後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ローマ法王、ヨハネ・パウロII世の謝罪

2008年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨハネ・パウロII世は1920年にポーランドで生まれ2005年、85歳で死んだ。最後の26年間はローマ法王の座についていた。われわれカトリック信者の大親分である。外国ではパパ様と呼んでいるらしいが日本人の小生にとっては親父、親分いや大親分のほうがシックリする。1981年には日本にも来て昭和天皇に会い、広島や長崎や東京で大規模なミサを開催した。完璧な発音の日本語で話したという。ただし発音だけで、意味は分からないと自分でも言っていた。この法王は歴代の法王のなかでも一番、(小生にとってはの話だが)一番素晴らしいことをしてくれた。

それはカトリック教会の犯した間違いを拾い上げ一々心から謝罪したことである。列挙すると、

(1)ガレリオ裁判での間違いを認め、ガレリオへ謝罪した。

(2)フィリッピン、中南米に対して剣と武力を用いてキリスト教を広めた罪を謝罪した。 また十字軍の戦いも武力を用いた罪を認め謝罪した。

(3)第二次対戦中ナチスドイツの占領地での大量虐殺へ対してキリスト教が十分な抵抗をしなかったことを認め謝罪した。

(4)ドイツのユダヤ人への差別虐殺の責任の一端はキリスト教会にもあると認め謝罪した。

仏教国の日本に住んでいると、よくキリスト教は排他的で武力を用いて宣教すると非難されます。しかしキリスト教の教えにはそんな指導は一切有りません。たまたま、キリスト教が広まった地域の民族が、主に狩猟民族で他民族に対して攻撃的な固有の文化を持っていたからと推察しています。

例えば日本人の代表的なカトリック信者の高山右近の場合を考えて見ましょう。彼は武力で成り上がってきた猛々しい戦国武将です。終いには高槻城を有する大名になりました。しかし一旦カトリックを信じた以上節を曲げません。秀吉は、「棄教しなければフィリッピンへ追放する」 と脅かします。

権力も財産も捨てて、彼は悠然と帆船に乗り込みフィリッピンへ行きます。武力で秀吉へ抵抗して討ち死にするのが武士道でしょう。それをしないで平和的な道を選びました。フィリピンでは大歓迎されたようですが、一年後に病死したと伝わっています。

欧米人は絶対に謝らない。だから日本人も外国へいったら謝ってはいけない。と、よく言われます。しかしパウロ2世はこんなに謝っているでは有りませんか?

(終わり)尚、以上は文芸春秋、2008年3月号の中のpp320-327のヨゼフ・ピタウ著「ローマ法王と昭和天皇の出会い」という記事かた引用しました。この記事はピタウさんの活き活きした話し振りが伝わって来ますので、ご一読をお勧めいたします。


夫婦の義理(4)義理で妻が白内障になる

2008年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

002 義理と人情でなんとか離婚もせずに47年。しかし、「夫婦の義理」のお陰でお互いに大変な思いをする。今日は妻が目の白内障の手術のため入院している。明日帰る予定だ。

なぜ妻が白内障になったか?小生が運転する車に一緒に乗るとき、必ず隣の席に座るのが「夫婦の義理」と47年間信じ込んでいたからである。小生は車の運転が好きで、よく家内と一緒にドライブをした。

そもそも1961年、オハイオ州で結婚式を挙げ、新婚生活が始めたのがいけない。オハイオでは夫婦が車に乗るときは必ず前席に密着して座る習慣である。当時は前席は3人座れる幅のベンチシート。奥さんは前列、真ん中の席に、夫に密着して座る習慣であった。離れて座れば離婚寸前と見られる。冗談のような本当の話だ。

妻は混れっけ無しの純粋な日本人だ。しかし、郷に入れば、郷に従えを実行する癖がある。前の席に座るのが夫婦の義理と思い込み、47年続いている。

前の左席に座るので左目が一番まぶしい強烈な光や紫外線を浴びる。フロントグラスからも強い光が右目も襲う。後ろの席に座るように何度忠告してもカタクナに前に座る。妻の座を誰かに奪われるとでも思っているような勢いで乗り込んでくる。従って左目から白内障になり、今年の3月に手術をした。順調に直ったので、6ケ月後の今日、右目も手術するために入院した。

手術をする眼科医によると左右の目を比較すると車のどの席に座って来たか分かると言う。この話は直接聞いたので本当と思っている。

妻が前席に座ると、その「夫婦の義理」を尊重しようとする態度に頭が下がり、有り難いと思う。しかし、冷房や暖房の好みが全く異なる。夏は冷やしすぎ、冬は暖房し過ぎが小生の好み。妻は反対。したがって争いになる。後ろの席に静かに座ってくれた方がよっぽど有り難い。でもそれは拒絶される。それが47年続いた。

高齢になっても男性は白内障になりにくい。どちらかと言うと女性のほうが多い。

世の中のご夫婦に声を大にして申し上げたい。「奥さんは後ろの席に静かに座っていること。そうしないと白内障の手術が待ってますよ!」

この記事、少しは役に立ったでしょうか?   (終わり)


いつまでも新鮮さを失わないブログを作る方法(補足)

2008年09月30日 | うんちく・小ネタ

9月28日掲載記事で、「いつまでも新鮮さを失わないブログを作る方法」という題で、寿命の長いブログの作り方を書きました。もちろん自分で考えた、まったく個人的な意見です。

それを読まれた方々が寿命の長いものが、短いブログより価値があると筆者が主張していると誤解された恐れを感じています。

価値判断は一切していません。例えば新鮮な生魚の賞味期限は短いです。それを燻製にしたり缶詰めにすればいつまでも食べれます。でも、活きの良いサシミはおいしいです。新鮮な野菜も健康のために重要な食物です。

このように寿命の短いブログも長いブログも両方あるからブログの世界が面白くなるのです。筆者は寿命の長短で価値の大小は決まらないと信じています。

このことを明解に書かなかったので誤解が生じたと思います。反省しています。子育て日記は他の子育て中の母親にとっては重要なブログになります。時事批判も、マスコミの視点に無い立場からする限り、絶大な価値があります。マスコミの毒を中和するという重要な効果が期待でからです。誰も規制しない本音の世界がブログの素晴らしさです。

前回の記事は舌足らずで誤解を生じたと思い、此処に補足し、ついでに鬼家雅雄さんからのコメントをご紹介します。

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おはようございます。

藤山さんの、ブログの書き方について学びました。
理想を追いかける姿に感服してはいますが、この記事を読んで変な感情を持って読まれた方も多いと思います。私はホームページは書籍、ブログは新聞と解釈しています。
トップページだけは読まれる場合はありますが、ブログは古新聞のように過去に遡って読まれることは稀だと思います。

子供の成長など、日記のように書いても書いた者にとっては立派なブログだと思っています。
ニュースなど時事の記事も後から読めば、あの当時はこんな事件もあったのかと懐かしくなることもあるでしょう。

どのようなブログにするかは個人の自由だと思っています。
そのブログの評価は読者が決めることだと思います。(アクセス数が読者ではありません)私のブログやホームページは行政批判、経済、戦犯なども書いております。投稿 : 鬼家(オニイエ)雅雄 | 2008/09/28 07:47

鬼家雅雄さん、コメント有難う御座います。
ブログは個人の日記のような目的で使っている方が多いですね。
それが悪いと主張しているわけでは有りません。それも結構ですし、素晴らしいことですね。
どのような姿勢で作ろうが個人の自由です。
ただ自分はこのような考えで作っています、ということを書いた個人的な意見です。雅雄さんからのコメントへ賛成される方が多いとおもいます。
バランスが取れてよかったと感謝しています。
有難う御座いました。
草々、藤山杜人: 投稿 藤山杜人 | 2008/09/28 08:58


ブログと雑誌・単行本に関するつぶやき

2008年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログでは写真や文章で構成される作品を不特定多数の人々へ公開している。本の出版と類似の文化活動である。

このブログの良い点は、なんと言っても、出版社や編集者抜きで誰でもどのような作品でも多くの人々へ公表出来ることにある。これはインターネット技術の発明によってはじめて可能になった。

自由と平等が民主主義の基本とするなら、それに直接的に貢献する新しい技術である。

ブログは個人の好みでいかように使っても自由である。日記や備忘録として自分だけのために書いても良い。同じ趣味の人だけの為に書いても良い。子育記録としても良い。グルメ情報の交換の目的でも良い。美しい花々や風景の写真集でも良い。あるいは商品の宣伝にも使える。

さらにブログでは読者と著者の意見の交換が自由に出来る。

ブログの内容は新聞や週刊誌、単行本、写真集、美術全集と同じに出来る。あるいは音楽や映像の提供も出来る。

最近よく見られる大型書店は、書籍のほかに音楽や映画のCDも売っている。

ブログは大型書店が売っているものと同じ内容のものを提供している。

書店に並べてあるのもは全てお金を払って購入しなければいけない。

しかし、ブログにある作品はそれを読んだり聴いたりしても全て無料である。

もう一つの特徴はブログはなんとなく短命で良い。読み捨てにしても良いような性質を持っている。一方、書籍は国会図書館で収集しているように、全てが永久保存される性質を有している。ブログと書籍を比較すると、短命と長寿命と言えるかも知れない。

これらの特徴が良いことか悪いことかは急には判断出来ません。でも、この辺にブログの有している陥穽があるのかも知れません。

ブログには何か陥穽があるという感じがします。でもそれ以上に自由と平等へ良い効果があると思います。

そんな詮索は別にして、楽しければ良いとも思います。

本でもブログでも、そしてそれを作っている人々も、いずれ土へ帰って行くのですから。

暇な老人の詰らないつぶやきです。(終わり)


外国体験のいろいろ(69)売れない本を出す出版社の存在

2008年09月29日 | 旅行記

      @売れない本を出版する書店と編集者

オランダにエルスビーアという書店がある。数多くは売れない専門書を出版している書店である。1985年にその書店の編集者が訪ねてきて小生の研究をまとめて一つの専門書にして英語で出して下さいと言う。編集者はキーバートという工学博士であった。

「私の本は数多く売れませんよ」「売れなくて結構です。世界中で2000部売れれば良いのです。エルスビーアから出る専門書は欧米の主な大学の図書館で自動的に買い上げてくれるので心配しないで結構です」「書く本の内容はどうしますか?」「全く自由に書いて下さい」「ところで貴方は工学博士ですね?日本では工学博士をとると書店の編集者にはなりません。オランダでは普通のことですか?」「うちの書店は理工系の専門書を出しているので50人ほどの理工系の博士が編集者として働いています。編集者は種々の国々で出ている多くの学術雑誌に目を通して新しい分野を開拓している研究者を探します。」

彼は続ける、「研究者は忙しいのが普通なので本を書こうとしません。何度も訪問して書きたくなるように説得したり、内容のまとめ方の相談をします」「なるほどそれで理工系の博士が必要なのですね」「良質な専門書を出版するには陰で働く人々が必要です。本の質は著者と編集者の協力と努力で出来るのです」「日本の理工系の出版社には無い発想ですね」

キーバート氏の依頼で書いた固体電気化学に関する本が出版されたのは1988年であった。それから毎年律儀に売り上げ冊数の報告と印税を送ってくる。なるほど売れない本である。出版後10年間で1000部くらいしか売れない。しかし多くの国の大学図書館で買い上げてくれたそうだ。しばらく後で自分で読み返してみた。売れないのは内容が悪かったせいもあると理解できる。このようなリスクを背負った出版社へ一生感謝している。

欧米で良質の学術書が出版される理由は売上冊数が少なくても出版する書店が有ることと、高度な専門教育を受けた編集者が陰で努力していることであると理解できた。

少数の本しか売れないリスクを背負う出版社が欧米には存在することを深く考えるべきでは無かろうか。

日本の理工系の出版社は本の売り上げ数だけを考えて出版の可否を決めている。編集者は文科系の大学を出た女性が多い。決して理工系の博士を使っていない。

日本の科学は世界的レベルと自慢する人々も多い。しかし科学研究の基盤構造の貧弱さは十年一日のように変わっていないことに注意すべきと思う。(終わり)


雨の日は晴天の日の写真を見て元気を出します

2008年09月29日 | 写真

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今年の秋は不連続線が日本の上に住み着いて、雨の日が多いですね。

今日も雨、11月半ばのような気温で寒いです。

この写真は晴天の日に霞ヶ浦へ出航しようとしている瞬間の写真です。青空の下で風をつかんで走り回ることを想像して心が躍っていました。港口を出たら、すぐにメイン・セールを渾身の力で上げようと、セール・カバーを取っています。

9月9日のことでした。雨で気分の悪い方々も少しお元気になられれば、嬉しく思います。

(終わり)


教会のミサでー「徴税人や娼婦たち」と親鸞の教え

2008年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日なのでミサへ行きました。以前に「気楽に教会へ行ってみよう!」という記事を掲載しました。そこでキリスト教のことを知らない「単なる見物人」になったつもりで見学することにしました。

入り口の机の上には聖歌集や色々なパンフレットが有りました。面倒くさいので「聖書と典礼」という数ページのパンフレットだけを取って入りました。内容はミサで読む、旧約聖書や新約聖書のある部分が抜き出してあります。

ミサが始まり、信者や司祭様が順番に読んで行きます。最後のマタイの福音書にある下のような部分を読んでいました。

「---はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちのの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、(洗者)ヨハネが来て義の(正しい)道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。---」

(徴税人は税務署の役人でなく、その徴税の下請けをし、私腹をこやした人々で、江戸時代の十手持ちが居酒屋や小売店を廻って小遣い銭をせびって嫌がられていたのに似ている。)

聞きながら、親鸞のことを思い出します。彼は言う、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

この世の卑しい職業や人間の判断する悪行はお釈迦様から見ると問題ではない。信心の深さが問題なのだという解釈も出来る。(親鸞の他力本願の考えはもっと深いようだ)

今日のミサはキリスト教と仏教の類似をいろいろ考え、またその根本的な相違を考えながら出席してきた。

キリスト教をしらない人々が見物のためにミサへ入りこんだら、聖書の朗読の文章を見て、仏教との類似をいろいろ考えると飽きない。でも、飽きたら静かに出てくれば良いのだ。ミサの式次第を神経質に追いかけたり、聖歌を一緒に歌おうなどと気を遣わない。そうするとミサが楽しくなる。

筆者はそのようにしてキリスト教へ近づいて行った。真面目に教義の勉強会などへあまり出席したことがない。気楽になることが一番で、イエス様もそれをお望みのことと信じている。(終わり)


外国体験のいろいろ(68)絶対に銃を手離さないアメリカ人

2008年09月28日 | 旅行記

@友人の娘が彼女の恋人に射殺された

個人が銃を持つ権利は憲法で決まっていると、アメリカ人はよく言う。真偽のほどは分からないが、そのように解釈される文章があるのだろう。

それにしても、あまりにも痛ましい事件だった。親しい友人の娘のことなので、心が痛む。しかし、アメリカ社会が銃を持つ自由で成立していることを理解するために書くことにした。

 オハイオに住んでいた1960年、1961年に良く遊びに来てくれたアメリカ人一家がいた。その可愛い娘が十年後に恋人の男性に射殺された。それも自宅の庭の闇の中で。男は永い付き合いで家族同様に娘の自宅に出入りしていた。銃声に、ある予感を持った父親が引き出しからピストルを取り出して飛び出していく。娘が裏庭の芝生の上に倒れている。男の姿は無い。娘が18歳になった年の夏のことだったそうである。

 それから、また10年がたった1980年にその一家の自宅に泊まる。20年前に、その娘のかわいい姿をオハイオで何度も見ているので、お悔やみの言葉を言う。しかし慰める言葉も無い。子供が親よりも先に死ぬ。それも、いずれは結婚してくれると信頼していた青年に殺される。あまりにも痛ましい。。

 「日本ではピストルの規制が厳しく、個人がピストルを持つことは無い。アメリカも日本のようにすればこんな痛ましい事件は起きなかった」

 アメリカ人の父親はおもむろに引き出しからピストルを取り出して、私に持たせ、「よく見ろ」と言う。

 「日本のことは知らないが、アメリカ社会の自由と平等はピストルを持つ自由で成り立っている。娘を殺した男は絶対に許せない。しかし、それだからと言ってアメリカ社会の銃器保持の自由を廃止するという論理が理解できない」

 「物騒なものが手元にあるから使う人が出るのでは?」

 「危険な道具を使うか否かは人間が決めること。道具が人間に使えと命令するはずが無い」

 「でもアメリカでは銃を使った犯罪が多すぎませんか?」

 「このピストルは一度も使ったことは無い。使わなくてすむように賢明な生活をすれば良いのです。銃を使用した犯罪は自由社会の代償であり、仕方のないことです」

 「銃使用の犯罪は自由社会の代償ですか!」

 娘を射殺した男は逮捕をまぬかれ、遠くの州へ逃げて行ったそうである。その数年後、男は外国から両親へ謝罪の手紙をくれたそうである。その後の消息は分からない。父親は絶対に許さないと悲しそうな顔で言う。そばで母親が涙をぬぐっている。

@軽すぎる日本のマスコミの報道姿勢

アメリカの学校などでしばしば銃の乱射事件が起き、日本の新聞では「個人の銃保持を禁止すれば良い」と同じ主張を無責任に繰り返している。虚しい空念仏を繰り返しているだけである。アメリカ人の本音を調べたり、突っ込んだ検証をしようとしないマスコミの軽さに毎回呆れている。

マスコミこそ何故、アメリカで銃規制が出来ないか、一歩でも踏み込んだ調査をして報道すべきではないだろうか?

銃に頼るアメリカ人も愚かと言えば愚かである。でもそれを笑う資格が他国の人々には有るのだろうか?(続く)


秋の曇り日の上高地

2008年09月27日 | 写真

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9月18日、曇り、時々雨。2時間30分ほど大正池から田代橋、そして河童橋まで散策しながら写真を撮る。

1959年夏に、燕岳から入り、大天井、槍、大キレット、北穂と縦走し、徳沢からおりて来て、始めて上高地の梓川を見た。

河原の泥柳や、岸辺の白樺の木を見て、この世の景色ではないと感動したのが忘れられない。昔は神河内と書いたそうだ。それ以来何度も上高地へ、景色を見るだけの目的で行った。今回ほど天気の悪いときは始めてである。

写真が美しく写らない。明神岳や穂高連峰の輝きが見えない。残念ではあるが、雨もよいの風景も良いのではないかと、思いなおして、写真を掲載することにした。(終わり)           撮影者: Mrs.藤山


いつまでも新鮮さを失わないブログを作る方法

2008年09月27日 | うんちく・小ネタ

ブログには写真や文章が掲載してあります。自然の美しい音や音楽や朗読、そして動画もあります。そのブログの新鮮さや面白さを永久に保ちたいと思う人々も居ることでしょう。筆者も自分の作るブログが数年先にもう一度見直して新鮮さが失なわないように書いているつもりです。面白さや内容の価値が減らないような作り方に努力しています。つまりブログのLife Time (寿命)を長くするように心がけています。

(1)時事問題は取り上げない。

新聞やテレビで騒がれている政治的ニュースや社会的事件に関連した写真や記事をブログにだすと、その騒ぎが収まるとともにブログの面白さや内容の価値が無くなります。時流に乗らないようにします。

(2)流行の趣味、多くの人々が趣味にしていることを話題の中心にしない。

例えば、写真は多くの人々が趣味にしています。そこで、上手な写真の撮り方や高級な写真機の情報を中心にした記事を書きたくなります。多くの人の注目を集めますが、新しいカメラが販売されると寿命がなくなります。上手な写真の撮り方はプロの先生から習うのが良く、ブログで伝授するには難しすぎます。

(3)家族の個人的なことを日記風に書くのは禁物です。

家族の日常茶飯事を、下手な文章や写真で紹介したものは、普遍的な価値が始めからありません。家族以外にとっては寿命など論外ではないでしょうか?しかし、家族の個人的なことでも書き方によっては普遍的な価値も大きく、寿命も永遠に続きます。縄文時代の家族も現在の家族にも共通な喜怒哀楽を鮮明に描き出し、家族の絆を賛歌する。そんな記事が書ければ良いのです。しかし、難しいことです。筆者は避けて通うります。

(4)一つの地味なテーマだけを根気良く追い続ける。

このようなブログは何時までも新鮮さを失いません。寿命も長くなります。でもそのような根気をお持ちの方は少ないのです。

一つのテーマだけを追っているブログの実例を挙げます。左のサイドバーの「推薦したい他のブログ」の中のブログは大体根気の良い方々のブログです。LifeTimeが長いので推薦しているのです。

鬼家さんは、自分の山荘の周りの自然の動植物の写真だけを根気良く掲載しています。時事問題は一切取り上げません。流行にも背を向けています。

もう一つ、トリフォリューム・レベンスさんのブログは徹頭徹尾、クローバー栽培の話、クローバー王国のことばかりです。新鮮で、上品でなにか香り高い感しがします。

ブログのLife Time が一番長いものは、mugi さんのブログです。兎に角、地味なテーマです。インド、中近東、イスラム文化圏の歴史や考え方を丁寧に調べ上げ、客観的な文章を続々と掲載しています。またイスラム文化圏から見たキリスト教文化圏へたいする批判の価値は大きいと思います。緻密な文章なので全てを精読はしていませんが、これこそLife Time が一番長いブログと思っています。

さて、上記の(1)から(4)だけで良いわけではありません。一番重要なことはブログで取り上げるテーマの選択です。地味なテーマなら何でも良いのではないのです。一瞬、非常に面白く感じさせ、読後に深く考えさせ、読者の生き方へ何か善い影響を与えるようなテーマが選べれば大成功です。

無価値なテーマを根気良く続けても、無味乾燥で、あまり価値がありません。

それでは自分のブログの寿命は長いのでしょうか? あるテーマを根気良く取り上げた部分と、流行に乗った軽薄な部分とが混じり合った内容になっています。信念と根気が無いのでこうなるのだと思います。一般論を堂々と言うのは易しいのですが、実行が難しいのです。その見本のようになっていて恥ずかしいです。反省しています。

駄文を労して、済みませんでした。(終わり)


北志賀高原の秋の花々

2008年09月27日 | 写真

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北志賀高原のホテルに泊まり、朝6時に目が覚める。朝の爽やかな空気に誘われてホテルの近辺を散歩した。秋の花々が咲いている。ホテルのそばなので、野草の花と人が植えた花が混じっている。

撮影日時:9月18日朝7時頃、撮影場所:長野県北志賀高原のホテル街、撮影者:Mrs.藤山


戦艦大和と農村の窮乏

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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戦艦大和;http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php

この前の掲載記事では、1970年頃までの日本の農村の台所の様子を写真で示しました。水道も冷蔵庫も電気洗濯機も無く、流しは座り流しでした。

水田農家でも、戦争中は米を全て供出し、ご飯を食べませんでした。小麦粉を練って作ったスイトンが毎日の夕食でした。そのような農村の窮乏を下敷きにし、同じ時期に排水量10万トンの巨大戦艦、大和と武蔵の2艦を作って戦ったのです。水兵も農村の若者が多かったといいます。

後になってみると狂気の時代としか思えません。でも当時は狂気でもなんでもなく、正しい考えと信じていたのです。このような日本民族の経験を子孫へ絶えることなく伝え、知的遺産として若い人々へ残したいと希望しています。(終わり)

下の写真は戦艦、金剛(出典は大和と同じ)

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驚いてはいけません、1970年頃までこんな生活をしていました

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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人間は過去を簡単に忘れます。偶然、羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、疎開先の農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました(9月13日掲載記事)。電灯はありましたが、水道も冷蔵庫も電気洗濯機も一切有りませんでした。東京都下、羽村の農家ではそんな生活が1965年頃まで続いたといいます。

その後、日本の農村では、古い農家が何時頃まで実際に使用されていたか調べて見ました。川崎市立日本民家園と東京都立江戸東京たてもの園の展示農家30棟くらいを調べ回りました。

明確に何時まで家族が住んでいたかという証拠は有りませんでしたが、移築は昭和41年や42年が大部分でした。1966年と1967年に移築されています。丁度、高度成長の始まる頃です。

地方によってはもっと後まで、このような農家に住んでいたと推定できますので、約1970年頃を境に近内的家屋へ次第に変わっていったと言えます。

建物は大体、江戸中期や後期に建てられたものです。修理を重ねて大切に使われています。

上の写真に有るように、台所の流しは座り流しです。水は甕からヒシャクで汲みます。ご飯とお汁はヘッツイで炊きます。食器棚には貧しげな器や箸が大切にしまってあります。囲炉裏では鉄瓶がいつも沸いていて、お湯を茶の代わりに飲みます。

筆者の疎開した農家では夕食は囲炉裏に大鍋をかけ、野菜とドジョウの汁へ味噌味をつけ、スイトンを入れて食べて居ました。毎日同じでした。ドジョウは田圃の用水路で捕ってきます。

当時の仙台市には電灯だけでなく、水道もガスもあり、流しは立ち流しになっていました。都会と農村の生活レベルの大きな差に、子供心にも驚き、悲しい思いをしました。

それが1945年の日本の現実でした。戦後もその状態が1970年頃まで続きました。都会と田舎の想像を絶する格差こそ高度成長期前の社会経済の大きな特徴でした。

このような社会であったことを忘れないようにと、ここに数枚の写真を掲載します。

若い人々に読んで頂いて、ますます格差の無い日本を築いて貰いたいと願いつつ筆を擱きます。(終わり) 写真撮影:9月26日午前11時頃、都立小金井公園内にて。江戸東京たてもの園のURL:http://www.tatemonoen.jp