東京で生まれて、それ以来東京に住んでいる人には帰省する故郷がないという。しかし人々は観念の上で帰る故郷を持つことが出来る。長野の山々の向こうの村でも良い。房総のひなびた海辺の村でも良い。「貴方の故郷は何処ですか?」と聞かれて、小生はいつも困惑する。生まれ育った仙台ではないような気がする。毎年お盆に帰った祖父、祖母の住んでいた兵庫県の田舎のお寺のほうが故郷という感じがする。それとも40年以上連れ添った家人の疎開先の群馬県の山村のほうが「故郷」というイメージに、よりぴったりする。それとも35年通った山梨の北杜市の山林の中の小屋も故郷のような気もする。最近は故郷や郷愁とは抽象的な観念として、それらの言葉から生まれる連想をあれこれ楽しんでいる。蒸気j機関車を見ると故郷や郷愁という言葉、それに連なる思いが広がる。写真の蒸気機関車は昭和49年まで北海道の旭川を中心にして走りまわっていたという。
蒸気機関車が引く列車に乗った事のない若い方々は、この写真をご覧になって何を思うのであろうか? 蒸気機関車を好きな若者も多いようだが何か心を引かれるものがあるに違いない。そんな他愛も無いことを思いながら機関車の回りを散歩した。
撮影場所:都立小金井公園、西南隅にて、撮影日時:4月25日午後3時頃
明治の文明化以来、日本にとって、欧米人を理解して、その文明文化を早急に輸入することが国家目標であった。近代科学、蒸気機関、ジーゼルエンジンなどの技術の導入は素早く出来た。しかし欧米人を理解するという問題はいまだに困難なこととして残る。
欧米人を理解するにはキリスト教徒になるのが手っ取り早いという説もある。明治時代から現在まで、政治家で洗礼を受けた人も少なくない。しかし所詮、仏教もキリスト教もイスラム教も同じような倫理規定を人間に期待している。
キリスト教徒になると欧米人の人間としての弱さは理解できる。が、東洋人やアラブ人との相違が見えて来ない。単に人間の弱さは世界のどの民族も同じだという感慨に捉われるだけである。
東洋人や中近東人と欧米人の違いの一つは、合理主義がどの程度人生を規制しているか?という程度の大きな差異にあると思う。
人間は鳥でないから空を飛べない! そんなことは無い。ライト兄弟が飛行機を発明したではないか! 帆船は追い風を受けて走るのだから風上には走れない! 本当にそうであろうか?? その根拠となる理論は無い!それなら実験をしてみよう! 帆の形を色々変えて実験をしてみたところ、風上に走った! もっと早く風上へ走る船の形と帆の形はどう改良すればよいか? 改良を重ねる度に実験をする。そうして1500年ころに3本マストの外洋航海用の帆船が出来上がった。
東洋人にはその様な発想も無ければ、実験実証主義的な考え方が無い。これこそが東洋人と西洋人の重大な一つの相違であろう。
クルーザーヨットに乗って、その部品一つ一つの合目的完璧性、船全体の構造の無駄の無さ、絶対に転覆しないキールの重さ、などなどを体感的に理解すると、欧米人の合理主義の極地が理解できる。これこそヨーロッパ文化の真髄と、クルーザーに乗る度に感動する。
ヨーロッパ文化へあこがれる日本人、科学や技術を職業とする日本人が、クルーザーヨットの趣味をもつと文化の相違の本質が理解できる。単に楽しい、心地よい、というような表面的な楽しみの趣味ではない。
このブログの副題を「クルーザーヨットのブログ」とした意味は、「明治維新以来の我々の課題はクルーザーヨットの趣味を持つと解決しますよ!」そんなメメッセージを含んでいる。欧米人の理解の仕方はよくキリスト教を理解すると良いと言われる。キリスト教の信仰をもってみると人間の同一性は理解できるが、相違は理解出来ない。
余談ながら、風が強くなると簡単に転覆する小型ヨットをディギーと呼びますが、それはスポーツの一種で、クルーザーヨットとは文化的内容が別種のものである。
先日、横浜の、みなとみらい岸壁に係留する日本丸のデッキの上で、大型帆船の船長をしていた大西典一船長と上の理解で意見が合致した。
何十年も日本の運輸省(国土交通省)所管の大型帆船に乗っていた大西船長の
合意を得たので、この際、このブログへ発表し皆様のご叱正を仰ぐことにした。乞うご叱正! (この項終わり)
日本丸の構造を理解するにはサン・ファン・バウティスタ号をご覧下さい。石巻市渡波に復元され浮いています。伊達政宗がローマへ派遣した支倉常長が太平洋を往復するために乗った帆船です。当時、スペイン人と江戸幕府の指導で伊達正宗が石巻で建造したサン・ファン・バウティスタ号を平成5年に忠実に木造、復元し6枚の帆も上げました。
小生も数年前に見に行きました。石巻までは仙台からJRの電車がありますが、その先は往復タクシーで行きました。遠いです。(バスが有るかも知れません)
さてサンファン号の構造を簡単にみると、3本マストですね。前からフォア・マスト、メイン・マスト、ミズン・マストと呼びます。それに加えて重要なのは、船首から突き出した棒です。これをバウ・スピレットと言います。このマストの配列を日本丸と比較すると殆ど同じですね。違うところは日本丸の最後尾にもう一本のマストが立っていますね。ジガー・マストと呼びます。
サンファン号は500トン、日本丸は2200トンですからマストが余分に必要です。
バウスピレット、フォアマスト、メインマスト、ミズンマストがヨーロッパ帆船の基本構造です。
先端の一本の棒(バウスピレット)と3本のマストに、三角形と四角形の帆を上げれば、大洋を走れ回れる構造になります。後から見れば実に簡単至極な構造ではありませんか?
しかし400年前に、これを作り上げていったヨーロッパ人の創意には深い敬意を感じます。自分でクルーザーヨットを走らせていると、その完璧な構造に毎回感心してしまいます。
先日、日本丸のデッキの上で、小生は大西船長へ、「帆船こそはヨーロッパ文化の真髄ですね」と言いました。大西船長は、「そうです!ヨーロッパ文化の全てが詰まっているようです」と答え、その後は小生へ胸襟を開いてくれました。大西船長は小生を日本丸の船倉の奥まで案内して、帆船の保守管理のために重要なコマゴマした修理方法を説明してくれました。
サンファン号と博物館については、http://www.santjuan.or.jp/ をご覧下さい。
帆を上げている時の動画は、
http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=181 にあります。
(続く)
もう60年余りも昔の太平洋戦争中。筆者は終戦間際に海洋少年団に入団した。2回訓練があったがすぐに終戦。習ったことは、ロープの舫(もや)い結びの仕方やその他の結び方だけ。
終戦を予感していたのか意気消沈した老退役海軍士官が熱心に教えてくれた。「船の基本はロープの結び方です」。何度もクドクドとつぶやく。その後船とは縁が切れ、結び方はすっかり忘れた。しかし「舫い結び」という言葉だけが印象深く心に残った。
舫い結びは結び易く、解け難く、しかし、手である方向に押すと実に簡単に解ける。この結び方一つだけで20年間ヨットを楽しんでいる。
日本丸でも一番目が行くのはロープ類。もっとも帆船ではロープという言葉は使わない。使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前がついている。でも簡単のため、すべてロープと呼ぶことにする。ロープ類は帆船の命。日本丸にはどの様なロープがあり、修理や保管はどうしているのだろうか?
上の大きな写真を見ると4本のマストに横になった帆桁(ヤード)が5、6本ずつついている。
ゴチャゴチャした写真なので大型帆船の構造は一瞬にして分かるというわけにはいかない。しかし下列左端のクルーザーの構造図をご覧頂きたい。よく考えるとロープ類は2種類しかない。
1)マストをしっかり立てるため船体へ固定したロープ類(クルーザーではステイとシュラウド)、
2)2枚の帆を上げたり、向きを変えるためのロープ類(ハリヤードやシート)。
大型帆船でも同じこと。ただマストが4本で帆が29枚と複雑にはなる。しかし原理は小型ヨットと全く同じ。下列の2枚目、3枚目の写真には無数のロープ類が写っている。
1)、太くて舷側に連結してあるのが、クルーザーのシュラウドに相当するロープ類で、マストが倒れないように固定してある。
2)、大きないくつもの輪になって束ねてあるのが、クルーザーのハリヤードやシートに相当するロープ類で、帆の上げ下ろしをする。この二番目の類には横桁(ヤード)の上下や向きの調整をするロープも含むことにする。
日本丸では29枚の帆と横桁(ヤード)を動かすためのロープが245本ついているそうだ。
どのロープを引くとどうなるか?一切心配無用。甲板上の装置は全て人力で動かす。分からない時は手で引っ張ってみて、何処が動くか見れば理解でる。
245本のロープの名前(英語)を暗記しようなどと思わないで気楽に接してみることが重要と思う。横浜の市民は、甲板ボランティアーになるとこのロープ操作と修理や保守を担当する。最後の2枚の写真が示す船倉に、自由に入り保管したり、屑ロープを編みなおしてもう一度使えるようにしている。編んでいる途中で帰りたくなったら名前をつけて次回に続きを編む。帆船上ではロープ類は絶対に捨てない。使えなくなるまで再利用する。
上記は第一回目の記事でご紹介した大西船長から聞いたことである。
一般の人が自由に船倉や船底に出入りし修理作業をする。船への愛着がますます強くなるわけである。甲板ボランティアの仕事は他にも沢山あるが、いずれ書く予定。日本丸では種々の修理方法を、以前この船の船長や航海士をしていた人々が直接、根気良く教えている。教わりながら帆船特有の文化を理解しているのではないかと思う。(続く)
横浜市民は日本丸を自分達の船のように愛しているらしい。直接、手入れや修理をする「甲板ボランティア」の会がチーク材の甲板を椰子の実で磨き、上の写真のように舵輪やコンパスをピカピカに磨き上げる。ペンキ塗りもする。
また年間10回以上、29枚の全ての帆を上げる「総帆展帆(そうはんてんぱん)」や、祝祭日毎を船を飾る「満船飾(まんせんしょく)」を行うのも「展帆ボランティア」(2000人)である。年齢制限なして横浜市民が主体的にすすめている。
その他に「友の会」などがあり日本丸の動態維持へあらゆる協力・支援を行っている。
海洋教室や各種のイベントを多数開催し、海の無い県の小中学生へも貴重な体験の機会も与えている。
主体は横浜市民だが他の都道府県の人々も差別無く入会・参加自由である。
急いでこの記事を掲載する理由は次回の「総帆展帆」や「満船飾」が4月29日の昭和の日に行われるからです。29日は午前10時30分から100人の展帆ボランティアによって29枚の帆をマスト高く上げます。雨天決行ですが雷の時は中止するそうです。
尚、「総帆展帆」は6月1日(日)、15日(日)、29日(日)にも行われる。7月は21日、8月は3日、24日、9月は15日、28日に行われる予定です。詳しい情報は、
http://www.nippon-maru.or.jp をご参照下さい。
クルーザーで波風の少し荒いときに、こんな感じを受けることがある。風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われる。
いきなり唐突に連想が飛躍する、「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をして居るのだろうか?」「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」「待てよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に着く。
乗船切符を買う窓口で賢そうな女性に上の主旨を言う。「それなら今日は、ボースン(水夫長)も船長もいるから紹介しますね」
ペンキ塗りをしていたボースンが快く仕事を止めて4本のマストとなどへ上げる合計29枚の帆の上げ方の概略を説明してくれた。そして大西船長へ引き継ぐ。
何故この船を、筆者は、「まだ現役大型帆船」と称するか?
筆者は今日まで、古い帆船の博物館と思っていた。しかし大西船長によると船舶検査にも合格し、いつでも東京湾へ出航できる状態で係留されているそうだ。上の写真をご覧頂きたい。潮の干満の影響が多少あるドック内に鉄の鎖でゆったり係留してある。29枚の帆の上げ下ろしは毎月1回以上行われている。東京湾へ出るのは何年かに一度ではあるが。29枚のセールは強風用と弱風用に分けて3セットずつ整備保管してある。
昔この練習船で船長や航海士をしていたOBと派遣された現役の船員や学生が共同で保守管理しながら、一般の人々の帆走訓練を実施している。
今日、説明してくれた大西船長もかつてこの日本丸の一等航海士をし、その後は、同じような練習用大型帆船の船長をしていたという。
大西船長へ聞く「タンカーなどのような大型船の船長は帆船の経験はあるのですか?」「日本人の船長なら全員この船か、同じような大型帆船で訓練を受けています。帆船によって船や海のことを学ぶのです。先生はこの帆船自身です。我々は船が無言で教えていることを時々練習生に説明します。大部分は練習生が直感的に理解します」
明快な回答である。そして意味の深い、興味深い話を長時間、情熱的にしてくれた。
今後、数回にわたり大西船長の話と杉浦昭典著、海洋文庫19「帆船」(舵社1986年発行)の内容をまじえながら数回のシリーズ記事「まだ現役大型帆船日本丸」を掲載することにした。なお杉浦昭典氏は神戸商船大学で大西船長の指導をしてくれた恩師とのことである。
最後に今日いきなり訪問した筆者へ長時間、貴重なお話をしてくれた大西典一船長(財団法人帆船日本丸記念財団、常務理事)へ深甚な感謝の意を表します。
撮影日時:4月25日午後2時、撮影場所:横浜市西区みなとみらい2-1-1岸壁にて
外国体験のいろいろ(17)「画家とパトロンの重要性」で 南画の 河野秋邨画伯について書いた。1961年春、オハイオ州コロンバス市で大規模な個展を開催したとき、家内が和食を供したりお世話をした。そのお礼に上の写真の南画と墨書のお礼状を頂いた。先週、弟が父の遺品を整理しているとき見つけて拙宅まで届けてくれた。
48年前の昔のことだが河野画伯の南画が見つかったので掲載し、彼岸におられる画伯の冥福を祈る次第である。
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河野秋邨 [読み] こうの・しゅうそん [始年] 1890- [終年] 1987年
1917年、第11回文展に「夏雨新霽」初入選。1921年、富岡鉄斎、田近竹邨らと日本南画院を結成。 第一回展に「王子猷」を出品。 1927年、第八回帝展に「月下敲門」を出品。1940年、紀元二千六百年、奉祝展に「嶽雪頽轟」を出品。 1960年、松林桂月らと社団法人日本南画院を結成、理事長となる。1974年、勲三等瑞宝章を賜る。 1985年、第二五回日本南画院展に「時空虚実」を発表(終わり)
祖父は兵庫県の山沿いの村の住職であった。少年のころ、父と共に里帰りする度に寺の裏山で遊ぶ。山林の中に葱坊主の形をした墓が数基一列に並んでいた。聞くとその寺の代々の住職の墓という。間もなく祖父が死に、その一列に加わった。同じような葱坊主形の質素な墓が。
その後は帰省するたびに墓を見に行く。別に花や線香を供えるでもないが、見ると何かホッとしたものである。住職の墓には花も線香も供えないものと知る。あれから茫々60年。平林寺で兵庫のお寺を思い出し、代々の住職の墓を探す。同じような暗い山林の一角であった。上の写真の始めの3枚がそれで、寛永、元禄、享保、寛政、文化、文政、天保、安政、慶応、明治、大正、昭和などの年号が刻まれている。この間、時代は大きく変わり、明治維新、日清戦争、日露戦争、満州事変、太平洋戦争と戦争が続いた。代々の住職の墓は何事も無かったように静寂の林の中で眠る。
上の写真の4枚目、5枚目、6枚目は平林寺に眠る松平家に仕えた武士や妻女の墓である。縁が切れ、もう誰も花や線香を上げに来ない。江戸時代の年号が刻まれている。子孫がお参りに来なくても静かな雑木林に満足したように眠っている。
最後の2枚の写真は現在の武蔵野くに国分寺の代々の住職の墓である。一般の墓地から離れて山かげの暗い林の中にある。余談ながら住職には奥さんが居ないことになっている。大黒さんと呼ばれている伴侶の墓は何処に有るのだろうか?
それだけの話ですが。
撮影日時:4月19日と20日、
撮影場所:埼玉県新座市平林寺と東京都国分寺市武蔵国分寺にて。
平林寺で興味深い墓を見た。1615年没、増田長盛の小さな、質素な墓石である。説明板がある。
長盛は豊臣秀吉の長浜城の近在のあるお寺の次男とし生まれ、秀吉へ仕え頭角を現す。朝鮮の役で兵站を担当し、食料・武器調達に大きな功績を残した。その後、秀吉の5奉行の一人として任ぜられ、徳川家康とともに活躍した。特に検地・税制のような財務行政に卓越していたようである。
やまとの国郡山、20万石の城主とし16年間、城下町の発展に尽くす。
しかし運命は暗転する。大阪の陣、関が原の合戦で徳川家康側に惨敗する。一族の多くは罪人になるが、長盛は高野山で僧になり、後に武蔵野国の岩槻で蟄居する。悲劇は重なる。
尾州家に仕えて大阪城へ入った長男、盛貞が合戦で死ぬ。1615年5月7日のことである。落胆した父、長盛が切腹したのは長男の死のあと20日後であった。
1615年没の長盛の質素な墓を岩槻から新座市にある平林寺へ移したのは明治になってからのことである。
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色々な疑問を考える。何故、家康は秀吉の5奉行だった長盛の死罪を免じ、岩槻での蟄居を認めたのであろうか?5奉行として共に働いた頃に、お互い友情のようなものを感じ合っていたのだろうか?
大和の国郡山の現在の住民は増田長盛をどのように評価しているのであろうか?
忘れられているか、あるいは、郡山の発展の功績者として尊敬されているのであろうか?
長盛切腹のときは平林寺は岩槻にあった。お墓が平林寺につくられたとしても不思議はない。その後、野火止用水を完成し、平林寺を新座へ移したのは徳川側の名家、松平伊豆守信綱である。
当時の平林寺の住職が気を利かせ、ソオーっと長盛の墓を岩槻へ置いてきたのであろうか? もしそうであるなら権力へへつらう俗っ気の多い住職ではないか?あるいは松平信綱が岩槻に置いて来いと命じたのであろうか?
徳川幕府が滅んだ明治時代になって平林寺に移されたということの背景にはどのような経緯があったのであろうか?
奈良県の郡山市、埼玉県の岩槻市、そして新座市というローカルな視点で波乱に満ちたひとりの武将の人生を考えると色々な疑問が湧いてくる。
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その他にも興味深い墓や宝塔、供養塔がある。したの写真に示すが、漱石の「草枕」の熊本県小天温泉の美人、那美さんのモデルになった女性の墓、武田信玄の5女の宝塔、島原の乱の供養塔である。那美さんのモデルの女性と異母弟の興味深い関係が説明板にあるのでご一読をお勧めする。2人は同じ墓に眠る。
これら3枚の写真の詳細は記録して来なかった。歴史的背景をご研究の方は平林寺事務所へお聞きになれば良いと思う。
撮影日時:4月19日午前10時ー12時、撮影場所:埼玉県新座市、市役所向かい平林寺。