後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「私の好きなユトリロのパリの風景画」

2024年11月27日 | アート・文化
私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。
モーリス・ユトリロは 1883年 に生まれ 1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。

1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。

そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。

1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、 http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.html です。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、過去の自分の絵や絵葉書を元にして、何度もモンマルトルを描いています。
昔、サクレクール寺院にブラリと入って暗いお堂のなかで祈ったことを懐かしく思い出しています。何を祈ったかは忘れてしまいましたが。

2番目の写真はパリの北にあるモンマニー街の風景です。義父のポール・ムジスの建てた家のあった所だそうです。

3番目の写真は「トルシー=アン=ヴァロワの教会」です。 

4番目の写真は「コタン小路」です。

5番目の写真は「サン=ベルナールの教会(アン県)」です。変わったタッチの絵画です。

6番目の写真は「モンマルトルのキャバレー・ラパン・アジル」です。
ユトリロがよく描いた酒場で、ピカソなど若い画家が集っていました。隣のサン・ヴァンサン墓地にはユトリロの墓もあります。

7番目の写真は「サノワの風車」です。出典は、https://www.musey.net/16758 です。
1912年の春、ユトリロはパリの郊外にあるサノワのサナトリウムに入所し、アルコール依存症の治療をします。ユトリロは特に風車に魅了されたのです。

ユトリロの絵画は風景画ですが人生の哀歓をしみじみと感じさせます。そして何よりも美しいのです。優しい美しさです。ユトリロの絵画をじっと眺めていると胸に迫るものがあります。世界のかけがえのない宝です。

今日はユトリロのパリの風景画をお送り致しました。お楽しみ頂きましたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」

2024年11月27日 | アート・文化
今日は印象派の油彩画を見て一日が始まります。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。
Claude Monet,は1840年11月14日に生まれ、 1926年12月5日に亡くなりました。
彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。
出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC... です。
1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75 × 104)
2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868 - 69年です。(油彩、キャンバス、89 × 130 cm。オルセー美術館。1869年サロン落選)
3番目の写真は『ひなげし』1873年です。(油彩、キャンバス、50 × 50 cm。オルセー美術館)
4番目の写真は『ザーンダムの風車』1871年です。(50 × 75 cm。個人コレクション。)
5番目の写真は『ラヴァクール』1880年です。(油彩、キャンバス、100 × 150 cm。ダラス美術館。)
6番目の写真は『セーヌ河岸、ベンヌクール』1868年です。
1868年の春、モネはセーヌ川添いの町ボニエール・シュル・セーヌ近くのベンヌクールに滞在し、そこでセーヌの水辺の光景を描いたのです。
7番目の写真は『サン=タドレスのテラス』1867年です。(油彩、キャンバス、98.1 × 129.9 cm。メトロポリタン美術館

クロード・モネは1840年にパリで生まれました。5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。少年の頃から絵がうまく、人物の肖像画を売るほどであったそうです。
18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。
1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合ったのです。1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったのです。しかし1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭いました。
私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれます 。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面します。
友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭しました。その後の1926年に86歳で亡くなりました。

今日はクロード・モネの絵画の紹介を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「富永親徳の絵画展に行ってきました」

2024年11月08日 | アート・文化
富永親徳の絵画展に行ってきました。
小金井市の美術館、はけの森美術館での富永親徳の絵画展に行ってきました。
富永親徳は1896年生まれ1964年没の熊本出身の画家でした。23歳で東京美術学校の入学しました。台湾や東京で油彩画を描きつずけました。
その絵を1点、1点丁寧に見きました。楽しい絵です。どれも静かな風景です。裸婦の絵も静かです。
富永親徳は絵を描くのが嬉しいのです。そんな印象でした。

「関 健造 作の油彩画、『奥入瀬』など」

2024年10月21日 | アート・文化
懐かしい日本の原風景を描いた関健造の油彩画をみて今日も秋の日が過ぎて行きます。
今日は関健造の油彩画をお送り致します。
関健造は1948年岐阜に生まれました。そして岐阜県で活躍しました。県展入選、行動展出品、岐阜にてグループ展、岐阜にて個展、以後数回、などです。関健造の油彩画は静かな秋の秘に見ると感慨が深いと思います。関健造の油彩画の写真をお送り致します。

1番目の写真は関健造の『秋の奥入瀬渓流』です。

2番目の写真は上高地です。

3番目の写真は晩秋の風景画です。

4番目の写真は晩秋の岐阜の風景画です。

その他の関健三の油彩画の一覧は下記に出ています。
https://auctions.yahoo.co.jp/search/search/%E9%96%A2%20%E5%81%A5%E9%80%A0/0/

関健三の風景画は日本人にとって心にしみる風景です。美しい静かな風景です。見ていて和やかな気分になります。こうして静かに秋の日を過ごします。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」

2024年09月26日 | アート・文化
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介したいと存じます。美しい梅林の偕楽園の下にあります。碧いさざ波の広がる千波湖の岸辺にある美術館です。
茨城県近代美術館では茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介しています。
偕楽園の下に広がる千波湖畔にある美術館です。横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵、展示しています。ロダン作「三つの影」、横山大観作の「流燈」など多数の所蔵作品を鑑賞することができます。また、美術館南側に、水戸市出身の洋画家である中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。
詳しくは、茨城県近代美術館 | The Museum of Modern Art, Ibaraki (ibk.ed.jp) をご覧下さい。
展示絵画の写真を示します。
上の4枚の写真は常設展示の写真です。
この美術館では時々にあるテーマを決めて公募展をしています。次の2枚の写真は公募展の様子です。
公募展では多数の絵画が集まるので壁一面にビッシリと展示します。
最後に茨城県近代美術館の建物の写真をお送り致します。
この茨城県近代美術館は偕楽園の下にあるので梅林が満開になる頃に訪れると良いと思います。私どもも何度か薫る梅林と近代美術館を訪ねました。
なお水戸に行ったら町中にある藩校の弘道館の庭の梅の花もご覧ください。梅の木は偕楽園ほど多くありませんが楚々と咲いた梅には感銘を受けます。偕楽園とともに梅の名所です。 
 
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介致しました。そして美しい梅林の偕楽園と弘道館もご紹介しました。
 
それはそれして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「猪熊弦一郎の「マドモアゼルM」」

2024年08月14日 | アート・文化
「マドモアゼルM」は戦争中の1940年の作品で、 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館いあります。彼の代表作です。
https://www.fashion-press.net/news/90987
猪熊弦一郎は、1902年に香川で生まれた、20世紀日本を代表する画家だ。戦前にはパリ、戦後は東京、ニューヨーク、ハワイと拠点を変えつつ活動するなかで、猪熊の画風は具象画から抽象画へと変化し、晩年には具象と抽象の枠を超えた作品を制作。また、戦後には三越の包装紙デザイン、慶応義塾大学学生ホールや上野駅中央コンコースの壁画を手がけるなど、社会との関わりも強めていった。
1938年には渡仏し、最先端の芸術都市であったパリでアンリ・マティスやパブロ・ピカソと交流。しかし、第二次世界大戦が勃発すると帰国し、フィリピンやビルマに派遣されて作戦記録画を手がけている。戦後、1953年に父を看取ると、自身の画業の見直しと画家としての再出発を志してパリに向かうことを決意。しかし、その経由地点として滞在したニューヨークでソール・スタインバーグやマーク・ ロスコらとの交流が生まれ、同地に居を定めることになる。

「戦没画学生の油彩画、追加」

2024年08月14日 | アート・文化
戦没画学生の油彩画を追加いたします。

1番目の写真は無言館の本館の内部です。

2番目の写真は伊澤洋『家族』です。

3番目の写真は田中兵部「婦人像」です。

4番目の写真は佐久間修「静子像」です。

5番目の写真は日高安典『裸婦』です。

「展示作品が豊富で素晴らしい国立西洋美術館」

2024年07月28日 | アート・文化

感動したのは大原美術館と国立西洋美術館です。展示作品が豊富で素晴らしいのです。今日は上野にある国立西洋美術館をご紹介したいと思います。

国立西洋美術館のコレクションは、1959年に370点におよぶ松方コレクションが核となって始まりました。設計はル・コルビュジエです。現在では、絵画、彫刻、素描、版画、写本、工芸などの分野にわたり、およそ6,000点の作品を所蔵しています。
中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を本館、新館、前庭で年間を通じて展示しています。

上野にある国立西洋美術館は自宅から1時間と近いので何度も訪れました。早速、建物の写真と展示絵画の写真をお送りいたします。この国立西洋美術館の大部分は松方コレクションです。

松方コレクションは、日本実業家であった松方幸次郎大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて集めたものです。

浮世絵が約8000点、西洋美術品が約3000点で総数は1万点を超えています。現在、西洋美術コレクションと浮世絵コレクションは東京国立博物館に所蔵されています。

今日は展示作品が豊富で素晴らしい国立西洋美術館をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「海外の美術館所蔵作品などの上野の森美術館」

2024年07月27日 | アート・文化

上野の森美術館は1972年(昭和47)4月に開館した私立美術館です。常設展示は行わず、企画展や公募展を随時開催し、海外の美術館所蔵作品や重要文化財などさまざまな美術作品を紹介しています。

1994年からは、40歳以下の若手作家による新作を紹介する「現代美術展(VOCA展)」を主催しました。ほかにも「上野の森美術館大賞展」や「日本の自然を描く展」など、さまざまなテーマに応じた公募展を積極的に行い、現代美術作家の発掘や育成に力を入れている美術館です。

上野の森美術館の写真や展示の写真をお送り致します。

場所はJR「上野」駅公園口から徒歩約3分です。東京メトロ・京成電鉄「上野」駅から徒歩約5分です。

私は展示している絵画の種類にあまり興味が無いので行ったことがありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「日本画の魅力が分かる箱根の成川美術館」

2024年07月27日 | アート・文化

箱根・芦ノ湖畔にある成川美術館は1988年(昭和63年)4月に開館しました。日本画の魅力が分かる美術館です。

箱根に行くたびに気軽に何度も寄りました。

成川美術館は、文化勲章受章画家・山本丘人の代表作150点余りを核に、平山郁夫作の作品を40点余、他現代日本画を中心としたコレクションを4000点以上所蔵しています。

堀文子、岡信孝、牧進、関口雄揮、吉田善彦、毛利武彦、平岩洋彦、岡崎忠雄、小林済、前本利彦、牛尾武、柳沢正人らの作品数は、日本一を誇ります。
成川美術館は現代日本画に焦点を絞りその魅力を世に問う美術館です。特に戦後の日本画のすばらしさを広めることを設立の目的としているのです。

それでは成川美術館の寫眞と展示絵画をご紹介致します。

箱根の成川美術館で日本画をゆっくり見た後はいつもコーヒー飲みました。芦ノ湖畔や富士山の遠景を見ながらカフェでコーヒー飲みました。

何度も行った箱根の成川美術館が懐かしいです。

それはそれとして今日も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。後藤和弘


「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」

2024年07月27日 | アート・文化
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。
孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。
そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。
彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。
大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。
私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。
それでは写真で大原美術館をご紹介しましょう。
1番目の写真は大原美術館です。
2番目の写真は受胎告知/エル・グレコ(1590年~1603年ごろ作)です。
3番目の写真はルノアールの「泉による女」です。
4番目の写真はゴーギャンの「かぐわしき大地」です。
5番目の写真は関根正二の「信仰の悲しみ」です。
6番目の写真は小出楢重の「Nの家族」です。
7番目の写真はヘンリー・オッテマンの「少女」です。
 
小出楢重の説明を加えておきます。
小出楢重は大阪に生まれ、岸田劉生や中村彝と同時代の画家です。
黒田清輝以来の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと真摯に努めた画家の一人でした。
「Nの家族」は大正八年の第七回二科展に出品され、他の二点とともに有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品です。
 「Nの家族」制作当時、すでに劉生や河野通勢等の画家が北欧ルネサンス風の写実的な表現を追求していましたが、小出自身の境地を開こうとします。
 「Nの家族」は小出楢重の前期の代表作であるばかりでなく、その緊密で力強い構成と表現により大正時代の洋画を代表する一作となりました。
 
今日は日本で最初の西洋美術館の大原美術館をご紹介しました。最後に小出楢重の「Nの家族」に関する説明をしました。
 
それはそれとして今日も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。後藤和弘

「岡 鹿之助の『雪の発電所』と『パンジーの花』の絵」

2024年07月26日 | アート・文化
岡 鹿之助の『雪の発電所』は私の好きな絵なのでお送り致します。堅固な建造物が纏うはだら雪の柔らかさが静謐な雰囲気を醸し出しています。またパンジーの思索深い表情は画家の精神性の高さや穏やかな人柄を表しているように思えるのです。
岡 鹿之助は1898年(明治31年)に生まれ 1978年(昭和53年)に没しました。昭和時代に活躍した洋画家で文化勲章受章者です。
1956年には『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受けます。また1957年には毎日美術賞も受けました。
なお小松 裕文さんの感想文を読むとこの絵が描かれた場所が分かります。https://www.danube4seasons.com/search/013/01.html
それにパンジーの絵を3枚つけます。

「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2024年07月26日 | アート・文化

佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。

2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。

3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。

4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。

5番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。

6番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルに80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。

さて佐伯祐三は1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
旧制北野中学を卒業した後、1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれたの絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描きました。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしますした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の散歩でも中村研一 記念館の前を通った」

2024年06月26日 | アート・文化
今日の散歩でも中村研一 記念館の前を通ったので彼の油彩画をいろいろ思い出しました。
私の好きな絵を1枚だけお送り致します。
中村研一は絢爛とした派手な絵を描かない画家です。どちらかと言うと地味な堅実な絵画です。しかし地味ながらも油彩画の奥深い確かな美しさが魅力です。
写真は、中村研一「車を停む」1932年、北九州市立美術館蔵、です。
 
中村研一は50歳の時に、東京の空襲で代々木初台のアトリエは焼失したのです。その後、彼は自然豊かな小金井の “はけ” の地に移り住みました。以後、最晩年の72歳までここ小金井で絵を描き続けたのです。

「カンディンスキーの抽象絵画を楽しむ」

2024年04月04日 | アート・文化
西洋の絵画に抽象画があります。その抽象画を見て楽しむためには抽象画のちょっとした歴史を知っておいたほうが良いと思います。
今日は抽象画にてついて少し書きたいと思います。私が好きなカンディンスキーの絵をご紹介いたしたいと思います。
抽象画を最初に描いたのはカンディンスキーと言われています。
ワシリー・カンディンスキー(1866年~1944年)は、ロシア出身の画家でした。https://www.musey.net/artist/80 から抜粋致します。
カンディンスキーはモンドリアンやマレーヴィチと共に、抽象絵画の理論の創始者でもありました。
カンディンスキーは1866年にモスクワで生まれ、オデッサで幼少期を過ごし、グレゴフ・オデッサ美術大学で美術を学びました。
卒業後は、モスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学にてローマ法に関する教授になりました。しかしその後、教職の道を捨て、30歳を過ぎてから絵画を本格的に学び始めるました。
1896年にミュンヘンに渡りミュンヘン美術学校で学びを深めるのでした。1911年には、フランツ・マルクと共に青騎士を結成し、ドイツの前衛芸術運動を始めます。
カンディスキーは内面に働きかけるような色彩を意識しています。
1910年から1913年の間に制作された「コンポジション」シリーズは、カンディスキーの代表的な精神的表現です。これらの表現は、ロシア象徴派の神秘的な世界観の影響に依るところが大きいと考えられます。
第一次世界大戦が勃発すると、カンディスキーはモスクワに戻ります。レーニンの時代は、前衛芸術派「革命的」と認められます。
そしてカンディスキーもソ連の政治委員を務めます。
しかしスターリンが台頭してくるとカンディスキーの抽象美術理論は疎んじられるようになってしまったのです。
そこでカンディスキーは1921年にドイツへと戻りバウハウスの美術学校で教鞭をとりました。その後、フランスへ移住し、1939年にフランス市民権を獲得します。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去します。
カンディスキーこそ抽象画の創始者でした。偉大な画家でした。私は彼の絵が好きです。
その絵画を5点示します。絵画の出典は、https://www.musey.net/artist/80 です。





今日は私の好きなカンディンスキーの絵をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)