後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「満州写真館」という写真集を絶賛します!

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中には凄い人がいらっしゃいます。最近、見つけた「「満州写真館」という写真集には感動しました。そのアドレスは、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

何が凄いかというと満州に関する昔の貴重な映像が数千枚蒐集してあって分野別に分類整理されて公開してあるのです。

その画像は歴史研究に欠かせない貴重なものです。これをプリントし、製本し全国の公共図書館に保存すれば後世の人々の満州に関する研究に大いに貢献すると信じています。

その写真の収集の仕方が公平で、日本軍のしたことを正当化しようとか、平和が重要だと説教しようとしていません。ただあるがままの満州の平和な時代の市民の生活が写し出されているのです。

終戦後の、ソ連軍による蹂躙と、シベリア抑留、そして悲惨な引揚げの歴史によって日本人は満州のことを忘れたいと思っています。

しかし虚心坦懐にこの「満州写真館」を見て行くと一般人の幸せと悲しみが透けて見えるような気分になります。是非ご覧になって深くお考え下さいますように祈っております。

なお満州という言葉は使わない方が良いのです。日本が中国東北地方を支配下に置いていた1930年ころから1945年までのその地方の日本人の呼び方なのです。

中国人は「偽満州」とか「偽満州国」と呼んでいるそうです。しかし単に「東北地方」と呼ぶのが国際礼儀なのです。

その事は「満州写真館」の管理人も充分ご存知と信じています。しかし、それしか呼びようがありません。そんな心の痛みを感じながら私はこの貴重な写真集を皆様へ心から推薦いたします。

管理人のお許しを頂きましたので下に数枚の写真を例示します。

まず昔の大連の町の写真を2枚お送りします。

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歩いている人の雰囲気が平和です。

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上は大連の一番の繁華街だそうです。

次は瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。

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ロシア風の落ち着いた街でした。

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上は奉天の駅前風景です。

さて満鉄の「あじあ号」の写真も以下にお送りいたします。

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下は当時の食堂車の日本人の食事風景です。

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そして下は最後尾の展望車の風景です。ヨーロッパ人乗客も満鉄を愛用していたようすが伺えます。

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この「満州写真館」の写真は無断使用禁止です。お借りしたい時は、「みに・ミーの部屋」http://www.geocities.jp/ramopcommand/index.htmlの中の「掲示板」をクリックしますと、管理人の方へのメールを開けます。

この写真館の写真はテレビ局なども時々借りていますので、版権には慎重にしましょう。

さてくどくなりますが、それでは現在の大連と瀋陽の写真を掲載してみます。比較すると70年、80年の時の流れを感じます。感慨深いものがあります。

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上と下の写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g297452-Dalian_Liaoning.html#26043437 です。

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下の2枚は瀋陽です。私ごとですが、1981年に、ここにある東北工学院へ集中講義に行ったことがあります。1981年当時は満州時代の街並みがそのまま残っていました。

中国の経済成長の早さにただ驚くばかりです。

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上と下の写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g297454-w4-Shenyang_Liaoning.html です。

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武蔵境浄水場の上に湧きたつ白い雲

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

武蔵境浄水場は河川から引いて来た水を大きなプールの底の砂層で濾して、浄化し、水道水にしています。

今日はそこに隣接する3階のビルにある質素なレストランで家族で昼食をして来ました。

あまりにも白い雲が綺麗だったので写真を撮ってきました。

明日から9月です。早く残暑が終わるように祈りながら、白い雲の写真をお送りいたします。

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昭和という時代はどんな時代だったか(2)大戦争を推進した近衛文磨と松岡洋右

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次大戦にいたる日本は支那事変を起こし、満州事変を始め、満州帝国をつくりあげたのです。満州国を独立させたのでアメリカやイギリスが本気で怒り出したのです。

この一連の動きは昭和天皇の平和への希望を無視した軍部の独走でした。軍人の勝手な行動だったのです。

ですから悪いのは軍人です。特に陸軍士官学校や江田島の海軍兵学校を卒業したエリート軍人に責任があるのです。一般の日本人は彼等、エリート軍人の見境いのない欲望の犠牲になったのです。一般の日本人は戦争に一切責任がありません。

こんな主張が戦後の社会に横行していました。学校教育でも私達はそのように教わりました。

しかしそれは全く間違った主張です。全く間違った理解です。

日清戦争と日露戦争で勝った日本の国民は急に戦争推進者になって行ったのです。

真珠湾攻撃で全国民は狂喜したのです。その事を忘れてはいけません。

天才的な画家の藤田嗣治さえ戦意高揚の絵画を沢山描いたのです。アッツ島玉砕の自分の絵の前に軍服姿で立って、その絵を見に来た人々へ会釈をし、浄財を集めたそうです。

軍部の独走以上に戦争を推進した政治家は近衛文磨首相と松岡洋右外相と思います。

軍人出身の東條英樹首相以上に責任が重いと私は考えています。

戦後、日本人は東條首相だけを悪く言い、自殺した近衛文磨と東京裁判中に病死した松岡洋右のことを許したのでしょうか。どちらもA級戦犯として裁かれるべきでした。

松岡洋右は1932年2月に国際連盟から日本だけが脱退する名演説をしたのです。国際連盟が満州国の日本の既得権はすべて従来通り認めるが、満州国を国際連盟の管理下に置くと決定したのです。

満州の皇帝に清朝の最後の皇帝だった溥儀を即位させ、満州帝国を独立国にしようとしていた近衛文磨は反対し、松岡全権大使に国際連盟脱退の演説をさせたのです。

これで米英が本気で怒りだしたのです。満州帝国の独立こそがあの悲惨な太平洋戦争の出発点だったのです。

1932年は昭和7年です。それから急速に日米開戦への坂道をころげ始まったのです。

下に日独伊三国同盟を喜ぶ童画と近衛文磨と松岡洋右の写真を示します。

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上の童画の上端の真ん中が近衛首相の写真でヒットッラーとムッソリーニに囲まれています。下の写真の左が近衛首相で右が松岡外務大臣です。

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そして下には満州帝国の首都だった新京(現在の長春)の立派な中央通りです。Manchukuo_hsinking_avenue1

下がハルピンの日本百貨店の写真です。

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昭和という時代は暗くて悲しい時代だったとよく言われます。

その言い方は半分正しく、半分間違っています。

昭和元年から昭和17年までは戦勝気分がみなぎっていた明るい幸せな時代だったのです。そして東京オリンピックの昭和39年から終りの63年までは経済の高度成長に祝福された時代だったのです。その間の20余年は暗黒の時代でした。激戦から玉砕につぐ玉砕、そして特攻隊の犠牲、日本中の戦災と沖縄戦、原爆投下、ソ連軍の満州蹂躙と未曾有の惨劇を体験した時代だったのです。

人間は一旦戦争を始めると狂気になるのいでしょうか?悲しいものです。

今日はとても祈る気持ちになりません。虚しさだけが心の中を去来しています。(続く)

======参考資料===================

近衛文磨 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

松岡洋右 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3

満州国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD


シーボニアに係留されているシナーラ号の最近の写真をいただきました

2012年08月30日 | 写真

ブログを書いていると見知らぬ方から大変なご好意を寄せられることがあります。

今日は三浦半島の突端のヨットハーバー・シーボニアに係留されている帆船シナーラ号の写真をmm さんから送って頂きましたので、下にご紹介いたします。

整備も完了し、船検も取得したという嬉しいニュースも頂きました。

mm さん有り難うございました。

私の昨年の記事、この美しい姿のシナーラ号は現在どうしていますか? と合わせてご覧頂けると嬉しく存じます。

ついでにシナーラ号の動画は、http://www.youtube.com/watch?v=RBo7LtnqBd4 にあります。

========mm さんからのコメント=========

 後藤様、初めまして。

 シナーラ号で検索していたら辿り着きました。

 シナーラ号は、最近まで船検切れだったようですが、今年のG.W.に整備されて船検も取り直し、今でもシーボニアに係留されております。

 先週末に写真を撮ってきたばかりなので、現在のシナーラを撮影したデータを差し上げます。


昭和という時代はどんな時代だったか(1)故郷、仙台の戦前戦後の風景写真

2012年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

「昭和という時代はどんな時代だったか」という連載記事を始めたいと思います。

どんな時代であったかと問われれば日本の歴史上一番激動の時代でしたと答えることも出来ます。大きな戦争に明け暮れ、徹底的な敗戦、そしてアメリカ軍による占領を経験したのです。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。

この時代に生きて来た私ですが、老後になってこの昭和という時代をいろいろと考えています。

昭和11年に生まれ、昭和35年にアメリカへ留学するまで住んでいた仙台は私の大切な故郷です。その故郷への追憶については以前、以下の4編の記事を書いています。

追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など 

追憶の中の我が仙台(2)ベーブ・ルースが来て2本のホームランを打つ 

追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり 

追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅

そこで、今日は私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。

ここでは仙台の風景だけを示しますが、日本全国の都市はほぼ同じような風景がひろがっていたと思います。

戦前、戦後に生きた日本人ならきっと懐かしい思いでご覧頂けると思います。

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上が戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。

下は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。

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下は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

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下は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

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下は戦災で焼けてしまった青葉城の大手門と隅櫓です。

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下は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。

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下は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

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下は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。

藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。

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これらの写真を見ていると、戦前、戦後の日本の貧しさがしみじみと身に感じます。

こんなに貧しくともよくアメリカ相手に戦争をしたものだと驚いてしまいます。日本人は狂っていたのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。

後藤和弘(藤山杜人)


今日は昭和天皇と香淳皇后の御陵に参拝して来ました

2012年08月29日 | 写真

武蔵野御陵は八王子市の西の郊外で、高尾に近い森の中にあります。

石を積上げた円形墳です。昭和天皇と香淳皇后の御陵の西隣には大正天皇と貞明皇后の多摩御陵もあります。

車道の参道は長い並木道になっていて、車で走っていても何となく神々しい感じがします。

広い駐車場に車を置いて、そこからは長い長い砂利を敷いた参道を歩いていきます。

何時行っても数人の参拝者が静かに参道を歩いています。

今日は歩きながら昭和という時代のことをあれこれ追想しました。昭和が終わってもうすでに24年も経つのです。月日の流れの早さに驚きながら歩きました。森からはつくつく法師とミンミン蝉の合唱がいつまでも聞こえていました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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藤田嗣治と戦争画・・・彼はやはり軍国主義者だった

2012年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

016_4 藤田画伯は第二次大戦中に軍国主義者として沢山の戦争画を描いたのです。

戦争中は陸軍美術協会理事長に就任し、他の画家に率先して戦意高揚のための油絵を沢山描いたのです。父や義父が陸軍の中将や大将であったので自然軍国主義者になったのだと思います。

しかしその思想は別にして絵画には力強い傑作が揃っていると思います。

先日、NHKのテレビの日曜日美術館で彼の戦争画の特集がありました。

そのテレビ画面をデジカメで撮った写真をお送りします。平和な現在の心理では目をそむけたくなるような場面が多いのです。しかし良く見て戦争の恐ろしさや非人間性を深く心に刻み込みたいと思います。戦争は藝術さえその道具にするのです。

以下にもう少し詳しい資料を添付します。

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藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Léonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日 ? 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。

藤田嗣治は、1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。

父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。

義父は陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野が、従兄には小山内薫がいる。このように父や義父が陸軍の中将や大将であったので自然軍国主義者になったのだと思います。

第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。

フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。

1949年にフランスに逃げた藤田は、1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。

1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

==以上の文章の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB==

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人間の優しさと深い悲しみを感じさせる散歩道をご紹介いたします

2012年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは何度も書きましたが、私は墓地が何となく好きで、よく散歩に行きます。

墓を大切にしている人々の優しさが感じられます。静かです。晩夏の蝉の声が木々の上のほうから降り注いできます。

昨日は府中市の浅間山の麓にある慈恵院という禅宗のお寺の墓地を散歩して来ました。

驚いたことにその広い墓地は全て犬や猫のお墓で埋め尽くされているのです。このお寺は1921年に造られ、完成すると同時に犬猫専門の墓地を作ったのです。

家族の一員として愛された犬や猫のお墓です。人間のうるわしい優しさと深い悲しみを感じさせる散歩道なのです。

家族として一緒に暮らした犬や猫は人間より短命で、先に旅立って行きます。何故か子供のお墓のような可愛さがある墓石が並んでいます。

墓地には何人もの人間が花束や線香を手に持って、悲しそうに歩いています。若い禅宗の修業僧も墓地の掃除をしています。

墓地の空気には人間の優しさと、先に逝ってしまった家族を偲ぶ悲しさが入り混じった不思議な空気が流れています。

昨日、散歩して来たお寺と、その裏にある墓地の写真をお送りします。

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上がお寺の正門です。この左手に犬や猫の葬儀一式の相談を受ける窓口があり何でも親切に相談に乗ってくれます。私も少し話を聞いて来ました。

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お寺の裏に入って行くと墓地が広がっていて、全てが犬や猫のお墓です。

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上は個別のお墓です。多くの墓に花々が供えてありました。

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上は合祀墓です。花で埋まっています。見ている間にも2組の家族が花束を供えていました。

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上と下は墓の写真です。このお寺には専用の火葬場もあり、遺体を家庭まで引き取りに来てくれます。広い「ドッグラン」の場所もあります。詳しくは、http://www.jikeiin.jp をご覧下さい。

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散歩から帰った私は家内へこの墓地の話をしました。

2,3日前のテレビの「日曜美術館」で藤田嗣治の戦争絵画を沢山見た彼女が言います、「何と幸せな犬や猫達なんでしょう。戦死して遺骨も還ってこない人が100万柱もあるのを考えると悲しくなります」。

上で「人間の優しさと、悲しさが入り混じった不思議な空気」と書きました。

全ての墓地にはいろいろな形の永遠の別れを考えさせるので悲しみが流れているのです。心が静かになります。そんな散歩道がお好きな方々へお薦めできる場所です。少しの浄財か庭の花を持って行きましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(筆名:藤山杜人)


富士山山麓、鳴沢村運動場の風景写真

2012年08月28日 | 写真

昨日は小学5年生の双子の孫の野球合宿練習を見学してきました。

鳴沢村の合宿専門の民宿に数日泊りこみ野球の練習をするのです。野球好きのおじさんやお兄さんが監督やコーチになって徹底的に教え込むのです。小学校1年生から5年間、同じ監督とコーチに週末毎と春、夏の合宿で教えて貰い、かなり上手くなっていました。

鳴沢村は富士山の見える広大な場所に少年野球場4面と室内体育館を2つも作ってスポーツの合宿練習へ貸しています。

高原なので涼しい風が吹きぬけていて快適な練習場でした。

その野球場の横に出ると巨大な溶岩や昔の蒸気噴気孔があります。説明板もあり、チョットした観光も楽しめます。

以下に中央高速道路から見上げた昨日の富士山、鳴沢村の運動場入口の花壇、溶岩や昔の蒸気噴気孔、そして少年野球の練習風景などの写真をお送りいたします。

お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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参考資料:鳴沢村富士緑の休暇村の写真です。

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原発比率を何%と世論で決める不合理性と大きな間違い!

2012年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、政府はいろいろな形の世論調査をして2030年における原発比率を決めようとしています。その結果は、原発ゼロ支持、47%に増加・・・討論型世論調査 ・・・容認約3割は変わらず という題の記事として先日、このブログに掲載しました。

このような政府のやり方を決定的に批判した理論整然としたご意見を私の友人から頂きました。彼は東海村の元日本原子力研究所で原子力利用の技術を真面目に研究しきた人です。

彼は、今回送ってくれた長文の意見書を、そのままブログへ掲載することは許可してくれませんでした。しかし皆様も深く考えるべき部分が含まれているので、その要約を以下にお送りします。

なお私自身は原発を次第に減らし、最終的にはゼロにするのが良いという考えなので、以下の内容に全面的に賛成しているわけでは無い事をあらかじめ言明しておきます。

尚以下の文章では分かりやすくする為に、私が勝手に挿入した語句や断定的な言葉が多く含まれています。ご了承下さい。

(1)エネルギー政策も出来ていないで原発比率が決める事の不合理性

エネルギー政策は科学、技術、経済、産業、政治など多くの分野の専門家同士の長期にわたる研究と討論で次第に決めるべき性質の政策です。そのことはアメリカのカーター大統領時代に決定した「エネルギー戦略アセスメント」の策定経過を見れば一目瞭然です。

そのような専門家同士の調査、研究、分析、総合をしないで、いきなり素人の感情にしたがって原発比率を決定することは全く合理的ではありません。

(2)種々の化石燃料の値段の変化や太陽電池などの値段の推移を無視した原発比率の決定は大きな間違いであり、愚かな決定です。

オイルシェルの開発や樺太やシベリアの原油価格は年々変わるはずです。

それと同時に再生可能エネルギーのコストも年々変化して行きます。

それによって当然、原発の重要性は相対的に毎年変化して行きます。

このような資本主義経済の原理を全く無視して、原発比率を決めてしまう事はナンセンスであり、絵に描いた餅であります。

実行されない目標値を決めるのは、政治家の人気取り以外の何ものでもありません。

(3)石炭や重油のような化石燃料の枯渇を考慮に入れない原発比率決定は将来致命的な悲劇をもたらす。

上記の(2)に書いた目先の経済原理に左右される経済活動がもたらす悲劇を回避する賢さを持つべきです。はじめから原発を無視するのではなく、その安全性の技術開発に努力すべきではないでしょうか?

(4)炭酸ガス放出が増大する火力発電をこれ以上増加するべきでは無い。

原子力発電は核反応のエネルギーを利用するので原則として炭酸ガスは出ません。この科学的原理は永久不変です。地球温暖化の問題を避ける方法は原発にしかありません。

(5)2030年のGDPが28兆円減少し、毎月の電気代が8000円上っても良いのですか?

読売新聞の7月30日号で、原発比率を0%、15%、20~25%にした3つの場合の経済的な損失を詳細に報告しています。

それによると、例えばゼロにした場合の2030年におけるGDPが28兆円減少し、毎月の電気代が8000円上がる可能性を報じています。

勿論、この予測にはいろいろな不確定要素が含まれているので間違う可能性もあります。

しかしこのような経済的なマイナス効果を国民は本当に真剣に考えていないようです。この事を考えないで一時的な感情で原発をゼロにすべしと主張しているとしたら、それは大変愚かなことと言えましょう。

以上が私の友人の意見の要約です。私が要約を作る間に間違った部分も含まれているでしょうが大筋においては大丈夫だと思います。

さて上記の内容に皆様はどのようなご意見をお持ちでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(筆名:藤山杜人)


白雲湧きたつ今日の河口湖の風景をお楽しみ下さい

2012年08月27日 | 写真

久しぶりに河口湖へ家内と一緒に行ってきました。

富士山は雲に隠れていましたが、河口湖は青く輝き、その上に白い雲が湧きあがりながら流れていました。

行く夏を惜しむように若者達が水上スキーやモーターボートで遊んでいました。

川口湖畔は涼しくて冷房無しで車を走らせました。富士ビューホテルの6階にあるパノラマ展望台からも河口湖の写真を撮ってきました。

どうぞ白雲湧きたつ今日の河口湖の風景をお楽しみ下さい。

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パラオ諸島にある太平洋戦争の戦争遺跡の写真

2012年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

先週、高校一年生の男の孫がパラオに一家で遊びに行きました。写真のメモリーチップに下のような太平洋戦争の戦争遺跡の写真がありました。

パラオのロックアイランド・エリアは世界遺産に登録されました。シーカヤックで孫の一家はその石灰岩で出来た島々を巡って来ました。

そこから50km離れたペリリュー島は14000人余の日本兵が玉砕した島です。

日本軍が南洋で建設した一番大きな飛行場があった島だったのでアメリカ軍が一番始めに攻略した島です。アメリカ軍がペリリュー島を取れば、サイパン、グアム、硫黄島、と攻め上げる一番重要な場所だったのです。

パラオでの戦争について私は勿論知っていましたが、その事情を簡明に記述したブログを探してみましたら、「コージの小部屋」というブログに感動的な報告記が掲載してあるのを見つけました。

写真の下にその報告記の冒頭部分を掲載してあります。

写真とともにご覧頂ければ嬉しく思います。

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上は道路端です。下は海中です。

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そして現在のパラオは下の写真のように平和に静まりかえっています。

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コージの小部屋 スペシャル:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8209/Peleliu.htm

======玉砕の島 ペリリュー島=========
パラオ共和国ペリリュー島は、知る人ぞ知る大東亜戦争末期に於ける日本軍玉砕の島です。

休暇を利用してパラオにダイビング&スノーケリングツアーに行って参りましたが、その際、このペリリュー島も訪れました。
ガイドの中川さんよりお聞きしたお話を元に、この島における日本軍玉砕について簡単に纏めてみました。
ちょっと判りにくいかもしれませんが、私の見学した順番に掲載しておりますので、ご容赦ください。
=======*ガイドの中川さんについて===========
数えで73歳になられる四国ご出身の中川さんという方にペリリュー島観光のガイドをお願い致しました。
中川さんは、若い頃ペリリュー島で育ちましたが戦争と共に徴兵で日本に戻り、そのまま敗戦後も日本で自営業を営まれていたそうです。その後、かつてご自身が住んでいたペリリュー島で亡くなった多くの日本兵を慰霊したいと考え、日本のバブルが崩壊した頃(10年ほど前)にペリリュー島へ再渡航され、日々慰霊とガイドをされていらっしゃるとのこと。
パラワン(パラオ現地人)のお子さんを引き取られて養父をされているそうです。また、中川さんのお姉さんが中村前大統領のお姉さんと同級生だったつてで、ペリリュー島に家を持って住んでいるとのことでした。
中川さんは日本政府要人や各遺族会がペリリューを訪問された際にもガイドをされており、またテレビでも中川さんの生活振りが紹介されたことがあるそうです。

以下は省略しましたが、http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8209/Peleliu.htmをクリックして是非お読み下さい。(終り)


歴史的ものの見方の訓練をすると趣味が広がる・・・老後が一段と楽しくなる

2012年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

若い頃アメリカに留学して驚いた事が沢山ありました。

日本ではスポーツには毎日の訓練が重要ですと教わりました。

職人になるためには10年、20年の修業時代の「わざ」の訓練が無ければ一人前の職人になれないという話を聞いていました。訓練は体の動かし方の反復練習だけだと思ってアメリカへ留学しました。

ところが欧米では訓練とは知的な訓練も非常に重要視しているのです。

知的訓練にもいろいろ種類があって、科学的思考訓練、哲学的思考訓練、歴史的思考訓練、藝術観賞訓練などから宗教的訓練まで実に多種多様な知的訓練があるのです。

今日は歴史的思考訓練の方法を少しご説明いたします。すると、趣味の世界が急に広がる話をご紹介いたします。老後の生活が一段と楽しくなるのです。

訓練方法の第一歩は歴史的なことが書いてある本を多数読むことから始めます。

そのとき重要な事が一つあります。

ただ漫然と興味本位に読み飛ばすのではなく、自分で問題や疑問を持って読むのです。ここに書いてある歴史は真実か?何故こんな事が起きたのか?歴史は書く人の立場によって逆の書き方がなるのではないか?事実を美化しすぎていないか?他の文書にも同じことが書いてあるか?

こんな問題意識を持って本を読むことが歴史的思考訓練なのです。

問題意識を持って読めば、自然に自分の歴史解釈が生まれて来ます。

そうすればそれが正しいか否かを調べはじめます。そこまで進めばそれは立派な、そして愉快な趣味へとなります。暇な老後が急に楽しくなるのです。

実例として、ささやかな私の歴史趣味をご紹介します。

何年も前に埼玉県の秩父へドライブへ行ったことがあります。道に迷って日高市の郊外をウロウロしていたら下のような異国的な魔除けの2本の門柱を偶然見つけました。

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歴史的思考訓練のお陰で、ピンと来ました。ウン、これは昔の朝鮮と交流があった証拠と感じたのです。日をあらためて再度、調査の為に訪問しました。

朝鮮半島の高句麗が新羅と唐によって滅ぼされたとき日本へ亡命したきた王族と家来たちが埼玉県西部に住みついたのです。勝手に住みつく訳には行きませんから当時の天皇から「高麗王」という称号を貰って武蔵国の領地を分譲してもらい移住したのです。

下の写真が示すように、その「高麗王」の廟所が現在でも存在しています。

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その歴史的いきさつは下の写真にある看板に書いてあります。

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これが歴史趣味の実例です。しかし、この趣味の面白さはその先にあります。自分で見つけた説明は本当に正しいのでしょうか?そして自分でいろいろな仮説を立てて楽しむ事にあります。

当時の天皇から立派な称号や領地を貰うために何をしたのでしょうか?持参した金銀や宝石を出したのでしょうか?

それだけでは充分ではない筈です。もっと重要なおみやげは「先進的な農業技術」や「金属の精錬技術」の提供だったと想像しています。高句麗王の家来の中に優れた農業や工業の技術者が居たようです。

この仮説の回答を調べて行くと大和朝廷が朝鮮からいろいろな先進技術を学んだ様子が分かってくるのです。

歴史的ものの見方の一つの例を示しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


原発に関する風評や感情論を煽りたてるのでブログやHPは無い方が良い!

2012年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

2011年3月11日の大津波で福島第一原発の4基が爆発して、放射性物質を福島県にまき散らせました。強制的に移住させられた住民も多数いました。

それ以来、このブログでは科学的根拠の無い風評や感情的な意見を鎮めるために数多くの記事を掲載してきました。

しかしこの私の意図とは反対に益々感情的になったり、私の解説的な記事を否定したいあまり、もっと悪意に満ちた風評を発信した人も皆無であったとは言えません。

従ってブログやHP(ホームページ)は社会にとって悪い影響を流すから無い方が良いと言う人がいます。ブログやHPは存在しない方が良いと思っている人もいるのです。

特にこのように考える人は知識人や専門分野で指導的な役割をしている科学者や技術者に多いのです。

ブログに専門的な論文を書いても素人には理解出来いと思っているのです。所詮、素人は素人なのです。

実は私もこのブログを始めるまではそのように思っていました。

ところが歴史学者、社会学者、文化人類学者などのいはゆる、「文系の学者」は自分の研究論文を学会誌に印刷公表した後で、ブログやHPへ全文をそのまま公表しているのです。

文系の論文は素人にも読めます。私はそのようなブログやHPを幾つも読んだ上で、自分のブログ記事を書いています。

最近の例ではドイツ現代史の学者である清水正義氏の論文のお陰で戦後のドイツの戦犯の裁判のあり方が理解出来たのです。

これこそブログやHPの功績ではありませんか?

そこで気になって、自分の研究論文がインターネットに公開されているか検索してみました。

「後藤和弘氏」として検索すると私が発表した多数の研究論文の題目一覧表が出ているのです。そのURLは、http://sc.chat-shuffle.net/human/id:1214447 です。

そして「後藤和弘」を検索すると出版した本や略歴も出ているのです。その上、後藤和弘 の画像検索結果 もあり、このブログに掲載された写真が多数出ているのです。

これには驚きました。

ですからブログやHPを実名で書いている人は逃げも隠れも出来ません。

そこで本題に戻って、「原発に関する風評や感情論を煽りたてるのでブログやHPは無い方が良い!」という意見をもう一度考え直してみましょう。

そうすると、ブログやHPを匿名やハンドルネームで書いている限り、悪い影響が多くなりがちだと言えそうです。

話は飛びますが、私も加盟しているアメリカのFace Bookというネット組織では実名を使うことになっています。発信する情報は実名の個人が責任を取るのです。

このようにしてアメリカではインターネットの存在による悪影響を少なくしようとしています。

どちらが良いとか優れているとか主張しませんが、アメリカと日本のインターネット文化の相違がここに厳然としてあるように思います。

結論として提案したいことは、「ブログやHPや全てのインターネット組織では参加する人が皆実名でしたほうが良い」という考え方です。

日本でも実名でブログやHPを実名で書いている人もいますが、まだまだ圧倒的に少数です。

さて皆様のご意見は如何でしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。(終り)


急激に変化する日本人の価値観(4)大津波と原発爆発で人々の心が変わった

2012年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

飛鳥時代、奈良、平安・・・そして明治、大正、昭和、平成と人々の生き方や価値観が変わってきました。しかしどんなに変わっても日本の自然は変わりません。

下は多摩川の岸から奥多摩の山並みを見た風景です。悠久たる山々の広がりが何事もないように横たわっています。

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価値観には理性的な打算が入ります。心は感情や情緒の動きが入ります。少し意味合いが違います。

今回は、大津波と原発爆発で人々の心がどのように変わったかを考えてみたいと思います。

この記事の前には、原発ゼロ支持、47%に増加・・・討論型世論調査 ・・・容認約3割は変わらず という記事を掲載してあります。

日本は永久に原発をゼロにすべしという人が47%もいるのです。

原発の比率は15%以下なら良い、あるいは25%以下なら良いと考える人を合計すると30%位となります。

2030年に原発をゼロにすると日本のGDPは2兆円から28兆円減少すると言われています。現在の日本のGDPは460兆円位ですからその約5%が減少するという推算結果です。

47%の日本人は生活が苦しくなっても原発のような危険な工場を日本の国土から撤去するという決心をしているのです。

自分の子供や孫の安全を遺産として遺して上げたいという感情が心を支配したのです。

そして、この情緒が消費税の増額の国会決議を支持しているのです。子供や孫の時代に日本が倒産しないように生活が苦しくなっても消費税を上げるべきという心の動きが支持したのです。

この心のあり方は戦後経済復興と経済成長だけを信じて、努力して来た日本人の心情を大きく転換する現象です。驚くべき現象です。

しかし、人間は矛盾のかたまりです。心が原発ゼロを思っていても打算的な価値観から考えるとやっぱり原発は20%位は温存していた方が良いと考えているのです。

ですから多くの人々は「建前として原発ゼロ」と言いながら、「本音は20%温存」を願っているのです。これは人間の感情と理性の対立なのです。

その上、日本の将来20年、30年に渡るエネルギー政策が出来ていないのです。

実の憂慮に堪えない事態なのです。こういう場合は政治家は感情と理性の妥協案として原発15%温存政策を決める方向になって行くと思います。

今日はこれからミサへ行きます。

イエス様へ原発のことを聞いてみます。返事はきっと、「カエサルの物は、カエサルヘ返せ」だと思います。原子力は神のものだから神へ返せという意味なのでしょう。

また、「私の体を食べて永遠に生きることを考えよ!」と言うかもしれません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をミサの間にお祈りしてきます。後藤和弘(藤山杜人)