後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

曇り日の桜花の写真です

2010年03月31日 | 写真

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今日は朝から寒い、憂鬱な曇り日です。しかし桜の花が気になって、彼方此方へ行って写真をとりました。武蔵境の桜堤団地、小金井公園、小金井市貫井南町の野川沿いの3ケ所です。肉眼で見ると、美しく咲いていますが、カメラで撮ると、暗い雲の影がさしている写真になりました。下手な写真で恐縮ですが、スモモと桜の写真3枚をお送り致します。(終り)

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北海道の地名の8割はアイヌ語、そして富士山、利根川、能登もアイヌ語です

2010年03月31日 | うんちく・小ネタ

北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っているそうです。しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものです。

その上、驚くべきことは、富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だそうです。そして神佛などというときの「神」もアイヌ語から来ているそうです。このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかし本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残して退却していったのです。

話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。オハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行いきます。しかし先住民から受け継いだ貴重な名前を軽々しく変更すべきではないと信じています。

最後に参考資料として、「北海道の地名・駅名」についての資料を付記しておきます。

「北海道の地名・駅名」というキーワードで検索すると、北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則らしいものが分類され出ています。

=========Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋======

北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。

  • アイヌ語に由来するもの
    • アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
    • アイヌ語をそのまま使用しているもの
  • 内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
  • 周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
  • 上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの

@アイヌ語に由来するもの

アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。

  1. アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
  2. アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの(日本語を割り当てていない)

@アイヌ語に漢字表記をあてたもの

老者舞(おしゃまっぷ)
(釧路町老者舞集落入口にある標識)

漢字の当て方には、次の2通りが見られる。

  • 音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
  • 意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの

音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。

これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、道内に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。

========以下省略==================


アイヌ民族は1912年には北海道に先住民族として実在していました

2010年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

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(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C)

1947年の頃、私は仙台の郊外の開拓に住んでいたアイヌの少年と遊んでいました。ほんの2年たらずで色白のアイヌ少年が何処かに引っ越して行ってしまいました。気だての優しい子で、いつも静かな黒い瞳で私を見ていました。それ以来、アイヌという民族へ関心があり、いろいろな本を読みました。北海道を旅した時は旭川や平取では観光客の為のアイヌも訪問しました。

昨日、ヨットのキャビンの本棚で、以前に読んだアイヌに関する本を見ました。これは是非、皆様へもご紹介したい本です。1912年にチェコのヤン・ハヴラサという旅行家が北海道のアイヌを訪ねて撮った写真が沢山掲載されています。1912年のアイヌでは伝統的なアイヌの衣装を着て生活をしていたのです。独立した民族としての最後の頃の写真が多くあります。日本人はこの全く違う文化を持った他民族を消し去ったのです。現在は2010年。丁度100年位後です。多くの日本人はアイヌが北海道に堂々と住んでいたことを忘れてしまいました。しかしたまにはアイヌ民族のことを思い出してみることも良いと信じています。日本人も多民族を犠牲にして発展して来たのです。どうしようもない人間の悲しさが感じられます。

その本は、ヤン・ハヴラサ著、長与進訳、「アイヌの秋ー日本の先住民族を訪ねて」という本です。未来社から1988年9月に第一刷が発行され、1994年1月に第3刷が発行されています。(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


ディンギーとクルーザーの おかしな会話

2010年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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ヨットという船には2種類あります。どんなに強風が吹いても転覆しない大きめのクルーザー型ヨットと、すぐに転覆するディンギーという小型ヨットです。全国の高校や大学のヨット部ではディンギーだけの競技大会へ出場しています。若い学生にはクルーザーヨットの競技がありません。転覆した小型ヨットを自分で起こしレースを続行します。

上の写真は筑波大学のディンギーです。春先の西風に吹かれ今にも転覆しそうです。

数年前の春さきにクルザーで霞ヶ浦へ出て行きました。季節の西風が急に強くなって沖のディンギーが5隻程転覆しています。私はあわててエンジンをかけ、帆を下ろして救助にむかいました。一番早く着いたディンギーの二人の学生に声をかけました。「オーイ!引っ張ってあげるから、ハーバーへ帰らないか?」。すると学生は答えました、「いいです!船を起こしてレースを続行する訓練をしているのです!」。そこで次の転覆しているディンギーへ近づきます。2人の学生が体力を消耗してだいぶ弱っています。「オーイ!マリーナへ帰ったら生ビール2杯飲ましてくれるなら引っ張って、救助してやるぞう!!」、と冗談半分で呼びかけます。実はこの冗談が重要なのです。それで心にゆとりが出来、ヨットを自分で起こす元気が出るのです。「勿論、生ビール2杯位おごりたいです!でもゲルピンです!先輩がおごって下さい!」。こういう返事が返ってくるときは救助してはいけません。

そうこうしているうちに監督がモーターボートでマリーナから出て来ます。学生たちはそれを待っていたのです。通りがかったクルーザーに助けられたら競技会への出場チームから外されるのです。

それ以来、突然の強風で転覆してるディンギーを見ても救助しないことにしました。少し遠方から、体力の消耗の程度を注意深く観察することにしています。近くに監督の乗ったモーターボートが居る時は邪魔をしないで離れるようにしています。

海上で救助を求める船と、救助する船の間には色々なコミュニケーションがあるのです。救助しないで通りすぎた船にも事情があるのです。救助して貰いたい船は、そのような事態になったのは自己責任です。運が悪かったと諦めるべきです。船乗りとは何時でもそのような覚悟が出来ている人です。ご参考になれば嬉しく思います。(終り)


久しぶりの晴天なので霞ヶ浦で少しセイリングしてきました

2010年03月30日 | 写真

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風の弱い、しかし寒い日でした。少しセイリングをして帰港しました。キャビンの中で家内が昼食の料理をしはじめました。その時、近所に係留しているヨットの船長のNRさんが訪問してくれました。

以前、横浜ベイサイドマリーナでヨットをしていた方です。最近、霞ヶ浦へ船を陸送して来たそうです。霞ヶ浦の、浅くて座礁しそうな所を教えて下さいと、丁寧に聞いていました。群馬県の館林のそばから2時間のドライブで往復しているそうです。

帰りがけにマリーナへ寄り、22年お世話になっているSTさんへエンジンの調整をたのんでから帰ってきました。抜けるような青空で久しぶりに気が晴れました。

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陽賜里工房、オープンガーデンのお知らせ

2010年03月29日 | うんちく・小ネタ

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上の写真は山梨県の北杜市の真原(さねはら)の昨年の桜並木の風景写真です。後ろの山が甲斐駒岳です。

この桜並木の東の端の南面になだらかな傾斜をしているところに「陽賜里工房」(ひだまりこうぼう)という庭があり、美しい花々が植えてあります。

ターシャのお婆さんのような女性とその息子さんが作っている庭です。

時々その庭を一般開放して、お茶やコーヒーを出してくれます。

ことしも桜の花が咲く頃の、4月10日(土)から17日(土)までオープンガーデンを致します。朝は10時から午後4時頃までです。気楽に庭の花々を楽しんで、ひと休みになさって下さい。そして桜並木もゆっくりお楽しみ下さい。多くの方々のご来駕をお待ちしています。

陽賜里工房ガーデンの住所は、山梨県北杜市武川町山高3567-556です。小生の山林の中の小屋へ行く途中にあるので、時々通りかかり2、3度お話をしました。

お問い合わせ先は、携帯:090-4170-0370の原田聖也さんまでお願いします。原田さんの E-mail は、t-taraku@t-net.ne.jpです。

尚、秋のオープンガーデンの予定は、9月23日(木)から25日(土)を予定しています。そして、甲斐駒山麓で偶然見つけたターシャ! をクリックすると庭の写真が出ています。 陽賜里(ひだまり)工房の秋のオープンサロンのお知らせ は昨年のオープンガーデンのお知らせの記事です。ご参照下されば様子がお分かり頂けます。

下の写真は昨年撮った陽賜里工房の西方向を見た風景で、チューリップ畑もあります。

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老人のオセッカイの実例ー私のことですが、

2010年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

仕事を一切止めて老人の生活を続けていると年金の有難味がしみじみ分かります。それで充分生活出来る程ではありませんが。しかし色々な事情で年金の無い人々もいることを忘れてはいけません。

それにつけても何時もクラシック音楽をしている方々の厚生年金がとても心配です。これは全くの迷惑なオセッカイですが、高齢者の独り言としてお許し下さい。

3年ほど前に名古屋港から仙台港まで少し豪華なカーフェリーに乗ったことがあります。夜の余興にオペラ歌曲のテーノール独唱が2時間近く続きました。豊かな美声です。本場のヨーロッパでもプロのオペラ歌手として通用するような歌手です。あまりにも感激したので終演後、ロビーへ出て来た彼に丁寧な讃辞を送りました。そして私は、「こんな素晴らしい才能を持っているのにカーフェリーで歌うとはもったいないですね」と言いました。彼はとんでもない 聞いて頂いて感謝しています、と言います。そしてクラシック音楽をしていると収入が少なくカーフェリーは実に有難い収入源なのです、と言います。それ以来クラシック音楽を職業にしている人々の厚生年金を誰が払い込んでいるいのかが大変心配になっています。

話が飛びますが、昨年の暮れ以来、日本キリスト教団小金井教会で地味な宗教音楽を聞きました。そして以下のような方々の人生へ対する真摯な取り組み方に感動しています。ポジテブ・オルガンの松居直美さん、ビオラ・ダ・ガンバの福澤宏さん、ソプラノの冨山瑞江さん、鈴木美紀子さん、松村萌子さん、の5人です。皆さん、ヨーロッパの本場へ修業に行って帰国し、地味なクラシック音楽を職業にしている方々です。しかしその音楽的才能は輝かしいのです。まぶしい程です。

老人のオセッカイです。この方々の厚生年金をどのような会社が払っているか心配で検索して見ました。皆さん会社に常勤で働いていません。おちこちのコンサートで音楽活動をしています。心配です。このような心配を「迷惑な老人のオセッカイ」と言います。冨山瑞江さんヘメールを送り、そのHPから緑豊かな森に陽が射しこんでいる写真を御借りしました。挿絵として掲載させて頂きます。老人の悪い癖はいろいろありますが、オセッカイのその一つです。努力して悪い癖を直そうと思っています。詰まらない話で失礼しました。(終り)

ヨーロッパ文化の奥を少しかいま見るー復活祭前の宗教音楽 と 「ヨーロッパ文化の奥を少しかいま見るー復活祭前の宗教音楽」という記事の補遺 をご覧下さい。

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アメリカ内陸部のモーターボートの楽しみ方、そして日本の生態系への影響

2010年03月29日 | うんちく・小ネタ

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@アメリカで海岸から遠い地方ではモーターボートを家の裏庭に置いている。

内陸部のアメリカの住宅街を車で通っているとよく見かける光景です。裏庭にモーターボートが台車に乗せて、無造作に置いてあります。週末になるとその台車を車で引っ張って湖沼へ行きます。岸辺には台車ごと水中へ滑り下ろすためのコンクリート製のスロープが必ず付いています。モーターボートを水に浮かべ、車を駐車場に入れます。それで準備完了です。モーターボートに乗って一日中遊び回ります。ルアーの釣り道具を持ちだしてバス釣りを楽しむ人々も居ます。

所が日本ではこういうふうには行きません。第一、家の裏庭が狭くてモーターボートなど置いておけないのが普通です。その上、多くの湖岸にコンクリート製のスロープが付いていません。日本ではモーターボートは決まった係留場所にお金を支払って係留しています。その係留料が高額なのが普通です。

アメリカの内陸部でもモーターボートが楽しめるように出来ているのです。年間所得を比較すると日米で遜色ありません。しかし生活を楽しむ費用に雲泥の差があるのです。

ところが最近、霞ヶ浦ではアメリカ流のモーターボートの楽しみ方が流行ってきました。家の庭から引っ張って来た高速のバス釣り専用のボートが湖面を多数走っています。

@湖岸のスロープのお陰でアメリカ式バスボートが霞ケ浦に増加しました。

大物のバスを釣るには人の行かない遠方の葦原の根本を狙います。100馬力以上の船外機をつけた高速のバスボートがアメリカから輸入され、霞ヶ浦を縦横に爆走しています。このモーターボートは時速50km以上の出る、平らな船です。釣り場に着いたらエンジンを止め、船首から下ろした小さなスクリューを電池で静かに回して動き回ります。魚が驚いて逃げないように注意しながら釣るのです。

霞ヶ浦の岸辺にはコンクリート製の立派なスロープが付いています。車で引っ張って行ったモーターボートを水に降ろす設備です。日本の湖沼にはこのスロープ装置がついていない所が多いのです。しかし霞が浦ではあるのです。誰でも自由にモーターボートを水上へ浮かべることが出来ます。

その上、茨城県の農村地帯は家屋敷が大きく、バスボート位は納屋に入れておけます。その結果、数多くのモーターボートが車に引かれて湖へ来るようになったのです。

@アメリカ流の釣りが流行ってバスやブル-ギルが大繁殖しました。

霞ヶ浦で、アメリカバスやブルーギル、そしてアメリカザリガニが大繁殖しています。旺盛な食欲で霞ヶ浦名物の白魚やワカサギ、そして芝エビを食い尽す勢いです。ヨットの係留してある岸壁で釣りをしている人々と話してみると皆が嘆いています。彼等はヘラブナ釣りの専門家です。あるいはワカサギだけを狙って釣っている人々がいます。それぞれ釣り道具が違います。餌も違います。しかしアメリカ産のバスやブルーギルはどんな餌にも食いついて釣りあげられます。釣りを心静かに楽しんでいる人々の神経を逆なでします。

沖では名物の帆引き網の漁もしています。しかしその網にもかかって来て白魚漁の邪魔もします。

ルアー釣りは日本古来のウキを静止させる釣りより面白いようです。特に若者にとっては魅力的です。色彩豊かな擬似餌の準備、リールをカラカラ言わせて遠投するときの快感。釣れれば、バスは手元に引き寄せるまで水中を走り回って抵抗する。それを上手に操って手元に引き寄せる時間が楽しいそうです。

釣りは生業として、あるは趣味として古来から日本にありました。趣味は個人の好みで自由にして良いと言います。それはそうかも知れませんが湖沼の生態系が変わって行くのをどの様に考えれば良いのでしょうか?

皆さまのご意見をお聞かせ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

(上と下に示した写真は国内で販売されているバス・ボートと牽引車です)

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人間国宝の陶芸作品の写真をお送りします

2010年03月28日 | 写真

このブログの昨年、11月2日の記事で、日本藝術協会の主宰者の尾張裕峯氏のご活躍ぶりをご紹介致しました。それ以来このブログへ常にコメントをお送り下さっています。感謝に堪えません。

尾張裕峯氏はこの3月の中旬に、中日新聞後援で日本藝術協会創立10周年記念展覧会を愛知県、岡崎市で開催されました。その折に特別展示された人間国宝の陶芸家の徳田八十吉氏の作品の写真を展覧会の関連写真とともにメールで送って下さいました。あまりにも素晴らしい陶芸作品なのでその写真を皆様へ、お送りします。

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尚、下の写真の左端が尾張裕峯氏です。その下の写真は開催された特別展覧会の様子を伝える中日新聞の記事の写真です。クリックして拡大すると徳田八十吉氏の作品の説明が御座います。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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尾張裕峯氏のご紹介は、ネット上の友人の陶芸家、尾張裕峯さんをご紹介致します。をクリックすると見ることが出来ます。日本藝術協会のHPは、http://yuhoh.hp.infoseek.co.jp/ です。合わせてご参照下さいますといろいろお楽しみ頂けると思います。写真をメールでお送りして下さった、尾張裕峯氏へ感謝して終りと致します。(完)

 


死んでも49日間は家族の近くに居てくれる

2010年03月28日 | うんちく・小ネタ

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日本では、死んだ人は49日間は家族のそばに居て、それが過ぎると浄土の旅に出ると信じられています。運が良ければ、残された家族が、「生き返った死者」と少しだけ会えます。死者が生き返って家族ともう一度別れの会話をかわして浄土への旅立つのです。

キリスト教で一番違和感を感じるのは復活という字です。しかし死者が49日間は家族のそばにとどまるという感じ方と同じなのです。死刑になったイエス・キリストが愛する弟子たちと別れるのが辛くて、もう一度生き返って会いに戻ってくるのです。その後で天に昇るのです。このように考えると復活は身近に感じられます。復活祭とは、イエス・キリストが生き返って、弟子たちと別れの言葉を交わしたことを祝うお祭りです。ここまでは人情から自然に理解できます。

キリストがゲッセマネの丘で最後の祈りをしていた時、天には満月がかかっていました。その後すぐにユダの裏切りに会い、ピラトの判決で死刑になります。そして3日目に生きかえって弟子たちへ会いにくるのです。このような聖書の記述にしたがって復活祭の日が決まります。春分の日の後の最初の満月の後の金曜日に続く日曜日を復活祭とします。太陽暦で満月は15夜と限らず、変わって行きます。従って太陽暦であらわした復活祭は毎年変わって行きます。今年は4月4日の日曜日です。

このように理解すると復活祭が日本人にもごく自然に感じられます。

キリスト教は宗教の一つです。復活の意味をもっと拡大して、「全ての死者が生き返る。そしてキリストが降りて来て最後の審判をする。」と信じます。この部分はキリスト教の信仰の重要な部分です。ですからキリストの誕生日のお祭りのクリスマスよりもある意味でもっと重要な祭日なのです。

キリスト教に違和感を持たないで、仏教国の日本に育った自分の理解の仕方を書いてみました。ご参考になれば嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


「ヨーロッパ文化の奥を少しかいま見るー復活祭前の宗教音楽」という記事の補遺

2010年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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この下の記事で、ヴィオラ・ダ・ガンバ;福沢宏さん(オランダ・デン・ハーグ王立音楽院卒)、ポジティブ・オルガン;松居直美さん(ドイツ、フライブルグ大学卒)のお写真を示すことが出来ませんでした。あらためて写真を掲載します。写真左が福沢宏さんで、右端が松居直美さんです。

真ん中の女性は冨山瑞江さんです。この写真の出典は冨山さんのHP(http://tomiyamamizue.ivory.ne.jp/index.html)です。冨山瑞江さんのことは別の記事でご紹介する予定です。(終り)


ヨーロッパ文化の奥を少しかいま見るー復活祭前の宗教音楽

2010年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム

キリストはローマ総督のピラトの裁判で死刑になります。しかし3日目に生き返って、弟子たちに現れ、少しだけ話をして天上へ昇り、神の右の座に着きます。このキリストの復活を記念し、祝う日が復活祭です。キリスト教ではクリスマスとともに一番重要な祭日です。今年は4月4日(日)が復活祭です。その前の40日を四旬節といいキリスト教国では娯楽的な歌舞音曲をひかえ、宗教的な音楽を演奏します。日本ではあまり演奏されませんがヨーロッパ文化の重要な一部になっています。

今日の午後2時から日本キリスイト教団小金井教会(丸山和則主任牧師)で受難節のフランスバロックの音楽会がありました。ルイ14世に仕え、ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂のオルガニストを務めたフランソア・クープランの作曲したミサ曲を中心にした演奏会でした。

通俗的なオペラとは違って、神秘的な美しさが心に沁み込むようなソプラノでした。この上ない美声でデュエットするのです。宗教音楽の芸術性とはこういうものかと想像しながら聞きました。

そして16世紀から17世紀の楽器、ビオラ・ダ・ガンバは一見チェロと同じようですが、音質がまったく違います。古い音です。産業革命前のヨーロッパの音です。古い音とは説明が困難ですが、しいて例えれば雅楽の楽器のような夢のような音です。素朴で洗練されていないだけに、心臓に響きます。決して知性へ訴えたりしないだけに感動が直接的です。

出演者はソプラノ2人、ポジティブ・オルガン奏者とヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の合計4人で、下記のようにいずれもヨーロッパで修業をしたプロの方々でした。

ソプラノ;鈴木美紀子(ベルギー王立リエージュ音楽院卒)、同じくソプラノ;松村萌子(ブレーメン藝術大学卒)、ヴィオラ・ダ・ガンバ;福沢宏(オランダ・デン・ハーグ王立音楽院卒)、ポジティブ・オルガン;松居直美(ドイツ、フライブルグ大学卒)。

最後に丸山和則主任牧師さんの短いご挨拶があって散会しました。ヨーロッパ諸国だけでなく世界中の国々には日本で演奏されない音楽が星の数だけあるものだと独りで考え込みながら家内と歩いて帰ってきました。

下の写真には鈴木美紀子さん(左)と松村萌子さん(右)とビオラ・ダ・ガンバを示しています。

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ある一つの理想的な老後の例ーGAKUさんのプーケット風景写真

2010年03月27日 | 写真

GAKUさんはタイのチェンマイに ご夫婦で、悠々自適の生活をしていらっしゃいます。そのブログ、「Wooたんのチェンマイ通信(http://gaku404.exblog.jp/)」は実に楽しいブログです。幸せなご夫婦がチェンマイの人々を大切に想い、静かに生活している様子が分かります。ブログには美しい花々や風景の鮮明な写真が沢山掲載されています。美味しそうな料理の写真も興味深いものです。兎に角、心配事が一切書いてありません。何も憂えなく、自然に生きているのです。ご夫婦の境地は理想的な老後のありかたをお教えてくれます。何故か気持ちが落ち込んだ時には必ず見るようにしています。

今朝も見ていましたらご夫婦でプーケットへご旅行した時の写真がありました。一度行きたいと思いつつ、夢で終わりそうな所です。

その写真をお借りして、皆様へプーケットの素晴らしさをお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

GAKUさんへ感謝し、ご夫妻のご健康をお祈り致します。(終り)

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戦死した方々のお墓へ合掌する

2010年03月26日 | 写真

私の祖父は兵庫県の山里の住職でした。叔父もそのあとを継いで住職でした。そのせいか散歩するときは、時々お寺の裏の墓地を歩きます。倶会一処です。皆が平和に一緒に眠っています。先日、立川のそばの旧砂川村のお寺の裏を散歩して来ました。お墓をひとつひとつ見て回ります。お彼岸の後なので、どのお墓も花が飾ってあり、線香の匂いもしていました。

江戸時代の初期から続く古いお寺です。どの家も先祖代々の眠るお墓が一つあります。ところが、その隣に一段と大きな墓石が立っている墓地があちこちにあります。中国戦線や南太平洋の島々で戦死した人のお墓です。戦死した息子の為に両親が先祖代々の墓よりも大きな墓石で作ったものです。

悲しい親の気持ちを思うとつい涙が滲みます。さぞ無念な思いをしたことでしょう。思わず合掌しました。探すとそのような戦死した人の大きな墓石が沢山あります。砂川村から賑やかな声に送られ、「武運長久」のタスキをかけて出征していったのです。二度と故郷へは帰らなかったのです。

悲しい気持ちで墓地を出てきました、出口に下の写真のようにお地蔵様が一列に並んで私を慰めてくれました。

若い方々へお伝えして置きたいと思い、戦死した人々の大きな墓石の写真をお送り致します。先祖代々の墓よりも大きな墓石であることをご記憶ください。合掌。

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