後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

玉川上水沿いを散歩しながら老人の孤独感と喜びを考える

2015年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
東京には江戸幕府の初期に作られた玉川上水が残っています。多摩川の羽村の堰から江戸の四谷まで30Km以上の長さです。その上流の方は樹木が繁り大きな緑地になっています。小平市は玉川上水の両側に遊歩道を整備しました。よく散歩に行くところで、昨日は久しぶりに6Kmほど歩いて来ました。遊歩道に沿って公園がありツツジや藤の花が咲いています。花壇もあります。そんな玉川上水の風景の写真を下に示します。
緑深い遊歩道を歩きながら老人の孤独感というものを考えていました。家族がみんないなくなって一人になってしまったという方からメールを頂いたからです。そして山林の中で独りで暮らしている老人を2、3人知っています。先日の記事に書いた「ひかるの」さんも天涯孤独でした。世の中には案外独りで暮らしているひとが多いのです。
老人の孤独感は若者の孤独感と違います。自分が70歳、80歳になると両親はもとより可愛がってくれた叔父や伯母がみんな亡くなってしまいます。仕事場で自分を大切にしてくれた恩人達もみんな亡くなってしまいます。先輩後輩の絆も消えてしまいます。昔の学校の同級会に行っても櫛の歯が抜けるように親しかった友人たちが亡くなっています。
老人の孤独感は自分だけが残り、自分を知っている人が皆いなくなったという寂寥感です。この境地は若者の孤独感とはすこし異質のものです。
それではこの孤独感や寂寥感を解消する方法はあるのでしょうか?
先に結論を言えば無いのです。そんな便利な方法などあるはずがありません。
お釈迦様は人はみな無常です。親兄弟や恩人や友人もみな無常なのです。こだわりを捨てて悟りを開きなさいと教えました。そしてイエス・キリストは神は全ての人を愛しています。そしてイエス・キリストも個人個人を大切にして愛しています。
このような有難い教えは百も承知です。しかし老人は孤独です。淋しいものです。そこで老人は孤独感や寂寥感と仲良くして、楽しく暮らすのが良いのです。無理に解消するのではなく、それ快くうけいれて気楽に生きることです。
老人は孤独なものだと諦めて楽しいことを探して気楽に生きることです。楽しいことを探しても見つからないと言う人もいます。しかし食事を作る、食器にもって食べることは間違いなく楽しいことです。近所の山に入ってタラの芽や山菜を少しだけ採って料理に使います。すると季節感が溢れて楽しいのです。庭の柿の若葉も天麩羅にします。
老人が生活を楽しくするためにはちょっとした工夫をすることが重要なのです。近所付き合いも楽しい雰囲気で行えば暮らしが楽しくなります。そして老人は暇ですから好きなことを何時までもして良いのです。これこそ老人の喜びではないでしょうか?
こうして楽しいことをしていても老人の孤独感は絶対に消えません。それを宿命と思い、孤独感と一緒に仲良く暮らすのが良いと信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











悲しみの満ちた地球、しかし季節はめぐりハナミズキが満開になりました

2015年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ネパールで大地震が起き4000人以上の犠牲者が出ました。救助隊が夜を徹して困難な作業を続行しています。

一方、中東ではシリアやイスラム国やサウジアラビアやイランやイラクが支離滅裂な戦争をしています。アメリカにはどうすることも出来ません。ただ見守るだけです。 この中東の戦争では何百万人という避難民が苦しい流浪の生活をしています。


そうしてアフリカではポコハムラなどの過激派が残虐なことをしています。
この地球という惑星には大災害や戦乱が絶えません。人々の悲しみの涙があふれています。 どうして人間はいつまでたっても不幸がつきまとうのでしょうか。悲しみは人間の宿命なのでしょうか。

それに引き替え自然だけは変わらず美しい花々を人間へ贈ってくれます。季節がめぐればつぎつぎと花が人間を慰めてくれるのです。
そして今年もハナミズキ(dogwood、アメリカヤマボウシ)の季節になりました。悲しみを忘れて美しく咲いたハナミズキの花の写真をご覧ください。

ハナミズキは北米原産です。1912年にワシントンへ桜を贈ったときにアメリカ側から送られ来たのが全国に広がったそうです。日本のヤマミズキと同類の樹木です。
毎年、今頃になると白い、清楚な花(苞)が木の上に開きます。今朝は青空になった京王フローラル・ガーデンで家内と一緒に撮って来た写真をお送りいたします。

少し季節は遅れますが、関東甲信越地方の山々に白いヤマボウシが点々と咲きます。それも風情があって良いものです。そんなことを想像しながら写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









琵琶湖畔に住む「ちひろ」様の美しい花の写真をお送りいたします

2015年04月28日 | 写真
ちひろ様はもう何年もネットの上でお付き合いしている素晴らしい方です。
ご自分で毎日のように車を駆って琵琶湖周辺の四季折々の花の写真を撮って掲載されています。今日は久しぶりにお写真をお借りしてご紹介いたします。 
「カメラと遊ぶ日々」:http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739からお写真をお借りしました。このブログには他にも沢山の花々の写真が満載してあります。お楽しみ下さい。









ネパールの人々の悲しみを想い浮かべています

2015年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ネットの上で知り合い、何度かお会いし、その物静かな人柄に惹かれていた「ひかるの」さんは2010年の春に肺ガンで亡くなりました。
彼は26年間、カトマンズとバンコック両方に部屋を持ち住んでいました。ヒンズー語、タイ語、ネパール語、ブータン語などなどが話せました。アジアの各地を訪ね人々と温かい絆を結びました。特にカントマンズの大家さん一家とは親しくしていて、死の直前わざわざ飛行機でで別れの挨拶に行きました。
彼は、2つのブログでカトマンズのあれこれを書いていました。それを毎回読んでいた私にとってはカトマンズは特別に身近な存在になっていたのです。人々の暮らしぶりが目に浮かび、その声や息づかいを感じていたのです。その静かで平和なカトマンズが大地震で崩壊してしまったのです。ネパールの人々の悲しみを思うと沈痛な気持ちになります。その悲しみに心を寄せて毎日お祈りしています。希望を捨てないで生きるようにと祈っています。
幸い日本、インド、中国などの救援隊がカトマンズに到着し、夜を徹して救援活動をしています。
このような救援活動はネパールの人々に生きる勇気を与えます。感謝で感動を覚えます。2011年の東日本大地震の時、アメリカや中国からの緊急救助隊によって勇気を得、また復旧する希望を持ったことを思い返しています。
ネパールは遠い国です。あまり日本人にはよく知られていない歴史と文化を持っています。
そこでネパールの人々を良く知り親しみを感じて頂くように平穏に暮らしていた頃のカトマンズの風景をお送りいたします。









これらの写真は以下の2つのブログから転載いたしました。「カトマンズ・バンコク慕情~アジアの旅の徒然に」:http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season とイ「ンド ブータン アジアの布 染織美術館」:http://asiancloth.blog69.fc2.com/です。そしてカトマンズの歴史や文化についてひかるのさんは以下のように書いています。細かなことが詳しくかいてありますが、要するに古都カトマンズにはいろいろな王朝の文化が重なり、その中に住む人々の様子が生き生きと描いてあるのです。
・・・ カトマンズの街は 8世紀以後のマッラ王朝時代に造られた街並みと、18世紀以後のゴルカ王朝時代に造られた建物が並存している。ゴルカ王朝といっても 大半の建物は、1846年以後にラナ家専制時代に建てられたイギリス様式を真似たもので、ネパール建築とは程遠いものだ。街はマッラ王朝時代に建てられた建物が大半で、ゴルカ王朝時代に建てられた宮殿群はネワール族の造り上げた街の周辺地域に散在しているだけである。
日本の江戸時代のことを考えてみれば、江戸の中心に江戸城があり、その周辺に直参旗本の屋敷、大名屋敷、その外に商人たちの居住地と職人たちの居住区、さらにその外の浅草あたりには歓楽街が広がり、その向こうといえば、村になってしまう。
カトマンズの街を読み取るには、マッラ王朝時代の街づくりに眼を向ける必要がある。
ゴルカ王朝時代の建物を見ても、ただ権力を誇示するための建物ばかりで、生活する人々の心の有様を知る手がかりにはならない。
基本的にはこの構造は250年のゴルカ王朝の支配の中でも変化はしていないようだが、上級カーストの生活場所については、ゴルカ王朝に協力的であったものとそうでないものの違いによって、居住区の入れ替えはあったように思われる。
ネワール族の中のヒンズー教徒、仏教徒によって、ゴルカ王朝への協力度は違っていただろう。しかし、大半のネワール族は、マッラ王朝時代からの居住地域に住んでいるようだ。
ただ不思議なのは カトマンズの街には、悪場所である歓楽地域がないことだ。
ヒンズー教の影響なのだろうか。江戸であれば、隅田川の川向こうは、江戸庶民の歓楽街であった。ネワール族の60歳を過ぎた人たちに聞いても、カトマンズにはそんな場所はなかったという答えが返ってくるばかりである。
異国の街に足を踏み入れると、その街の匂いや色が気になるものだ。
カトマンズの色といえば、赤だ。赤なしでは、生活は成り立たないというぐらいに何かにつけて赤である。ネパール人にとって、赤は縁起のいい色とされており、結婚式、行事では、赤のサリーを身に着けることが多い。おでこにつけるティカも赤、街のいたるところに鎮座している神様の礼拝にも赤、これほど赤の好きな人たちはいないだろう。これほど赤が好きなのだから、情熱的な人たちだろうと思うが、そうでもない。お祭り好きなことはたしかであるが。・・・・以下省略します。
このような古い文化を背負った街々に人々が平和に暮らしていたのです。
その生活が崩壊するような大地震が起きたのです。人々の悲しみに心を寄せ祈りたいと思います。
ネパールの人々が絶対に希望を捨てないで生きるようにと祈っています。必ずや復興するようにと祈っています。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:ネパールの歴史==============
http://ashita.yu-yake.com/asia-history/nepal-history.htm
ヒマラヤ山脈は、大昔に海底だったそうですが、カトマンズ盆地も、有史以前には湖の底だったという事が解っているそうです。
紀元前6世紀頃、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)がネパール王国の領土内、ルンビニーという場所に生誕しました。父は釈迦族の国王シュッドーダナ(浄飯王じょうばんおう)、母はマーヤー(摩耶夫人まやぶにん)とされています。釈尊の名前、ガウタマとは「最上の牛」、シッダールタとは「目的(アルタ)を達成した人(シッダ)」という意味らしいです。
紀元前3世紀には、インドのアショーカ王が釈尊生誕の地である、南ネパールを巡礼するなど、仏教が盛んでしたが、紀元200年までに仏教は衰退し、北インドから侵略してきたリチャヴィスによって、ヒンズー教が優勢になりました。(リッチャヴィ王朝時代)
その後、8世紀にはマッラ王朝がリッチャヴィ王朝に代わって、カトマンズ盆地を統一し15世紀までこの盆地を支配しました。(マッラ王朝時代)
15世紀にはマッラ王朝は三人の王子の元に3つに分裂します。三人の王子は、それぞれ、カトマンズ、バクタブル、パタンに王国を作り、並立してカトマンズ盆地を統治しました。
この時代には、3国が競い合ったため、美しい彫刻を施した寺院や王宮の建築が残っていす。(三王国王朝分立時代)
1741年頃、ネパール東部地域のゴルカ族は、カトマンズ盆地を征服する戦いを始め、27年に及ぶ戦いの後、1768年に首都をカトマンズに移し、繁栄しました。(ゴルカ王朝時代)
ネパール全土を統一したゴルカ王朝はチベットやインドへの侵入を図りますが、19世紀初めにインドへ侵入した英国軍と衝突し、ゴルカ戦争が始まりました。数に勝る英国軍も、山間部ではネパール軍に苦戦を強いられますが、ネパール軍をカトマンズへ敗退させ、1816年にネパールと講和条約を締結しゴルカ戦争は終結しました。なおこの戦争の後、英国はゴルカ王朝の兵士の勇猛な戦いぶりを高く評価し、英国の傭兵として雇うようになります。インドで、東インド会社への不満に端を発して起こったセポイの乱には、英国は、ゴルカ兵を傭兵として使い、勝利したそうです。
実質的にイギリスの勢力下に入ったネパールでは、以前、王朝が権力を維持していました。しかしジュング・バハドゥルが権力を握るようになると、称号「Rana」を名乗り、自身を生涯首相と宣言し、その職務を世襲としました。(ラナ将軍家による専制政治)
20世紀に入ると、人々はぎりぎりの生活を営んでいる一方、国王の一族は、大きなカトマンズ宮殿で贅沢にふけっていました。しかし第二次世界大戦後、イギリスがインドから撤退し、国王の主要な支援者イギリスもいなくなります。そしてとうとう、国家の政策に反対する暴動が起きました。1951年、トリブバン国王は、新しく創設されたネパール国民会議派のメンバーで構成される政府を認めます。しかし妥協は短かく、1962年、マヘンドラ国王は政党のない村落会議を模したパンチャヤト制がネパールにはもっと適していると決定し、王政復古で、立憲君主制となります。1972年、ビレンドラ国王が即位しますが、身内のひいき、外国からの援助が王族へ流れるなど腐敗が続き、長年の窮乏に限界が来たネパール人は、1990年、民主化を求め抗議行動が起こします。100人以上の市民が死にますが、ビレンドラ国王は内閣を解散、政党を公認し、臨時政府を作ることを認めました。1990年には、民主的な新憲法が導入され、1991年には、32年振りの選挙が行われました。ネパール会議派のコイララ政権が誕生します。    しかし、汚職事件等や、国民の批判、党内の対立などによって、解散しました。その後、再び総選挙が行われ、アディカリを首相とする共産党政権が成立しますが、また1995年に内閣不信任案により崩壊しました。その後、ネパール会議派のデウパを首相とする政権ができますが、経済の停滞、失業、識字率の低さなど、ネパールの状況は思わしくないそうです。

風薫る新緑の狭山湖の風景をお楽しみ下さい

2015年04月27日 | 写真
午後にぶらりと埼玉県の狭山湖までドライブを楽しみました。東京都側にある多摩湖(村山貯水池)にはよく行きますが、今日は県境を越えて埼玉県側にある狭山湖(山口貯水池)まで足を延ばしました。10年以上も行かなかった湖です。
薫風が湖面を波立たせ、岸辺は燃えるような新緑です。小鳥がしきりに啼いています。心地良い風に吹かれて、長い堰堤の上をどこまでも歩いて来ました。
新緑の狭山湖の風景写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









趣味を持つ人の心の豊かさ

2015年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日のことですが「アンティークの灯り展」という展示会を見に行きました。近所の小金井市中町の石館さんという個人の家で5月10日まで開催しています。(詳しくはwww.yotosha.jpをご覧下さい)即売もしています。
数百点の展示品が石館邸の一階と二階の部屋に所狭しと並んでいます。それは壮観でした。
そして、驚いたことにはアールヌーボー派のガラス作品とは全く違うのです。19世紀末から第一次大戦までのアメリカ合衆国で作られた家庭用の日用品なのです。日用の大量生産品なので作者名はありません。
いわゆる芸術的な作品でないのです。しかし展示品の全てが美しいのです。家庭内を楽しくするような器具です。見ていると家族愛が溢れている楽しい雰囲気を感じるのです。アメリカの普通の人が毎日使うものを美しく作っているのです。「用と美」の調和を感じさせる品々です。美しいものは家庭生活を幸せにすると感じました。くだくだしい説明は止めて早速その展示品の写真をし示します。









展示会の一階は主に二百点以上のランプが並んでいます。古風な電球を用いた灯なのです。それらが柔らかい優しさに満ちた光を放っているのです。心が和みます。
二階には炊事用具、食器、陶磁器、アメリカパッチワークの布類などが並んでいます。
その全てが心地よいのです。機能美を感じさせる道具もあります。
ガラス製品では19世紀末からのアールヌーボー派のエミール・ガレやドーム、そしてアール・デコのルネ・ラリックの作品が有名です。諏訪湖畔の北澤美術館や箱根のルネ・ラリック美術館に沢山の作品が展示してあります。これと対照的なのが昨日見た展示品なのです。
アメリカの文化は大衆文化だと言います。その大衆文化を尊敬しないでフランスの文化だけを称賛する人がいます。しかし私はしそれが大きな間違いだと思いました。
これらのアメリカ文化の良い品々だけを選んで、数十年かけて蒐集したのが石館康平さんと奥様の三枝子さんです。アメリカに住み、数十年にわたって行き来し、ご自分の美的感覚を信じ、一品一品を丁寧に蒐集したのです。これは尊敬すべき独創的な趣味です。よほど心が豊かでないと続けられない趣味です。
この蒐集品に触発されて息子さんの石館 央(ひろし)さんが「洋灯社」というお店を開いています。JR中央線の西荻窪駅の南口です。息子さんにもお話を伺いましたが、父を尊敬している様子に幸せな親子関係を感じました。
小金井の石館邸での展示会の盛況と「洋灯社」の発展を祈って終わりとします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

老齢になったら豊かな心の財産を増やしていく(2)この麗しい日本に生きたことへの感謝

2015年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
感謝をすると心の財産が増えるとは変な話に聞こえます。しかし感謝するためにはどのような理由で何に感謝するかを自然に考えます。すると感謝する対象が心に浮かびます。その映像や歴史的な遺産が心の財産になるのです。
具体的に私が何故日本に生きたことに感謝しているか順々に書いてみます。
(1)四季の変化に従って花々が次々に咲くこの土地が好きです。美しい風景が彼方此方に沢山あります。春になると暖かい風が吹き、秋になれば涼しい風が吹きます。気候も温暖です。このような国に生きることが出来たのです。感謝しています。
(2)人々が穏やかで親切です。高齢になると電車やバスに乗ると気持ち良く席を譲ってくれます。道を聞くと途中まで連れて行ってくれます。スーパーでもレストランでも働いている人々が実に親切です。感謝しています。
(3)この国では何処に行ってもトイレが清潔で完璧に掃除してあります。最近、五島列島という離れ島を旅しましたが誰もいない不便な集落に立派なトイレがあるのです。訪れる旅の人の為です。島の人々の心が豊かなのです。その光景を思い出して感謝しています。
(4)この国は穏やかな仏教国です。宗教を信じない人もお寺や仏像を大切にしています。京都や奈良や鎌倉には外国人に自慢したくなるような美しい寺院や神社があります。例えば私の好きなお寺は607年創建の法隆寺と752年創建の東大寺です。そして唐から波濤を越えてやって来た鑑真の建てた唐招提寺です。759年に創建されました。これらの寺には何度も行きました。荘重な本堂、五重の塔の美しさや廻廊や長く延びる土壁の光景が心に焼き付いています。
このような美しい寺院の沢山ある国に育ったことに感謝しています。
(5)この国の素晴らしさは自然や神社仏閣の美しさだけではありません。工業製品の高い信頼性には感動しています。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが故障しないで何年も使えるのです。それを苦心して作った技術者の良心を思うとこちらまで心豊かになります。
特に最近買ったニッサン・ノートという車には感動しています。走行性能の良さもさることながら、車の前後左右にカメラとソナーが多数ついていて360度周囲の映像がテレビ画面に出るのです。これには感心です。車の出し入れや車同士のすれ違いが実に安全になったのです。この様な工業製品を作り出す国に生きていることに感謝します。
このように書いているとすぐに10以上のことが書きだせます。
皆様はこの国のどのようなことに感謝していらっしゃいますか?
それを列挙していると何故か心が豊かになります。その状態を「心の財産が増えた」と考えるのです。
下に法隆寺の写真3枚と東大寺と唐招提寺の写真を順に示します。法隆寺の写真の出典は:http://kenbox.jp/photo/horyuji.htmです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









=====参考資料==================
法隆寺:607年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
東大寺:752年創建
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
唐招提寺:759年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。

今日は天気が悪いので快晴だった一昨日の写真をお送りします

2015年04月25日 | 写真
今日は天気が悪く憂鬱です。快晴だった一昨日の写真お送りしますを。
順々に、山梨県韮崎市長府の桃畑の花の写真2枚、残雪の甲斐駒岳の下を流れる釜無川の写真1枚、小生の小屋へ登る途中にあるロマンチックな別荘の写真1枚、そして高台にある花畑と遠方の甲斐駒岳の写真1枚、の合計5枚の写真です。

上下の写真が山梨県韮崎市長府の桃畑の花です。



上が残雪の甲斐駒岳の下を流れる釜無川の風景です。

上は小生の小屋へ登る途中にあるロマンチックな別荘の写真です。

上は北杜市の武川町真原(さねがはら)の高台にある花畑と遠方の甲斐駒岳の写真です。

不思議な人々の絆(5)親子関係の絆の強さと難しさ

2015年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
親子関係ほど強い絆は無いと思います。強いだけに一旦こじれると修復が非常に困難です。修復には20年、30年と長い年月がかかる場合もあります。そして世間体の為に親子関係が円満なように装っていても心の底では深い問題を抱えている場合もあります。
一番書きにくい人間の絆なので後回しにしていました。
しかし気楽に書くことにしました。親子関係を父と息子の関係と母と息子の関係だけに限定して描くと明快に整理出来そうです。
私は息子にとっては悪い父でした。息子が自分の思うようにしないと直ぐに立腹し叱ります。息子に理想的な人生を歩んで貰いたいと思うあまり失望したり怒ったりします。そんな訳で長い間良い関係ではありませんでした。しかしその問題も孫が出来てから次第に解消してきます。
ところが一方、家内と息子の関係を見ると始めから完璧に仲が良いのです。息子の他に一人の娘がいますが家内はその娘とも仲が良いのです。この世で母子の関係ほど強い絆は無いと私が何度も感じ入っています。
引退してからは、朝の10時頃からよく外出します。すると幼児を連れた若い母親によく会います。幼児が可愛いので笑顔で見とれていると母親が挨拶をします。「どうです。素晴らしい子でしょう!」という自慢が笑顔に見え隠れします。女性にとって一番幸せな時期なのです。
このように書くと結婚していない人や子供のいない人に可哀そうです。ですから子連れの母親に会ったときは運悪く子供のいない人の心に寄り添うようにしています。
話は飛びますが私は許嫁を日本から呼び寄せてアメリカのオハイオ州で結婚式を上げました。そんな事情からアメリカの親子関係を観察する機会が多くありました。雑駁に言えばアメリカの親子関係は日本ほど濃密でないのです。子供が高校生くらいになると親離れをして精神的には独立します。赤ん坊の育て方も一見冷酷で、泣いても抱き上げてはいけないと言います。要するに子供を甘やかさないのが理想的な育て方だと母親に教えているのです。
ですから息子は父に頼りません。父も息子の就職や結婚には一切意見を言いません。
日本では里帰りを毎年行う人がいますがアメリカでは人にもよりますが家族で両親に会いに行くのは数年に一回くらいです。誤解を恐れずにはっきり書けばアメリカの親子関係は疎遠なのです。日本では親子関係が濃密過ぎて不幸になる場合が多いのです。良い親子関係を保つには疎遠と思える位の距離を置いたほうが良いと考えられます。
このように考えて、私はアメリカ人は理想的な家族関係を持っている一番幸せな人々と信じていました。ところがその後何度もアメリカに行って彼等と親しくなってみると私の理解が完全に間違っていることに気がつきました。ある統計調査によると彼等が一番困って、悩んでいる人間関係は親子関係だと分かりました。不幸の実態が日本の実態と違うだけなのです。
悪い夫婦関係は離婚すれば一件落着です。しかし親子関係には終わりが無いのです。
また話は飛びますが、親が死んでしまったり、いろいろな事情で無くなった場合について一言書いておきます。私の家の近くにサレジオ学園があります。事情があって親と別れた子供達が一緒に住んで、サレジオ学園の小学校と中学校に通っています。高校からは一般社会の高校に行きます。その学園の中に大きなカトリックの教会があります。近所の人たちもサレジオの子供達と一緒にミサに参加していた教会でした。私はある年のクリスマスに、そこのミサに出ました。そうしたら昔、サレジオ学園で育った人々が家族連れでミサに出ていたのです。里帰りです。それは感動的な光景でした。忘れられない光景でした。親子関係を書く以上このようなケースについて何か教訓的なことを書くべきとあれこれ考えていました。結局、私には何も書けません。ただ祈るだけです。親子関係の難しさを深く考えています。解答の無い問題のようです。
あまり出来の良い記事ではないので花々の写真をお送りいたします。昨日、都立薬草植物園で撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













山の里に咲く花々と新緑の美、そして過ぎゆく時の流れ

2015年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は甲斐駒岳の麓の小屋へ遊びに行きました。庭に流れる小川の落ち葉を掬って底に白い川砂が見えるようにしました。小川の水音やさかんにさえずる野鳥の声を聞きながら暫くぼんやりしました。その後で家内と近所の山の里の花々や新緑の写真を撮りに行きました。
この山地は甲斐駒岳の麓に広がるなだらかな傾斜地です。景色は良いのですが、水はけが良すぎて水田が作れない土地でした。
ですから戦前は人の住まない深い森林が広がっていたのです。戦後、開拓農家が入り養鶏場や乳牛牧場にしました。ところが最近はイノシシや鹿や猿が増加してしまい畑作も困難な場所になってしまったのです。
そして養鶏や牧畜をしていた人も高齢になり便利の良い下の集落に移り住んでしまいました。その集落に昔からあった万屋の主も老齢になり店を止めてしまいました。そして昨日行ったらよくバーベキュー用の肉を買った店も主人が病気になって店仕舞いをしています。ここ数年は珍しいイノシシの肉や鹿肉を買ったこの店ともお別れです。
こうして山の里は淋しくなりましたが新緑や花々の美は以前と全然変わりません。以前以上にいきいきと自然の美しさが輝いているようです。この自然の美しさから先週行った五島列島への旅を思い出しました。その島々も過疎化が進んでいて海の美しさが広がっています。複雑に入り組んだ海が碧い高原の湖のように見えるのです。そのような入り江が沢山あります。
そして隠れるために移り住んだキリシタン達の集落も過疎化が進み美しい天主堂だけが残りました。そんな天主堂が舟でしか行けないような辺鄙な浜に建っているのです。これも時代の流れです。
昨日、甲斐駒岳の山麓の山里で写真を撮りながら、同じ様な時代の流れを感じていました。その山の里の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)















不思議な人々の絆(4)結婚ほど不可思議な人間の絆は無い

2015年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

人間の絆というものは不思議なものです。いろいろな絆が出来ます。それらは運命のようなものです。その絆で一番不可思議なものは結婚によって出来る男女の絆です。大した必然性も無く偶然会った男女が何故か愛し合うようになり結婚します。それには確固とした理由が無い場合もあります。そして子供も孫も出来ます。
人間の親子は人にもよりますが大体20年間くらいしか一緒に暮らしていません。それなのに夫婦は40年、50年それ以上一緒に暮らします。育ちも趣味もまったく違う夫と妻が何事も無いように一緒に暮らしているのです。結婚するまでは全く赤の他人だったのです。
ですから私は結婚ほど不可思議な人間の絆は無いと断言しているのです。
結婚して一緒に暮らし始めてから好きになって愛し合う夫婦もいます。結婚が愛し合う原因になっているのです。このように書くと未婚の若者が、それは嘘だ、愛し合ったから結婚するのだと反対します。そのような理解があっても良いのです。しかし40年、50年と一緒に暮らしてみると結婚が愛し合う原因になっているように思えるのです。

その上、子供や孫が出来るとそれがまた夫婦愛の原因になります。このように書くと、それでは子供のいない夫婦は愛し合っていないのかという疑問が出てきます。しかし子供がいないからこそ夫婦は強く支え合い、愛し合うようになるのです。
最近は国際結婚をする人も非常に増えてきました。夫婦の育った文化が違うので活き活きとした会話が続くのです。強烈な夫婦愛が生まれます。国際結婚は止めたほうが良いと賢そうに言う人がいますが、心配ご無用なのです。
夫婦の絆こそ不可思議で神秘的なものなのでカトリックでは結婚は神が人間へ与えた秘蹟だと考えます。ですから離婚などは許されないのです。夫婦の相性が良ければそれでも良いのです。しかし現実には相性が悪すぎて離婚する場合が沢山あります。そして最近は一生結婚しない人も増えてきました。次にこれらの問題を考えてみましょう。

結婚してみて相性が悪すぎたらさっさと離婚するのが良いのです。子供の出来る前にすれば子供を不幸にしません。しかし子供が産まれ、大きくなってから離婚する場合もあります。その場合は子供を離婚騒動に巻き込まないことです。そして離婚後も両方の親が子供に会えるように法律的な保障をすることが重要です。離婚の多いアメリカでは子供を守る法律が整備されていて離婚の弊害を最小限度にする社会制度もいろいろ出来ています。詳細はこの記事では割愛します。
その上で一生結婚しない人が増えている最近の日本の問題に関して私の感想を書きたいと思います。
それは憂慮すべき問題ではありません。独りでも淋しくなく、結婚の必要性を感じない人は敢えて結婚しない方が良いのです。そうすれば離婚して子供を不幸にする恐れはありません。結婚しないから日本の人口が減ると心配する人もいます。そのような心配はご無用です。日本の国土面積から考えると人口が稠密過ぎます。ですから雑駁に言えば日本人の人口は5000万人位が適当ではないかと私は感じています。
さて最後に重要なことを書きます。それは結婚したくても貧乏な家に生まれたので結婚出来ない、あるいは容貌が良くないので結婚出来ないと思い込んでいる場合について私の感想を書きます。結婚したくても出来ない理由をあれこれ考えると自分を傷つけます。そのような境遇や容貌に産んでくれた親を憎みます。そうすると自分だけでなく親をも傷つけます。そんな不幸なことはありません。その不幸から抜け出す唯一の方法は結婚できない理由をあれこれ詮索しないことです。結婚出来ないのは運命なのです。理由なんかありません。そう考えると結婚の条件などはさして重要でないと思えるのではないでしょうか。
それにしても結婚していると思わぬ良いこともあります。それは後期高齢者になって体が動かなくなったとき妻が介護してくれます。私の場合は元気過ぎる老妻が介護してくれます。そのお蔭で北海道や五島列島へくらいなら旅行もできるのです。
ですから結婚も良いものです。多少育ちが違っても我慢すると長続きします。しかし相性が悪すぎたら早めに離婚するのも賢いことです。それにしても結婚ほど不可思議な人間の絆は無いのではないでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

三鷹市、花と緑の広場の花々を  お楽しみ下さい

2015年04月22日 | 写真
この広場は四季折々に何度も行く所です。今朝ほど行きましたら菜の花、多種類のパンジー、いろいろな種類のチューリップ、ヒナゲシ・ムスカリなどが一斉に咲いていました。ここはこれから11月の晩秋まで花々が絶えることがありません。月日の流れにしたがって多種多様な季節の花々が咲いています。私のお気に入りの花園です。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













老齢になったら豊かな心の財産を増やしていく(1)楽しかった趣味の思い出の再生産

2015年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者になると誰でも体力が衰えてスポーツの趣味が出来なくなります。それは自然の摂理なので別に悲しむ必要がありません。
しかし楽しかった趣味の数々の思い出が心の財産になります。その上、この財産は何度も思い出したり書いていると一層楽しくなります。財産が利子を生んで何倍にも増えて行くのです。
昨日、「不思議な人々の絆(3)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人の思い出」という記事を書きました。書いているうちにヨットの趣味の楽しかったことが鮮明に浮かんできました。
そこでこの思い出という財産を心に刻むために霞ケ浦に係留していた自分のヨットのことを書いてみたいと思います。昔、ヨットを趣味をしていた高齢の方々も同じ様な想いでご自分のヨットのことを思い出して頂きたいと思います。

上の写真は土浦港の岸壁から家内が撮影したものです。このアメリカ製の長さ26フィートのヨットは13年間、乗りました。その前の10年間は同じ霞ヶ浦で19フィートのヤマハ19に乗っていました。ヨットは長さが少し違うと重さがその3倍違うので走り方が非常に違います。それがヨットの面白さの一つなのです。
東京から常磐高速道路ではるばる霞が浦に行っても、風が強くて危険な日には船を出さないで船のキャビンの中で読書をしたり音楽を聞いて楽しみます。料理を作りビールも飲みます。このキャビンで過ごす時間もヨットの楽しさの一つでした。
霞ヶ浦のような湖でセイリングをしていたので安全です。湖でセイリングしている限り故障しても沖に流されないで岸辺に着きます。
下の写真はメイン・セイルの上半分の写真です。マストのてっぺんの風の方向を示す矢印を見上げながら風上に走ります。走れるギリギリまで風上に向けるのが愉快なのです。

青空に白帆が高く輝きます。前の帆のジブセイルも主帆のメインセイルもゆっくり目いっぱい上まで上げます。従って裾は下の写真のようになっています。独りで帆を上げきった満足感が楽しいのです。

暫く走っていると急に風が強くなり船が下の写真のように傾きます。

傾き過ぎたらセイルを風下に流し、船体を起こします。傾け過ぎると体力を消耗します。無理せずゆっくり帆走することが重要です。このような風との駆け引きが一番楽しいことです。ですからある程度の強風が来るとスリル満点で心が躍るのです。これこそがヨットの醍醐味です。
しかし風が強すぎると怖くなります。風が強過ぎて傾きが大きくなる場合には、前の帆(ジブ)とメインセイルを半分位に小さくします。すると船の傾きが無くなり安全に走ります。
下の2枚の写真が小さくした帆の様子です。



風の力を半分だけ受けて帆走します。高齢者は決して必死で速く帆走しないで、体力を温存しながら悠々と楽しみます。
そして最後にヨットは別荘代わりに泊って楽しむことも出来るのです。
猪苗代湖に係留してあった今は亡き友人のクルーザーでビールパーティーをした時は満月でした。後ろの磐梯山もよく見えました。昔のことですがありあえりと覚えています。
霞ヶ浦はそれ程風光明媚ではありませんが毎年数回、別荘のように家内と一緒に泊りに行ったものです。そのクルーザーには2口ガスコンロ、流し、調理台、食器や鍋を収納する食器棚が付いていたのです。電動水洗トイレもついていました。夕方から闇が迫りくる湖上の夜の風景、翌朝の靄が漂う湖の光景など一泊しなくては味わえぬ楽しみです。
このように楽しかった趣味のことを思い出して、書いていると心がますます豊かになり、心の財産が増えて行くように感じます。若い時には分からなかった心境なのです。不思議な感じがします。皆様はいかがでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

横山美知彦著、「麦 と ろ」

2015年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
挿絵がわりの写真は4月17日に撮った下仁田町にある妙義山の桜と菜の花です。
====横山美知彦著、「麦 と ろ」=========
私が「とろろ汁」が人並みに食べられる様になったのは、20才を過ぎてからである。
父母が「とろろ」が好きで、とろろ芋が手に入ると「とろろ汁」を作り食卓を賑わしていた。戦前、東京の板橋に住んでいた頃、親子5人の他に田舎からの下宿人が、代わる代わる訪ねて来て宿にし、東京での生活の一歩にしていた。
 ある晩の夕食に「とろろ汁」を母が作り、幼い私の口に「とろろ汁」を運んでくれた。生まれて初めての経験だった。だがそれが成人になるまで食べられなくなった最初でもあった。
「いも」のしつがあまり良くなかったのか、口の周りに「とろろの粘粘」が付いた為に即座に痒くなった。痒さのあまりに泣き叫んだことを今でも思い出すことがある。
 さらに喉を通る時の味わいとでも云うのか、普段の食べ物とは違う為、何とも気持ちの悪い戻しそうな症状になった。
それ以来、昭和18年の6歳の頃に下仁田に引っ越した。私達兄弟も小学校、中学校と物心が付き始めて、戦後の物のない時期の「とろろ汁」は貴重な栄養源であって、家族は私を除いて目の色を変えて「とろろ汁」を食べていたが、私は見向きもしなかった。
高校を終えて上京した私は、都会での生活になれ始めた頃、同僚に連れられ酒場の料理を口にする様になった。品書きには必ず「とろろ」を使った料理が載っている。
 都会人になったつもりの私も恐る恐る、まぐろ入りのとろろ、「やまかけ」の料理を口にして見た。ところがそれが抵抗なく喉を通り、その味の良いことを初めて経験したのだ。
それ以来、とろろを使用する料理や、自宅で家族の作る「とろろ汁」は期待の一品となり、幼かった頃の記憶のあの痒い気持ちの悪い雰囲気は無くなっていた。
「とろろ汁」には、麦飯が合う。最近麦の身体への効果が見直され、良質の押麦が手に入るようになり、何か月か前から僅かな麦を入れた「ご飯」に我が家も代わった。したがって「とろろ汁」を作れば、だまっていても「麦とろ」を食べる事が出来る。これはうれしい。60~70年以前を思い起こすと、まさに天と地が入れ変わった感がする。やや大げさではあるが。
(平成26年9月12日)







不思議な人々の絆(3)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人の思い出

2015年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。海では葉山や江の島でセイリングをしました。
しかし75歳になった2011年の10月に愛艇を譲りわたし、いさぎよくヨットを止めました。
約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。
ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深い印象があるのはHootaさんという方です。
彼はブログやメールを通してヨットの帆走技術や修理方法を私にいろいろ教えてくれていました。
その縁で、2009年の春に千葉県に係留したある彼の艇を訪問し、一晩ビールを一緒に飲んだのです。それから数週間して駿河湾で素晴らしい帆走に招待してくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の長さ43フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していました。千葉県の保田港を母港にしていました。
お会いしたいと思い東京湾のアクアライン通って、車で行きました。
2009年の春の暖かい日でした。夕方から2人だけでビールを飲みながら歓談しました。
私は、「このような豪華なヨットにのっている人々は別世界の人のような気がしますが?」と、彼に聞きました。
「皆さん、普通の人々です。生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」。
私は何となく安心して、Hootaさんと気持ち良く冷えたビールを楽しみました。
時折波が来て静かに船を揺らしてくれます。マホガニーで内装したキャビンにはいかにも帆船らしい古風な電灯がついています。気分が良いので夜遅くまで飲んで、それから私は陸に上がって近くの旅館に泊まりました。彼はヨットの中の寝室に泊まったのです。
Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、彼は就職した中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。安定した職業をサラリと止めて、黒姫山に住んでいるニコルさんが主宰していた「レンジャー養成学校」の先生になりました。
ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。初めて保田港でお会いした当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。
保田漁港に係留してあるBambinoは「東京ベイヨットクラブ」の艇でした。
話題は16歳のとき、ヨットを指導してくれた師匠の素晴らしさ、ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫山に造成した美しい林のこと、東京ベイヨットクラブを主宰しているK氏のヨットへ対する情熱などなどでした。そして後に私をK氏へ紹介して下さったのです。
Hootaさんは、過去の全ての出会いに感謝している様子なのです。こういう人がジェントルマンではないかと感動しました。
奥様の話も出ました。法務省に務めているそうです。結婚のいきさつなどを楽しそうに話してくれました。
始めは夕陽を見ながら甲板で飲んでいました。夜になったので、美しいキャビンの中で飲み合いました。そしてこの北欧風の大型ヨットで是非一緒に帆走しませんかと招待してくださったのです。その約束は後に駿河湾で実現しました。
下に初めて一緒に飲んだ時の夕陽の写真と、Bambinoの写真を示します。



その後、数週間たってから約束どうり駿河湾でヨットに乗せてくれました。
Hoota船長指揮のもと、女性2名を含めた総勢6人で4時間程、強烈風の中を豪快なセイリングを楽しんだのです。

写真は沼津の近所のある漁港に停泊してあったBambinoの写真です。私は新幹線で東京から沼津まで行き合流したのです。

この駿河湾の帆走から、私は強風のなかで大型木造艇がどのように走るのかを体験できたのです。この船は荒れる北の海でも安全に走るように設計されているのです。どんな大波が来ても、ユルリと滑るように乗り越えます。強風が来ても船体があまり傾きません。大きなジーゼルエンジンが余裕を感じさせます。それだけに弱い風では実に遅い船足なのです。下にその駿河湾での帆走の様子を示します。

その後、Hootaさんとは東京湾で何度かお会いしました。彼のお陰で三崎港から浜離宮までの長距離帆走にも参加できたのです。ヨットはドイツ製の豪華なババリア39(長さが39フィート)でした。そして、このババリア39で東京の夜景を何度か楽しむことも出来たのです。それもHootaさんのお蔭でした。
そんな交友の後、彼は東京ベイヨットクラブを辞め、重病の母上の看病のために一時ヨットを止めました。
上の写真の43フィートのハンスクリスチャン製の木造艇もどこかへ売り渡され、二度と見ることも出来なくなりました。
Bambino号もそれに乗っていたHootaさんも消えてしまったのです。
遠方へ行ってしまったようで淋しいです。しかし私は心優しい、本物のヨットマンだったHootaさんを絶対に忘れません。
彼は大型のヨットの世界を私に教えてくれたのです。それは何時も26フィートの長さのクルーザーに乗っていた私にとっては別世界のような奥深い楽しさだったのです。
Hootaさんとの絆は現在考えても不思議です。不思議なご縁です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)