東京にも稲作をしている場所があります。郊外の都立小山田緑地公園のそばの谷地に水田が広がっているのです。
毎年、稲穂が黄色に実る頃になると必ず写真を撮りに行きます。
昨日も行きましたが、まだ本当に黄色になりきっていませんでしたが、まずまずの写真が撮れました。
下にその写真を示します。
穏やかな秋の風が渡る水田の間を歩きながら、ふと戦後すぐに占領軍の命令で実行された農地改革のことを思い出しました。
戦後つくられた新制中学校で、私はその農地改革が非常に良いものだと何度も教わりました。小作人を搾取する地主から田畑を取り上げて、小作人に与えたと教わりました。
それで農村にあった封建的な地主と小作人の悲しい関係が解消されたと教わりました。そして、だからマッカーサー元帥は偉いと教わりました。
当時の新制中学校でマッカーサーの新しいいろいろな政策を讃えて、だから彼は偉いという教育が行われていたのです。平和憲法も民主的な議会制度も占領軍の手柄だと教わりました。
そして現在でもよく理解出来ない三権分立も占領軍のお陰で出来るようになったと教わりました。
それからいろいろなことがありました。
アメリカへ留学し、オハイオ州で現在の家内と結婚しました。
帰国して家内の実家にしばらく住みました。そうしたらこんな場面を見て、ひどく驚いたのです。
家内の祖父が縁側の上の奥の座敷に坐っています。2人の男が庭の地面の上に膝をついてています。
そして3人がなにやら話をしているのです。2人の男は小作人で、家内の祖父がかつての地主だったのです。
それまで人間にそのうような上下の差別のあるのを全く知りませんでした。驚くとともに悲しくなりました。
しかし祖父の肩も少し持たせてください。地主には悪い人もいましたが良い地主もいた筈です。
地主・小作の関係が解消された後も、祖父の所へは昔の小作人が訪問していました。
出来立ての農作物を持ってくるのです。多摩川でアユが釣れれば何匹も届けてくれるのです。
現在振り返ってみると家内の祖父と家族は農地を取りあげられたことに一切愚痴を言いませんでした。
現在の私の家の近所では、農地を得た以前の小作人が畑を住宅地として売り、立派な家を建てて豊かに暮らしています。
家内も、その一族も恨みがましいことを絶体に言いません。
まあ80歳になったのですから、年に免じて家内自慢をお許し下さい。
さて上で「良い地主」という表現を用いましたが、やはり地主・小作制度は悪です。止めるべきです。どんな良い地主でも小作人は苦しんだのです。悲しかったのです。
私は今でもマッカーサーは偉かったと思っています。
昨日、稲田の写真を撮り、下の写真のような秋空の下の多摩尾根幹線道路を車で走りながらそんなことを想いました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===============================
日本の農地改革;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9
一般的には1947年(昭和22年)、アメリカ占領軍総司令部、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる[1]。
1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
不在地主の小作地の全て
在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等
また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し[2]、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。
(以下省略)
毎年、稲穂が黄色に実る頃になると必ず写真を撮りに行きます。
昨日も行きましたが、まだ本当に黄色になりきっていませんでしたが、まずまずの写真が撮れました。
下にその写真を示します。
穏やかな秋の風が渡る水田の間を歩きながら、ふと戦後すぐに占領軍の命令で実行された農地改革のことを思い出しました。
戦後つくられた新制中学校で、私はその農地改革が非常に良いものだと何度も教わりました。小作人を搾取する地主から田畑を取り上げて、小作人に与えたと教わりました。
それで農村にあった封建的な地主と小作人の悲しい関係が解消されたと教わりました。そして、だからマッカーサー元帥は偉いと教わりました。
当時の新制中学校でマッカーサーの新しいいろいろな政策を讃えて、だから彼は偉いという教育が行われていたのです。平和憲法も民主的な議会制度も占領軍の手柄だと教わりました。
そして現在でもよく理解出来ない三権分立も占領軍のお陰で出来るようになったと教わりました。
それからいろいろなことがありました。
アメリカへ留学し、オハイオ州で現在の家内と結婚しました。
帰国して家内の実家にしばらく住みました。そうしたらこんな場面を見て、ひどく驚いたのです。
家内の祖父が縁側の上の奥の座敷に坐っています。2人の男が庭の地面の上に膝をついてています。
そして3人がなにやら話をしているのです。2人の男は小作人で、家内の祖父がかつての地主だったのです。
それまで人間にそのうような上下の差別のあるのを全く知りませんでした。驚くとともに悲しくなりました。
しかし祖父の肩も少し持たせてください。地主には悪い人もいましたが良い地主もいた筈です。
地主・小作の関係が解消された後も、祖父の所へは昔の小作人が訪問していました。
出来立ての農作物を持ってくるのです。多摩川でアユが釣れれば何匹も届けてくれるのです。
現在振り返ってみると家内の祖父と家族は農地を取りあげられたことに一切愚痴を言いませんでした。
現在の私の家の近所では、農地を得た以前の小作人が畑を住宅地として売り、立派な家を建てて豊かに暮らしています。
家内も、その一族も恨みがましいことを絶体に言いません。
まあ80歳になったのですから、年に免じて家内自慢をお許し下さい。
さて上で「良い地主」という表現を用いましたが、やはり地主・小作制度は悪です。止めるべきです。どんな良い地主でも小作人は苦しんだのです。悲しかったのです。
私は今でもマッカーサーは偉かったと思っています。
昨日、稲田の写真を撮り、下の写真のような秋空の下の多摩尾根幹線道路を車で走りながらそんなことを想いました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===============================
日本の農地改革;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9
一般的には1947年(昭和22年)、アメリカ占領軍総司令部、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる[1]。
1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
不在地主の小作地の全て
在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等
また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し[2]、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。
(以下省略)