後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「湖水の国、フィンランドの風景写真」

2024年11月30日 | ブログ
湖水の国、フィンランドの風景写真をお送り致します。
フィンランドは首都ヘルシンキは賑やかな街ですが、地方は湖水が点在する淋しい風景でした。
そんな写真をインターンットからお借りしました。
 

「北欧のサウナの思い出」

2024年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
以前にフィンランドの首都にあるヘルシンキのヘルシンキ工科大学の同じ専門の教授を訪問しました。この北欧の旅では何度かサウナを体験しました。
サウナは家族でも楽しみますが、旅人をもてなすためにも使います。疲れた旅人にくつろいで貰うために提供する最大の歓迎のしるしなのです。そのような使い方は昔からの北欧の伝統文化なのです。
1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待されました。
訪問者をもてなすためのサウナが必ず大学についているのです。
広いサウナで16坪くらいはありました。日本の大学にサウナはありません。
北欧のサウナは、極北の香り高い白木で内装されています。隣に談笑する大きな部屋が付いていて、窓からは広々とした風景が見えるのです。
その談笑室には白木のテーブルと椅子があり、酒を飲みながら裸で談笑するのです。
酒は雑穀を発酵させ蒸留した透明な強い酒。ロシアのウオッカや中国東北地方の白酒に似ています。この蒸留酒に、自宅の裏庭で摘んできたラズベリーやコケ桃の実の汁を入れて風味を付け、大きなボールに入れて運びこみます。それを木製の大さじで各自グラスに取り、飲むのです。
ヘルシンキ工科大学を訪問した時もサウナを体験しました。ノルウエイのトロンハイムの工科大学を遠路はるばる訪ねたおりにも大学のサウナに招待され歓迎されたのです。
フィンランドの家庭用のサウナの写真をお送り致します。

以上のようにサウナは北欧の重要な伝統文化なのです。
今日は北のサウナの思い出をご紹介致しました。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「北欧の先住民、サーミ民族の写真」

2024年11月30日 | 写真
サーミ族はラップランド人ともよばれる、北欧スカンジナビア半島の最北部、北緯66度33分の北極線より北の北極圏中心に住んでいるトナカイ遊牧民です。ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧三国とロシアの四ケ国にまたがっています。
サーミ族はラップ人ともよばれ、スウェーデン、フィンランド、ロシア、ノルウェーなどの国家が成立する以前の大古から北欧に住んでいた先住民です。
そのサーミ民族写真をお送り致します。出典は、 https://kinarino.jp/cat6/2299 です。
1番目の写真はサーミ民族が飼っているトナカイです。肉は食料にして皮は衣服にします。
2番目の写真は伝統衣装を着た少女たちです。
3番目の写真も伝統衣装を着た少女たちです。
4番目の写真は伝統衣装を着た男性です。

サーミ民族は伝統的に沿岸漁業、毛皮の捕獲、羊の放牧など、さまざまな生業を営んできました。最もよく知られている生業は、半遊牧のトナカイ放牧です。2007年現在、サーミ人の約10%がトナカイの放牧に従事しています。ノルウェーでは、約2,800人のサーミ人がトナカイの放牧をしています。
 サーミ人の民族衣装を特徴付けるのは色彩豊かな上着、コルト(Kolt)です。フェルト地で作られるこの上着は女性の手によって織られ、地方ごとに細かな差異があります。帽子のデザイン、フェルトの地色や飾り付けの違いによって、それを着ている人が、どの村の出身であるのか大体のことがわかるのです。 
以上はサーミ民族の簡単な紹介です。

「年老いて振り返る我が人生(14)ライン河の鰻の蒲焼と船上パーティ」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

1番目の写真はドイツの鰻の写真です。
ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
2番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。
3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目と5番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です
4番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。
5番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。
6番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(12)ドイツ留学で受けた影響」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
はじめにアメリカへ留学しました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。
アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。
外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。
写真の出典は、
https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-… です。

2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

3番目の写真は「市庁舎の塔」から眺めたローテンブルク市内の家並みです。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

4番目の写真は世界遺産に登録されている「バイエルンの真珠」と称えられるバンベルクの風景です。
出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。

5番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「年老いて振り返る我が人生(11)熱烈日中友好の時代」その三

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、1978年に中国の最高指導者、鄧小平が初めて日本を訪問した後、中国では熱烈な日本ブームが巻き起こったのです。
日本の物なら何でも大好き、日本人なら誰でも大歓迎という熱気あふれる時期が1978年から天安門事件の1989年まで続いたのです。現在の日中関係からは想像もつかない蜜月時代だったのです。
それは現在の中国側にとっても貴重な歴史的な大転換だったようです。
中国側の資料に基づいて鄧小平の日本訪問の様子と、私が1981年以後数回、中国で歓迎された体験をご紹介したいと思います。
それは鄧小平による日本の先進技術と資金の導入の時代でした。
1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年でした。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結し、続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初めて正式に日本を訪問したのです。
この訪問は、「中日平和友好条約」の批准書交換式に出席するためのものでしたが、鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあったのです。
8日間の訪日期間中、鄧小平氏は新日鉄・日産・松下の3社を見学します。
新幹線で東京から関西方面に向かう途中、感想を聞かれた鄧氏は、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」「我々は駆け出す必要に迫られている」「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」と語ったそうです。

新日鉄の君津製鉄所を見学した鄧小平氏は、工場の設備や技術について詳しくたずね、日本の進んだ生産と管理の経験を、中国人技術者に紹介してほしいと依頼します。同じような工場を中国にも建てたいという鄧氏の決意を示すものでした。この決意こそ、その後の日本の技術指導による上海宝山製鉄所の建設になったのです。
松下電器への訪問時、電子レンジなどの新製品の展示室を鄧小平氏が見学した際にも印象的な一幕がありました。松下の案内員が電子レンジの機能を説明するため、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せます。鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込み、「なかなかおいしい」と感想を述べたのです。松下の従業員らもこれには驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したといいます。

鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。
多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれます。中日政府のメンバーによる会議も相次いで行われました。
官民の各分野での交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展したのです。(文作者:王泰平)
以上の文は、「1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの」http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html からの抜粋です。

さらにもと中国の駐日本大使、符浩元さんによると鄧小平は2度も日本を訪問しているのです。(http://www.bjreview.cn/JP/04-32/32-zhongyao-3.htm )
鄧小平は再び、1979年1月に米国を訪問した後、わざわざ日本に立ち寄り、短期間滞在したのです。奈良を訪れた時、宿泊したホテルでちょうど結婚式があるのを知った鄧小平氏は、自ら結婚披露宴の会場に行き、新郎新婦に祝賀の言葉を贈ったのです。

このように鄧小平は先進技術を開発し経済の高度成長を続けている日本人を尊敬し、日本が大好きだったのです。その結果、中国は日本から先進技術と資金の導入を大々的に行ったのです。日本の約2万の会社が中国に工場を作ったり支社や支店を出したのです。

さて1978年の鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。このお陰で私も北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院に招待されました。往復の航空運賃以外のホテル代、交通費、さらに各地の観光の費用の全ては中国側が負担しました。
歓迎宴が何度もありましたが、観光地で会った一般の中国人が皆、大変親切で礼儀正しいのには驚いたものです。当時は一般の人々も日本人を外国からの賓客として礼儀正しく接したのです。彼等はすべて人民服で日本人は背広姿だったので区別が容易についたのです。汽車に乗ってもレストランに入っても皆ニコニコして道を開けてくれました。

そして金属工業省の人が日中鉄鋼会議を開催してくれないかと私に頼んだのです。帰国後、日本鉄鋼協会の当時の専務理事の故田畑新太郎氏と東京大学の故松下幸雄先生に相談し、日中鉄鋼会議を北京と東京で開催することが出来ました。
このように当時の中国側の日本人へ対する尊敬は絶大でした。

しかしこの日中友好関係は1990年以後の江沢民の時代に急に暗転します。
そして習近平時代の覇権主義の時代になったのです。
このような劇的な日中間の歴史の転換を見て来た私にとって最近の日中の関係に深い関心があります。
習近平時の覇権主義が消え、円満な話し合いによる国際平和の時代が来ることを切に祈っています。

今日の挿し絵がわりの写真は鄧小平が1978年の10月に日本を訪問した時の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
訪日の写真の出典は、http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014- 08/22/content_33310086.htm です。


「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。
「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。
それでは今日の部分をご紹介いたします。
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。
さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。
2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。
3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。

「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。
正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度思い出します。
まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。
周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入

それでは上の3段階を順々に考えて行きます。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。

私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?
それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。
もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。

「私の好きなユトリロのパリの風景画」

2024年11月27日 | アート・文化
私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。
モーリス・ユトリロは 1883年 に生まれ 1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。

1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。

そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。

1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、 http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.html です。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、過去の自分の絵や絵葉書を元にして、何度もモンマルトルを描いています。
昔、サクレクール寺院にブラリと入って暗いお堂のなかで祈ったことを懐かしく思い出しています。何を祈ったかは忘れてしまいましたが。

2番目の写真はパリの北にあるモンマニー街の風景です。義父のポール・ムジスの建てた家のあった所だそうです。

3番目の写真は「トルシー=アン=ヴァロワの教会」です。 

4番目の写真は「コタン小路」です。

5番目の写真は「サン=ベルナールの教会(アン県)」です。変わったタッチの絵画です。

6番目の写真は「モンマルトルのキャバレー・ラパン・アジル」です。
ユトリロがよく描いた酒場で、ピカソなど若い画家が集っていました。隣のサン・ヴァンサン墓地にはユトリロの墓もあります。

7番目の写真は「サノワの風車」です。出典は、https://www.musey.net/16758 です。
1912年の春、ユトリロはパリの郊外にあるサノワのサナトリウムに入所し、アルコール依存症の治療をします。ユトリロは特に風車に魅了されたのです。

ユトリロの絵画は風景画ですが人生の哀歓をしみじみと感じさせます。そして何よりも美しいのです。優しい美しさです。ユトリロの絵画をじっと眺めていると胸に迫るものがあります。世界のかけがえのない宝です。

今日はユトリロのパリの風景画をお送り致しました。お楽しみ頂きましたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「アルフレッド・シスレーの油彩画」

2024年11月27日 | 写真
アルフレッド・シスレーは1839年、フランスのパリでイギリス人の両親の下に生まれました。
実業家であった父親のおかげで、家庭は経済的に困ることはありませんでした。シスレーは18歳の時に商学を学ぶためにロンドンに留学します。
約3年間のロンドン生活を終えたシスレーは再びパリに帰還。この時からシスレーの画家としての人生が始まります。

1番目の写真は『マルリのマシン』 1873年作です。

2番目の写真は「マルリ・ル・ロア」1875年制作です。

3番目の写真は『ポール=マルリーの洪水』1876年作です。

4番目の写真は「モレのポプラ並木」1888年の作品です。

写真の出典は、https://muterium.com/magazine/stories/si

「印象派の中心にいたピサロの油彩画」

2024年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
何故かわかりませんが、私はピサロの絵が好きです。そこでその油彩画をお送りいたします。
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年 - 1903年)は19世紀フランスの印象派の画家で 印象派の中心的な存在でした。風景画を数多く残しています。どれも穏やかで静謐な情感に溢れています。
カリブ海のセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出ました。
1855年(25歳)の時に画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合ったのです。
1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選しましましたが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し生活は困窮します。
当時はコローにならった画風でした。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれています。年長のピサロもこれに加わるようになります。
1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作をさかんに行っています。明るい色調の絵画を描いていました。
その後、ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住みます。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描きます。
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月、パリに戻ります。そのパリで突然倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。享年73歳でした。
ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
ピサロは常に印象派の中心にいましたが生活は苦しかったのです。そんな生涯に描き続けた油彩画の幾つかをお送りいたします。絵は私の好きなものをえらびました。
1番目の写真は『ポントワーズのオワーズ川のほとり』です。1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション。 

2番目の写真は『ヴォワザン村の入口』です。1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館。 
3番目の写真は『ポントワーズの眺め』です。1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション。 
4番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』です。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。 
5番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』で」す。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。です。
6番目の写真は『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』です。1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品。 
7番目の写真は『リンゴの収穫、エラニー』です。1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館 点描で描いています。」
8番目の写真は『オクターヴ・ミルボーの庭、テラス、レ・ダン』です。1892年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。個人コレクション。
今日の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD でした。

以上、私の好きなカミーユ・ピサロ の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)