後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日記、武蔵野公園のレンギョウとユキヤナギの写真を撮りに行く」

2022年03月31日 | 写真
午後から桜が満開になっている調布飛行場前の桜並木、国際基督教大学の桜並木などなどを見ました。写真も撮りました。

満開の桜並木は豪華です。華やかです。
連日桜を見て少々疲れたので都立武蔵野公園ではレンギョウとユキヤナギの写真を撮りました。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。




「吉野山に咲く桜の風景写真」

2022年03月31日 | 写真
もう20年も前に吉野山に咲く桜の風景を見に行きました。
山に咲く桜の風景は平地の桜の名所と違い印象深く忘れられません。

そんな懐かしい吉野山の風景写真です。
出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/1463/ です。





「毎日妻と桜狩に行く老境の静かな日々」

2022年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
桜狩とは山野に桜の花を求めて遊び歩くことです。花見と同じようですが古い優雅な言葉です。
現在の東京では手近で山野はなくり奥多摩地方に行かねばなりません。

しかし桜木はは近所に沢山あり毎日あちこちに花見に出歩いています。小金井公園の桜や国立市の桜並木などです。近所を流れている野川の桜も華麗です。
これらの桜を見ながら次の古今和歌集の和歌を静かに唱えるのです。

またや見む 交野(かたの)のみ野の 桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの  
                            (藤原俊成)
静かに唱えると途端に近所に花見が優雅な「桜狩」になるのです。毎年の春に行う私の小さな魔法です。

この歌の意味は次の通りです。
また見ることがあるだろうか、いや、ないだろう。交野のみ野での花見で、桜の花が雪のように舞い散る、この春のあけぼののすばらしい景色を。

交野とは大阪府と奈良県の県境にある野原です。東側と南側が山に囲まれる地形で天野川が流れています。
“かたの”の歴史は旧石器時代までさかのぼり、弘法大師の降星伝説や徳川家康にまつわる伝承などが残っているそうです。

昨日撮った野川の写真を何枚かお送りいたします。
またや見む 交野のみ野の 桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの」と唱えながら撮った写真です。妻と桜狩に行った気分になった老境の静かな日でした。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「国立市大通りの満開の桜並木の今日の写真」

2022年03月30日 | 写真
今年もついに満開になりました。国立市大通りの桜並木は東西南北十文字になっており規模が雄大です。東京では規模が一番大きな桜の名所です。
先家内が歩道橋の上に走って上がり撮って来た写真をお送り致します。









『今日は暗い曇り日なので明るいヨットの写真をお送り致します」

2022年03月29日 | 写真
昔ヨットを趣味にしてました。そのせいで気持が暗くなると明るいヨットのある風景を思い出します。今日はそんな日なので爽快なヨット帆船の写真をお送り致します。
1番目の写真は私が霞ヶ浦で乗っていた長さ26フィートにヨットです。前のジブ・セイルだけ展開してのんびりと帆走を楽しんでいる光景です。ヨットはジョイラック26号でした。
2番目の写真は駿河湾で長さ41フィートを保田さんと帆走した時の写真です。ヨットはハンスクリスチニアン41号でした。
3番目の写真は横浜に係留し公開している帆船日本丸です。以前には太平洋や大西洋を帆走した大型帆船です。
4番目の写真は日本丸の船腹です。船内には部屋が3階になっていて各部屋には写真のように丸窓がついています。何度も行ったので船長さんと仲良くなり内部も機関室まで詳しく説明してくれました、
5番目の写真はノルウェー船籍のChristian Radich号です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。 
6番目の写真はロイヤル・クリッパー です。5本マスト・シップ型の大型帆船です。帆走クルーズ客船としてカリブ海域で活躍しました。 写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。
7番目の写真は訓練航海中のイーグル(2013年) です。米国沿岸警備隊の将来の将校のための訓練カッターとして使用される295フィート(90 m)の帆船です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。

いかがでしょうか。
気分が爽快になったと存じます。

「ひめゆりの塔の沖縄への悲しい旅」

2022年03月29日 | 旅行記
沖縄へは家内と一緒に3回ほど行きました。糸満、宜野湾、名護、古宇利島、万座ビーチ、沖縄本島はくまなくレンタカーで走りました。それから石垣島や西表島へも渡りました。
沖縄は何処へ行ってもサンゴ礁に囲まれた海岸の景観が美しく、またその海水が他では見られない魅惑的な色合いで、あくまでも透明です。
しかし少し沖縄の歴史を調べてから行ったので、薩摩藩の琉球王朝の圧迫や明治維新後の琉球処分を考えながらの旅になりました。
その上、家内も私も戦前生まれなので昭和20年3月26日から6月20日間まで3ケ月続いた壮絶な沖縄戦の地上戦のことが頭から離れません。猛烈なアメリカ軍の攻撃で軍人はもとより多数の民間人が殺されたのです。
男子中学生や師範学校の男子学生は動員され戦闘に参加し、多数が犠牲になりました。その慰霊碑は「健児の塔」として多くの参拝者が訪れています。
そして女子師範学校や女学校の生徒が戦場看護婦として動員され、多くの犠牲者が出たのです。その慰霊塔は粗末な石で、「ひめゆりの塔」と刻んであります。
この刻文と同じ題名の映画や本が戦後出来ました。ある年代以上のほとんどの日本人がその映画を見ました。
そのようなわけで、沖縄旅行は単純に楽しいものではなく、何処へ行っても胸が痛む旅でした。

1番目の写真はに沖縄本島南端の糸満市にある「ひめゆりの塔」の写真です。
この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94です。この出典の文章の抜粋を示します。

・・・・1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだのです。・・・・

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなみます。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。
「塔」と名はついていますが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くないのです。
これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものです。
しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となりました。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして大変有名になり、現在でも参拝する人が絶えません。
映画作品:
『ひめゆりの塔』 - 東映・1953年作品。今井正監督。
『太平洋戦争とひめゆり部隊』 - 大蔵・1962年作品。小森白監督。
『あゝひめゆりの塔』 - 日活・1968年作品。舛田利雄監督。
『ひめゆりの塔』 - 芸苑社/東宝・1982年作品。今井正監督。
『ひめゆりの塔』 - 東宝・1995年作品。神山征二郎監督。
『ひめゆり』 - プロダクション・エイシア・2007年作品。柴田昌平監督。

2番目の写真は「ひめゆりの塔」のある摩文仁の丘からの風景です。

この地域は沖縄戦跡国定公園に指定され保護、管理されています。
この中には「平和の礎」など100程の慰霊碑があります。
「平和の礎」は、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑です。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立されました。海岸線を見渡す平和の広場に建てられ、屏風型の花崗岩に銘が刻まれています。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年(平成21年)6月21日時点で24万856人に達しているそうです。

3番目の写真は「平和の礎」と100程の慰霊碑です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%B7%A1%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%85%AC%E5%9C%92です。

沖縄戦では「ひめゆりの塔」だけが突出して有名になりましたが、実際には数多くの民間人が軍人から自決を強要されたり、想像を絶する悲劇が起きたのです。
それは悪夢のような悲惨な地上戦でした。
犠牲者は約25万人でした。その詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 にあります。この25万人の中にはアメリカ側の死者12520人も含まれています。
是非、このWikipedea「沖縄戦」をお読みになって全ての死者のご冥福を祈ってあげて下さい。そして平和の貴さをもう一度噛みしみて頂きたいと祈っています。
最後に私が撮った平和な沖縄の風景写真を3点お送りいたします。

4番目の写真は万座ビーチです。
      
5番目の写真はは宜野湾マリーナです。
6番目の写真は名護市のシンボル的なガジュマルの大樹です。

ひめゆりの塔の沖縄への旅は悲しい旅です。鎮魂の旅です。

「小金井桜も遂に満開になりました」

2022年03月29日 | 写真
小金井公園の中央広場の小金井桜も遂に満開になりました。家内と一緒に花見をしながら写真を撮って来ました。
しかし曇天でしたので鮮明には写りませんでした。残念ですがそんな写真をお送り致します。
小金井公園には花見客が沢山いて賑わっていました。
みんな楽しそうでした。








「万葉仮名、ひらがな、カタカナを作った日本人の驚異的な知恵」

2022年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本語の発達の歴史を考えてみると漢字という表意文字を輸入して、それを万葉仮名とう表音文字にしたことが画期的でした。
そして万葉仮名からひらがなとカタカナを作ったのです。
現在の日本語の表記には表意文字の漢字と表音文字のひらがなをまじえて使っています。考えてみると不思議です。
さて万葉仮名ですが、それは4,5世紀頃に日本語を表記するために漢字の音を借用して作られました。
そして特に普及したのは『萬葉集』で徹底的に使用されたためです。
そのために万葉仮名という名前がついています。

万葉仮名の実例です。「波奈」(花)、「也麻」(山)のように漢字を日本語の音節の表記した表音文字です。
国内最古の万葉仮名は、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣であります。辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇の名「獲加多支鹵(わかたける)大王」がそれです。
そして日本神話の登場人物で四道将軍の1人の大彦命に推定される「意富比垝(おほひこ)」を始祖として、鉄剣の製作者とある「乎獲居(をわけ)臣」に至る8代の系譜の人名や地名がを表記する文字が万葉仮名で刻まれているのです。
ですから万葉仮名は日本で5世紀頃に作られたのです。万葉集の時代に作られたのではないのです。

万葉集の1番歌です。原文
篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

現代語では、
篭(こ)もよ み篭持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座(ま)せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

平安時代に入っても「新撰万葉集」(893年、913年)のように万葉仮名が用いられていました。しかしやがて平仮名や片仮名が万葉仮名に代って広く用いられるようになろます。

平仮名は万葉仮名の草書体が進化して独立した字体と化したものです。
一方、片仮名は万葉仮名の一部を用い、音を表す記号として生まれたものです。
ただし平仮名や片仮名が普及した後にも「催馬楽」などの歌謡、神道の祝詞、「和名類聚抄」などでは万葉仮名が使われています。
現代でも地名や人名(特に女性名)などで漢字の意味を離れ、音を使って書き表す例が多くあります。これは万葉仮名と同じなのです。
今日は日本語の歴史上画期的な万葉仮名、ひらがな、カタカナの発達について簡略に書きました。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/.../%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE... をご覧下さい。

今日の挿絵代わりの写真は小金井公園の春の花壇の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「カトリック小金井教会の今日の風景とミサ動画配信」

2022年03月27日 | 写真
今日は復活祭の前の四旬節第4主日のミサがありました。
小金井教会の今日の風景です。

なお、聖イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=htkeIJtH7kA

カトリック関口教会、四旬節第4主日のミサ動画配信、
https://www.youtube.com/watch?v=Of6EGpiq-dg




「小金井公園の桜は間も無くこのように咲きます

2022年03月26日 | 写真
去年は3月27日に満開になりました。今年は3月30日頃満開になると予想されています。

満開になると写真のようになります。
去年の3月27日の写真です。

人々が櫻を楽しんでいます。平和な光景です。私も櫻花に酔い心地でのんびりして来ました。





「方言と日本語の歴史的な大きな変化」

2022年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本語にはいろいろな方言があります。また日本語の歴史的な変化を調べると実に多数の本や論文があります。日本語は時代の流れに従って大きく変化して来たことに驚きます。江戸時代と現在でも日本語は大きな変化がありました。明治維新で学校では標準語を教え普及させました。そして戦後のテレビの普及で日本人全員が標準語を理解するようになったと思います。
しかし方言は消えません。方言は日本語の重要な一部なのです。
昭和11年生まれの私は1954年に東北大学に入るまで純粋な仙台弁を話していました。しかし東北大学へは全国からの人が入学します。純粋な仙台弁では話が通じないのです。標準語らしい日本語を使いはじめました。
そして仙台弁を恥ずかしく思いました。自在に標準語を話す人を尊敬するようにになったのです。
特に標準語を話す女性はそれだけで魅力的でした。その結果私は東京の女性と結婚しました。現在の妻は老いましたが言葉だけは若い頃と変わらないで綺麗に話します。
仙台弁は語尾に「ベッチャ」をつけます。今日は寒いね、は今日は寒いベッチャ、と言います。
仙台弁独特の単語も沢山あります。それよりも特徴的なことは全ての発音がが濁ることです。東北は寒いので口を大きく開けないで話すのです。
ですから私は癖で口を大きく開けないで話すのです。そうすると妻は時々、「もう一度はっきり言って」と言います。
それはそれとして、話題を変えて日本語の歴史に関する研究論文をご紹介しましょう。
「日本語の変遷」、http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/2nen2005/groupeF_jp.htm です。
抜粋です。

日本語の変遷の大まかな全体の流れ
・・・古代から近代にかけての文字と音声の移り変わりについて述べたい。わたしは古代から近代という長い期間を扱うため、大まかに全体の流れを紹介するつもりである。
われわれは現在、3種類の文字を使用している。最も古い文字は漢字で、4~6世紀にかけて朝鮮半島から日本に伝来した。そして、奈良時代の終わりから平安時代の初めにかけて漢字の音声面に注目した万葉仮名が作られた。平安時代初期から中期にかけて万葉仮名からカタカナとひらがなが誕生した。

音声については、奈良時代以前は日本語には8つの母音が存在した。それが平安時代末期には現代のような5母音へと変化する。音声の変化で代表的な例がハ行の変遷である。奈良時代以前、ハ行は[h]ではなく[p]であった。それが奈良時代になって[f]となり室町時代まで使用される。この期間、[p]の音声は日本語から消滅した。そして江戸時代になり、外来語を表現するために復活した。

文字と音声との差異としては、江戸時代になるまでひらがなの濁点表記がなかった。もちろん濁音自体は存在していた。表記された文字が現代と同じでも、発音は違うという例は多々ある。室町時代に宣教師によってローマ字が伝えられた。そのローマ字の資料によってわれわれはその時代の発音を知ることができる。それによると、「エ」は[e]ではなく[je]、「オ」は[wo]だったようだ。室町時代は話し言葉が文学・芸術・学問で使われるようになった時代である。江戸時代になると口語と文語の違い、地域による言語の違い、階級による言語の違いが顕著になった。(豊田友紀子)・・・中略します。

・・・江戸・明治期の日本語
江戸時代では、階級と地方によって様々な言語の違いが存在した。また、話し言葉と書き言葉は大きく異なった。町民は比較的平易な、地域ごとに異なる言葉を用いた。それに対し武士の言葉は漢語を多く用い文語調であり、江戸城での共通語としても用いられた
明治時代になって1869年に政府機関が正式に東京に移転してから、状況は大きく変わることになる。東京は中央集権の中心地となり、公用・教育等に関わる言葉は東京語が使用されていくようになった。これは江戸言葉と日本全国から東京に集まってきた人の言葉が混ざって出来上がったものであった。

東京語は、はじめは「普通語」と呼ばれ伝達の手段として捉えられていた。しかし次第に諸藩の「訛り」という多様性を排除し、1つの国家として統一していく必要性が主張されるようになった。そのため「普通語」を改良した「標準語」が制定され、全国で国語教育と国民的精神を発達させる役割を担うようになった。
また、標準語は現在の会話にも文章にもなり得る言葉として創られた。西洋諸国の言葉のように、現代人の思想や感情に適合した文体を創ろうという運動が起こり始めていた。そのため、話し言葉と書き言葉を一致させる試みがなされていたのである。(設楽裕妃子)・・・後略します。

実に明快に日本語の歴史的な変化を説明しています。興味深い問題が沢山思いつきます。戦後話し言葉が大きく変化しました。そして現在まで急速に変わって来ます。私など理解出来ぬ言語がテレビに飛び交っています。
しかし長くなるので今日は止め、続編に書きます。

今日の挿絵代わりの写真は近所の野川にさしかかる桜の夕方の風景です。昨日撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 





「最新のウクライナニュース」

2022年03月25日 | 国際・政治

「ウクライナ “ロシア海軍の艦艇撃沈” 停戦交渉停滞で長期化か」
2022年3月25日 5時15分 

ロシア軍がウクライナへの侵攻を続ける中、ウクライナ軍はロシア海軍の艦艇を撃沈したと発表するなど、激しい抵抗を続けています。
一方、双方の停戦交渉は停滞しているとみられ、長期化への懸念が強まっています。

ウクライナへの侵攻を続けるロシア軍は、東部の要衝マリウポリの包囲を続けるなど、親ロシア派の武装勢力を支援しながら戦闘を激化させています。
これに対し、ウクライナ軍は24日、ロシア軍が掌握した南東部ベルジャンシクの港に停泊していたロシア海軍の大型揚陸艦を攻撃して撃沈したと発表するなど、激しく抵抗しています。

首都キエフの包囲に向けたロシア軍の部隊には一部で後退もみられていて、イギリス国防省は「ロシア軍はほぼ確実に数千人の犠牲者が出ている」と分析しているほか、アメリカメディアもNATO=北大西洋条約機構の高官の話として、ロシア軍の兵士が7000人から最大で1万5000人死亡したと推定され、軍の装備の10%が失われて軍事作戦のペースを維持する能力が損なわれた可能性があると伝えています。

以下に続きます。
https://www3.nhk.or.jp/.../20220325/k10013550651000.html..


「上野公園の桜の写真」

2022年03月25日 | 写真
今年は寒いので開花は3月29日だそうです。そこで昨年の上野公園の桜の写真をお送りいたします。

上野公園は都内の公園の中で随一の規模や設備を誇る公園で正式名称「上野恩賜公園」です。また日本で最古の公園であり、1876年に開園して以来多くの人に「上野公園」と呼ばれ、愛され続けています。

写真の出典は、https://thegate12.com/jp/article/366 です。





「小さく儚い人間がウクライナで悲劇を起こしている」

2022年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は小さく儚い存在です。私は甲斐駒岳の麓の山林の中へ行くたびに人間の小さを実感しています。儚さを実感しています。
山林の中で見ると人間があまりにも小さく見えるのです。あまりにも頼りなく見えるのです。その様子を3枚の写真で示します。

1番目の写真は山林の中の荒地に駐車している私の車です。
この写真のように車は荒れ野では実に頼りないのです。わずかに車の幅だけ草木を取り除いた悪路をソロソロ走るのがやっとです。駐車する場所のためには、自分で草木を取り除いてわずかの空き地をつくります。
高速道路だけを走っていると車の頼りなさや無力さは感じられません。判りません。
この車を遠方から見ると次の写真のようになります。

2番目の写真は遠方から見た車の写真です。
車が何処にあるかお分かりでしょうか?写真の中央付近の山林に囲まれた荒地に停まっています。この写真は山林の中の木内正夫さんの山荘のウッドデッキから撮ったものです。木内正夫さんは友人です。
その友人の山荘までは車が入れないので何時もこの様に車を停め、荒れ地を歩いて行きます。
小さな存在は車だけではありません。人間の写真を撮ると人の存在も小さく、頼りなく見えます。

3番目の写真は家内が木内山荘の小川と池の畔でモリアオガエルの卵を見つけて大喜びしているところです。
この写真の右上のあたりに家内が写っています。家にいると存在感のある家人ですが自然の中では小さく、頼りなく見えます。
このように山林の中で見ると人間の存在の小ささや儚さが感じられます。
そんな儚い存在の人間がウクライナで血みどろの戦争をしているのです。
最近は毎日のように新聞でウクライナでの戦争のニュース記事を読みます。
ロシアのプーチン大統領は狂気です。毎日ウクライナへのミサイル攻撃を続けています。爆撃も続行しています。この戦争はウクライナを完全に占領するまでプーチン大統領は戦争をやめません。
一方のゼレンスキー大統領は徹底抗戦を宣言しています。抗戦どころか最近はロシア軍を撃ち負かし追い出す勢いでです。
これではウクライナでの戦争は何時はてるでもなく続くのです。
私は暗澹たる気持ちです。21世紀にこういう戦争が起きるとは思ってもみませんでした。
少しでも明るい気持ちになるため木内山荘の庭で撮った花の写真をお送りいたします。

4番目の写真はフクジュソウの花です。

5番目の写真も木内山荘の庭で撮ったクロッカスの写真です。

今日は山林の中で考えた小さく儚い人間のことを書きました。そしてそんな人間がウクライナで起こしている悲劇を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)