後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

核兵器を増強するトランプ大統領、それを支援する日本

2017年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「森友学園問題と日本は正しかったという思想の蔓延」という記事を掲載しました。
森友学園では明治23年に発布された教育勅語を教えていますが、それを安倍総理の奥さんが支援していたのです。日本の社会が戦前へ復帰する傾向が蔓延しているという趣旨の記事でした。
それと関連があるのか分かりませんが、日本は核兵器を増強しようとするトランプ大統領を支援しているのです。
最近、国連で始まった「核兵器禁止条約」の交渉に、アメリカの要請で、日本は参加しないことを宣言したのです。
 当然、長崎や広島の関係者は失望したという声明を発表しました。
従来、核兵器廃絶運動をしてきた人々にとっては驚天動地の出来事だと思います。
今日はこの問題を考えてみようと思います。

核兵器を法的に禁ずる「核兵器禁止条約」を交渉する国連本部の会議が3月27日に始まりました。これに対してトランプ政権は参加しないと表明していました。
日本政府代表で演説した高見沢大使は、「核兵器国の理解や関与が得られないことは明らかだ。残念ながら、交渉会議に建設的かつ誠実に参加することは困難」と述べ、交渉への不参加を宣言したのです。
日本が参加しないのはアメリカの要請だと安倍政権は述べています。参加しない国々はアメリカの他、英仏露中、北朝鮮などの核兵器保有国です。カナダも豪州も不参加です。

核兵器禁止条約は、核兵器の全廃と根絶を目的として起草された国際条約案です。
それは核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止をし、さらに廃絶をするという内容の国際条約です。
2007年4月、コスタリカとマレーシア両政府の共同提案として正式に国連に提出された条約案ですが、現在、決議もされていません。当然、未発効です。

国連本部の会議でこれが決定されれば困るのはアメリカ、英仏露中印、北朝鮮などの核兵器保有国です。
たとえ強制力の無い国際条約といえども国際世論は核兵器保有国を非難します。
非難されてもトランプ大統領は核兵器を増強します。なにせこの条約の討議と採決に参加していないのですから、この条約を履行する義務は一切ありません。

このアメリカの核兵器増強を安倍政権は願っているのでしょうか?
アメリカの核の傘に守られている日本の安全にとっては現実的にはその方が良いのです。

しかし核兵器廃絶は世界で唯一の被爆国の日本の悲願でした。全国の多くの市町村が「核兵器廃絶の宣言」を決定し、その事を看板に書いて掲げてきました。
現実と理想は違うと言いますが、こんなにあっさりと日本人の悲願を無視しても良いものでしょうか?
もし安倍政権が核兵器を増強するトランプ大統領を支援し、国連の「核兵器禁止条約」の交渉に参加しないのなら、もっともっと丁寧な説明を国民に対して行うべきではないでしょうか?

それを日本政府代表の高見沢大使の不参加の宣言だけで国民への説明を一切しない態度は問題ではないでしょうか?
今日の主張は日本が被爆国として今回の国連の「核兵器禁止条約」の交渉に参加すべきだったというものです。
たとえその条約が強制力が無いにしても、理想論は大切にしておくべきと思います。
核兵器保有国が不参加なのは当然でしょう。しかし核兵器を保有していない日本がそこまでアメリカの言いなりにならなくても良いのではないでしょうか?

皆様のご意見をお待ちしています。

今日の挿し絵代わりの写真は京王フローラルガーデンANGE(http://www.keio-ange.info/ )で先週撮って来た春の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「野川に淋し気に咲く桜」

2017年03月30日 | 写真
野川とは国分寺崖線の下の幾つもの泉の水を集めて流れる小さな川です。昔の人が名前を考えるのが面倒なので「野川」と呼ぶことにしました。
その野川に差し掛かる桜の枝が毎年、淋し気に咲きます。
小金井公園の桜は豪華絢爛と咲きますが、野川の桜は控え目に淋しく咲きます。そんな風情も良いと思い先ほど撮って来ました。



「今年、はじめての満開の桜を見つけました!」

2017年03月30日 | 写真
昨日から小金井公園や多摩墓地など桜が早く咲いていそうな所を車でうろうろ探していました。
今日は ちらし寿司を持参して小金井公園の中の江戸・東京建物園に入場しました。
桜の花の下のテーブルで家内と一緒に昼食にしました。
食後、旧三井邸の庭に満開の枝垂れ桜を見つけました。
暖かい春の陽射しを受けて櫻花が豊かに咲いています。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









森友学園問題と日本は正しかったという思想の蔓延

2017年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
明治天皇の教育勅語を幼稚園で暗記させている森友学園の理事長や理事長夫人と、現在の日本の総理大臣の妻が親しく交流していたのです。その上、総理の妻が理事長に100万円の寄付金を渡したという話も出ています。
そして同じく現在の防衛大臣が森友学園の顧問弁護士をしていたのです。
森友学園の理事長が国会に呼ばれて厳しく追及されたのは総理の妻が渡した100万円のことと、森友学園へ格安で売った国有地のことの二つでした。どちらも金銭にかかわる問題です。
しかし森友学園問題にはもう一つの大きな問題があると私は考えています。

それは総理大臣の妻や防衛大臣が、戦前の教育勅語を教えている森友学園の経営者夫妻に親しかったという事実です。
この事実の背景には明治維新以後の日本の戦争は全て正しかったという思想があると考えられます。日本はロシアの侵略から日本を守るためにやむなく日露戦争をしたのです。太平洋戦争もアメリカの経済封鎖を受け、日本は戦争に突入したのです。すべては自衛のための戦争です。太平洋戦争には敗れましたが、アジアの植民地を解放したのです。そして戦後70年、日本は世界第3位の経済大国になり、世界の首脳会議G7のメンバーの地位についています。平和で住みよい国として外国からも尊敬されています。
ですから明治維新以後の日本政府の政策は大局的には正しかったのです。そして日本のはじめた戦争は全て防衛戦争で正しいものと言われています。

こんな思想が最近日本の社会に蔓延しているような雰囲気があります。その雰囲気の中で森友学園の幼稚園で明治23年発布の教育勅語を教えていてもあまり問題にしていません。
日本は自由な国ですから、誰がどんな教育をしていようが、法律に違反していない限り良いのです。
ですから今日の主張はこの事の善悪を論ずるのではありません。私はは皆様にもう一度、明治時代の教育勅語を読んで、内容が本当に将来の日本にとって良いものいか、あるいは悪いものなのか考えて頂きたいと思うだけです。

70歳以上の高齢者はご存知と思いますが、この勅語の冒頭部分は次のようなものです。
朕(ちん)󠄁惟フニ(おもうに)我カ(わが)皇祖皇宗(こうそ こうそう)國ヲ(くにを)肇󠄁ムルコト(はじむること)宏遠󠄁ニ(こうえんに)德ヲ樹ツルコト(たつること)深厚ナリ(しんこうなり)
我カ(わが)臣民(しんみん)克ク(よく)忠ニ(ちゅうに)克ク(よく)孝ニ(こうに)億兆(おくちょう)心ヲ一ニシテ(しんをいつにして)世世(よよ)厥ノ(その)美ヲ(びを)濟セルハ(なせるは)此レ(これ)我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ敎育ノ淵源(えんげん)亦(また)實ニ(じつに)此ニ(ここに)存ス(ぞんす)
爾(なんじ)臣民(しんみん)父母ニ孝ニ(ふぼに こうに)兄弟ニ友ニ(けいていに ゆうに)、夫婦󠄁相和シ(ふうふ あいわし)朋友相信シ(ほうゆう あいしんじ)・・・中略・・・

そして次のように続くのです。・・・常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ(つねにこっけんをじゅうし こくほうにしたがい)一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ(いったんかんきゅうあれば ぎゆうにほうじ)以テ(もって)天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(てんじょうむがいのこううんをふよくすべし)・・・以下省略。

この内容の賛否の意見は次のようなものです。
批判的評価;
(1)軍人の規律を説く軍人勅諭と同列のものであり、軍事教育や軍国主義につながる、という意見です。
GHQによる占領統治時代に連合国軍によって教育勅語が廃止されたのは、この理由(軍国主義につながる)からといわれています。
(2)根本的理念が「主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。」という理由で『教育勅語等排除に関する決議』が、1948年に衆議院によって決議されました。

一方、肯定的な評価をする人の意見は以下のようなものです。
(1)現代語訳での12の徳目は、日本の伝統的道徳観が込められており、一種の模範となるものがあってもいいのではないかという意見なのです。
(2)多くの国や宗教で古くから普遍的にある道徳を、明治当時の日本の国情に合わせて記述したものにすぎないという意見もあります。

森友学園の騒動には金銭の問題の他に、背景に明治維新以後の日本は正しかったという思想があったのではないでしょうか?
日本の行なった日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争はすべて自衛のための正しい戦争だったという考えも次第に広がっているのも関係していないでしょうか?
このような風潮も相俟って安倍政権の支持率が高いのでしょうか?
さて皆様のご意見は如何でしょうか?ご意見をお待ちしています。

今日の挿し絵代わりの写真は京王フローラルガーデンANGE(http://www.keio-ange.info/ )で先週撮って来た春の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










===参考資料;教育勅語全文  口語訳 ======================、
天皇である私が思うに、我が天皇家の祖先が、国を始めてから、大きく広く道徳を樹立すること、深淵である。
私の臣民たちよ、よく忠義に、よく孝行に、億兆が心をひとつにして、世世、その美をなせるのは、これは私の国体の「精華」(読み「せいか」、意味: 真髄、優れた点)であり、教育の根源は、まさに、ここにある。
あなたたち臣民は、父母をうやまいなさい、兄弟は友(仲良く?)にしなさい、夫婦は相和(?)しなさい、人に対してはうやうやしく、自分に対しては慎みぶかく振る舞いなさい、、博愛を衆に及ぼしなさい、学問を修めて業(仕事のこと?)を習いなさい、もって智能(知恵と能力?)を啓発しなさい、德器(道徳? 人格?)を成就しなさい、進んで公益を広めて世務(「せむ」または「せいむ」と読む、世の中のつとめ)を開きなさい、いつも国憲を重視して国法に従いなさい、いったん緩急あれば義勇をもって公のために働き、天地のきわまりがないように(※ 永遠に?)「皇運」(皇室の運命?)を扶翼(助ける?)するべきである。
このように、ひとり、天皇である私が忠義と良識の臣民であるだけでは不十分であり、 あなたたちが祖先の遺風(※ 「威風」ではなく「遺風」に注意)を懸賞するべきである。
この道は、まさに、わが天皇家の遺訓であり、子孫である臣民も一緒に遵守(じゅんしゅ)すべき事であり(※ 「順守」ではなく「遵守」であることに注意)、古今を通じて、間違いはなく(※ つまり「正しい」と主張している)、(国の?)内外を問わず、もとることはない(「もとる」とは、道徳から外れるという意味。つまり、「もとらない」=道徳的に正しい)。
(天皇である)私と、その臣民であるあなた達とで、一緒に、拳々服膺(「けんけんふくよう」)して(※ 「拳々服膺」で1つの四字熟語、 意味は「しっかりと心に刻んで忘れない」という意味。元ネタは漢文『中庸』)、皆でその徳をひとつにする事を懇願する。
(https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8B%85%E8%AA%9E より)

「今年はじめてのソメイヨシノの花の写真」

2017年03月29日 | 写真
私どもの住んでいる東京都小金井市で毎年一番最初に咲くソメイヨシノは多摩墓地の中にある一本の桜の木です。
今年もそろそろ咲き出した頃と思い先程行きました。まだ3分咲き位でした。しかし下の方の枝はかなり咲いています。その写真をお送り致します。
都立小金井公園にも行きましたがまだ全然咲いていませんでした。
4月1日の土曜日から始まる小金井市さくら祭には間に合わないようで心配です。どうもここ数日、寒い日が続いていて開花が遅れているようです。
去年の今日は、「満開の桜を見ながらイタリアンのピエトロで食事を楽しむ」という記事を掲載していて既に満開でした。
しかし少し待てば必ず豪華絢爛と満開になると思います。
皆様のお住まいの土地の桜は咲いたでしょうか?





モクレンの咲き乱れる花園

2017年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の新宿から八王子を結ぶ京王電鉄が沿線の調布に1956年に作った菖蒲園を京王百花苑と呼んでいました。それが1997年に廃園になって新しくヨーロッパ風の花園に生まれ変わりました。京王フローラルガーデン アンジュと名前を変えて2002年に開園したのです。
この花園はヨーロッパの花園のように花々を植えてあります。ここを訪れると何となく懐かしいヨーロッパの雰囲気が感じられるのです。
四季折々、季節の花が咲いているのでよく行く場所です。この季節は色とりどりのモクレンが咲き乱れています。
丁度、梅が散って、まだ桜の咲かない時期なので毎年、何度もモクレンの花々を楽しみに行くところです。

入り口の近くにある水路にかかった橋を渡ると、いろいろなモクレンの咲くマグノリア・ガーデンが広がっています。
モクレンの原産地は中国の雲南地方や四川地方で、中国のモクレンは紫やピンクの色がついています。日本でも昔のモクレンは紫系の色がついていましたが近年は白いモクレン(ハクモクレン)が好まれ普及しています。
モクレンのことは西洋ではマグノリアと言いますが、西洋でマグノリアというものはタイサンボク、コブシ、モクレンの総称です。

この花園はヨーロッパ風に作ってあるのでヨーロッパ種のモクレンを集めて植えてあり、「マグノリア・ガーデン」と呼んでいます。
マグノリアは品種よって開花期に違いがあります。3月中旬~4月上旬までは白やピンク系が咲き、4月中旬~4月下旬は黄色系が咲きます。日本で広く植えてあるハクモクレンもあります。

それでは先週撮って来たモクレンの花々の写真をお送り致します。いろいろなモクレンの花をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













=====参考資料==========================
(1)京王フローラルガーデンANGE(http://www.keio-ange.info/ )は、東京都調布市多摩川にある植物園である。京王グループの京王グリーンサービスが経営を行っている。ここでは、本園の前身である京王百花苑についても記す。
ANGEはAmenity Natural Garden of Europeから。
京王百花苑
花菖蒲が500種以上育てられており、「花菖蒲日本一」と言われていた。苑内は、日本情緒漂う庭園であった。
また、苑内では流しそうめんが名物であり、人気であった。
歴史
1956年6月 京王帝都電鉄(当時)京王多摩川駅前に、「東京菖蒲苑」として開園。
1961年4月 「京王百花苑」に改称。
1993年4月1日 入場者数の激減から、「休苑」となる。
1997年 京王百花苑が、「廃苑」となる。
2002年3月29日 「京王フローラルガーデン『アンジェ』」として、園内を大幅に改造して、開園。

(2)モクレン:
原産地
中国南西部(雲南省、四川省)が原産地である。英語圏に紹介された際に、Japanese magnolia と呼ばれたため、日本が原産国だと誤解されている場合がある。
形態
小型で樹高3-5m程度。葉は互生で、広卵型、長さ8-10cm、先は尖る。花期は春(4-5月頃)。花は濃い紅色から桃色で、花弁は6枚、がくは3枚、雄しべと雌しべは多数が螺旋状につく。上品な強い芳香を放つ。ハクモクレンとは異なり、花びらは舌状で長い。実は赤い。
利用
庭木、公園樹として中国、日本だけでなく、北米やヨーロッパ諸国で広く栽培されている。移植は困難であり、株分けによって殖やす。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では国花に指定されている。

(3)マグノリアとは:
モクレン属 (Magnolia)。モクレン、コブシ、タイサンボクなどを含む。17世紀 - 18世紀のフランスの植物学者、ピエール・マニョル (Pierre Magnol) から名付けられた。

(4)近縁種のハクモクレンとは;
ハクモクレンの大木。
ハクモクレン(白木蓮、学名:Magnolia heptapeta、シノニム:Magnolia denudata)はモクレンの一種で白色の花をつける。しばしば、他のモクレンの種と混同され、そう呼ばれることがある。しかし厳密に言うと植物学的には種が異なる。
モクレン属の中では大型の種類で樹高は10-15m程度まで成長する、春、葉に先立って大形で白色の花が開く。

東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その二

2017年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
多くの人が田舎暮らしをしたいという夢を持っています。しかし田舎に移住する人は少なく田舎は過疎になる所が多いのは皆様よくご承知のことでしょう。私の山小屋のある甲斐駒岳の麓の北杜市の山寄りの集落は過疎化しています。
過疎の集落は高齢者ばかりで、子供たちがいないのです。昨日、「離島の元気な子供たちの写真をお送りします」と題して大分県の大入島という過疎の島の元気な子供達の写真をお送りしました。こんな明るい子供達が私の山小屋の近所にいたら淋しさも吹き飛ぶだろうと思い、その写真を掲載したのです。
子供たちの踊りの指導をしているのは昔、ヨットのことでお世話になった方の家族の方です。東京から九州の佐伯市の大入島(おおにゅうじま)に移住し、地域の活性化に努力しています。
移住からもう6年になります。
彼の移住した勇気と、地元へ貢献しようとしている姿に感動したので昨日、「東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その一」という記事を掲載しました。
今日はその続編を書きたいと思います。

佐伯市は佐伯藩の城下町として栄えた町です。「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われたとうり豊富な海の幸と山の幸に恵まれていました。人口は7万人くらいですが、現在、佐伯市の島々は過疎化の問題が深刻です。
大入島もその一つで以前は3000人以上も住民がいましたが現在は600人位に減って高齢者ばかりです。この島は佐伯港はら700m、フェリーで7分、1日11便あります。面積は5.66平方キロメートルで、瓢箪型をしたかなり大きな島で、小学校と中学校もあります。
その島へ大入島太郎さんが6年前に移住し民宿を経営しているのです。
単に民宿を経営しているだけではありません。
昨日の記事でご紹介したように2013年に、大入島で子供たちと共に地域の活性化を図るためにダンスチーム 「踊り子IN大入島」を結成したのです。
それに関連するように島に住んでいる人々全員が明るく踊るイベントもありました。
その様子を記録した動画、https://youtu.be/EP81uR42noA を是非ご覧ください。
島を活性化するのは観光客誘致だけではありません。まず島民自身が明るい気持ちで暮らすことが一番重要なことです。 島の人はみな明るく楽しげではありませんか?

さらに大入島太郎さんはこの島を全国の人に知って貰うために、田舎暮らしを体験するプログラムも作ったのです。ヨットのクルーズと組み合わせて露天風呂や塩のお風呂や魚釣りへの案内しています。

民宿、「花水木」を経営しながら田舎暮らしを希望している人々の相談にも乗っています。
田舎暮らしで一番重要なことは自分の目的を明快に決めて、その目的に沿った注意深い準備が必要なそうです。
「子供を良い環境で育てたい」「定年退職後に、のんびり田舎暮らしをしたい」「田舎に住んで都会には無い、心が豊かな生活を送りたい」「田舎で有機農業を始めたい」と何となく考える人は多いようです。しかしそのような弱い決心では失敗します。
まずは、田舎暮らしで何がしたいのか、どういう生活を送りたいのかを明確に決めましょう。
目的を限定し、その為の田舎暮らしのイメージを明確にすることです。その目的に合致した田舎暮らしが実現しそうな土地を探すことです。

過疎化に悩む集落を抱えている佐伯市も都会からの移住者を歓迎しています。その詳細は、
佐伯市移住情報、http://www.city.saiki.lg.jp/sougoseisaku/ をご覧下さい。
佐伯市は、この公式ホームページを通して、佐伯市の魅力や空き家等の情報を発信するとともに空き家への見学案内等も行っています。
気軽に電話などでも相談に乗っています。連絡先は、佐伯市 地域振興課 移住・定住推進係(TEL: 0972-22-3033やE-mail:saiki-eiju@city.saiki.lg.jp)です。

さて話を戻して、大入島太郎さの民宿のご紹介をいたします。民宿、「花水木」のHPから抜粋します。 
・・・私はここ大分県の離島、大入島で民宿を営んでおります。民宿に泊まっていただいたお客様に島の魅力を知ってもらったり、釣りにご案内するために船舶を所有しております。
大分県だけでなく、田舎暮らしや離島に移住を考えている方に、移住の前に実際に仕事や暮らしを体験できる場所を作りました。
例えば仕事としての民泊の集客方法や運営、漁師としての申請やその実際、船の操船方法(免許取得の方法)、野菜作りや米作り等をお教えします。
花水木では島を暮らす旅をお手伝いいたします。是非一度お越しください。お待ちしています・・・

最後に民宿、「花水木」のご案内をお送り致します。この民宿のURLは、http://oita-yado.com/ です。
住所は大分県 佐伯市久保浦877(電話番号050-5532-2887)で、島への船の乗場はJR佐伯駅~大入島観光フェリー乗り場です。
なお2017年4 月まで改装の為、休業中です。

田舎に移住し自然な環境を楽しむ人も多いものです。しかし大入島太郎さんのように家族ぐるみで現地の人々へダンスを教えたり、その場所の宣伝をしたりする人は珍しいので少し詳しくご紹介致しました。

1番目の写真は大入島の写真です。
2番目の写真は民宿、花水木の近所の海の風景です。
3番目の写真は民宿、花水木の所有するヨットです。花水木は全国からやって来るヨットも大歓迎し係留も受けています。
4番目の写真は佐伯市の都会からの移住者向けのHPの表紙の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







「離島の元気な子供たちの写真をお送りします」

2017年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
大分県の佐伯市の大入島という過疎化しつつある島でも子供たは元気です。今日は花の写真の代わりに離島の子供の写真をお送りします。写真の出典は、http://odoriko.wixsite.com/index です。
「踊り子IN大入島」というホームページからです。
踊りの塾の指導者は4番目の写真ですが、大熊 亜里紗という人です。
2013年に、大入島で子供たちと共に地域の活性化を図るためにダンスチーム 「踊り子IN大入島」 を結成しました。








東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その一

2017年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
7年ほど前まで東京であるヨットクラブのオーナーであった人が九州の離島、大入島(おおにゅうじま)に移住し、地域の活性化に努力しています。
私はこのヨットクラブには8年程前に大変お世話になりました。倶楽部の大型ヨットに何度も乗せて頂き、豪華なヨットの世界を初めて楽しむことが出来ました。
その後、このヨットクラブとは疎遠になっていました。

ところが突然、Face Book で、大入島(おおにゅうじま)太郎さんという方からメッセージを貰いました。
東京都心から大分県の離島に移り住んで6年目、この大入島(おおにゅうじま)での生活を楽しんでいますという内容でした。
そして佐伯市の大入島の活性化に努力しているようです。
そこで今日は彼の運営していたヨットクラブの紹介と私の参加した帆走の写真をご紹介したいと思います。
そして続編では東京から離れ島への移住したことや地域活性化に尽力している様子をご紹介したいと思います。

そのあるヨットクラブは多くの人に豪華なモーターボートやヨットを楽しんで貰うという目的で作った倶楽部でした。
その特徴は格安の料金で豪華なヨットに乗れることでした。
例えば保険料と燃料代として1日、3000円だけ支払えば、豪華なヨットで東京湾、相模湾、駿河湾、伊豆七島の海でのセイリングが楽しめるのです。この倶楽部が使用している船は15隻もありました。
私は、このヨットクラブの帆走に参加し東京湾と駿河湾で数回の帆走を経験しました。
そしてこのヨットクラブの在り方に深い感動を覚えたのです。理由を書いてみます。
(1)帆走へ参加する場合の費用が非常に少なくて良い。
(2)帆走の参加は昼間だけで良いです。ヨットに泊まりたくなければ電車で帰宅すれば良いのです。(例えば、東京の浜離宮脇の係留地を出発して、三崎港、稲取、下田、妻良、沼津と何泊かしながら帆走する場合、どの区間だけでも乗船出来るのです)
(3)ヨットの経験がなくてもお客として乗せてくれます。もちろん操船を教えて下さいと言うと同乗者が親切に教えてくれます。他に、もちろん帆走訓練のコースが初級、上級とレベル別にあります。
このヨットクラブの素晴らしさはオーナーが豪華なモーターボートやヨットを提供し、ヨットの奥深い面白さを多くの人々に味わってもらいたいという目的で運営されていることです。

奥深いヨットの楽しみを理解するためにはいろいろな配慮が必要なのです。小さなディンギーから小型クルーザーヨット、そして大型豪華ヨットとすべてを経験出来るように各種のヨットを提供していたのです。
その上船の取扱やチームワークの重要性を教える毛利さんという指導者も倶楽部専属としていたのです。
その倶楽部で私は毛利さんと親しくなり、いろいろな指導を受けました。
毛利さんクラブの帆走技術の師匠のような役割をしてしていたのです。
このヨットクラブには、ヨットの未経験者から自分で大型ヨットを所有してる人々まで様々な人々が集まってきました。最盛期には会員は164名もいたそうです。
写真に私が乗せて貰ったババリア39フィートとハンスクリスチャン43フィートの写真を数枚掲載いたします。
1番目の写真は2009年4月に千葉県の保田港に係留してあったハンスクリスチャン43フィートの写真です。初めてお会いした毛利さんと一夕デッキの上で遺書に飲みながら談笑したことが忘れられません。
2番目の写真は2009年5月に駿河湾のある港に係留してあったハンスクリスチャン43です。
3番目の写真は毛利さんを艇長として駿河湾を帆走中のハンスクリスチャン43です。
4番目の写真は浜離宮の入り口の築地運河に係留されていたドイツのババリア39です。
5番目の写真はババリア39上から見た東京の街です。この時は大入島さんが艇長でした。
6番目の写真は東京湾を縦断したときの写真です。三浦半島の突端の三崎港から浜離宮の傍の築地運河までの帆走でした。
7番目の写真は築地運河の係留地の写真です。写真の左の森が浜離宮で突き当り右方向は銀座です。こんな東京の真ん中にヨットの係留地があるのが不思議です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













人種差別も宗教差別もしなかったマザーテレサの人間愛

2017年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教を信じている日本人はお釈迦さまの生まれたインドに親近感を持っています。中国の玄奘三蔵法師が教典を持って来たので中国人も尊敬しています。そして仏教に帰依していた朝鮮の人にも親しみを感じます。ですから仏教を信じている日本人はインド人や中国人や朝鮮の人々に親近感を持っています。ですから仏教徒は人種差別とは無縁です。
正しく宗教を信じている人々は人種差別を絶対にしません。キリスト教も同じです。
一つの例として、今日はヒンズー国のインドで、死に行くインド人を愛したカトリック信者のマザーテレサの人間愛をご紹介したいと存じます。
マザー・テレサは1910年8にヨーロッパのマケドニアに生まれ、 1997年に亡くなりました。享年87歳でした。カトリック教会の修道女として、修道会「神の愛の宣教者会」を創立しました。1979年にノーベル平和賞を受賞しました。

特筆すべきは1980年にインドで国民に与えられる最高のバーラト・ラトナ賞を受賞していることです。
彼女はヨーロッパ人でしたが異教徒の地、インドでヒンズー教の人々を愛し世話をしたのです。それは丁度イエスさまが異教徒のサマリア人を大切にしたのと全く同じです。
この欄では、最近、人種差別に関する2つの記事を掲載しました。それに続く、3番目として今日はマザーテレサのインドでの活躍をご紹介したいと存じます。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5 からの抜粋です。

(1)神の愛の宣教者会の創立
1950年に修道会設立の許可を得たマザーテレサは、インドで「神の愛の宣教者会」を創立します。
この宣教会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことです。
そしてインド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けます。それをテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスといて使用したのです。それ以後、インドでホスピスや児童養護施設を幾つも開設したのです。

活動の初期の頃は、地元住民たちはインド人をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を持っていました、
しかし、彼女たちは世話をする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対しては、その者の宗教で看取っていたのです。
特にヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせたのです。
世話をする相手の宗派を問わないテレサたちの活動は世界中で感動され、多くの援助が集まります。
1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになったのです。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動へ広がります。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラでした。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。

(2)晩年と死
1983年、高齢のテレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。
1991年、すぐれない健康状態を押して故郷のアルバニアに最初の支部を設立します。これはテレサの念願であったのです。
1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて87年の生涯を終えたのです。
テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていました。
活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などです。

(3)マザーテレサはインドの国葬の栄誉を与えられます。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われました。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて彼女が尊敬されたことを象徴するものでした。
マザーの棺はインドの陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進したのです。
国葬は独立の父マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目でした。
遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られます。
彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼しました。

(4)マザーテレサが聖人になる。
2003年10月、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言します。通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さでした。
2016年9月4日、ローマ法王、フランシスコはテレサを列聖し、聖人であると宣言します。テレサの死後、満19年目のことでした。

マザーテレサの特筆すべきことは彼女自身はカトリックの信者だったのに、死に行くヒンズー教徒やイスラム教徒の宗教の儀式に従ってあの世に送り出したことです。それは宗教にこだわらない深い人間愛と思います。
マザーテレサの活動を力強く支援したインド人達も偉かったと思います。異邦人を国葬にしたインド政府にも感動を覚えます。
人種差別も宗教差別もしなかったマザーテレサこそ人類の宝です。

マザーテレサの写真に添付した写真はマザーテレサに供えたい花の写真です。昨日、京王フローラル・ガーデンで撮ってきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









南アフリカ共和国の人種差別を消滅させたマンデラ大統領

2017年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦が終わってやっと平和になったと思いました。しかしその後、朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争やイラク戦争などの戦争がありました。現在でも中東で果てしない戦争が続いています。人類の愚かさに粛然とします。
しかしその一方で人種差別という悪を撲滅することに努力している人々も沢山います。
第二次世界大戦後の世の中で良かったことは人種差別という人類の悪い習性が弱くなって来たことです。
例えば昨日、「キング牧師の公民権運動で黒人差別が撤廃された」という記事を書きました。
キング牧師のおかげでアメリカでは公民権法が成立したのです。以下は昨日の記事の一部です。
・・・さて公民権法でアメリカ人はどのように変わったでしょうか? その後、何度も渡米した私は見ました。白人と黒人が一緒に公園でバーベキューをして楽しそうにしている場面を。白人と黒人の若者が一緒になってダンスパーティをしている場面を。レストランで同じテーブルに坐り楽しげに食事をしている場面を。
その度に私はキング牧師の演説の冒頭部分を思い出し、胸が熱くまります。
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」・・・

今日はアフリカの南端にある南アフリカ共和国のマンデラ大統領の人種差別撤廃運動による人種差別の消滅をご紹介いたします。

兎に角、ひどい話です。1948年から1994年の約50年の長い間、、南アフリカ共和国は以下のようなアパルトヘイト(人種隔離政策)がきびしく実施されていたのです。
(1)黒人を含む有色人種と白人は住む地域を分離し、それぞれの地域だけに居住させられたのです。
白人は裕福な綺麗な町に住み、黒人は貧しい地域に押し込められていたのです。都市近郊で黒人が押しこめられた地域は貧民街になったのです。ヨハネスブルグ近郊のソウェトが最も有名な貧民街でした。

(2)隔離施設留保法
レストラン、ホテル、列車、バス、公園に映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別されていました。バスは黒人用のバスと停留所、白人用のバスと停留所に別れ、病院も施設の整った白人用と不十分な施設しかない黒人用に分けられたのです。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕されました。

(3)雑婚禁止法
人種の違う男女が結婚することを禁止されていました。

(4)背徳法
異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法です。

(5)パス法
黒人に身分証明書の携帯を義務付けた法です。有効なパスを持たないものは不法移民とされ、逮捕されホームランドなどへの強制送還が実施されました。

(6)その他、黒人の参政権を否定する「原住民代表法」(1936年)や黒人の教育を低レベルなものへと押しとどめる「バントゥー教育法」(1953年)など、就職、賃金、教育、医療、宗教など、日常生活の隅々にわたる非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていたのです。

このような非道な人種差別に対して、当然、黒人達が立ち上がり血みどろの闘争をします。
その一人が1994年から黒人として初めての大統領になったマンデラ氏なのです。
彼は1993年にノーベル平和賞を受賞して有名な人なので皆様ご承知とは存じますが、この際、もう一度、彼の人種差別撤廃運動の経緯を見てみましょう。

南アフリカ共和国はアフリカ大陸最南端にあるイギリス連邦加盟国でした。
ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭に植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住しました。イギリスの植民地になり英語が公用語となり、イギリスの司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強い国になります。イギリス人の増加と共に英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになったそうです。

南アフリカでは1960年代から1980年代にかけて非道なアパルトヘイト政策が徹底的に実施されます。
当然、人種平等を求める黒人のアフリカ民族会議による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われます。
1960年のある虐殺事件をきっかけに、イギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、共和国になったのでうです。これが南アフリカ共和国の成立のいきさつです。

こんな状況の中でマンデラ氏は、1960年の虐殺事件をきっかに武装闘争路線へと転換したのです。
1961年11月、「民族の槍」という軍事組織を作り最初の司令官になります。その事が理由になって1962年8月に逮捕されます。
そうしてマンデラ氏は27年間も投獄されたのです。
しかし獄中で勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、反アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの話し合うためにアフリカーンス語も身につけたのです。
獄中にあってマンデラは解放運動を続行し、アフリカーンス語で手紙を同志に送り続けたのです。その結果、彼は人種差別撤廃運動のの象徴的な存在となったのです。そしてマンデラの釈放が人種差別をしていない国々からも求められるようになります。

その結果、1990年2月11日にはマンデラは釈放されます。首都ルサカに行き、アフリカ民族会議の副議長に就任して、アパルトヘイトの撤廃に向けて本格的に取り組んだのです。国際世論を味方につけるために各国の訪問を精力的に行ったのです。1990年10月27日から11月1日までアフリカ民族会議代表団を率いて日本も訪問しています。

1994年4月27日に南アフリカ共和国ではじめての全人種参加選挙が実施されました。この選挙でアフリカ民族会議は得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任したのです。
就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られたのです。
そしてマンデラ大統領のもとで南アフリカ共和国の人種差別が全て消滅してしまったのです。

1999年2月5日、国会で最後の演説をし、同年6月、任期満了に伴い大統領職を退任、同時に政治の世界から引退しました。
マンデラ氏は2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で死去しました。享年95歳でした。

追悼式にはアメリカ3大ネットワークとCNN・BBCもそれぞれのアンカーマンを派遣し、各国からも日本の皇太子徳仁親王、イギリスからはチャールズ皇太子とキャメロン首相、アメリカ合衆国よりオバマ大統領及びビル・クリントンやジミー・カーター元大統領、ブラジルのルセフ大統領、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長など各国の国家元首もしくはそれに準ずる人物が出席しました。
マンデラは生まれ故郷のクヌにて埋葬され、12月15日、クヌにて国葬が執り行われ埋葬されました。

マンデラ氏の生涯とそれを支援した白人国の人々のことを考えると人種差別は徹底的に消滅させなけらばいけないと思います。全ての人間に与えられた崇高な目標と思います。

1番目の写真は大統領時代のマンデラ氏の写真です。
2番目の写真は1994年の全人種総選挙の折に投票するマンデラ氏です。
3番目の写真は彼の死後、記念碑に捧げられた多数の花の写真です。
4番目の写真は南アフリカ共和国の国会議事堂です。
5番目の写真は南アフリカ共和国の行政府の建物です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









キング牧師の公民権運動で黒人差別が撤廃された

2017年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、人種差別に関する記事を掲載しました。人種差別には個人の心の中の差別と公的な社会生活における差別の2種類があります。
それに対して、この世には絶対に人種差別が存在し続けるという趣旨のコメントを沢山頂きました。
その上、頂いた全てのコメントはアメリカのキング牧師の公民権運動による黒人差別の社会生活における撤廃を完全に無視しています。
そして第二次大戦以前の欧米人のアジア人や黒人に対する人種差別だけを取り上げています。実に偏見に満ちたコメントでした。
しかし欧米社会では社会生活の場面では人種差別をしないように改革されているのです。社会生活で人種差別が無くなれば、個人の心の中にある人種差別感も次第に弱くなって行くのは自然なことです。
1960年にアメリカ留学しましたが、当時のアメリカは黒人用と白人用のレストランや映画館が別れていて、バスの席も前半分が白人席で後ろ半分が黒人席と厳密に分かれていました。間違って後ろの席に座った私を中年の白人男性が怖い顔で前の席に坐れと言ったのです。
このような人種差別が公民権運動の結果、完全に撤廃されたのです。
その上、アメリカでは黒人のオバマ大統領が8年間もアメリカのトップの座についたのです。これはアメリカの社会で人種差別は完全に無くなった証拠なのです。1960年代の悲しい黒人差別の実態を見た私にとってはアメリカの人種差別撤廃は感無量の一字につきます。

そこで今日はキング牧師の黒人差別撤廃運動でアメリカの黒人差別が消えてしまった経緯を簡略に書いてみました。なお公民権とは公の社会生活のなかの諸々の個人の権利のことを意味します。
キング牧師は1929年に生まれ、1968年4月4日に暗殺されました。バプテスト派の牧師でした。
アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者でした。
「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名な演説を行った人物で、1964年にノーベル平和賞を受賞しました。
アメリ人も彼を尊敬しており、2004年には議会名誉黄金勲章を授章します。彼の暗殺後、各州では彼を記念する祝日が制定されます。

キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」でした。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され一切抵抗しない非暴力を貫いたのです。

公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象としました。公民権運動は州政府などの地域の権力との闘争という側面も有していました。従ってキング牧師の運動は警察の妨害を受け困難な展開になります。

しかしキング牧師は演説で白人も含めた大衆の心を掴んだのです。
特に、1963年8月28日、ワシントン大集会で、“I Have a Dream”という演説を行います。
この演説はリンカーン記念堂の前で、20万人の聴衆の前で行いました。
内容が人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴えたものでした。歴史的な名演説だったので白人にも広く共感を呼んだのです。それはアメリカ国内のみならず世界的に高く評価されたのです。
この演説の冒頭だけを下に示します。

"I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at a table of brotherhood."
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」

"I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character."
「私には夢があります。いつの日にかこの国が、私の4人の子どもたちが、肌の色でではなく、その人となりで評価されるようになるという夢が」

私はテレビで何度もこの冒頭部分を聞きました。キング牧師の声で。何度聞いても胸が熱くなります。
キング牧師の運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がり、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定されたのです。それは建国以来200年間、アメリカの法律よる人種差別が終わりを告げるものでした。
なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ大統領でした。

そしてキング牧師は1968年4月4日にメンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーで撃たれて死亡したのです。39歳の若さでした。
犯人のレイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンのヒースロー空港で逮捕され、懲役99年の判決を受けます。その後、彼は服役中の1998年4月23日にC型肝炎による腎不全で死去しました。

暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなりました。

…前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

さて公民権法でアメリカ人はどのように変わったでしょうか?その後、何度も渡米した私は見ました。白人と黒人が一緒に公園でバーベキューをして楽しそうにしている場面を。白人と黒人の若者が一緒になってダンスパーティをしている場面を。レストランで同じテーブルに坐り楽しげに食事をしている場面を。
その度に私は彼の演説の冒頭部分を思い出し、胸が熱くまります。
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」

アメリカの黒人差別の撤廃は世界の国々の黒人差別に影響を与えるのが自然の成り行きではないでしょうか?
これで人間の心の中の人種差別が無くなったわけではありませんん。しかし少なくとも社会生活の中で黒人差別が撤廃されたことは人類の大きな進歩です。善い改革です。
ところが多くの日本人はアメリカの黒人差別撤廃を無視しています。そして「欧米人は人種差別する人間だ!」とオームのように繰り返すのです。最近、そのようなコメントを沢山貰ったのです。

1番目の写真はキング牧師と妻のコレッタです。(1950年代)
2番目の写真は1963年8月、ワシントン大行進にて、“I Have a Dream”の演説を行うキング牧師です。
3番目の写真はウェストミンスター寺院に飾られている「20世紀の10人の殉教者」のレリーフの一部です。左からロシア大公妃エリザヴェータ、キング牧師、ロメロ大司教、ボンヘッファー牧師です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







この世の人種差別を少しでも減らす方法と自分が差別されない方法

2017年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「ともえさとこ著、『フランスあれこれ』・・・私の感じるフランスでの人種差別について、その一」という記事を掲載しました。
この記事の要点は2つです。
(1)ともえさとこさんはフランスに40年以上住んでいますが、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けた経験は皆無だったのです。
(2)日本人が欧米人に差別される原因は自分たちがまず先に「白人」に対して差別をしているからなのです。自分たちの方から差別すれば相手も差別します。自分が相手を差別しなければ絶対に差別されません。
この相手を差別しないという鉄則を守っている限り自分は差別されないので悲しい思いをしません。

まあ、以上のような趣旨でした。
この記事はブログやSNSのFace Bookや趣味人倶楽部に同時に発表しました。
それに対して、自分の差別された、されないとは関係なく、この世には絶対に人種差別が存在し続けるという趣旨のコメントを沢山頂きました。従って相手を差別しないという鉄則を守っていても差別されるという趣旨のコメントです。
その上、頂いた全てのコメントはアメリカのキング牧師の公民権運動による黒人差別の撤廃を完全に無視しています。そしてヨーロッパ諸国におけるアフリカ系移民の受け入れや人種差別反対の運動を無視しています。そして第二次大戦以前の欧米の人種差別だけを取り上げています。要するに公平な議論ではないのです。実に偏見に満ちたコメントという感じが致します。

一例を以下に示します
浦野 明人さんからのコメント;
人種差別の問題は、多面的で難しいですね。著者の様な立派な方もおられれば、一方で差別を実際に受けた方々もいます。私もヨーロッパでそのような感じを持った事も有りました。日本人のアジア人に対して過去に行った事も差別です。米国での、特にアフリカ系の人達に対する差別は露骨でした。真珠湾攻撃の日本軍の飛行隊長が、戦後、密かに黒人兵士グループから「よくぞ白人をやっつけてくれた」と言ってパーティーに招待されたとの話も有ります。
フランスが戦後、ドイツの占領下で苦しんだにも拘わらず、再度ベトナムを植民地化しようとして失敗した事例等は、何となく人種差別意識の延長に感じられます。

そして浦野 明人さんは続けます。
・・・日本人がかって中国や朝鮮その他東南アジアの人達にした事また現在も心の中で思っている可能性の有る事も人種差別です。
アメリカで日本人移民の一世たちがされた事、又現在もアフリカ系の人達に対してなされている現実を後藤さんは人種差別とお考えにならないのですか?
どんなに理想論を書いても現実に世界で起きている人種差別をどうする事も出来ません。失礼ですが、後藤さんの様な理想論で納得する人達は少ないのではないですか。
・・・日本国内でも今なお大きな人種差別が有ります。アイヌや民問題です。特に後者は現在決して表に出てきませんが、根深いものが有ります。又神戸で知り合いになったブラックアフリカの若い女性は、既に日本に20年位住んでいます。英語や日本語も堪能で、漢字も驚く程知っています。しかし悲しい事にアパート探しがアフリカ人の場合には非常に難しいとのことです。我々はこれらの現実を直視し、認識すべきです。

このような批判はSNSの趣味人倶楽部でも沢山頂きました。

それに対して私は強く反発を感じています。
コメントを下さった多くの方々は人種差別の実例をこれでもか、これでもかと羅列しています。しかし誰一人として人種差別は非常にいけない事だから減らそうと提案していないのです。減らす方法を具体的に提案していないのです。
ですから人種差別の現状を認め、それはどうしようも無いから放置するという姿勢なのです。
そして日本人は欧米人やアジア人を相変わらず差別しても、それを容認しているようなニュアンスなのです。

それに対して今回の記事を書いたフランス在住の ともえさとこ さんだけが差別を減らす方法を具体的に提案しているのです。
「自分がまず差別するのを止めよう!そうすれば相手も差別しない」という方法です。これこそ、ささやかな、しかし貴重な第一歩ではないでしょうか。このように昨日の記事を整理して、再度、皆様からの差別を減らす方法の提案を募集したいと思います。

なお趣味人倶楽部のニックネームさんだけは記事の趣旨を正確に理解し、ともえさとこさんの書いた記事へ力強く支援するコメントを投稿して下さいました。記して謝意を表します。

挿し絵代わりの写真は今しがた三鷹市花と緑の広場で撮ってきたものです。





細川呉港著、「花人情」(愛育出版)のご紹介

2017年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
花のお好きな方に良い本です。無名の人々の清らかな生き方に興味がある方に良い本です。それが『花人情(はな、ひと、なさけ)』という題の新刊書です。著者は細川呉港さんです。

私は以前に『美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆』という小文を掲載しました。先日の2月11日のことです。
この小文は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本の紹介でした。
そして2月23日の記事では、同じ細川呉港さんの『桜旅』(愛育社出版)という2016年4月11日出版の本もご紹介しました。それもネットで簡単に購入出来ます。1800円です。

さて今日は同じ著者の新刊書、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版刊 1,600円)をご紹介いたします。

まず細川呉港さんから頂いた本の説明文をご紹介いたします。
・・・人間、歳をとり、六十を過ぎ、七十を過ぎると、いままで気がつかなかったことでも、見えてくるものがあります。人生の節々で出逢った人と、 思いがけず再会する。そうしたときは本当に嬉しい。今から思うと、若いときの大人げない行動が、とても恥ずかしく思える。あの時こうしておけばよかった。あの時が人生一番輝いていた――。そうしたことは、多くの人たちに共通の思いではないかと思います。
歳老いて、自分を支えていくものはなにか――。団塊の世代が定年を迎えて久しく、彼らは今、何を考え、どんなことをしているのでしょうか。そうしたことに、私のささやかな、生涯体験がお答えすることができればと思います。オビに「伝えておきたい人生の味。問わず語り、生きてきてよかった」としました。常に無名の人の美しい生き方を追い続けています。ぜひ読んでみてください。・・・

この本は細川さんが20年以上にわたって書きつづった随筆を本にしたもので、その目次は下の参考資料に掲載した通りです。

各章の見出しを丁寧に見ると細川呉港さんの人生で会った人々への思い出を書いているのが分かります。昭和時代の雰囲気が立ちのぼっています。そしてその中に必ずのように花や植物のことが書いてあります。

細川さんの文章の特徴は一直線ではありません。その主題の一直線から脇道へ、そしてその先の小道や路地へ彷徨うのです。そして小道や路地で会った人々の印象深い生涯を紹介します。自分の生き方を見つめ直します。そしてしばらくして主題の一直線に戻ってくるのです。
まるで一見無駄のように見える脇の小道や路地を熱心に歩き、その風景や心象風景を描いているのです。
下に紹介した26の各章は独立した作品です。どの章から読み出しても良いのです。

それぞれが美しい人生だけを描いているだけではありません。人生の陰や宗教とのかかわりも書いています。内容が深いのです。
例えば、第19章「京都大徳寺大仙院の青年僧」では単に禅宗の教えだけを紹介しているのではありません。
一人の弁舌の巧みな青年僧が大徳寺のある塔頭で観光客相手に感動的な説明をしています。聴衆が緊張して聞き入っています。
説明では禅宗の教えは「その時その場を懸命に生きる」というものだと話しています。これが第一幕の場面です。
舞台は急に変わって第二幕は上野の花見の雑踏の中でこの同じ青年僧が数人の花見客を集めて説法をしています。
すると中年の男が青年僧に問いかけます。
「あんたは、一生懸命生きている?」、、、「あんたは、無心になったことある?」。
青年僧は「ええ、私は禅の修行を何年も。比叡山にも」と答えます。
中年男、「無心になった男が、こうやって東京まで出て来て、みんなに説教をしている?」・・・「私だったらそんな若さでは説教なんかできない」と言うのです。青年僧は絶句し、京都に帰ります。
そして第三幕はそれから数十年後の上野の櫻花の下を著者の細川呉港さんが歩いている場面です。そして昔、ここで恥をかいた大徳寺の青年僧のことをあれこれ想い出している場面です。青年僧の生き方が正しいのか、間違っているのか書いていません。恥をかかせた中年男が礼儀を失したとも書いていません。全ては読者の心に任せています。
そして最後にこの青年僧は尾関宗園といい、後に有名になり沢山の生き方に関する本を出していると紹介し、この章を終わっています。

このように各章は一つの独立した物語になっています。それぞれが偶然会った人の生涯が簡潔に書いてあります。しかし清らかな生き方はどのようなものかを深く考えさせるのです。理想の人生とはと考えさせるのです。
こんなことが書いてある本が細川呉港氏の『花人情(はなひとなさけ)』という本です。

だれでも老境にいたると自分の人生を振り返ります。そのような方々にとって非常に参考になり、そして考えさせる本です。お薦めします。

今日の挿し絵代わりの写真は小さく可憐なサクラソウの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)細川呉港著、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版刊)の目次
○〈まえがき〉  
人生、「めぐり逢い」こそすばらしい、            
この広い世の中、あなたは何人知り合いがいますか。   

1 台湾の田舎の畦道で出会った世にも不思議な体験
     時空転移装置が働いた瞬間
2 人生で一番すばらしかった授業
     四十年後に解けた老教授の疑問
3 曼珠沙華の想い出
     秋祭りの最中に突然消えた彼女
4 山吹の花は咲けども
     学費値上げ闘争のころ。初めての機動隊学内突入 
5 わが青春の旅立ち
     ブラジル航路の最後の移民船が、私の青春の始まり
6 キューバの日系一世たち
     世界の果てで生きる明治生まれの老人たちが、どうしても私に伝えたかったこと
7 連れ出された旅と楷(かい)の樹
     中国山東省曲阜から持ち帰られた樹の種子が、やがて日本中に――思想を伝える樹
8 白いエンジュの花の雨 
     『紅楼夢』の舞台で出合った女詐欺師
9 タイ、丘の上の高級リゾート・ホテル
      ブーゲンビリアの垣根の中の夢と現実
10 錦木を持つ男 江戸時代にもてはやされた悲恋物語
11 向こう三軒隣組 日本的お隣との付き合い方
12 「鉢木(はちのき)」と「佐野の船橋」 能や謡曲に出てくる恋の浮橋
13 ツキヨタケの陰謀 吾こそはキノコ博士と自慢した男の「死」
14 大伴旅人と「鞆の浦」の、むろの樹
      古代から現代まで、わけありの男たちが忍んだ隠れ里
15 幸田露伴『五重塔』の十兵衛と倉吉
      幸田文の娘の情操教育は成功したか
16 人は何によって生かされているか
      サギソウの保存運動五十年から得たもの
17 北向き観音と愛染かつら
      信州、別所温泉にある桂の大樹と碑林
18 人間の夢のユートピア
      富と権力を手に入れた者が最後につくる庭園
19 京都大徳寺大仙院の青年僧
      「その時その場を懸命に生きる」禅宗の教え
20 松の人格   三十年来の友人が隠していたもの
21 折口信夫(釈迢空)、葛の花は壱岐島か熊野古道か
      地元を巻き込んで論争が続く名歌の謎
22 土屋文明とふるさとの柿の木
      歌人として名をなしても生涯帰れなかった故郷とは
23 柚子の木の夢
      残り少ない人生なのに、返してもらいたい騙された七年の歳月 
24 レバノン杉の教訓
      メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ、古代文明を支えた樹(香柏)
25 月見草の歌  サラリーマン哀歌--美しい花も人によっては単なる雑草
26 オバマが広島にやってきた 戦争は、かぼちゃを悲しい野菜にした

(2)著者略歴

一〇四四年、広島県呉市生れ。一九六五年、最後の移民船でキューバへ。早稲田大学卒業後、集英社に入社。宣伝部、雑誌編集部、つくば科学万博副館長などを経て学芸図書編集部長を最後に定年。中国担当として長年中国を取材。財団法人一橋文芸教育振興会など歴任後フリー。著書に『桜旅』愛育出版、『紫の花伝書』中国書店、『草原のラーゲリ』文藝春秋社、『日本人は鰯の群れ』、『ノモンハンの地平』光人社、『満ちてくる湖』平河出版など。他に『バイコフの森』『台湾万葉集』集英社、などの編纂もある。東洋文化研究会の運営は三十年になる。

『花人情(はなひとなさけ)』は四六上製本、366ページ。大活字を使用しています。愛育出版発行。(☎03-5604-9431 FAX03-5604-9430)
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なお、細川呉港の前作『桜旅』、『草原のラーゲリ』も、東洋文化研究会の事務局でも販売、発送のお手伝いをしています。





ともえさとこ著、「フランスあれこれ」1、私の感じるフランスでの人種差別について

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで過ごす年数は日本に住んだ年数の3.6倍になるということに最近気がついた。しかし、この40数年、一度も人種差別を受けたことがない。前にしばらくパリで仕事をしていた時、私のマネージメント会社で出会う日本人の仲間は、よく「人種差別された」「日本人だからと言って馬鹿にされた」と言っていた。私にはどうしてもそれが納得できないのであった。また、仲間たちからは私が人種差別を受けたことがないということは「フランス贔屓」と見られていたのだと思う。
私は決してフランス贔屓ではないし、住めば住むほどフランスの悪い点が見えてきている。ただ、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けたという経験は皆無なのだ。もちろん、郵便局や店、カフェその他で嫌な扱いを受けたことはあるが、それは私だけではない。係りの人がそういう対応をするだけで、フランス人も同じところで同じようにぶっきらぼうで不親切な扱いを受けるのである。最近は役所や郵便局なども応対が随分と親切になり、感じが良くなったが。

日本人だから、フランス人でないから嫌味を言われたとか無視された、とかいうのは視点が違うからなのではないかと思う。肌の色や国籍など関係なく、ただその嫌味を言ったり不親切である人が馬鹿なだけだ。それを自分が日本人だから、「黄色人種(もう死語に近い)」だからと言うのは、思い込みに過ぎない。一種の被害妄想ではないかと思ってしまう。
アフリカ出身の人たちや北アフリカ系の人も「人種差別を受けた」と言うことがある。しかし、よく話を聞いてみると、結局は自分たちがいわゆる「白人」に対して差別をしているのだ。日本人もそうやって自分たちの方から差別をしているのだろう。ただの人間同士のこと、と思ってしまえばそれだけである。人間の馬鹿さ加減の表れの一つが「人種差別」という考えではないか。とても残念なことだ。
ある日、夫の会社で仕事をしていたグアドループ島出身のフランス人で、もちろんブラックの長身の子とノルマンディ出身の子が、我々の村で極右翼で知られているカフェに行った。そして、カウンターでブラックの子は「小さい白(白ワイン一杯)」、ノルマンディの子は「コーヒー。大きいカップでブラックで」と大声で頼んだ。カフェにいた人は、全員どっと大笑いしたそうだ。もちろんレイシスト(人種差別主義者)で有名なオーナーも。

1990年から1991年にかけてパリ・ダカールラリーに日本チームのレポーターとして初めて行った。このラリーには一日休息日というのがあり、一行はアフリカのニジェールのアガデスという町でその休息日を過ごした。飛行機で移動していた我々はその町で3日ほど滞在したが、その時のこと。この年は日本のパイオニア社がスポンサーをした最後の大会だったが、私のチームの広報担当がパイオニアの人たちに会わなければならなくなった。しかしどこに泊まっているのか分からない。色々な用のため、チャーターしておいたボロのピックアップをサハラの遊牧民であるトゥアレグ族の人たちに運転してもらい、住民たちに聞きながら町を走り回った。私と彼らはフランス語で話すが、もちろん彼ら同士はアフリカのタマシェク語で話す。突然「ナサラ」という言葉が耳に入った。何回もサハラを車で横断したことのある夫から、トゥアレグ族は西洋人のことを「ナサラ」(語源はナザレト人、つまりイエス・キリストで、キリスト教徒を指す)と呼ぶということを聞いていたので、「え?ナサラじゃないよ、黄色いよ」と声をかけた。それが大受け。爆笑は長く続き、その後も彼らは私の言った言葉を繰り返して笑っていた。彼らは日本人も肌の色が黒くないから「ナサラ」だと思っていたのだろう。

翌年の1992年には日本のNECがスポンサーとなったパリ北京ラリーというのがあり、オーガナイザーはフランス、オーガナイザー会社の社長は日本人だった。まだロシアと中国の国境が閉鎖されていた時でもあり、そこを通れるということで多くの日本人ドライバーが参加した。私はオーガナイザーの通訳として参加したわけだが、通訳に留まらず、特に日本人エントラントのお母さん役もやった。毎晩日本からのチームを周り、話を聞いたり、クレーム処理もしていた。ある日ビバークを回っていると、ある日本チームの人たちが「本当に日本人を馬鹿にしている」、「移動レストランの奴らは怪しからん」と言っている憤慨の声が聞こえてきた。彼らに話を聞いてみると、大テントの下に設けられたセルフサービスの係りが彼らに嫌な態度を示すと言う。レストランの人たちは全員ボランティアでバカンスの代わりにラリーに来ている人たちで、私も良く知っている人たちばかりである。変だな、と思いながらレストランサービスのボスにその話をした。彼も不思議そうだった。その翌日、係りの人たちに聞いてみると、「ああ、あいつら、失礼なんだよな。挨拶も全くなし、口もきかず礼も言わない。ただ、皿を我々の前に突き出すんだ」との答え。分かった!つまりはコミュニケーションの不足なのであった。日本では何か店て買う時も、切符を買う時も、「こんにちは」または「こんばんは」と言わないし、「ありがとう」とも普通言わないが、フランスでは買う方も挨拶しお礼を言うのが普通なのである。そのことを彼らに説明し、日本人エントラントたちに礼儀は徹底させると約束した。もちろん日本の人たちもちゃんと理解してくれ、その後はすべてうまく行った。言葉が通じなくても、出来なくても構わない。フランス語が出来なければ英語でGood evening 、Thank youでもいいし、日本語で「こんばんは」「ありがとう」であとは笑顔と態度でコミュニケーションを図ればいいのだ。レストランの人たちは日本人だからと言って差別をしていたのではなく、彼らの横柄と感じられる態度に反感を持っていただけだったのだ。

レイシスト(人種差別主義者)たちに対してはユーモアやジョークで応え、コミュニケーションの問題に対しては誰かを通じて解決すればいい。文化の違いは確かにあるので、感情が行き違いになることはあるだろうが、それは決して人種差別ではないと思う。
心底から人種差別を信条としている人もいることではあろうが、非常に少数だと考えている。
(続く)
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後藤和弘による後記;
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスに在住の、ともえさとこ さんに随筆をお願いしました。彼女とはFace Book を通うして知り合いました。私の掲載する記事に何度も素晴らしいコメントを下さった方です。私の記事の趣旨を正確に理解し、実に的確な、そして建設的なコメントを下さいます。
少女時代に短歌に親しみ日本の文学や唐時代の漢詩などにも精通しています。文学だけでなく社会問題や国際政治など幅広い話題に客観的で公平なご意見を頂けるのです。それも独自の意見も添えてです。
その上、文章が美しい日本語です。女性としての魅力に溢れた文章です。まさしく才媛です。
以前からこの欄へのご寄稿をお願いしょうと思っていました。しかし、あまり素晴らしい方なので原稿の依頼を逡巡していました。
今回、思い切ってお願いしたところ快く引き受けて下さいました。これから何回か原稿を頂けそうなご返事を貰いました。
ともえさとこ さんは高校を卒業されフランスに移り住んだ日本の方です。フランス人と結婚し子供さんや孫たちに囲まれた幸せな生活を送っています。
さて今日の随筆は人種差別という重い話題です。この随筆の内容に同感し感動を覚えます。特に以下の一文は何度も、何度も読み、私の座右の銘にしたい文章です。
「この40数年、一度も人種差別を受けたことがない」
そして人種差別を受けたと言うのは一種の被害妄想です。そして日本人は自分たちの方から外人を差別するから自分も差別されるのだという趣旨のことを述べています。まったく同感です。
すなわち自分の心が貧しいから悲しい思いをするのです。
私も外国で差別されたことが何度かあります。しかしよく考えてみると自分がまず先に相手を差別していたことに気がつきます。自分の心が貧しかったことに恥ずかしくなるのです。ですから私は差別されたとは絶対に言わないようにしました。言えば自分の恥を広告していることになります。そんな心境になっていると不思議にも差別を感じなくなったのです。
そして育ちの良い人は何処の国へ行っても差別されないようです。そんなことも考えさせる今日の ともえさとこさんの随筆でした。

挿し絵代わりの写真はフランス南部のアルルの街の風景写真とそこでゴッホが描いた絵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)