後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

美しい白木蓮の花と面白くない話

2019年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
梅が咲き菜の花畑が一面に黄色になると、嗚呼、春が来たという嬉しい気分になります。次に咲くのはコブシと白木蓮です。少し遅れて紫紅色の木蓮も咲きます。その次はいよいよ桜が華麗に満開なります。レンギョウもユキヤナギも咲いて春たけなわの楽しい季節になります。
まだ早いのですが近所で撮った昨年の白木蓮の花の写真をお送りします。3月の中旬に咲く白木蓮です。









さて面白くない話です。
人は千差万別で本当にいろいろです。宗教に関心のある人、全く無関心な人。どちらでも良いのです。
しかしこれから書く話は宗教に関心の無い人にとっては全く面白くない話と思います。
今日の話はキリスト教が「愛の宗教」だという説明です。
この事実はキリスト教の教義や年中行事の知識を幾ら理解しても絶対に理解出来ない本質なのです。
信じて修行をすると実感出来る感性だけが頼りになるキリスト教の本質なのです。
キリスト教だけではなく、宗教の深い理解には信じて感性を働かし実感することが一番重要なのです。
佛教に「不立文字」という言葉があります。禅宗の教義を表す言葉です。文字による教義の理解のほかに、信じて修行を体験することによって仏教の真髄が理解出来るという教えです。 ですから座禅をします。修行として作務を毎日行います。
キリスト教も同じです。信じて教会に足繁く通うと「キリスト教が愛の宗教」だと実感出来るのです。実感出来ればキリスト教の真髄の「神が全ての人間を愛している」という事実が理解出来るのです。
しかし遥か星空のかなたにいる神の愛など実感出来ないのが普通です。
しかし神父さん達の愛は実感出来ます。
明治に九州の人々を愛しソーメン製造工場を私財で作ったド・ロ神父。フランスに一度も帰らず九州の土になったのです。
日本には1928年に来たチマッティ神父も日本人を愛しました。宣教活動をしながら数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。その様子を写した写真が彼の記念館にあります。
そして日露戦争が起きてもロシアに帰らず日本人の面倒を見たロシア正教のニコライ師も深く日本人を愛しました。ロシアには帰らず谷中の墓地に眠っています。
話はいきなり矮小になりますが私共も神父さまに愛されました。洗礼を受けた塚本金明神父。アメリカ人のムニ神父さま。山本量太郎神父さま。
塚本金明神父とアメリカ人のムニ神父さまのお墓は近くの府中市にあります。折にふれて墓参りに行きます。
欧米人の信者がローマ法王を「パパ!、パパ!」と呼んでいる場面をよく見ます。
肉親の父親でもないのに「パパ!」と呼ぶのは日本人としては違和感を感じることでしょう。
不愉快に感じるかも知れません。
しかし欧米人はローマ法王を実の父親のように愛しているのです。親しく思っているのです。
それが出来れば目に見えない神が人間一人一人を愛していると実感出来るのです。

キリスト教の真髄は神の愛です。
汝の隣人を愛しなさい。韓国人を愛しなさい。中国人を愛しなさい。そうすれば神が私を愛してくれるのです。
神の愛は世界に平和をもたらします。

末尾の参考資料にキリスト教の伝承行事の説明をつけておきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=============================
「教養としてのキリスト教・・・謝肉祭、灰の水曜日、四旬節そして復活祭」

欧米の人々は無宗教の人もいますが多くの人はキリスト教の影響を強く受けています。洗礼を受けて信者になっている人も多いです。
ですから欧米の文化や社会の背景にはキリスト教があると言えます。そして政治の世界も当然、キリスト教の影響を受けています。
従って欧米人と交流したり、いろいろな事業を協力しあって進めて行くためにはキリスト教のことを知っていると良いのです。ことが円滑に運ぶのです。欧米人に親しみを感じます。
そこで今日は間もなくやって来る復活祭(イースター)の前の謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節のことを簡単に説明致します。
時系列にしたがってやって来る順序は、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、そして最後の復活祭(イースター)という順序になります。
しかしそれぞれの宗教的な意味を説明するためにはこの順序を逆にして説明したほうが分かり易いのです。

復活祭 (イースター) は、十字架にかけられ死んだイエス様が3日目に蘇られたことを記念する、キリスト教の最も重要なお祝いの日です。クリスマスより重要とも言えます。
その復活祭の日の決め方は、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」です。 この決め方に従うと2017年以降の復活祭は次の通りです。2017年4月16日 2018年4月1日 2019年4月21日 2020年4月12日 2021年4月4日 2022年4月17日になります。

復活祭前に節制した生活を送る準備期間を四旬節(40日間)と呼びます。40という数字は、イエス様が荒れ野で40日間断食をされたことに由来しています。それに倣って40日の間に断食をしたり節制したりする習慣が生まれたようです。
もう少し厳密に言うと、四旬節が始まるのは その直前の水曜日 、すなはち「灰の水曜日」 からです。
「灰の水曜日」という名前は、この日に司祭が灰で信者の額に十字の印をつけることに由来します。自分が灰のように消えてなくなるはかない者であることを認め、ただ神の慈しみによって生かしていただいていることを思い起こすのです。

灰の水曜日に用いる灰は、前の年の「枝の主日」に祝別されたシュロの枝を焼いて作られます。エルサレムにイエス様が入城した時に群衆が棕櫚の葉を手に持って打ち振り、歓迎しました。シュロの枝は勝利と歓喜の象徴として、凱旋の行列に用いられるといわれますが、イエス様がこれによって人間の栄華も歓喜も、灰のように塵になる儚いものであることを認識させられるのです。

さて謝肉祭はカーニバルとも呼ばれますが、これは分かり難い祭です。
断食をしたり節食をして静かに過ごす40日の四旬節に入る前に、思いっきり飽食をして仮装をして踊り狂います。この世の楽しみを思う存分してから40日間の静かな節制生活に突入するのです。
ですから有名な南米のリオのカーニバルも「灰の水曜日」の前日にピタリと止め、静かになります。

以上はカトリックの習慣です。しかし欧米では夏のバカンス以外の休日は、多くカトリックの習慣に従って決まっています。ですから謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節、そして最後の復活祭(イースター)などは歳時記として欧米社会に定着しているのです。
それらは欧米社会の風物詩になっているのです。復活祭(イースター)はクリスマスと共に日本の俳句の季語にもなっています。

灰の水曜日が近づいて来たのでこんなことを書いてみました。

立ち読み書評、渡辺京二著「バテレンの世紀」、新潮社

2019年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
立ち読み書評とは本屋さんで立ち読みしているように本のあちこちを飛ばし読みしてその本の書評を書いたという意味です。お気軽にお読み下さい。
さて「バテレンの世紀」とは1543年の鉄砲伝来から1639年の鎖国令の完成までの約一世紀を意味します。
ポルトガルやスベインのバテレンと呼ばれていた神父達が日本国内で宣教に活動していたのです。その宣教活動と並行してポルトガルやスベインの大型帆船が往来し貿易の富をもたらしていた時代でした。
日本の権力者はこの貿易の利潤を守るために神父達を保護し宣教活動に協力していたのです。中には本物のカトリック信者になる領主も何人か出て来ました。後述する大村純忠もその一人です。
渡辺京二氏の「バテレンの世紀」は貿易の利潤がこの時代の歴史を作ったという経済的な要因を重視した本です。
この時代に関する従来の本はバテレン達の宣教の情熱と日本人の信仰を主題にした宗教に偏ったものが多かったのです。
しかしこの「バテレンの世紀」の特徴は貿易の利潤を重視した歴史書なのです。
凡庸な歴史書ではありません。この時代の文献を詳細に考察し比較、検討し客観的に書いた力作なのです。
渡辺京二氏は知の巨人です。優れた文献考証に裏打ちされた歴史学者です。あまりにも感動しましたので立ち読みでも急いで皆様へお薦めしたくなったのです。
まずこの本の内容を簡単にご紹介します。
内容は次のような題の27の章から成り立っています。
第1章 ファースト・コンタクト
第2章 ポルトガル、アフリカへ
第3章 インド洋の制覇
第4章 日本発見
第5章 ザビエルからトルレスへ
第6章 ヴィレラ、都で苦闘す
第7章 平戸から長崎へ
第8章 信長、バテレンを庇護す
第9章 豊後キリシタン王国の夢
第10章 ヴァリニャーノ入京
以下省略しますが全部で27章あります。

この各章はさらに小分けにして月刊誌の「選択」の2006年4月号から10年間にわたって連載されたのです。
本の総ページ数は478ページという膨大なものです。
膨大なのは渡辺京二氏が数多くの文献を徹底的に検討し詳細かつ精確な歴史を詳しく書いているからです。
膨大な内容の本ですが、元来、連載記事として書いたものなので何処から読んでも話が完結していて面白いのです。
自分の興味のある部分だけを拾い読みしても感動するのです。記述が客観的なので説得力があります。納得します。
例えば大村純忠が長崎をイエズス会へ寄進し、長崎がマカオのような植民地になった経緯が実に明快に説明してくれています。この本の158ページから161ページにわたる記述です。この詳しい経緯を要約すると次のようになります。
(1)1575年、天正4年、九州の戦国大名、竜造寺隆信が大村純忠領に侵入します。
大村純忠は竜造寺隆信に服従するという起請文を送り隆信の家臣になります。
(2)大村純忠は長崎港から上がる莫大な停泊料と長崎藩の年貢を隆信から守るためにイエズス会に寄進することを申し出るのです。
純忠は長崎から得られる収入は早晩、隆信に取り上げられると考え、1578年にイエズス会へ寄進する事を申し出たのです。そして自分への収入は契約に従ってイエズス会から貰うとしたのです。
(3)イエズス会のヴァリアーノは逡巡しますが結局1580年にこの申し出を受け入れます。
逡巡した理由が面白いのですが割愛します。
(4)長崎藩は1580年から1587年、天正15年までイエズス会に領有された植民地でした。
(5)長崎藩を寄進したもう一つの理由は純忠と家臣の長崎甚左衛門が神父たちからの多額の借金があったからです。

以上のように長崎藩の寄進は純忠や家臣の長崎甚左衛門たちを取り囲む経済的事情にあったのです。
そして渡辺京二氏は以上の歴史はヴァリアーノがローマに送った書簡の内容にもとずくもので、日本側の文献は一切残っていないと冷徹な指摘をしています。ヴァリアーノは宣教の成果を誇大に書き送った可能性があるのです。これは正しい指摘です。
しかし渡辺京二氏は大村純忠の篤い信仰心が長崎藩の寄進のもう一つの原因だったとは記述していないのです。つまり片手落ちなのです。
永禄6年(1563年)、純忠は家臣とともにトーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励しました。その結果、大村領内ではキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいたのです。
純忠は1587年(天正15年)坂口の居館において死去しました。

人間の行動には経済的動機だけでなく宗教やイデオロギーによる動機も重なっているのが多いのです。その意味で知の巨人、渡辺京二氏の史観がいさささか経済だけに偏り過ぎているような点が気になります。

今日の挿し絵代わりの写真は以前の五島列島で撮って来た5つの教会の写真です。いずれも明治期以後に出来た新しい教会ですが「バテレンの世紀」にその種が播かれた事実も忘れない方が良いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は井持浦天主堂です。

2番目の写真は堂崎天主堂です。

3番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。

4番目の写真は頭ケ島天主堂です。

5番目の写真は中ノ浦天主堂です。

寂しがり屋のドナルド・キーン氏逝く

2019年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ドナルド・キーン氏はアメリカ軍の為に日本人捕虜の取り調べをしていました。
戦前生まれの軍国少年だった私はそんなドナルド・キーン氏を好きではありませんでした。
その後日本に来て源氏物語をはじめ、近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで幅広く、日本文学を外国へ紹介します。英語版の万葉集も編纂しました。
しかし源氏物語も読んだことも無い私にとっては無縁の人でした。
昨日、96歳で亡くなりました。
日本の文化勲章など数々の輝かしい賞を貰った偉大な文学者でした。
文芸春秋などで何度かドナルド・キーン氏に関する記事は読んだことはあります。
すると彼の人生は何故か淋し気でした。偉大な功績の割には家族運の悪い人が居るものです。
その事が気なっていましたたので彼の家族関係について調べてみました。ドナルド・キーンさんは生涯独身で結婚歴はなかったそうです。
新聞記事によると喪主は”養子”であるキーン誠己さんが務めますとありました。
調べてみると誠己さんは浄瑠璃奏者だそうです。
誠己さんの言葉を読んで、私は嗚呼、キーンさんの晩年は本当に幸せだったと確信しました。
誠己さんの話を、http://diary.ponkichi01.com/?p=6494 から抜粋します。
・・・「2006年11月です。キーン先生の対談が東京であると聞き、アポイント無しで楽屋を訪ねました。
私からすれば、古典芸能に詳しい大先生。しかも全くの初対面です。
無謀にも指導をお願いすると、大英博物館に越後国柏崎を舞台にした古浄瑠璃の床本が残っていることを教えてもらいました。
早速、新潟の仲間と浄瑠璃の一座を旗揚げし、2009年に300年ぶりの復活公演を果たしました。
ここから交流が深まりました」
・・・
「養子縁組の前から、身の回りの世話や秘書業務をしていたので、違和感はありません。
毎日3度の食事を私が作り、夕方には一緒に買い物に出かけます。
地元の商店街では人気者で、父もお店の人との会話を楽しんでいます。
独身を通してきたせいか意外に寂しがり屋で、ずっと家庭的な生活に憧れていたようです
・・・
「6月にロンドンでの公演を控えているので、今は自宅で稽古をしてますが、父に聞くとさすがに博識で何でも教えてくれます。私にとってはいまだに大先生です。血縁関係はなくても、それ以上の存在です」・・・

養子縁組の話は、2011年夏頃、キーンさんの方から申し出たとのことです。3.11東日本大震災の後ですね。
そして、2012年3月に正式に養子縁組が成立しました。上原誠己(せいき)さんは、「キーン誠己(せいき)」という名前になったわけです。
その後は、東京都内で二人暮らしをしてきたようです。
上原誠己(せいき)さんは、新潟市西蒲区出身の浄瑠璃三味線の奏者です。

この誠己さんは父の一生は幸せだっと次のように語っています。
「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。自ら選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」

ただただキーン・ドナルドさんのご冥福をお祈りします。
梅の花の写真2枚を供えしてご冥福をお祈りします。

尚3枚目の写真は文学が好きな家内の蔵書、ドナルド・キーン著「日本文学の歴史」(全18巻)です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







今日の梅の花の写真です

2019年02月24日 | 写真
立川市の流泉寺に見事な枝垂れ梅が満開に咲いていました。
流泉寺はかなり立派なお寺で臨済宗建長寺派です。天龍山と号します。
流泉寺は、福正寺14世東林香玉和尚(寛文5年1665年寂)が開山となり、創建したといいます。
梅の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。









2000年前、イエスが神に祈った言葉が現在も

2019年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
2000年も前に、人々がイエスに質問しました。
「神に祈る時はどう言えば良いのですか?」
イエスが答えて、「自分が祈る時に、神にこういうふうに祈ります」と。
それが現在、世界中で「主の祈り」と呼ばれ以下のように唱えられています。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

キリスト教の信者はこの祈りを一番大切にしていて、ミサの中でも必ず唱えます。
特に歌ミサではメロディをつけて、https://www.youtube.com/watch?v=ubD4e_-hmG4 のように歌います。

今日のミサでも唱えて来ました。
写真はカトリック小金井教会の今日のミサの風景です。









美しい日本の教会の写真(11)清らかな日本キリスト教団の武蔵豊岡教会

2019年02月24日 | 写真
日本キリスト教団の武蔵豊岡教会は埼玉県入間市河原町8-6にあります。
 武蔵豊岡教会は、1889年7月2日、豊岡美以教会として創立し、メソヂスト信仰を継承した伝統ある教会です。 武蔵豊岡教会の旧礼拝堂は1923年(大正12年)にウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により建てられました。 以来、90年以上の長きに渡って現役の礼拝堂として毎週日曜日には礼拝が守られ、また、地域のシンボルとして親しまれました。
この教会の簡素で清らかな風景写真を、http://musashitoyooka.holy.jp/syo.htm からお借りしてお送り致します。









荒々しい野生の梅の花の風景

2019年02月23日 | 写真
梅は上手に剪定しないと気持ちよく花を楽しむことが出来ません。
それは充分知っていましたが今日見た梅は全く人の手の入っていない野生の梅でした。
その荒々しい野生の咲き方に驚いてしまいました。
稲城市の山の雑木林の写真を撮りに行ったら山の中に咲ていたのです。
考えてみると、この荒々しい野生の梅は本来の梅の姿なのです。
太古の昔から梅はこのような姿で野山に咲いていたのです。
そう考えると今日は貴重なものを見ような嬉しい気分になりました。3枚の写真をお送り致します。





ベートーヴェンの交響曲『田園』の風景を東京の郊外で探す

2019年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
以前の日本の街々には「田園」という名前の喫茶店が沢山ありました。
静かな店内に入るとベートーヴェンの交響曲、「田園」の美しい旋律が流れています。この1808年作の交響曲には作曲者自身によって『田園』という標題が明記してあったのです。
そんな若い頃の思い出があるので時々、田園風景が無性に見たくなります。
ベートーベンが愛したウイーン郊外の田園風景とは少し違いますが、東京の郊外にも田園風景が広がっている場所があるのです。
その場所は八王子市の多摩川べりの高月町の水田が広がる田園風景です。
昨日撮って来た3枚の写真と夏の写真2枚をお送りいたします。
https://www.youtube.com/watch?v=DZJHWkk0x7I の交響曲「田園」の旋律を聞きながら写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真の奥の山地は後北条氏の滝山城のあった山です。

2番目の写真の左に多摩川がゆったりと流れています。その水で稲が育つのです。

3番目の写真は高月町の山際にある古刹、圓通寺です。圓通寺は、讃海(天暦年間947-956寂)が開山となり創建したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領しました。近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。

この4番目の写真は、八王子市のHP、「高月町の田園風景」https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003409.html からお借りしました。

この5番目の写真も八王子市のHP、「高月町の田園風景」からお借りしました。
高月町の田園風景は知る人ぞ知る都内最大級の田園風景です。
水に恵まれた高月町の田園は八王子の米の生産地になっております。
春夏秋冬、季節ごとに違った景色が見られるので、私共がよく行く場所です。
なお、高月地区の高月清流米は、道の駅「八王子滝山」の地域物産販売コーナーで売っています。

それはさておき、ベートーヴェンは田園を好み、ウィーンでは郊外を歩き回り、夏には田舎に生活して大自然に親しんだそうです。
彼のスケッチ帳には「森の中で―自分は幸福だ―樹々は語る―汝を通して―おお神よ―なんと素晴らしい……」、「どの樹もみな自分に語るではないか。聖なるかな。聖なるかな。森の中は恍惚たり」などと書き付けてあったそうです。
そんな理由で、第6番は、ベートーヴェンの交響曲の中で唯一、標題が付けられている作品なのです。
さらにまた、5つの各楽章についても次のような標題が付されているのです。
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち

ベートーヴェンが第6番の5つの楽章にわざわ名前をつけていたのです。それほど彼は田園を強く愛していたのです。深く愛していたのです。
しかしベートーヴェンが眺めていた田園風景は高月町の田園風景とは少し違います。平らな水田風景ではなく牧草地の広がりでした。なだらかな起伏を持つ牧草地にはヒバリが鳴き、あちこちには森が見えます。
私も昔ドイツに住んでいたことがあるのでベートーヴェンが眺めていた田園風景を想像できます。
印象に残っている風景はなだらかな丘に広がる緑の牧草地です。中世の古い水車小屋が7つある田園風景です。
昨日は東京郊外の高月町の田園風景の写真を撮りながらベートーヴェンが眺めていた田園風景を想像していました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



共産主義の悲しい遺産、北朝鮮とゾルゲ事件

2019年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
共産主義はマルクスとエンゲルスによる1847年の『共産党宣言』以来、1990年前後のソ連の崩壊までの約150年間人類に未曽有の悲劇を齎しました。
よく共産主義はキリスト教の鬼っ子と言われます。キリスト教では絶対に救えない欧米諸国の貧民や農奴を餓死から解放するのが共産主義だったのです。
私はカトリックなので「共産主義はキリスト教の鬼っ子」という言葉を実感として理解出来ます。何故鬼っ子かという説明は今日はしません。ただスターリンが神学生だったことだけを記しておきます。

今日は共産主義の悲しい遺産である北朝鮮と、戦前の日本に派遣されたソ連の大物スパイ、ゾルゲのことを書きたいと思います。
さてトランプ大統領と金正恩委員長がいよいよ来週27日にベトナムのハノイで会談することになりました。以下はそれに関する報道です。
『トランプ大統領、北朝鮮に「危険な譲歩」』
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190220/soc1902200015-n1.html
来週27、28日に行われるドナルド・トランプ米大統領と、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長による米朝首脳会談で、「危険な譲歩」が行われかねない。トランプ氏が「北朝鮮の非核化」を急がない考えを示したのだ。北朝鮮が「核・ミサイル」を持ち続ければ、日本には安全保障上の危機が継続する。安倍晋三首相は20日、トランプ氏と日米電話首脳会談を行うが、断固として「非核化」を求めるべきだろう。・・・

北朝鮮は戦後75年間、日本の安全を脅かす隣国として怖い存在でした。
韓国と中国は日本の友好国になっていますが、北朝鮮は日本を軍事的に脅かす唯一の国なのです。
この北朝鮮は共産主義者の金日成によってソ連の援助で1948年に成立した国家です。
そして1950年にはソ連と中国の支援を得て韓国軍とアメリカ軍と熾烈な地上戦をおこないました。中国軍の人海戦術でかろうじて現在の北朝鮮の領土を守ったのです。
ですから北朝鮮は正真正銘の共産主義の産物なのです。悲しい負の遺産です。
凶悪な文化を持っているので暗夜に日本に秘かに上陸して多数の日本人を拉致したのです。
一昨年までは日本の上空を飛び越して太平洋にミサイルを撃っていた危険な国でした。
現在でも核兵器と長距離ミサイルを多数保有しているのです。
この北朝鮮の国民自身も共産主義の犠牲になって貧しい生活をしているのです。これが共産主議の悲しい現実です。

次の話はゾルゲ事件です。昨夜NHKのBS103でこの大規模なスパイ事件の番組があったのですが、北海道の地震のために番組の後半が無くなってしまったのです。そこで今日はここで後半の成り行きを書いておきます。
ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母との間に生まれました。二つの祖国を持っていたのです。
第一次大戦ではドイツの愛国者として志願兵になり3度負傷します。負傷して戦争やドイツの政策に疑問を感じ始めます。そのころロシア革命が成功します。嗚呼、共産主義こそ救いなのだとモスクワに行きます。そしてソ連の共産党員になりロシア人と結婚もします。
その彼をソ連の共産党は日本へスパイとして送り込んだのです。
彼の父はドイツ人なので日本の同盟国、ドイツの国籍を持っていたのです。
在日のドイツのオット大使の厚遇を受け東京のドイツ大使館内にスパイ活動の事務室を持っていたのです。
そして朝日新聞の記者の尾崎の友人で衆議院議員の犬養健、近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数十人の一大スパイ網を作って日本の機密情報をソ連に送っていたのです。
しかしこのスパイ網は日本の警察による1941年の一斉逮捕によって壊滅してしまったのです。
裁判の結果は以下の通りでした。
1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ判決が下されました。ゾルゲ・尾崎ら被告は大審院へ上告しますが、全て棄却され刑が確定したのです。

リヒャルト・ゾルゲ 死刑(1944年11月7日執行)
ブランコ・ド・ヴーケリッチ 無期懲役(1945年1月13日獄死)
マックス・クラウゼン 無期懲役(1945年10月9日釈放)
アンナ・クラウゼン 懲役3年(1945年10月7日釈放)
尾崎秀実 死刑(1944年11月7日執行)
宮城与徳 未決拘留中、1943年8月2日獄死
小代好信 懲役15年(1945年10月8日釈放)
田口右源太 懲役13年(1945年10月6日釈放)
水野成 懲役13年(1945年3月22日獄死)
山名正実 懲役12年(1945年10月7日釈放)
船越寿雄 懲役10年(1945年2月27日獄死)
川合貞吉 懲役10年(1945年10月10日釈放)
河村好雄 未決拘留中、1942年12月15日獄死
九津見房子 懲役8年(1945年10月8日釈放)
秋山幸治 懲役7年(1945年10月10日釈放)
北林トモ 懲役5年(1945年1月服役中危篤となり、仮釈放後の2月9日病死)
菊池八郎 懲役2年(釈放日不明)
安田徳太郎 懲役2年(執行猶予5年)
西園寺公一 懲役1年6月(執行猶予2年)
犬養健 無罪

死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったと言われています。
ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使はゾルゲの逮捕が不当なものであると抗議する声明文を出します。
しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞いたのです。
これを受けてオット大使は辞表を提出しました。しかし1942年11月まで駐日大使でした。

ゾルゲ事件に関してスターリンは無視をつづけたがフルシチョフ時代の終わり頃の1964年11月5日にソ連政府から名誉回復が行われ、「ソ連邦英雄」となりました。
ソ連崩壊後もロシア駐日大使が東京都郊外の多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっているのです。ゾルゲの功績をソ連、ロシア政府が高く評価しているのです。

共産主義が人類に与えた惨禍は星の数ほどあります。今日は最近のテレビに見た北朝鮮のこととゾルゲ事件を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は現在の北朝鮮の風景です。
写真は初沢亜利さんの次の作品からお借りしました。
『隣人。 38度線の北』、https://spice.eplus.jp/articles/188092





水ぬるむ湘南の海の写真を撮りに行く

2019年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の東京の最高気温は19度でした。4月中旬の快晴の日のようでした。
この暖かさに誘われて湘南の海の写真を撮りに行ってきました。
中央高速道路から圏央道を乗り継いで茅ケ崎海岸に出ます。そこまで1時間半のドライブです。
茅ケ崎海岸から湘南道路で大磯の海に出ました。浜辺で遊ぶ人の写真を撮り、大磯漁港で持参の昼食を摂りました。
大磯から西湘バイパスに入り、陽光に輝く海を見ながら二宮、国府津、小田原へと走ります。
あまり気分爽快なので箱根の湯本温泉まで行ってしまいました。帰路は小田原ー厚木道路で圏央道に戻って来ました。
大磯の海岸の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。









海の風景を見ながら考えました。
人間は老境になると、いろいろな言葉の深い意味が初めて理解出来るようになります。思い付くままに列挙します。

(1)「邯鄲の夢」とは自分の一生のことと実感出来る。
以下の言葉の来歴は若い頃から知っていましたが、その意味が実感できたのは80歳になってからです。
多くの恩人が次々と居なくなって行くのを見て実感するのです。
・・・邯鄲の夢は、唐の沈既済の小説『枕中記』の故事の一つです。
趙の時代に「盧生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。盧生はそこで呂翁という道士に出会い、僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を盧生に授ける。そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮上がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。・・・・
「邯鄲の夢」とは人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られています。 しかし若い頃の私はこの言葉の意味は理解出来なかったのです。現在は深く実感しています。

(2)無為に日々を送る楽しさが理解出来ようになる。
若い頃から無為に日々を送っては不幸です。しかし70歳まで熱心に働い後は無為に日々を送るほうが楽しいのです。人にもよりますが、70歳以上の老人がしゃしゃり出ては若い人の迷惑になるのです。
こんな簡単なことが実感的に理解出来るようになるには老境にいたる必要があるのです。
昔は無為に日々を送り歳を取ることを「馬齢を重ねる」と言いましたが、最近は馬に失礼なので言わなくなりました。
しかしこの言葉の深い意味は老人と賢い馬は同じように幸せだという意味なのかも知れません。少なくとも私はそのように理解しています。

(3)老境になると全ての事に感謝出来るようになる。
これは若い頃さっぱり理解出来ませんでした。
しかし現在は朝起きて太陽が輝いていると青い空に自然と感謝します。
元気に朝食を食べている妻に感謝します。妻が生きていることに感謝します。
そして外で会う全ての人に感謝します。
自分が生まれたことに連なる全ての先祖の自然な気持ちで感謝します。
私がこのようになったのは70歳を過ぎてからでしょうか。
以前は自分の為に何かしてくれた人にだけ感謝していました。
しかし老境になると無差別に全ての事に感謝するようになります。そうすると幸福感も自然に湧いてくるのです。このような状態は老境になって初めて理解出来たことです。

(4)老境になると仏教やキリスト教の教えの深さが少し理解出来るようになります。
この項目は書き出すと長くなるので改めて別稿で書いてみたいと思います。今日はここで終わりとします。

人間は老境になると、いろいろな言葉の深い意味が初めて理解出来るようになるのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ノーベル平和賞、トランプ大統領、安倍総理の怪しげな関係

2019年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ノーベル平和賞は権力者からの弾圧にも屈せずに世界へ平和をもたらすことの尊さを示してくれた人や団体に贈られるのが原則だった筈です。
そのような受賞者を思い出してみると次のようになります。
ダライ・ラマ14世、 アウンサンスーチー、ネルソン・マンデラ、 国境なき医師団、国際連合 コフィー・アナン、劉暁波、マララ・ユサフザイ、 核兵器廃絶国際キャンペーンなどなどです。
その一方、私は不思議に思いますが権力者自身も貰っています。佐藤栄作、金大中、ゴルバチェフ、ジミー・カーター、オバマ大統領、などです。
そして今回はトランプ大統領を安倍総理がノーベル平和賞に推薦したのです。
この推薦を私は何か恥ずかしい気分で受け取りました。
日本の総理大臣がそこまでしてトランプ大統領にゴマを磨る必要があるのでしょうか?
その上トランプ大統領は人種差別者です。メキシコとの国境に壁を建てています。難民を拒絶しています。
多くの国際協定から脱退してアメリカ第一主義を力づくで押し進めています。
北朝鮮を軟化させて韓国と日本へ平和をもたらしたのは事実です。しかしその手法は北朝鮮を軍事的に脅迫したのです。北朝鮮の沖に航空母艦打撃群を何度も派遣して、「鼻血作戦」で北朝鮮を空爆すると言って脅迫したのです。
北朝鮮はこの軍事的脅迫に屈服したのです。
トランプ大統領が平和的交渉で北朝鮮の心を開き韓国や日本の友好国にしたのではありません。
私はトランプ大統領が平和賞にふさわしい候補者だとは考えません。
しかるに安倍総理は恥も外聞も無く推薦したのです。
その経緯は次の報道に説明してあります。
=================================
newsweek、「トランプ大統領にノーベル平和賞を」──米政府の要請で安倍が推薦?」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/post-11717.php
2019年2月18日(月)
2人の仲だから、ノーベル平和賞に推薦することぐらいは朝飯前? 
<北朝鮮の非核化も進んでいないのに、日本の安倍首相が推薦してくれたと自画自賛>
ドナルド・トランプ米大統領が2月15日、北朝鮮との緊張緩和を理由に「安倍晋三首相からノーベル平和賞に推薦された」と、ホワイトハウスの報道陣に明かした件は、実は米政府から安倍に依頼したものだったと17日の朝日新聞が報じた。

「日本政府関係者によると、昨年6月の史上初の米朝首脳会談後、米側から『推薦してほしい』と(非公式に)打診を受けた」と、記事は言う。
「知ってるだろう?(米朝首脳会談の前は)日本の上空をロケットやミサイルが飛び交っていたことを」とトランプは言った。「それが突如として、日本は安心できるようになった。私のお陰だ」。2009年にノーベル平和賞を受賞したバラク・オバマ前米大統領には「成し遂げられなかったことだ」と述べた。

「ノーベル委員会はオバマに平和賞を与えた。オバマはホワイトハウスに来たばかりでなせ自分がノーベル賞をもらえるのか、自問自答したはずだ」。
オバマは2009年、大統領就任からわずか9カ月でノーベル平和賞を受賞。「まだ何も成し遂げていないのに」と一部から批判を浴びた。
日本にとって本当に必要なのはミサイル実験や核実験が一時的に止むことではなく、北朝鮮の核がなくなることだ。その点トランプは、米朝首脳会談で約束した通り、北朝鮮は非核化に向けた取り組みを進めており、緊張は大幅に緩和されたと繰り返し強調してきた。
だが米情報機関は、北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低いと警告する。
ダン・コーツ米国家情報長官は1月29日、上院情報特別委員会の公聴会で次のように証言した。「われわれの現在の分析では、北朝鮮は今後も大量破壊兵器の能力維持を追求し、核兵器と製造能力を完全に放棄する可能性は低い。北朝鮮の指導者たちは(金正恩)体制存続には核兵器が不可欠と見ているからだ」
「完全な非核化とは矛盾する活動が見て取れる」
ノーベル平和賞の推薦は毎年2月が締め切りで、推薦の資格を持つのは過去の受賞者や各国の閣僚、国会議員、大学教授だ。そのなかで最も推薦してくれそうなのが安倍だった、ということか。
======================================
トランプ大統領が平和賞にふさわしい候補者か否かは過去の次の平和賞受賞者一覧を見れば分かります。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ノーベル賞受賞者の一覧#ノーベル平和賞 )
1989年 - ダライ・ラマ14世
1990年 - ミハエル・ゴルバチョフ
1991年 - アウンサンスーチー
1992年 - リゴベルタ・メンチュウ
1993年 - ネルソン・マンデラ、フレデリック・デクラーク
1994年 - ヤーセル・アラファート、 シモン・ペレス、イツハク・ラビン
1995年 - パグウォッシュ会議、 ジョセフ・ロートブラット
1996年 - カルロス・ベロ、ホセ・ラモス=ホルタ
1997年 - 地雷禁止国際キャンペーン(代表として ジョディ・ウィリアムズ)
1998年 - ジョン・ヒューム、デヴィッド・トリンブル
1999年 - 国境なき医師団
2000年 - 金大中

2001年 - 国際連合、 コフィー・アナン
2002年 - ジミー・カーター
2003年 - シーリーン・エバーディー
2004年 - ワンガリ・マータイ
2005年 - 国際原子力機関、 ムハンマド・エルバラダイ
2006年 - ムハマド・ユヌス、グラミン銀行
2007年 - アル・ゴア、 気候変動に関する政府間パネル
2008年 - マルティ・アハティサーリ
2009年 - バラク・オバマ
2010年 - 劉暁波
2011年 - エレン・サーリーフ、レイマ・ボウィ、 タワックル・カルマン
2012年 - 欧州連合
2013年 - 化学兵器禁止機関
2014年 - マララ・ユサフザイ、 カイラシュ・サティーアーティ
2015年 - チュニジア国民対話カルテット
2016年 - フアン・マヌエル・サントス
2017年 - 核兵器廃絶国際キャンペーン
2018年 - デニス・ムクウェゲ、 ナーディーヤ・ムラード

安倍総理や政府関係者ははたしてこの一覧表を見ているのでしょうか? 
困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は先週裏高尾で撮った梅の花です。





土方歳三と井上源三郎 の墓の写真を撮りに行く

2019年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
土方歳三の実姉の土方のぶは家内の曾祖母です。曾祖父の佐藤彦五郎に嫁いで来ました。
彦五郎は自分の屋敷内に天然理心流の日野の道場を作ります。その道場に通っていたのが新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちだったのです。
そんな関係で現在の日野市には新選組ゆかりのものがいろいろあるのです。
先週の土曜日に日野市のあちこちを巡り新選組関連の写真を撮って来ました。
撮って来た写真に従ってご説明いたします。

1番目の写真は土方歳三の墓のある石田寺です。歳三は石だらけの田圃しかない石田の集落で生まれ1869年に34歳で亡くなりました。函館で銃弾を受けて即死でした。

2番目の写真は土方家の墓です。右の墓が歳三の墓です。親より早く死んだ親不孝者ですが立派な墓を建ててもらっています。なお歳三の墓は函館などにもあります。
この墓地の大部分は土方家の墓です。石田では皆が土方姓だったのです。

3番目の写真は土方歳三の墓から数百メートルの近くにある歳三の生家の跡地です。現在は歳三の親類が住み資料館を兼ねています。決まった曜日だけ公開しています。

4番目の写真は資料館の庭にある歳三の胸像です。

5番目の写真は家内の曾祖父の佐藤彦五郎の屋敷です。ここに天然理心流の道場を作っていたのです。近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが通っていました。彦五郎の屋敷は日野本陣として毎日公開されています。

6番目の写真は井上源三郎の墓がある宝泉寺の本堂です。井上姓の家の墓が沢山ある寺です。その中に源三郎の墓もあります。

7番目の写真は井上源三郎の慰霊碑です。人望があったそうです。鳥羽、伏見の戦いで40歳で戦死しました。40歳で死ぬとはやはり不孝者です。

8番目の写真は井上源三郎の墓です。源三郎は慶応元年(1865年)6月の組織再編成で、六番隊組長に任じられ、慶応3年(1867年)6月、新選組が幕府直参に取り立てられると、副長助勤として七十俵三人扶持を与えられました。

9番目の写真は近藤勇たちが天然理心流の奉納額をおさめた日野の八坂神社です。JR日野駅の南にあります。神社は甲州街道の面しています。

10番目の写真は近藤勇たちが納めた天然理心流の奉納額です。

さて鳥羽、伏見の戦いで敗れ江戸に帰った新選組は江戸で甲陽鎮撫隊を編成し、薩長土肥軍を甲府で迎え撃つために調布市の西光寺を出発したのです。しかし甲府の手前の勝沼でさんざん負けて敗走したのです。
この敗走から函館で戦死するまでの歳三の転戦ぶりを以下にかいつまんで整理しました。

(1)千葉、流山での敗北と近藤勇との別れ
甲州で敗北した新選組は流山で再起を図っていましたが、4月3日、新政府軍に包囲され、近藤が大久保大和と名を偽り投降します。この時、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われています。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場(現在のJR板橋駅前に墓所有り)にて斬首に処せられたのです。

(2)宇都宮城を陥落させる、しかし負傷して会津に護送
4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。
しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなったのです。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われています。

(3)庄内藩で拒絶され仙台藩で榎本武揚と合流する
全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い、歳三は援軍を求めて庄内藩に向かったのです。しかし既に新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ許されません。
歳三は庄内藩から仙台藩へ向かうことを決めます。そして仙台で、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流します。
しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏します。
そこで新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて榎本武揚とともに太江丸に乗船し、10月12日仙台藩の折浜を出航します。折浜は石巻市折浜のことです。

(4)松前藩の占領と江差までの遠征
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ入ります。
五稜郭を占領後、歳三は松前へ進軍して松前城を陥落させ、江差まで追撃したのです。
この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁します。
江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っているそうです。
江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋しました。
その後、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は陸軍奉行並となります。

(5)歳三が馬上にて銃弾を浴び戦死
しかし明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦します。
そして5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は救出の為僅かな兵を率いて出陣さいます。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾が腹部に命中し落馬、大野が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたのです。
歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、未だに場所は特定されていないようです。
榎本軍が降伏したのはその6日後のことだったのです。蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのは歳三だけでした。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」でした。

歳三の評判はいろいろです。農家の三男が故郷にとどまっていられず、京に上って暴れただけだったとか故郷では親不孝者と言う人もいます。
しかし私はただ冥福を祈るだけです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

高尾、旧甲州街道沿いの木下沢梅林の写真

2019年02月18日 | 写真
行ってみたら木下沢(こげさわ)梅林はまだまだでした。高尾の山地にあるので寒いのです。
それでも数百本ある梅の木のうち20本くらいは咲き出していました。
そう言えば、今年の「高尾梅郷梅まつり」は3月9日(土)・10日(日)ですから今日は早過ぎました。
高尾梅郷梅まつりとは旧甲州街道沿い約4.5キロメートル区間に点在する、関所梅林、天神梅林、湯の花梅林、するさし梅林、木下沢梅林、そして小仏川沿いの遊歩道梅林で開催されます。約10000本の紅白の梅が咲く予定です。
詳しくは、https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/001/p003240.html をご覧下さい。
今日撮って来た写真をお送りいたします。










菜の花が咲き子供たちが遊んでいる風景

2019年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
菜の花が沢山咲いています。菜の花に囲まれた芝生の上で子供たちが走り回って遊んでいます。春が来たと喜んでいるようです。
そんな風景を写真に撮って来ました。
昨日の三鷹市の「花と緑の広場」の写真をお送り致します。










風 景 、純銀もざいく    山 村 暮 鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
上記の詩は、「風景」は、詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)に収められている詩です。
山村暮鳥(1884-1924)は詩人で群馬県生まれです。本名は小暮八九十でした。
大正初期、詩集「三人の処女」「聖三稜玻璃」を刊行します。
さまざまな詩型の試みた特異な感覚の詩人として詩壇に登場しました。

一つだけ「聖三稜玻璃」から山村暮鳥の詩をお送りします。

青空に

青空に
魚ら泳げり。

わがためいきを
しみじみと
魚ら泳げり。

魚の鰭
ひかりを放ち

ここかしこ
さだめなく
あまた泳げり。

青空に
魚ら泳げり。

その魚ら
心をもてり。

なお「聖三稜玻璃」は山村暮鳥の第2詩集で、大正4年(1915)に出版されました。その斬新な内容や詩形で詩壇に論争を巻き起こしたそうです。現在読んでも新しい感じがします。
美しい詩が多いのですが、思い込みと自己陶酔が気になります。それは当時の流行だったのでしょうか?
菜の花の写真を撮りに行ったおかげで山村暮鳥を思い出しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)