小金井の滄浪泉園は近所なので何度も散歩しました。懐かしい場所です。
中を散策するために風景の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/musashinosanpo180/e/93ea0e5bdb215b565d7ccf4a2d1b624f です。

小金井市内は東西に走る国分寺崖線(ハケ)という10mを越える崖で坂上と坂下に大きく二分されています。この崖にはこれまでに「小金井の坂」としてアップした30近い坂道があります。
坂下はハケからの湧水や、それを集めて流れる野川の水で古くから稲作が行われ、昔から人々が住んでいました。一方坂上は関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層で農作には適していませんでしたが、江戸時代前半の玉川上水の開通に伴い、そこからの分水によって次第に開墾が進んでいきます。
坂上、坂下にそれぞれ人々が多く住むようになって、その間の交流はこの崖の坂道を通して活発に行われるようになります。そして沢山の坂道がこの崖に出来たものと思われます。
(https://koganei-kanko.jp/maron/archives/2956 )
「小金井の坂」として30近い坂道があります。これらの坂は武蔵野公園まで行く野川の北にあるハケの道から連雀通りに登って行く坂です。
今日は6つの坂の写真をお送り致します。
1番目の写真は白伝坊の坂です。
連雀通りから南に下る坂道です。途中右側に渡邉家の墓地があります。幕末頃、この墓地の墓守として住んでいた「白伝」というお坊さんに因んで名づけられた とのことです。坂を下っていくと「ハケの道」と交差し、その先は 小金井神社の東側の通路となり ます。
この白伝坊の坂は武蔵野公園へ行った帰りによく登って帰って来ます。
2番目の写真はムジナ坂です。よく下を歩きます。
この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道です。だれいうことなく、この道をムジ坂といい、暗くなると化かされるといって、怖がられ遠回りしたそうです。いわくのある坂道です。今でも周囲は木々が鬱蒼としていて、ケモノ道の雰囲気を残しています。
ムジナとはアナグマのことですが、地域によってはタヌキ、ハクビシンのことだったりもします。民話ではキツネ、タヌキと並んで人を化かす妖怪として登場したりもするようです。
3番目の写真は念仏坂です。
現在の念仏坂はフレンチレストランTERAKOYAの下にある坂を呼んでいます。
「続小金井風土記」101頁に「ここを通る人は、その寂しさから思わず念仏をとなえる、というのでこの名があるらしい。」と記述されております。
入り口に「念仏坂」と記した立派な道標が立っていて、進むと薬師道へ繋がっています。かって道ばたに墓地があったりして薄気味悪い農道だったので念仏を唱えながら通ったのが名前の由来だそうです。
今でも民家が切れて生垣や鬱蒼とした樹木そして畑地など昔を偲ばせる雰囲気もあります。
4番目の写真は質屋坂です。
JR中央線武蔵小金井駅から小金井街道を南へ歩き、 連雀通りと交差する前原坂上交差点のところで斜め右の道に入ると途中屈折しながら南へ下っている坂です。幕末に下小金井村の星野家が開いていた質屋があったので、質屋坂と呼ばれます。この坂道は 埼玉県志木から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、 この街道では最も険しい坂でした。
5番目の写真は 小金井の西端で 国分寺市との境界にもなっている くらぼね坂です。
江戸時代から小平方面と府中を結ぶ主要な道だったようで、荷を積んだ馬などが行き来していました。急坂のため馬(鞍)が転んで骨を痛めた為にこの名が付いたとも言われています。
坂を下りきって野川を渡る橋はくらおね橋(鞍尾根橋)で少し違っているのが面白いです。
6番目の写真は妙歓坂です。 小金井街道が出来る前はもっと先へ延びていました。
前原坂上交差点から 小金井街道を南に下る坂道(前原坂)の途中、左(東側)に枝分かれする金蔵院の坂との分かれ際というか付け根のところから、階段の急坂が下っています。これが妙歓(貫)坂です。
かつては農道だったそうですが、この坂の東側にある星野家墓地の庵に幕末墓守として妙歓(貫)尼という僧が住んでいたことから、こう呼ぶようになったということです。そのような跡形は今は全く見当たりませんが、墓地の東側に金蔵院があります。
以上に江戸時代からの小金井の坂道を紹介致しました。
カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景の写真をお送り致します。
今日はインターンットをとうして カトリック葛西教会のミサにあずかりました。

山梨の甲斐駒岳と鳳凰三山の麓にハイジの村がります。私の山の小屋に近いので度々よりました。花が沢山咲いているので写真をお送り致します。
桔梗屋グループでは、2006年に山梨県から委託を受け、指定管理者として「ハイジの村」(旧 山梨県立フラワーセンター)の管理運営を行なっています。
詳しくは、Top of ハイジの村 (haiji-no-mura.com) をご覧下さい。
ローテンブルグはドイツの中世のままで、16世紀の町並が現在でも残っています。
この小さな中世の町に1969年の夏に3ケ月住みこんでドイツ語を習いました。そして毎日のように街の内外を散策し、夜になると古いレストランに入り地酒のワインを飲む生活をしました。毎晩のように酔って、迷路のような路地裏を歩いていると自分が中世の人間になってこの町に暮らしているような気分になります。
その上、中世のままの建物群と道路の配置がそのまま保存してあるので当時の人々の暮らしぶりがおのずと分かったのです。
そこで中世のドイツの町と江戸時代の城下町を比較して、その大きな相違を、三つほど書いてみます。
(1)ドイツの中世の町は堅固な城壁に囲まれている。
農民も城壁の中に住んでいて朝になると城門が開き、周囲の畑に出て農作業をします。そして夕方になると農民は城壁の内側に帰って、城門が固く締められるのです。
下にその城門の写真と城壁を内側から撮った写真を示します。
1番目の写真はローテンブルグの城門の一つです。ドイツの中世のままの城門です。
次にローテンブルグの町をぐるりと囲んでいる城壁の写真を示しましょう。城壁の内側には遊歩道がついています。毎日のように散歩しては中世の暮らしぶりを偲んだものです。
2番目の写真はローテンブルグを囲んでいる城壁の内側です。城壁の内側の通路は敵を見はるための通路です。
(2)ドイツの町は石造りですが日本の建物は木造でした。
この違いは決定的でドイツでは中世の町が彼方此方に多数保存され、現在でも人々が住んでいるのです。下にその様子を示す写真を2枚掲載します。
3番目の写真はローテンブルグの町の風景です。
日本には馬篭、妻篭、奈良井宿のように宿場町は保存されていますが城下町全体が江戸時代のままに保存されているところはありません。
4番目の写真はローテンブルグの遠景と町の家々です。
さて三番目の相違を示します。
(3)ドイツでは町の中心に必ず広場があり市役所があります。日本の城下町の中心には広場がありません。
市役所には市長を兼ねた領主がいて町を統治しています。広場には毎朝、野菜や食料品を売る市場になります。
この世を統治するのが領主で、その一方、人々の宗教の面倒をみる教会が必ずあります。プロテスタントのエバンジュレッシュ教会とカトリック教会が必ずあるのがドイツの町の特徴です。
江戸時代の城下町では高台や平地に城壁で守られた城がありその殿様が町をおさめていました。しかし市民が集まる広場はありませんでした。このことは小さな違いのようですが、後の政治体制や社会制度の大きな影響を与えたと考えられています。
その土地に住みこんでみると文化がしみじみと深くわかるのです。住んでいるとその土地へ感情移入するのです。
私は現地に住んでその地の文化が理解出来たのです。
このような考えを持っている人をご紹介致します。神田外語学院の経営母体佐野学園の初代理事長佐野 公一さんと2代目の佐野 きく枝さんです。
福島の山の中に中世のイギリスの建物群を忠実に復元し公開してるのです。それは『ブリティッシュ・ヒルズ』というの建物群です。2009年の5月18日に訪れ霧の深いブリティッシュ・ヒルズを撮った写真を4枚お送りいたします。
5番目の写真はブリティッシュ・ヒルズの受付です。
6番目の写真はブリティッシュ・ヒルズの風景です。
7番目の写真は中世のイギリスの領主の館です。
ブリティッシュ・ヒルズはとにかく遠いです。東京から車で200Km位、福島県の白河市から奥羽山脈の奥深くに忽然と建物群が現れます。
中世のイギリスの時代別の建物が10棟ほどが霧にかすんでいます。本格的な時代考証にもとづいて建てられ、内部の家具調度もイギリスから運びこみました。従業員もイギリス人が混じっています。
とにかく本物のイギリスの中世が有るのです。佐野学園の初代と2代目の理事長が25年間にわたって構想を温め、イギリスの歴史を研究しました。その成果にもとづいて1995年に完成しました。
ブリティッシュヒルズには5棟の木造の家もありました。特にお土産を売っている家は高さの違う4層の部屋が、巧みに組んだ木の階段でつながっています。内部の梁や屋根裏の木組みの精巧さが素晴らしいのです。
それから赤レンガで作った領主の館もありました。そこには領主が常時住んで居て、執事を使って、領内の人々から税金を徴収していました。
領主の館の外見は威圧的で決して建築美を感じさせません。華麗な装飾も有りません。しかし一歩内部に入ると豪華です。このような封建時代が中世から産業革命まで牢固として続いたのです。
ブリティッシュヒルズの領主の館(Manor House)は200円の入場料で内部を見学できます。家具調度は17、18世紀のもの、図書館の数多くの本は皮表紙で金の装飾が施されたものが多く、出版年代は1800年から1900年の間のものです。これも全て当時の領主の家の図書室にあったものだそうです。数冊の本を開いて目次を見ながらゆっくりすると当時に帰ったようで不思議な思いをします。レストランでアフタヌーンティーを楽しみました。
語学クラスや宿泊施設も整っています。(詳しくは、http://www.british-hills.co.jp にあります)
それはさておき、今日はドイツの中世の町のローテンブルグと日本にイギリスの中世の建物群を復元したブリティッシュ・ヒルズをご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会は明治29年に建てられました。
国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。
そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。
ステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来るのです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。
この教会の歴史です。
1888(明治21)年、パリ外国宣教会のルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。
1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団が救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。
1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝われました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に同幼稚園が開園されました。
1941(昭和16)年、56年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1996(平成8)年5月6日には、献堂100周年の記念ミサが教区長・田中健一司教によってささげられました。
宮津教会は、日本に現存する2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。
主日のミサ:9:30(7~9月は於・加悦教会)
〒626-0023 京都府宮津市宮本500
TEL:0772-22-3127 FAX:0772-22-3684
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
明治維新を1968年とすると今年は150年になります。
幕末の戊辰戦争などの国内戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続き、終いには日本中が焼け野原になって敗戦になりました。この敗戦から72年、日本は平和が続き工業技術が進歩し経済も大いに成長しました。
この150年間の日本の人々の輝きと悲しみを長崎の小高い丘の上から静かに見つめて来た建物があります。
それは幕末に建てられた大浦天主堂です。戦前の昭和8年に洋風建築として初めて国宝に指定された日本の文化遺産です。フランス人が幕末の1865年に作った国宝です。そして現在は観光名所として長崎を訪れる人は必ずのように行く場所になっています。
今日はこの国宝、大浦天主堂にまつわるお話を書きたいと思います。
始まりは文久2年(1862年)の事でした。
フランスのパリ外国宣教会宣教師のフランス人神父、フューレが長崎に赴任し、司祭館と教会堂の建築準備に着手します。
この時あたかも1597年に殉教した26名(日本二十六聖人)がローマ教皇ピオ9世により聖人として認められたのです。
文久3年にはプティジャン神父が長崎に着任し、フューレを補助し、天主堂建設に尽力しはじめました。
そうして遂に元治2年(1864年)に『日本二十六聖人』へ捧げる天主堂として完成したのです。下にその当時の写真を示します。
1番目の写真は1864年に『日本二十六聖人』へ捧げられた天主堂です。
1865年1月に 献堂式を行い、「二十六聖殉教者堂」と命名されたのです。
献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列したそうです。
この天主堂が完成したのは幕末で、まだキリシタン禁教令が厳しく行なわれてた時だったのです。ところが、それにもかかわらず、献堂式のすぐ後に、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ってしまったのです。
当時としては珍しい西洋風のこの建物を「フランス寺」と呼ばれていました。そこへ浦上の隠れキリシタンたちがプティジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」とささやいて信仰告白したそうです。そして「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。
その後噂を聞いた隠れキリシタン達が五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また福岡県の今村からも来たそうです。
しかし日本の禁教令は明治5年まで厳重に執行されていたのです。居留外国人は自由にどの宗教を信じても良かったのです。
そこで幕府と明治政府は名乗り出た隠れキリシタンを逮捕し、日本の各地へ流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。
この初代の天主堂はすぐプティジャン神父たちによって建て直されて、明治12年には現在のような美しい姿になったのです。下にその写真を示します。
2番目の写真は現在の大浦天主堂です。
この天主堂は昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。
昭和20年8月9日の 長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。
その後、昭和27年に修理が完了します。
そして昭和28年に文化財保護法に基づき国宝に指定されました。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
それらを設計したド・ロ神父のこともご紹介したいと思います。
この神父さまは現在も長崎で販売されているドロ様・ソーメンを作ったことで有名です。それだけではなく明治初期に貧困にあえいでいた人々をフランスの自分の財産を使って助けたのです。慈愛に満ちた神父さんでした。
ですから長崎地方では信者以外の人々も神父のことを『ドロ様』と呼んで、記念館まで作っているのです。
下にこのドロさまが設計した大浦天主堂の脇にある神学校の写真を示します。
3番目の写真は大浦天主堂の脇にある神学校です。キリシタン資料が展示してあります。
そして下の写真はドロさまが設計した出津教会の写真です。
4番目の写真はドロさまが設計した出津教会です。
最後の写真はド・ロ神父記念館です。
5番目の写真はド・ロ神父記念館です。
さて幕末から現在に至るまで数多くの宣教師、牧師、神父が外国からやって来ました。
しかし日本人によって記念館を建ててもらった人は非常に少ないのです。ドロさまが九州の人々に如何に慕われていたかが分かります。
そこで以下にドロ神父に関する記録を、http://seseragi-sc.jp/xe/3512 から抜粋して以下に示します。
・・・彼は宣教師として1868年に来日してから1914年に亡くなるまで一度も故郷に帰ることなく、私財をなげうって日本、特に長崎の貧しい人々のために自分を捧げた司祭である。
来日して12年後、ド・ロ神父は長崎の出津に赴任する。出津教会の主任をしながら彼がまず手を付けたのが福祉事業だった。授産施設「救助院」は、遭難漁民の寡婦ら貧しい婦女子に機織りや食品製造などの技術を教え、自力で生きて行く道を開けるよう援助する施設として開いたものである。農業にも通じていたド・ロ神父は、そうめんなどの材料となる小麦の種子をフランスから取り寄せて栽培し、水車小屋を造って製粉した。落花生油を使った独特の製法で、油となる落花生も地元で栽培した。こうして作られたそうめんは「ド・ロさまそうめん」の名で今も親しまれている。
まさに彼は、学んだ多くの技術を、日本の風土に合わせて土着させる能力を頂き、それを生涯かけて惜しまず使った人と言えるだろう。ド・ロ神父は教会、救助院、保育所、農漁業の改良、開墾、診療所、墓地と、人間の一生に必要なあらゆる施設を作り、神と人への愛を表した。
長崎県出津に彼の記念館が建てられており、神と共に、また人と共に生涯を過ごしたド・ロ神父の姿を今も伝えている。・・・・
今日は国宝、大浦天主堂をご紹介し、そこに現れた潜伏キリシタンの話を書きました。ド・ロ神父の活躍もご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





海岸寺
この寺は、享保年間にこの地一帯に移住した農民の、寺院建立の熱心な要望によってできたものである。
この地はもともと江戸南泉寺の抱地で、宝林庵という小庵があった。南泉寺の弟子円備、済松寺弟子禅育らはこの農民の要望をいれ、元文元年(1736)10月、寺社奉行の許可を得て、武蔵国秩父郡三峰山境内にあった本明宗全禅師開創の越中(富山県)国泰寺の末寺である海岸寺の末寺である海岸寺の引寺に成功した。
しかし堂宇が建立できなかったので、元文4年(1739)江戸済松寺の末寺となり、同寺6世石慧堅禅師を中興開山として、瑞雲山海岸寺の礎を確立し、円備首座が堂宇を建立した。
現在の本堂は、昭和33年(1958)に建替えられたもので木造瓦葺である。
また山門は170〜180年前の建立で、渡り大工の作といわれている。鎌倉様式が取り入れられ、面積は8.3平方メートル、四脚門で天井には竜の絵がほりこまれていて、近隣の市町村でも珍しい貴重な建築物である。(小平市教育委員会・小平郷土研究会掲示より)





