後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ユーカリの巨木とプラタナスの巨木の写真」

2024年09月30日 | 写真
小金井公園の東端のユーカリの巨木が一本とプラタナスの巨木が二本立っています。
少し遠方ですが今日はこれら巨木の写真を撮ってきました。
はじめの2枚の写真がユーカリの巨木で、続く2枚の写真がプラタナスの巨木です。

「ノルウェーの漁業」

2024年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ノルウェーはなぜ漁業が盛んなのでしょうか?
極寒の海に無数の島々、岩礁、湾、フィヨルドが織りなす長大な海岸線が続く北欧の国ノルウェー。 海岸線に沿ってメキシコ湾流の暖水が北極圏の冷たい水域に流れ込むという自然環境に恵まれ、漁業や養殖業が盛んな国です。

ノルウェーの漁業で獲れる魚は?
ノルウェーの主要魚種はタラ(タイセイヨウダラ)、ニシン(春産卵ニシン、北海ニシン)、シロイトダラ、コダラ、サバ、ブルーホワイティング、カラフトシシャモなどである。 ノルウェー漁業ではその半分以上はノルウェーの排他的経済水域(EEZ)の中で漁獲されており、2022年の域内の漁獲量は193.8万トンである。

写真はノルウェーの漁船です。

「魚屋の活きの良い魚の姿」

2024年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年に仙台で生まれ24歳まで仙台に住んでました。仙台は漁港の塩釜に近いのでよく魚をたべました。イワシやニシンです。その頃は肉などありません。魚だけでした。
そうした思い出から魚屋を訪れるのがだい好きです。趣味と言ってよいか分かりませんが、私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることです。私は活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。そして気に入ってものを買います。
戦前、戦後にイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。
ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。そんなわけで先日も角上魚類という大型魚店に行って写真を撮って来ました。写真をお送りします。

1番目の写真はタイやキンメダイです。

2番目の写真はホウボウです。

3番目の写真はカレイです。

4番目の写真は角上魚類という大型魚店です。
この私の趣味は何十年も続く趣味です。幼い頃に魚をあまり食べなかった家内には理解しにくい趣味です。
角上魚類へ一緒に行ってくれますが、利尻コンブや三陸のワカメを買って喜んでいます。
趣味のつもりですから外国に行っても魚屋を見に行きます。圧巻はバンクーバーやシアトルの魚市場、フィッシャーマンズ・ワーフでした。売り場の規模が大きくて種々の魚が無造作に並んでいるのです。感動ものです。

5番目の写真はシアトルの魚市場、フィッシャーマンズ・ワーフです。

6番目の写真はバンクーバーのフィッシャーマンズ・ワーフの店頭のエビです。

7番目の写真はバンクーバーのフィッシャーマンズ・ワーフの賑わいです。ウニを売っています。
さてアメリカではキャット・フィッシュというナマズを何度も食べました。白身で上品な味です。キングサーモンもよく食べました。
ドイツに住んでいた頃は、淡水のマスやドイツ鯉やウナギもよく食べました。水桶に生きたまま売っているのです。ニシンやキングサーモンも美味しかったです。

そんなことを思い出しながら、先日も角上魚類へ行きました。売り場に並んでるのは、天然のタイ、ホウボウ、キンメダイ、シマアジ、メバル、天然ブリなどなどです。
これらの魚の全てが活きが良いのです。冷凍運送技術の驚異的進歩が活の良さを保っているのです。技術の進歩に感慨無量です。

皆さまも活きの良い魚の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「秋の花々の写真の一覧を作ってみました」

2024年09月29日 | 写真
秋の花々の写真の一覧を作ってみました。
彼岸も過ぎ気温も丁度良くなり、日一日と秋が深まってきました。近所の庭のモクセイの花の香が漂ってきます。毎日曇りや雨の日が続いています。
しかし秋晴れの日が続き、爽快な風が吹いてきます。やがて紅葉の季節がやってきます。
そして紅葉の葉が一枚一枚と散り、雑木林もすっかり明るくなり初冬がやってきます。
高齢になると季節がめぐるのが早く感ずるのでしょうか。
こんな秋の季節の流れ行く日々に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。
花の写真を見ていると、このような花々に囲まれた土地に生まれた幸運に感謝したくなります。 四季折々に花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。
秋の花と言えば七草の萩、すすき、葛花、撫子、おみなえし、藤袴、桔梗などなどが昔からあります。
不思議なことに必ず秋彼岸に咲くマンジュシャゲや野菊、ホトトギス、リンドウなど日本古来の秋の花々です。
それに最近は海外から来た秋の花もあります。セイタカアワダチソウやコスモス、カンナや皇帝ダリアなどなどです。
そこで自分で撮った秋に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。

1番目の写真は秋の彼岸に咲くヒガンバナです。墓参りに行った日野市のお寺で撮りました。

2番目の写真はコスモスです。山梨県北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

3番目の写真もコスモスです。山梨県北杜市の横手で撮りました。

4番目の写真はシオンです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

5番目の写真はオミナエシです。三鷹市花と緑の広場で撮りました。

6番目の写真はススキです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

7番目の写真はカンナです。都立小金井公園で撮りました。

8番目の写真は萩です。都立薬草植物園で撮りました。

9番目の写真は薬用の菊です。都立薬草植物園で撮りました。

10の写真は食用にする菊です。都立薬草植物園で撮りました。

11番目の写真は丹精込めて大輪に咲かせた菊です。諏訪大社上社で撮りました。

12番目の写真は秋に咲くフヨウです。鎌倉の円覚寺で撮りました。

13番目の写真はセイタカアワダチソウです。北杜市のラフォーレ小淵沢で撮りました。

14の写真はホトトギスです。都立薬用植物園で撮りました。

最後の15番目の写真は小金井公園で撮った皇帝ダリアです。
ところで私が花の写真を撮る時に工夫していることを書いてみたいと思います。
(1)花のクローズアップの写真がお好きな方々が多いのでまず花のクロ-ズアップ写真を撮ります。茎や葉を入れた写真も撮ります。
(2)詩情を感じさせるような背景も一緒に写真に入れて撮ることもあります。
例えば早春に咲く梅の花には淋しげな詩情があります。背景に枯れた雑木林などを入れると、楚々とした梅の花の姿が詩的になると思っています。 それがお寺の境内でしたなら、五輪の塔などを背景に入れます。
(3)花の咲いてるまわりの環境が分かるように遠景写真も撮ります。それを花のクローズアップ写真と組み合わせて掲載します。
私は花がどのような場所に咲いているかが分かるような写真も撮ります。
(4)花々の写真にその場所の歴史の説明を加え、記事の内容を奥深くします。花の背景に歴史を感じさせる建物などを入れて撮ります。
例えば江戸時代に名も分からない流れ大工が作った鎌倉時代風の山門があったらその山門を花の背景に入れて撮ります。
以上のようにいろいろ考えて写真を撮りますが。写真の出来はそれほど良くありません。素人の悲しみを感じます。
しかし花々の写真を眺めていると何故か幸福感につつまれるのです。
そしていろいろな写真を撮った時の思い出がよみがえって来て楽しいのです。
大体いつも家人が傍にいて話し合いながら撮ります。彼女は花々がどのような場所に咲いているか分かるような写真が好きです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は庭の木の枝を切った」

2024年09月29日 | 日記
今日は庭の木の枝を切りました。
この写真はこのコンピューター越しに見える庭木です。夏の間に茂って隣りの家も前の家も見えなくなりました。

午後から家内と一緒に庭の木の枝を切りました。身軽な家内が活躍しました。写真は木の枝を切った後の風景です。

「現在の生活に深い影響を与えている国分寺と律令国家」

2024年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
私は国分寺跡が何故か好きなのです。旅すれば各地の国分寺跡に行ってはボーと立ち尽くしています。現在住んでいる所の隣には東京都の国分寺市があります。
1番目の写真は自分が撮った武蔵国分寺の本堂跡です。石柱に史跡武蔵国分寺跡と書いてあります。
国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教布教のためそれぞれの律令国家に建てたお寺です。国分僧寺と国分尼寺が分かれてあります。武蔵国分尼寺は国分寺の西隣にありました。
その全国の国分寺はその後、各地の地方文化の発展をうながし日本の社会に深い影響を与えてきました。
今日は国分寺と律令国家について振り返ってみたいと思います。
律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したといいます。この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通のようです。
この令制国のそれぞれの地方の名前は明治維新までの1166年間も日本人が使って来た名前なのです。そして現在も使われることが多いのです。
この長い間、日本人が馴れ親しんで来た律令国家、すなはち「令制国」の全国地図を見て楽しみたいと思います。
2番目の写真は全国の令制国(律令国家)の地図です。出典は、https://www.start-point.net/syakai/ryouseikoku_list/ です。
この地図こそ奈良時代から明治初期まで、1166年間も日本の地理的区分の基本的な地図だったのです。
現在の日本地図は明治維新の廃藩置県のよる新しい1都1道、2府、43県に分かれた地図になっています。
しかし江戸時代以前の歴史を少しでも考える場合には律令国の名前と場所を考える必要があるのです。それだけではありません。現在の日本の地方文化を語るときにも生きた言葉としてよく使われているのです。
皆様は阿波踊りや讃岐ウドンという言葉をご存知でしょう。美濃紙や越後米、丹波栗なども。出羽三山という山々や飛騨山脈もあります。伊予ミカンや伊賀忍者という名前もあります。武蔵野や相模原などの地名もあります。
古来の井戸掘り方法に上総(かずさ)掘りというものもあります。
このように1100年以上も続いた律令国家の名前とそれぞれの地方の特徴は現在の日本文化のもとになっているのです。
さて私が現在住んでいる所は武蔵国です。奈良や京都から東山道(中山道)を東に歩き、現在の埼玉県で脇道の武蔵路に曲がり、南下した所です。
そこの東京都府中市には武蔵国の国府と国の役所の国衙があったのです。
以前にこの府中市の国衙跡の再現展示物の写真を撮ってきたので、その写真でご説明いたします。
3番目の写真は府中市の国衙の建物の柱と展示館の写真です。広さ、200mX300mの広場に太い柱を持った立派な役所の建物(国衙)があったのです。展示館には発掘品の一部が公開されています。場所は現在の大國魂神社の境内に隣接した東側です。
4番目の写真は国衙に隣接した大國魂神社の中門と拝殿の屋根の写真です。
全く余談ながら、ここで孫の七五三のお祝いをしました。
大國魂神社の写真を示したのはこの神社が古墳時代から南関東地方の重要な神社だったからです。府中市には大熊神社古墳もあり古代から重要な集落だったのです。その理由で大和朝廷がここに国府を置き、国衙を建てたのです。そして北に少し距離を置き国分寺や国分尼寺も作ったのです。
そしてこの府中市は江戸時代にも甲州街道の重要な宿場として繁栄していた所だったのです。
ところで令制国(律令国家)は五畿七道の行政区にもとずいています。
大化の改新後に始まり大宝律令によって完成されました。律令国家は全国を五畿七道と呼ばれる地域に区分して出来ていました。
5番目の写真は律令国家の五畿七道と呼ばれる地域を示した写真です。
五畿は畿内ともいい、山城、大和、河内、和泉、摂津の諸国で、七道は東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の諸道で、これらは地域の呼称であると同時に都からのびる道路の名称でも使われています。
少し長くなったので今日はここで止めます。詳しくは参考資料をご覧下さい。

今日は令制国とそこに建てられた国分寺について書きました。私は国分寺跡が何故か好きなので書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
(1)令制国一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7

(2)明治初期までの令制国の配置と名前
令制国一覧は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国は、奈良時代、平安時代から江戸時代の長期にわたってほとんど変更がなかった。
以下の一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。
この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。
1)五畿
畿内

1、山城国 やましろ(山州、城州、雍州)

2、大和国 やまと(和州)

3、河内国 かわち/かはち(河州)

4、和泉国 いずみ/いづみ(泉州)

5、摂津国 せっつ(摂州)


2)七道


1、東海道
伊賀国 いが(伊州)
伊勢国 いせ(勢州)
志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。
尾張国 おわり/をはり(尾州)
三河国 みかわ/みかは(三州、参州)
遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州)
駿河国 するが(駿州)
伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年に駿河国より分立。
甲斐国 かい/かひ(甲州)
相模国 さがみ(相州)
武蔵国 むさし(武州) - 771年、東山道から東海道に所属変更。
安房国 あわ/あは(房州、安州) - 718年に上総国より分立。741年に上総国に併合されるも757年再分立。
上総国 かずさ/かづさ(総州)
下総国 しもうさ/しもふさ(総州)
常陸国 ひたち(常州)


2、東山道
近江国 おうみ/あふみ(江州・近州)
美濃国 みの(濃州)
飛騨国 ひだ(飛州)
信濃国 しなの(信州)
諏方国 すわ/すは - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。
上野国 こうずけ/かうづけ(上州)
下野国 しもつけ(野州)
陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
石背国 いわせ/いはせ - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
石城国 いわき/いはき - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
出羽国 でわ/では(羽州;山形県、秋田県の一部) - 712年(和銅5年)に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。
陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前・陸中等を分割後の部分。
陸前国 りくぜん - 1869年に陸奥国より分立。
陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年に陸奥国より分立。
岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年に陸奥国より分立。
磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年に陸奥国より分立。
羽前国 うぜん - 1869年に出羽国より分立、現山形県に相当。
羽後国 うご - 1869年に出羽国より分立、現秋田県に相当。
3、北陸道
若狭国 わかさ(若州)
越前国 えちぜん/ゑちぜん(越州)
加賀国 かが(加州) - 823年に越前国より分立。
能登国 のと(能州) - 718年に越前国より分立。741年に越中国に併合されるも、757年に再分立。
越中国 えっちゅう/ゑつちゆう(越州)
越後国 えちご/ゑちご(越州)
佐渡国 さど(佐州、渡州) - 743年に越後国に併合されるも、752年に再分立。
4、山陰道
丹波国 たんば(丹州)
丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。
但馬国 たじま/たぢま(但州)
因幡国 いなば(因州)
伯耆国 ほうき/はうき(伯州)
出雲国 いずも/いづも(雲州)
石見国 いわみ/いはみ(石州)
隠岐国 おき(隠州)
5、山陽道
播磨国 はりま(播州)
美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。
備前国 びぜん(備州)
備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州)
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう/すはう(防州、周州)
長門国 ながと(長州)
6、南海道
紀伊国 きい(紀州)
淡路国 あわじ/あはぢ(淡州)
阿波国 あわ/あは(阿州)
讃岐国 さぬき(讃州)
伊予国 いよ(予州)
土佐国 とさ(土州)

7、西海道
筑前国 ちくぜん(筑州)
筑後国 ちくご(筑州)
豊前国 ぶぜん(豊州)
豊後国 ぶんご(豊州)
肥前国 ひぜん(肥州)
値嘉島 ちか - 876年に肥前国より分立。数年後に再編入。 現在の長崎県平戸島及び江島、平島を除く五島列島及び附属島嶼。
肥後国 ひご(肥州)
日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)
大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) - 713年に日向国より分立。
多禰国 たね - 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) - 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) - 古代は「壱岐嶋」[1][2]。
対馬国 つしま(対州) - 古代は「対馬嶋」または「対馬国」

「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

2024年09月28日 | 写真
アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。
それから小金井に家を作り住んでいます。ある時、旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩きました。
昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。
写真を撮って来ました。

1番目の写真は国分寺駅の南口です。

2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。この写真だけはインターネットからお借りしました。

3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。

4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。

「武蔵国分寺と全国にある国分寺」

2024年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
いきなり自分の新婚の頃の話で恐縮ですが、その頃、武蔵国分寺のあった国分寺市に住んでいました。家の近所に国分寺跡と国分尼寺跡の公園がありました。妻と1歳の長女と何度も遊びに行った懐かしい公園です。その写真を示します。

1番目の写真は武蔵国分寺の本堂の礎石だけが並んでいます。周囲は広々とした公園になっています。

2番目の写真は武蔵国分尼寺の本堂跡の礎石です。武蔵国分尼寺跡です。国分寺跡の西側にあります。これらのお寺の跡地を見ながら昔を偲んで散歩したものです。
この武蔵国分寺の本堂の礎石群の北側に新しい武蔵国分寺があります。

3番目の写真は現在の国分寺です。この本堂は1725年に再建されたものです。

4番目の写真は現在の国分寺本堂の左の小山の上にある薬師堂です。宝暦6年(1756年)頃に薬師堂は再建されています。
昔の武蔵国分寺は『医王山国分寺縁起』によれば、元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335年)、新田義貞により薬師堂が再建されたと伝承されています。その後衰退しましたが前述の通り1725年に本堂が再建され、宝暦6年(1756年)頃に薬師堂が再建されました。
武蔵国分寺について書きましたのでついでに全国の国分寺と国分尼寺をご紹介したいと思います。
国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇から「国分寺建立の詔」が発せられ、その建立が日本全国に指示されました。国分寺というものは、奈良時代に聖武天皇がその建立を指示したものです。
国分寺は「国分僧寺」と「国分尼寺」の2種類の分かれており、一般的には「国分僧寺」の方が「国分寺」と呼ばれています。聖武天皇は「仏教」によって国を守るという「鎮護国家思想」を政策の柱とします。鎮護国家思想により、国分寺建立や大仏建立・東大寺の整備や奈良の南都七大寺に対する手厚い保護といった国家的な「仏教政策」が実施されたのです。
現在も「~国分寺」と名乗る寺院は多数残されており、その多くは一時廃寺になった寺を近世以降に復興したものです。(以上、https://narakanko-enjoy.com/?p=31888 より抜粋)

壱岐や対馬も含めて全国、60以上の場所の国分寺と国分尼寺の一覧表は下記の資料に出ています。https://origamijapan.net/origami/2018/07/28/kokubunji-kokubun-niji/
なお現在の武蔵国分寺の近くには武蔵国分寺跡資料館があり出土した器物が展示してあります。

5番目の写真は武蔵国分寺跡資料館の入り口です。
展示物にはいろいろありますが特に興味深いものは「住田古瓦コレクション」です。
古瓦コレクターとしても知られる海事史・法制史学者 故住田正一氏のコレクションで全国の国分寺の瓦を展示してあります。詳しは次の本をご覧下さい。
『住田古瓦コレクションの世界―瓦に魅せられて―』(出版社、国分寺市教育委員会, 2018)
ついでに備中国分寺の写真を示します。

6番目の写真は備中国分寺です。備中国分寺は岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院です。

7番目の写真は備中国分寺の客殿・勅使門です。
この国分寺は廃寺となっていたのを天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興しました。しかしそれも衰微したので江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたものです。

今日は武蔵国分寺と国分尼寺の思い出と全国の国分寺について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカの紅葉の風景」

2024年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの紅葉の風景写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://mikissh.com/diary/us-foliage/ です。
1番目の写真はロッキー山脈の中にあるコロラド州のスキーリゾートタウン、アスペン周辺です。紅葉の時期に人気のエリアです。
2番目の写真はカリフォルニア州の、ネバダ州との境界に聳え立つ、シエラネバダ山脈周辺の ヨセミテ国立公園 の紅葉です。
3番目の写真はニューヨーク州のキャッツキルズの紅葉です。ニューヨークシティから車で2時間程の紅葉スポットのキャッツキルズ (The Catskills) です。
4番目の写真はアメリカの紅葉で有名なバーモント州の人気リゾートタウン、ストウ (Stowe) です。

「なぜ私は毎日ブログを書くのか?」

2024年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログを書きだしたのは2007年11月からです。それ以来毎日続けて書いてきました。旅行に出た日以外は毎日書いてきました。何故こんなに続くのか自分でも驚いています。
今日はなぜ私が毎日ブログを書くのか考えてみました。
理由は書くのが楽しいからです。2007年から毎日書き続けていると書くことが無くなります。しかし以前に用いた同じテーマを少し書き直して掲載します。書きなおす部分は冒頭の部分です。日月が流れると私の生活もかわります。考え方も変わります。そんな変化を反映した文章を冒頭部分に書くのです。
そして続きの部分は以前に用いた同じテーマを少し書きなして掲載します。以前に用いた同じテーマを書くと楽しかった体験がよみがえって来るのです。楽しかった思い出は何時までも楽しいです。
ブログを読んだ家内が、「同じことを書かない方が良いのでは?」と言います。ごもっとです。
昔は読む方が毎度興味を持って読んでくれるように新しい話題を考えて書いていました。しかし時が流れると新しい話題に窮するようになります。そこで以前と同じテーマを掲載します。
それでも楽しかった体験がよみがえって来るのです。ブログを書くのは読者のためより次第に自分のためになってきたのです。
それでも次第に読者が増え最近は毎日1000人前後の方がこのブログを見てくれます。有り難いことです。感謝しています。
武蔵野の平林寺の紅葉の写真をお送り致します。
13万坪以上もある広大な境内には昔の武蔵野が手つかずで保存してあるのです。紅葉した雑木林の風情が魅力です。この雑木林は国の天然記念物に指定されています。紅葉の写真をお楽しみ下さい。2015年12月2日に撮りました。
平林寺へはJR武蔵野線新座駅よりから徒歩かバスです。門前には有料駐車場もあり車の方が便利です。12月上旬が紅葉の見頃です。是非お出掛け下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
人生にはいろいろなことがあります。でも終りに近づくと、嗚呼、邯鄲の夢だったと思う日々が多くなります。
その人生の中で私は自慢出来るたった一つのことがあります。それは山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を持っていることです。
1974年に作ってから50年間も通っていることです。何故、自慢に思うのか理由は分かりません。
春夏秋冬、その小屋の周囲の自然を眺め自然に魅了されてきたのです。しかも高齢になると自然の風景に一層深く感動するようになります。
特に2016年には11月の紅葉の美しい時に行きました。周囲の雑木林が晩秋の色になっていました。撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は紅葉の雑木林の中を登りつめた所にある山林の中の小屋です。
6畳間と4畳間の鉄筋コンクリートの小屋です。湿気の多い場所なので腐らないコンクリート製にしました。
この小屋には妻と何度も泊まりました。子供や孫たちも連れて行きました。勤めていた大学の研究室の学生さんたちも行きました。いろいろ思い出があります。

2番目の写真は小屋に行く道路の様子です。
こんな道を根気よく2Kmほど登ると小屋に着きます。

3番目の写真は小屋の窓の下によく来る野生の猿です。
群れで来ますがボス猿だけ窓の下に来て私が危険な動物か否か確かめに来るのです。
猿の他、鹿や狐やイノシシも時々見かけます。本当に深い山林なのです。

4番目の写真は標高2,967 m の甲斐駒岳です。
甲斐駒ヶ岳は古くから信仰の対象でした。山麓の駒ヶ岳神社から実際に登ってみると山頂にいたる黒戸尾根には現在も不動岩等の信仰にまつわる石碑や石仏が残っていました。

写真で示したように小屋は人気の無い深い、深い林の中にあります。
そこに行くと自分を見つめなおします。自分の人生を考えます。
すると私は古い「立身出世主義」に無意識に囚われていたことに気がついたのです。立身出世よりも大事なものがあるのではと考えるようになったのです。
それまでは自分の専門の分野の人々としか付き合わなっかのです。
山林の中の小屋のおかげで視野が広まったのです。
それ以来、私の人生観が変わりました。狭い人生観が広がったのです。自由と平等とはどういうことか少し理解出来るようになったのです。
山林の中の小屋のお陰だと今でも思っています。

今日は山林の中の小屋をご紹介しました。そしてその小屋のおかげで私の人生がどのように変わったかを説明致しました。

今日は皆様も趣味を楽しみ、輝く老境を持つ事をお祈り申し上げます。

「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
山林の中の私の小屋の近所にある美術館をご紹介いたしたいと存じます。山梨県の北杜市にある清春白樺美術館です。
清春白樺美術館の南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。ラ・ルーシュはパリから移築した本物です。
そしてエッフェル塔の階段の一部が庭に展示してあります。
その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼が作りました。十字架像は17世紀のものをルオーが彩色しました。
敷地の奥にはパリでルノアールに師事していた梅原龍三郎のアトリエが移築され展示されています。
この一画を清春白樺芸術村と言います。銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。敷地に沿って桜の大樹があります。
1番目の写真は清春白樺美術館の門です。
古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入ると集合アトリエのラ・ルーシュがあります。パリの雰囲気を感じます。
2番目の写真は敷地内にある白樺林の向こうにある美術館の本館です。
ルオーの油彩画多数と、梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。
そしてこの美術館はよく企画展を開催しています。その予定表は美術館のホームページに出ています。
3番目の写真は清春芸術村にあるレストランです。
ここでコーヒーをゆっくり楽しみます。後ろの丸い建物が集合アトリエのラ・ルーシュです。コーヒーを運んできた女性がヨーロッパの人でした。
4番目の写真は白樺林の中にはルオー礼拝堂です。
5番目の写真はルオー礼拝堂の内部です。古いヨーロッパのオルガンがあります。左上のステンドグラスはルオーが作ったものです。
6番目の写真は美術館に展示してあるルオーの風景画です。
7番目の写真は美術館にあるイエス様の画です。
8番目の写真は十字架にかけられたイエスの絵です。
この美術館はそのものが楽しいだけでなく周りも豊かな雰囲気が漂っています。少し脚を伸ばすと雑木林の中には有名な蕎麦の店「翁」があり楽しい場所なのです。
そこは八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパに似ています。
そんな風景と美術がお好きな方々へ心からお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ていますので、晴天の日にお出掛けになっては如何でしょうか。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)