後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「人気コメディアンからウクライナの英雄になったゼレンスキーさん」

2022年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数日私の心は休まりません。ウクライナへロシア軍が侵攻して悲惨な状況になっているのです。
ロシアの暴虐ぶりは世界中から非難されています。ロシア国内でさえ軍事攻撃反対のデモが多くの都市で行われました。

それにしても私はウクライナのゼレンスキー大統領の人間性を考えています。
強大なロシア軍に降伏してしまえば自国の数多くの犠牲者の命を救えることが明白なのです。それをしないゼレンスキーさんは愚か者なのでしょうか?
しかし自分はキエフに踏み止まって徹底抗戦すると高らかに宣言しています。
ウクライナ軍の士気が上がってロシア軍は各地で苦戦しています。

ゼレンスキーさんは以前は人気コメディアン・俳優でした。それが今やウクライナの英雄になったのです。
私はこの英雄の将来が心配なのです。ロシア軍に捕まって処刑されるか国外逃亡の道しか無いのです。いずれにしても過酷な運命が待っているのです。

欧米諸国のマスコミでもゼレンスキーさんに興味が集まっています。
こで以下にBBCの報道をご紹介致したいと思います。この報道はゼレンスキーさんのことだけでなくウクライナはどんな国であるかを克明に描き出しています。
ウクライナは日本人の想像を越える混乱した複雑な国なのです。流石にBBCはよく調査して分かり易く書いています。

少し長い報道記事ですが是非、最後までお読み下さい。
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「人気コメディアンから祖国防衛の指導者に、注目集まるゼレンスキー大統領」
2022年2月27日、https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-60543719 (スティーヴン・マルヴィー、BBCニュース)

2019年4月にウクライナの大統領に当選したウォロディミル・ゼレンスキー氏は、それまで政治経験ゼロの人気コメディー俳優だった。あれから3年近くたった今、ゼレンスキー氏は突如、戦時下のリーダーとして説得力のある姿を世界に示している。
ゼレンスキー氏は連日、演説や自撮りビデオを通じて国民を鼓舞し、ロシア侵攻に怒り反発する国民の思いを代弁している。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の発言は、日に日に常軌を逸したものに聞こえるようになっている。・・・中略・・・
ロシア語を話すユダヤ系家族に生まれたゼレンスキー氏は、威厳を保ち、強い意志の力を示し、明瞭に語り続ける。

ゼレンスキー氏の連日の発言は、彼に批判的だった大勢にとってまったく予想外だった。ウクライナの知識層のほとんどが、これまで彼に批判的だったのだ。

支持率低迷に苦しみ、時に自分の立場に当惑して場違いにさえ見えることのあった大統領は、24日早朝、ロシアの侵攻が始まる数時間前、国民を象徴する存在へと変身した。・・・中略・・・
もしウクライナが攻撃されるなら、自分たちは国を守ると、大統領は宣言した。

「我々を攻撃する時、あなた方が目にするのは、我々の顔だ。我々の背中ではなく、我々の顔だ」
この演説から間もなく、侵攻は始まった。そして同日の日中に行われた次のテレビ演説では、軍の作業着(ファティーグ)を着て、まるで旧約聖書のダヴィデとゴリアテ(圧倒的な強者に立ち向かう勇敢な少年の物語)のようなこの戦いについて語った。・・・中略・・・

国の最高司令官としてのゼレンスキー氏を、ウクライナのツイッターユーザーは全面的に歓迎した。

ニュースサイト「ノーヴォエ・ヴレミヤ」のユリア・マクガフィー編集局長は、まさかゼレンスキー氏に政府トップとしての能力があるはずはないと思っていたので、彼が2019年4月に当選した際にはひどく動揺したと話す。・・・中略・・・
ゼレンスキー氏の政界進出は、現実がフィクションを模倣したことによって実現した。コメディー俳優としての彼の一番の当たり役は、「国民のしもべ」というテレビドラマでのものだった。教師だった男性が政治腐敗への非難をまくしたてたところ、それを生徒がこっそり撮影していて、その動画が世間の大注目を集め、やがて教師は大統領になってしまうという内容のドラマだ。ゼレンスキー氏は教師から大統領になった主役を演じ、人気を博した。
・・・中略・・・

ゼレンスキー氏、政治家になる前は……

1978年、ウクライナ東部の主要都市クリヴィーリフに生まれる
キエフ国立経済大学で法律の学位を得て卒業
テレビ制作会社を共同創設し、成功
様々な批判を集める大富豪イーホル・コロモイスキー氏所有のテレビ局で、番組を制作
コロモイスキーは後に、ゼレンスキー氏の大統領選出馬を支援した
2010年代半ばまで、テレビと映画での仕事がキャリアの中心だった。
・・・中略・・・
ウクライナでは汚職が根強くはびこっている。新しい財閥規制法は、特定の大富豪の活動を制限しつつ、他の富豪を放任するために利用されるとの懸念もある。・・・中略・・・


ウクライナ東部の分離派と国軍の戦闘では、1万4000人以上が命を落とした。この紛争を解決しようと、ゼレンスキー氏はロシアと交渉を試みたが、成果は限られていた。・・・中略・・・

ゼレンスキー氏はやがて、欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)への加盟を追求するなど、積極的な姿勢を示す。これがロシアの大統領を怒らせるのは必然だった。・・・以下を省略します。
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最後にゼレンスキーさんの写真を示します。





今日は人気コメディアンからウクライナの英雄になったゼレンスキーさんの人となりを書きました。ゼレンスキーさんの将来が過酷にならないように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック小金井教会の今日のミサの風景です」

2022年02月27日 | 写真
今日は年間第8主日です。カトリック小金井教会の今日のミサの風景です。

3日後の3月2日は灰の水曜日で四旬節が始まります。

灰の水曜日とはその日に神父さまが信者一人、一人の頭に灰をつけてくれるのです。この世の全てのものは土から生まれ、土へ還るということを忘れないように信者の頭に灰をつけるのです。

「灰の水曜日」に続いて四旬節があり、最後に4月17日、日曜日の復活祭がきます。

それらは春先の季節の流れを示す歳時記のようなものです。

今年もそんな季節が巡って来ました。





「忘れ得ぬ孤独死したある友人の思い出」

2022年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
その人の実の名前を知りません。出身地も卒業した学校も知りません。人生のある時期に淡い交際をしただけです。12年前に50歳代で孤独死しました。
しかし私は彼のことを忘れません。今日も思い出したので彼のしみじみとした人生と孤独な死について書きたいと思います。
分かっていることは瀬戸内海のある島の出身だということだけです。しかしなにか深い事情があり故郷には生涯一度も帰りませんした。
彼の孤独な雰囲気を想うと粛然たる思いがします。忘れ得ない人でした。
彼は「ひかるの」という名前を使っていました。実の名は分かりません。
インド、タイ、ブータンなどの南アジアに26年も住みながら、各地の伝統的な染色布や柄織りの布の美しい写真を自分のブログに紹介していました。
「インド ブータン アジアの布 染織美術館」というブログで、URLは、http://asiancloth.blog69.fc2.com/ です。このブログは今でも生きて存在しています。
このブログを発見し、その内容に感動したのは2008年8月のことでした。
染織の写真が美しいだけではありません。「ひかるの」さんが種々の民族を尊敬し何かを学ぼうとしているのです。読んでいて心豊かにさせるのです。
こうして彼とはネットの上で知り合い、その後何度か東京でお会いしました。物静かな人柄でした。その「ひかるの」さんが肺ガンで亡くなる直前にもお見舞いに行きました。亡くなっても12年になります。忘れ得ぬ人でした。

彼はヒンズー語、タイ語、ネパール語、ブータン語などなどが話せました。アジアの各地を訪ね人々と温かい絆を結びました。
「ひかるの」さんはカトマンズとバンコックの両方に家があり26年も住んでいました。アジアの手紡ぎ、手織り布に魅せられて棲みついてしまったのです。
彼は独身でしたが息子と呼んでいた子供が一人いました。バンコックでストリートチルドレンだった少年を引き取り、育て上げたのです。今は大人になってバンコックで働いています。
息子は病身の「ひかるの」さんの最後の世話をあれこれしてくれました。このタイの息子は「ひかるの」さんにとっては唯一人の家族です。しかし最後はその息子とも別れ、東京へ帰って来ました。そして肺ガンで2010年の5月に亡くなったのです。正確な享年は分かりませんがまだ50歳代のように見えました。

生前、彼は収集したアジアの手織り布を多数東京に持ち帰り展示会をしていました。展示会で売ったお金を持ってネパールなどに帰り次の収集の費用にあてていました。私もその展示会を3度ほど訪れて手織り布の美しさに魅了されたものです。温かい心のこもった美しい布でした。
彼はブログでインドやタイやネパールやブータンの市井の人々の暮らしぶりを紹介しています。貧しい人々に心を寄せています。
日本の多くの人々もこのブログに魅せられました。
最後に肺ガンの治療を受けていた東京厚生年金病院には毎日のように見舞客が訪れていました。そして日本にも身寄りの無い彼の世話を親身でする人もいました。みんなネットで繋がった絆だったのです。
2010年の5月、余命を覚ったひかるのさんは病院にお見舞いに来た人や見舞金を送ってくれた人々に手織り布を入れた礼状を送り、静かに旅立って行きました。静かにこの世から退席して行ったのです。

現在考えてみるとアジア諸国や日本での人々との絆は不思議なものです。何か不可思議な力が人々に働いていたようです。
彼は孤独といえば孤独でした。しかし彼を知り合った人は皆彼を大切にし愛したのです。孤独ではありましたが愛の満ちた楽しい日々を過ごしたのです。
「ひかるの」さんのブログ、http://asiancloth.blog69.fc2.com/  から彼の撮った写真を5枚を転載します。

1番目の写真はバンコックにある精霊の樹木です。ヒンズー教の影響を受けた庶民の信仰です。近代的なバンコックにもこんな信仰もあるのです。日本でもよく見られる樹木信仰の風景です。

2番目と3番目の写真はこれはブータンの衣装のキラです。野蚕の絹を手織りにし、草木染にした布です。見ていると暖かい気持ちになるから不思議です。

4番目と5番目の写真もひかるのさんが撮った写真です。



この2枚は肺ガンがちょっと良い時に病院を抜け出して近所の公園を散歩した時の風景です。晩春でした。これらの花々が「ひかるの」さんが見た最後の花になりました。

今日は私の人生のある時期に淡い交際をした友人の思い出を書きました。12年前に50歳代で孤独死した人でした。何故か今日も思い出したので彼のしみじみとした人生と孤独な死について書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日記、午後から多摩湖までドライブに行く」

2022年02月26日 | 日記
午前はブログに、「写真で見る私の昭和史、それは激動の時代だった」という記事を書きました。

午後から多摩湖(村山貯水池)までドライブに行って来ました。

多摩湖に着いたら駐車場が改修工事中で閉まっています。駐車して写真を撮ろうと行ったのですが。仕方なくドライブだけを楽しんで帰って来ました。

以前に撮った多摩湖(村山貯水池)の写真をお送り致します。





「今年も海岸禅寺の梅が満開になりました」

2022年02月25日 | 写真
今年も近所の海岸禅寺の梅が満開になりました。
梅の木のある海岸禅寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。海岸禅寺の創建年代等はよく分っていませんが、江戸時代の元文元年(1736)作られたことは確かです。
本堂の裏には墓地の無い修行を専門にしているようなお寺です。
内庭が何時も綺麗にしてあるのでいつも散歩に行くお寺です。墓地がないので墓参りの人も来ません。静寂がお寺を覆っています。
江戸時代に流れ大工の作った山門が時代の変化を見つめているだけです。最後の写真が流れ大工の作った山門です。





「写真で見るロシア軍の暴挙、ウクライナの悲劇の現場」

2022年02月25日 | 写真
ロシア軍によるウクライナ全域のミサイル攻撃と空爆が始まりました。ウクライナ政府軍も反撃しました。この戦争によって起きたウクライナ国内の悲劇の現場の写真をお送りします。ロシアの攻撃による被害の写真4枚とウクライナ政府軍の攻撃の被害の写真2枚です。戦争は始まると歯止めがかからないのでしょうか?ロシアの自制はないのでしょうか。嗚呼。

1番目の写真はロシア軍の攻撃で炎上するウクライナの首都キエフです。
(写真提供:ウクライナ大統領事務局)
写真の出典は、ロシア軍 ウクライナの軍事施設に攻撃開始と発表 死傷者も (vovworld.vn) です。

2番目の写真もロシア軍の攻撃で炎上するウクライナの首都キエフです。
ロシア国防省は“軍事施設を高性能兵器で攻撃” と発表し、その上、ウクライナ軍の飛行機5機とヘリコプター1機を撃墜したと発表しました。出典は、https://news.yahoo.co.jp/articles/882438b0d15496da6d6400a128ecb42dbd324e4f です。

3番目の写真はロシア軍の激しい攻撃により穴だらけとなったウクライナ、ドネツク国際空港の廃墟です。
写真の出典は、https://karapaia.com/archives/52188776.html です。
4番目の写真はロシア軍の攻撃で破壊された州都のハリコフにある建物の室内を映した映像です。部屋の屋根や壁が大きく崩れ、破片が床に散乱して足の踏み場もない状態になっています。
出典は、 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220225/k10013500311000.html です。

5番目の写真はウクライナ政府軍による爆撃の被害の様子です。ドネツク市の中心部でも激しい戦闘が始まり、住宅の破壊もひどくなってきていると報じられています。
出典は、http://www.y-asakawa.com/Message2015-1/15-message11.htm です。

6番目の写真はウクライナ政府軍の空爆で炎上する建物です。東部で親ロ派を空爆で48人を殺害したと報じられています。

日本のマスコミではロシア軍の攻撃での被害だけを大きく報道していますがウクライナ政府軍も反撃しあちこちで被害が起きているのです。
ロシアが歩兵部隊をウクライナ国内へ入れれば凄惨な市街戦になります。そのように推移する可能性もあるのです。全てはロシア側の自制にかかっているのです。楽観が許されない情勢です。実に困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「心を揺さぶる平山 郁夫と東山魁夷の日本画」

2022年02月24日 | 日記
平山 郁夫と東山魁夷の日本画は私の心を揺さぶります。何度見ても感動します。二人の日本画は題材も違いますが受ける印象も違います。
しかし二人の日本画を見ると感動を受け、やがて心がシーンと静かになります。
今日は平山 郁夫と東山魁夷の日本画をご紹介致したいと思います。
まず平山 郁夫ですが、彼はシルクロードに魅せられ何十回も行きました。
シルクロードの画家と言っても過言ではありません。
駱駝に乗った胡人が月の砂漠を列になって静かに歩いています。シルクロードの旅です。日本人の憧れの風景です。その風景を何度も何度も描いたのです。

1番目の写真は玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。
東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫はインドへ旅した三蔵法師を尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。

2番目の写真は何度か訪れた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。
平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロードと関連のあった国々約37ケ国です。
平山郁夫の一生はシルクロードに魅せられた生涯だったのです。

3番目の写真は同じくシルクロード美術館に展示してあった「アフガニスタンの砂漠行」です。
この美術館の1階にはシルクロードと関連のあった陶磁器、織物、イスラーム美術の彫刻、ガンダーラ美術の仏像、硬貨など約9000点の一部が展示されています。平山郁夫のシルクロードにかける情熱の強さに圧倒されます。

4番目の写真は『流水間断無』(奥入瀬渓流) です。この絵の大きな原画もシルクロード美術館 に展示してありました。

5番目の写真は平山郁夫の郷里の尾道から四国を繫ぐ橋を描いた「白い橋 因島大橋」です。
平山郁夫は1930年に 広島県尾道市瀬戸田町に生まれ尾道市で育ちました。そして2009年、79歳で亡くなりました。
平山郁夫の日本画を見ると何故心が静まるのでしょうか。それはたぶん絵の背後に仏教的な祈りがあるからです。
平山郁夫は先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求めていたのです。仏教的な祈りでした。
奈良の薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』と『ナーランダの月』は正しく心の平安と全ての死者の鎮魂を祈った壮大な絵画です。
平山郁夫の絵画の裏には何時も静かな仏教的祈りがあるのです。
誤解を恐れずに書けば、全て宗教画なのです。それが平山郁夫の絵画の強みでもありますが弱みになる場合もあるのです。
宗教的になって芸術性が弱くなる場合もあるのです。しかしとても美しい絵です。私は彼の絵が大好きですが、家人は何となくつまらない絵だと言います。

さて次に東山魁夷の日本画をご紹介いたします。
1971年に出版された東山魁夷のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。私の 心に焼き付いている旅の随筆集です。
昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。
1970年前後に何度か行ったドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が若い時のベルリン留学の回想を誘ったのです。
ベルリンの冬は毎日雲が低くたれこんで暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。

6番目の写真は東山魁夷の「緑のハイデルベルグ」、1971年です。
ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわせ持っています。街並みの景観の価値を重んじ、保存に努めるヨーロッパの落ち着いたたたずまいをとらえた東山魁夷の代表作です。

7番目の写真は東山魁夷の「白い馬」です。
1972年、魁夷は突然、白い馬を描き始めた。若葉が水面に映る川のほとり、山深い木々の間、ほの暗い森の中、紅葉の木々の間など、さまざまな風景の中に馬を置いたのです。それが、夢の中の出来事のような18枚の絵になったのです。(http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20110730/1311973474 )

8番目の写真は東山魁夷の「年暮れる」です。
この絵には屋根しか描いていないのに、人の静かなざわめきが聞こえて来るようです。荘厳に年が暮れるその姿が静かに描かれているのです。(http://blogs.yahoo.co.jp/cksbg258/15270923.html )

9番目の写真は東山魁夷の「照紅葉」です。

東山魁夷は東京美術学校卒業後すぐの1933年から1935年までベルリン大学に留学しました。寒くて暗いベルリンで芸術家になるための哲学、神学、美術史、ギリシャ文化、などを勉強したのです。そして盛んに絵画制作にいそしんだのです。
彼がパリではなくベルリンへ留学したことが良かったと思います。パリに行った多くの日本人画家のように印象派の模倣をする必要が無いのです。迷うことなく独自の画風を育てることが出来たのです。
なにせドイツの有名な画家と云ったらデユーラーしか居ないのですから。暗い細密な絵画をルネッサンス期に描いたデユーラーの記念館しかないのです。あとは暗い中世の宗教画を集めた美術館が数多くあるのです。
日本では東山魁夷のドイツ留学の影響をあまり言われていません。
しかし1971年に出版された彼のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。ドイツ留学の強い影響で彼の画風が出来たのです。
私も若い頃、ドイツに留学したので東山魁夷のドイツ留学の強い影響で彼の画風が出来たと考えています。個人的な感想ですが。家内は魁夷の絵は整い過ぎている。知的で感動が伝わらない。などと生意気なことを言います。ちなみに彼女の好きな画家は小野竹喬です。

今日は平山 郁夫と東山魁夷の日本画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「菜の花の写真を撮りに行きました」

2022年02月23日 | 写真
三鷹市の花と緑の広場まで菜の花の写真を撮りに車で行きました。
例年ですと菜の花畑が一面に咲いているのですが、今年は寒いので畑の端に少しだけ咲いていました。
それでも菜の花の写真をお送りしますのでお楽しみ下さい。





「ウクライナの首都、キエフに咲く花々の写真を送りします」

2022年02月23日 | 写真
ウクライナの首都、キエフに咲く花々の写真を送りします。

 写真と説明文の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10361799 です。 

1番目の写真はキエフの聖フロー修道院にて撮影した写真です。 

2番目の写真もキエフの聖フロー修道院にて撮影した写真です。 

3番目の写真もキエフの聖フロー修道院にて撮影した写真です。 

4番目の写真はキエフのHrinchenka通りにて撮影した写真です。

「ロシアがついにウクライナ東部を軍事占領し共和国の独立を宣言」

2022年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ソ連時代のウクライナはロシアとペラルーシと共にソ連の主要な一部で軍事産業が発達し、また穀倉地帯としてソ連の食料を支えていました。
ですからこそ現在のロシアはウクライナをなりふり構わず取り戻したいのです。この歴史的背景でロシアがついにウクライナ東部へ平和維持軍を派遣して軍事占領してしまったので。
そして2つの人民共和国の独立宣言を高らかに宣言したのです。2つの人民共和国とは「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」のことです。
ここでウクライナの首都、キエフの写真2枚と平和な農村の風景写真2枚を示します。「ウクライナの風景写真」を検索して、お借りしました。




写真に示したような平和な都市や農村が今や戦争の危機に瀕しているのです。

ソ連時代のウクライナとロシアとペラルーシの一体化の歴史を考えるとプーチンさんの気持ちは分かります。
しかし時代が変わっているのです。プーチンさんの時代錯誤で戦争の悲劇が起きるのです。
以下に Reutersの報道を転載します。
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「ロシア、ウクライナに「平和維持軍」派遣へ 親ロ2地域の独立承認」
2022年2月22日、By Reuters Staff 
https://jp.reuters.com/article/purin-ua-east-idJPKBN2KQ1UM
[モスクワ 21日 ロイター] - ロシアのプーチン大統領は21日、ウクライナ東部の親ロシア派2地域の独立を承認する大統領令に署名した。その上で2地域に軍を派遣するよう国防省に命じた。米欧は強く反発し、対抗措置を取ると表明した。
派遣する部隊の規模は明らかになっていないが、法令によると、ロシアは2地域で軍事拠点を設ける権利があり、派遣される軍は平和維持の任務に当たる。欧米側がこうしたロシアの軍事行動をウクライナへの本格侵攻の始まりと捉えるのかは不明。
ロイターの記者は、プーチン氏による部隊派遣の指示後、ウクライナ東部ドネツク州の首都ドネツク周辺で軍用車両が隊列走行しているのを確認した。
ロシア国営テレビはこれに先立ち、プーチン大統領が親ロシア派の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を認める大統領令に署名する映像を放映した。
プーチン大統領はテレビ演説で、ウクライナはロシア史の不可分の一部で、ウクライナ東部は古代ロシアの領土だったと述べ、怒りの表情を見せた。ロシア国民が今回の決定を支持すると確信していると語った。
さらに、ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟はロシアへの直接的な脅威になるとし、NATOがロシアの安全保障要求を完全に無視したと非難した。
プーチン大統領は、ロシアがウクライナに対しどのような行動を取るかにかかわらず、西側は「制裁の根拠を見つけたとするか、あるいは捏造するだろう」とした。
ロシア大統領府(クレムリン)によると、プーチン氏はこれより先、独仏の首脳との電話会談でウクライナ東部に関する決定を伝え、両国の首脳は遺憾を表明したという。
原則的に合意していた米ロ首脳会談の開催も危うい状況となった。ロシアの通貨ルーブルは下げ止まらず、1ドル=80ルーブルを突破した。
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以上のようなロシア軍の進駐は中国にも影響があると思います。
中国は台湾の占領を願っています。しかし今回のロシアのように、中国は一気に台湾を軍事占領しないで台湾領の離島を軍事占領すると思います。
台湾領の離島とは南シナ海の台湾の飛行場のある島や中国本土の近い台湾領の島々のことです。
こうなれば日本にある米軍基地からアメリカの戦闘機が飛び立ちます。

このようにウクライナ情勢はアジアの平和の危機に連動しているのです。
実に怖ろしい世界の状態です。注意深くウクライナ情勢を考えるべきではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「暖かくなったら明治村というテーマパークを訪れて見よう」

2022年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にはテーマパークという大きな国立野外博物館のようなものが幾つかあります。その中で名古屋のそばにある明治村は感動的でした。明治時代の建物が移築してあり明治時代の雰囲気です。嗚呼、明治時代はこんな時代だっと妙に納得しました。もう少し暖かくなったら明治村を是非訪れて見て下さい。

今日はそんな明治村をご紹介したいと思います。
明治村を訪れたのは2010年の4月はじめの桜の咲く頃でした。久しぶりの晴天で、桜が丁度満開でした。
遊歩道は高齢者にも歩けるようになだらかに出来ています。入鹿池の青い水面が雑木林の向こうに見え隠れします。
明治時代の銀行やホテル、兵舎や師範学校の建物があります。天主堂や教会堂もあります。小泉八雲が海水浴に通ったとき泊った焼津の魚屋の質素な家もあります。石川啄木一家が2階に住んでいた床屋があります。森鴎外と夏目漱石の住んでいた家もあります。
気持ちの良い里山の遊歩道を散策して行くと次から次へと興味深い建物が現れて来ます。そして明治時代の人々の一途な情熱に心が揺さぶられます。建物は何も言わずに静かに建っているだけです。その為にかえって明治の人々の喜びや悲しみの激しさを暗示しています。

明治村は昭和記念公園のような国立の野外博物館と思い込んで行きました。ところが2人の民間人が独力で作り上げたのです。
第二次大戦後、明治時代の美しい建物が荒れるにまかせ、倒壊して行く様子を見て、建築家の谷口吉郎さんが修理・保存を決心します。そして学生時代からの親友だった名古屋鉄道株式会社社長の土川元夫さんの協力を得て、昭和37年に土木工事に着手し、40年に開園しました。
愛知県、犬山市の入鹿池を囲む丘陵の里山の中に遊歩道を作り、全国から移築した明治時代の建物を散在させたのです。谷口さんと土川さんの精神の崇高さにおのずと頭が下がる思いです。
建築家、谷口さんが選んだだけに、全て建築美を漂わせています。それを入鹿池の周りの自然の景観に調和するように細心の注意を払って移築しています。
想像以上に素晴らしい野外博物館でます。
写真に明治村の風景を示します。写真は家内が撮りました。
里山に東京日比谷の帝国ホテルや京都にあった聖ザビエル天主堂や、そして京都にあった聖ヨハネ教会堂などが散在しています。長崎の」伊王島に建っていた聖パウロ教会堂もあります。内部はフランスのカトリック教会のように出来ています。
場所は名古屋から名鉄犬山線で30分で犬山駅のすぐ傍です。駅の東口からバスがあり、20分で明治村に着きます。是非訪問なさるさようお勧め致します。但し、野外を散策するので晴天の日に限ります。

この明治村は名古屋駅から離れているので行かない方も多いかも知れません。しかし是非訪れてみて下さい。感動すると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








「常夏の邦、沖縄の花々の写真をお楽しみ下さい」

2022年02月21日 | 写真
常夏の邦、沖縄には沢山の花が一年中咲いています。そんな花々の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真はハイビスカスです。
開花時期は通年です。
アオイ目アオイ科。熱帯および亜熱帯性のいくつかの種の総称が「ハイビスカス」。園芸種は実に5,000種以上あり、沖縄の言葉では「アカバナー」や「グソーバナ」などとも呼ばれています。

2番目の写真はイッペー(イペー)です。
開花時期は2~4月頃です。
ノウゼンカズラ科の落葉高木。コガネノウゼン/キバナノウゼン(黄金凌霄)を、沖縄では「イッペー」(沖縄の方言で「たくさん」の意味)と言います。春に葉を出す前に黄金色の花を咲かせます。

3番目の写真はテッポウユリです。
開花時期は4~5月頃の初夏です。
ユリ目ユリ科ユリ属の多年生草本球根植物。1本の茎に6~10の花弁をつけ、強い芳香を発します。細長く横に伸びる花弁が、昔のラッパ銃に似ているところから、その名が付けられました。海岸の崖や草地に自生しています。

4番目の写真はサガリバナです。
開花時期は6~7月です。
サガリバナ科の常緑高木。マングローブの後背地や川沿いの湿地に自生し、沖縄では6月下旬から7月中旬が見頃。甘い香りの花は、夕方に咲き始め、翌朝には散ってしまうため、“幻の花”とも呼ばれています。

写真と説明文の出典は、https://www.okinawastory.jp/feature/flower_trip/variety です。

「写真で見る沖縄の観光名所、冬なので南国風景を」続き

2022年02月21日 | 写真
「写真で見る沖縄の観光名所、冬なので南国風景を」の続きとして4枚の写真をお送り致します。
写真は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )からお借り致しました。