後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ニューギニアの現在、東半分は独立、西半分はインドネシアに編入」

2024年09月09日 | 国際・政治
現在、ニューギニアの東半分は独立国で、西半分はインドネシアに編入されています。

 ニューギニア島は、グリーンランドに次ぐ世界第2位の面積を持つ島です。
1828年にニューギニア島の西半分をオランダが併合し、1884年にはドイツがニューギニア島の北東部を、イギリスが南東部を保護領としました。
その後ニューギニアは、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領となりました。
1963年に西半分はインドネシアに編入され、東半分は1975年に独立しました。
国土の大部分は熱帯気候で、ニューギニア島南部のパプア湾に面したガルフ州では年間降水量が8000mmに到達します。
一方、そこから海岸沿いを南東に進んだ首都ポートモレスビーでは、年間降水量が1000mm程度と少なくなります。
内陸部は高山地帯で、標高4500mに達するウィルヘルム山を有するビスマーク山脈が東西に走ります。
英語などが公用語ですが、800以上の民族言語があるとされています。
バニラビーンズ、タロイモ、ココナッツ、パーム油の生産量が多く、天然ガスや石油、金鉱、銅鉱といった地下資源を産出します。
旧宗主国オーストラリアが輸出入額ともトップの貿易相手です。
オーストラリアとの対等関係、国境を接するインドネシアとの友好関係、PIF(太平洋諸島フォーラム)での中心的な立場が外交の機軸です。

写真はニューギニアの東半分は独立国の首都、ポートモレスビーとその他の風景写真です。

「東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式」

2024年08月16日 | 国際・政治
1945年9月2日に東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式で太平洋戦争が終結しました。
歴史上最も多くの被害と戦死者を出した戦争は、このわずか23分間の式によって終結したのです。
9時2分に日本の降伏文書調印式が始まりました。まずマッカーサーが行ったスピーチのあと、日本の天皇と政府の代理として重光葵外務大臣が署名を行い、続いて日本軍の大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が署名をしました。

そして、続いて各代表も以下の順番で署名を行いました。
アメリカ合衆国代表 チェスター・ニミッツ
中華民国代表 徐永昌
イギリス代表 ブルース・フレーザー
ソビエト連邦代表 クズマ・デレヴャーンコ
オーストラリア代表 トーマス・ブレイミー
カナダ代表 ムーア・ゴスグローブ
フランス代表 フィリップ・ルクレール
オランダ代表 コンラート・ヘルフリッヒ
ニュージーランド代表レナード・イシット
全ての代表の署名が終わり、マッカーサー元帥が神への短い祈りを述べた後、調印式は約23分で終了し、戦争は正式に終結しました。

「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」

2024年06月11日 | 国際・政治
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?
しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。
今日は中国の権力者だった周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。
私は1981年に北京と瀋陽に行きました。北京科学技術大学の周教授が紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどを案内してくれました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺へも行きました。
1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。
そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見ながら歩く回廊がロマンチックなのです。
2番目の写真はその頤和園の回廊の写真です。
中国人は唯々諾々として政府の言うことに従っている訳ではありません。時と場合によっては立ち上がるのです。
政府の指示を無視した周恩来の追悼行事と1989年の天安門事件がその例です。
中国人は絶対に文化革命時の悲惨さと、民衆を救おうとした周恩来を忘れません。民主化を進めて失脚した共産党総書記、胡耀邦と趙紫陽を忘れません。
これは北京の大学の地下室で見た中国人の本音です。
中国の首相、周恩来が1976年に死にました。中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止しました。周恩来の人気が高すぎるので政権内に混乱が起きるのを恐れたのです。この政府による禁止命令は1980年代まで続きます。
北京の大学の地下3階の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
中国の東北部にある瀋陽に行った時、東北工科大学の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で話しかけてきました。「日本人にはいろいろな人がいました。大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は絶対に忘れません」と懐かしそうに言うのです。
さて中国には二つの天安門事件が起きました。1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件です。周恩来と胡耀邦の死を悼んだ民衆が天安門広場に集まったのです。その民衆を共産党中央権力者が武力で蹴散らした事件です。中國人は周恩来と胡耀邦を慕っていたのです。愛していたのです。
3番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。その後の実権を握ったのは鄧小平でした。
4番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。
鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。
この1972年から1989年の間は日中友好の時代でした。この日中友好の時代には中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件が起き、その後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。
中国には独裁的な政治家がいました。毛沢東、鄧小平、江沢民、そして習近平などです。しかし一方温情的で国民に優しい政治家もいました。周恩来、胡耀邦、胡錦涛、温家宝などです。
下に胡耀邦、胡錦涛、温家宝のことを書きたいと思います。
まず胡耀邦のことですが、彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
5番目の写真は胡耀邦です。
胡耀邦は1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請しました。
そして日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案しました。胡はこれに賛同し、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせたのです。
6番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。
胡耀邦は1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。
その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。
5月4日には北京の学生や市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展します。
ここで胡耀邦の弟子だった趙紫陽総書記が学生運動に同情的な発言を行います。それが致命傷になり、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとして趙紫陽も失脚しました。
中国人は胡耀邦と周恩来を絶対に忘れません。
そんな中国人に私は強い親近感を持ちます。同情し尊敬します。
江沢民の常軌を逸した反日政策で荒廃した日中関係を友好関係へと軌道修正に努力したのが胡錦濤・温家宝体制でした。その期間は2002年から2012年迄です。
胡錦濤・温家宝体制が2011年の東日本大震災の被害に対して行った暖かい支援をご紹介いたします。
胡錦濤主席と温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供すると表明したのです。
中国地震局は東日本大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
温家宝は2011年4月11日に訪日し天皇とも会見し友好路線をとることを表明します。
胡錦濤も2008年5月に来日し、個人的にも信頼関係にあった当時の福田康夫首相と「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表し友好関係へ舵を切ったのです。天皇をも表敬訪問します。
温家宝は2011年5月に再び訪日し、5月21日、東日本大震災の被災地である福島県を訪れたのです。その時の写真を示します。
7番目の写真は温家宝首相は放射能の恐怖をものともせずに、福島第一原発事故の避難住民が暮らす避難所を訪れた時の光景です。茶髪のお母さんが嬉しそうに笑っています。
8番目の写真は中国政府が緊急に派遣した救援隊の写真です。
9番目の写真は2011年8月1日、温家宝の招待で東日本大震災被災地の子供たち100人が海南省海南島に到着した時の写真です。チャーター機が仙台空港から海南省海南島に到着したのです。これは2011年の5月に訪日した温家宝首相の招待によるものでした。

日中が友好関係にあった胡耀邦、胡錦涛、温家宝などの時代があったことを忘れるべきではありません。日本人は中国から受けた恩を忘れるような民族ではありません。

今日は周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ペリー提督の外交戦略と南北戦争の勃発」

2024年02月04日 | 国際・政治

嘉永6年、1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー艦隊4隻が浦賀、久里浜へ姿を現した。

蒸気外輪巡洋艦、サスケハナとミシシッピーの2艦と、帆船、サラトガとプリマスの合計4艦で、計100門の大砲で武装している。

ペリー提督は2つの外交戦略を使った。自分が合衆国大統領の正使であることを強調するため、江戸の将軍の代理と判断できる幕府代表以外には絶対に会わないと宣言した。幕府はしぶしぶながら大統領からの開国を要求する親書を受け取る。ペリー提督は鷹揚にも1年間の検討期間を与えると言い、久里浜を去る。

もう一つの外交的戦略は、所謂、「砲艦外交」である。4艦で合計100門の大砲を東京湾の中で発砲する。独立記念日の祝砲とか、儀礼的な発砲であると称して。全て空砲ではあったが、数十発を夜も打ったという。その恐ろしい、大きな爆発音で江戸中が大混乱になった。「ジョウキセンたった4はいで夜も眠れず、、」という「ざれ歌」の背景には江戸沖で連打される大砲の音が重要な役をしていたという。「蒸気船4はいの大砲の音の恐ろしさで夜も眠られず、、、」と読み下してみると納得する。

尚、来航した4艦は2000トン以上の排水量で千石船の100トン前後と比較すると20倍以上の大きさであることも江戸の人々へ恐怖心を起こさせた一因でもあった。

1853年のペリー艦隊によって、日本が初めて「砲艦外交」の洗礼を受けたのである。(後年日本はその外交手法を中国へ対して使うようになるが)

下の写真5枚は、ペリー提督が一回目の来航で初めて上陸した、久里浜の海岸にある記念碑や記念館の様子を写したものである。(撮影日時:6月14日午後1時頃)


1年間の猶予を与えると言いながら、将軍、家慶が病死すると、ペリー艦隊は帰国途中の香港から突然引き返して来た。江戸到着は、離日後わずか6ケ月の1854年1月である。

13代将軍に家定が就いたが、病弱で国政を担える状態ではない。老中達が浮き足立つ。この混乱状態をペリーは巧みに突いて、交渉を強行する。その結果、横浜で日米和親条約と、それにもとづいて開港した下田で細目をつめ「下田条約」を作った。

これら2回の来航と交渉の経緯、そして砲艦外交の併用をみるとペリーの外交手腕は卓越したものと言わざるを得ない。ペリー提督の外交戦略の完全勝利である。

日米和親条約と下田条約に従って、タウゼント・ハリスが初代の駐日米総領事として下田の玉泉寺へ着任する。安政3年、1856年のことである。

ここでいきなり話が飛ぶ。

太平洋戦争の降伏式は1945年9月、戦艦ミズリー号の甲板上で挙行された。そのとき掲揚された軍艦旗は90年前にペリー提督が使用した軍艦旗である。

アメリカ海軍は日本の敗戦こそ第二の開国にあたると思ったに違いない。

戦後すぐ貧しい映画館でみたニュース映画では、外国人による暗殺未遂によって怪我をした足を引きずる重光外務大臣の姿が悲壮に見えた。降伏式を見下ろしてはためいていたのがペリー提督の旗艦だったポーハタン号(2415トン)の軍艦旗であると気がついた日本人は居なかったという。

ペリー提督の外交的成功やハリス総領事の着任後、アメリカでは南北戦争が勃発し、アジアへの影響力が消えて行く。それに代わって英国がシンガポールや香港を植民地にして支配的な地位を築く。日本では、英国の支援を受けた薩摩、長州などが中心勢力になって江戸幕府が倒され明治政府が生まれる。

明治政府が始めから英国との結びつきが強いのは、薩摩英国戦争や長州英国戦争で敗北した結果でもある。この歴史的展開はやがてドイツとの枢軸同盟によって暗転し、第二次大戦における日本の敗戦へ続いて行く。

1853年のペリー艦隊が浦賀、久里浜へ上陸してから我が国の近代史が始った。そんなことを思いながら、母子が戯れる久里浜の砂浜を見やる。海の向こうには房総半島が横たわっている。思えば日本も数々の戦争をした。しかし戦後79年、日本は戦争をしていない。この国に生まれた幸を感謝する。久里浜のペリー記念公園を独り散策しながら先の大戦で亡くなった人々の冥福をゆっくりと祈りながら。(終わり)


「ロシアの軍事侵攻によってウクライナの穀物輸出が激減!」

2023年03月03日 | 国際・政治
ロシアによるウクライナ侵攻が、世界の農業・食料安全保障に大きな影響を及ぼしていることが明白になってきました。

ウクライナ農業政策・食料省によると、平時は毎月600万トンの穀物を輸出していました。
しかしロシア侵攻が始まった2022年3月には32万2000トン、4月には97万トン、5月には120万トン、6月には100万トン強の穀物の輸出にとどまっています。

2022年の生産現場は深刻です。
6月2日の時点では、昨年比19.4%減の1420万ヘクタールの春作物の植付が終了していますが、生産者の約25%は、作物の病害虫防除に必要な物資が不足しています。

詳細は、https://smartagri-jp.com/agriculture/4836 をご覧下さい。

「真珠湾攻撃の特殊潜航艇の9軍神と生き残った坂巻少尉のその後」

2023年01月18日 | 国際・政治
真珠湾攻撃では、ゼロ戦による空襲を思い浮かべる方は多いと思いますが、海の中からも攻撃が行われていました。

1番目の写真は’海軍特別攻撃隊’’の特殊潜航艇です.。前方から見た特殊潜航艇です.。「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)にて展示。

この’’海軍特別攻撃隊’’は特殊潜航艇(別名甲標的)という小型の潜水艦に乗り込み真珠湾に出発します。

5隻特殊潜航艇に2人ずつ乗組み、未帰還となった海軍中佐、岩佐直治ら以下の9名が「特別攻撃隊の偉勳」として9軍神とされたのです。

9軍神は以下のとおりです。
岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

2番目の写真は9軍神です。

潜航艇は1隻2人乗りで、生存者の酒巻和男少尉は捕虜となったのだが、大本営発表ではこの事実は伏せられました。

しかしVOAの報道により実態は日本では密かに流布されていました。

100隻の特殊潜航艇を作り、訓練が行われた愛媛県伊方町の三机湾には慰霊碑が設置されています。

以下は青木弘亘のプロジェクトページ、https://otsucle.jp/cf/project/3419.html から抜粋です。

「真珠湾奇襲攻撃 酒巻和男の手記」(増補復刻合本改訂版)

酒巻和男さんは、徳島県阿波町馬場の生まれ。

脇町中学校を卒業後、海軍兵学校に入学。

昭和15年に海軍兵学校を卒業。

少尉任官と同時に水上機母艦「千代田」に配属される。

昭和16年の4月から三机湾で特殊潜航艇の訓練を開始。

1945年12月の真珠湾攻撃の際に米軍の捕虜となり、4年間の捕虜生活を送る。

昭和21年に帰国後はトヨタ自動車工業に入社し教育訓練・輸出関係に従事。

その後、14年間ブラジルトヨタ社長を務める等、戦後日本の復興発展の最前線で約40年にわたり企業戦士として献身的に活動しました。

3番目の写真はブラジルトヨタ社長時代の酒巻和男氏です。

定年退職後、関連会社の豊田総建社長を勤め、昭和60年に退社。

平成11年、81歳で生涯を閉じる。

戦争になると実にいろいろな攻撃方法が考え出されられるのです。戦争は本当に悲劇です。嗚呼。

「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その3

2022年04月05日 | 国際・政治
今日は「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」のその3としてロシアとの関係の歴史を書こうと思っていました。
しかしウクライナとロシアの関係での一番重大な事件が最近あったのです。
ロシア兵によるウクライナ人の婦女子に対する暴行や虐殺です。規模の広汎な暴行と虐殺です。世界が震かんした歴史上稀な残虐行為です。
ウクライナとロシアの将来の関係に最悪の影響が残る歴史的な事件でした。
ロシアは過去に輝かしい文化を持っていた国でした。しかし今回のことで全てが無に帰しました。
プーチン大統領は自国のロシアを破滅させたのです。
以下にこれに関するロイターの報道を転載致します。

「ロシアの「戦争犯罪」糾弾、民間人多数殺害で和平交渉困難」https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-idJPKCN2LW1YX 

[ブチャ(ウクライナ) 4日 ロイター]
ロシア軍がウクライナ北部を占領していた間に多数の民間人を虐殺した疑いが浮上したことで、4日はロシアの「戦争犯罪」を非難する声が高まった。こうした中、ロシア軍はウクライナ北部から軍を撤退させ、他の地域に再配置するとみられている。

ロシア軍がウクライナ北部を占領していた間に多数の民間人を虐殺した疑いが浮上したことで、4日はロシアの「戦争犯罪」を非難する声が高まった。

ウクライナの検察当局は前日、首都キーウ(キエフ)近郊のブチャを含む複数の地域で計410人の遺体を発見したと表明。ブチャの市長は、ロシア軍の支配下で住民300人が殺害されたと明らかにした。

キーウの北西約40キロにある町のタラス・シャプラフスキー副市長は、ロシア軍の撤退後、法的手続きを経ない処刑の犠牲者約50人の遺体が発見されたと明らかにした。ロイターの記者は、両手を後ろに縛られ頭部に銃で撃たれた跡がある男性が道端に倒れているのを目撃。教会のそばに掘られた集団墓地では、犠牲者の手や足が赤土の間から突き出ていた。

ウクライナのゼレンスキー大統領はこの日、護衛官と共にブチャを訪れ、ロシア軍の残虐行為が明らかになったことでロシアとの和平交渉が一段と困難になったと指摘。国営テレビに対し「これは戦争犯罪であり、世界でジェノサイド(集団殺害)として認識されるだろう」とし、「ロシア軍がここで行ったことを見ると、対話を行うのは極めて難しい。ロシアが対話プロセスを引き延ばせば引き延ばすほど、ロシア、およびこの戦争の状況は悪化する」と述べた。

ウクライナのクレバ外相は英国のトラス外相との共同記者会見で、ロシア軍がブチャで行った民間人殺害は「氷山の一角」にすぎないとし、ロシアに対する一段と厳しい制裁措置が必要との考えを表明。「制裁措置に疑問があるなら、まずブチャに行き、惨状を目にしてほしい」と述べた。

米国務省のプライス報道官は、ウクライナの要請を受けて残虐行為の証拠収集と分析のためにウクライナに派遣される国際検察官の多国籍チームを支援すると明らかにした。

<プーチン氏は「戦犯」>
米国のバイデン大統領はロシアのプーチン大統領を「戦争犯罪者」と呼び、戦犯裁判を求めると言明。ホワイトハウスで記者団に対し「ブチャで何が行われたか、誰もが知るところとなった。(プーチン大統領が)戦犯に当たることを示している」と述べた。

トラス英外相も、ロシア軍によるウクライナでの戦争犯罪は「極めて明白」との認識を表明。「ブチャにおける映像に誰もががくぜんとしている。戦争犯罪が起きたことは非常に明白」とした上で、「ジェノサイド(集団殺害)に関する問題については、裁判所の決定に委ねられている」と述べた。

<ロシア軍再配置>
米国防総省当局者はロシア軍がこれまでにキーウ周辺から約3分の2の軍部隊を再配置したと明らかにした。
当局者は、再配置された兵士のは多くはベラルーシで統合されているほか、確認はされていないものの、ウクライナ東部に再派遣される公算が大きいと指摘。「再装備と人員補給が行われ、ウクライナの別の場所での戦闘に配備される可能性がある」と述べた。

ウクライナ北部の複数の当局者はこの日、ロシア軍がほぼ撤退、もしくは大幅に配備を縮小したと報告。キーウ西方のジトーミル州のブネチコ知事は、ロシア軍が完全に撤退したと明らかにしたほか、キーウ北東のチェルニヒウ州の当局者は、一部のロシア軍はなお残留しているものの、州都チェルニヒウ市周辺からは撤退したと明らかにした。(終わり)

今日は皆様気分が暗くなったと思いますのでウクライナの美しい風景写真をお送り致します。大自然が美しいウクライナの山岳リゾート地ヤレムチェの風景写真です。

出典は、Noriko Sumiya さんのブログ、https://norikosumiya.com/yaremche/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「最新のウクライナニュース」

2022年03月25日 | 国際・政治

「ウクライナ “ロシア海軍の艦艇撃沈” 停戦交渉停滞で長期化か」
2022年3月25日 5時15分 

ロシア軍がウクライナへの侵攻を続ける中、ウクライナ軍はロシア海軍の艦艇を撃沈したと発表するなど、激しい抵抗を続けています。
一方、双方の停戦交渉は停滞しているとみられ、長期化への懸念が強まっています。

ウクライナへの侵攻を続けるロシア軍は、東部の要衝マリウポリの包囲を続けるなど、親ロシア派の武装勢力を支援しながら戦闘を激化させています。
これに対し、ウクライナ軍は24日、ロシア軍が掌握した南東部ベルジャンシクの港に停泊していたロシア海軍の大型揚陸艦を攻撃して撃沈したと発表するなど、激しく抵抗しています。

首都キエフの包囲に向けたロシア軍の部隊には一部で後退もみられていて、イギリス国防省は「ロシア軍はほぼ確実に数千人の犠牲者が出ている」と分析しているほか、アメリカメディアもNATO=北大西洋条約機構の高官の話として、ロシア軍の兵士が7000人から最大で1万5000人死亡したと推定され、軍の装備の10%が失われて軍事作戦のペースを維持する能力が損なわれた可能性があると伝えています。

以下に続きます。
https://www3.nhk.or.jp/.../20220325/k10013550651000.html..


「中国は日本の仮想敵国か?そしてその実態は?その2」

2021年06月08日 | 国際・政治
現代中国には独裁的な政治家がいます。毛沢東、鄧小平、江沢民、そして習近平などです。しかし一方温情的で国民に優しい政治家もいました。周恩来、胡耀邦、胡錦涛、温家宝などです。
今日は胡耀邦、胡錦涛、温家宝のことを書きたいと思います。
まず胡耀邦のことですが、彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。胡耀邦さんのことを3つだけ紹介いたします。

1)1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われています。
ラサで共産党幹部らに対する演説で、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁したのです。
更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放しました。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回されたのです。

1番目の写真は胡耀邦です。

2)1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)。
日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案しました。胡はこれに賛同し、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせたのです。

2番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。

3)1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。
その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。
五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生や市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展します。
ここで胡耀邦の弟子だった趙紫陽総書記が学生運動に同情的な発言を行います。それが致命傷になり、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとして趙紫陽も失脚しました。
胡耀邦は人民服ではなくて西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使い、合理的なことは何でも取り入れる柔軟な指導者でした。
胡耀邦の墓は中国首脳の指定墓地である北の八宝山公墓ではなく、李昭夫人の希望により江西省の共青城にあります。
中国共産党が胡耀邦の記憶を抹殺しようとすればするほど益々中国人の心に深く刻まれて行くのです。そして胡耀邦と周恩来を絶対に忘れません。
そんな中国人に私は強い親近感を持ちます。同情し尊敬します。これこそが日中友好の基礎になるのではないでしょうか?

それはさておき胡錦涛、温家宝のことを書きたいと思います。
江沢民の常軌を逸した反日政策で荒廃した日中関係を友好関係へと軌道修正に努力したのが胡錦濤・温家宝体制でした。その期間は2002年から2012年迄です。
今日は胡錦濤・温家宝体制が2011年の東日本大震災の被害に対して行った暖かい支援をご紹介いたします。
胡錦濤主席と温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供すると表明したのです。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を日本の天皇に宛てに送ります。
中国地震局は東日本大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定します。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、13日に既に約5000元が集まったそうです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を持って羽田空港に到着します。
温家宝は2011年4月11日に訪日し天皇とも会見し友好路線をとることを表明します。
胡錦濤も2008年5月に来日し、個人的にも信頼関係にあった当時の福田康夫首相と「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表し友好関係へ舵を切ったのです。天皇をも表敬訪問します。
温家宝は2011年5月に再び訪日し、5月21日、東日本大震災の被災地である福島県を訪れたのです。その時の写真を示します。

3番目の写真は温家宝首相は放射能の恐怖をものともせずに、福島第一原発事故の避難住民が暮らす避難所を訪れた時の光景です。茶髪のお母さんが嬉しそうに笑っています。

4番目の写真は避難所の床に菅直人首相とともに床に座っている温家宝です。
そして放射能の恐怖をものともせずに福島県産のサクランボ、キュウリ、ミニトマトを食べるパフォーマンスを行ったのです。

5番目の写真は中国政府が緊急に派遣した救援隊の写真です。

6番目の写真は2011年8月1日、温家宝の招待で東日本大震災被災地の子供たち100人が海南省海南島に到着した時の写真です。チャーター機が仙台空港から海南省海南島に到着したのです。これは2011年の5月に訪日した温家宝首相の招待によるものでした。

この大震災以後、 中国での報道のトーンも、ガラリと一変します。
5月9日の「中国新聞網」は「震災後、中日関係は改善の軌道に入った」と伝えます。
 日中友好議員連盟の訪中には習近平副主席が出迎え、「中日の国民感情を改善し、敏感な問題を穏当に処理し、中日関係をいっそう発展させたい」と応えているのです。また、中国の雑誌「世界知識」は「尖閣問題はアメリカの妨害が根源だ」と攻撃の矛先をアメリカに転じます。
大震災で日中関係改善の流れが決定的になったのです。
胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の反日政策、そして、時代の中心であった毛沢東思想とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して徳治主義的に道徳規範を成文化したものへ推移していたのです。

現在の日中関係は良くありません。中国の覇権主義とそれに対するアメリカの攻撃的な政策のお陰でアメリカの同盟国の日本は難しい立場になっているのです。しかし日中が友好関係にあった胡耀邦、胡錦涛、温家宝などの時代があったことを忘れるべきではありません。日本人は中国から受けた恩を忘れるような民族ではありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

イスラム国を含む混沌とした乱戦は17世紀のヨーロッパにも、、、

2014年09月16日 | 国際・政治
「イスラム国を含む混沌とした乱戦は17世紀のヨーロッパにもありました・・・これを知れば中東の乱戦が分かる」
イスラム教スンニ派の過激武力集団がシリア北部とイラク北部を広範に占領して、そこに「イスラム国」という国の独立を宣言しました。

このように勢力を拡大しているイスラム国を壊滅させようとして、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアとアラブ諸国の連合戦線が結成されつつあります。

例によって欧米諸国は協力しあってシリアとイラクに広がるイスラム国を本格的に空爆するための偵察飛行を続行しています。アメリカは既に単独で何度も空爆しています。トルコ、エジプト、サウジアラビアなどのアラブ諸国はこの欧米の攻撃には参加しないが、可能な限りの支援はすると決めています。

このような情勢ではイスラム国はいずれ消滅するでしょう。しかしそのためには数年にわたる戦争が中近東で行われるでしょう。

そこで問題は日本がこの戦争に巻き込まれないようにすることです。

イスラム国が消滅しても第二、第三のイスラム国が現れるのです。中東では宗教を利用した部族戦争がいつまでも続くのです。

欧米ではこの中東の乱戦を17世紀のヨーロッパ諸国を巻き込んだ三十年戦争の乱戦と同じようだと言われているそうです。先日の読売新聞の一面で、あるアメリカ人が中東の戦争は三十年戦争と同じだという長文の解説を書いていました。

そこで日本人が中東での戦乱を正しく理解し、その戦争に巻き込まれないようにするために「三十年戦争」の概略を以下にご紹介いたします。

簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。

それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。
勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。

ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。

しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。

この戦争は、道義もルールも皆無な傭兵が主体で行われました。
この傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。
そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったのです。
人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですからこの戦争は「ヨーロッパの闇」の一つなのです。

こんな戦争が1618年から1648年まで30年も続いたのです。
現在、中東で起きている乱戦はまさしく人間の領土欲、権力欲、殺戮欲による恥ずべき戦争なのです。

日本は絶対に参加してはいけません。安倍総理が集団自衛権を持ち出して後方支援として自衛隊を派遣すると言い出すでしょう。
しかしこのような馬鹿馬鹿しい戦争で日本人の血を流す必要などないのです。

それよりも中東に展開している日本人のボランティア達の安全を確保するのが急務です。イスラム国で殺されたイギリス人はNGOのメンバーだったと伝えられているのです。

30年戦争のことを知れば中東の戦争の本質が理解出来ます。その上で日本が参加しないようにしましょう。

写真にはこの三十年戦争に巻き込まれたローテンブルグの風景写真2枚と戦争で一部破壊されたハイデルベルク城の写真1枚をしめします。
写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/charomo/e/2c42d6c042d6fe6f8429fcc07bd93bac です。
民族衣装をまとった市民によるダンス :写真の出典は、http://allabout.co.jp/gm/gc/45500/ です。
三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城:写真の出典は、 http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg です。

末尾に少しだけ参考資料を付けました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

参考資料:
(1)世界史講義録( http://www.geocities.jp/timeway/kougi-65.html )「ドイツの混迷」
イギリスやフランスが絶対主義国家として中央集権化を図っているときに、ドイツでは内乱が起きていました。これが三十年戦争(1618~48)です。

(2)30年戦争の実態:( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 )

版画は、三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年)です。
十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いた。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからである。・・・・以下省略・・・・・

このgooブログへ新しく引っ越して来た新参者です・・・どうぞ宜しくお願い申し上げます

2014年09月15日 | 国際・政治
こちらの「gooブログ」へ「後藤和弘のブログ」という名前で引越して来た後藤和弘という者です。
どうぞくれぐれも宜しくお願い申し上げます。

以前はOCN社の有料ブログでした。そのブログは2007年11月に始めました。毎日、毎日一生懸命に文章を書いて新しい記事を掲載してきました。

その2007年からの古い記事や写真の全てが、こちらの「後藤和弘のブログ」へ移転して来たのです。

以前のOCN社のブログは開設以来のやく7年間で、今日までの通算アクセス数が1153082件になりました。アクセス数は読者の延べ数より少ないものですが、それにしても延べ人数で100万人くらいの方々にご覧頂いたのです。

本当に有難いと感謝しています。

しかし、OCN社の都合でこのブログは今年の11月30日で閉鎖されることになりました。OCN社は「gooブログ」への引っ越しツールを送って来ました。

私自身にとって、このブログの引っ越しは大変ショックです。そして悲しい出来事です。
住みなれた町の近所の方々と別れて、新しい町へ引っ越したような気分です。近所の方々はみな見知らぬ人ばかりです。
以前は毎日平均600人くらいの訪問者がいましたが、新しいこちらのブログでは100人たらずです。淋しい感じです。

「後藤和弘のブログ」のこの誌面をご自分の「お気に入り」に加えて頂ければ幸いです。本当に感謝します。

考えてみると私も後期高齢者です。いつまでこうして新しい近所の皆様とおつきあいが出来るか判りません。しかしもう暫くはどうぞお付き合いの程をお願い申しあげます。

ブログを通うして、これから皆様に頂くご厚情は決して忘れません。有難うございます。

今日は皆様へのご挨拶として、過ぎ去った夏の思い出の花々の写真をお送り致します。7月と8月に数回通って撮ってきた都立薬草植物園の夏の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の末永いご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

あなたは日米安保条約とNATO条約の違いを知っていますか?

2009年06月28日 | 国際・政治

2000年頃、アメリカ国防省の仕事をほんの少し手伝っていた。ある時、海軍研究所の有名な研究者の W博士が日本の基礎研究の状況を視察に来た。同行して全国の大学や研究所を回った。2人だけの旅の間に親しくなり、いろいろな話をした。その中で、彼が日米安保条約とNATO条約の違いを説明してくれた。皆様はその違いを一言で説明できますか?

日米安保は相互軍事的義務の無いが、NATOの方は軍事義務があるという。分かりやすく言えば、アメリカが北朝鮮に攻撃されても日本の自衛隊は北朝鮮を攻撃する必要がない。しかしNATOは加盟国の一国がある国から攻撃されたら加盟国すべてが攻撃しかえす義務があるという。例えばポーランドがロシアに攻撃されたらアメリカは勿論、ドイツ、イギリス、など全ての加盟国がロシヤを攻撃する義務がある。

日本人はこの違いを分かっていないが、アメリカ人は重大な違いと思っていると、W博士が言う。これを日本人はどのようにするかによって日本の将来へ大きな影響が出るとも言う。

イラクへ自衛隊を駐留させた。インド洋で海上自衛隊の船がアメリカ海軍の船へ給油をした。ソマリア沖での海賊の取り締まりもした。なぜ海上保安庁の巡視船ではいけないのか?あなたはお分かりでしょうか?最近では日本政府がアフガニスタンの安定のために外務省の文官を派遣したと報じられている。

日本の政治家の多くは安保条約の改定なして、事実上はNATO条約と同じように格上げしようとしているのだ。その事実を国民へ一切説明していない。これこそ日本の政治権力者の民主主義無視の態度と思える。

アフガニスタンを確保するためにアメリカは「地方復興チーム」(PRT)をNATO加盟国参加のもとで展開しはじめた。そのための特殊任務の軍隊を送っている国々は、アメリカ、ドイツ、スウェーデン、ノルウエイ、リトワニア、スペイン、イタリー、チェコ、ハンガリー、トルコなどなど。日本の政治権力者の多くは遅れては損をするとばかり外務省の文官4人を派遣した。

6月26日読売新聞3ページ目に「アフガン復興 文民の出番」 外国軍に守られ 学校建設支援、という題目でPRTへ日本がどのように協力するか詳しく報じている。しかしその報道ぶりは貧困国支援のボランティア活動という雰囲気で書いている。そうではない。NATOの軍事行動へ協力しているのだ。日本のマスコミが過酷な事実をやんわりと報道する何時ものやり方なのです。

さて皆様は日米安保を改定した方が良いとおもいますか?するとしたらどのように変えることをお望みでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人


異文化交流と日本語をボランティアで教える会ー異文化交流のページのご案内です

2008年11月18日 | 国際・政治

拝啓、皆々様へ、

突然ですが、小生の大学時代の同級生の大宮司さんが、ボランティアで日本語を教えながら、いろいろ楽しいイベントを企画し、異文化交流の活動をしています。

このブログで、先日、「異文化交流のページ」を設置しましたので、その情報としてご案内致します。日本語教室のある地域は新宿から出ている京王八王子線の沿線の南多摩地帯です。この会の代表は長沼さんといいますが、京王線の長沼駅ゆかりの方ではないかと想像しています。長沼は野猿峠の下の閑静な良いところです。詳しくは下記のご案内のHPをご覧下さい。外国人だけでなく、日本語を教える日本人も募集しています。よろしく御願い申し上げます。敬具、藤山杜人      

 日本語を勉強したい外国人は、だれでも入会できます。いっしょに楽しく勉強しましょう。

 電話またはメールをください。学習の場所と時間を説明します。いろいろ相談にのります。教室の見学もできます。


電話の連絡は
・・南多摩日本語の会(代表 長沼 ゆり)
     (夜間)TEL/FAX 042-591-6140

メールの連絡は・・(代表補佐 大宮司 弘昌)
daimiyain@m2.hinocatv.ne.jp

ホームページ   
URL:http://www.ab.auone-net.jp/~m-tama34

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立川飛行場の現在と砂川事件

2008年08月01日 | 国際・政治

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038 045 050 052 055

JR中央線、立川駅の北側に広大な日本軍の飛行場があった。戦後、占領したアメリカ軍がそれを使用し朝鮮戦争へ出撃した。1957年、大型輸送機も離着陸出来るように滑走路の北はずれの農地を接収しようとした。共産主義系、社会主義系の学生、労働者、砂川村の農民などが連日大規模なデモを続け、新聞の紙面はその記事で埋まっていた。随分と長い間、新聞の記事は砂川闘争を大きく取り上げていた。当時、大学生だった筆者も基地反対の闘争がどうなるのか熱心に新聞を読んだ記憶がある。

現在の立川飛行場は陸上自衛隊の駐屯地として使用されている。飛行場は半分以下に縮小され昭和記念公園や幹線道路になっている。縮小した飛行場はもっぱら軍用ヘリコプター基地として使用されている。

上の大きな写真は滑走路の北端から南を見た写真です。砂川闘争の連日のデモ隊が出たのはこの北側付近でした。

下列、左端の写真から順に;南から北を見た滑走路、展示されている軍用ヘリ、格納庫の様子、陸上自衛隊立川駐屯地正門、北端から見た格納庫、などの写真です。現在は人影なく、夏草の匂いが漂う平穏な風景が広がっているだけです。

ところが、この砂川闘争で鉄条網を倒し基地内へ進入した7名が逮捕され起訴されたのです。

第一審では基地の存在そのものが武力放棄の憲法に違反しているとして全員無罪。しかし、検察陣は第二審を省略して最高裁判所へ控訴し、最高裁の判決は全員有罪、罰金1000円を命じました。

第一審判決と最高裁判所の判決の間に、アメリカ大使のマッカーサー氏が国務省へ下記のような極秘電報を送っていた。是非、お読み下さい。

電報の差出人はマッカーサー駐日大使。連合国軍最高司令官として君臨したダグラス・マッカーサー元帥の甥にあたる。同大使は、判決の翌日の朝8時に藤山愛一郎外務大臣と会い、午後2時過ぎには、それについて次のように報告している。

 国務省・受信電報〔極秘〕

  1959331日午前117分受信〔日本時間同日午後217分〕
  発信元・東京〔米大使館〕
  電報番号・1969331日午後2
  至急伝
  国務省宛。太平洋軍司令部、在日米軍宛限定配布

 今朝8時に藤山と会い、米軍の駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決について話し合った。私は、日本政府が迅速な行動をとり、東京地裁判決を正すことの重要性を強調した。私はこの判決が、藤山が重視している安保条約についての協議に複雑さを生み出すだけでなく、423日の東京、大阪、北海道その他のきわめて重要な知事選挙を前にしたこの重大な時期に、大衆の気持ちに混乱を引き起しかねないとの見解を表明した。 私は日本の法体系のことはよく知らないものの、日本政府がとり得る方策は二つあると理解していると述べた。

 1.東京地裁判決を上級裁判所(東京高裁)に控訴すること

 2.同判決を日本の最高裁に直接、上告〔跳躍上告〕すること

 私は、もし自分の理解が正しいなら、日本政府が直接、最高裁に上告することが非常に重要だと個人的には感じている、それは社会党や左翼勢力が控訴審〔東京高裁〕の判決を最終のものと受け入れることはなく、控訴審への上訴は最高裁が最終判断を示すまで論議の時間を長引かせるだけだからと述べた。これは、左翼勢力や中立主義者を益するだけだろう。
  藤山は全面的に同意すると述べた。完全に確実とは言えないが、藤山は日本政府当局が最高裁に跳躍上告することはできるはずだとの考えであった。藤山は今朝9時に開催される閣議でこの行動を承認するように勧めたいと語った。

マッカーサー

(上記の出典はhttp://www.asaho.com/jpn/bkno/2008/0526.html 

尚、電文中の藤山とは前文にあるように当時の外務大臣の藤山愛一郎氏のことです。

講和条約で独立したはずの日本の政治や裁判へアメリカがどのように介入してきたかを示す一例としてご紹介しました。(終わり)

写真撮影日時:7月31日午前11時頃、撮影場所:東京都立川市、陸上自衛隊飛行場の周辺より滑走路を望む所


ロシアの戦死者2450万人を忘れないようにしよう

2008年07月28日 | 国際・政治

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(鎮魂のため白い槿の花を供えます 

日本では第二次大戦の豪華な写真集や総合的な記録の豪華本が良く出版されます。しかしその編集があまりにも日本の関わった戦争にばかりに集中し、世界全体で何が起きたかという視点が無さすぎると思います。

良く売れる豪華写真集は「如何に日本が華々しく戦ったか」そして「アメリカの沖縄上陸、本土焼滅爆撃の悲惨」という2つの視点のものが大多数です。しかも日本の素晴らしい戦果のページが多いのです。しかし、日本と枢軸同盟を結んでいたドイツが何をして、どのように負けたかの情報が全然付いていないのです。

ドイツがロシアへ進撃し、優秀な人間や若者の民間人を選んで1000万人銃殺した事実を日本人はあまり知っていません。この話をすると驚く人が多いのです。

第二次大戦でロシアの戦死者は1450万人。民間人の1000万人と合計すると2450万人です。これに対してドイツの戦死者は280万人、民間人の死者が230万人で合計510万人です。

戦争に勝ったロシアが2450万人死に、負けたドイツが510万人死にました。これらの数字は正確には調べようもありません。(ここで用いた死者の数の出典:http://www.geocities.jp/wdbkwy/wdyhmfwys29.html これには日本の戦死者数もでている)

日本ではドイツによる、「ユダヤ人の大量殺戮」のみがよく取り上げられますが、ロシアの民間人の大量殺戮もしたのです。その事を忘れては、歴史を理解する場合の公平性に欠けると思います。

ドイツと同盟した日本がシベリアの脅威になっていたのは事実です。そのお陰で、ドイツの侵入・殺戮を容易にしたと考えるのは自然なことです。日本の枢軸同盟のお陰で多数のロシア人が殺されたとロシア人は思っているでしょう。

シベリア抑留は日本人もドイツ人もやられました。ドイツ人のほうが多数で過酷であったそうです。

何故シベリア抑留が起きたか論理的に考える必要があります。

シベリア抑留は無理無体、無法の極み!残酷なロシアの政策!と、いくら非難しても足りないと思います。全くけしからん話です。

また戦後ロシアが頑なに鉄のカーテンを張り廻らせ東西間に緊張が続きました。

しかし、抑留も鉄のカーテンもみな2450万人の死者が原因の一つです。

共産主義は間違っています。でもロシアの冷酷な政策は2450万人の死者を忘れては理解出来ません。

こんな暗い、悲惨な人間の歴史の話の最後に、実に明るい話をご紹介します。

元日本兵の木内信夫さんがシベリア抑留中に描いたスケッチ風の絵画集がインターネットで世界中へ公開されています。http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htmです。

数ヶ国語の翻訳つきです。いろいろな国の人々から感動したという投稿が英語であります。絵画の主題は人々の友情や抑留生活中のユーモアある風景が多いのです。極限状態でも人間を信じ、ユーモアを忘れない木内信夫さんの勇気にみな感動してコメントを送るのです。ロシア人の謝罪と戦争反対のコメントはせつせつとして心にしみます。人類の善意と相互理解の可能性を信じ、明るい気持ちで筆を置きます。(終わり)