西洋近代の絵画・彫刻と日本の浮世絵が主体ですが、中世ヨーロッパの板絵やタペストリーも含んでいます。
西洋美術コレクション約3000点については散逸・焼失した作品も多いが、このうち、フランス政府から返還された近代フランス絵画・彫刻等370点を基礎として、1959年に東京・上野に国立西洋美術館が開設されました。
特にロダンの「地獄の門」、「考える人」、ルノアールのアルジュの女、4枚、合計6枚をお送り致します。
感動したのは大原美術館と国立西洋美術館です。展示作品が豊富で素晴らしいのです。今日は上野にある国立西洋美術館をご紹介したいと思います。
国立西洋美術館のコレクションは、1959年に370点におよぶ松方コレクションが核となって始まりました。設計はル・コルビュジエです。現在では、絵画、彫刻、素描、版画、写本、工芸などの分野にわたり、およそ6,000点の作品を所蔵しています。
中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を本館、新館、前庭で年間を通じて展示しています。
上野にある国立西洋美術館は自宅から1時間と近いので何度も訪れました。早速、建物の写真と展示絵画の写真をお送りいたします。この国立西洋美術館の大部分は松方コレクションです。
松方コレクションは、日本の実業家であった松方幸次郎が大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて集めたものです。
浮世絵が約8000点、西洋美術品が約3000点で総数は1万点を超えています。現在、西洋美術コレクションと浮世絵コレクションは東京国立博物館に所蔵されています。
今日は展示作品が豊富で素晴らしい国立西洋美術館をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
上野の森美術館は1972年(昭和47)4月に開館した私立美術館です。常設展示は行わず、企画展や公募展を随時開催し、海外の美術館所蔵作品や重要文化財などさまざまな美術作品を紹介しています。
1994年からは、40歳以下の若手作家による新作を紹介する「現代美術展(VOCA展)」を主催しました。ほかにも「上野の森美術館大賞展」や「日本の自然を描く展」など、さまざまなテーマに応じた公募展を積極的に行い、現代美術作家の発掘や育成に力を入れている美術館です。
上野の森美術館の写真や展示の写真をお送り致します。
場所はJR「上野」駅公園口から徒歩約3分です。東京メトロ・京成電鉄「上野」駅から徒歩約5分です。
私は展示している絵画の種類にあまり興味が無いので行ったことがありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
箱根・芦ノ湖畔にある成川美術館は1988年(昭和63年)4月に開館しました。日本画の魅力が分かる美術館です。
箱根に行くたびに気軽に何度も寄りました。
成川美術館は、文化勲章受章画家・山本丘人の代表作150点余りを核に、平山郁夫作の作品を40点余、他現代日本画を中心としたコレクションを4000点以上所蔵しています。
堀文子、岡信孝、牧進、関口雄揮、吉田善彦、毛利武彦、平岩洋彦、岡崎忠雄、小林済、前本利彦、牛尾武、柳沢正人らの作品数は、日本一を誇ります。
成川美術館は現代日本画に焦点を絞りその魅力を世に問う美術館です。特に戦後の日本画のすばらしさを広めることを設立の目的としているのです。
それでは成川美術館の寫眞と展示絵画をご紹介致します。
箱根の成川美術館で日本画をゆっくり見た後はいつもコーヒー飲みました。芦ノ湖畔や富士山の遠景を見ながらカフェでコーヒー飲みました。
何度も行った箱根の成川美術館が懐かしいです。
それはそれとして今日も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。後藤和弘
佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。
1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。
2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。
3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。
4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。
5番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。
6番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。
絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルに80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。
さて佐伯祐三は1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
旧制北野中学を卒業した後、1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれたの絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描きました。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。
今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしますした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)