後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

集団的自衛権とはアメリカ軍と一緒に戦争に参加することです。

2014年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

全ての言葉には定義があります。欧米文化では言葉の定義が先にあり、それからその意味を明確な言葉を使っていろいろな法律や学説を構築して行きます。

定義には狭義の定義と広義の定義の2種類があります。

集団的自衛権を狭義の定義で解釈すれば、その意味はアメリカ軍と一緒に戦争に参加することです。一方、広い定義に従えば世界中のどの国とも組んで日本の国益のためなら戦争に参加するという意味になります。

最近、多くの日本人は軍備の必要性を自覚し、必要があったら戦争も辞さないという考えに変わったのです。「絶対戦争反対の時代」を脱却して新しい歴史へ大きく舵を切ったのです。私はこの急激な変化に驚いています。

集団的自衛権とは戦争も辞さないという意味である以上、戦争放棄をうたった憲法第九条は削除すべきです。

それをしないで拡大解釈をするのですから日本は厳密な意味では憲法を大切にする法治国家ではないのです。欧米諸国はこの日本独特の文化を奇異の目で見ています。言行不一致な文化は尊敬されません。

それはさておき、この「戦争も辞さないという考え」に対していろいろな意見が出されています。

多くの女性は夫や息子を戦場に送る悲劇は絶対に受け入れられません。ですから安倍総理が進めている集団的自衛権の確立に対して大きな反対運動をしています。数多くのデモも各地で行なっています。この運動は女性本能から出た女性の優しさなので世の男性は暖かい気持ちで受け止めるべきです。感謝すべきです。

その一方、武力行使は人格破壊をもたらすので、戦争は絶対にすべきでないと信じている善意の人々も多いのです。これは男性に多いようです。

この人々は憲法第9条は文字通り実行すべきと主張します。拡大解釈による自衛権の確立などとんでもないというのです。理想的な平和主義者です。

この一派の人々のメッセージは絶対に忘れるべきではありません。

「戦争は人格を破壊する」というメッセージと「憲法第9条は文字通り実行すべき」というメッセージです。前者は戦争抑止の効果があるのです。そして後者は日本文化に棲みついている言葉の使い方の出鱈目さを指摘しているのです。絶対に忘れてはいけない重要なメッセージです。

集団的自衛権の確立に反対している人々はもっと違った理由を言っている人もいます。省略します。

それよりも自分の意見を明確に書くべきと思います。

私は憲法第9条を早急に変えるべきと思います。「戦争の永久放棄」ではなく「日本は侵略戦争は永久放棄する」と改定すべきです。

そして、日本は戦争は辞さないが、あらゆる外交努力と話し合いで戦争を回避するという条項を加えるべきです。

アメリカが戦後日本へ食糧を緊急援助し、日本の復興を支援してくれた恩義は忘れるべきではありません。

しかしアメリカ軍とだけ共同作戦をするような誤解を与えるべきではありません。そうすると中国と北朝鮮が仮想敵国になってしまいます。

日本はどんな国をも仮想敵国としないと憲法に明記にすべき思います。

日本の重大な基本方針は戦争も辞さないが、あくまでも話し合いで戦争を回避することにあるのです。

そのためには自衛隊という名の軍隊のシビリアン・コントロールを日頃訓練し、絶対に制服組が勝手に攻撃を始めることを厳禁すべきです。

そして国民は特定の国を感情的に憎むことを止めるべきです。国際関係において感情的になることは自殺行為なのです。

中国とも韓国とも友好的に話し合い、戦争を回避し、お互いの経済的利益を求めるべきです。

武力放棄と絶対平和主義は尊敬すべき思想です。尊敬はするが現実の国際関係では通用しないこの現実を、悲しみながら深く考えるべきと思います。

今日の挿絵代わりの写真はヨットの写真です。上は2009年4月16日に千葉県の保田港に艇長の毛利さんを訪問した時に撮った写真です。その下は翌月、彼と駿河湾をセイリングした時の写真です。ヨットはハンス・クリスチャンの43フィートです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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安倍総理の集団的自衛権行使の考えに反対する理由(続き)

2014年06月29日 | インポート

これは長い日記の後半、本論部分です。お時間があれば、前頁の日記からお読みくださいますよう。
                ☆
集団的自衛権。今国会期末には間に合わなくても、早晩公明党が折れて閣議決定となると思っていた。けれど、この日記が間に合わなくなるほど早いとは。露骨すぎる。

6月24日の早朝のニュースが、それを伝えた。しかも、トップニュースは、ワールドカップでの日本予選敗退。
憲法の危機なのに、そんな呑気なことでどうする!だから皆が目覚めないのだ。
いや、わざと目覚めさせないよう、計算の上だろう。


米軍の日本駐留が憲法違反だと争われたのは、かの砂川事件。
東京都砂川町(現立川市)の米軍基地に反対して入り込んだデモ隊7人が逮捕された。一審の東京地裁では「米軍は戦力にあたり、憲法九条違反。」として無罪を言い渡した(裁判長の名をとって、伊達判決と呼ばれる)。検察側は高裁を飛ばして、最高裁に飛躍上告した。
最高裁は「米軍は外国の戦力であり憲法九条の範囲に入らない。安保条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見して明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すことはできない。」と、一審判決を破棄、地裁に差し戻した。

この最高裁判決は、司法(裁判所)自らが、立法(国会)・行政(政府・官庁)の下にあると宣言したのと同じである。
三権分立はどこに行ったのか。
さらに驚くことに、4年前の外務省公開公文書と、アメリカ公文書館での資料検討で、当時の最高裁長官田中耕太郎が米駐日公使に15人の裁判官全員一致で一審を破棄差し戻すと、約束していたのだ。

判決の内容は、言い渡しの時まで外部に知られてならないとされている。裁判長自らアメリカ側に伝えていたことだけても大問題なのに、「条約について、裁判所は違憲かどうか判断できない」とは。
1959年、終戦からわずか14年。裁判所が持つ違憲立法審査権はどこに消えたのだろう。このとき、司法は『死んだ』と言われる。

こうしたことを現政権は巧みに利用し、アメリカの子分として武器を持って戦える国にしようとしている。
アメリカの歴史は、戦争の歴史と言ってもよい。そのことは、以前『アメリカ合衆国』という日記に書いた。

http://smcb.jp/_ps01?post_id=3129705&oid=28342..

安倍首相がわざわざ図示して見せた「日本人母子を救助している米戦艦が攻撃されたときに、護衛の日本戦艦が反撃する」などということはあり得ない。アメリカ軍による救助順位は①米国籍者、②米国永住権保持者、③イギリス国民、カナダ国民、④その他の国民と決められているのだから。それを重々知りながら、フリップを作った者は、どんな気持ちでいたのだろう。

また、米軍が攻撃されたとき、というのはどの時点を指すのだろう。例えばイラク戦争のように、米軍が先制攻撃をかけて反撃され、不利な状態に陥ったときも含まれるのか。

前の日記で触れた4月9日の体験というのは、横浜市日吉台にある、旧海軍司令部の跡地見学だった。補修中のため中に入れなかったが、戦争末期、敗色濃厚になったとき、戦艦の中にあった海軍司令部が、慶応大学の校舎を接収し、2キロに及ぶトンネルを掘って、移転した、その跡地である。物資が枯渇する中で40センチの厚さのコンクリートで造られ、昼間のように煌々と明かりがともされ、換気口の上には分厚い防空屋根が設けられていた。1945年4月7日、沈みゆく戦艦大和がそのさまを伝える無線を、壕の中で受信し続けたという。

洋上で戦えるものを失った海軍は、特攻隊を繰り出した。人間魚雷回天は知っていたが、それより粗末な、船体がベニヤ板でできた震洋、人間が海底を歩いて敵艦に近づき、長い棒の先に付けた爆弾をぶつけるという伏竜。
まるで狂気の世界。一旦戦争が始まれば、最後にはここまで追い詰められるのだ。

戦争とは、平時の無差別大量殺人と、自爆テロに等しい。
だが、国が戦争に続く道に大きく踏み出そうという今、私に何ができるだろうか。
私の知人は、「自分が殺されるとしても、人は殺さない。攻撃されても反撃しない。甘んじて受ける。」と言い切る。究極の平和主義である。

先の大戦について、以前私は、「庶民はただ手をこまねいて大きな流れを見ていた。流れはさらに勢いを増し、すべてを飲み込む巨大なうねりとなってしまった。庶民には責任がないのではない。『無作為の作為責任』がある。」と書いた。

その言葉が今、私自身に向けられている。
果たして、この流れに逆らって堰き止めるために、ほんのささやかでもよい、何らかの役割が果たせるのだろうか。(終わり)

下の写真は陸上自衛隊の戦車と航空自衛隊の戦闘機の写真です。出典は自衛隊の装備のHPです。これらの装備を見ると自衛隊は軍隊と呼んだほうが正しいようです。

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いろいろな花々の写真をお楽しみ下さい

2014年06月29日 | インポート

いろいろな小さな花々と八重のタチアオイの花、シモツケの花、そしてスモークツリーの花の写真をお楽しみください。  撮影は6月23日、京王フローラル・ガーデンです。

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今日は日曜日なのでキリスト教にまつわる心温まるエピソードをご紹介いたします

2014年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

まだ梅雨が続いていますが、皆様お元気でしょうか?いつも私の拙文を読んで頂きまして有難う御座います。

さて今日は日曜日です。そこでキリスト教に関連した心温まる3つのエピソードをご紹介したいと存じます。

私に会ってくれて、私を大切にしてくれた人の話です。

心に残る3人を選びました。気楽にお読みください。

(1)ドイツのローテンブルグで会ったインド人のフェルナンデス君のこと・・・

それは1969年の夏から秋にかけてたった3ケ月間だけのお付き合いでした。

毎週日曜日に私を誘ってカトリックの教会へ行ってくれました。ドイツ語のミサなので理解出来ません。

ミサ後、一緒に昼食をたべました。メニューはチキンの半分をオーブンで焼いたものとパンとスープでした。

彼は細身で小柄なインド青年でした。英語で会話をしました。

しかしキリスト教のことは一切説明しません。ただニコニコと笑って食事をするだけです。

何も話しませんでしたが彼が私を非常に大切に思ってくれている事が分かります。彼の優しくて穏やかな笑顔を見て私は決心したのです。来年帰国したら日本で洗礼を受ける決心をしたのです。

(2)神田、ニコライ堂で会った金田一豊さんのこと・・・

宗教で一番注意しなければいけない事は狂信しないことと思っています。ですから私は仏教も勉強しますし、キリスト教の他の宗派の教会も広く訪問しています。

色々な神父様、牧師様とお会いしましたが、ニコライ堂で偶然お会いした伝道師の金田一豊さんの事が忘れられません。

ロシア正教の影響を深く受けた日本正教会の本部教会はニコライ堂です。

その歌ミサの藝術的美しさに惹かれて見物に行ったのです。2009年の11月の事でした。

初対面の私を昔からの幼馴染のように大切にしてくれました。

彼は聖職者ですからミサの最中は他の聖職者と一緒に祭壇の上に立っています。それが途中で祭壇を下りて、私のそばに来て、「どうですか?違和感を感じませんか?」と聞いてくれたのです。

それも3回もです。カトリックの私が正教会のミサへ自然に溶け込んでいるか気をつかってくれたのです。

正教会もカトリックも同じイエス様を拝んでいるので私は大らかな気分で歌ミサを存分に楽しみました。一緒に御祈りもしました。

ニコライ堂のことは、宗教に少しでも関心があったらニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい という記事にしてこのブログに2009年11月30日に掲載しました。

(3)ネットで知り合ったオカブさんの事・・・

このブログの左サイドバーに推薦したいブログとして「昼のガスパール」というブログがあります。

それを書いているのがオカブさんです。ヨーロッパ文化を愛し、ウィーンに何度も行っている方です。

ある時、下北沢の喫茶店で会いました。そして彼の行っている世田谷教会の礼拝へ誘ってくれたのです。

数週間後に三軒茶屋駅そばの世田谷教会の礼拝に出席しました。彼はその独立採算のプロテスタン教会の運営責任者の一人でした。

牧師さんへも紹介してくれました。オルガンを弾いている奥様も紹介してくれました。オカブさんは宗派の違う私を非常に大切にして下さったのです。そして他の宗派の教会を訪問することを薦めてくれました。

そのお陰で小金井市内のメノナイト系の貫井南町教会の牧師様や日本キリスト教団の小金井教会の牧師様にもお会いし、親しくお話を聞くことが出来ました。どちらの牧師さんも初対面の私をとても大切に思ってくれたのです。

以上の文章の中に「私を大切にしてくれた」という表現が何度も書きました。そのことで、皆様は下手な文章だとお思いになったことと存じます。

実はこの大切に思われた体験こそが、私にとって「イエス様に愛されている」という体験と同じなのです。

イエス様の愛は神父様を通してだけ感じるのではありません。何気なくお会いした方々を通して感じることが出来るのです。

そういう事を私に感じさせてくれた全ての人々へ感謝しているのです。

ここでは3人の例だけを書いたのです。私の心の中の財産として大切にしている心温まるエピソードです。

下の挿絵代わりの写真は長崎県五島列島にある教会の写真と、海辺で祈る信者たちの様子です。

今日はこの文章を読んで下さった皆様を心から大切に思います。そして、

皆様の周りに貴方を大切に思ってくれる人が多いことを心からお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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下の写真は、「岬の民」 富岡満隆氏撮影です。出典は、http://www.toruken.com/4rd/  です。「岬の民」は、神ノ島教会で開かれた野外ミサの光景です。

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安倍総理の集団的自衛権行使の考えに反対する理由

2014年06月28日 | インポート

埼玉県、行田市の巨大な古墳群と蓮の花咲く公園への観光のおすすめ

2014年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

都心から約90km、東北高速道路の加須ICを出て、西へ行くと、埼玉県 行田市に着きます。

少し遠方なので行く人も少ないのですが、そこには5世紀から7世紀に作られた巨大な古墳群があり、その近くには「古代蓮の里公園」があります。

東京から車で日帰りの観光地として心からお薦めしたい場所です。

関東地方にこんな大規模な古墳群があるとご存知無い方も多いと思いますので簡単にご案内いたします。

まず行田市に5世紀から7世紀に作られた古墳が9個も集中してあるのです。

下にその巨大な前方後円墳や円墳の航空写真を示します。住所は、埼玉県行田市大字埼玉(おおあざ さきたま)です。

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そして以下に小生と家内が2008年6月7日に撮影した写真を示します。クリックすると拡大した写真が楽しめます。

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これらの写真は、埼玉(さきたま)の古墳時代に強大な王国が存在したことを示しています。

出土した、見事な細工の金属製馬具や装飾品の展示もあり、5世紀終わりから7世紀はじめに作られた古墳から出たその他の副葬品が展示されています。

その金属製の馬具や飾りを見てハッとしました。1983年頃、小生が韓国、慶州で見た古墳からの出土品とあまりにも似ているのです。素人の気安さで言えば、埼玉の古墳を作った人々は韓国、慶州から渡ってきたようです。高麗という地名も埼玉南西部に現存すくらいですから。

それはさておき、この古墳群の近所には蓮の花の綺麗な公園もあります。

「古代蓮の里公園」です。10万株、世界中の蓮の花を集めています。以前に3,4度訪れたことがあります。下に2008年6月7日に寄って撮った写真を2枚示します。094_31_2

 

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今年の開花状況は、http://www.ikiiki-zaidan.or.jp/kodaihasu/ に出ています。

この公園では蓮の花だけでなく、広大な芝生と高い展望台も楽しめます。

都内の公園とは異なり、展望台は建物に取り囲まれていません。ですから周りの水田が見渡せ、その先には日光連山まで見えます。

又行田市の中心には下の写真のような美しい行田城(忍城)もあります。

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行田市は東京から日帰りで観光旅行に丁度良い所と思います。東京の人は行田にあまり観光に行きませんが隠れた観光名所名所です。大きな無料駐車場もあります。お誘い合わせの上、一度お出かけになって下さい。


中世の宗教戦争・30年戦争と同じようなイラン・イラク・シリアの内戦

2014年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、イラクではスンニ派の過激組織のISISが熾烈な内戦を繰り広げイラクの北部を支配下に置いています。このISISはアル・カーイダ系とも手を組んで戦っています。

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上に内戦の起きている中近東の地図を示します。

これに対抗するイラクのシーア派のマリキ首相は同じシーア派のイランのロウハーニー大統領から支援を受け、毎日軍需物資を満載した輸送機がバグダット空港に着陸しています。その上、イランは無人攻撃機をイラク領へ送りスンニ派のISIS占領地にある拠点を攻撃しています。

この混戦に油を注いでいるのがマリキ首相と同じシーア派の隣国のシリアのアサド大統領です。イラクの国境を越えてイラク領内のスンニ派のISISの占領拠点に空爆を加えているのです。

この混迷を更に深くしているのがグルド人の部族勢力です。彼等は近代国家の国境など完全に無視しているのです。

以上のように現在、中近東で起きている内戦は大まかに言えばシーア派とスンニ派の内戦と言えます。しかし同じシーア派やスンニ派の中にもいろいろな派閥があってお互いに勢力拡大の闘争をしています。

イスラム社会は中世そのままなのです。アメリカが干渉すれば一層複雑な戦争になります。

イスラム社会はイスラム教に任せておくのが良いという意見が強いのも理解出来ます。

この状況を毎日新聞で読んでいると私は中世の中部ヨーロッパで30年間も続いた「30年戦争」を思い出しています。

ですから中近東の戦争も30年、あるいはそれ以上続いても不思議は無いと冷静に観察しています。

それではヨーロッパの30年戦争とは何だったのでしょうか?

簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。

それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。

勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。

ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。

しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。

この戦争は、道義もルールも皆無な傭兵が主体で行われました。

この傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。

そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。

人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですから私はこれを、「ヨーロッパ文化の闇」の一つと考えています。

末尾に少しだけ参考資料を付けました。

ユダヤ教のイスラエルも含めた中近東の戦争は日本人にはかかわりの無い宗教戦争と考えられます。しかし難民支援のために日本人が数多く現地で働いていることを忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:30年戦争につぃて=========

 

民衆を含む死者は800万人。ドイツ(神聖ローマ帝国)の人口が1800万人から700万人に減少したのです。

世界史講義録(http://www.geocities.jp/timeway/kougi-65.html)「ドイツの混迷」

急に海が見たくなって葉山まで行ってきました

2014年06月26日 | インポート

長駆、片道100Kmの道を飛ばして葉山の海が見える「ラ マーレ ド 茶屋」でゆっくりと昼食を食べてきました。何度も来た店です。家内も喜んでいました。
昼食後は葉山港にもやっているヨットの写真を撮り、潮騒公園と、その隣の神奈川県立美術館に寄って帰ってきました。
下の写真はラ マーレの玄関と、その窓から見える2枚のヨットの写真です。
四番目の写真は葉山港に舫っているヨットの風景です。
五番目の写真は潮騒公園の隣にある神奈川県立美術館のレストランの前の海の風景です。
海の風景をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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ロマンかき立てる北海道(2)石器時代からの北海道民族の写真とアイヌの友人の思い出

2014年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道には4万年前の石器時代から人が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。

その土器が本州の古墳時代の頃に土器の模様が竹筆で擦ったような模様になって擦文文化時代になります。

そして13世紀になると北方のオホーツク文化と鎌倉時代の日本文化が混然と流入しアイヌ文化が出来上がったのです。

しかし北海道に住んでいる民族は石器時代からアイヌ文化時代になっても同じ北方民族だったのです。大規模な民族移動は無かったのです。アイヌ文化の特徴はそれまで使っていた土器が無くなったことが特徴です。

そして日本から入手した鉄鍋を囲炉裏にかけて料理し、木製の食器とスプーンや箸で食べるようになったことが特徴です。それまで煙道のついた竈を止めてしまって囲炉裏の裸火を煮炊きに使うようになったのです。

その北海道民族の風貌はどのようだったでしょうか。幸いにも、大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが昔からの衣装を着ていたアイヌ人の写真を撮影しています。ボストンの近くのセイラムという港町にあるピーボディー博物館に展示してあるそうです。以下にその写真を3枚示します。アイヌ人の右後ろに立っているのがエドワード・モースです。

写真に写っている人々はお風呂に入りません。散髪屋や美容院にも行きません。それで汚いように見えますが意外に清潔で悪臭も無かったと言います。少し人間愛を持って見つめると彼らの喜怒哀楽に満ちた人生が想像出来ます。いかがでしょうか? 

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Woman_with_a_digging_stick_10795493 最後の写真は稗や粟のような雑穀を栽培するための畑を耕している様子です。縄文時代から彼等は雑穀のおかゆを食べていたという説もあります。

このような写真を見ていると、少年の頃、一人のアイヌ人の友人がいたことを思い出すのです。

終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開いて生活していました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。

仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。78歳になっても、その頃の事をよく思い出します。

終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。

同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり鉄鍋がぶら下がっています。

それで全ての料理を作り食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。 

少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。

アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。

第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。

一説によると日本共産党が戦後にアイヌ人を助けるために本州への移住を進めていたそうです。でもその真偽もさだかではありません。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


ロマンかき立てる北海道(1)弥生時代、古墳時代の無かった独自の歴史

2014年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上の富良野の写真の出典は、 http://turnthetide.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18 です。)

私の人生観は日本という国家が戦中、戦後に与えてくれたものです。恥ずかしいのですが、決して独自の勉強や信仰で作り上げた立派なものではありません。

老境にいたって初めて、日本という国とはそんなに確固たる存在なのか疑問に思うようになりました。

その思いは何度か北海道を旅して感じたことです。北海道は日本ではないと直感したのです。北海道は地形、気候、植物相、野生動物が本州とは違う異国なのです。

そこで帰宅後いろいろ北海道について調べてみました。違うのです。本州や九州、四国とはあまりにも違うのです。

そんなことを「ロマンかき立てる北海道」と題で連載記事にして書き進めて行きたいと思います。

まず第一回の今日は北海道が本州以南とは違った独自の歴史を持っていることをご紹介いたします。

約4万年前の石器時代から縄文時代までは本州とほぼ同じ文化でした。

しかしその後は、本州の弥生時代や古墳時代のような文化は存在しませんでした。

代わって続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。

その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に竹筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついたのです。

そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。ですから我々がアイヌ文化をもったアイヌ人が昔、昔から北海道に住んでいたと考えたら、それ大間違いなのです。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htmです。

以下にこのHPの抜粋を示します。

下の抜粋文の中で、アンダーラインが引いてある言葉をクリックすると実に明快で多彩な歴史的情報が開きます。是非、ご覧下さい。

=====北海道教育委員会のHPの抜粋文========

北海道には、弥生時代や古墳時代という時代区分がなかった?

 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照  PDF)を迎えていました。
 北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
 北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
 北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。

1  埋蔵文化財包蔵地数一覧 

2  埋蔵文化財保護のための事前協議

3  重要文化財  ママチの土面

4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど

5  埋蔵文化財 Q&A

6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館

=========以下省略===============

縄文時代の不思議な遺跡としてやく4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。

以下に北海道の森町にあるストーンサークルの写真を示します。

写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。

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このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

ついでに秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真を下に示します。

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上下の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。

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話はそれましたが、私が想像している仮説をここで提起したいのです。

「縄文文化は主にアイヌ人の祖先が担っていて、弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した人々が担っていた」という仮説です。

この仮説が正しいとすると弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく説明できます。

この仮説の最大の疑問点はアイヌ人が土器を焼かなかったという事実です。縄文時代や続縄文時代の北海道では数多くの多彩な土器が作られていました。

その文化が擦文土器に変化して、アイヌ文化成立とともに消えてしまったのです。擦文土器は本州の土師器の影響を受けたことが特徴です。後にこの土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとって替わられました。

このようなことが本当に起きたのでしょうか。自分で上の仮説を立てながら、それを半分疑っています。

しかしこのように自分で仮説を立てて考えてみると歴史が理解しやすいのです。

大和朝廷が宮城県の多賀城まで領有するまでは、北海道と東北地方の北部は続縄文時代とそれに続く擦文文化時代だったと理解できます。

その頃の人々は日本という言葉も知らず、国家と言う概念も無かったのです。

あるのは大和朝廷に従う人々と従わない蝦夷という区別でした。当時はまだアイヌ人という言葉すらなかったのです。

これで分かったことは私の人生観は明治維新後の国家目標に深く影響を受けていたことです。国家目標は時代によって変わります。しかし最近の日本人の人生観は国家とは関係の無い個人的なものになっているのです。隔世の感です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


小路の両側の足元に花々が咲いている光景です

2014年06月24日 | インポート

どういう訳か私の心象風景に昔からある光景です。
そんな光景を数年前に偶然見つけました。調布市にある京王フローラル・ガーデンという花園です。

四季折々何時行っても、花の種類は変わりますが小路の両側の足元に花々が咲いているのです。

このガーデンに花を植え付けている人々の美しい心の風景を表しているのでしょう。そして感心するのはいつ行っても花殻がきれいに摘んであることです。

何となく心豊かになります。幸せな気分になるのでこの花園にはよく行きます。
今日はそんな小路の両側の足元に花々が咲いている風景写真をお送りいたします。

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原発反対派と推進派の間に人間愛が無ければ力ずくで決着がつく・・・この日本社会の不幸

2014年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

原子力発電の問題になると多くの人々はすぐに感情的になります。

そのお互いの感情の激突をやわらげるのが人間愛です。お互いが、何故相手が感情的になっているかを深く理解する必要があるのです。お互いの心の痛みを理解しなければ和解は無理です。

原発反対派は以下の二つの理由で反対しているのです。

(1)原発の安全性が向上しても絶対に事故を起こさないという危険はゼロではない。このようにリスクがゼロで無いかぎり原発の運転は再開すべきではない。(この考え方を「ゼロリスク思考」と呼びます)。

(2)原発炉から出る使用済み核燃料棒の廃棄、処分方法が確立していない以上、放射能の危険負担を子孫へ10万年も背負わせることになる。

これに対して原発推進派は以下の理由で賛成しています。

(1)福島原発の爆発事故の教訓を取り入れて今後再稼働する原発の安全度は格段に向上している。ゼロリスク思考の愚かさを考えるべきです。

(2)原発を止めると火力発電の増加による地球温暖化や燃料輸入費用で日本社会が経済的に貧しくなるのです。

上記の4つの意見は定性的に考えるかぎりいずれも正しい意見です。しかし4つとも定量的な予測結果を何一つ示していません。ですから多くの人々はどちらにしようかと判断出来ません。

お互いに人間愛をもって何故そういう意見を主張するのか相手の感情を大切に考えてみましょう。

反対派はゼロリスクを求めています。全ての産業技術にゼロリスクを求めている訳ではありません。原発だけは事故が起きると、広範な放射能汚染と住民の移住をよぎなくさせるから原発だけにゼロリスクを求めているのです。これは当然な感情ではないでしょうか?

それに対して推進派はゼロリスク思考は愚かであると切り捨てるのです。愛情が感じられません。

推進派が何故、原発だけにゼロリスクを求める人が多いか、その心情に温かい気持ちを持つべきです。その温かい気持ちを始めに表明してから、原発推進の理由を相手の心を傷つけないように、じゅんじゅんと丁寧な分かりやすい文章で説明すべきです。

それと同じように反対派は原発推進派の感情を思って丁寧な言葉で意見を書くべきです。日本の経済を心配してくれて有難うという感謝の気持ちをまず書くべきです。

原発を急に撤廃すれは多くの人々が仕事を失って家族ともども路頭に迷うおそれがあると私共も知っています。ですからゆっくり何年間かかけて原発の数を減らすのも良い考えではないでしょうかと譲歩案も書いてみます。(実はこれが私の意見です)。

そして丁寧に質問しましょう。使用済核燃料棒の処理方法はどこまで開発されたのでしょうかと聞いてみます。

推進派の科学者や技術者はこの質問を専門が違うからと逃げてはいけません。自分の科学的知識を総動員して反対派が少しでも納得するように説明すべきです。

例えば使用済み核燃料棒を解体してセメントで固めて、ドラム缶に入れて、地下2km以上深い鉱山の廃坑あとを整備して貯蔵、管理するのも現実的な方法かも知れません。

ドラム缶が腐食して放射能漏れが無いか、毎月、定期的に点検するために貯蔵場所まで車で上り下りできるようななだらかな舗装道路を10kmくらい作り道路の管理もします。深い海に沈める方法は後の定期点検が出来ないので絶対に良い方法ではありません。

このように書いても反対派は納得しません。納得しない感情に寄り添って話し合いをするべきではないでしょうか。

そのようなお互いの態度が日本社会で力ずくで大問題に決着をつける不幸を少しでも和らげると信じています。

以上は下の参考資料に示した 北海道大学工学部教授、奈良林直さんの原発賛成論を読んだあとの私の感想文です。

挿絵は北海道の風景です。出典はhttp://furano2008.blog95.fc2.com/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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=== 以下は北海道大学工学部教授、奈良林直さんの原発賛成論の一部です。===

全文は、http://agora-web.jp/archives/1596998.htmlにあります。

(4)ゼロリスク思考の無意味さ
判決は「確実な科学的根拠に基づく想定は本来的に不可能である」と指摘する。完全なゼロリスクを求める考え方は科学技術の観点から不適切である。いかなる科学・技術も人間や環境に対してリスクを有するが、科学技術に基づく設計と日常の保全活動によってリスクを十分に低減させる。社会はその下がったリスクと恩恵とのバランスでリスクを受容している。

誤った判決が混乱をもたらしていいのか?
原子炉等規制法第43条の3の23にもとづいて原子炉に停止命令を出せるのは、原子力規制委員会だけである。各電力会社は、新規制基準の求める世界最高の安全水準を達成すべく、安全をすべてに優先させつつ、原子力発電所のたゆまぬ安全性向上と安定運転を目標にして膨大な予算をかけて対策を行っている。
筆者は原子力発電所の適切な利用を通じて、化石燃料の使用を一因とする地球温暖化や異常気象を防ぎ、燃料の輸入に伴う国富の海外への流出を防ぐことが、国民の幸せと人類の持続的発展に最も効果的な選択肢と考えている。事実関係の誤りの多い判決が、不必要な混乱を招くことは遺憾である。


いろいろなユリ、そしてタイサンボク咲く初夏となりました

2014年06月23日 | 写真

季節のうつろいは本当に早いものですね。
先程、京王フローラル・ガーデンに行ったら、花々がすっかり夏花に変わっていました。
いろいろなユリやタイサンボクの花々が咲いていました。
最後の一枚の写真がタイサンボクの花です。
そんな写真をお送り致します。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

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