後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小金井橋夕照の広重の版画と雪旦の絵をご覧下さい!

2008年03月31日 | 写真

高山さんから下記のような情報を頂きました。当時の小金井橋の版画です。驚きました。感動しましたので、高山さんのコメントをそのまま下記にコピーします。

雪旦の絵についてもURLを送ってくださいました。感謝します。

高山さん、有難う御座いました。敬具、藤山杜人

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見事な桜ですね!いろいろな品種が植えられているそうですが、
ソメイヨシノでしょうか。貴兄の写真は構図が芸術的ですばらしいです!

広重の版画の画像を見つけました。こちらをどうぞ
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/wa33-5/wa33-5-005-l.html
当時は鮎が捕れたのですね!皇族学校の学習院が疎開してその建物が郷土資料館になってるとは驚きです。

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雪旦の絵はこちらをhttp://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0358.html


江戸時代から有名な小金井桜

2008年03月31日 | 写真

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小金井桜は玉川上水完成まもなく、約270年前に上水の堤に植えられたのが始まりと言われています。

有名になったのは江戸後期に長谷川雪旦の「江戸名所花暦」や「江戸名所図会」、そして歌川広重の「武州小金井堤満花之図」や「小金井橋夕照」にかかれてからだそうです。江戸、明治と見物客によって賑わうようになったそうです。現在の堤の桜は車の排気ガスで勢いがなくなりましたが、小金井公園に植えた染井吉野、山桜、嵐山長柄の豆桜、薄墨桜、梅護寺数珠掛桜、深山桜などなどが咲いています。現在は染井吉野桜が上の写真のように満開です。その他の種類はこれから順次咲いて行きます。桜花の競演が始まりました。今週の金、土、日は桜まつりで賑わうでしょう。混雑を避けたい方々は火、水、木のほうが良いです。JR中央線、武蔵小金井駅北口から花小金井や清瀬方面行きのバスに乗り、7分くらいで公園西口前の停留所で降りるのが便利です。歩いても18分から25分くらいでしょうか。

撮影日時:3月31日(月)午後2時30分頃。


心豊かなローカル文化

2008年03月31日 | 旅行記

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陸奥のくにで結婚式がありました。披露宴は大賑わいでしたが、それでいて出席者の態度が実に礼儀正しく、心豊かな思いがしました。ローカル文化の良さが生きていようでした。陸奥のくにの結婚式(上の写真)は、教会で、おごそかにとりおこなわれました。

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宴会の始めは土地の柔道協会の会長の心込もった祝辞があり、いきなり大舞台で花柳流の祝いの踊りが始まる。上の写真のとうりかなり老齢の婦人ながら所作がキビキビして、見ていて気持ちが良い。左から3番目の写真のように友人・親戚は祝いの品々を新郎・新婦のところへ直接持ってくる。一緒に写真を撮る。ビールを注ぎ合う。そして新郎・新婦が四角いケーキへナイフを入れる。友人のグループが新郎・新婦を囲んで写真を何度も撮る。ナイフを入れたケーキは出席者へ配り、味わう。みんなが席を立って話しながら祝杯を挙げる。生ビール、ウイスキイの水割り、日本酒、焼酎、ワインなどのスタンドが3ケ所にあって飲み放題になる。座席の決まった宴会が立食パーティの様子になる。

しかしここで驚いた。騒がしい立食パーティは新婦がお色直しに行っている間だけである。

新婦が衣装を変えて戻ると、とたんに静かになり新郎・新婦へ注目し祝福の気持ちが会場内にあふれる。4,5回のお色直しの度に騒がしさと静かさが繰り返す。その見事な礼儀正さに圧倒された。結婚披露宴には何度も出たがこのように出席者が楽しみ、しかし新郎新婦への祝福と敬意を中心にした宴会は始めてみた。お色直しは会衆の息抜き、久ぶりに会った親戚同士・友人同士の久闊を叙する時間を与えている。これがローカル文化なのであろうか?

Dscn2247 Dscn2251 Dscn2265 女性の出席者も男性同様に楽しく談笑する。ただ話しの速度が軽機関銃の音のように早い。陸奥の言葉も混じるので何を話しているかははっきりはしない。

余興も始まる。土地の柔道仲間が老いも若きも壇上に集合する。歌は柔道の会の歌。

ところがメロディーが東京の結婚式で時々歌われる、男衆だけによる「木遣り」のように聞こえる。披露宴の最後を飾る。

この披露宴が何故良かったか?そういえば議員さんや、社長さんや署長さんの長々しい祝辞が一つも無かった。仲人が居なかったので新郎・新婦の紹介が簡潔であった。会費制にもかかわらず出席者は300人と多かった。新郎の家が代々その土地の柔道を盛んにすることに尽くし来た。高校や大学で全国大会へ出場した柔道選手を多数輩出して来た。などなどが重なって心豊かになるような結婚披露宴になったのだろう。あるいはその土地のローカル文化がこのような披露宴を生んだのかも知れない。新婦がその土地に住み込んで柔道選手の面倒を見るという。相撲の親方の奥さんにでもなったような覚悟の様子である。それも良いと思う。(終わり)


江戸の桜名所は「よっちゃん」のブログをご覧下さい

2008年03月31日 | 写真

小石川後楽園、千鳥が淵、六義園などの桜の名所の写真を撮りに行こうと思っていましたら、「よっちゃん」のブログに素晴らしい、そして桜の美しさをあますとこなく写しだしていますので是非ご覧下さい。自分の下手な写真を紹介しないで済みました。よっちゃん様へ深く感謝します。藤山杜人、 http://yocchan3911.art.coocan.jp/TYPhoto-Gallery/


八芳園の桜が見ごろですよ

2008年03月29日 | 写真

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Dscn2141 Dscn2143 Dscn2156 Dscn2158 港区、白金台の八芳園で昨日、昔一緒に仕事をした若い友人達が昼食会を催してくれました。アメリカから来た友人も一緒に。庭園の桜が見事でしたので下手な写真ですがご紹介いたします。今が丁度見ごろです。撮影日時:3月28日午後1:30時から2時の間。


外国体験のいろいろ(38)日本の安全を守る留学制度

2008年03月27日 | 旅行記

Dscn2117 挿絵:残照の桜です。

@日本の安全と利益を守るための留学制度

新聞では米軍基地反対の記事が多い。一方、日米相互防衛条約の重要性を主張する記事も多い。しかし一国の安全と利益を守るのは軍備だけでない。

留学生を日本へ招待し、日本の支援者にして祖国へ返す。そうすると多くの外国に終生変わらぬ日本の支援者を配置することになる。日本の安全と利益を外国から守ろうとする人々が増加する可能性がある。この様な考え方は日本の新聞にはめったに出ない。数万人の留学生へ生活費と月謝を税金から出している文部科学省の役人には日本の安全と利益を守るという発想が皆無である。

@アメリカの利益を守るフルブイライト制度

広島、長崎への原爆投下の数日後、アメリカの上院議員フルブライト氏は敗戦国から留学生を呼ぶ政策を考え始めたという。この法案は上院で可決され、国費で運営されている。後にフブライト留学制度と呼ばれるものである。この制度のお陰で、敗戦後の日本から数多くの若者がアメリカの大学へ留学できた。しかし、この制度は人道主義的だけで運営されているのではない。アメリカ資本主義では投資をすれは利潤を上げなければならない。

利潤を上げるためには留学生を終生変わらぬアメリカの支援者にしなければならない。その為の用意周到な運営がなされている。筆者が1960年から62年にかけて、給費留学生としてオハイオ州立大学で勉強が出来たのはこの制度のおかげである。結論を先に言えば、筆者は終生アメリカの利益のことを考え、可能なら恩返しをしたいと思う。勿論、祖国日本の安全と利益を第一に考えるが。

1960年当時の日本の経済は疲弊を極め、外貨の自由持ち出しは禁止。渡航費は年収の数倍以上という状態であった。この留学制度がなければ、勉強のための渡航は不可能であった。留学生の選考基準は、英会話よりも勉学の目的がしっかりしているか否かだったようだ。オハイオ州立大学のセントピエール教授の研究論文を学会誌上で読み、留学の希望を伝えたところ、滞米中の生活費を支払うと約束してくれた。その後、留学制度へ申請書を出したので英会話が下手でも合格したようである。

オハイオの大学では到着後すぐに金属工学の講義が始まる。英会話が出来ないので説明が分からない。しかし、東北大学では専門書原文講読の時間が多く、金属関連の専門用語は英語とドイツ語で習得済みである。帰宅して講義の参考書を読み、毎週ある小試験に備える。英会話が下手でも、試験問題の意味さえ分かれば数式と図表で答えられる。アメリカ人より良い点数が出る。

三ケ月の一学期が終わると、総平均点も記入した通信簿をくれる。毎学期平均点が上がったので、支給される生活費の月給を上げてくれる。成績が上がれば月給を上げる。実に単純明快である。アメリカとはそんな国と理解でき、心底から好きになった。

      ○民間人もフルブライト留学制度を応援する

アメリカ人にとって国家の政策や制度が善であり、アメリカの威信を高めると判断した場合には、個人が草の根的にその推進へ参加する。フルブライト留学制度へも個人的に支援、参加していた。1960年の夏、オハイオ州のコロンバス市空港に着く。タクシー代を心配しながらタラップを下りる。すると若い男が寄ってきた。

「フルブライト留学生のフジヤマさんですね?」「お迎えに来ました。大学の留学生の寮までお送りします」。

古いガタガタの車に乗り、走りながら彼が説明する。「私は大学生です。数学を専攻しています。日本にあるフルブライト委員会からフジヤマさんの航空スケジュールの連絡が大学に入り、空港で留学生を迎えるボランテイア活動をしているわれわれへ連絡があったのでお迎えに来ました」

そう言えば、旅行スケジュールは全て東京のフルブライト委員会がつくり、そこから航空券を受け取ったことを思い出した。

オハイオ州立大学はフットボールが強くて有名である。地元紙コロンバス・デイスパッチが、壮大なスタジオでの観戦へ招待してくれ、観戦記と写真を大きく掲載してくれた。後で聞いたが、これも社長のボランテイア精神でしたこと。その縁で同紙を購読するようになる。翌年、日本から婚約者を呼び、オハイオで結婚式を挙げたときも大きな記事と写真を掲載してくれた。これでは妻もアメリカの支援者になってしまう。

週末やクリスマスには、ボランティアの夫婦が交代で何度も自宅での夕食へ招待してくれる。

時は移り、それから30年後、またコロンバス市に2年ほど住むことになった。

空港には相変わらず途上国からの留学生を送り迎えするボランテイア団体がある。ホンダ・オハイオ工場関連の数社から寄付金を集め、自分の寄付に加えて空港のボランテイアチームへ贈る。「30年前にお世話になったご恩返しです」と言葉を添えて。

留学生歓迎に参加するのは草の根民主主義の考えである。留学生はいずれ祖国に帰る。帰った後、一生アメリカを応援する者になって貰いたい。留学制度はその国の支援者をつくることにある。このよう国家的事業へもアメリカ人は個人的に参加する。

アメリカの軍事力の強大さばかりを報道するのではなく、アメリカの強さをもっと

多角的な視点で報道して貰いたい。そうすれば文部科学省のお役人の方々にも日本の安全と利益を守ろうとする意識が根着くと思う。(続く)


暗い気持ちになるチベット騒乱

2008年03月26日 | 国際・政治

もう何年も前になるが、ダライ・ラマの側近で桐蔭横浜大教授のペマ・ギャルポ氏の話を聞いたことがある。教養の深い知識人らしく、上品な日本語でチベットが中国に占領されていることの不当性を切々と説いていた。眉毛が濃く、黒目が光る顔が憂愁に沈んでいた。

話はとぶが中村彜画伯のロシア革命で祖国を終われた「エロシェンコ像」の悲しい表情と同じであった。

今回の騒乱をギャルポ氏はどんな思いで見ているのだろうか?

中国がチベットを占領するのは悪であろう。でもそれを非難する資格のある国家は存在するのであろうか?アメリカは武力でメキシコからカルフォルニアを奪い、フィリッピンをスペインから奪い、日本は台湾や朝鮮を奪った歴史を持つ。アメリカが純粋な人道主義から干渉するとしても中国政府が人道主義の意図を正しく理解するであろうか?それはどちらの両国にとっても悲劇である。そしてアメリカが介入することがチベット人にとって幸なのであろうか?かえって中国の武力鎮圧が残酷にならないであろうか?日本からチベットを訪問した記者達は現地の人々の考え方を直接聞くチャンスはあった筈である。何故、それを報道しないのであろうか?北京政府への遠慮であろうか?いろいろな疑問だけが増えて行く。

ロシアやイギリスはどんな目的でどのような方法で介入・干渉するのであろうか?

日本人の我々にはどのようなことが出来るのであろうか?心が暗くなるばかりである。

中国政府が穏健な政策をとるように祈る他はない。悲しいニュースである。

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外国体験のいろいろ(36)(37)の補足ー日本の新聞の報道しないエピソード

2008年03月26日 | 旅行記

この2回の連載ではベトナム戦争にまつわるエピソードを7つ書きました。みな外国で直接聞いたことですが、日本の新聞やマスコミでは報道されなかったことです。日本のマスコミの戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという、恐ろしく単純すぎる見方です。それに合致しないエピソードは取り上げません。

外国体験のいろいろ(36)では、1)ベトナム難民のアメリカ移住の時、一般のアメリカ人がボランテアーとして数人ずつ家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。2)ベトナムでボートピープルが多数発生したとき、アメリカ、ヨーロッパ各国の民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖で避難民を拾い上げた。3)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。

また、外国体験のいろいろ(37)では、1)日本の新聞を賑わした「ベ平連」はベトナムでは日本でほど有名ではなかった。2)日本の米軍空軍基地の日本人従業員のメッセージが有名であった。3)ベトナム戦争当時、中国の南部農民が食料をベトナムへ必死で送っていた。4)中国人はベトナムのカンボジア侵攻へ懲罰を与えるべきと思っていた。

以上の脈略の無い7つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。が、全てアメリカ人、ベトナム人、中国人から現地で個人的に聞いたことも事実です。

新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事実の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。

単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのもいけません。またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事にしないのもいけません。戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して輝く崇高な人間性を調査し記事にすることは心を豊かにする大切なことと思います。

このブログの「外国体験のいろいろ」では日本の新聞には出ていない外国の事情や人々の感じ方を正直に描きだすことを重要な目的にしています。

皆様のご忌憚の無いコメントを頂ければ幸いです。藤山杜人

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外国体験のいろいろ(37)新聞に出なかったベトナム戦争の2つのエピソード

2008年03月26日 | 旅行記

@爆弾に書かれた日本語

1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めた。

93年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。

「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。

ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」

チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。

さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」

この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

日本人の全てがアメリカ政府の戦争政策に賛同しているわけではない。それをベトナム人はよく知っていた。米軍基地で働いている日本人を通じて。

     @中国人のベトナム懲罰戦争

1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。

「中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」「軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」

「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」「懲罰とは穏やかでないですね?」「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」

周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。

ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。が、独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争後の中国とベトナムの戦争も中ソ関係の影が見え隠れする。その辺が真相と考えて間違いないのではなかろうか?(続く)


ブログの読み方は人それぞれ

2008年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

先日法事の食事会のとき家内の妹が言う、「いつも3人の知り合いのブログを読んでますが、全員その内容と書き手の人柄が全く違いますね。そこが面白いです」と微笑む。「どういう意味ですか?」「あれだけ読んでいると優しくて素晴らしい夫のようですね」「実はその反対というのですか?」「まあ、まあ、そう怒らないで」「ところで写真は次第に上手になっていませんか?」「あ、花の写真は興味ないので見ていません。文章だけ読んでいますの」

活け花の先生なので写真の花には興味が無いらしい。才媛だけにコメントのやり取りまで読んで、的確な批判をしていた。2つのことが分かった:格好をつけて善いことばかり書かないほうが良い。肩から力を抜いて良いらしい。もう一つは無理して下手な写真を数多く出す必要など無い。ブログを読む人はそれぞれで、違う読み方をするらしい。ご感想を頂ければ幸いです。(終わり)

Dscn2096 Dscn2097 庭の花


中古ヨットの買い方(16)ランニング・ステイ付きのものを探す

2008年03月24日 | うんちく・小ネタ

風向きに従ってマストの先端が少し左右にずれるようになっているヨットを探して見よう。マストを左右に動かす為のステイをランニング・ステイと言うらしい。

1990年前後にアメリカの東海岸のチェサペック湾でヨットへ招ばれた。ペンシルバニア州立大学の研究者2人と一緒に26Feetの船に乗る。マストから左右に下がっているサイドステイに掴まるとブラブラと緩んでいる。招んでくれたP教授へ聞く、「サイドステイがこんなに緩んでいて大丈夫ですか?」「OK!、OK!」「ステイがこんなでは怖くて心配です。きつく締めて下さい!」「これが良いのです。中古で買ったのですが、前のオーナーからこの方が面白いと教わりました」「でも怖いな!」「よく見て下さい。サイドステイの太さが普通の2倍くらいあるでしょう!だから絶対に切れません」、とのやり取りのあと快晴のチェサペック湾へ乗り出した。

風が丁度良い。風上にのぼるクローズホールドで走ると風上側のサイドステイがピンと張り、風下側のステイがブラブラと緩んでいる。タッキングをするとブラブラしていたステイがビーンと唸って引っ張られて生き返る。ステイの唸り声の高低で風の力の大小が実感できる。

追い風に乗るランニングの場合も同様に左右のステイが呼吸をする。

風下側のステイが風に揺れてブラブラ遊んでいる。前後の両ステイは始めからピンと張ってあるが、生き返ったり、遊んだりするサイドステイのお陰で前後のステイへ加わる風の力も分かる。ブラブラ遊んでいるステイのあるお陰で、風の力がどのように帆へ伝わり、船体の何処へ力が流れているのか眼に見える。いや見えるような錯覚に捉われる。

セイリングが面白くなる!風が見えるとはこのことかも知れない。ピンと張った右ステイとブラブラ遊んでいる左ステイが呼吸をするように入れ替わる設計になっているヨットなのだ。ヨットが蝶のように風に舞う。そのような感じがする。

その後何年かして淡路島の淡南ヨットマリーナで36Feet艇に3回ほど乗せて貰ったことがある。その艇にはスターンの左右から2本のランニング・ステイがマスト先端に連結してある。

クローズーホルドでもジャイビングでも風下側のステイはブラブラ遊んでいる。生きて働いているステイの張力を手元の滑車で調節できるようになっている。風の強弱によってマスト先端の左右の位置が調整できる。タッキングやジャイビングする度に遊んでいたステイがビューンと唸って生き返る。風力の船体への伝わり具合が実感できる。

ブラブラ遊ぶステイを1本つけた設計の中古ヨットはめったに無いが、根気良く探すとセイリングの楽しさが倍加すると思う。(続く)

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外国体験のいろいろ(36)戦争の空しさ、

2008年03月24日 | 旅行記

@山林の中で考えたこと、

早春の夕方、焚き火をしながら考えた。小川のほとりで。

年老いて考えることは少年の頃のこと。昭和20年7月、住んでいた仙台が一夜にして焼け野原になった。終戦、米軍の占領、戦後の荒廃した社会。そしてアメリカ留学をした。1960年になってから。

1960年当時、路上では我々へ必ず微笑みかけて、「ハーイ!」と声を掛けてくれた。老若男女関係なく皆あいさつし、歩みを少しゆっくりさせ、道を空けてくれた。荷物を持っていると重そうだから家まで車で送って行くと声をかけてくれた。戦後の荒廃した日本から行くと、突然、別世界へ飛び込んだような印象を受けた。すっかりアメリカが好きになってしまった。

@1960年頃のアメリカの自信と陽気さが完全に消える

第二次大戦で勝利を収めたアメリカは、朝鮮戦争、中南米出兵、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と大型戦争を行ってきた。この中で完全に敗北し、悲劇的退却をしたのはベトナム戦争だけである。この戦争は1966年からほぼ10年、アメリカ軍人の死者5万人以上とその数倍の戦傷者を出した。

人的損害が大きかったのみでなく、アメリカ社会の分裂と自信喪失をもたらした。

ベトナムで負けたあとのアメリカは意気消沈。かつての闊達な態度や自信がすっかり無くなった。1976年以後のアメリカでは、路上の人々は皆暗い顔で下を向いて歩いている。あいさつもしない。中年の男はすれ違いざま疑い深い顔で冷ややかに見る。社会全体がとげとげしくなった。あの陽気で誰に対しても親切なアメリカ人は一体どこに消えてしまったのだろう。ベトナム戦争の後遺症である。

親しいラップ教授の自宅でビールを飲みながらこの感想を話した。

「その通りだ。ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った」「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

@アメリカ人は韓国兵を絶賛する

ロサンゼレスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。

「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負ってかえってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」

タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

我々日本人はベトナム戦争当時、ベトナムに平和を!とだけ叫んでいた。「ベ平連」という大きな組織が新聞を賑わしていた。平和を!と叫べば許されるような気がしていたと言えば反論もあろう。しかし日本の新聞には報道されなかった色々はことがあった。

一歩外国へ出てみると随分と違った戦争への見方があるのに気がつく。

どれが正しいか?という議論ほど空しいものはない。悲しさだけが心にのこる。平和な春の夕方。山林の中の小川が静かな水音をたてている。

(続く)


山林の中にも春がきた

2008年03月23日 | 写真

Dscn2056 Dscn2058 Dscn2071 山梨県北杜市の山林にも春がきました。

暖かい日でしたのでWood Deck を作り、小川の上へ張り出して固定しました。午後には焚き火をして遊びました。夜も小川のほとりで焚き火に当たりながらクラシックを聞いて過ごしました。ビールもいささか飲みながら。

Dscn2072 Dscn2073 Dscn2077 朝、眼を覚ますと窓の外にはこんな山林の風景が広がっています。空気も澄んでいて気持ちが良いです。東京の小金井市にある自宅の朝の風景とはとても違います。ついつい山林の中の小屋へ来てしまいます。(終わり)

撮影日時:3月21日の日中と22日の朝、8時頃。


山林の中の水芭蕉を見ながら。

2008年03月23日 | 写真

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Dscn2064 Dscn2065 雑木林を分け入り、鬼家雅雄さんの山荘を訪ねる。庭に一輪咲いた水芭蕉を見ながら、ビールを酌み交わしてきました。池の上流にある小橋の上に椅子を2個出して貰いました。夕方の木々の姿が池の水面に映り、春の暖かい風が頬を撫ぜています。

「山の中でよく水芭蕉を育ていますね」「まだ一輪ですが、先ほどお見せした2つの湿地に30輪ほど一面に咲きます」「春が来たのでイノシシがまた出て来ましたね」「水芭蕉の畑で泥あそびされた年もあったので柵を作りました」「福寿草はいっぱい咲きましたね。でも萎んできましたね」「夕方になると花を閉じるのです。明日になるとまた咲きます」

薄暗くなりだしたので、また雑木林を踏み分けながら帰る。方角を間違わないように残照に輝く甲斐駒を時々見上げながら。(おわり)