その後、小田原氏・北条氏の支配下におかれますが、北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
近世
天正18年(1590)関東への移ってきた徳川家康の支配に伴い、川越藩が置かれました。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な大名を配置しました。また大名のひとり松平信綱は城下町を整備し、舟運(しゅううん)を起こして江戸との物流を活発にさせます。この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び、浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰ります。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末までにぎわいました。 近・現代
明治になっても川越は商業都市として繁栄しつづけます。
穀物流通の中継地として、たんすや織物の生産地として発展しました。川越唐桟(とうざん)織は粋な織物として江戸で人気になりました。また、川越はまた幾度となく火事にあっています。明治26年(1893)の大火では町の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに着目しました。今も残る蔵づくりの町並みはその時、財力を投資してつくられた土蔵造りの店舗の名残りです。
最近では、大正11年に埼玉県ではじめて市制を施工し、現在川越は首都圏近郊の中核都市として発展しています。

パリ同時多発事件をしばし忘れ、黄葉した山林を眺めて気分を晴らす

2015年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
11月14日にパリで同時多発テロが起き130人位の一般の市民が犠牲になりました。そして昨日はパリの郊外にある町で犯人の一味と警官隊との間で銃撃戦があり、犯人2名が死んで8人の容疑者が逮捕されました。
これに関連して私は次の2つの記事を書いて掲載いたしました。
「パリの同時多発テロと宗教の関係」と「パリ同時多発テロと中東における数々の戦争」と題する記事です。
こんなことをしていると気分が暗くなります。人間のどうしようもない業を考え、心が落ち込みます。世界一の文化国家のフランスがテロの恐怖におののき復讐をすると叫んでいます。フランス空軍のイスラム国への空爆も3倍に増加され連日続行されています。空爆を受ける場所では多数の一般市民も犠牲になっているのです。
復讐の連鎖が新たに始まったのです。
賢い日本人はこんなことに巻き込まれません。良い趣味を楽しみながら悠々と暮らしています。考えても解決法の無いことはしばし忘れることも賢明な生き方です。
今日は私もそれを見習い好きな雑木林の風景を眺めています。黄葉した木々のたたずまいを見ていると不思議に心が落ち着きます。幸せな気分になります。
それでは私が眺めて良い気分になる写真をお送りいたします。

この写真は私の山小屋に続く道から撮った山梨県の甲斐駒岳です。小屋は麓の黒々した深い森の中にあります。森の中にポツンと建っています。1974年に建てた小さな小屋です。ちなみに甲斐駒岳は標高が3000m位の花崗岩で出来た美しい山です。

上の写真は小屋へ続く雑木林の中の悪路です。約2kmほど根気よく登って行くと小屋に到着します。

上の写真はまた小屋の窓から見た樹木の風景です。床に寝て樹木の輝きを写真に撮った光景です。

上の写真は外に出て小屋の窓枠を写真の左に入れて撮った光景です。小屋は6畳と4畳の部屋に水洗トイレがついています。
無粋な鉄筋コンクリートにした理由はこの土地の強い湿気にあります。建てた大工さんが木造なら10年位で腐って倒れてしまいますと言うのです。正しかったです。40年経過しても写真のように新築当時の姿で建っています。
小屋の庭には年中水の涸れない清流が流れています。小屋に着くと黄葉した木々を飽きもせずいつまでも眺めています。
小川の流れる音を聞きながらいつまでも無心に眺めています。

上の写真は帰りがけに撮った七里ケ岩に黄葉です。釜無川の北岸にそそり立つ七里ケ岩は晩秋になると毎年美しい黄葉を見せてくれます。年年歳歳、はなやかに輝く七里ケ岩の黄葉です。
ここに示した5枚の写真は10月29日に撮りました。
このような写真を見ていると人間の起こす忌まわしい事件をしばし忘れます。気持ちが晴れます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

パリ同時多発テロと中東における数々の戦争

2015年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝は先日、神代植物公園で撮った秋バラの写真をトリミングしながら、しみじみと眺めていました。30枚位写しましたが、下に5枚の写真をお送りいたします。









これらの秋バラの写真を見ながら、今朝の新聞にも大きく出ているパリの同時多発テロの悲しみを感じてしまいます。テレビもその報道が多いので考えてしまいます。
この文化文明の発達した21世紀になっても野蛮な戦争やテロが起きるのは何故なのでしょうか?
この平和な日本に住んでいると想像もつかい争いが起きているのです。
そこで今朝は中東における争いや戦争の歴史を少しだけ調べてみました。
争いはそもそも第二次大戦後、パレスチナに無理無理イスラエルを建国したことが発端になっていると言います。
そして1990年からの戦争の歴史を見ると末尾の参考資料のように実にいろいろな事があったのです。
それらをかいつまんで列記します。
1、1990年にイラクがクウェートに侵攻します。
2、1991年、アメリカと多国籍軍がイラクを攻撃し湾岸戦争が始まります。
3、2001年9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件で約3000人が死亡します。
4、2001年10月7日 - テロの報復としてアメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃し占領します。
5、2003年3月19日 - 米英軍による空襲「イラクの自由作戦」すなわちイラク戦争を開始します。イラクを占領しサダム・フセイン大統領を逮捕し死刑にします。
6、占領したイラクにいろいろな反米武装勢力が生まれ内戦が現在まで続いています。その中からイスラム国が生まれたのです。
7、シリアのイスラム国を壊滅すためにアメリカを主にする有志連合が現在、空爆を続けています。
そして先週、パリで同時多発テロが起きたのです。
上にまとめた1から7までの戦争の経緯は報復の連鎖です。
この連鎖が止まる可能性はないのでしょうか?
絶望的な悲劇の連鎖の一つとしてパリのテロが起きたのでしょうか。
人類の文化文明がこんなにも発達して人間が月にまで旅することすら出来るのです。
何とかして戦争を止める方法はないものでしょうか?
平和が続く日本に安住していると戦争の危機感が無いのかも知れません。しかしフランス国内は現在戦場の中にあるようなことは想像出来ます。非常事態が3ケ月間続くのです。

今日はテロや中近東の戦争で犠牲になった人々に心を寄せたいと思います。そして何百万人という中東の難民の苦しみを考えています。何の役にも立ちませんが祈る他はありません。
====参考資料============
中東における抗争と戦争の年表
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
1990年8月 - イラク軍、クウェートに侵攻(湾岸危機、クウェート侵攻)。
1990年8月6日 - 国際連合安全保障理事会(国連安保理)はイラクに対する通商禁止を課し、 制裁委員会を設けた。(国際連合安全保障理事会決議661)
1991年1月 - アメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃(湾岸戦争)。その後の詳細はイラク武装解除問題を参照。
1995年4月14日 - 湾岸危機後も解除されていなかった通商禁止に関し国連安保理は国際連合安全保障理事会決議986を採択。通商禁止は緩和され、「石油と食料交換計画」を設け食料と衣料品を買うために石油の輸出再開を認めた。
1999年3月 - 国連安保理に任命された委員会は、湾岸危機以後、イラクにおける児童死亡率は世界で最も高く、誕生した幼児の23%は未熟児で、5歳児の4人に1人が栄養失調になり、国民の41%だけが飲料水を正常に得ており、83%の学校が修繕を必要としている」と説明した。
2000年4月17日 - コフィー・アナン国際連合事務総長は「10年間の制裁の結果はその効果だけでなく、その範囲と厳しさで、罪の無い市民を自国の政府からだけでなく、国際的共同体の行動によって往々にして犠牲になることで、深刻な疑念を持った。包括的で厳しい経済制裁が独裁的体制に向けられている場合、悲劇的なことに一般的に苦しむのは制裁の発動対象になった行為を行った政治的エリートではなく、国民である」とした。
2001年9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件で約3000人が死亡2001年9月16日 - 国家哀悼日に、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が「この十字軍、テロとの戦争は時間がかかるでしょう(This crusade, this war on terrorism is going to take a while.)」と発言。
2001年10月7日 - テロの報復としてアメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃(対テロ戦争、アフガニスタン戦争)。
2002年1月29日 - ブッシュ大統領が一般教書演説でイラクを非難する悪の枢軸発言を行う。
2002年8月26日 - リチャード・チェイニー米国副大統領は「イラクの核脅威は、予防的攻撃の正当性を証明している」と発言。
2002年9月24日 - イギリスの下院において、トニー・ブレア首相は「イラクは、化学兵器と生物兵器を保有している。イラクのミサイルは45分間で展開できる」と断言した。
2002年11月 - 国連決議1441により、イラクが4年ぶりに国連の査察を受け入れ、同決議の第3項が定めるところに従い、武器申告書を査察団に提出。
2002年11月 - コリン・パウエル米国務長官は「サッダーム・フセインはガス壊疽、ペスト、チフス、コレラ、天然痘など、数十種類もの病原菌の研究に着手した」と述べた。
後に、その全てがCIAの誤情報による虚偽であり間違っていることが判明した。

2003年
イラク戦争開戦前夜
1月9日 - 国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)と国際原子力機関(IAEA)から国連安保理へ中間評価報告。イラクが国連決議に違反したと疑われるような証拠、痕跡はないとされた。
1月16日 - 申告書に掲載されていなかったものと考えられる化学兵器搭載用ミサイル12基が発見される。
1月28日 - ブッシュ大統領は演説において「バグダードが、ナイジェリアから核兵器に利用できる酸化ウラニウム500トンを買おうとした」と説明した。
後に、イギリス諜報機関から入手したこの情報は嘘であったことが判明した。
2月5日 - イラクが大量破壊兵器を隠し持っていることを示す証拠をアメリカ側が安保理にて提示(パウエル報告)。
2月14日 - 査察団の再報告。武装解除の進展を積極的に評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要であることが示唆された。
2月15日 - 戦争拒否のデモが特にこの日世界的に行われる。
2月28日 - 中間報告書が公表される。
3月7日 - 2度目の中間報告が公表。この後、アメリカ側は査察は不十分として、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、フランス等は査察は成果を挙げており継続すべきと主張した。途中チリなどが修正案も提示したが、アメリカは拒否。
3月15日 - アメリカ、イギリス、スペインがアゾレス諸島で密談。安保理では新決議案が反対多数で否決される見通しとなったため、アメリカは安保理での裁決を避け、独断で開戦に踏み切ることを決定した。
3月17日 - ブッシュ大統領がイラクに対して、テレビ演説で最後通告。フセイン一族と主要閣僚の48時間以内の国外退去を命じる。フセイン大統領は徹底抗戦を宣言。

開戦
3月19日 - 米英軍による空襲「イラクの自由作戦」を開始。