後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今年も私の拙文をお読み頂き有難う御座いました」

2020年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今年もこの欄のつたない私の記事をお読み頂きまして誠に有難う御座いました。
その上数々のコメントをお送り頂いた方々へ深甚の感謝の意を表します。
どうぞ来年もよろしくお願い申しあげます。

今年は除夜の鐘を止めるお寺さんもあるようですので除夜の鐘のyoutube のURLを以下にお送りいたします。

次は「除夜の鐘 108回と主にお寺の画像」です。
https://www.youtube.com/watch?v=EJank6jvaHI

次は「知恩院の大晦日の行事と除夜の鐘」です。
https://www.youtube.com/watch?v=t53IwSX-Ogg

除夜の鐘の音とともに年が暮れ行きます。今年もいろいろなことがありました。

大晦日にあたり皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

花の写真は数年前に佐世保のハウステンボスで撮ったものです。





「曾遊の地の雪景色(9)豪雪の南魚沼市と『北越雪譜』」

2020年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の愛読者は多いと思います。豪雪の地の人々の冬の生活を活き活きと描いた名著です。
この鈴木牧之の記念館は新潟県、南魚沼市の塩沢にあります。「北越雪譜」に感動した私は関越自動車道を走って湯沢を通って、南魚沼市の塩沢の鈴木牧之記念館を訪れました。暑い夏のことでした。牧之が使用していた文房具等々が展示され、筆の跡も鮮やかな原稿を見ることが出来て親近感を覚えました。

塩沢町は2005年に南魚沼市に編入合併しました。周囲を2,000m級の山々に囲まれ冬は豪雪になります。塩沢産・魚沼コシヒカリとスキー場も有名です。
今日は曾遊の豪雪の南魚沼市の写真と『北越節譜』の内容をご紹介したいと思います。4枚の写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/102823/ です。

1番目の写真はの南魚沼市スキー場のホテル街の夜景です。夕焼けが残っています。

2番目の写真は南魚沼市の上越国際スキー場わきの霧氷です。市内に10のスキー場があります。降雪量が多いので低温となりパウダースノーも楽しめます。

3番目の写真は奈良時代からある禅寺・雲洞庵の山門です。冬になると雪が積もり神秘的になります。樹齢300年以上の杉の木が並ぶ境内は厳かな雰囲気があります。

4番目の写真は複合施設の「里山十帖」の山々を見渡せる絶景露天風呂です。

さて「北越雪譜」という本の内容です。雪国の人々の冬の暮らしぶりが描かれた本です。
以下は冒頭の文章です。
・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。・・・・

この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。
鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。雪景色の写真を見ると美しいと感動するだけでなく悲しい気分にもなるのです。
それにしても純白の雪の世界は美しいものです。

下に鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介いたします。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.html より転載しました。

著者の鈴木牧之の生れた南魚沼郡は、東南に波濤のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものだった。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とした。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘(ほり)て僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生(うまれ)たるこ>ちなり」

鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。

もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。

以下省略しますが北越雪譜 - 青空文庫は、https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、年末なので墓参りに行きました」

2020年12月29日 | 日記
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。年末なので午後から家内の両親と祖父母の墓参りに行きました。家内が墓掃除をして花を供えて来ました。私は寺の前に停めた車の中で家内の両親と祖父母との楽しかったいろいろなことを思い出していました。両親が亡くなってもう20年以上もたってしまいました。そして私自身の両親が亡くなってやはり20年以上たちます。私自身の両親の墓は仙台にあるので弟が墓参りをしています。
家内の実家のお墓がある大昌寺は浄土宗知恩院末のお寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したといわれています。
江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました。
そんなことを想いながら午後の時を過ごしました。時の流れの早いことに驚くばかりです。
今日家内が撮った写真です。







「冬の北海道の美しさをお楽しみ下さい」

2020年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日雪が降るような土地に住んでる人にとっては雪は厄介ものです。雪景色など見たくもありません。しかし雪の無い土地に住んでる人にとっては雪景色は美しいと感動します。特に北海道の冬の風景にはロマンがあります。詩情を感じます。そんな冬の風景に憧れて北海道の風景写真を毎日のように眺めています。
そこで今日は和田義男、フォトギャラリー「北海道冬の旅」から7枚の写真を選んでお送りいたします。和田義男さんは元は自衛隊の幹部でした。自衛隊を辞めてから本格的に写真を撮りはじめ、現在は有名なプロの写真家になった方です。
和田義男さんが監修している、「フォトギャラリー」では、数人の卓越した風景写真家の写真を厳選して掲載しています。そのURLは、http://wadaphoto.jp/japan/hk5.htm です。
私のブログでは過去にその感動的な作品を何度か転載させて戴き、自分の写真の手本にしてきました。
今日示す7枚の写真は冬の北海道の厳しさ、そして美しさが見事に表現された作品ばかりです。ゆっくりお楽しみ下さい。

1番目の写真は十勝平野の牧場の冬景色です。大雪山の峰々が白く輝いています。

2番目の写真は屈斜路湖に遊ぶ白鳥たちです。屈斜路湖は硫黄山や川湯温泉から流れ込む湯などのお陰で冬期間も結氷しません。湖面に張った氷は薄く、越冬する白鳥などの天国となっています。砂場は掘ると温泉が出るので暖かく、白鳥たちのねぐらになっているのです。

3番目の写真は屈斜路湖の上を悠々と飛んでいる白鳥です。白鳥は大自然の中でおおらかに暮らしています。まったく人見知りをせず頭上至近を悠然と飛翔する姿は素晴らしいです。感動的な写真です。

4番目の写真は美瑛の観光ルートから外れた宇莫別にある赤羽の丘です。この丘には2本3本と組になったポプラの木が植えられており美しい絵のような風景です。

5番目の写真は風景写真家の前田真三さんが撮った白樺林です。美瑛にある拓真館に展示してあります。
拓真館は彼の作品を展示、販売するギャラリーで、旧千代田小学校跡地に建てられています。拓真館は私どもも見に行きました。

6番目の写真は知床の天然記念物の尾白鷲です。
尾白鷲は翼を広げると180~240cmになります。成鳥の尾が白いことからこの名がついたのです。ユーラシア大陸の北部に広く分布し南下して越冬するものもあります。日本では北海道で少数が繁殖し、冬には九州南部まで渡るものがあります。
 海岸や大きな湖沼の近くにすみ、水面近くに浮き上がってきた魚を大きな鋭い足の爪で巧みにとらえ、鴨などの鳥も食べます。日本ではもっぱら樹上に営巣しています。巣は毎年同じつがいが使い、3~4月に1腹2卵を産みます。

7番目の写真は砕氷型巡視船「てしお」が流氷に閉じこめられた漁船を救出している光景です。2隻の漁船は沖合底引網漁船でトロールによりスケトウダラを捕って来ました。巡視船「てしお」が氷を破砕しながら走り、そのあとをついて行ってます。
砕氷型巡視船「てしお」は羅臼海上保安署に配属され、就役以来7年間で32隻の船舶を救助しました。根室海峡と広くオホーツク海をカバーする広域的な救助活動に備えています。
この最後の写真は冬の北海道の生活の厳しさを示していますがそれさえ美しく見えます。
雪景色の裏には厳しい生活もあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、暮れの深大寺の風景写真を撮りに行く」

2020年12月28日 | 日記
東京の西の郊外にある深大寺は733年に創建されました。天台宗別格本山のお寺です。
今日は快晴で暖かい日和でしたので午後から写真を撮りに行きました。
このお寺には三つの重要なお堂があります。「深沙大王堂」と「元三大師堂」と「阿弥陀如来が本尊の本堂」です。
5枚の写真をお送りします。順々に、1本堂、2おみくじ売り場、3元三大師堂、4深沙大王堂、そして5門前蕎麦屋の写真です。









門前蕎麦で有名な調布市の深大寺は東京都では浅草寺につぐ古いお寺です。733年に満功上人によって創建されました。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
関東地方に比叡山の慈恵大師すなわち元三大師の信仰があるのは珍しいのです。深大寺はその意味で特別な古刹なのです。そこで深大寺の詳しい歴史を末尾に加えておきました。
ご興味のある方はお読み下さい。
今日の深大寺は暖かい陽が射し、人々が静かにお参りしていました。
門前の蕎麦屋では出来立ての饅頭に人が群がっていました。平和な暮れの風景です。
写真を家内が撮っている間私はぼんやり暮れのお寺の風景を眺めていました。
今日は師走の28日です。あと3日で2020年が終わるのです。感慨にふけりながら車をゆっくり運転して帰って来ました。

皆々様よい新年をお迎えください。

===参考資料==========================
「深大寺の創建とその後の歴史」
深大寺を創建した満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。現在は「深沙大王堂」に祀ってあります。
その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、以後、江戸、明治、現在に至るまで元三大師堂は人々の信仰を集めています。
ですから元三大師堂は深大寺で非常に大切なお堂でした。

現在の深大寺の本堂は元三大師堂の右側にあります。それは江戸時代からあったものを大正時代に建てかえたものです。
深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であったといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

さてもう少し詳しい歴史を加えておきます。
深大寺の歴史の中で重要なことを、https://www.jindaiji.or.jp/about/ から示します。

(1)天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ
平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。

(2)比叡山より「元三大師自刻像」を迎える
正暦二年(九九一年)第十八代天台座主、慈恵大師すなわち元三大師の自刻像が、大師の高弟である慈忍和尚、恵心僧都両師の意を受けた寛印により遥か叡岳より深大寺に遷座されました。

(3)「元三大師信仰」大いに振るう
徳川期、深大寺の元三大師出開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院(えこういん)で執行されています。江戸時代まで元三大師堂へ参拝するのが重要だったのです。

(4)銅造釈迦如来像(白鳳仏)の鑑定と国宝指定
像高 83.9㎝のこの釈迦如来像は明治42年(1909)に飛鳥時代7世紀~8世紀初と鑑定されました。そして大正2年に国宝指定となったのです。寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一で東日本最古の国宝仏なのです。

「キリスト教の不思議、『受胎告知』とは?」

2020年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
イエス・キリストの誕生、母マリアは処女懐妊してイエスを馬小屋で生むのです。キリスト教の不思議な話です。
受胎告知とは天使ガブリエルがヨゼフの許嫁、マリアの前に現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と言います。
マリアはこの言葉に戸惑い、困惑します。そうすると天使ガブリエルが言ったのです、「マリア、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産みますが、その子をイエスと名づけなさい」と言ったのです。
マリアは、「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えます。すると天使ガブリエルが言います、「聖霊があなたに下り、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれるのです」
そこでマリアは言います、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と天使ガブリエルの言葉を受け入れ従うのです。
このようにしてイエス・キリストがこの世に生まれでたのです。
この物語は大変不思議な話です。しかし私はこの科学的でないことを上の文章どうりに起きたとそのまま信じています。
そしてこの場面は何故か非常に美しい場面のように感じます。私はカトリックの信者なのです。
昔の西洋人たちもそのように思ったのでしょうか。いろいろな画家が、「受胎告知」という題目で 美しい絵画を描いています。

日本人がキリスト教になじめないのはマリアの「受胎告知」が原因になっています。日本人は科学を信じ、それに反することを信じないのです。しかし宗教というものは科学とは別世界にあるものなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

幾つかの「受胎告知」という題する絵画をご紹介いたします。

1番目の写真はフラ・アンジェリコの「受胎告知」(1430-32)です。

2番目の写真はハンス・メムリンクの「受胎告知」(1467-70)です。

3番目の写真はレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」(1472-75)です。

4番目の写真はエル・グレコの「受胎告知」(1590頃ー1603)です。大原美術館に展示されているので多くの人がご存知の有名な絵です。

5番目の写真はフランチェスコ・アルバーニの「受胎告知」(1601年)です。

「今日の日記、多摩湖の写真を撮りに行きました」

2020年12月26日 | 写真
快晴で風の弱い日でしたので多摩湖の写真を撮りに行きました。広い堤防の上を車椅子で走り回って来ました。この多摩湖の水は多摩川の上流で取水し、地に埋めた太い鉄管で運んで来た水です。それを武蔵境の浄水場などに送って東京の水道水にしているのです。
堤防の上の空気は新鮮で気持ちが良くなりました。広々とした多摩湖の写真をお送りいたします。





「曾遊の地の雪景色(8)雪の日の松島」

2020年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台に生まれ育った私には近くの松島にいろいろな思い出があります。よく遊びに行った美しい海でした。緑の島々が浮かんでいる幻想的な海でした。
妻と初めてデートした場所でもありました。塩釜で船外機のついた小さな船をチャーターし、緑の島々が浮かんでいる海を松島まで妻となる人を案内したのです。
松島の素晴らしさは海の上から見ないと分からないと信じていたのです。
しかし松島の雪景色は見たことがありません。
そこで今日は曾遊の地の松島の雪景色の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は雪の日の松島です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=02616000608 です。

2番目の写真は雪の松島の五大堂です。写真の出典は、http://orgeldiary.da-te.jp/e404943.html です。

3番目の写真は雪の松島五大堂への橋です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=02335001591 です。

4番目の写真は雪の瑞巌寺へ続く参道です。写真の出典は、https://yurika2018.blog.fc2.com/blog-entry-35.html です。

5番目の写真は雪の日の松島の全景です。写真の出典は、https://twitter.com/hashtag/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E9%9B%AA%E6%99%AF%E8%89%B2 です。

さて松島に関するいろいろな思い出の中から一つだけ書きたいと思います。
少し大きいカッターというボートで仲間達と碧い島々の間を何度も漕ぎ回った楽しい思い出です。それは不思議な体験でした。
仙台一高に入学したのは昭和26年でした。旧制の仙台一中の生徒が3年生にそのまま残っていました。
入学してすぐ「木工部」に入りました。驚いたことにその部は木工など一切しないで、もっぱら松島湾でカッターを漕ぎ回る倶楽部でした。
大人のような3年生が東北大学の塩釜の艇庫からカッターを借り出して来るのです。
1年生と2年生の部員が塩釜の岸壁で待っていると3年生が何処からかカッターを漕ぎよせて来ます。東北大学の艇庫の場所は3年生だけが知っている秘密なのです。それが3年生の権威なのです。
皆が乗り込むとカッターは島々の間を縫って松島湾を周航します。
3年生が舵を握り掛け声をかけます。1年生と2年生は従順な漕ぎ手です。しかし3年生は意外に優しいのです。掛け声に合わせてオールを動かしていれば力を抜いても怒りません。
そして漕ぎながら景色を楽しめと言うのです。しかし牡蠣棚だけへはカッターをぶつけてはいけないと言います。
昼になれば適当な島の砂浜へボートを乗り上げて持参のオニギリを食べます。
午後も漕ぎますが、塩釜までの帰路は漕ぐのを止めて帆走なのです。
この帆走も不思議な体験です。帰路になると3年生がカッターの先端に低いマストを立てます。
そこへ薄汚れた三角形の布製の帆を上げるのです。すると帆が風をはらんでカッターが勢い良く快走するのです。後は風まかせで塩釜まで帰ります。
そしてある時は9人乗りの細身の競走用のボートを漕いだこともありました。競走用のボートには座席が固定されているフィックスと座席が前後に動くスライデイングという2種類があるのです。どちらも船体が薄く出来ているので牡蠣棚にぶつけないように細心の注意が必要です。
このように海でボートを漕ぐ体験を何度もしましたのです。仙台一高の「木工部」は木工はしないで松島湾を漕ぎまわるクラブだったのです。今思うと不思議な体験でした。

この体験があったので、私は松島の素晴らしさは海の上から見ないと分からないと信じていたのです。それで後に妻となる人を小さな船で松島まで案内したのです。緑の島々が浮かんでいる海を周航したのです。妻は初めて海の上から見た島々の美しさに感動しました。この思い出は今も忘れられないようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「クリスマスの昼間のミサに出ました」

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
クリスマスのミサは24日の夕方と夜半と真夜中と25日の昼間にあります。今年は「クリスマスの昼間のミサに出ました。
しかし一番感動的なミサは24日の夜半のミサです。
そこで東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会での「主の降誕・夜半ミサ」の動画配信のURLをお送りいたします。https://www.youtube.com/watch?v=MQm1Lx7RjZg です。ちょっとでもこの24日の夜半のミサをご覧下さい。

次にクリスマスの聖歌のYou Tubeもお送りします。
フランク・シナトラなどによる有名なクリスマスソング、https://www.udiscovermusic.jp/playlists/best-frank-sinatra-christmas-songs
クリスマスソングメドレー、https://www.youtube.com/watch?v=Kh-6_au3_TA
クリスマスソングメドレー(6曲8分)子供向け英語童謡、https://www.youtube.com/watch?v=NpMTtPsFE08

最後に今日のカトリック小金井教会での25日の昼間のミサの写真をお送りします。









さてイエスはどのように生まれたでしょうか?
イエスの降誕は『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに書かれています。それによれば、イエスはユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたのです。
『マタイ』では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は書いてありませんが、『ルカ』の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ行き、そこでイエスが生まれたと書いてあります。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダヴィデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言が『ミカ書』5:1に書いてあったのです。

『ルカ』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、馬小屋に泊まり、イエスを飼い葉桶に寝かせますそのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れるのです。
また『マタイ』では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来たことも書いてあるのです。

「曾遊の地の雪景色(7)雪の日の善光寺」

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
善光さんが建立した善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の素朴な信仰だけで存続してきたお寺です。その素朴な信仰の雰囲気に魅了されて何度も長野市を訪れました。長野駅から真っ直ぐに伸びた大通りの先にあります。嗚呼、この町は善光寺のおかげで出来た町だと納得します。
善光寺に行ったのは何時も雪の無い季節でした。
そこで今日は曾遊の地の善光寺の雪の日の写真をお送りいたします。

1番目の写真は雪の夜の善光寺です。写真の出典は、https://mstdn.tokyocameraclub.com/@sigmist810/101190669478412063 です。

2番目の写真は朝早く御朝事から帰る大僧正様の姿です。写真の出典は、http://yamataikoku.naganoblog.jp/e673512.html です。

3番目の写真は善光寺の三重塔です。写真の出典は、http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/she/fuyutabi2019b/photograph13.htm です。

4番目の写真は雪の善光寺六地蔵です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25184012610 です。

5番目の写真は雪の日の善光寺の参道です。写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10972318 です。

さて善光さんが建てた善光寺は現在三つあります。長野県の飯田市と長野市と山梨県の甲府市にあるのです。私は何故か善光寺が好きなのでこれら三つの善光寺には全てお参りしました。
そして知った善光寺の歴史をかいつまんでご紹介します。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいたのです。
善光さんは国司に仕える有力者でした。ですから国司が大和に帰る時に送っていきます。そして現在の大阪の難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げます。そして信州麻績の里に持ち帰ったのです。
自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝き出したのです。それで善光さんは座光寺(善光寺)を作ったと言い伝えられています。それが推古天皇の10年でした。
それから41年ほどして皇極天皇元年に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野市に善光寺を作りました。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、飯田市の座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられています。

簡略に言えば、善光さんが偶然、難波の堀から拾ってきた仏像で座光寺を作った。人々はその寺を善光さんが作ったので善光寺と呼んだ。ところが41年後、勅命によって善光寺は現在の長野市へ引越ししてしまった。残った寺には以前と同じ形の木像を祀り、元善光寺と呼ぶようになった。(現在はその付近の地名を座光寺という)
さて甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。しかし、武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返されてしまったのです。
甲府の善光寺誕生の経緯はあまり自慢に出来ないようなことではありましたが、甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって甲府の善光寺も立派に存続しています。三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。

三つの善光寺を廻り終わって、色々な感慨を持ちます。その一つは素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたということです。善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そういうお寺もあるのです。

今日は曾遊の地の善光寺の雪の日の写真をお送りいたしました。そして現在飯田市と長野市と甲府市にある3つの善光寺の関係を説明いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今年も静かに暮れ行く多摩川の風景」

2020年12月24日 | 写真
多摩川の両岸は調布市から上流にさかのぼるに従って人家が次第にまばらになります。府中、立川、日野と遡り、八王子にいたると両岸には人家が殆ど無くなり昔の自然のままになります。
そして羽村まで行くとそれは昔のままの多摩川の風景のようです。下方には堰が見えます。
そんな風景が好きで昨日も行って静かに流れ行く多摩川を眺めて来ました。今年も静かに暮れ行くのです。
昨日の写真をお送りいたします。













「大正ロマンの絵画」

2020年12月22日 | 写真
大正ロマンを代表する詩人画家、竹久 夢二(1884-1934)は数多くの美人画を残しました。

1番目の写真は竹久 夢二の美人画の一例です。

2番目の写真は2016年の大正ロマンの絵画です。
東京駅エキナカ商業施設「グランスタ」、「グランスタ丸の内」に展示してありました。大正ロマンクリスマス「Tokyo Xmastation 2016」が開催された時にイラストレーター マツオヒロミが描きました。

3番目の写真は丹波篠山市の大正ロマン館の絵です。旧市役所を大正ロマン館として活用していいます。
以上、大正ロマンの絵画の例をお送りいたしました。

「全国の明るい菜の花畑の写真をお送りします」

2020年12月21日 | 写真
最近は寒い冬の日が続いています。寒いので閉じこもり家の中で年賀状を書いています。こんな時には暖かい春が早く来ないかと思います。そこで今日は全国の明るい菜の花畑の写真をお送りします。
全国の菜の花畑の写真を検索すると数多く出てきます。その中から自分が良いと思う写真を選ぶのに苦労します。さらに選んだ写真のサイズを変え色調を調整します。長い時間がかかりますが楽しい作業です。明るい菜の花畑の写真を見ながらの仕事なので心が暖かくなり楽しい春の日々を思い浮かべます。
皆様も菜の花畑の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は残雪の新潟県と長野県にまたがる妙高山を背景にして広がる菜の花畑です。
写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/kaneko2345/e/a554cd186a15c40f00fafe7cc422a5e8 です。

2番目の写真は富山県の入善町の菜の花畑です。
写真の出典は、https://www.kamaboko.co.jp/contents/president_blog/4310/ です。

3番目の写真は岡山県の道の駅 、笠岡のベイファームの菜の花畑です。1,000万本の菜の花が広大な干拓地に咲ています。写真の出典は、https://www.okayama-kanko.jp/event/12879 です。

4番目の写真は茨木県久慈川 菜の花畑です。写真の出典は、http://photozou.jp/photo/show/3039975/255165552 です。

5番目の写真は京都府の南部に京田辺市桜と菜の花畑です。写真の出典は、https://garden-elegance.jp/staff-blog/9566 です。

毎日、毎日、朝に短い記事をブログに掲載した後は静かに時を過ごしています。体力は無くなりましたが、家内ともども健康でこうして平穏な生活が送れることに感謝しています。私の邯鄲の夢の終り頃の平和な日々です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック小金井教会での待降節第四の主日のミサに出ました」

2020年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
月日の過ぎ行くのが飛ぶように早いです。もう今日は待降節の第四の主日です。あと五日でクリスマスです。
今日は待降節の第四の主日のミサに家内と共に行きました。
カトリック小金井教会の今日の写真をお送りいたします。









「曾遊の地の雪景色(5)大浦天主堂とグラバー邸の雪景色」 

2020年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎へ観光旅行に行った方々は国宝の大浦天主堂とグラバー邸を訪れたことと思います。私どもも何度も訪れました。大浦天主堂とグラバー邸は曾遊の地です。
そこで今日は大浦天主堂とグラバー邸の雪景色の写真をお送りいたします。

1番目の写真は雪の大浦天主堂です。写真の出典は、https://qt-yoshimoto.ai-plus.com/blog/archives/13612 です。

2番目の写真は大浦天主堂の裏から見た雪景色です。
写真の出典は、https://twitter.com/tsukuru_tei/status/691158260368351232 です。

3番目の写真はグラバー邸の雪景色です。写真の出典は、http://nagasaki-r.seesaa.net/article/138192390.htmlです。
今日は日曜日なので少しキリスト教のお話をいたします。江戸時代の禁教の歴史をかいつまんでご紹介したいと思います。
江戸幕府が出来て、1615年からキリシタンの禁教が一層厳しくなりました。日本ではキリシタンの信者は絶滅したと誰でも思っていました。ローマ法王も江戸幕府の人々もそのように考えていました、ところが九州では多数の信者が代々キリスト教の信仰を密かに受け継いでいたのです。
そして、それから250年後の江戸時代末期の1865年3月17日、15人ほどの人々が、フランス人神父が作った大浦天主堂の門の前にやってきました。
プチジャン神父は、いそいで門を開けました。
彼らは浦上村の信徒たちでした。聖堂の中をめずらしそうに見ていましたが、祭壇の前で祈っているプチジャン神父のそばに、一人の中年の女性がやってきてささやきました。
「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と伝えました。さらに、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。プチジャン神父は、彼らを聖堂内のマリア像の前に導きました。
それ以来この日は、「長崎の信徒発見記念日」として祝われてきました。2015年からは、「日本の信徒発見記念日」として祝われます。
そこで、大浦天主堂にある信徒発見の碑の写真をご紹介いたします。

4番目の写真は、http://laudate.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/150-5e5e.html から転載させて頂きました。
カトリックの総本山バチカンでは日本の「隠れキリシタン」が近年、脚光を浴びているそうです。
日本に強い関心を持つフランシスコ法王が、弾圧に耐えた歴史を「信徒の模範」とたたえ、長く保管されてきた史料について日本側との共同研究をしています。
江戸時代末期の「信徒発見」から150周年になる2015年3月17日には「信徒発見150年」を祝い、長崎・大浦天主堂で記念ミサがとり行われました。

このミサには教皇フランシスコの特使として、フィリピン・コタバト大司教のオルランド・ケベド枢機卿が出席しました。
教皇はこの機会に、特使のケベド枢機卿に書簡を託しました。ラテン語の書簡で、2015年2月15日付となっているそうです。
書簡の中で教皇は、このミサへ日本中の教会から信者らを招くと共に、信仰のために自らの命を捧げた多くの殉教者たちに思いをはせているそうです。

そして前のローマ法王のヨハネ・パウロ2世も長崎まで巡礼の旅をしたのです。
このようなことはカトリックの信者にとっては重要なことですが、一般の日本人にとっては関係が無いことと考えられがちです。
しかしこの日本の歴史は日本人の精神の強さと美しさを証明していて、世界中によく知られているのです。
私はこのような日本の歴史や伝統文化を誇りに思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)