後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は郷愁を感じさせる長屋門の写真を撮って来ました」

2020年10月31日 | 写真
今日は東京の清瀬市の郊外の農村に隠れるように建っているお寺の長屋門の写真を撮りに行きました。
晩秋の陽射しを浴びて古刹の長屋門が郷愁を感じさせます。白壁に囲まれた長屋門が穏やかな雰囲気を醸し出していました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。





この長屋門のある円通寺は、南北朝時代、暦応3年(1340年)に開かれたといわれ、清瀬市内では最も古いお寺です。東京都清瀬市下宿2-521にある真言宗豊山派の古刹です。
この長屋門と観世音菩薩立像の本尊と前立は清瀬市の有形文化財に指定されています。
観世音菩薩立像は、新田義貞の弟新田義助が奥州下向の途中、鎌倉の松ヶ岡から移したものといわれ、それ以来、馬に乗ったままここを通ろうとすると必ず落馬したことから別名「駒止観音」とも呼ばれていました。また円通寺に通じる観音坂は、この観世音菩薩立像に由来するといわれています。門前には広い駐車場があります。東京の方は、お出掛けになっては如何でしょうか。

「東京にあった数多くの城(3)品川氏館と高月城」

2020年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の23区内には数多くの城や館が江戸幕府の出来る前まではあったのです。品川氏館、世田谷城、渋谷城、板橋城、練馬城、そして御殿山城、荏原氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、などなどがありました。その上、郊外には石神井城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などもあったのです。これら多くの城や館は江戸幕府が出来ると廃止され江戸城だけになってしまいました。江戸幕府の出現は大きな歴史の転換でした。

今日は鎌倉時代の御家人、品川氏の館の品川氏館と1457年に武蔵国守護代大石顕重が築城した八王子の高月城をご紹介したいと思います。
さて品川氏館ですが、この館に関する文献が残っておらず口伝だけが残っています。それによると場所は品川区西品川3丁目の貴船神社や同じく品川区豊町2丁目の戸越公園付近に存在したと伝承されています。

1番目の写真は西品川3丁目の貴船神社です。
品川氏館は鎌倉時代の御家人の品川氏の館だったと言われています。
品川氏館は、山手線の大崎駅南側の高台に築かれていました。現在は三木小学校の西側にある貴船神社の境内となっている辺りが居館跡です。現在の境内に館の遺構は一切ありません。
品川氏は古き名族の紀氏(きうじ)の流れを汲む一族です。
(http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/374/0 )
まず平安末期に武蔵国に移り住んだ紀実直が大井氏を名乗り、その子らが枝分れして春日部氏や潮田氏、そして品川氏を名乗りました。
品川氏は源頼朝から信頼を得て鎌倉幕府の御家人として品川湊の管理を任されていました。品川氏はこの舟運の拠点を取り仕切り地域の発展に寄与しました。
品川氏は源頼朝の配下として合戦でも功績をあげましたが室町時代になり、第4代鎌倉公方の足利持氏によって所領を奪われ衰退してしまいました。
そうして貴船神社が鎌倉の御家人の品川氏の館の跡地だとい口伝が残ったのです。

さて高月城をご紹介します。(https://blog.goo.ne.jp/ihcirot/e/f16aa0d7bed8b76bc4367b8c3a26d492 )
高月城は武蔵国守護代大石顕重が、大きく蛇行する秋川と多摩川の合流地点の流れに突き出るような形の加住北丘陵の自然の要害を利用して1457年に築城した山城です。
昨日訪れて、家内が城山に登って写真を写して来ましたのでその写真にそってご紹介します。

2番目の写真は八王子市高月町にある頂上に本丸があった山です。手前の麓には古刹、圓通寺があります。圓通寺は、讃海(天暦年間947-956寂)が開山となり創建したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領しました。近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。このお寺が高月城の築城に協力したと考えられます。

3番目の写真は城山へ登る入口にある説明です。車はここまで入れましので家内は車を下りて登っていきました。私は車を広い草原に出して、そこで家内が写真を撮って帰って来るのを待っていました。

4番目の写真は城山の登山道です。両側から水が湧きだし滑りやすく難儀な登山だったそうです。

5番目の写真は登山道を少し登った所から見えた下の景色です。

6番目の写真は頂上の本丸跡の広い草原です。

7番目の写真は本丸のあった場所には2枚の看板が立っていたそうです。看板の両面に説明文がありました。両面ですので4種の案内があります。『高月城跡縄張想像図』『滝山三城周遊図』『高月城散策ルート』『高月城周辺の観光』の4種だそうです。
この頂上には空堀と土塁がある筈ですが草木が繁茂していて明瞭に分かりません。
城山へ登る入口まに車で入るには都道166号線沿いにある「ホテル高月城」の看板のある細い道を入ります。車1台がやっと通れる程度の道です。
ホテル高月城の入り口から少し先の左側に表示板が立っています。そこが登城口(虎口)です。登城口を左に見て車をその先に進めると広い草原に出ますので駐車出来ます。

築城した武蔵国守護代大石氏のことを少し書き加えておきます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E6%B0%8F )
大石氏は信濃国佐久郡発祥の氏族です。関東管領上杉氏のもとの四宿老の一人に数えられ代々武蔵国の守護代を務めた氏族です。
大石信重は観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めました。その戦功として、1356年(延文元年)武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し二宮(現・あきる野市)に館を構えたのです。
大石顕重が1457年に築城した高月城を大石定重の代から本拠地に構えてたのです。
しかし後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)に定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城本拠を移したのです。それは大石顕重が1457年に築城してから64年後でした。

今日は鎌倉時代の御家人、品川氏の館の品川氏館と1457年に武蔵国守護代大石顕重が築城した八王子の高月城をご紹介しました。当時の東京付近は戦乱の続く酷い時代でした。徳幕府が出来てからやっと平和が訪れたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「晩秋の淋しい田園風景の写真を写して来ました」

2020年10月30日 | 写真
午後から八王子市郊外の晩秋の淋しい田園風景の写真を写して行きました。場所は多摩川と秋川の合流地点から1キロメートル上流の秋川の岸です。稲はすっかり刈り上げて稲束が昔風に干してありました。今日は朝から寒い風が吹いています。一段と淋しい田園風景が広がっていました。
曇りで鮮明な写真ではありませんがお楽しみ下さい。





「東京にあった数多くの城(2)渋谷城と片倉城」

2020年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
太田道灌が江戸城を作るまでは淋しい漁村だった。こういう言い方を私は信じ、私は江戸時代まで東京は淋しい武蔵野の一部だったと思い込んでいました。
中年になって地方の歴史を調べるのが趣味になり東京の歴史も調べるようになりました。すると驚いたことには東京には次のように実に沢山の城や館があったのです。
御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城、そして江戸城などなどです。

今日は平安時代に作られた渋谷城と誰が城主だったか分からない謎の片倉城をご紹介いたします。

現在の東京の繁華街に渋谷城があったのです。その理由で渋谷区という名前が出来たのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%9F%8E )
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。
平安時代に渋谷金王丸がこの城の城主になりました。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 神社の前にある道路は堀を兼ねた小川で、NHKのテレビ番組ブラタモリでも渋谷城が紹介されていました。

1番目の写真は渋谷城のあった場所にある金王八幡宮です。

2番目の写真は金王八幡宮の境内に展示されている昔の渋谷城の石です。
写真に示した金王八幡社は渋谷駅から歩いて行けるところにあります。しかし渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。
金王八幡宮社の社記によると、この神社は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治六年(1092)に創建したと書いてあります。現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定した時に1612年に造られ、その後何回か修理したものです。
 門は明和六年(1769)に造られ、江戸中期の建立され、その後何度かの修理を経てます。
現在の渋谷区のこのあたり一帯の高台は渋谷氏一族の居館跡でした。東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地の黒鍬谷があって、昔は数ヶ所に涌泉があったのです。
渋谷氏一族のなかで渋谷金王丸だけは動向が分っています。(https://sirotabi.com/11574/ )
渋谷金王丸は、河崎基家(小机六郎)の次男とされてます。1156年、保元の乱で、渋谷金王丸は源義朝に従って先陣を務めました。源義朝が暗殺された際にその郎党に金王丸の名前が書いてあります。この渋谷金王丸常光が渋谷城主になっていた時期があったため渋谷城は、金王丸城とも呼ばれ、現在の金王八幡社になったのです。
1189年、藤原泰衡討伐のおり源頼朝は渋谷高重の館に立ち寄り、渋谷城の隣の八幡宮に太刀を奉納しました。
この時、金王丸御影堂に親しく参拝し、父の源義朝に仕えた金王丸の忠誠を偲び、その名を後世に残すべしと厳命したと言います。そのため、金王八幡宮の境内には現在も金王丸御影堂があります。
それにしても皆様は渋谷駅のそばに平安時代から渋谷城が存在していたことをご存知でしたでしょうか?

さて話は変わり謎の片倉城をご紹介いたします。
このお城は八王子の郊外にあり小高い山の上にありました。土塁や堀の遺構ははっきり残っていますが誰が作ったかさっぱり判っていない城跡なのです。

3番目の写真は片倉城の見取り図です。

4番目の写真は頂上にある本丸跡の広場です。私は片倉城には前に何度か登りました。この写真はその折に撮ったものです。

5番目の写真は城跡にある住吉神社でです。この写真も私が撮ったものです。
このお城は鎌倉時代よりも前の山城と推定されています。東京都指定文化財で、片倉城の城跡と周辺の優れた自然環境の保全を目的とした公園になっています。二の丸広場周辺の空堀などの遺構を見ることができます。
片倉城の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E5%9F%8E にあります。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史はあまり教えません。自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多く興味が尽きません。
歴史の闇に消えてしまった事実に対する好奇心が湧きあがって来ます。

今日は平安時代に作られた渋谷城と誰が城主だったか分からない謎の片倉城をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「多摩の横山の風景写真を撮って来ました」

2020年10月29日 | 写真
多摩の横山とは府中市の多摩川西岸から稲城市、多摩氏、町田市と西方向にまっすぐ伸びた長い尾根です。
万葉集にも歌われた風光明媚な尾根です。今日は多摩の横山の風景写真を町田市の小山田緑地の近くで撮って来ました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出てきます。
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。冒頭で説明した尾根の上を通る古い道です。
多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。

「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女

山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を西岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この道は雑木林の中にありまり、歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
今日はこの自動車道路を通って多摩の横山の風景写真を撮って来ました。

「恐竜の1億年以上の繁栄と絶滅、そして日本人の出現」

2020年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は少し壮大な想像力を働かせて恐竜と日本人の運命を考えてみましょう。そして皆様に良い気分になって貰いたいのです。
恐竜は約2億年前に出てきて非常に繁栄し、日本にも住んでいた動物です。現在の爬虫類を大型にしたような動物です。それが6600万年前に突然絶滅してしまったのです。
巨大な隕石がメキシコ湾に落ちて、その粉塵が地球の上空に長期間漂い寒冷化し、全ての恐竜が絶滅してしまったのです。それは全ての生物の進化の歴史において最大級のドラマチックな現象でした。6600万年以前には勿論日本にも恐竜が数多く闊歩していたのです。現在、日本では福井県から恐竜の化石が沢山出て来ます。

1番目の写真は福井県の勝山の恐竜博物館に展示されている草食恐竜の姿です。

2番目の写真は福井の山波を背景にした肉食恐竜の写真です。
恐竜の化石は全国で発見されています。特に福井県では非常に多数出土しています。恐竜の棲んでいた頃の古い地層が福井県だけで地表に露出しているからです。
写真に示したような草食恐竜や肉食恐竜が日本から消えたのは6600万年前です。それから気が遠くなるような長い長い年月が流れました。6600万年近くの年月が流れたのです。
そして遂にこの日本にも人間が現れたのです。日本に人間が住んでいた証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているので4万年前から日本に人間が現れたのです。
ですから日本の時代区分は以下のようなものになります。
旧石器時代;  約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代;   前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代;   前3世紀頃 – 後3世紀中頃
旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。
旧石器時代には土器が一切無かったのが事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。

3番目の写真は旧石器時代の日本に棲んでいた動物たちです。
当時の日本の人々は定住していないで写真にあるような動物を獲りながら食べていました。定住しないで獲物を焚火で焼いて食べていたのです。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。
それが終戦直後の群馬県みどり市の岩宿遺跡の発見で、数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。旧石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたのです。

4番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子です。

5番目の写真は旧石器時代の男性が数人で協力し合って大ツノシカを狩っている場面です。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、日本には4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代が存在したと判明したのです。
ここで示した写真は神奈川県の相模川の東側の田名向原展示館のパネルを私が撮ったものです。
田名向原の展示館にある絵画では、人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子なども示してます。

私は時々日本の悠久の歴史を想像します。すると楽しい気分になります。毎日、新聞などに報じられる事件が全て取るにたらない小さなことに思えるのです。精神が健康になるように感じます。世の中に健康食品があるように楽しい想像は精神の健康食品のようなものです。皆様に良い気分になったでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:過去の関連記事の紹介============
過去の関連記事の一覧;
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

「秋の陽に輝く相模湖と桂川、そして宿場の歴史」

2020年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は秋晴れでした。そこで秋の陽に輝く相模湖と桂川の風景写真を撮りに行きました。
今日は相模湖と桂川の風景写真をお送りします。そして相模湖と桂川に沿った昔の甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿の歴史をご紹介したいと思います。
はじめに2枚の相模湖の写真と3枚の桂川の写真をお送りいたします。









さて昔の甲州街道は小仏峠を越すと相模川とその上流の桂川に沿ってありました。そこには東から西へ小原宿、吉野宿、鶴川宿がありました。
甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいました。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道で全て重要な街道です。
江戸から大月までの甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となります。
歴史探訪が好きな私は以前から何度も旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴留川宿の3宿を散策して来ました。本陣を保存し展示しているのです。
現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくと、右手に大きな「小原の郷」という歴史展示館がある。駐車場は無料で広いです。そこから100m位歩いたところに小原宿本陣があり、よく手入れされ、公開しています。展示館と本陣の2階部分も開放しています。

6番目の写真は小原宿本陣の江戸時代の建物です。
本陣には高島藩、高遠藩、飯田藩などの大名の泊まった奥の8帖の部屋と「控えの間」があります。随分と狭い所に泊まったものと感心します。

吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近い所です。吉野宿の本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」という看板の出ている歴史展示館があります。

7番目の写真は「吉野宿ふじや」という看板の出ている歴史展示館です。
展示館で出会った地方歴史家から話を聞きました。承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので吉野のの地名が残ったとのです。
そして高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、などの地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたという。
この歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、電話をし以上の歴史を確認しました。2008年6月のことでした。

鶴川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通うしの坂を下り、左へ曲がるところで右折して鶴留川の川原の方角へ下るります。その下る道が旧甲州街道です。鶴川の橋を渡った処に「鶴川宿」という石碑が立っています。そこを上ると宿場町のような家並みが道の両側に続いています。
本陣の建物も、展示館も一切ありません。昔の、街道であった道が一本あるだけである。静かな町なのでしばらく散策していると当時の様子が何となく想像できる。

今日は昨日撮って来た秋の陽に輝く相模湖と桂川の写真をお送りしました。そして旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「東京カテドラルでの 年間第30主日のミサ」

2020年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での菊地功大司教によるミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=WbHfU1XHFNA です。

菊地功大司教による説教は以下の通りです。
(1)はじめに
10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2020/10/post-f4b529.html?fbclid=IwAR3psLaokM_hNNF1UHDjUuzTWr1dxiKeGTil45ht80hBXztWYD18vWz03dc に続きます。
(2)年間第30主日A(公開配信ミサ)の菊地功大司教の説教
教会にはいのちの福音を告げしらせる使命があります。神のことばがひとりの人として誕生した受肉の神秘こそが、すべてのいのちの尊厳を明確に示し、すべてのいのちに比類なき価値があることを明確にしています。

「いのちを守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年わたしたちはいのちが危機に直面する事態を実際に体験し、いのちの価値、そしていのちの意味をあらためて考えさせられています。

災害や疾病など、人間の力の及ばないいのちの危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くのいのちがあります。

教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウィルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、いのちは攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これはいのちへの侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2020/10/post-f4b529.html?fbclid=IwAR3psLaokM_hNNF1UHDjUuzTWr1dxiKeGTil45ht80hBXztWYD18vWz03dc に続きます。

「 ポーランドの木造の古い歴史的な小さなカトリック教会の写真」

2020年10月25日 | 写真
今日は日曜日なので宗教に関する記事を掲載いたします。
ポーランドの木造の古い歴史的な小さなカトリック教会の写真をお送りいたしまさす。

写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_29306239_%E6%9C%A8%E9%80%A0%E3%81%AE%E5%8F%A4%E3%81%84%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%80%81%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89.html です。
ご参考なさって下さい。
マウォポルスカ南部の木造聖堂群は、マウォポルスカ地方南部にあるポーランドの世界遺産です。ビナロヴァ、ブリズネ、デンブノ、ハチュフ、リプニツァ・ムロヴァナ、センコヴァなどの各村に残っている木造聖堂が登録対象でなっています。
中世後期に起源を持つこの地方の木造聖堂の様式は、ゴシック様式の装飾や色とりどりの細部で始まったが、木造であることから、石やレンガで出来たゴシック建築とは、構造も全体像も印象も大きく異なっています。
より後の時代に建設された木造聖堂には、ロココ様式やバロック様式の装飾的影響を示しているものもあります。
これらの聖堂の形態は、この地方での東方典礼カトリック教会や正教会の存在に深く影響されているようです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%80%A0%E8%81%96%E5%A0%82%E7%BE%A4)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「キジ島にあるロシア正教の木造教会の圧巻的な写真」

2020年10月23日 | 写真
キジ島はサンクト・ペテルブルク北東のオネガ湖に浮かぶ小島です。そこに1714年に建てられたプレオブランジェスカヤ教会があります。釘を使わずに建てられた木造建築です。その高い技術に私は驚嘆します。
キジ島にはその他に、1784年建立のボグロスカヤ教会など各種の木造教会があり、島全体が木造建築群の博物館となっているそうです。

1番目の写真は1714年に建てられたプレオブランジェスカヤ教会です。写真の出典は、http://whc.unesco.org/ja/list/544 です。

2番目の写真も別の角度から見たプレオブラジェンスカヤ教会です。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/114 です。プレオブラジェンスカヤ教会は22個の玉ねぎ型ドームが特徴で、一番高い所は高さ37メートルにもなります。
この一番高いプレオブラジェンスカヤ教会の横に鐘燐、続いてポクロフスカヤ教会が佇んでいます。三つの木造教会が完成するまでは160年の長い月日がかかりました。建築の特徴としては、全ての建物に全く釘を使用していない事です。目地さえ木から作られている徹底ぶりです。

3番目の写真は同じプレオブラジェンスカヤ教会の遠景です。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/114 です。
先住民の神聖な儀式の場として使用されていたキジ島に16世紀頃ロシア正教の教会が立てられました。1714年に再び建てられたのがプレオブラジェンスカヤ教会などです。1990年にユネスコの世界遺産に登録されました。
それにしてもロシア人の器用さと宗教的な情熱に圧倒されます。

「武蔵野の三大湧水池の井の頭池の写真を撮りに行く」

2020年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野三大湧水池は石神井公園の池、善福寺池、そして井の頭池です。この3つの池には現在も滔々と湧き水が吹き出しています。
今日は井の頭池の写真を撮りに行って来ました。
晩秋になるとこの公園には多種多様な木々の紅葉によって彩られ、散策道をも埋めるほどに落ち葉が折り重なります。スギやヒノキなどの常緑樹だけではなく、ケヤキ、サクラ、シデ、シイ、カシ、コナラ、クヌギなどの落葉樹もたくさん植えてあります。
先程、家内が撮って来た写真をお送りいたします。小学校高学年の頃この池の近くに住んでいて、夏休みには毎朝ボートに無料で乗せてもらったこと、オール捌きをおじさんに教えて貰ったことなど楽しそうに話していました。









井の頭という名称は一説には家光によってこの神田上水の水源が「井之頭」と名づけられた言います。
家光によって自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだと伝えられています。現在、その場所にはその伝承を記した石碑があります。
また別の言い伝えによると、「家康が自らの手で水を汲み、関東随一の名水だと褒めて、お茶をいれるのに使った。」とも言います。これは井の頭弁財天の持ち寺の大盛寺の記録『神田御上水井之頭弁財天略縁起』に書いてあるのです。
井の頭池の周囲の台地は御殿山と言います。この地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来しています。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場でもあったのです。
そして御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡や、旧石器時代の石器や、敷石住居も出土しています。ですから井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水だったのです。
井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天は天台宗大盛寺のお堂です。起源は平安時代中期に六孫王経基が最澄(伝教大師)作の弁財天女像を安置するため、この地に建てた堂であると言われています。
弁財天はその後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定の大願成就ののちに改築しました。
その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失しました。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建されたのです。
現在ある小さな弁財天のお堂にもいろいろな歴史があるのです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E3%81%AE%E9%A0%AD%E6%81%A9%E8%B3%9C%E5%85%AC%E5%9C%92 をご覧下さい。
今日の井の頭池の写真をもって武蔵野の三大湧水池の物語は終わりといたします。

「楽しい北海道へのミステリーツアーと温泉のはなし」

2020年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
旅行会社はいろいろな旅の企画をしてお客を誘います。その企画の一つに行先を秘密にしたミステリーツアーというものがあります。何泊かと料金と集合場所だけを公表してお客を誘います。何処を観光して何処に泊まるか知らないので旅行中ドキドキとクイズの謎解きをしながら旅を楽しむのです。
私どもは何度かこのミステリーツアーに行きました。
2016年の10月には羽田空港が集合でした。飛行機に乗ったら北方向に北海道の千歳空港に着きました。ははーん、洞爺湖観光と有名な昭和新山に行き1泊目は洞爺湖温泉に泊まるのだなと合点しました。ところが乗ったバスが全然違う方向へ走ります。
全行程を終わってみたら思いもしなかった行程でした。
その行程は1日目は千歳空港の西の支笏湖を観光し近くの北湯沢温泉に泊まりました。
2日目は羊蹄山の麓から日本海の岩内町に出て、余市のニッカウイスキー工場に寄り、2晩目は羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。3日目は海岸沿いに積丹半島を観光して千歳から羽田に帰りました。このミステリーツアーで撮った写真をお送りします。

1番目の写真は羊蹄山です。2晩目はこの羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。

2番目の写真は北海道の北湯沢温泉の前の紅葉です。第二名水亭という旅館に泊まりました。場所は洞爺湖の東の伊達市の山深いところに隠れるようにあります。ミステリーツアーでは有名でない場所に泊まります。でも泉質の良い温泉でした。

3番目の写真は2泊目に泊まったルスツリゾートのホテルの窓からの夕方の風景です。

4番目の写真は余市のニッカウイスキー工場の風景です。ウイスキーの原酒を試飲させてくれました。

5番目の写真は積丹半島です。神威岬への険しい断崖の上の道を妻が歩いて先端まで行きましたが私は勘弁してもらいました。碧い日本海に突き出た半島の裾は峩々たる岩になっています。白波が砕け、冷たい秋風が吹き抜けていました。

このミステリーツアーで泊った北湯沢温泉の泉質が感動的に良かったので温泉のことをいろいろ思い出しました。
私は東北地方の仙台市に生まれ、戦中戦後に育ちました。東北の人は温泉が大好きです。農閑期には何日も旅館の自炊部屋に逗留するのです。
私も仙台のそばの作並温泉や秋保温泉に足繁く行きました。鳴子温泉では自炊部屋に逗留したこともあります。大学生になると蔵王山の登山の折に青根温泉や峩々温泉に泊まったものです。山形の高湯にも行きました。そんな幼少から若い頃の温泉経験をとうして私は「良い温泉」と「悪い温泉」の見分けがつくようになったのです。
東北人の温泉好きは熱烈です。東北の奥には、乳頭温泉や ふけ湯や鳴子のように泉質の良い温泉があります。本物の温泉は東北地方にしか存在しないと言うのです。愚かにも私は長い間それを信じていました。
しかし温泉が好きだった私は全国の温泉に行きました。そうしたら全国のいたる所に良い温泉があることを知りました。
文句なしに感動したのは道後温泉の肌触りの良さでした。それと乳頭温泉は本物です。岩手の山奥にあるふけ湯も素晴らしい泉質です。別府温泉は様々な泉質が楽しめます。
もっとも温泉の魅力は泉質だけではありません。広い湯船から見える風景の良し悪しも重要なのです。
湯船が非常に広くて風景の良い所の一例は群馬県の水上温泉に近い宝川温泉です。泉質は平凡ですが川を隔てて露天風呂が幾つもあり、それぞれが驚く程大きいのです。周囲の風景が抜群に良いのです。
北海道の泉質の良い温泉は登別温泉、定山渓温泉、層雲峡温泉など数が限られています。ところがミステリーツアーで泊まった伊達市の山の中にある北湯沢温泉の泉質が実に良かったのです。
豊富に湧き出る湯は炭酸泉系アルカリ性で、肌にやさしく、湯上りの後で「嗚呼、これぞ本物の温泉だ」と感動したのです。その上、夜寝ると明け方までポカポカと体が温かいのです。こんな温泉は実にまれです。
地底深くボーリングすれば何処でも温水は出ます。しかし温泉として人を感動させる泉質はまれにしか出てきません。単に熱い湯だけの「温泉」がやたら多くなりました。余計なことを書いてしまいました。
皆様は温泉がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「秋の陽射す善福寺池の写真を撮りに行きました」

2020年10月21日 | 写真
先週は「秋の陽射す石神井公園の写真と石神井城ものがたり」という記事で石神井池と三宝寺池の写真をお送りしました。2020年10月17日に掲載しました。
今日はその続きとして善福寺池の写真を撮りに行きました。
 武蔵野には所々に泉がコンコンと湧いています。そこは昔から湿地帯になり幾つかの沼がつらなっています。そんな場所に石神井公園やす善福寺池公園があります。どちらも私の家から車で40分くらいの所です。
今日は好天気だったので午後に秋の陽射す善福寺池の写真を撮って来ました。
公園は杉並区善福寺二・三丁目にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた善福寺池の上の池と下の池です。
先程、撮って来た写真をお送りいたします。









善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られていた。まだ農村だった江戸時代には貴重な農業用の水源であったのです。善福寺池と三宝寺池と井の頭池は武蔵野三大湧水池として知られていす。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%9C%92 をご覧下さい。

「韓国の李栄薫教授を讃え、その日本と韓国への影響」

2020年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国の李栄薫教授を中心にした学者達が「慰安婦」と「徴用工」は韓国人の捏造と暴きました。韓国社会の病的な悪習を命がけで昨年の4月25日から糾弾し始めたのです。
今日は李栄薫教授を讃え、そして彼等の勇気ある発言が韓国社会と日本社会にどのような影響を与えるか評価したいと思います。

(1)韓国の李栄薫教授を讃える
激しい反日運動の続く韓国社会で「慰安婦」と「徴用工」は韓国人の捏造と発言すれば命も狙われる危険があります。数々の証拠をあげて捏造だと静かに話す李栄薫教授に私はひどく感動しました。彼は国際的に考えても優れた学者であると同時に高潔な人物です。
それだけではありません。彼は韓国を深く愛する憂国の士なのです。彼が話しながら見せる表情は悲しみに満ちています。私は本当の愛国心とはこういうものだと学びました。全ての韓国人が彼の愛国心を理解し彼を大切にするように祈っています。
何故、私が彼を絶賛する理由は下記のYou Tubeをご覧下さい。
A)李栄薫教授『反日種族主義を打破しようというシリーズを始めるにあたって』、李承晩TVより、https://www.youtube.com/watch?v=PNlSgJa_gtw 185,901 回視聴•2019/04/25発表。
李栄薫教授の動画の日本語字幕、http://asian-reporters.com/hannichiminzokusyugiwodaha/ 

B) 果たして"奴隷労働"だったのか、https://www.youtube.com/watch?v=rfMnrCUiof0&list=PLZZEZygYteL5I4w2Nr7vhudCSrA6FRZhz、 44,461 回視聴•2019/06/04

C) 日本軍慰安婦、https://www.youtube.com/watch?v=jt_1srirqsY&list=PL5nqHu2NKn_iL5hAD8whbTSRKr_18irM8&index=38、210,402 回視聴•2019/07/11
李承晩TV (イスンマンTV 韓: 이승만TV) とは韓国の李承晩学堂が開設したYouTubeチャンネルで、校長は経済学者の李栄薫です。
大韓民国初代大統領李承晩を冠した李承晩学堂の教授陣による講義をYouTube上で放送しているものです。放送内容は目標は韓国の経済の再建、民主主義の実現、反日種族主義の克服を目指しています。
李承晩TVはこれから、韓国を再び亡国の道へと陥れかねないこの反日種族主義を批判し、 打破するためにその代表的事例40余りを順に追って紹介する計画です。
李承晩TVの日本語目次は、http://www.venus.dti.ne.jp/~inoue-m/el_isunmantv.html にあります。
なお上記の連続講義「反日種族主義を打破しよう」「日本軍慰安婦問題の真実」を元にした著書「反日種族主義」日本語版が文藝春秋社から発売中です。内容は「慰安婦像」「徴用工像」を「嘘の文化像」と明記しています。

(2)韓国社会への影響
李栄薫教授『反日種族主義を打破しようというシリーズ』はインターネットのYouTubeチャンネルだけです。
韓国の大新聞やTV局が報道しない限り韓国社会への影響は非常に限定的になるでしょう。
韓国社会は根強い反日思想が普及しているのです。学者達が立ち上がっても簡単には反日思想が消滅するものではありません。韓国の中学校や高校の教科書の反日的記述が書き変えられる可能性もありません。
しかし韓国社会の一隅に正しい歴史観を持った人々が存在することは韓国社会が明るくなります。より民主的にします。欧米の国々も韓国社会をより信頼するようになります。
韓国社会への影響は非常に限定的ではありますが韓国社会を明るくします。欧米の国々も韓国を信頼します。こういう意味で韓国社会への影響は決して小さいとは言えません。

(3)日本社会への影響
日本人は大雑把に3つのグループに分けて考えてみましょう。1、韓国に関心の無い人、2、韓国の悪口を言う右翼的な人、3、韓国に関心がある良識的な人の3つのグループに分けて考えてみます。
1、韓国に関心の無い人
多くの日本人は欧米には関心がありますがアジアには関心がありません。韓国にも関心の無い人も多いのです。
従って李栄薫教授が「慰安婦」と「徴用工」などの捏造と韓国社会の悪習を糾弾しても、その日本社会への影響は小さいでしょう。それは私の韓国に関する記事の読者数が何時も少ないことから分ります。今日のこの記事も読者数が少ない筈です。
2、韓国の悪口を言う右翼的な人
李栄薫教授が「慰安婦」と「徴用工」などの捏造と言うのですから、単純に喜びます。
3、韓国に関心がある良識的な人
韓国にも良識的な立派な人が居ると安堵します。この安堵は将来の日韓友好につながります。そういう意味ででは日本社会への影響は決して小さいとは言えません。

長くなるので止めます。今日は韓国の李栄薫教授を讃え、韓国社会への影響と日本社会への影響を整理して書いてみました。

今日の挿し絵の写真は10月に咲き出す花の写真です。写真は上から順に、シクラメン 、マリーゴールド 、ペチュニアです。写真の出典は、https://hananokotoba.com/10gatsuhana/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「秋雨が蕭条と降る深大寺と武蔵野公園の写真を撮りに行く」

2020年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は北海道から九州迄晴れ上がり気持ちの良い天気になりました。でも昨日は冷たい雨が一日中降っていたのです。その昨日、秋雨が蕭条と降る深大寺と武蔵野公園の写真を撮りに行って来ました。
深大寺は733年に創建され、浅草寺と並んで東京では最も古いお寺の一つです。天台宗別格本山の寺です。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
昨日、撮って来た写真をお送りします。いつもは人や車で混んでいる門前の道もコロナと雨の影響でか閑散としていました。







この深大寺には三つの重要なお堂があります。「深沙大王堂」と「元三大師堂」と「阿弥陀如来が本尊の本堂」です。
寺を創建した満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、玄奘三蔵法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。現在は「深沙大王堂」に祀ってあります。「深沙大王堂」は本堂から離れた分かり難い場所にありますが、私は必ず車を寄せてお参りします。玄奘三蔵法師を尊敬しているからです。

その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、「元三大師堂」を本堂の左に作りました。以後、江戸、明治、現在に至るまで「元三大師堂」は人々の信仰を集めています。ですから元三大師堂も深大寺で非常に大切なお堂でした。

深大寺の本堂は元三大師堂の右側にあります。それは江戸時代からあったものを大正時代に建てかえたものです。
深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であったといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

さてもう少し詳しい歴史を加えておきます。(https://www.jindaiji.or.jp/about/ )

(1)天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ
平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。

(2)比叡山より「元三大師自刻像」を迎える
正暦二年(九九一年)第十八代天台座主、慈恵大師すなわち元三大師の自刻像が、大師の高弟である慈忍和尚、恵心僧都両師の意を受けた寛印により遥か叡岳より深大寺に遷座されました。

(3)「元三大師信仰」大いに振るう
徳川期、深大寺の元三大師像の開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院で執行されています。江戸時代には元三大師堂へ参拝するのが重要だったのです。「元三大師信仰」大いに振るっていたのです。関東地方に比叡山の慈恵大師すなわち元三大師の信仰があるのは珍しいのです。深大寺はその意味で東京では特別な古刹なのです。

(4)銅造釈迦如来像(白鳳仏)の鑑定と国宝指定
像高 83.9㎝のこの釈迦如来像は明治42年(1909)に飛鳥時代7世紀~8世紀初と鑑定されました。そして大正2年に国宝指定となったのです。寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一で東日本最古の国宝仏なのです。銅造釈迦如来像(白鳳仏)は「元三大師堂」の左にある特別な建物の中で一般公開されています。

昨日は秋雨の降る中、家内が車を下りてあちこちを歩いて深大寺の写真を撮ってくれました。
帰りに都立武蔵野公園の中を通ったら、公園の風景も晩秋の雰囲気です。何故か心打たれたのでその写真も撮りました。





あの暑かった夏の間咲き誇っていたカンナもうらぶれた風情です。
こうして秋も過ぎゆきやがて霜が降り寒い冬がやって来るのでしょう。季節の移り変わりを沁みじみと感じた昨日の秋雨の風景でした。皆様、昨日はどのようにお過ごしたでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)