後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ちいさな秋の写真を撮って来ました

2015年09月30日 | 写真
サトウハチローの童謡に「ちいさい秋みつけた」というのがあります。意味不明の詩ですが、何となく静かな昔風の秋の風景を連想をさせます。
そんな風景を求めて秋川の上流の五日市町かいわいで、昔風の秋の風景の写真を撮ってきました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

五日市町の下を静かに流れる秋川です。林はまだ秋の色ではありません。

五日市町の郷土資料館の前に保存、展示してある江戸時代の農家です。

偶然見つけた昔風の塀の風景です。

この塀の反対側にあった柿の木の写真です。

秋川の幻の地酒、千代鶴の中村酒造の巨大な杉玉です。

この中村酒造の資料館です。

中村酒造の代表的なお酒の写真です。

最近の若い人々は心豊かで礼儀正しい(1)高齢者を助ける若い人々

2015年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
老人はよく言います。「昔は貧しかったが人々の心が豊かで幸せだった。この頃の若い者は礼儀知らずで日本がアメリカのように悪い社会になった」と。
勿論、これは老人の愚痴です。本気でとりあってはいけません。私は「そうですね」と軽く流すことににしています。しかしこんなセリフを聞くたびに心の中では最近の若い人々は心豊かで礼儀正しいとひそかに反論しています。いえ、反論というより少し怒りの感情が湧いてくるのです。
戦後70年に日本人がどんどん良い人間になって来たのです。それを客観的に考えないのです。そのあまりにも主観的な態度に怒りを感じるのです。
最近の若い日本人は老人に対して実に礼儀正しく、公共の場所でのマナーも格段に良くなっているのです。何と言っても「衣食足って礼節を知る」という格言通り、日本は今や「礼節の邦」になって来たのです。
そこで如何に若い人々の人間性が良くなったかを3つ、4つの実例を連載風に書いてみたいと思います。
今日は私が今年の2月から毎週一回通っているリハビリの施設で働いている若い人々の献身的な仕事ぶりをご紹介いたします。
この施設の名前は「医療法人社団大日会 通所介護事業所、陽なた」と言い小金井市にあります。
そこの若い男女のスタッフの人間性が大変良く感動しています。
若い男女のスタッフの人間性が良いこととはどういうことなのか具体的に書いてみます。
人間性の良さは次のような行為を生みます。
(1)老人と優しく会話します。
(2)老人が若かった時代に興味を持って丁寧に昔話を聞いてくれます。
(3)訓練体操やいろいろな設備の機能と効果を老人にも分かるように必ず説明してくれます。
(4)そして老人一人一人の個性を大切にし、訓練のメニューを作り、個人的な指導をすてくれるのです。
老人と話をする時は全員が老人の目線に合わせるためにしゃがんで話をするのです。明るい声で会話をするのです。
しかしこの施設はおしゃべりをするだけの場所ではありません。実はかなり厳しい肉体的トレーニングをする場所でもあるのです。彼等への人間的な信頼が無ければ厳しいトレーニングについていけないのです。
さて、昔の日本では老人を尊敬し、大切にしていました。それは社会的な風習で、学校でも教え込み、かなり強制的な風習でもありました。
ところが最近の若い男女を仔細に観察すると、昔の強制的な風習とは関係なく老人を一個の人間として尊敬し大切にしているのです。
これこそ人間性が良くなった証拠ではありませんか。
老人は昔風の老人尊重の習慣が消えたので淋しく思っているの過ぎません。
しかし現在の若い人々に親しくなるとその礼儀正しさや人間性の良さに圧倒されるのです。
日本の若い人々は間違いなく心豊かで礼儀正しくなったのです。これこそが戦後70年日本が築いてきた世界に誇れる財産です。
今日の写真は先週山郷で家内が撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









日本の里の秋・・・黄色い稲田、ススキ、そしてコスモスの花

2015年09月28日 | 写真
日本人の心の中の秋の原風景を求めてあちこち行きました。
私の秋の原風景は黄色い稲田、ススキ、そしてコスモスの花です。
昨日、北杜市の甲斐駒山麓でそんな風景に出会いました。
皆様の秋の原風景はどのようなものでしょうか。
昨日、撮った写真をお送り致します。













アメリカで弱い人々の心の痛みに寄り添うフランシスコ法王の人気

2015年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数日、アメリカ合衆国のマスコミは訪問中のローマ法王のニュースで溢れているそうです。
この9月上旬の世論調査ではアメリカ人のフランススコさんへの支持率は実に70%でした。
ニューヨーク・タイムズなどの同時期の世論調査では45%が法王を支持し、「カトリック教会にとどまらない社会全体の指導者で、人道主義の伝道師」と考えられているのです。
いろいろな主義や主張のあるアメリカで、これだけの支持者があることは熱狂的な人気を示していると言っても過言ではありません。
フランシスコ法王の人気の原因は唯一つです。
常に弱者の心の痛みに徹底的に寄り添っているからです。貧しい人々、虐げられている労働者、移民で苦しい生活を送っている人々に積極的に会い、慰め、その生活が少しでも良くなるように祈るのです。
ローマ法王はよく外国を訪問しますが、政治権力者よりも虐げられている人々と直接会うことを大切にしているのです。このような態度がアメリカ人の胸を熱くしたのです。
そんなニュースを3つ以下に示します。
(1)ニューヨークのハーレム地区で移民の子供たちと会う
教皇フランシスコは、9月25日、訪問先の米国・ニューヨークで、移民の子どもたちと交流された。(http://ja.radiovaticana.va/news/2015/09/26/)
この日、国連本部、同時多発テロ事件跡地への訪問に続き、教皇はカトリック系の学校へと向かわれた。
マンハッタン北部、ハーレム地区にあるこの学校では、移民の子どもたちを中心とした、5歳から14歳までの生徒、およそ280人が学んでいる。
教皇は校舎の内外で子どもたちのにぎやかな歓迎を受けられた。
教室に入られた教皇は、小学生の授業を「参観」。子どもたちにさかんに質問したり、言葉を交わされていた。下の写真がその様子です。

続いて、教皇は体育館で生徒や、保護者、教員たちとの集いを持たれた。
教皇は挨拶で、様々な国を出身とする子どもたちを受け入れるこの学校の方針を素晴らしいものとして称賛された。
新しい場所で、新しい家を見つけ、近所の人々や友だちとの関係を築き、新しい言語、文化、気候に慣れていくことは簡単ではないと、教皇は移民の家族とその子どもたちの生活順応の大変さに思いを寄せられた。
しかし、「新しい友だちに出会うことはとても重要です」と教皇は述べ、彼らに扉を開き、優しさと友情、理解を見せ、彼らが孤独を感じないように助けてくれる人々との出会いを大切にするようにと話された。
「子どもも大人も、よりよい世界を目指して、夢を見る権利がある」と強調された教皇は、「夢のあるところには、喜びがあります。喜びのあるところには、いつもイエスがいます。なぜなら、イエスは喜びであり、イエスは皆さんの喜びが毎日続くようにと助けてくれるからです」と、教皇は生徒や両親たちを励まされた。
教皇は子どもたちと別れる前に「宿題」を出したいと述べ、「わたし(教皇)が多くの人とイエスの喜びを分かち合えるように、そして皆さんが人に見守られ、助けられた時の喜びを、他の多くの人たちも味わうことができるように祈ってください」と願われた。
(2)フランススコ法王へ日雇い労働者が椅子を作り、手渡す
「教皇、25日にニューヨークで特別ミサ 日雇い労働者らが椅子制作」
2015年9月23日19時16分 記者 : 木下優紀
米国を司牧訪問中のローマ教皇フランシスコは25日夜、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2万人が参加する特別ミサを導く予定だ。このミサで教皇が腰を掛ける椅子は、日雇い労働者のグループが制作した。ニューヨーク大司教のティモシー・ドラン枢機卿が今月初め、この白い背もたれのある茶色の木製の椅子を公開している。
下の写真は労働者に囲まれている法王の嬉しそうな様子を示しています。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/17108/20150923/pope-us-visit-chair-day-laborers.htm

このシンプルな椅子は、日雇い労働者の手によって作られ、フロリダ州に拠点を置く米国のサレジオ会のブラザー、サルバトール・サンマルコ氏が制作を指揮したという。
ドラン枢機卿による発表に先立って、ニューヨーク大司教区はプレスリリースで、「教皇フランシスコの、労働者、移民、社会のはざまにある人々への同情に沿うために、ドラン枢機卿は、教皇が使う道具の制作を依頼しました」と発表していた。日雇い労働者の若者たちは、25日のミサで教皇が使う祭壇と聖書台を制作した。
今作られた椅子は、アルゼンチンのイエズス会の枢機卿であった教皇が、2013年の就任時から一貫して使用している、それまでの華麗な装飾を無くし、シンプルな椅子に似ているという。
ニューヨーク滞在中、教皇は米同時多発テロ(9・11)の犠牲者の家族と会見し、テロの標的となった世界貿易センタービルの跡地であるグラウンド・ゼロを訪れ、9・11記念博物館で行われる多宗教による儀式を執り行う。また、聖パトリック大聖堂での夕刻の祈り、国連総会での演説、スパニッシュ・ハーレムにあるカトリック系学校への訪問、セントラル・パークでの行進などを予定している。ニューヨーク以外にも、首都ワシントンとフィラデルフィアを訪問。バラク・オバマ米大統領とも会見し、ホワイトハウスでの式典にも参加する。
教皇フランシスコは、米国を訪問する4人目の教皇。米国カトリック司教協議会によれば、この訪問は「教皇として10回目の司牧訪問」だという。教皇フランシスコの米国訪問は、現地時間22日から27日まで。訪問についての詳細は、同協議会の専用ページ(英語)で知ることができる。
(3)フランシスコ法王のロックアルバムがリリースへ
http://news.livedoor.com/article/detail/10634794/
2015年9月26日 12時54分 AFPBB News

上の写真は、米ニューヨークのセントラルパークを専用車で移動するフランシスコ法王(2015年9月25日撮影)。AFP=時事/AFPBB News
【AFP=時事】訪米中のローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王(78)のアルバムが近々発売されることが明らかになった。法王は、宗教指導者らの間でロックスターと呼ばれていたが、本物のロックスターになる日も近い。
 11月27日にリリース予定のアルバムのタイトルは「Wake Up!(目を覚ませ)」で、法王は「リードボーカル」を務める。
 アルバムには、アルゼンチン生まれのフランシスコ法王の祈りの言葉や発言が盛り込まれ、新たに作られた曲が収められている。
 米誌ローリング・ストーン(Rolling Stone)は、フランシスコ法王が韓国を訪問した際に英語で行った演説をアレンジした「Wake Up! Go! Go! Forward!」と題されたシングルを初公開した。
 同法王の声と群衆の拍手に、1970年代のロックをほうふつとさせるロックギターやキーボード、トランペットも加わる。
「寝ている者は誰も歌ったり、踊ったり、喜んだりすることはできない」とフランシスコ法王は曲の中で語っている。
 アルバムのプロデューサーかつアーティストであるドン・ジュリオ・ネローニ氏は、同誌に対し、フランシスコ法王の言葉と現代音楽はよく合うと語った。
 フランシスコ法王は近代において、欧州以外で生まれた初めての法王。保守的な性的モラルよりも社会の公正さを強調する同法王は、12億人のカトリック教徒以外からも幅広い支持者を獲得している。
ロック調のものは伝統的ではないが、歴代の法王もこれまでに演説や聖歌、礼拝の歌などを組み合わせたアルバムをリリースしている。
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さて日本のマスコミは外国ニュースをあまり取り上げません。オバマ大統領と習近平主席との会談のニュースは大きく報道されましたが、先週、アメリカで熱狂的な歓迎を受けたフランシスコ法王の野外ミサや貧者との会見の写真は報道されていません。
アメリカは日本にとって重要だと人はよく言います。しかしアメリカ人の考え方を深く理解しようとしません。そんなことを感じさせる最近のマスコミの報道です。
外国のことはどうでも良い。日米安保体制さえあれば平穏だ。こういう考え方なのかも知れません。それも良いと思います。
しかし外国との相互理解の重要性は何時の時代でも大切なものだと信じています。それこそが戦争防止につながるからです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

山林の中の小屋に泊まり、いろいろな所に行って来ました

2015年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は朝10時過ぎに家を出て、中央高速道路で甲斐駒岳の山麓の林の中にある小屋に泊まって来ました。
途中、武川町のスーパーに寄り食糧とビールを買いました、。
小屋に着くと積んで行ったフトンと飲料水と自宅の切り枝や雑草の大袋2個を車から下します。
それから生活に必要な水を庭の小川からバケツで沢山汲みいれます。
以前はこの作業を私がしていましたが、最近は家内がしてくれます。助かります。
午後には近所に独りで住んでいる方へ夕食を届けました。カツ丼です

足を延ばし、下の稲作の山郷に下りてみました。黄色に実った稲田に下の写真のように美しい秋の空が広がっています。

車であちこちに行きコスモスやススキの写真を撮ります。
夜は下の写真のように薪ストーブを焚き窓の外を眺めながらビールを飲みます。

窓枠にビールのジョッキを置いて外の雑木林を飽かずに眺めていると下の写真のように夜の闇が木々を隠してしまいます。

今朝はコーヒーとトースト、巨峰の食事をしてから日曜日のミサに行きました。
小屋から車で30分のカトリック韮崎教会の9時30分からのミサに預かりました。
下の写真はミサがは始まる前の教会の様子です。

そして下の写真は説教をしている神父さまの様子です。

出席者は全部で40名以下の小さくて家族的な教会です。
ミサの後で今日、他の場所から来た人々の紹介がありました。アメリカのアイダホ州から来て日本で仕事をしている男性が日本語で自己紹介しました。それから高山市で仕事をし、東京に帰る途中のカトリックの中年の男性もいました。車で高山から東京に帰る途中にミサに出ようと調べたらカトリック韮崎教会が丁度9時30分にミサがあるので出席させて頂きましたと挨拶します。教会の場所が中央高速の韮崎出口の傍にあるのです。
我々夫婦の自己紹介は40年間も通った小屋が近くにあり、地元民のような気がしたので自己紹介は遠慮させて頂きました。
私どもがいつも行っているカトリック教会は大人数なのでこのような家族的な話をするわけにはいきません。小さな教会の良さです。印象深い良いミサでした。
ミサのあとは甲府市に行き、下の写真の県立文学館に行きました。樋口一葉の展示が詳細です。家内が好きな文学館で、たまに寄ります。

今回の山林の中の小屋への旅では、いろいろな所に行きました。普通は小屋に泊まって帰って来るだけです。天気が良かったのであちこち行けたのです。
子供の日記のような文章で失礼しました。(終り)

遅ればせながら、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

江戸時代初期の農家の実態を示す復元家屋

2015年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いろいろな博物館に行くと縄文時代の竪穴住宅を復元したものがよく展示してあります。
中には家の中心にある炉の火にあたりながら一家が団欒している様子まで再現したものがあります。ああ、家族とは良いものだと微笑みが湧いてきます。
弥生時代になると竪穴式ではありますが軒が上がって藁壁に窓がついて屋内から外が見えるようになります。あるいは高床式の家も少しあったようです。
しかし柱は全て地面に埋めて立てた掘っ立て柱です。縄文時代と基本的には同じ構造です。
この構造は平安時代、から鎌倉時代まで広く農村では用いらていた農家の構造だったと言われています。
ところが博物館にはいろいろな時代の普通の農家の復元展示がありません。
川崎市の「古民家園」に行くと数十棟の古民家を移築し整備した展示があります。しかし大部分は江戸中期以降の豪農の家です。金持ちの網元の家です。立派な宿場の旅籠です。
要するに普通の農民の暮らしぶりが分かる江戸初期の農家がないのです。
ところが小平市「ふるさと村」には江戸時代初期の農家が復元、展示してあるのです。
農家の構造を詳細に書いた古文書に従って忠実に復元した農家なのです。
先日その写真を撮って来たので下に写真に従ってご説明いたします。

この写真のように軒が低く、出入りには頭をぶつけます。入り口には板戸がついていません。筵などを下げていたようです。右に入り口があり、左の方に奥の間の明り取りに大きな窓が開いています。
この農家には部屋が3つしかありません。南に大きな窓のある割り竹敷の奥の間と、北奥の筵敷の寝室と、土間に筵を敷いた囲炉裏のある部屋の3つです。その他に入り口から裏口へ続く広い土間があります。

この写真は入り口から裏の出口までの様子を示します。家の柱は立派な丸太を使っていますが地面に深く埋めた「掘っ立て柱」であることは縄文時代と変わりません。

上の写真は家の左の方にある奥の間の明り取りの窓から家の中を撮った写真です。奥の間には割り竹が敷いてあり畳は使われていません。奥の間の向こうに囲炉裏が見え、その向こうに裏口が明るく開いています。写真の中心に大黒柱が立っていますが、これも地中深く埋めた掘っ立て柱です。

この写真は家の土間に入って、囲炉裏の右奥にある寝室の光景を撮った写真です。割り竹を敷いて、その上に藁を編んだ筵を何枚も敷いています。極寒の夜のには蒲団だけでなく藁をかぶって寝たという記述が、あの有名な「北越雪譜」の一節にあったのを思い出します。

上の写真はこの家で唯一の火の気のある場所です。囲炉裏です。
この農家には釜戸などは一切ありません。入り口を入ると広い土間がありますが釜戸や流しや炊事用具が一切ありません。
しかし鉄鍋、鉄瓶、まな板、包丁くらはあったはずです。汲んで来た水を入れて置く水瓶や食器はあったと想像出来ます。
食事のための煮炊きは全て囲炉裏一つでしていたのです。冬の暖房も囲炉裏一つです。
この囲炉裏を囲んで家族が笑いながら楽しく暮らしていたのでしょう。
江戸時代中期以降の豪農の家とはあまりにも違います。驚くほど違います。
しかし何時の時代も雨露を防ぐ家があって囲炉裏が一つあれば幸せです。その上、家族に囲まれた生活なら、たとえひもじい時があっても幸福な人生だったに違いありません。
現在の贅沢な暮らしをしみじみと反省しながら、ずいぶん長い間、この農家の囲炉裏のそばに佇んでいました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
「江戸時代初期の農家の復元展示」

http://kodaira-furusatomura.jp/institution
この建物は、江戸時代初期の小平開拓当初の農民住居を復元したものです。
小平の開発にあたって、開発名主であった小川家に残る小川家文書(東京都指定有形文化財)によると、「間口を広く、奥行きを狭く建て、建方は丸太の柱を掘立にし、藁または茅麦藁(かやむぎわら)等で屋根を葺き、細竹を編んだ床、あるいは籾殻(もみがら)、藁屑(わらくず)等を敷きその上に莚(むしろ)を敷く。木材は、桁・梁は松、柱は栗材を使用。外壁は茅、麦藁で囲ったもの」と記されています。
この住居は二人用の住宅で、間口三間半、奥行二間の上屋の外側に、三尺の下屋(げや)がつくものです。古文書に従い古い工法や、かつて使われていたものと同じ材料(材種)を使用して復元したもので、当時の生活がうかがえる建物です。

雨続きなので気持ち良い北海道の秋空の写真をお送りします

2015年09月25日 | 写真
最近、雨ばかりで気持ちが落ち込みます。
こういう時には「根室写真館」(https://www.facebook.com/masachuunemuro?pnref=story)というHPを見ています。
釧路近辺の見事な秋空の写真がありましたので3枚お送りいたします。
どうぞ「根室写真館」の他のページもご覧ください。実に美しい写真が沢山掲載してあります。





全ての国際ニュースは日本人にとって対岸の火事?

2015年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は広い海に囲まれています。ですから外国で起きる全ての事件はどうしても対岸の火事のように感じられます。
紅蓮の炎は見えますが火事場の喧騒や消防自動車のサイレンの音などは一切聞こえて来ません。
静かな無声映画を見ているような気分になります。
日本の新聞社やテレビの報道は、外国の通信社が配信する重大ニュースを形式的に日本へ流しているだけのようです。他人事なのです。
例えばシリア難民がヨーロッパに押し寄せている現象を独自に調査し、自分の見解を報道しようとしません。
中東の難民は今までヨーロッパに押し寄せていなのに、何故最近急に押し寄せているのか?
従来から行っている難民救援の日本のNPOは多数あります。それなのに現在起きているシリア難民にはどのように対応しているのか?
そしてシリア難民の一部は日本が引き受けるべきか?などなど多くの疑問があります。
このような問題を独自に調査して報道するのが日本人特派員の役目ではないでしょうか。難民に対する報道が形式的過ぎて一体何が起きているのか判らないのです。特派員が対岸の火事の様子を見ているだけで、火事場に踏み込んでいなのです。
この弊害はもう一つの記事でも感じました。
習主席がボーイング社から300機の大型旅客機を買う契約をしたというニュースです。
日本の特派員は事前に知らなかったのでしょうか?独自の取材活動をしていなかったのでしょうか?
習主席とオバマ大統領の会談だけを報道すれば良い、今回の事は米中関係なので日本にとっては対岸の火事のように関係ないと思っていたのでしょうか?「爆買い」展開…旅客機300機と面白おかしく笑い飛ばすような態度こそ対岸の火事見物のような感じを受けます。
日本は広い海に囲まれています。ですから外国で起きる全ての事件はどうしても対岸の火事のように感じられます。しかし多くの事件は日本の将来に影響すると思います。最近、そんなことを感じましたので老人の愚痴を書いてみました。
以下のニュース記事もご一読頂ければ幸いです。
(1)クローズアップ2015:難民、EUに亀裂http://mainichi.jp/shimen/news/20150924ddm003030107000c.html
毎日新聞 2015年09月24日 東京朝刊
内戦に苦しむシリアなどから約50万人の難民が欧州に押し寄せている問題で、欧州連合(EU)は22日に計12万人の難民割り当ての義務化を多数決で決定し、ようやく共通の対処策を打ち出した。EUの重要な政策で多数決を強行するのは異例。イスラム教徒の流入を理由に反対したのを無視された東欧諸国からは不満が噴出している。背景には、難民の中に良い暮らしを求める「経済移民」が交じっていることに対する市民のいら立ちのほか、欧州を米国のような移民社会にすべきかという問題を巡る根本的な対立がある。
◇支持広げる「反移民」
バスは必ず来る。落ち着いて」。警察官や兵士が声を張り上げる。連日、5000〜1万人の難民がハンガリーから入国するオーストリア東部ニッケルスドルフ。22日も人の波は途切れなかった。厳しい冬を前に難民が欧州に駆け込む。難民たちはグループに分けられ、政府が用意したバスに乗り込んだ。(以下省略)

写真はオーストリア東部の国境の街ニッケルスドルフで、一刻も早く移動しようとざわめく人々を必死になだめる警察官=22日、(坂口裕彦撮影)
(2)<中国習氏訪米>「爆買い」展開…旅客機300機4.5兆円
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150924-00000035-mai-cn
毎日新聞 9月24日(木)11時26分配信
 【ワシントン清水憲司】中国の習近平国家主席は23日、米西部ワシントン州の米航空機大手ボーイングの工場を訪問し、旅客機300機の発注で合意するなど「爆買い」を展開している。中国との商談や投資が米経済を潤す構図を示すことで、サイバー攻撃などをめぐる米政府の強硬姿勢を和らげる狙いがあるとみられる。
23日午前、工場を訪れた習主席は、中国国際航空(エアチャイナ)と塗装された機体を背景に、ミュイレンバーグ最高経営責任者(CEO)と握手を交わした。米メディアによると、定価で380億ドル(約4.5兆円)規模。ミュイレンバーグ氏は「今回の訪問は、ボーイングと中国の協力関係に新たな章を開くものだ」と歓迎する声明を出し、中国に内装や塗装などを行う工場を建設することも発表した。
これに先立ち、中国の国有企業が米国企業と米西部カリフォルニア州ロサンゼルスとネバダ州ラスベガスを結ぶ高速鉄道の建設でも合意している。中国側がまず1億ドル(約120億円)を投じ、2019年の開通を目指す。日本勢が主導する米南部テキサス州の高速鉄道計画は、現時点で地元投資家から7500万ドル(約90億円)を集め、開業は21年を予定する。中国は金額でも開業時期でも、日本を上回る計画を打ち出した格好で、日本政府は「対抗心をむき出しにしてきた」と警戒を強めている。

写真は購入契約後に握手をしている習主席とボーイング社の社長です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

卒業後、茫々57年の昔の同級生と食事を共にして来ました

2015年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は東京駅地下の黒板塀街の恵比寿ビアホールで昔の同級生と食事を共にして来ました。
1958年3月に東北大学工学部の金属工学科を30名が一緒に卒業しました。
その後、2年おきくらいに同級会を開催してきました。しかしその正式の全員による同級会は今年の5月の会合をもって最後にすることになりました。
後は郷農さんが名誉幹事になって4ケ月毎に昼食会を開くことになっています。
この4ケ月毎の昼食会は郷農さんの幹事役で過去10年以上続いている気楽な昼食会です。
毎回、16名から8名が出席し、昔の学生のころに戻って楽しい話をしながら昼食を食べる会です。
今日も昔の学生気分になって愉快な時間が流れました。それだけの話ですが、いつまでも続くことを祈って車を運転して帰ってきました。
昼食会の写真2枚と首都高速の明治神宮わきのSAで撮った写真を1枚お送り致します。





「老境の幸せは日常茶飯事を丁寧にすると湧き出て来る」

2015年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
老境は自由な時間がふんだんにあります。そこで日常の仕事を丁寧に出来ます。
朝起きてコーヒー淹れ機にコーヒーの粉を正確な分量だけ入れて自分の好みにあった味に仕上げます。コーヒーの香りで家内が起きてきます。お互いになるべく丁寧語で朝の挨拶をします。
このような日常の普通のことを丁寧にするとある大発見をしたのです。私にとって大発見ですが他の方々にとってはご存知のことかも知れません。
その発見とは、「幸せは日常茶飯事を丁寧にすると湧き出て来る」という事実です。
そんなことをしみじみ思うことが昨日あったのです。
それは夏の間伸び放題だった庭木の枝卸しを昨日ほぼ完成したのです。
連日の猛暑で庭木が生え繁って雑然としています。とても人間の住んでいる家の庭のようには見えません。
数日前から涼しくなったので剪定鋏で丁寧に枝を切っていきます。
狭い庭でも木の種類が多いのです。桜や梅や柿や椿。そしてムクゲ、ヤマブキ、ベイリーフ、ツツジ、アジサイ、ビジョヤナギ、ネコヤナギ、ブドウの蔦などです。その上、野鳥が運んで来た正体不明の不思議な低木も2種類あります。
草類にはショウガ、ジンジャー、ハラン、セージ、イセハナビ、シャガなどが勝手気ままに繁茂しています。
3日くらいかけて昨日やっと地面や塀が見えるようになりました。
下の写真はムクゲが繁茂して、隣家との境の白い塀が見えなくなっている様子です。

このムクゲは7月の初めから咲き出して3ケ月間、楽しませてくれました。丁度このキーボードのある机の窓からすぐ見えるのです。数本残して綺麗に切ってしまいました。
下の写真は綺麗に切ってしまって白い塀が見えるようになった様子です。

庭木の枝を切り取った後はその枝を丁寧に短く切り揃えて大きな袋に入れます。
ポーチの椅子に座ってゆっくり切り揃えていきます。
さわやかな秋風が汗ばんだ体を心地よく冷やしてくれます。
短く切った枝を袋に詰めて山林の中の小屋へ持って行くのです。薪ストーブの燃料にするのです。燃える時の良い香りを思いながら庭木を短く切り揃えます。幸せが心に湧き上がってくるのです。
若い時は感じが味わえなかったのです。若い時は庭木の剪定は嫌々しました。早く終えるように雑にしました。
庭木の手入れは年老いて初めて分かった幸せです。
夜になると切り取ったムクゲの花を家内が生け花にしてくれました。
下の2枚の写真がその生け花です。




そしてムクゲの木を切り取ったら数年実らなかった柿の実が沢山あるのを発見しました。
十数個はある二個の柿の実の写真を出します。

この甘柿の木は家内の父が50年ほど前に植えたものです。あまり大きくなり邪魔になりましたが丁寧に大枝を下し大切に育ててきました。2年に一回くらい当たり年が来て美味しい富有柿をたわわに実らせるのです。家内が喜ぶのでこの柿の木を大切にしています。
このような庭木の手入れは本当に日常のことです。日常茶飯事です。
しかし、このような日常茶飯事を丁寧にしていると幸せが湧き上がってくるのです。
そこで気が付きます。賢い人々は若いころから何事も丁寧に仕事をして幸福になっていたのです。老境に至って初めてそれを発見した自分が愚かだっただけの話でした。
このようにつまらない文章をお読み頂いた方々へ感謝いたします。有難う御座いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

秋の日が淡々と流れ、なぜかホロンバイル草原の風景を想う

2015年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
それは心地よい秋風がそっと頬をなでていくような人生のエピソードでした。
丁度2年前の今頃、大学時代の旧友、T君と話をしたのです。卒業後茫々50数年、一別以来会ったことがありませんでした。
その折に彼は情熱的に蒙古平原のホロンバイルについて語りだしたのです。一緒にビールを飲んでいたテーブルの上に彼が中国の大きな地図を広げたのです。満州国が出来る以前の中国の東北部の地図です。そして幼少のころはその内蒙古自治区のホロンバイルに住んでいたと言いだしたのです。夏は暑くて、冬は雪の無い厳寒の草原です。
彼はその草原の広さと魅力を情熱的に話していました。その草原にはハイラルという町があって満州国の西北端の防衛基地だったのです。大規模な要塞が出来ていて、多くの関東軍が駐留していました。彼の父がそこの女学校の先生をしていたので一家で住んでいたそうです。彼は終戦までハイラル小学校にいました。
一挙にソ連軍が攻めて来てハイラルは占領されてしまいます。食うや食わずの生活が1年以上続きやっと家族そろって引き揚げてきます。
仙台の大学を出るとある大きな総合化学会社に就職しました。
そしていろいろなことがあって定年です。
その停年後、昔住んでいたホロンバイルを何度も訪問し、ハイラル小学校にも行き植林事業のボランティア活動をしてきたと言います。
その10年以上にわたる植林事業の間、中国側の人々は非常に友好的で広大な植林地を用意してくれ、苗木の手入れも熱心にしてくれたそうです。
植林した木は「樟子松」という名前のホロンバイル特有の大きなアカマツです。
旧満州国は日本軍が中国東北部を占領して勝手に作った国です。
中国人は恨みに思っている筈です。
しかし植林事業に行く度に大歓迎してくれて、一緒に苗木を草原に植える作業をしたそうです。それは中國人と日本人の美しい友情物語です。
その後、日中間は暗転します。しかし植林した樟子松は大きく育ち、森になっているのです。
毎年、9月になると彼の話を思い出し、はるかホロンバイル草原や樟子松の様子を想像して悠々とした気分になります。
3枚の写真にホロンバイル草原の写真と樟子松の写真をお送りいたします。
中国内蒙古自治区ホロンバイル地方の風景写真の出典は、北京週報http://japanese.beijingreview.com.cn/xz/txt/2010-07/05/content_283032.htm です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







「今日は久しぶりに秋の京王フローラル・ガーデンに行きました」

2015年09月22日 | 写真
隣町の調布市にある京王フローラル・ガーデンに家内と一緒に行きました。
園内には秋の午後の太陽が斜めに差し込んでいて木々の影が長く伸びています。
秋の小さな草花が咲いていました。
静かに時間が流れます。それに合わせるように、ゆっくり写真を撮ってきました。
写真をお楽しみいただけたら嬉しく思います。













「20世紀の世界を震撼させた共産主義(3)キューバ革命とアメリカとの和解」

2015年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
1959年、キューバ革命が成功しカストロの独裁政権が出来ます。アメリカが反発するのは当然です。
キューバはソ連に急接近しソ連にサトウキビを買ってもらい財政が何とかなります。
ところが1962年10月にソ連はアメリカを射程に入れた核ミサイルをキューバに配置し始めました。ケネディ大統領が断固、実力でキューバへの核ミサイル搬入を阻止します。
ケネディ大統領は第三次世界大戦の勃発に備えヨーロッパに配備したアメリカの陸海空の全軍に臨戦態勢を命令します。
ソ連のフルシチョフは第三次世界大戦にこのまま突入するとソ連が不利であると考え弱気になります。そしてキューバからのミサイル基地の撤退をしたのです。
そしていろいろなことがありました。ローマ法王のヨハネ・パウロ2世もベネディクト16世もキューバを訪問しました。
そしてフランシスコ法王はアメリカとキューバの和解を強く斡旋し、54年ぶりの和解に成功したのです。
それを祝い。首都ハバナで野外ミサを司式するために昨日キューバに降り立ったのです。
今日の記事では以上の歴史をかいつまんでご紹介いたします。
(1)キューバ革命政府の樹立
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E9%9D%A9%E5%91%BDからの抜粋です、
1958年になると、キューバでは、反政府各派の共同戦線が結束され、1959年1月1日にハバナ占領を果たして革命政権が成立した。キューバ革命は、当初より社会主義革命を志向したわけではなく、政権獲得直後にはアメリカ合衆国との関係継続を目論んだ交渉も模索していた。
しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と、その後を1960年に継いだジョン・F・ケネディ大統領はカストロら新政府を「容共」であるとみなし、ケネディ大統領は政権を打倒すべくピッグス湾事件を起こした。これによりアメリカ合衆国との関係回復が不可能であると判断すると、ソ連への接近を鮮明にし、1961年に社会主義宣言を示して、キューバ革命を社会主義革命として位置づけた。下の写真は革命成功時のゲバラ(左)とカストロ(右)です。

チェ・ゲバラは閣僚の椅子を断り、再び南米のジャングルに消え、革命戦争に参加し戦死するのです。当時の世界中の若者の間に有名になり彼の肖像画が日本でもさかんに売られていました。
(2)1962年10月のキューバ危機
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E5%8D%B1%E6%A9%9Fからの抜粋です。
ケネディは1962年10月18日にソ連のグロムイコ外務大臣とホワイトハウスで会見しソ連政府の対応を迫ったが、グロムイコはミサイルは防御用のものであると述べた。ケネディはこの時点ではアメリカの握っている証拠を明らかにせず、会談は物別れに終わった。
10月19日にU-2偵察機による決定的写真が撮影され、同盟国への説明が行われた。
ケネディは10月22日午後7時の全米テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。
アメリカ軍全部隊の警戒態勢は、22日の大統領演説中にデフコン3となり、26日午後10時にデフコン2となり準戦時体制が敷かれ、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。核爆弾を搭載したB-52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し戦争に備えた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのR-12(英語版)を発射準備に入れた。
また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどへ水や食料などを買いに殺到する事態が起きた。
下の写真は、テーラー統合参謀本部議長、カーチス・ルメイ空軍参謀総長(右から2番目)らと会談するケネディ大統領の写真です。

不利を悟ったソ連がここで折れました。ワシントン時間(東部標準時)1962年10月28日午前9時、ニキータ・フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。
これで核戦争になる第3次世界大戦が回避されたのです。
その後ケネディ大統領はダラスで大衆の歓迎中に暗殺されたのです。アメリカ人は今でもケネディ大統領を忘れません。
(3)ローマ法王キューバ初訪問 ハバナでミサ(9月21日 9時25分)
以下は、http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150921/k10010243441000.htmlからの転載です。
ローマ法王キューバ初訪問 ハバナでミサ :
アメリカとキューバの国交回復に向けて仲介役を担ったローマ法王のフランシスコ法王が、初めてキューバを訪れ、首都ハバナで大規模なミサを行いました。

アメリカとキューバの54年ぶりの国交回復に向けて両国の仲介役を担ったローマ法王のフランシスコ法王は20日、初めて訪問しているキューバの首都ハバナにある革命広場で大規模なミサを行いました。
この中で、フランシスコ法王は「『思想』ではなく『人』に奉仕することが重要だ。偉大な人物になりたければ、誘惑に負けることなく弱者に奉仕を続けるべきだ」と訴えました。
キューバでは、アメリカとの国交回復で経済の活性化に期待が高まる一方、格差の拡大が懸念されていて、法王の発言は、経済発展に取り残される弱者が切り捨てられないようキューバ国民に警鐘をならしたものとも受け止められています。
このあと、フランシスコ法王は、キューバ革命を起こしたフィデル・カストロ前国家評議会議長の自宅に招かれ、和やかな雰囲気で会談したということです。フランシスコ法王は、22日までキューバに滞在し、その後、アメリカを訪れ、オバマ大統領と会談するほか、議会や国連で演説する予定です。

この連載記事は「20世紀の世界を震撼させた共産主義」という題目です。
21世紀の現在、共産主義は影が薄くなりました。共産主義の国際政治に与えた影響も過去のものとなり忘れ去られようとしています。しかし今後、平和な国際関係を維持し、戦争を防止するためには過去の歴史からの教訓を忘れるべきでは無いのではないのでしょうか。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「別世界とはこういう所?・・・この世とあの世は同じもの?」

2015年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
平凡な日常に退屈すると、時々開いて見る本があります。 片岡佳哉さんが書いた「ブルーウオーター・ストーリー」という航海記です。小さなヨットで単独航海を続け南極まで行ったのです。その8年にわたる世界一周単独帆走記には想像もつかない別世界が紹介されています。
今日は 片岡佳哉さんが書いているHPの「青海」からマゼラン海峡とホーン岬の「余話3」をご紹介いたします。
====片岡佳哉著、余話 3 魔物の住みかチリ多島海======
http://aomi-sailing.com/bws/bluewater-story-yowa3...
地球上には、この世のものと思えない景色と体験が存在することを、少しでもお伝えしたいと思い、この回を書きました。もしかすると、この世とあの世は同じもので、それらに区別はないのではと、不思議な気持ちになったのです。
場所は地球の裏側、南米南端に近いチリ多島海です。ここには無数の島々が日本の本州ほども長く続いているのです。
半信半疑でした。これほど島々の多い海域を、一人で航海できるでしょうか? 途中で疲れても、怪我をしても、交代してくれる人はありません。外洋の航海とは違い、少しでも見張りを怠ると、たちまち島々に衝突する危険がありました。

正直な話、島々の間の航海は外洋航海に比べ、かなり難易度が高いと思うのです。島という障害物の間を安全に、ガイドなしで通過するには、海図を読む力、事前にローカルインフォメーションを収集する脳力、そして夜間や荒天時のアンカリング技術等々、数多くの事を学ばなくてはなりません。
しかもチリ多島海では、島々の複雑な地形によって増幅された烈風、アンデスの吹き下ろしとも言われるウィリウォウが吹くというのです。日本の小型ヨットによる多島海全域通過の記録はそれまで例がなく、しかも以前にアメリカのヨットが南米南端ホーン岬の手前で座礁して、チリ海軍に救助されていたのです。

わずか3馬力半のエンジンしか持たない<青海>で、しかもたった一人、無数の島々の間を無事に航海できるのか、自信は全くありませんでした。
にもかかわらず、<青海>がチリ多島海に向かったのは、日本を出発する前にハルロス著「ホーン岬への航海」(翻訳:野本健作)と出合っていたからでした。

それはアメリカ人夫婦が35フィートのウィスパー号に乗り、延々と続く島々の間を走ってホーン岬を目指した記録です。ウィスパー号は何度もウィリウォウに襲われて錨が滑り、ついにはホーン岬に近い島の上に座礁してしまいます。が、彼等はセールでテントを作り、一週間以上も野営して、チリ海軍の救助を待ったのです。

結局、彼等は壊れたヨットを修理してホーン岬を回り、その後も旅を続けるのですが、その航海を記した本の文章と写真は、チリ多島海の空気、風、景色を強烈に伝えてくれました。

そこには、町の生活に慣れてしまった現代人の知らない世界、いや、おそらく忘れた世界、潜在意識の中に太古からの記憶として埋もれているかもしれない世界が広がっていたのです。

それは怖くもあり、少し懐かしくもあり、しかも不気味な、実に不思議な光景でした。地球上には、これほど神秘的で魅力的な景色が存在するのに、まるでカゴに入ったハツカネズミのように、町の中をグルグル回りながら生きているのは、我慢出来ないとも感じました。

そこで、日本を出る前に東京のチリ大使館を訪ね、「海軍武官」という肩書きのチリ人から航海の助言を受けたのです。また、後に太平洋を横断して着いたサンフランシスコでは、多島海を通過するために必要な数種類の錨やロープ類、米国防総省発行チリ多島海図を全て揃え、<青海>も念入りに整備しました。

ところで、パナマ運河を通らずに世界一周するヨットは、北極海回りの特殊な例を除き、南米大陸の南を走ることになりますが、その一つがマゼラン海峡経由、もう一つがホーン岬経由のコースです。

そのどちらを選択した場合でも、通常は南緯40度や50度という、南太平洋の荒れる海域を走らねばなりません。しかし、チリ多島海を通ってマゼラン海峡やホーン岬に向かえば、無数の島々が波浪からヨットを守ってくれるのです。大波による転覆のリスクを軽減するためには、チリ多島海経由の世界一周がよいかもしれません。

ただ、前述のようにチリ多島海通過は別の面で危険を冒すことになりますし、マゼラン海峡やホーン岬を無事にクリアできたとしても、その後には大荒れの南大西洋が待っていることに、少しも変わりはないのです。

でも、いずれにせよ、<青海>でチリ多島海を目指すことにしたのです。どうしてもその景色を見たいと熱望していたのです。地球の果ての想像を絶する山と海、うわさに聞く秘境の中、命をかけて全力をつくしてみようと、心に強く決めたのです。(終り)







秋の果物、あけび、栗、柿の思い出

2015年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりました。
店には秋の果物が美しく並んでいます。戦中、戦後に仙台市に育った頃は秋の果物といえば柿と栗しかありませんでした。冬になれば青森の林檎や静岡のミカン並びがましたが、一般的に果物は貴重品でたまにしか食べられませんでした。
そんな時代に郊外の八木山の森深く入って行くと不思議に山栗が沢山落ちているところを一度だけ発見したのです。それは踊り上がるような歓喜でした。
栗の実を拾い集めてからさらに森の奥に入って行きますた。と、不思議な果物がつるにぶら下がっていたのです。それは淡い紫色になったアケビでした。
すぐに取って、中の果実を口に入れると、やさしい穏やかな甘味が広がります。その甘味は砂糖のように強くなく、ほのかな甘味ですが、何故か体中が幸せになるような感じがします。
この世の果物ではないような味です。幻想的な味です。
それ以来、野生のアケビを探して八木山の奥に毎年のように入りましたが、なかなか見つかりません。まさしく幻の果物でした。
・・・それからいろいろな事がありました。
1975年になって山梨県の甲斐駒岳の麓の森の中に小屋を建てました。初めて行ったときに小川の向こうに何と、あの幻の果物のアケビが実っていたのです。薄紫色のアケビが3個ぶら下がっています。
少年の頃。仙台の八木山でアケビを見つけた時の歓喜がよみがえります。
そこでその小屋の名前を「あけび荘」とし、彫刻用の木版に彫って小屋に取り付けました。
・・・それからまたいろいろな事がありました。
1990年に琵琶湖で中古のヨットを買って、霞ヶ浦のマリーナまで陸送しました。その時、ヨットの店の人に「あけび号」と船首に書いて下さいと頼みました。
霞が裏に浮かんだ「ヤマハ19」の白い船首の両側に墨黒々と「あけび号」と書いてあります。その後、少し大きな中古ヨットにしましたが、その登録名は「あけびⅡ号」としました。
アケビの実は不思議です。
いつもは忘れているのに人生の折り目、折り目に心の中から出てくるのです。そして八木山の奥でアケビを発見した時の歓喜がよみがえってきて幸せな気分になるのです。
今朝の読売新聞に下の句がありました。

「あの頃のほのかに甘き通草(あけび)かな」  松井矢菅

写真にあけびや秋の果物の写真を示します。
あけびの写真の出典は、http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/2344/recipe/oba-chan/akebikawa.htmです。
栗の写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/syumi-uu/m/200609です。
秋の果物の写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=22654001497&GroupCD=0&no= です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)