後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

石山 望著「ノーベル賞のカズオ イシグロ、 石黒一雄さんのイギリスでの評価」

2017年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
石山 望さんは何十年もロンドンにお住まいです。以下はその実感的なご感想です。
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先日、ニューズで知ったのですが、カズオイシグロ(Kazuo Ishiguro, 石黒一雄)さんが、文学部門で、今年のノーベル賞をもらわれたとのこと。
まずは、おめでとうございます。
この方、日本人ですが、5歳の時、家族と一緒に渡英。それからずーっと、62歳の今まで、英国住まいですから、国籍は英国ですし、思考様式も気質も、ほぼ英国人のそれです。奥様も英国人です。
でも、ご本人は、日本人の部分が少しあると仰っています。まあ、さしづめ感性がそうでしょうね。
代表作そして出世作「日の名残り(The Remains of the day)」で、ブッカー賞(日本の芥川賞にあたるもの)も貰っておられますし、当地では、よく知られた作家ですので、今度の受賞は、驚くに当らないというところでしょうか。
従って、彼の受賞に対する国民の反応も、淡々としたものでした。
その日のTVニューズでも、イシグロさんの受賞のことに関しては、最後の方に、アナウンサーが少し述べただけという、。
一体、この国では、ノーベル賞受賞者が出たからといって、あまりとやかくは言いませんね。ましてや、ノーベル賞受賞者を、神様扱いにするということは決してありません。
私、英国のこういうところは、とても好きです。
ただ、今回の場合は、文学賞ですから、一般大衆にも、まだ身近に感じられる部分があるのですが、これが、例えば、物理学賞とかいうことになると、国民の殆んどの人は、何のことかさっぱり分らないようなことなのですから、そういう部門で受賞者が出たといっても、彼らの反応は「ああ、そう、、」と、それだけ、。
また、英国人でも、小説など、全く読まない人も沢山おられます。それと同時に、すごい量の本を読まれる方もまた多いです。
私も、本は読みますが、悲しいかな、日本語か英語の本の乱読。読書量の多い皆様には、非常に恥ずかしいです。
これは、子供の頃に読書の習慣をつけておかなかったからだと、今にして思います。
何しろ、私の母が買って来る本といえば、講談社の偉人伝ばかりだったのですからね。その頃から、ひねくれ者の私、別に何とも思いませんでした。豊田佐吉さんとか、二宮金次郎さんとか、野口英世さんとか、(私に言わせると、我が家の救育ママ、教育センスがイマイチ)。
というわけで、イシグロさんの本は一冊も読んだことはありません。しかし、それでは、あまりに恥ずかしいので、昨日、町の大きな本屋に2軒行ってみましたが、いずれの店でも、彼の本は「売り切れました」とのこと。
仕方なく、今日、アマゾンで一冊注文しました。一番有名な「日の名残り」です。
私、基本的に、どんな本でも「読了する」という主義なのですが、この頃年端が行き、そんなことは言っておられなくなってきました。つまらないと思えば、途中で放り投げてもいい。
面白いと思う本を読みなさい。いくら、立派なためになる本だからと人に言われても、自分の梃子に合わないと思ったら、さっさと諦めなさい。
最後に付言、。
日本にも、イシグロさんに十分匹敵する作家は、以前から、少なからずおられたと思います。
しかし、その方達の作品が、極東のちょっと変った一言語で書かれているため、よほど頻繁に英語にでも翻訳されていない限り、ノーベル賞の候補対象になるには、不利だということではありませんか。(終り)
=====著者紹介===========================
この随筆の原題は、「面白いと思う本を読みなさい。」です、SNSの趣味人倶楽部の石山さんの日記欄に掲載されていたものを転載しました。
転載の許しを電話で頂きました。その折、原題を変えても良いというご承諾も得ました。
石山さんは何十年もロンドンにお住まいです。イギリスを愛し、日本を愛している知性豊かな紳士です。
石山さんにはこの欄に何度かご寄稿を頂いていますので、ご記憶の方も多いと存じます。
日本の文化とイギリスの文化に関して比較文化人類学的な鋭い観察眼をお持ちです。
私はかねがね日本でノーベル賞受賞者を崇め、大騒ぎをする様子を苦々しく思っていました。イギリスではノーベル賞もブッカー賞も同じようなものなのでしょう。
・・・「私の母が買って来る本といえば、講談社の偉人伝ばかりだったのです」と母親のことを言いながら今は亡き母親を偲んでいるところが石山さんの優しさです。微笑ましいです。

今日の挿し絵代わりの写真はイギリスの景勝地として有名な湖水地方の風景写真です。
写真の出典は、https://www.veltra.com/en/europe/uk/london/a/100639 です。

ロンドンから電車で3時間~4時間ほど行けます。湖水地方の景勝は、幾世紀にもわたってイギリスの詩人や芸術家たちを魅了してきました。世界中の子供たちの好きな小さな絵本シリーズのピーターラビットを描いたビアトリクス・ポターも住んでいたそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









日馬富士問題より重大ニュース!ローマ法王のミャンマー訪問

2017年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日馬富士が引退することになり問題は収束に向かいました。しかしここ数日の日本のマスコミは日馬富士問題だけを連日、報道しています。貴乃花親方の不思議な行動を批判しています。白鳳の万歳三唱を批判しています。日本中が相撲界の暴力事件などに大騒ぎをしているのです。
しかし海外ニュースに目を向けると、ローマ法王フランシスコ教皇がロヒィンギャ族の虐待で揺れるミャンマーのスーチーさんと会談し、その後で、バングラデシュを訪問します。
ローマ法王と会談したスーチーさんは明日、中国側からの招待で北京を訪問し習近平国家主席と会います。
習近平主席は、「一帯一路」政策で中国からヨーロッパにかける経済圏を構築しその地域の支配をしようとしています。
ミャンマーはこの「一帯一路」の丁度中間点に位置する重要な国です。ですから習近平国家主席がスーチーさんを招待したのです。
安倍総理は最近、舵を切り、この中国の「一帯一路」政策に協力する姿勢を取り始めました。
これは正しい政策の修正です。日本へのエネルギー輸送の安全を確保することに寄与します。
中国はフランシスコ教皇の巨大な国際的な影響力を利用して「一帯一路」政策の地ならしをしようとしています。
最近、バチカン国と中国の関係が改善されてきたと言います。北京でバチカン美術展をすることになっています。バチカンは美術品を貸し出すと云います。
台湾のカトリック教会を傘下にしているローマ法王は共産党政権とは激しく対立して来たのです。この対立の原因は共産党政権が中国大陸のカトリック教会とローマ法王との断絶政策をして来たからです。
日本が日馬富士問題などに大騒ぎをしている間に中国の「一帯一路」政策がどんどん進行しているのです。
このような文脈を知った上でフランシスコ教皇とスーチーさんの会談に関するニュースを見てみましょう。
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『ローマ法王ミャンマーで演説 ロヒンギャ問題言及せず』
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171128/k10011238641000.html
11月28日 21時10分ロヒンギャ
ミャンマーを訪れているローマ・カトリック教会のフランシスコ法王が演説し、「ミャンマーの人々は長年にわたる紛争や敵対によって苦しみ続けている」と述べましたが、少数派のロヒンギャの人たちをめぐる問題には直接は言及しませんでした。
ミャンマーを訪れているフランシスコ法王は28日午後、首都ネピドーでアウン・サン・スー・チー国家顧問と面会しました。このあとフランシスコ法王は政府関係者や市民の代表を前に演説し、「ミャンマーの人々は長年にわたる紛争や敵対によって苦しみ続け、深く断絶されている。こうした傷をいやすことが政治においても、宗教においても最優先の課題であるべきだ」と述べました。
ミャンマーは、少数派のロヒンギャの人たちが隣国バングラデシュへの避難を余儀なくされている問題で国際的な批判を受けていて、フランシスコ法王もこれまで、ロヒンギャの人権の擁護を呼びかけてきましたが、28日の演説では、この問題には直接、言及しませんでした。
これに対し、スー・チー氏は法王の訪問に感謝の意を示したうえで、「問題の解決にはミャンマーの市民と私たちの成功を願ってくれる友人たちの支援が非常に重要だ」と述べ、理解を求めました。
ロヒンギャの人たちをめぐっては、ミャンマー政府が法律で認められた民族ではないとして、「ロヒンギャ」という表現を認めておらず、各国にもこの表現を使わないよう求めています。
また、法王の訪問を前に、ミャンマーのカトリック教会で最も位の高い枢機卿が、法王に「ロヒンギャ」という表現を使わないよう求めていることを明らかにしていて、フランシスコ法王の演説はこうした事情に配慮したものと見られます。
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上にご紹介したNHKのネットニュースは深く掘り下げた報道ではありません。
この点、今朝の読売新聞の11面の「法王融和呼びかけ」という記事は秀逸でした。
バチカン国とミャンマーの国交樹立、それを受けて習近平国家主席がスーチーさんを招待したことも報道しています。
そしてこの招待が中国の「一帯一路」政策の地ならしになることを示唆しています。秀逸な記事です。
このようにロヒィンギャ問題は日本のエネルギ輸送の安全にも関係してきているのです。そして中国の太平洋制海権と西方への「一帯一路」政策とも深く関係しているのです。
安倍総理の森友学園問題だけを騒がないで、同じくらい国際問題意にも目を向けたいと、私は心がけています。

添付した写真はフランシスコ教皇の今回のミャンマ訪問の光景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





後期高齢者になったので口腔リハリビを毎日しています。

2017年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になると口が不自由になります。歯も悪くなります。たべものも呑み込み難くなります。声もしゃがれます。ろれつが回らなくなり会話が流暢でなくなります。誤嚥やむせることも多くなります。
このような問題に取り組み問題を解決するのが『口腔リハビリテーション・センター』です。
私の住んでいる小金井市には日本歯科大学が作った口腔リハビリのセンターがあります。
この春からこのセンターに通っています。

1番目の写真にこの日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックの建物の写真を示します。

2番目の写真はこのセンターのスタッフの写真です。センター長の菊谷教授は前列の中央に写っています。
この写真の出典は、http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/ です。

そして3番目の写真は2月以来、10回の咀嚼、嚥下訓練と歯の治療をしてくれた岩渕 信歯科医の写真です。

ここで今年の2月と3月に10回の咀嚼、嚥下訓練を受けた後で、この4月から私の話す言葉を明瞭にする訓練が毎月一回のペース始まりました。

4番目の写真にその指導をしてくれる言語聴覚士の橋本久美先生の写真です。
この橋本先生は教育系の有名大学を卒業し、発達障害児童の特殊クラスの先生の資格も取得しています。そして国家資格の言語聴覚士もとっているのです。
言語聴覚士の橋本久美先生の守備範囲は高齢者特有のコミュニケーションの指導だけではありません。
乳幼児・学童期の、「どもってしまう・声がうまく出ない・聞こえが悪いなどによる、発達の遅れ・自閉症・学習障害など」の治療も行っているのです。
この橋本先生の所へは現在45日っくらいの間隔をあけて通っています。
毎日、自宅で口腔の動きの自主訓練をして、その効果を診てもらうのです。
自主訓練は、(1)舌の運動の練習、(2)発音の難しい言葉の朗読、(3)パタカという発生練習、(4)プラスチック板を噛む練習、そして文学作品を2000字位朗読する練習をします。
今迄朗読の練習をした作品は宮沢賢治の「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の抜粋文や小川未明の童話の「いろいろな花」などでした.
このような古い作品を読むと昔の日本人の生活の様子や感じ方が分かって面白いのです。
今日から夏目漱石の「坊ちゃん」の一部の抜粋文を朗読し始めました。
下にその抜粋を示しますが、東京からはるばる松山の旧制中学校へ坊ちゃんが数学の先生として赴任する時の様子が面白いのです。下の部分は「坊ちゃん」がいよいよ真夏の松山に着いて、とりあえず泊まった宿屋での場面です。

(二) ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をしていた。
 停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。随分気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
 何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。熱いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍ぐらいやかましい。うとうとしたら清(きよ)の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底が突き抜けたような天気だ。
 道中(どうちゅう)をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらしい服装(なり)をして、ズックの革鞄と毛繻子(けじゅす)の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括(みくび)ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の面(つら)よりよっぽど上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。

[そしてその日の夕方に中学から宿屋に帰ってみると以下のようにことになっていたのです]
・・・帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰りと板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五畳の表二階で大きな床とこの間がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣ゆかた一枚になって座敷の真中まんなかへ大の字に寝てみた。いい心持ちである。・・・以下省略。

明治は遠くなりにけりと言いますが、本当に昔だったのですね。・・・見るところでは大森ぐらいな漁村だ。・・・というところを見ると明治時代の大森は漁村だったのですね。その頃は渋谷は渋谷村という農村だったとも聞きます。
それから日本は戦争をして大変なことになったのです。
「坊ちゃん」を読み、その後の日本の運命を想うと感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

Face Book で知る韓国人、中国人、台湾の人々の善意と友情

2017年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカで始められたFace Book というネット組織の会員は世界中に広がり、巨大な国際交流の場になっています。
私も会員になっていて毎日、自分のブログと同じ内容の記事と写真を掲載しています。
人それぞれの国々によって政治的な意見や宗教に対する考え方は大変違うのが普通です。
それにもかかわらず、私の書く政治記事や宗教関連の記事に対して攻撃的なコメントを貰ったことがありません。悪意に満ちたコメントを貰ったことがありません。
それどころか台湾の人々、中国や韓国の人々から毎日のように丁寧な挨拶文や楽しい絵が送られて来ます。
この善意と友情は何処からくるのでしょうか?
元来、Face Bookの会員になる人は国境を越えた善意の人が多いのです。国際的な友情の交換で世界の平和を守ろうと無意識の意図があるのかも知れません。
この善意にこたえるものを私は何一つ持っていません。
しかしこの際、明記したいことがあります。
それは日本が軍国主義だった明治維新(1867年)から1945年迄の間に中国を占領し、朝鮮を合併した事実は絶対に間違っていたと認めざるを得ません。
それは日本が招いた大きな悲劇です。
独自の言語と文化を持っていた朝鮮を無理やり合併し日本語の使用を強要したのです。
中国では孫文たちが清朝を倒し近代国家を作りました。その打倒した清朝の最後の皇帝、宣統帝(溥儀)を日本軍が担ぎ出し、満州国を作ったのです。
これでは中国や朝鮮の人々が怒るのは当たり前です。
広く世界の歴史を眺めてもこのような武力による悪い対外政策は他にあまり例がありません。この歴史を日本は静かに受け入れて、中国や韓国との友好関係を強いものにした方が良いと私は信じています。
それと台湾の人々に対する深い感謝の念を忘れるべきではありません。
日本、台湾、中国、韓国の友好はその共通の文化的基盤だけを考えれば容易に達成できます。
共通の文化的基盤を書き出せば長々しい記事になってしまいます。
そこで日本、台湾、中国、韓国の人々が共通に感動し、欧米人に対して誇りに思う北京の頤和園だけをご紹介しませ。こんなに規模壮大で夢幻的に美しい離宮は世界中探しても他にありません。清朝の末期に女帝、西太后が作った北京の郊外の離宮です。

1番目の写真は北京郊外の平地を掘り、大きな池を作り、掘り出した土で作った小山の写真です。小山の上には池とその先の緑の農村を見渡す楼閣が出来ています。その風景は杭州の西湖を模しているそうです。

2番目の写真は頤和園で私が一番感動した長い長い回廊の写真です。入り口の門から始まっています。左に碧い水を湛えた湖を見ながら楼閣の麓まで700m位えんえんと続いているのです。
回廊の天井や柱には竜宮城を連想させるような絵が描いてあります。
この回廊を歩いていると桃源郷とはこのような所なのだと思うのです。
このような感動は夜にロウソクの灯が揺れるベルサイユ宮殿の鏡の間を訪ねた時以来の身の震えるような感動でした。

3番目の写真は同じく回廊の内部の写真です。
この回廊は1981年後に3度行きました。家内も一緒に行きました。
いつも案内してくれたのは北京鋼鉄学院の周栄章教授でした。時には北京家鴨で五星ビールを共に飲んだ間柄でした。
もう10年ほど前に旅立ってしまいました。彼は本当に中国の大人でした。穏やかな風貌が懐かしいです。

さてこのように日本、台湾、中国、韓国の人々が共通に感動し、欧米人に対して誇りに思う文化遺産は中国だけでなく韓国や台湾にも沢山あります。
そのような文化遺産のことを考えれば日本、台湾、中国、韓国の人々の友好関係は間単に増進できます。少なくても私はそのように確信しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

いろいろな教会、サンタマリア・カトリック小平教会

2017年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いろいろな教会に行くのは楽しいものです。ミサの式次第は世界共通なので安心して何処の教会へも行けます。
国内や外国のいろいろな教会を訪れることは私にとって巡礼なのです。
国内では横浜の教会をはじめ韮崎、富岡、市川、立川、小平、成城、吉祥寺などの日曜日のミサに出た懐かしい思い出があります。
何時も行っているカトリック小金井教会の代わり、今日はサンタマリア・カトリック小平教会のミサに行きました。
隣町です。何年か前にも行ったことがあります。この教会は構造が昔の形の縦長で、木造なのです。
何故か旧懐の情が湧いてききます。楽しい思い出が脈絡もなくよみがえってきます。そして五島列島の古い教会を思い出しました。
2年ほど前に五島列島に2泊して、昔の隠れキリシタン達の教会を訪ねたことを思い出したのです。禁教令が廃止された後の明治時代や大正時代に建てた古い教会を巡り歩いたのです。
私は長崎の隠れキリシタンの歴史を書いた片岡弥吉さんの本や、遠藤周作さんの「沈黙」などのキリシタンに関する本を読んでカトリックになったのです。ですから私にとっては長崎は聖地のような場所です。長崎と聞くと心がうずくのです。
今日、ミサに行ったサンタマリア小平教会は昔の雰囲気そのままなのです。何とはなしに五島列島の教会のことを考えながらミサにあずかりました。
このように同じカトリックでも地方、地方によって雰囲気が違うのです。信者の雰囲気も勿論違います。
それでは今日撮って来た写真でご説明します。

1番目の写真はサンタマリア・カトリック小平教会の新しく出来た表札です。以前はこんなに立派ではありせんでした。

2番目の写真は新しく飾られたマリア様の像です。カトリックではマリア様を非常に大切にしています。プロテスタントの諸宗派には無い信仰です。

3番目の写真は今日のミサの祭壇風景です。主任司祭のパウロ小池亮太神父さまです。

4番目の写真は今回完成した司祭館と信徒会館を一緒にした建物です。

5番目の写真はカトリックにだけある「幼児室」という部屋の写真です。ここでは赤ん坊が大声で泣いても良い部屋です。
泣き声が漏れないようにガラスで密閉しています。かつては「泣き部屋」と言っていました。最近の教会には「泣き部屋」は無く、古い教会だけにある部屋です。
カトリックでは赤ん坊に幼児洗礼をします。ですから両親は赤ん坊や走り回る幼児を連れて教会に来ます。
当然ながら赤ん坊は大声で泣きます。3、4歳の幼児はミサの間に走り回って遊びます。そこで彼等を「泣き部屋」に閉じ込めるのです。
しかし神父さんの祈りの声や、信者が歌う聖歌の声は泣き部屋のスピーカーから流れます。聖なるパン(聖餅)は助祭さんが「泣き部屋」へ配達してくれます。こんな古い施設のあるのがサンタ・マリア小平教会なのです。それにしてもサンタ・マリアとは古い、しかし楽しい名前ですね。マリア様の優しさが漂っているようです。
尚、詳しくはサンタマリア カトリック小平教会のHP、(サンタマリア カトリック小平教会、http://st-maria-kodaira.xii.jp/ )をご覧下さい。

突然怒る老妻、その三つの原因

2017年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的に妻というものは優しくて家庭の平和の守り神のようなものです。家族のために美味しい食事を作り、子供たちをお風呂に入れたり、甲斐がいしく働きます。自慢するわけではありませんが、私の妻も例外ではなく常に穏やかな笑顔をたやしません。
それなのに三つの原因で怒り出すのです。年老いたから怒るのではなく若い頃から変わらず怒って来ました。
その原因をご紹介する前に、何故怒るか、その背景を説明させて下さい。
彼女は全てのスポーツが好きで学生の頃には軟式テニス、ソフトボール部、乗馬クラブにも入っていました。フィギュアスケートは中学校の頃からしていて、60歳になるまで毎年10回位、私とスケートリンクに行っていました。短距離走が得意で81歳になろうとする現在でもほぼ毎日ランニングを楽しんでいます。父親の影響でプロ野球や相撲が好きで毎日テレビを見ています。野球は彼女の父、息子、孫と4代ジャイアンツ・ファンです。
一方、私はスポーツが大嫌いです。しかし東北地方で育ったので、若い頃は下手なスキーをしました。そして50歳から75歳まで25年間ヨットをしました。船が大きいのでスポーツというより悠々と走らせて遊んだのです。
 さて妻が怒る3つの原因を以下に書きます。
(1)ジャイアンツが詰まらない失策や監督の間違った戦略で負けた時、怒ります。
野球として相手も立派なプレイをして負けた時は怒りません。この怒りはプロ野球ファンならご理解頂けると思いますのでこれ以上の説明は不要です。
(2)相撲で力士が正々堂々と立派な勝ち方をしないととても怒ります。
たとえば白鳳が張り手をすると、横綱は張り差しなどするものではないと怒ります。対戦相手が土俵を割っているのにダメ押しをすると怒ります。それと白鳳が勝って懸賞を手刀を切った直後にその腕でガッツポーズをする度に毎日のように怒っています。また今場所11日目で、嘉風に負けた後に立ち合いについて抗議して土俵上に仁王立ちになっていた時は本当に「怒り心頭に発する」状態でした。横綱は品格を持ち、潔くなければいけないというのです。
(3)スポーツの国際的な競技大会の時、テレビを見ながら猛然と怒っている時がしばしばあります。
日本選手だけのプレイを映し、外国選手のプレイを一切映さないのです。
例えば外国選手が1位になり、日本人が2位になり、3位が又外人がなったとします。その場合、テレビや新聞は2位の日本人のプレイだけを詳細に報道するのです。スポーツの好きな妻は1位の選手や3位の選手の記録、プレイも見たいのです。特に1位の選手の記録、素晴らしいプレイを見たいのです。そのプレイの紹介記事を新聞で読みたいのです。しかし外人選手に関する報道はないと怒ります。
日本人はスポーツを愛していなくて、日本人が勝ったか負けたかだけに興味があるのです。
しかるに外国のBBCやCNNの報道を見ると1位から3位までは平等に詳しく報道しています。
さてこの今日の記事は、昨日の「年を取ると国際ニュースに関心が無くなる」という記事の続編なのです。日本人の多くは狭い了見です。日本人だけに関心があって外人はどうでも良いのです。とても人類愛などという概念は理解出来ません。
勿論、人それぞれで外国のことにも等しく関心のある日本人も少なくありません。
しかし、テレビ局のスポーツの報道を視たり、新聞のスポーツ記事を読んだ限りでは日本人は外国人選手に興味が無いとしか言わざるを得ません。
これが我が愛する日本民族の文化です。恥ずかしい部分だと私は思っています。
皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、多摩湖で撮った風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









年を取ると国際ニュースに関心が無くなる

2017年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
よく言われていることですが、日本人は外国のことには関心が無く、外国で大騒ぎをしている国際ニュースも日本ではほとんど報道されません。そしてこの傾向は老人になるほど強くなると言われています。老人になると遠い外国の事よりも日常の身の回りの事だけに関心があるのです。
日本の報道ではトランプ大統領のことや北朝鮮の事や韓国の慰安婦関連のニュースばかりが大きく報道されています。
しかし今週のニュースには、ミャンマーのロヒンギャ族の難民問題やアフリカのジンバブエの37年の独裁者、ムガベ氏の失脚やイラクにおけるイスラム国の掃蕩作戦の終了など重大なニュースがあります。
そして今週は特に欧米が大騒ぎしている潜水艦事故があったのです。アルゼンチンの海軍の潜水艦が浮上出来ません。この潜水艦の捜索には、米国やロシア、英国など十数カ国が参加しているのです。日本は参加していないようです。
このニュースを、BBCネット版、http://www.bbc.com/japanese/42105926 から抜粋して以下に示します。
国際ニュースにご関心のある方は以下の抜粋だけでなく原文を是非ご覧下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)「アルゼンチン潜水艦捜索 南大西洋で爆発のような音」
アルゼンチン海軍は23日、乗組員44人を乗せたまま今月15日から消息を絶っている潜水艦「サンフアン」の捜索をめぐり、関連が疑われる爆発のような音が検知されていたと発表した。乗組員たちの安否は絶望視されている。
核実験を監視するウィーンの包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)は先週、「異常な1回限りの、短く、激しい、核活動ではない事象」を南大西洋で検知していた。米国も同じ場所で大きな音を探知していた。爆発は潜水艦から最後の通信があったおよそ3時間後の今月15日午前10時すぎであった。
知らせを受けて、行方不明の乗組員の家族は悲しみと怒りに包まれた。
潜水艦の捜索には、米国やロシア、英国など十数カ国が参加している。

1番目の写真は悲しみにくれる家族の様子です。
(2)爆発音の検知
アルゼンチン海軍の報道官エンリケ・バルビ大佐は、CTBTOから23日に爆発音の検知について連絡を受けたと語った。
発表文によると、CTBTOは水中音波の観測所2カ所で「水中衝撃の事象」による信号を検知したという。
アルゼンチン海軍は22日に、「異常な水中音波」が検知されたとの連絡を米国から受け取っていた。
バルビ大佐は、爆発と疑われる事象は最後に確認された潜水艦の位置の近くで起きたと語った。同大佐は、場所は分かっているが原因は不明で、捜索活動は当該海域を中心に進められると述べた。
(3)家族の反応
マルデルプラタの海軍基地に集まっていた家族には、バルビ大佐が報道陣に発表する直前に伝えられた。報道によると、一部には大佐に怒って抗議する家族もいたが、他の人々は泣き崩れていたという。
家族は海軍が嘘をつき偽りの希望を抱かせたと非難。不十分な投資や軍の汚職によって潜水艦の安全が損なわれたとして政府を責任を問う声も出た。
地元紙クラリンの報道によると、サンフアン乗組員のきょうだいの男性は、「あいつらはきょうだいを殺した、くそ野郎。針金で(壊れないように縛った潜水艦で)航海に出させたから、死んでしまったんだ」と叫んだという。
息子のダミアンさんが乗組員だと話すルイス・タグリアピエトラさんはラジオ局「カット」に対し、水深200メートルで起きた爆発で乗組員は死亡したと海軍に言われたと語った。
バルビ大佐は22日に潜水艦の酸素がなくなると述べていた。
(4)潜水艦が最後に確認された位置
サンフアンは南米最南端に近いウシュアイアでの定期的な任務を終えて基地に戻る途中に、「電気系統が故障」と報告した。
ガブリエル・ガレアッシ海軍大佐によると、サンフアンは水面に上昇し故障を報告。大佐は、電池が「ショート」したと話した。
潜水艦は任務を切り上げ、すぐにマルデルプラタの基地に戻るよう指示を受けた。
バルビ大佐によると、サンフアンは故障の連絡後、もう一度海軍基地と交信している。問題は収拾に向かっており、潜水を再開してマルデルプラタに向かうという連絡だったと、バルビ大佐は語ったという。
最後に連絡があったのは現地時間の15日午前7時半(日本時間午後7時半)で、その後潜水艦に何が起きたかは分かっていない。
(5)サンフアンに関する基本情報
ドイツで1983年に建造。全長は66メートルで、最高速度は時速45キロ。
アルゼンチン海軍の規定では、平常時には潜水艦は1日2回基地とを連絡を取らなくてはならない。今回も、定時の連絡がなかった時点で捜索が開始された。

2番目の写真は15日から消息を絶っている潜水艦「サンフアン」号です。
(6)乗組員たち
ペドロ・マルティン・フェルナンデズ艦長以下44人の乗組員が乗船している。そのうち1人は女性。エリアナ・マリア・クラウツィクさん(35)はアルゼンチンで初の女性潜水艦将校だ。

3番目の写真が犠牲になったアルゼンチンで初の女性潜水艦将校だったエリアナ・マリア・クラウツィクさんの写真です。
クラウツィクさんは潜水艦の乗組員になるのがずっと夢だったと家族は話す
アルゼンチン北部の町オベラ出身で、父親からは「海の女王」というニックネームを付けられた。
内陸部で生まれ育ったものの、クラウツィクさんの親族は、仕事に熱心で「鉄の意志」を持つクラウツィクさんは「潜水艦に乗るべくして生まれた」と話す。
他の乗組員たちの年齢は経歴はさまざまで、地元メディアによると技術者のヘルナン・ロドリゲスさんのサンフアン乗船歴は11年に上るという。
(7)潜水艦で起きた過去の事故
潜水艦の事故は珍しい。以下は過去に起きた最も深刻な事例の一部。
2003年、中国の明型潜水艦361号のディーゼルエンジンが不具合を起こし、艦内の酸素を消費したことから乗組員70人全員が酸欠で死亡
2000年、ロシアの原子力潜水艦クルスクがバレンツ海で訓練中に魚雷が爆発し沈没。乗組員118人が死亡。このうち23人は爆発で死亡しなかったが、その後の酸欠で命を失った
1968年、米海軍の原子力潜水艦スコーピオンが大西洋で沈没し99人が死亡。魚雷の爆発が原因だった可能性がある
1963年、米海軍の原子力潜水艦スレッシャーが深海潜行試験中に沈没し乗組員129人全員が死亡。現在に至るまで犠牲者の数は過去最悪。
・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の報道で重要なことはウィーンの包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)が爆発と場所を検知していることです。その上アメリカも独自に爆発と場所を検知しているのです。
北朝鮮が核実験を行えば包括的核実験禁止条約機関とアメリカに検知されることが分ります。
そしてイギリスのBBCは家族の悲しみを詳しく報道し、この悲劇に心を寄せているのです。自分の親類や友人の悲しみのように心を寄せているのです。
外国のこと、ましてや関係の無いアルゼンチンのことに日本人は無関心なのでしょうか?
そんな感想を私は持ちました。
老人になると遠い外国の事よりも日常の身の回りの事だけに関心があると言います。自分も82歳の老人です。それだけに外国のことに関心や感動を持ち、気持ちだけでも若々しいようにしていたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今年も小金井公園の皇帝ダリアが咲きました

2017年11月23日 | 写真
今年も南米原産の皇帝ダリアが咲きました
毎年、11月の中旬過ぎになると小金井公園の皇帝ダリアが咲きます。丈が3mから4mの高い茎の上に手の平より大きな花が咲きます。いかにも南米の大草原に咲いているような雰囲気があります。そして気品もあります。
昨日の雨がすっかり晴れ上がったので、先ほど毎年と同じように花の写真を撮って来ました。
日陰の花の写真は何故か神秘的な美しさがあります。今年は日当たりの良い場所にも植えていたので明るい写真も撮れました。始めの2枚は日陰に咲いていた花の写真です。後の2枚は日当たりの良い場所に咲いていた花の写真です。







皇帝ダリアは成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられました。幹が木のようになるので木立ダリアとも呼ばれています。
花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花が茎の頂上につけます。晩秋の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻です。
霜に弱いですから、気温が3度以下の時は家に入れないと枯れてしまうそうです。
また、夜、街灯の下ではつぼみが付きません。小金井公園では街灯と皇帝ダリアの間に塀を立てて夜は暗くなるようにしています。
育てるのは簡単ですが、風に弱いのでしっかりした 添え木が必要です。 日当たりの 良い場所に植えると良いそうです。
昼間の時間が短くなると花芽を持ちますので東京近辺では11月になってからやっと咲き出します。
植える場所は良く耕して柔らかくして根がのびのび 出来るようにしてあげると良いと言います。
あまり長くしたくない方は8月10日ぐらいまでに剪定すると良いそうです。 8月中旬以降に花芽を持ちますのでその後の剪定はしない方が良いそうです。 花芽を持ってから剪定すると花が咲きません。
栽培がやさしいので、最近は自宅の庭で皇帝ダリアを咲かせている家が増えて来ました。
花の絶える11月に咲くので一層あでやかに見えます。
南米からはるばる来た大輪の花なので毎年、写真を撮って南米の大自然を思い浮かべて楽しんでいます。

キリスト教の簡単な説明(4)何故イエスは異教徒に話しかけたか?

2017年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教は日本人が約1500年位も馴染んで来た宗教です。一方、ザビエルが450余年前に伝えたキリスト教は未だに日本人に馴染んでいません。
明治維新以来、数多くの宣教師がやって来ましたが、信者の数は総人口の3%を超えたことがありません。
その理由の一つはその教えが日本人には理解しにくいからです。
そこで私は無謀にもキリスト教を簡単に分かるように以下のような記事を書いてきました。
キリスト教の簡単な説明(1)何故イエスは処刑されたか?(2017-11-05)
キリスト教の簡単な説明(2)水を葡萄酒に変えたイエス(2017-11-08)
キリスト教の簡単な説明(3)イエスは何故生き返って来たか?(2017-11-12)

私はキリスト教を理解するには聖書の中に書いてある幾つかの場面を抜き出して、それらが起きたいきさつを説明すればキリスト教が理解出来ると考えています。
今日はユダヤ教という民族宗教が、民族の違いを越えてキリスト教という世界宗教に何故なったかを簡単に説明します。
新約聖書には世界宗教になるようなイエスの教えがいろいろ書いてあります。
今日はイエスが異教徒のサマリア人の女にキリスト教を教えている場面をまず紹介します。
その後で多くの使徒達がいろいろな外国語が話せるようになった場面を紹介します。それはキリスト教が世界中に広がることを意味しています。

それではイエスが異教徒のサマリア人の女と対話する場面を見てみましょう。サマリヤは、エルサレムから南に広がるユダヤ地方と、イスラエル北部のガリラヤ地方の間にある地域です。サマリア人はユダヤ人と違う民族宗教を持ち、お互いに反目していた間柄でした。
そのサマリア人の女の登場する場面は、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の第4章に書いてあります。抜粋文を以下にしめします。

・・・ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませてください」と言われた。
弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人(びと)と交際していなかったからである。
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
女はイエスに言った、「主よ、あなたは、汲む物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、また渇くであろう。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
女はイエスに言った、「主よ、わたしが渇くことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
女は答えていった、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 ・・・・

こうして異教徒のサマリアの女にキリスト教を教えたのです。身持ちの悪い女を救おうとしたのです。
この場面を示す絵画を紹介します。

1番目の写真は現代風に描かれた絵画です。イエスとサマリアの女が並んで近くに座って話をしています。身持ちの悪い女の雰囲気が描き出されています。この絵は画家、エルチーノ
によって1640 - 1641年に描かれました。

2番目の写真は中世の宗教画のように見える絵画です。女がイエスの前に膝まついています。この絵画の出典は https://www.lds.org/media-library/images/quote-eyring-jesus-woman-well-1173100?lang=eng です。
2枚の絵画のうち1番目の写真のほうが本当だったと私は思います。
以上は一つのエピソードですが、次に紹介する聖霊降臨(ペンテスコ)の場面はキリスト教が世界宗教になる決定的な場面です。
聖霊降臨に関する記事は新約聖書の『使徒言行録』2章に書いてあります。
それによれば、復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを告げて、天に昇っていくのです。
このキリストの昇天の10日後に、使徒とイエスの母や兄弟たち、イエスに従った女たちが集まって祈っていると、激しい風のような音が聞こえ、天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降ったのです。
そして集まって祈っていた信徒たちは聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉で語り始めたのです。
地中海世界全域に離散していたユダヤ人たちが、五旬祭のためにエルサレムに集まっていたが、(パレスチナ出身の)信徒たちが地中海世界各地の言葉で語っているのを聞いて驚きます。ペトロが中心になってイエスの死と復活の意味について語ると、多くの人が信じて洗礼を受け、使徒たちのグループに加わった。これが聖書が語る聖霊降臨の場面なのです。

3番目の写真はこの場面を描いた宗教画です。使徒とイエスの母や兄弟たち、イエスに従った女たちが集まって天を仰いでいます。中央にイエスの母のマリアが描かれています。
この絵画の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%86 です。

今日はユダヤ教という民族宗教がキリスト教という世界宗教へと変わっていった様子を簡略に説明しました。
これをお釈迦様の教えた仏教と比較すると面白いのです。お釈迦様の教えは、「この世のものは全て空です。本来、空なものがこの世なのです」という教えです。この教えはどんな民族にも通用する真理なのです。
ですからお釈迦様の教えは始めから世界宗教として国境を越えて広がって行ったのです。
イエスさまも「この世のことに心を惑わせるな」と教えました。似たような教えですが、キリスト教と仏教は教理が非常に違うのです。その違いが分かればキリスト教が簡単に理解出来ます。私の個人的な意見ですが。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

人生と旅(3)遥かな田舎道で受けた温情

2017年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
遠い外国の田舎道で、通りかかった見知らぬ人に受けた温情の話です。その思い出は私の人生を豊かにしてくれたのです。
あれは1962年の春の事でした。オハイオのコロンバスで、私共は赤子を抱え、とても貧乏な生活をしていました。貧乏なだけでなく私は厳しい勉強と夜遅くまでの実験で遊ぶ暇がありません。
たった一つの贅沢は週末に中古の大きな車で農村地帯を家族と一緒にドライブすることでした。
車はダッチ・コルネットという6年前の中古の大型車でした。クリーム色と空色のツートンカラーの乗り心地の良い車でした。
ある春の日に少し足を延ばして有名なオハイオキャバーンという鍾乳洞を見に行ったのです。それは大規模な鍾乳洞で美しい鍾乳石が沢山垂れ下っています。不思議なことに広大なトーモロコシ畑の地下に大きな鍾乳洞の空間が広がっているのです。地上はまったくの平野で、山も洞窟も一切無いのです。
ですからその鍾乳洞に入るには1番目の写真にあるような建物に入り、入場券を買ってから地下へと続く階段を下りて行きます。
鍾乳洞の光景は写真に示したように、いろいろな形と色合いの鍾乳石が照明に輝き、それは美しかったのです。
その帰りの田舎道で突然、車が止まってしまったのです。車は中古だったので、それまでハンドルが震えたりオイルが漏れたりしていました。そんないろいろな故障を直しながら乗っていたのです。ところが今回はエンジンがいきなり止まってしまって、ウンともスンとも言いません。ボンネットを上げて見ましたがエンジンにはこれといった異常が見えません。このような故障は始めてです。
静かになった広いトーモロコシ畑の上空でヒバリが鳴いています。その声が気のせいか不吉に聞こえるのです。
そこは人家が見えない場所です。車の通らない細い田舎道です。
車内には離乳食をやっと食べ始めた赤ん坊と心配そうにしている妻がいます。
私は妻にすぐ誰かが助けてくれるよと陽気に話しました。
しかし30分待っても誰も来ません、50分待っても誰も来ません。私も妻も心配で顔色が変わっています。
その時です。一台の車が来たのです。その車は迷うことなく私の車の後ろにピタリと止まります。
車から出て来たのは35歳くらいの男です。私はトラクターで畑を耕しているから車の故障はなんとか直せるよと言いながらエンジンを見てくれました。ダメだ。このエンジンは私の手では動かせないと言って、牽引用のロープを持ち出して来ました。
牽引されている間は前の車のブレーキランプが点いたら、自分もブレーキを踏むんだよと私に教えるといきなり牽引し始めました。
そこから10km位離れた村の修理屋さんまで引っ張って行ってくれたのです。
修理している間、彼は私達を見守っていてくれたのです。その時気が付いたのですが、彼の車にも奥さんと子供が乗っていたのです。
故障は15分位で直ってしまいました。エンジンへ電気を供給するデストリビューターにヒビが入り、割れかけていたのです。デストリビューターだけ交換して直ってしまったのです。
彼は私の車のエンジンが動き出すとすぐに帰って行きました。お礼の言葉も聞かずに帰って行きました。
幸い修理している間に妻が彼の名前と住所を書いて貰っていました。後日、妻が御礼状と感謝の品を送りました。そうしたら彼の奥さんから丁寧なお礼の手紙が来ました。
これだけの話ですが、この温情が家内と私の一生の財産になったのです。
この一年前に私は日本から婚約者を呼びコロンバスで結婚しました。その折にはセント・ピエール先生と奥様に結婚式の準備を全てして貰いました。同級生の奥さん達も私の妻へ対してとても優しくしてくれました。その思い出はやはり家内と私の一生の財産なのです。
しかしオハイオの田舎道で助けてくれた人は全くの見ず知らずです。私共とは何の関係も無い人です。この世では一度しか会わない人です。それなのに彼は躊躇なく、当たり前のことをするように困っていた私達を助けてくれたのです。
これは善い意味で衝撃的な体験でした。
はるばる遠くに旅をしたおかげで家内と私は一生の財産を頂いたのです。
この思い出を私共は大切ににしています。時々思い出して話合いながら感謝しているのです。
考えようによっては小さな出来事ですが、感謝して生涯忘れません。

皆様にも必ず似たようなご経験があると信じています。是非、お聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料===================
オハイオ・キャバーンが1897年に発見された時のいきさつです。
Ohio Caverns;https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns
Discovery:
The tunnel system known today as the Ohio Caverns was discovered August 17, 1897 by Robert Noffsinger, a farmhand who worked on the land. A sinkhole had been forming on land owned by Abraham William Reams over a period of about 10 years. In August 1897, this sink hole measured 50 feet across by 10 feet deep. One particular night, the sinkhole was filled completely with water during a hard rain. By morning, the water was completely gone. Reams reported to the local newspaper that he lost "several hundred barrels of water." Reams had recently hired Robert Noffsinger, a young man from Virginia, to work on his farm. By Reams' orders, Noffsinger and Jordan Reams (unknown relation to William Reams) began to dig in the sinkhole. Noffsinger dug a few feet of soil until he hit the top of the ground's limestone layer. After finding a crack in the limestone, Noffsinger broke through this rock as well. Immediately feeling the caverns' 54 °F (12 °C) air, Noffsinger was even more curious. He lowered himself into the caverns and became the first living creature inside of the Ohio Caverns system.

私は南米に移民した友人の悲しみが忘れられない

2017年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
どうも年をとるといけません。昔の小学校や中学校の友達のことがしきりに懐かしく思い出されるのです。その一人に水元君という中学校の友がいました。戦争未亡人の母と2人だけで仙台市の霊屋下(おたまやした)という町に住んでいました。家に遊びに行くと母は働いていて水元君だけが独り淋しそうにしています。その彼が卒業式の前に、「南米へ移民する」と悲しそうに告げたのです。そしてその年の夏に、水元くんは仙台からフッと消えてしまったのです。その後一切音沙汰はありません。
しかし私は彼の悲しそうな顔を終生忘れません。私も悲しかったのです。
そんな思い出があるので、時々、南米へ移民した人々のことが水元君の淋しそうな姿と重なってしまうのです。
そんないきさつがあったのでブラジルに在住している日本人に次のような文章を書いて頂きました。
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」(2017-04-22)
平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」(2017-04-29)
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(3)19歳で日本からコチア産業組合の契約移民になる」(2017-05-17)
その上、客船の旅をするために横浜の大桟橋に行くと向こうに移民船としても活躍した氷川丸が係留され一般公開されているのです。

1番目の写真は自分で撮った氷川丸の写真です。私は係留されている氷川丸の内部を何度も見学しました。そして一等客室と移民の乗った3等客室のあまりにも大きな差別に暗い気持ちになったものです。
それはさておき、客船の旅を楽しみにしている家内には言いませんが、私は氷川丸を見るたびに水元君の悲しそうな顔を思い出すのです。客船の出港にはブラスバンドが賑やかな音楽を奏で、デッキの上の人々は楽しそうにシャンパングラスを手にしたり、いい加減なダンスなどしています。
しかし私の脳裏を水元君の顔の映像がかすめるのです。

2番目の写真は横浜を出航する氷川丸です。戦後の南米への移民はこのようにして多くの親類や友人に見送られながら今生の別れをしたのです。
移民たちに交じって1960年以前にアメリカへ留学した日本人もこの氷川丸で渡米したのです。オハイオ州立大学で知り合った福山さんと小林さんもこの氷川丸に乗って、はるばる太平洋を横断したのです。一緒に下宿した黒田さんも移民達と一緒にアルゼンチナ丸に乗って11日を費やしてサンフランシスコへ上陸したと言うのです。

3番目の写真はアルゼンチナ丸の写真です。1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。

中学校を卒業した後、母と2人だけで南米に渡り、音沙汰が無くなった水元君はどんな一生を過ごしたのでしょうか?
ある時、このアルゼンチナ丸や戦後の南米への移民について少しだけ調べてみました。
そうしたら戦前、戦後の移民の歴史をまとめた詳しいブログ記事を見つけたのです。
3番目の写真の出典はこのブログ記事です。そのブログのURLは、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 です。
アルゼンチナ丸での生活の記録が載っているブログです。そしてその後の開拓の様子も報告してあります。
このよう戦後の移民の実態を記録した文献は歴史的に大変貴重な文献と考えられますので末尾にその抜粋をお送りしました。筆者の和田好司さんは早稲田大学海外移住研究会出身で、在学時に農業移住者としてブラジルに船で渡りました。現在、ブラジルに移住して約半世紀です。
このような資料を読みながら南米に渡った水元君の一生を偲んでおります。

さて皆様には南米に行ってしまって音沙汰の無い友人がおありでしょうか?
南米だけではありません。外国に行ってしまって音沙汰の無くなった友人がいますでしょうか?
どうも年をとるといけません。そんな友人のことがしきりに思い出されるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======『ブラジル戦後移民』 50年の記録 ======
「ブラジル移住半世紀・和田好司」
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php
私たち、あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)の同船者681名は、平成14年5月11日で40年を迎えました。当時のあるぜんちな丸第12次航の船内新聞「さくら」の編集責任者をしていた私と船内ニュース班の仲間として手伝って呉れた編集員が中心になり船内新聞の40年後の特別号、号外の形で戦後移民40年の移住史の一部を皆で書き残そうとの企画が持ち上がり、出来れば印刷、出版もと考えていましたが、時間的な問題、資金面の問題もありせめて寄稿して頂いた貴重な記録、原稿を大事にし、書き物にして後世に残して置きたいとの切なる願いから、当時のガリ版刷りの船内新聞の一部、黄色くなった名簿、懐かしい写真等を文明の利器PCを使い資料のDIGITAL化による保存を考えついた次第です。これらの無形に近い数多くの資料、写真等を我々同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事、民族の移動、移民、移住問題、個人の人生の選択等に関心を寄せる人達、特に海外に夢を馳せる若い人達に読んで頂ければとの気持ちでこのホーム・ページを開設しました。

平成14年5月にこのHPを正式公開し既に10年5ヶ月の歳月が過ぎました。今年の5月で私たちも着伯50年を迎えました。この50年に及ぶ戦後移住者の定着の過程、移住者としての記録を書き残すという作業は、編集者の私の力不足、時間的制約等に起因して思うような成果が挙がっていませんが、2008年は、日本移民100周年を日本とブラジルの両国で盛大に祝い日伯、特にブラジル社会で日本移民の100年に渡る歴史を認識して頂き、マスコミにも大いに喧伝されました。これからのブラジルに置ける我々日本移民は、200年に向かいどのように生きて行けば良いか問い掛けられる立場にあります。特に2009年にはアマゾン移民の80周年の節目の年に当たり、トメアスー、べレン、マナウスに置いて9月に盛大な式典が行われ在伯県人会主催の『第32回移民のふるさと巡り』の慶祝団232名の一員として参加させて頂き北伯に入られた同船者の皆さんと共にお祝いできたことはブラジルに住む者として大変幸せに思いました。
また昨年、2011は、南伯リオグランデドスール州の戦後移民55周年に当たり8月20日に初めてリオグランデ港に降り立った23人の内、州内に健在の9名の先駆者に州議会よりメダルを送られる式典を日本文化祭に実施しました。
本日、250万回アクセスを記録したのに合わせこのTOP PAGEの一部を書き換える事にしました。同船者仲間、ブラジルの領域を大きく超えて現在では、世界150カ国以上の国々からのアクセスが記録されており、2007年10月11日(水)になんと一日に6575回のアクセスがありました。10年5ヶ月で250万回のアクセスを記録、ブラジル総合サイトとして育って来ており、その管理運営にも大袈裟に云えば社会的な責任も伴うのではないかと身が引締まる思いがしております。

しかしながらアクセス数がどんなに増えようが基本的には同船者681名の戦後移住者としての生き様を書き残して行くという大要は変わりませんが今後はあるぜんちな丸で着伯した多くの仲間(合計11,102人)、ひいては戦後移住者全員、移住と直接関係の無い日本企業短期派遣社員、留学生、研修生、旅行者と幾らかでもブラジルと繋がりの出来た多くの方にブラジルを語って頂きインタネットを通じて少しでもブラジルに関心を持ちブラジルを知りたいとのお気持ちを持たれた時には『私たちの40年!!』にアクセスすればその目的が果たせると云った総合『ブラジル学?』のサイトとして育って行けばと念願しております。更に私達の同船者が入ったボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの仲間の様子、それらの国以外の移民の歴史(明治初期のメキシコ榎本移民、ハワイ移民、ペルー移民、戦後のドミニカ移民等)についても記録を集めて行きたいと思います。
=======以下省略==============

男はどのような女性と結婚したら幸せになれるか?、旧約聖書によると、

2017年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今から2500年位も前から旧約聖書は書かれてきました。
その始めは創世記です。こんなことが書いてあります。
「はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。・・・以下省略 」

教会のミサでは旧約聖書と使徒行録と福音書の一部を朗読します。
今日の旧約聖書の朗読の部分は箴言の第 31 章からの抜粋でした。
その内容が男はどのような女性と結婚したら幸せになれか?という現在でも大切な問題を取り上げているので面白かったです。そこで以下に箴言の第 31 章からの抜粋を示します。

だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。
彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。
彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。
また商人の舟のように、遠い国から食糧を運んでくる。
彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。

現在これから結婚しようとする男性が妻にする女性を選ぶ時、重要なことが書いてあるのです。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまであるから女性の心と能力を見て判断しなさいと教えているのです。賢い女性はよく家族のために働き、その夫のために良いことをして、悪いことをしないから夫を生涯幸せにするのです。
現在の多くの男性はこのようなことは百も承知しています。しかしどうしても女性のあでやかさや美しさに惑わされるのです。
箴言の第 31 章にわざわざ書いてあるのは、当時のユダヤの男性も女性のあでやかさや美しさに惑わされていたことを暗示しています。
当時は一旦結婚すると離婚は出来ませんでした。
現在はキリスト教徒でも離婚をします。
カトリックでは離婚は原則的には禁止ですが、現実には離婚も多いのが実態です。
しかし夫婦はお互いに我慢して添い遂げることも幸せになる知恵かも知れません。
しかし離婚によって幸せになれるなら、それも仕方がありません。この場合でも子供の幸せも深く考えるべきです。難しい問題です。正解の無い問題です。そんなことを考えながら、国立市の青柳北緑地の紅葉の写真を撮って来ました。










「冬空の下の紅葉の写真を撮りに行きました」

2017年11月18日 | 写真
今日は朝から曇り、時々小雨の寒い冬の日です。
暗い空の下の紅葉も趣深いものです。午後から日野市の仲田の森公園を散歩しながら紅葉の写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









「今日の武蔵野の黄葉」

2017年11月17日 | 写真
武蔵野の雑木林はクヌギ、コナラ、ケヤキ、シデ、エゴノキなどの混成林です。晩秋になると赤くならないで黄色の黄葉になります。紅葉する木もありますが、多くは黄葉です。
それはそれで美しいので写真を撮りに行きます。
今日は午後に小平市の玉川上水沿いの雑木林の写真を撮って来ました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。