後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東京の稲田の写真を撮りながら戦後の農地改革を想う

2016年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
東京にも稲作をしている場所があります。郊外の都立小山田緑地公園のそばの谷地に水田が広がっているのです。
毎年、稲穂が黄色に実る頃になると必ず写真を撮りに行きます。
昨日も行きましたが、まだ本当に黄色になりきっていませんでしたが、まずまずの写真が撮れました。
下にその写真を示します。





穏やかな秋の風が渡る水田の間を歩きながら、ふと戦後すぐに占領軍の命令で実行された農地改革のことを思い出しました。
戦後つくられた新制中学校で、私はその農地改革が非常に良いものだと何度も教わりました。小作人を搾取する地主から田畑を取り上げて、小作人に与えたと教わりました。
それで農村にあった封建的な地主と小作人の悲しい関係が解消されたと教わりました。そして、だからマッカーサー元帥は偉いと教わりました。
当時の新制中学校でマッカーサーの新しいいろいろな政策を讃えて、だから彼は偉いという教育が行われていたのです。平和憲法も民主的な議会制度も占領軍の手柄だと教わりました。
そして現在でもよく理解出来ない三権分立も占領軍のお陰で出来るようになったと教わりました。
それからいろいろなことがありました。
アメリカへ留学し、オハイオ州で現在の家内と結婚しました。
帰国して家内の実家にしばらく住みました。そうしたらこんな場面を見て、ひどく驚いたのです。
家内の祖父が縁側の上の奥の座敷に坐っています。2人の男が庭の地面の上に膝をついてています。
そして3人がなにやら話をしているのです。2人の男は小作人で、家内の祖父がかつての地主だったのです。
それまで人間にそのうような上下の差別のあるのを全く知りませんでした。驚くとともに悲しくなりました。

しかし祖父の肩も少し持たせてください。地主には悪い人もいましたが良い地主もいた筈です。
地主・小作の関係が解消された後も、祖父の所へは昔の小作人が訪問していました。
出来立ての農作物を持ってくるのです。多摩川でアユが釣れれば何匹も届けてくれるのです。
現在振り返ってみると家内の祖父と家族は農地を取りあげられたことに一切愚痴を言いませんでした。
現在の私の家の近所では、農地を得た以前の小作人が畑を住宅地として売り、立派な家を建てて豊かに暮らしています。
家内も、その一族も恨みがましいことを絶体に言いません。
まあ80歳になったのですから、年に免じて家内自慢をお許し下さい。

さて上で「良い地主」という表現を用いましたが、やはり地主・小作制度は悪です。止めるべきです。どんな良い地主でも小作人は苦しんだのです。悲しかったのです。
私は今でもマッカーサーは偉かったと思っています。
昨日、稲田の写真を撮り、下の写真のような秋空の下の多摩尾根幹線道路を車で走りながらそんなことを想いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===============================
日本の農地改革;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

一般的には1947年(昭和22年)、アメリカ占領軍総司令部、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる[1]。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
不在地主の小作地の全て
在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し[2]、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。
(以下省略)

秋の花々の写真の一覧を作ってみました

2016年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
彼岸も過ぎ気温も丁度良くなり、日一日と秋が深まってきました。近所の庭のモクセイの花の香が漂ってきます。
台風が来て、秋雨前線が行ったり来たりして、毎日曇りや雨の日が続いています。
しかし10月になると秋晴れの日が続き、爽快な風が吹いてきます。やがて紅葉の季節がやってきます。
そして紅葉の葉が一枚一枚と散り、雑木林もすっかり明るくなり初冬がやってきます。
高齢になると季節がめぐるのが早く感ずるのでしょうか。

こんな秋の季節の流れ行く日々に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。
花の写真を見ていると、このような花々に囲まれた土地に生まれた幸運に感謝したくなります。 四季折々に花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。

秋の花と言えば七草の萩、すすき、葛花、撫子、おみなえし、藤袴、桔梗などなどが昔からあります。不思議なことに必ず秋彼岸に咲くマンジュシャゲや野菊、ホトトギス、リンドウなど日本古来の秋の花々です。
それに最近は海外から来た秋の花もあります。セイタカアワダチソウやコスモス、カンナや皇帝ダリアなどなどです。
そこで自分で撮った秋に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。


1番目の写真は秋の彼岸に咲くヒガンバナです。墓参りに行った日野市のお寺で撮りました。

2番目の写真はコスモスです。山梨県北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

3番目の写真もコスモスです。山梨県北杜市の横手で撮りました。

4番目の写真はシオンです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

5番目の写真はオミナエシです。三鷹市花と緑の広場で撮りました。

6番目の写真はススキです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

7番目の写真はカンナです。都立小金井公園で撮りました。

8番目の写真は萩です。都立薬草植物園で撮りました。

9番目の写真は薬用の菊です。都立薬草植物園で撮りました。

10の写真は食用にする菊です。都立薬草植物園で撮りました。

11番目の写真は丹精込めて大輪に咲かせた菊です。諏訪大社上社で撮りました。

12番目の写真は秋に咲くフヨウです。鎌倉の円覚寺で撮りました。

13番目の写真はセイタカアワダチソウです。北杜市のラフォーレ小淵沢で撮りました。

14の写真はホトトギスです。都立薬用植物園で撮りました。

最後の15番目の写真は小金井公園で撮った皇帝ダリアです。

ところで私が花の写真を撮る時に工夫していることを書いてみたいと思います。
(1)花のクローズアップの写真がお好きな方々が多いのでまず花のクロ-ズアップ写真を撮ります。茎や葉を入れた写真も撮ります。
(2)詩情を感じさせるような背景も一緒に写真に入れて撮ることもあります。
例えば早春に咲く梅の花には淋しげな詩情があります。背景に枯れた雑木林などを入れると、楚々とした梅の花の姿が詩的になると思っています。 それがお寺の境内でしたなら、五輪の塔などを背景に入れます。
(3)花の咲いてるまわりの環境が分かるように遠景写真も撮ります。それを花のクローズアップ写真と組み合わせて掲載します。
私は花がどのような場所に咲いているかが分かるような写真も撮ります。
(4)花々の写真にその場所の歴史の説明を加え、記事の内容を奥深くします。花の背景に歴史を感じさせる建物などを入れて撮ります。
例えば江戸時代に名も分からない流れ大工が作った鎌倉時代風の山門があったらその山門を花の背景に入れて撮ります。

以上のようにいろいろ考えて写真を撮りますが。写真の出来はそれほど良くありません。素人の悲しみを感じます。
しかし花々の写真を眺めていると何故か幸福感につつまれるのです。
そしていろいろな写真を撮った時の思い出がよみがえって来て楽しいのです。大体いつも家人が傍にいて話し合いながら撮ります。彼女は花々がどのような場所に咲いているか分かるような写真が好きです。

さてあなたは写真を撮る時にどのような工夫をなさっているでしょうか?
ご意見を頂けたら大変参考になると思います。勉強になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

秋が深まると北国からの渡り鳥が待遠しい

2016年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
自然は美しい。自然は不思議さに満ちている。そして何故か詩情を感じさせる。
日一日と秋が深まってきました。来週はもう10月です。
こんな季節になると北国からの渡り鳥が待遠しくなります。

まもなくシベリアからもカモ類やハクチョウ達が飛んできます。
渡り鳥の姿を見ていると2千キロメートル位も渡って来たその長旅のつらさが偲ばれます。そしてシベリアの大地に広がる湿地帯や白樺の樹林の風景が目の前に浮かんできます。
特にコハクチョウは数も多く、全国の川や湖に飛来して人々の目を楽しませてくれます。

白鳥の渡来地として、昔から全国的に有名なのは新潟県、阿賀野市の瓢湖(ひょうこ)です。故吉川重三郎氏が昭和29年(1954年)2月4日に日本で初めて野生の白鳥の餌付けに成功したことで、注目を浴びて有名になりました。
その後、国の天然記念物に指定され、平成20年にはラムサール条約登録湿地となりました。毎年11月下旬頃のピーク時には5,000羽を超える白鳥が飛来するそうです。下の1番目の写真はその瓢湖(ひょうこ)の白鳥の写真です。

(写真の出典は、http://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=10803 です)

瓢湖の白鳥が有名になった昭和29年 当時、私は高校生でしたが、戦後の暗い社会でこのニュースは復興の希望の灯のように感じました。多くの人々もそのように感じたらしくて新聞は瓢湖の記事を大々的に報道しました。
家内の祖母はこの記事を読んで、毎日茶殻を乾して貯めては郵便で送っていたそうです。
多くの高齢者にとって瓢湖の白鳥は忘れ得ない明るい希望の風物詩だったのです。
現在、瓢湖の白鳥は吉川重三郎さんの息子の吉川繁男さんが餌を与えて大切に保護しています。重三郎さんは2006年に85歳で他界しました。

瓢湖の白鳥が有名になってから数十年が過ぎ去りました。 現在の日本では白鳥は数多く各地に渡って来るようになりました。日本が豊かな邦になったのが実感できます。あちこちの多くの白鳥を見ると幸せな気分になります。
そんな訳で私は現在でも時々車を駆って見に行きます。富士五湖の山中湖には白鳥が棲みついています。そして霞が浦にも晩秋に数多くの白鳥が飛来します。
下の2番目、3番目の写真は霞ヶ浦で私が撮った冬鳥の写真です。

白鳥、鴨類、ゆりかもめ、鳩などが混じって日向を楽しんでいます。ほかにオシドリ、カイツブリ、川鵜、小白鷺がよく遊んでいました。

下の4番目の写真は美しいユリカモメです。

そして下の5番目の写真ははコハクチョウが大空を飛んで渡っている姿です。

(写真の出典は、http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2012:10:09:4948 です)

最後に個人的は話で恐縮ですが、昔ドイツに住んでいたころは川や湖で白鳥を沢山見ました。2人の子供連れで住んでいたので子供たちが喜ぶのです。白鳥のほうから近づいて来て子供達と遊ぶのです。白鳥を見ると、まだ若かった家内がパンをちぎって投げていたドイツの生活を思い出すのです。

冬の白鳥は風物詩です。日本の戦後の復興の灯でした。私の家族の楽しい思い出です。この冬も白鳥を見に行こうと考えています。下に日本の渡り鳥の参考資料をつけます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:日本の渡り鳥===================
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E3%82%8A%E9%B3%A5 からの抜粋:
地域をどの範囲まで広げる(狭める)かによって、同一の鳥でも異なる分け方になる場合があるが、日本を基準とした場合、以下のような分け方となる。
夏鳥:主として繁殖のために日本より南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥。ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなど。
冬鳥:主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなど。
旅鳥:日本より北の国で繁殖し、日本より南の国で越冬するため、渡りの移動の途中に日本を通過して行く鳥。主として移動時期である春と秋に見られる。シギ、チドリの仲間に多い。

アメリカ人と日本人の日中間の歴史認識は非常に違う!

2016年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本と中国とは歴史認識があまりにも違います。特に1930年、昭和5年に始まった日中戦争以後の両国の関係の歴史についての理解には大きな差があります。
例えば南京虐殺で日本軍は30万人の市民を殺したと中国側は認識しています。日本人は30万人とはあまりにも誇大な数だと言います。そもそも市民の虐殺など無かったと主張しています。
中国は日本が侵略し、3000万人の中国人を殺したと言います。日本は侵略でなく、日本が欧米の植民地になるのを防ぐための戦争だったと言います。3000万人なんかとんでもない誇大宣伝だと主張します。
この歴史認識の違いは永久に平行線です。合致する時代が来そうではありません。
さてそれではこのような日中間の歴史認識をアメリカ人はどのように見ているのでしょうか?

アメリカ人と言っても一般のアメリカ人にはあまり関心が無いのが実情ではないでしょうか?
しかし日本と中国の近代史に詳しいアメリカ人なら明確な歴史認識を持っている筈です。
先日からいろいろ検索して調べていました。そうしたらアメリカの弁護士のケント・ギルバートさんの「日本人の歴史認識に物申す」と題する『産経新聞』夕刊フジの意見記事を見つけました。
彼はアメリカ人ですから、当然アメリカの立場に立った歴史認識です。 その歴史認識は日本人や中国の人と驚く程違うのです。
違いますが非常に客観的で考えさせられる内容です。そこで全文を以下に引用いたします。

ケント・ギルバート著「日本人の歴史認識に物申す」
http://ironna.jp/article/1208
 日本人の歴史認識に必ず文句を言う国がある。実は、米国人である私も、日本人の歴史認識には不満がある。今日は私の歴史認識を書く。
 「アジア唯一の国連常任理事国は?」と質問したら、日本人の大半が「中国」と答えるだろう。不正解とは言わないが、正確には中華人民共和国である。英語は「People’s Republic of China」。PRCは同国の略称だ。
 国連常任理事国とは本来、第2次世界大戦の戦勝5カ国だった。しかし、PRCは1949年10月建国で、終戦時には存在しない。国連加盟は1971年である。

大戦時の「中国」とは、蒋介石率いる中華民国(国民党政府)である。だから貴重な文化財は現在も台湾の国立故宮博物院にある。PRCを建国した毛沢東率いる中国共産党軍(八路軍)は当時、ゲリラ組織のようなもので、国民党軍と国共内戦を戦っていた。
PRCの歴史はわずか65年、米国の3割未満だ。世界一歴史の古い日本と比べるとかわいそうだが、3%未満になる。
そんな短い歴史の中でチベットとウイグルに侵攻し、朝鮮戦争と中印戦争にも参戦した。国内では大躍進政策、空中核実験、文化大革命や天安門事件などで甚大な犠牲者を出したとされる。

米国人の1人として、PRCに戦勝国を自称されると腹が立つ。米英仏ソ4カ国は、日本やドイツと戦い、多大な犠牲を払って戦勝国になった。ところが、中国大陸の国民党軍は非武装の日本人居留民は殺しても、日本軍からは逃げ回った。同胞の中国人を殺し、日本軍の仕業にしたものも多いという。共産党軍は散発的なゲリラ戦だけだ。
まともに日本軍と戦うことなく中華民国は政治的理由で戦勝国扱いされた。その後、PRCはロビー活動の巧みさで中華民国を国連から追い出し、常任理事国の地位を得た。中国4000年の謀略史は侮れない。

ところで、ゲリラ組織だった共産党軍が大戦後に軍隊らしく整備され、国共内戦に勝てた理由が意外と知られていない。
中国大陸の日本軍(関東軍)は敗戦で武装解除され、ソ連に全装備を接収された。ソ連はこの装備を共産党軍に与えたのだ。残留日本人のうち、軍人や医師、看護婦らが強制連行され、軍事戦略や飛行機の操縦技術、医療などを教えた。これによって共産党軍は航空隊や砲兵隊、医療班を持つ近代的軍隊になり、国民党軍に勝った。

PRCは建国時から日本人の世話になり、後に日本のODAと民間投資を得て発展した。ところが、今は最大の恩人である日本をプロパガンダで貶め、自然を破壊し、軍事的に脅かしている。

私が、日本人の歴史認識に不満があると言った理由が、ご理解いただけただろうか。(終り)
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上記のケント・ギルバートさんの歴史認識は強大な中国に対峙しているアメリカ人としてかなり感情的な部分も含んでいるようです。
しかし視点がかなり客観的です。アメリカの政権担当者や国防省の感じ方を率直に反映していると私は感じています。
アメリカ人は台湾の中華民国を大切に思っています。
少し日本をひいきにし過ぎた部分は彼の感情論かも知れません。

ケント・ギルバートさんは米カリフォルニア州の弁護士で日本のタレントです。
略歴です;1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、法学博士号・経営学修士号を取得し、国際法律事務所に就職。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行っている。最新刊は『不死鳥の国・ニッポン』(日新報道)。

ご参考になったでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵がわりの写真は多摩湖の水の色と秋の空の写真です。先日撮って来ました。





孫氏の兵法と韓国の憲法の問題点

2016年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様こんにちは。今日は、少しだけ今後の韓国と外交交渉について書きたいと思います。
さて、ある国と戦争をする場合に孫武は2500年も前に教訓を残しています。
この有名な孫子の兵法は戦争の場合だけでなく現在の外交交渉でもよく使われています。それだけではありません。経営者やビジネスマンに愛用されているのです。その兵法の一部だけを示します。
彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。

実に明快ですね。日本が真珠湾攻撃をし、その後アメリカに敗れたのは、「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」の通りだったのです。

さて将来の韓国との外交交渉で、韓国を説得するためには日本人は韓国の実態を徹底的に知ることが必要です。
それこそが「 彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」なのです。

日本が避けて通れない問題に韓国併合があります。それこそが日韓の交渉を難しくする反日政策や反日教育の原因になっているのです。
ご承知のこととは存じますが、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実です。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いたのです。これはまぎれも無い明白な歴史的な事実なのです。このことは皆様よくご存じです。

しかし多くの日本人はこの韓国併合を土台にして現在の韓国の憲法が出来上がっていることをご存知ありません。ここに重大な知識不足があると私は考えております。

韓国の憲法の前文の抜粋を見てみましょう。
「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定された」

この前文の冒頭にある「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」という部分を日本人の多くは知りません。当然、無視しています。
三・一運動(さんいちうんどう)とは、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの独立運動です。ですから現在、韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。

以上のように韓国の憲法に書いてあることはまぎれもない事実です。
このように書くと1919年に上海で成立した「大韓民国臨時政府」は架空のもので、その首班の李承晩はハワイに居たという感情的な反対をする人がいます。感情的になればなるほど外交交渉において日本の利益は守れないのです。

たとえ脆弱な臨時政府だったとしても韓国の憲法に「現在の韓国政府は1919年の臨時政府から始まる」と明記してあるのは事実なのです。
日韓関係が良くない原因はいろいろありますが、その根本はこの憲法の前文にあると私は考えています。

さて、この上海の臨時政府のあった建物を昨年、9月に韓国の朴槿恵大統領が訪問しています。
朴槿恵大統領は上海の「大韓民国臨時政府」の旧庁舎の改装オープン式典に出席したのです。

この小さな出来事を知らないと日韓の間の外交交渉で日本が利益を増大することは困難になる可能性があるのです。

1919年に上海に亡命した人々が大韓民国臨時政府を組織したのですが、その代表に選ばれたのが李承晩でした。
しかし世界情勢は韓国にとって不利でした。第一次世界大戦で戦勝国になった日本を尊重し、欧米各国はこの上海の臨時政府を承認しませんでした。

時が流れ、第二次大戦が終了すると韓国は独立します。そしてこの臨時政府代表だった李承晩が初代大統領になったのです。当然ながら李承晩大統領は反日的な政策を次々と実行します。
そして出来上がった韓国の憲法の前文には独立運動の1919年の三・一運動が明記されたのです。
この憲法に忠実に従って槿恵大統領は上海まで行ったのです。
韓国の独立運動の拠点となった「大韓民国臨時政府」が使っていた旧庁舎を改装しオープン式典が行われたのです。

一方、伊藤博文を暗殺したトマス安重根の記念室がハルピン駅にあります。
余談ながら、これらの記念室や臨時政府庁舎の整備は本来韓国の費用でするべきであるのは当然ですが、全て中国政府が出したという事実も忘れないようにしたほうが良いと思います。

皆様は上海に1919年、韓国の臨時政府が出来、李承晩がその代表だったことはご存知でしたでしょうか?私は知りませんでした。
今更、日本人が朝鮮の併合を卑屈に謝る必要はありません。
しかし上海に1919年から韓国の臨時政府が存在し、現在の韓国政府はその臨時政府の延長にあると憲法の前文に明記してあることだけは知っておく方が良いのではないでしょうか?これこそが孫子の兵法の「敵を知れば百戦あやふからず」です。

ついでに韓国における反日教育について、ある韓国人が告白したネット記事を抜粋してご紹介します。
( 以下は、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212123017 からの抜粋です。)

「私は日本に住んでいる20代の韓国の男です。 恥ずかしい話なんですが韓国の小学生時代、学校の先生に反日教育を受けまてました。
当時の私の年齢だとごく一部のことじゃなく全学生がそういう教育を受けてると言っても間違いない位です。
"日本は悪い国""日本製の品物は買っちゃダメ""日常生活で気づかなく使われてる日本語使用禁止""日本語書き込むことなど一切禁止"などです。
この反日教育のお陰で。韓国人の9割以上はこういう傾向がありました。 それが当たり前のことだと思いますし、そういう教育で洗脳されてた私の場合は、たまにどこかに書いてある日本語の文字が目に当たるとすごく嫌な気持ちになってなんか悪いことでもしたようないやらしい気持ちになってたりしました。今はそんなことないですが当時には日本語の文字ってすごく不良な形って感じでした。(今思ったら笑っちゃいます)」以下省略。

さてここで私の書きたいことを書きます。
まず日韓両国民は現在の感情的な日韓関係と距離を置いて少し客観的に考えることが重要なのです。
そして韓国人が日本のことを悪く思い、憎むのは韓国人自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは韓国人の問題で外国の人にはどうすることも出来ないのです。
同じように日本人が韓国人をさげすみ悪く言うのは、自分自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは日本人自身の問題であり韓国人とは関係の無いことです。

日韓両国民はかなりの距離を置いてお互いに他人同士として尊敬しあい、建設的な態度をとるべきだとと私は思います。
それが迂遠ではありますが、日韓友好への道になると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は一昨日、甲斐駒岳の麓の山里で撮って来た花の写真です。









「うちの家の庭に咲いたジンジャーの花」

2016年09月25日 | 写真
毎年咲く花ですが、今年は夏から数個のジンジャーの花が次から次へとよく咲きます。数年に一回の「当たり年」です。
美しいだけでなく香が良く、家の中まで漂ってきます。
その写真をお送りします。

暗く憂鬱な森と華やかに咲く花々の写真を撮りに行きました

2016年09月25日 | 写真
秋雨前線というのでしょうか低気圧が日本を覆っているようです。毎日、曇りや雨が続き憂鬱な気分になります。
昨日、そんな気分を吹き飛ばそうと車を飛ばして甲斐駒岳の山麓にある小屋に行ってきました。
行く前から撮る写真の主題を決めていました。「暗く憂鬱な森と華やかに咲く花々」がテーマです。
甲斐駒岳の山麓には鬱蒼とした森が広がっていて八ヶ岳の山麓の森とつながっています。
その森は四季折々いろいろな表情を見せてくれます。そして晴れの日、雨の日、雪の日とその景観が変わります。
昨日は間違いなく暗い憂鬱な景観になっている筈です。それとは対照的に人の住む家のまわりには明るく華やかに花々が咲いています。花を愛する人々が沢山住んでいるのです。
暗い森と明るい花々の対比を写真で示そうという想いです。

昨日撮った森と花々の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









秋になると、あけびを思い出す、そして森の中の小屋、ヨットを想う

2016年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりました。 店には秋の果物が美しく並んでいます。
戦中、戦後に仙台市に育った頃は秋の果物といえば柿しかありませんでした。冬になれば青森の林檎や静岡のミカンも並びがましたが、一般的に果物は貴重品でたまにしか食べることができませんでした。
そんな時代に郊外の八木山の森深く入って行くと不思議に山栗が沢山落ちているところを一度だけ発見したのです。それは踊り上がるような歓喜の瞬間でした。食糧難の時代だったので栗はあこがれの食べ物だったのです。
栗の実を拾い集めてからさらに森の奥に入って行きました。と、不思議な果物がつるにぶら下がっていたのです。それは淡い紫色になっていたアケビでした。
すぐに取って、中身のふわふわの果実を口に入れると、やさしい穏やかな甘味が広がります。その甘味は砂糖のように強くなく、ほのかな甘味ですが、何故か体中が幸せになるような感じがします。
この世の果物ではないような味です。幻想的な味です。
それ以来、野生のアケビを探して八木山の奥に毎年のように入りましたが、なかなか見つかりません。まさしく幻の果物でした。

・・・それからいろいろな事がありました。

1975年になって山梨県の甲斐駒岳の麓の森の中に小屋を建てました。初めて行った時、小屋の庭の小川の向こうに何と、あの幻の果物のアケビが実っていたのです。薄紫色のアケビが3個ぶら下がっています。
少年の頃。仙台の八木山でアケビを見つけた時の歓喜がよみがえります。
そこでその小屋の名前を「あけび荘」とし、その名前を彫刻用のサクラの板に彫って小屋に取り付けました。

・・・それからまたいろいろな事がありました。

1990年に琵琶湖で中古のヨットを買って、霞ヶ浦のマリーナまで陸送しました。その時、ヨットを買った店の人に「あけび号」と船首に書いて下さいと頼みました。
霞が浦に浮かんだ「ヤマハ19」の白い船首の両側に黒々と「あけび号」と書いてあります。
そして10年後に、少し大きな中古ヨットに買え替えました。LunaⅢ号ですが、その登録名も「あけびⅡ号」としました。

アケビの実は不思議です。
いつもは忘れているのに人生の折り目、折り目に心の中から出てくるのです。そして食料難の頃、仙台の八木山の奥でアケビを発見した時の歓喜がよみがえってきます。幸せな気分になるのです。
こんな俳句も思い出します。
「あの頃のほのかに甘き通草(あけび)かな」  松井矢菅

この秋は80歳の秋です。少年の頃、仙台の八木山の奥で見つけたアケビの実の薄紫の色を思い出します。
そして甲斐駒の山林の中の小屋や、25年間乗った2艇のヨットのことを想うのです。
そうだ今日は車を駆って山林の中の小屋に行ってみることにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真にあけびの写真を示します。
あけびの写真の出典は、http://tititake.sakura.ne.jp/diary/nicky00088.html です。

2番目の写真は甲斐駒の山林の中の小屋を裏側から見た写真です。この小屋の向こう側の山の斜面にアケビが成っていたのです。1975年の秋でした。

3番目の写真は1990年に琵琶湖で買って、霞ヶ浦まで陸送してきたYamaha19です。「あけび号」です。現在の持主が霞が浦でまだ帆走させています。

4番目の写真は13年間乗った「あけび2世号」です。

5番目の写真はLunaⅢ「あけび2世号」と家内の写真です。ヨットは5年前の75歳で止めました。この写真は2009年頃の写真です。

「東京にある大きな魚小売店の写真です!」

2016年09月23日 | 写真
東京には新鮮な魚を一匹ごとに売り、目の前で切り身にしたり刺身にしてくれる魚屋さんが少ないようです。
しかし数年前から新潟県寺泊漁港にある角上魚類という店が関東一円に大きな鮮魚販売店をたくさん開店しました。
私は魚が好きなので家から車で20分位の小平店によく魚を買いに行きます。先程も新鮮なヒラメを1枚買って来ました。その時撮った写真をお送りします。
関東一円の店舗情報は、http://www.kakujoe.co.jp/index.php に御座います。

昨日、神代植物公園で撮ったオオオニバスの写真をお送りします。

2016年09月22日 | 写真
昨日、都立神代植物公園の池で大鬼蓮の花が咲いているのを見つけました。
東京では新宿御苑の温室内でも見た記憶がありますが、野外の池に秋になってから咲いているのは珍しいと興奮して写真をとりました。

1番目の写真は池の全景です。

2番目の写真は白い花です。咲いて始めはこのように白いのですが、時間の経過とともにピンクに色が変わるそうです。
帰宅してから調べました。
原産地のアマゾンでは直径3m以上になる大きな丸い葉をもち、水面にその葉を浮かべているそうです。
花は夕方から咲き始め、はじめは白色ですが、翌朝にはピンク色に変化し、その後は紫色に変わるそうです。花の直径は約40cm位です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9 をご覧ください。
昨日見た大鬼蓮の葉はそんなに大きくなく直径が1m以下から60cm位だったでしょうか。
たしか赤ん坊が乗っている写真を見た記憶があります。そこで大鬼蓮の写真を検索したら子供を乗せている写真を見つけました。

3番目の写真は子供が乗っている大鬼蓮の写真です。この写真の出典は、https://www.youtube.com/watch?v=NrwRxund0G8 です。

少し珍しいので写真をお送りします。それにしてもイギリス人は地球のあちこちに行って植物を広く研究していることに感銘を受けます。


参考資料;大鬼蓮の歴史、

オオオニバスは、1832年にアマゾン川の上流で、ドイツの植物学者、エドゥアルト・フリードリヒ・ペーピッヒによって発見された。1800年代にイギリスに持ち込まれ、デヴォンシャー公やノーサンバーランド公爵といったヴィクトリア朝の園芸家がこぞって栽培し、大輪の花を最初に開花させることを競い合っていた。1837年には種子が船旅の途中で枯死するなどといったこともあったが、1847年にキューガーデンに種子が届き、発芽、生育に成功した。そして、その苗を譲り受けた造園家のジョセフ・パクストン (デヴォンシャー公に仕えていた) が、1849年に開花に成功させた。
オオオニバスはその目立つ外見から、人々の関心を集めてきた。例えばウォルター・フィッチとウィリアム・ジャクソン・フッカーは、キューガーデンで栽培された個体の標本を元に、1851年に『Victoria Regia』(オオオニバスの当時の学名)というイラスト主体の書籍を刊行し、「正確で、そして美しい」と賞賛された。

秋の七草の花々の写真を撮りに行きました

2016年09月21日 | 写真
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

上の万葉集にある秋の七草の花々の写真を神代植物公園に撮りに行きました。
何処に咲いているかと探しました。そしたら正門を入った所に、萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、をみなへし 藤袴、朝顔の花(キキョウ)が一カ所に寄せ植えになったいました。
苦労せずに七種類の写真を撮ることが出来ました。その写真をお送り致します。

1番目の写真は寄せ植えになっている様子を示す写真です。

2番目の写真はオミナエシです。

3番目の写真はキキョウの花です。

4番目の写真はナデシコの花です。

5番目の写真は白い萩の花の写真です。
それにしても日本に万葉集時代から咲いている花々はみなおだやかな美しさを見せてくれます。心がしずまります。和の花は西洋の花々とはやはり違うのですね。

80歳を過ぎると水車のある風景が急に懐かしくなる

2016年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、80歳以上の人生は天から頂いたボーナスのようで楽しいと書きました。
何故、楽しいのかと聞かれれば悲しかったこと、苦しかったことをすっかり忘れてしまうからです。そして楽しかったことだけを憶えているからです。
そして楽しかったことだけを毎日、懐かしく思い返えして、時がゆっくり流れていくのです。
その楽しい思い出の一つに水車の見える風景があります。今日はそんな風景をご紹介したいと思います。

時々訪れる所にも水車があります。隣町の小平市の「ふるさと村」です。
江戸時代中期から戦後まで使われていた農家が復元してあります。その家にあがると部屋から裏口の外に水車が見えるのです。
水車が回っているゴトン、ゴトンと低い音が聞こえてきます。

1番目の写真が裏口から見える水車の風景です。旧懐の情がかきたてられる眺めです。
水車のある風景が好きなので、この近辺では何処にどういう水車があるか分かっています。小平市の玉川上水沿いの雑木林に覆われた遊歩道には3つも水車が復元してあります。

水車のある美しい風景は全国に沢山あると思います。
私が好きなところは山中湖の西にある忍野八海の水車です。背景に残雪が輝く富士山が見える季節が良いのです。
そして長野県の穂高町にある大王わさび園の水車は周囲の景観と良く調和して、ロマンチックな風景です。下にその写真を示します。

2番目、3番目、4番目の写真は昨年の7月に久しぶりに訪問して撮った写真です。



この水車は黒沢監督が数十年前に「夢」という映画を撮影するためにわざわざ作ったものです。水車の間を笠智衆が扮した村の老人と村人が楽しげに踊り歩いている場面に出てくる水車です。水車が美しいだけでなく北アルプスの伏流水を集めた水量豊かな清流も美しいのです。

水車小屋と言えば1970年頃に住んでいたシュツットガルト市の郊外にもありました。
ドイツ語でたしか Sieben Muhre(七つの水車)の道という名前のついた道でした。中世から続く古い道を遊歩道にしていました。
車が通れない道なので、子供を連れて行っても安心なのでよく散歩に行ったものです。
遊歩道のところどころにコーヒーとドイツ菓子を出す店があります。

5番目の写真にドイツの水車小屋を示します。Sieben Muhre を検索して見つけた写真です。

水車小屋は洋の東西を問わず人々が好きなようです。 皆様の近所にも水車小屋がありますでしょうか。こんな気楽な思い出を楽しみながら今日も一日過ごします。
天から貰ったボーナスのように楽しい一日です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

80歳以上の人生は天から頂いたボーナスのようで楽しい

2016年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は午前にカトリックのミサに行き、午後には家内の実家の墓参りに行きました。ミサの間はイエスさまの言葉を考えることが忙しくて自由な雰囲気でありませんでした。しかし墓参りに行ったら、まだお彼岸でないので人影が無く静かです。
森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。2日前に義妹の供えた花々との調和をとっています。
私はチャッカマンという長い形のライターで線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天からケーキ」という想いがこみあげて来ます。そして愉快になります。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が80歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。この記事を読んでくれる全ての人々への感謝です。

私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして70歳代を乗り切りました。乗り切れて本当に嬉いのです。
80歳以後は思いがけず貰った「天からのぼた餅」です。そんな訳で毎日笑いながら楽しんでいます。
今日の記事はこれでお終いです。今日の挿し絵がわりの写真は昨日の墓まいりの時撮った写真です。

ところで昨日はキリスト教と仏教について少し書きました。
そうしたらフランス在住のMotokoさんと日本在住のひかりさんから素晴らしいコメントを頂きましたので、あらてめて以下にご紹介いたします。

Motoko Boutdumonde;
こんばんは。といってもそちらはもうそろそろ朝ですね。では、おはようございます!興味深いお話、ありがとうございました。今でこそキリストはユダヤ人でユダヤ教のラビでもあったことは知られていますが、19世紀にはキリストがユダヤ人だったと言うだけで冒涜だった時代がありましたね... でもキリストの教えは、私の(狭い)考えでは、キリスト教徒になれば救われる、ということではないと思っています。何のためにキリストは十字架の上で死んだのでしょう?すべての人を救うためだったと思います。それでなければキリスト教を知らなかった人は善人でも救われないということになりますから。神は慈悲の神だと思います。クリスマスのミサに歌われるフランス語の聖歌、MINUIT CHRETIEN という歌では「我々の原罪を消すために」とありますし。
話は変わりますが、仏教の色即是空、空即是色という考えも、灰の水曜日のミサのときの「汝は埃である、埃に戻るであろう」という言葉に通じるところがあり、宗教の普遍性を思います。
インドの昔の記録にも、「ユダヤからラビが来ていた」という記載があり、それがキリストだったとも考えられています。いろいろ考えされられますね。特に宗教の対立がまた過激に表面化してきた現在ですが、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の神は同じものですし、またキリストが仏教やヒンズー教も学んだかもしれないと考えると...

ひかりさん;
私には、神がいるのかいないのかさえも解りません。
もっと正確に言えば、神がいようがいまいが構わないという立場です。
また、科学では解明できない人知を超えたものがあることを認めていますが、神ではなく自然の摂理であると考えれば何の問題も生じません。
しかし、他人の心は不可侵です。ですから、信仰心や宗教も否定しません。尤も、亡き先祖の供養は欠かさずやっています。
この欄へコエメントを下さる方には宗教を否定するために、科学用語を利用する生物学決定論者がいるようですが、それは明らかに科学の誤用です。科学(技術)の本来の目的は、自然や社会の未知の領域を明らかにし、人々の生活の豊かや利便性を追求するものであって、宗教を否定するためにあるのではありません。むしろ、こういう似非科学者こそが当方が対峙すべき相手だと最近とみに感じだしました。
なお、神の存在確率をベイズ統計によって計算した書籍がありますが、それによれば神の存在確率は67%とのことです。ベイズ統計とは主観確率を基にする統計学手法であり現代のスグレモノで、従来の答えは一つであると仮定する頻度主義のフィッシャー統計とは根本的な違いがあります。また、ベイズ統計の生みの親は、イギリスの数学者かつプロテスタントのベイズ牧師です。キリスト教の主観的なモノの見方が生み出した統計学と言ってよいかもしれません。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









今日の日記、ミサにあずかり、午後はお墓まいり

2016年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。午前中はカトリック教会のミサに行きます。
そしてイエスさまのみ言葉を聞きます。聖歌を歌います。イエス様の最後の晩餐を再現して小さなパンを頂いて終りです。
イエスさまは2000年前の方でユダヤ教を信じていました。そのユダヤ教の律法主義を改めて、数多くの教訓を残しました。貧しく、弱い人に愛をそそぎ、異邦人を大切にしました。
隣人を愛しなさい。復讐をしてはいけません。七の七十倍の回数、許しなさいと言いました。

イエスさまの教えはユダヤ民族を越えて、ギリシャ人、ローマ人に感銘を与えたのです。
イエス様の死後、その教えはユダヤ民族だけでなく、他の多くの民族にも感銘を与えました。すべての人類に普遍的な宗教となったのです。その新しい宗教が後にキリスト教と呼ばれるようになったのです。

その教えは1549年にザビエルによって日本にも伝えられました。多くの日本人が感動して信者になりました。しかしやがて禁教の時代が250年続いたのです。
そしてフランスの神父が長崎の大浦天主堂を立てた時、隠れキリシタンが現れたのです。
それは劇的な場面です。当時のローマ法王へ報告されました。

私は何故、カトリックになったのか理由を知りません。気がついてみたらカトリックになっていたのです。

今日の午後は家内の実家の墓まいりに行きます。
そしてお釈迦様の教えを偲びます。色即是空、空即是色の意味をあれこれ考えます。
お釈迦さまが亡くなるとき、遺骨は野に捨てよとおっしゃった意味を考えます。
仏像を作ってはいけないとおっしゃった意味を考えます。
2500年も前にビンズー教から生まれた仏教はその普遍性の故に世界宗教になりました。
今日はそんなことをあれこれ考えて時を過ごします。

今日の挿し絵がわりの写真は、世界文化遺産に申請中の天主堂の写真です。写真の出典は、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という題目のWikipedeaの資料です。
URLは長すぎるので省略します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)