後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ツルゲーネフのデビュー作、『猟人日記』」

2024年10月31日 | 本と雑誌
『猟人日記』は、ロシア文学者ツルゲーネフのデビュー作であり、ロシア文学の代表作。狩猟者の日記という形で、ロシアの美しい自然と、その中で生活を送る人々の哀楽を、25編の物語として詩情に満ちた筆致で描いています。しかし、農奴制を批判したものとして、逮捕・投獄されました。
 ツルゲーネフの自然描写は、国木田独歩が『武蔵野』の中で、『あいびき』(ツルゲーネフの作を二葉亭四迷が訳出)の冒頭の、森林の陽光と雲の様子とともに変幻自在に変化する美しい描写部分を引いているように、日本人の心情、美観に訴えるものがあります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%9F%E4%BA%BA%E6%97%A5%E8%A8%98 )

添付の写真は米川正雄訳の『猟人日記』です。

「明治、大正期のロシア文学の流行と二葉亭四迷」

2024年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
日本でロシア文学の流行った時代がありました。明治、大正期でした。旗手は初めて口語体で小説を書いた二葉亭四迷でした。その様子を、https://jp.rbth.com/arts/87134-meiji-taishouki-roshia-bungaku-boom からご紹介いたします。
・・・二葉亭四迷は、ロシア文学の最初の主要な翻訳者の 1 人と言える。彼はロシア語の達人であり、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ガルシンその他の作家や批評家の著作から、計30篇以上の翻訳を行っている。
ツルゲーネフの『猟人日記』の一部を訳した「あひゞき」(『国民之友』1888年)の訳文が多くの作家の文体に甚大な影響を与えたことは良く知られている。その精確で繊細な訳文は驚くべきものだ。森體の『戦争と平和』抄訳のわずか2年後で、二葉亭がいかに時代を抜いていたかが分かる。
 「秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた」
この翻訳者・作家は、ロシア作家の影響を受けて自身の作品を書いたことを認めている。研究者たちは、彼の小説『浮雲』の主な筋がゴンチャロフの小説『断崖』からかなり借用されたことを指摘する。
二葉亭は、2 回ロシアを訪れている。1902 年にはウラジオストクに滞在し、ハルビンで徳永商会相談役となる。1908 年には、朝日新聞の特派員としてサンクトペテルブルクに赴任。この二度目の訪露の壮行会で彼は、露日関係の強化の重要性について演説し、次のように締めくくった。
ロシアが我が国の文化に親しむように、そして日露間の誤解が再度の戦争につながらぬよう尽力したい、と。
 サンクトペテルブルクに着くと、二葉亭は、ドストエフスキーの作品に記されているあらゆる場所を訪れようとし、小説『罪と罰』のヒロイン、ソーニャ・マルメラードワの家と目される建物の近くにアパートを借りさえした。
残念ながら、ロシアへの愛はこの作家にとって致命的な結末をもたらした。サンクトペテルブルクで、彼は重病(肺炎と結核)にかかり、日本への帰途、亡くなった。・・・

添付の写真はイワン ・ツルゲーネフ にまつわる写真です。順に、 ツルゲーネフ の肖像写真、彼が住んでいた家、彼が住んでいた地方の風景、ツルゲーネフ と仲間の肖像写真です。写真はインターネット上の写真をお借りしました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「ソ連は嫌いだ、しかしロシアの文化は好きだ」

2024年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ソ連は嫌いだ、しかしロシアの文化は好きだ。ロシアの文学やバレエは好きだ。そういう人が多いと思います。私もそうです。
日本人がロシアが嫌う理由は幾つかあります。シベリア抑留で60万人の日本人を極寒のシベリアで強制労働をさせ5万人を殺したのです。北方洋では日本のサケ・マス漁船の拿捕を執拗に繰り返したのです。
しかし文学・音楽・バレエなど芸術の面ではとても優れた国です。
私に確固とした希望があります。将来、日本とロシアが友好関係を樹立してもらいたいのです。
永遠にロシアを嫌っていたら自分の人間性を低くし不幸になります。他人を憎み他人へ対して怨念を持っているかぎり人間は決して真の幸福になれないのです。
日本人と同様にロシア人が日本人を憎んでいたら原因がある筈です。世界のどの国にも悪い面と良いところがあります。ロシアも例外ではありません。ロシアの悪いところを拡大し、それに拘るのは公平に欠けます。何事も拘ると不幸を招き易いものです。
ロシヤにも良い面があります。
東京にニコを建てたニコライのようにに日本に来て日本人を愛し日本の土になったロシア人もいるのです。将来は日本とロシアは友好関係を樹立しましょう。真の友好関係を樹立しましょう。そうすることが日本を高みへと押し上げるのです。

挿絵代わりの写真はロシアのボリショイバレーの写真です。写真の出典は、「ボリショイバレーの写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「写真でご案内する晩秋の八ヶ岳への小さな旅」

2024年10月30日 | 旅行記
今日は以前に行った晩秋の八ヶ岳の小さな旅を写真にしたがってご案内したいと思います。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は甲州街道の台ケ原宿から清春美術館へあがる途中の雑木林の紅葉の写真です。
八ヶ岳の麓は清里から甲斐大泉、長坂、白州、須玉、武川と広大な北杜市という市になっています。その標高の低い地域は一面の紅葉した雑木林に覆われているのです。それは華麗な眺めでした。

2番目の写真は清春美術館の写真です。白樺林の奥に見える低い建物が美術館で、左の建物がルオー記念礼拝堂です。白樺林はすっかり落葉して冬のたたずまいでした。

3番目の写真は小海線の清里駅から少し登った「美し森」からの夕焼けの写真です。
晩秋の夕方で人影がありません。夕日の空の色のうつろいを30分ほども眺めていました。風も無く静寂の世界でした。

4番目の写真は宣教師のポール・ラッシュが作った清泉寮の売店の写真です。ジャ-ジー種の牛乳で作ったソフトクリームが有名です。
この売店の裏側に礼拝堂もある清泉寮の新館とポール・ラッシュ記念館があります。
宣教師のポール・ラッシュはケンタッキー州出身のアメリカ人です。立教大学の先生をしながらアメリカン・フットボールを日本へ導入したことで有名です。

5番目の写真は何度も泊まった甲斐大泉駅のそばの「八ヶ岳ロイヤルホテル」の写真です。
このホテルを特にご紹介する理由は、宿泊料の割には部屋も、夕食、朝食もサービスが非常に良かったからです。

次の日は白樺湖、車山、蓼科湖、諏訪湖を巡る旅をしました。
あまり長くなりますので今日はここで終わりといたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「豆粒が転げまわるように走り回る幼児たち」

2024年10月30日 | 写真
とにかく面白い光景を見ました。広い野原を豆粒が転げまわるように走り回る幼児たちの姿です。
幼児たちなので足が見えません。でも早く走るので粒豆が転げまわるように見えたのです。可笑しいですが元気を貰いました。
粒豆が転げまわっている写真をお送り致します。

「秋になると落ち葉炊きの焚火が懐かしい」

2024年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になると昔は家々で落ち葉炊きをしたものです。かぐわしい煙が漂い楽しいものでした。ところがある時代に落ち葉炊きが禁止になりました。焚火の煙が地球の環境を汚染するというのです。
もう何年も焚火をしていません。焚火を懐かしく思うこの頃です。
そこで昔山林の中の小屋で焚火をした時のことを書くことにしました。
落ち葉焚きをして札幌から買って来た薪ストーブを設置するために山小屋に行ったのです。10年ほど前のことです。
久しぶりに家内と一緒に山林の中の小屋へ行くと小川がいつもの水音をたてて流れています。
小川の中の掃除をしてから、落ち葉焚きをすることにしました。毎年の決まった行事です。
林の中の小屋で落ち葉を集め写真のように落ち葉焚きをしました。昔の懐かしい風物詩をよみがえります。2時間も落ち葉焚きをしていました。
持参して来た弁当を電子レンジで温め、屋外のテーブルで食べました。午後には、取り外していた薪ストーブを設置して、冬の日々へそなえました。試験的に少しだけ薪を焚いてみました。
遊んでいたら秋の短い日が暮れかかりました。日が斜めに射して、霧がうすく漂って来ました。急いで荷物を纏めて帰宅の用意をしました。その時の写真をお送り致します。

1番目の写真は紅葉した樹々に囲まれた山小屋です。

2番目の写真は小屋の庭を流れる小川に作った関と魚道のカスケードです。

3番目の写真は小屋の庭の焚火の煙と本を読んでいる家内です。

4番目の写真は札幌から買って来た薪ストーブです。

今日は秋の晴天です。落ち葉焚と、札幌から買って来た薪ストーブと山小屋を思い出しました。きぃ10年以上も前のことです。今日も爽快な秋晴れです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ロシアへの憧れとシベリア鉄道」

2024年10月29日 | 写真
シベリア鉄道は、ロシア連邦のシベリアとヨーロッパロシアを東西に横断する鉄道です。全長は9,297キロメートルで、世界一長い鉄道です。
私の若い頃にロシア民謡が流行っていてロシアに憧れる人が多いものでした。シベリア鉄道にも憧れる人が多くいました。
共産主義は大嫌いですがロシア民族には親しみを感じます
写真をお送り致します。

「我が青春は歌声喫茶が流行っていた時代」

2024年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
我が青春は歌声喫茶が流行っていた時代でした。友人と共に私も歌声喫茶によく行き合唱したものです。もう昔のことで知らない人も多いと思いますので簡単にご紹介したいと思います。
歌声喫茶は客全員が歌う喫茶店でした。1955年前後の東京など日本の都市部で流行し、1970年代までに衰退したのです。
リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うのです。伴奏はピアノやアコーディオンなどの単独の楽器が使われることが多く、大きな店ではバンドも入っていました。
歌われる歌はロシア民謡、唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌うこともありました。
1955年(昭和30年)、東京・新宿に「カチューシャ」、「灯」がオープンします。これをきっかけとして東京に歌声喫茶が続々と誕生したのです。
労働運動、学生運動の高まりとともに人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は上昇し、店内は毎日のように人であふれ、最盛期には日本全国で100軒を超える店があったと言われていました。
1965年(昭和40年)頃をピークに、歌声喫茶は退潮し、急速に衰退し、その後の10年ほどでほとんどの店が閉店していったのです。
歌声喫茶の写真です。写真の出典は、https://conex-eco.co.jp/showa/56833/ です。


以上、歌声喫茶が流行っていた時代を簡単にご紹介致しました。

「懐かしいのは歌声喫茶とロシアの「ヴォルガの舟歌」」

2024年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和30年頃に歌声喫茶というものが流行っていました。客が声を合わせて歌う喫茶店です。伴奏はアコーディオンです。いろいろな歌がありました。よく歌われたのはロシア民謡でした。
懐かしい歌を列記します。
紅いサラファン、泉のほとり、トロイカ、ともしび、バイカル湖のほとり、ヴォルガの舟歌、カチューシャ、ステンカラージン、黒い瞳などでした。
今日は「ヴォルガの舟歌」を少し詳しくご紹介したいと思います。
ロシアでの船引きの仕事は16世紀から20世紀にかけてさかんに行われていました。1900年代初めに女性の船引きを撮影した写真さえ残っている。しかしこの仕事は蒸気船の出現で時代遅れになりソ連政府は1929年に、船引きを正式に禁止した。
今日はイリア・レーピンの絵画、『ヴォルガの船引き』にまつわる話です。参考にした資料は次です。https://jp.rbth.com/history/79264-burlaki
レーピンの『ヴォルガの船引き』を掲載します。

1番目の写真はレーピンの『ヴォルガの船引き』です。サンクトペテルブルクのロシア美術館にあります。イリヤ・レーピンが初めて船引きを目にしたときその重労働の光景に悲しみを感じました。悲惨な光景が彼の心に刻まれたのです。人間の苦しみと周囲の自然の美しさにが心に刻まれたのです。彼はこの絵の完成のために数十ものスケッチをします。そして有名な『ヴォルガの船引き』を完成させる前に、『浅瀬を行く船引き』(1872)を制作したのです。
船引きが最もさかんだったのはヴォルガ河でした。河畔のルイビンスクは「船引きの首都」と呼ばれていたくらいです。ルイビンスク市は商業・物流の一大中心地になり貨物船、ポーター、荷馬車の御者など多数の労働者が住んでいました。
さてレーピンは船引きを描いた唯一の画家ではないのです。他にも、この主題を描いた優れた絵がいくつかあります。例えば、歴史画家ワシリー・ヴェレシチャーギンの「船引き」は、レーピンの傑作より6年早く、1866年に制作されています。
レーピンの少し前には、アレクセイ・サヴラーソフも、「ユーリエヴェツ付近のヴォルガ」(1871)で、この苦しい労働を描いています。


2番目の写真はアレクセイ・サヴラーソフ作の「ユーリエヴェツ付近のヴォルガ」(1871)です。
しかしレーピンの絵の方が絵画として優れています。批評家はレーピンの絵を賞賛し作家ニコライ・ゴーゴリの小説の力になぞらえました。レーピンの絵は極めて芸術的であり、しかも労働者の生活の苦しさを描き出していると評価したのです。大作家フョードル・ドストエフスキーも、その『作家の日記』のなかで、この絵を、芸術における真実の勝利と呼んで高く評価しました。
これらの絵画に描かれた光景の写真を示しておきます。

3番目の写真は1900年代初めに女性の船引きを撮影した写真です。写真の出典は次です。https://jp.rbth.com/history/79264-burlaki?fbclid=IwAR3tUomY2wKW5oJ-WIsP4SmfXPCDUy06TBOXE_Q1lMMztdTmcFb2fGD115g

4番目の写真は男性の農民が舟を曳いている写真です。写真の出典は4番目の写真と同じです。

今日はレーピンの絵画、『ヴォルガの船引き』にまつわる話を書きました。21世紀の現在今日掲載した写真を見ると衝撃を受けます。しかし人間の歴史にはこんな事もあったのです。歴史の真実を忘れないことが重要なのです。悲劇を繰り返さないためにも。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

2024年10月28日 | 日記
今日も散歩は都立武蔵野公園まででした。
武蔵野公園は広々とした公園です。何も無いのです。野川の水音だけが聞こえます。それが良いのです。静寂が支配してます。
帰路に中村研一記念美術館の前を歩きます。写真は中村研一記念美術館です。

「老境になると懐かしいのは仙台一高」

2024年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
2012年に井の頭公園のそばのLa forteというレストランで仙台第一高等学校の同期会がありました。1954年卒業のかつての少年達が58年後に会って談笑したのです。いろいろな思い出が走馬灯のように廻ります。この同期会は東京近辺に住んでいる新制高校6回生の会なので六高会と言い、毎年春に開催します。
今回は日本の旧制中学校の教育内容と雰囲気と新制高校について教育論的な視点から一文を記述したいと思います。
まず始めに明治政府が旧制中学校を全国に配置した頃のことを書きます。
維新後の廃藩置県で、明治政府は各県に県令(県知事)を派遣し、そしてすぐに数多くの尋常小学校を全国に作りました。暫くたって明治20年代になって全国の各県に4年間あるいは5年間の尋常中学校(旧制の中学校)を作りました。
仙台第一高等学校は明治25年に出来たのです。その初代校長は有名な国語辞典「言海」を作った大槻文彦(上の写真)でした。そして彼は校歌を作詞し、現在の仙台一高へ続く質実剛健な校風をつくりあげたのです。余談ながら、この大槻校長の2人の兄弟も傑出した文学者だったので、その出身地の宮城県一関駅前に銅像(上の右の写真)があります。
さて日本の旧制中学校の教育内容の特徴をかいつまんで言えば、漢文、英独語、数学、物理、化学に重点が置かれていたのです。漢学は江戸時代の藩校の伝統を受け継いだものです。英語、ドイツ語、フランス語は文明開花の西洋文化を取り入れるたものものです。数学、物理、化学は富国強兵のための工業技術の発展のためです。この方針に合致しないスペイン語、中国語、韓国語などは無視されました。客観的な歴史や比較文化人類学は欠落していました。富国強兵に役に立たないイスラム文化圏のことは無視です。
さて学校の雰囲気や校風はどのようなものだったのでしょう?
旧制中学校関連の学校を体験していない皆様に判り易く言えば、それは有名な漱石の小説の「坊ちゃん」に書いてあるような野蛮なものでした。言い方を変えれば質実剛健です。
私共の通った1951年から1954年の仙台第一高校はまさしく「坊ちゃん」に描かれている松山中学校の雰囲気と同じだったのです。
しかし教育論的に言えば「坊ちゃん」には2つの大きな欠点があります。
第一は、夏目漱石は旧制中学校の教育の善い面に全く触れていないという事実です。
第二に、坊ちゃんが田舎者を徹底的に見下して、軽蔑していることです。これは日本人の田舎者を軽蔑し、差別する文化を支援、補強したのです。
仙台尋常中学校の初代校長は人格者で有名な大槻文彦でした。夏目漱石がもし松山中学でなく仙台の中学へ勤務しても同じことが起きたと思います。田舎者でも大事にし、愛して、育て上げるという気概の無い教師は追い返されるのが自然です。
誤解しないで下さい。漱石の書いた「坊ちゃん」は近代日本文学の金字塔です。傑作です。しかしその欠点をみると旧制中学校の校風や雰囲気が判り易いので借りただけです。夏目漱石は偉大なことにいささかも疑問の余地はありませんん。
さて話はそれましたが、では明治時代の校風、蛮風がみなぎっていました。校歌や応援歌を蛮声はりあげて歌のですからどうしようもありません。
そのような質実剛健な校風は旧制が新制に変わっても変わらなかったのです。それが変わり始めたのは1966年頃から始まった中国の文化革命に端を発する学園闘争の頃からです。教育現場の雰囲気の時代変化については別の記事で書きたいと思います。

写真に仙台一高の同期会の様子の写真を示して終わりといたします。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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