後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年も梅が満開になりました、そして梅花の漢詩

2017年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム










昨日は春のように暖かい一日でした。午後から家内と一緒に小金井公園の梅の花の写真を撮りに行きました。
私の趣味は花の写真を撮る、ネットに投稿する、そしてその花の歴史を調べる、というような作業をすることが趣味なのです。

梅の花は欧米では見た経験がありません。梅干しのある日本でしか見たことがありません。日本に縄文時代から梅は自生していたに違いないと思い込んでいました。ところがこの思い込みは大間違いでした。梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。
原産地は中国長江流域と考えられています。
しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。

下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。
平安の貴族は初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。
ところが平安時代から花と言えば桜を指すようになりました。江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷して行くのですね。

梅の木が中国から渡来したとなれば杜甫や李白の漢詩に梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代の高 啓の漢詩が有名なようです。以下にご紹介いたします、
===================================
梅 花    <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)

瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
けいしただまさに ようだいにあるべし

誰か江南に向かって 處處に栽えたる
たれかこうなんにむかって しょしょにうえたる

雪滿ちて山中 高士臥し
ゆきみちてさんちゅう こうしふし

月明らかにして林下 美人來る
つきあきらかにしてりんか びじんきたる

寒は依る疎影 蕭蕭の竹
かんはよるそえい しょうしょうのたけ

春は掩う殘香 漠漠の苔
はるはおおうざんこう ばくばくのこけ


何郎去って自り 好詠無し
かろうさってより こうえいなし

東風愁寂 幾回か開く
とうふうしゅうせき いくかいかひらく


この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。

高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の美しさや淋しさを美しく詠っています。

彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号す。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入した。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑される。時に38歳、明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられています。

薄命な詩人だったのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

年老いて妻と静かに歩むロウバイの小道

2017年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
これは昨日の日記です。日曜日の朝は少し内容のある文章を書くことにしています。
そこで一昨日見た『沈黙 -サイレンス-』という映画の感想文を書きました。
その書き出しはこうでした。
・・・島原の乱も終り、江戸幕府のキリシタン弾圧がほぼ終了した時代に、2人のポルトガル人神父が行方不明の司祭を探しに無謀にも九州へ潜入した来たのです。ロドリゴ神父とガルペ神父です。
かつて尊敬していた司祭のフェレイラ神父は棄教し、幕府側になってキリシタンを捕縛、棄教させる役をしているという噂です。潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者にかくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。
しかし2人とも捕まってしまい棄教を迫られます。ガぺラ神父は海に落とされた信者を助けようとして飛び込み、自分も役人に海に沈められて絶命します。
一方、ロドリゴ神父は生きてフェレイラ神父についに会うことが出来ました。しかしかつて尊敬していた師、フェレイラ神父は沢野忠庵と言う日本名を使用していてロドリゴ神父に棄教を迫ります。苦悩の末に棄教したロドリゴ神父は幕府から日本名を貰い、処刑された日本人の妻女を妻としてあてがわれます。
そして死ぬまで幕府側のキリシタン取り締まりに協力します。

以上のようなストーリーですがこの物語の特異点は、キリシタン弾圧のほぼ終わった頃に、無謀にも潜入をした若い2人の神父とそれを支える隠れキリシタン達との強い絆と愛の物語という点にあります。・・・

内容が深刻な映画でしたので感想文を書いて疲れました。
それからミサへ行きました。何時ものようにディン主任司祭が司式をしてくれました。

午後は府中市の郷土の森博物館公園の蝋梅の小道を妻と共に静かに歩いて来ました。
ローバイの花は決して豪華な印象ではありません。淡い色合いの小さな花です。
楚々と静かに咲いています。良い香りが小道に漂っています。
老境に至って私は初めてこの花が好きになりました。写真をお送り致します。

1番目の写真はロウバイの小径の写真です。左端に妻が写っています。このような小径が80メートルほど細々と続いています。

2番目以下の写真はいろいろな形と色合いの違うロウバイの花々の写真です。素芯蝋梅、満月蝋梅、唐蝋梅など華やかに咲いていますが、寂しげな花です。





このようなロウバイの小径のそばに広大な梅林が広がっています。
数本だけ早咲きの梅の木が満開になっていました。写真をお送りしたいのですが、今日はロウバイに忠誠を誓い、ロウバイの写真だけをお送りします。
帰りがけに何時ものように醤油味だけのダンゴを食べます。妻が好きなのでこの公園に来ると必ず食べます。甘さの無い醤油味は懐かしい味です。砂糖が貴重だった江戸時代の味に違いありません。
背後で年老いた夫婦も食べています。夫が物知りそうに「このダンゴは業務用のスーパーで売っている。それに醤油をつけて焼くとこうなるのだ」と妻へ説明しています。妻の方は感心したように「そうですか。それではうちでも作れますね」と言っています。夫婦仲の良いのは分かりましたが、夫婦の会話はあまり内容が無いですね。社会性もありません。嗚呼、私も注意しましょう。
などとつまらないことを考えながら公園を後にしました。
こうして一日が終わりました。無為の日々の一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

遠藤周作の原作に忠実で重厚なスコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』

2017年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
島原の乱も終り、江戸幕府のキリシタン弾圧がほぼ終了した時代に、2人のポルトガル人神父が行方不明の司祭を探しに無謀にも九州へ潜入して来たのです。ロドリゴ神父とガルペ神父です。
かつて尊敬していた司祭のフェレイラ神父は棄教し、幕府側になってキリシタンを捕縛、棄教させる役をしているという噂です。潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者にかくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。
しかし2人とも捕まってしまい棄教を迫られます。ガぺラ神父は海に落とされた信者を助けようとして飛び込み、自分も役人に海に沈められて絶命します。
一方、ロドリゴ神父は生きてフェレイラ神父についに会うことが出来ました。しかしかつて尊敬していた師、フェレイラ神父は沢野忠庵と言う日本名を使用していてロドリゴ神父に棄教を迫ります。苦悩の末に棄教したロドリゴ神父は幕府から日本名を貰い、処刑された日本人の妻女を妻としてあてがわれます。
そして死ぬまで幕府側のキリシタン取り締まりに協力します。

以上のようなストーリーですがこの物語の特異点は、キリシタン弾圧のほぼ終わった頃に、無謀にも潜入をした若い2人の神父とそれを支える隠れキリシタン達との強い絆と愛の物語という点にあります。

この映画は28年前に「沈黙」を読み、感動したスコセッシ監督が長い年月をかけて準備し完成させた労作です。映画芸術の一大傑作です。感動しました。
心から皆様へお薦めいたします。
少なくとも人間とは何か? 宗教と人間の関係とは?というような疑問を考えたことのらある人は必ず見るべき映画です。貴方の疑問に解答は得られないでしょう。そして謎は深まるばかりです。
はたしてキリスト教は日本に必要なのでしょうか?それが日本に入って来たために殉教と言う大きな悲劇が起きたのです。
この遠藤周作の「沈黙」を読んだ私は35歳でカトリックの洗礼を受ける決心をしました。
私にとってこの映画は洗礼の喜びを蘇られさせてくれるのです。

さてそれでは数枚の写真でもう少しご説明いたします。写真の出典は、映画『沈黙ーサイレンスー』公式 (@chinmoku2017) | Twitter;https://twitter.com/chinmoku2017 です。

1番目の写真は厦門から困難な船旅の末やっと九州に秘かに上陸したロドリゴ神父です。隠れキリシタン達に熱い歓迎を受け、匿われます。隠れキリシタン達の為に洗礼をし、ミサをたてます。

2番目の写真はガーフィールド が扮したロドリゴ神父と窪塚洋介 が演ずるキチジローです。
キチジローは何度も踏み絵を踏むような意志の弱い男です。そして銀300枚のためにロドリゴ神父を官憲に密告します。
しかしキチジロウーはロドリゴ神父に告解を聴いて貰い神の赦しをえます。キチジローは何度もロドリゴを裏切ります。
そしてロドリゴも棄教し、日本名を使うようになってもロドリゴを離れようとしません。キチジローにとってロドリゴは最後まで神父、パードレなのです。最後に2人が別れるときもキチジローは「パードレ、告解を聞いて下さい」と言います。
この2人の最後の場面は感動的です。窪塚洋介 の演技力に驚きました。

3番目の写真は棄教前のロドリゴと塚本晋也演ずるモキチです。

4番目の写真は左から順に、村長のイチゾウ、モキチ、ロドリゴ、ガルペの4人です。ロドリゴ以外は殉教しました。

5番目の写真はフェレイラの苦悩に満ちた顔の写真です。
ロドリゴを演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技には厚みがあり慈愛が滲んでいます。しかし棄教を薦める昔の師、フェレイラへの舌鋒は激しく攻撃的でした。それでもついにロドリゴも棄教します。
フェレイラを演じたリーアム・ニーソン の演技も棄教の悲しみを讃え重厚なものでした。
弾圧する側の 井上筑後守( イッセー尾形 )や通辞( 浅野忠信)などの演技もそれぞれ役にあっています。
スコセッシ監督の丁寧な演出の結果です。

とにかく見ていただきたい映画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

動画予告編;http://english.cheerup.jp/article/4464?d=rec4465


トランプ氏の大統領令からアメリカ人の本音が見えて来る

2017年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ氏が次々に大統領令にサインして選挙運動中の発言を実行に移そうという姿勢を鮮明にしています。実行出来るか否かは議会の承認にかかっていますからその実効性はまったく不明です。
しかし次々と出される大統領令を見るとアメリカ人の感情的な本音が見えてきます。本音が分かることは実に興味深いことです。
アメリカは従来の理想主義を止め、理性を捨てて、恥も外聞も無く本音を言い出したのです。これはアメリカの文化を理解するうえで大変助けになることです。
そこで今日は幾つかの大統領令が明らかにしている本音を描き出してみたいと思います。

(1)TPPからの脱退
一部のアメリカ人は昔から国連のような国際協調主義が嫌いなのです。国際外交は自分が決めるもので国連に指示されるべきではないと考えています。この考え方の延長に太平洋地域の多国間の経済関係を集団で取り決めようとする国際協調が嫌なのです。それはアメリカが主導権を持って2国間だけで決めるべき問題なのだ。これがアメリカ人の本音なのです。

(2)メキシコ国境に壁
アメリカは昔のメキシコとの戦争に勝利し、カルフォルニア、テキサス、ニューメキシコ、などの南部諸州をアメリカの領土にしました。
しかしそこにはメキシコ文化が残りメキシコ人にとって住みよい場所になっています。
中西部の保守的なアメリカ人は二言目には、「メキシコ人が職場を奪う!」と言って差別してきました。
失業率が高くなると必ずのようにうに「メキシコ人が職場を奪う!」という声が高くなるのです。
その上、アメリカでは車の運転免許さえ手に入れば生活上の身分証明書になり困らないのです。人を雇う時は車の免許だけで多くの場合良いのです。そして実はメキシコ経由で南米の国々からの不法入国も多いのです。トランプ氏の大統領令でメキシコ国境に壁を作ることはアメリカ人の南米人差別の本音でもあるようです。「トラブルメーカーのメキシコ人を締め出せ!」がアメリカ人の本音です。

(3)オバマケアの廃止
アメリカ人の多くは医療保険は個人が保険会社から買うもので、国家が与えてはいけないという考えがあります。それが本音です。
貧乏人は高価な医療保険が買えません。ですからガンになっても高価な治療が受けられません。死んで行く他ありません。
それが嫌なら努力して金を稼ぎ高価な医療保険を自分で買うべきです。このような個人の努力が豊かなアメリカを作っているのです。
日本のように75歳以上になると全員医療費1割という制度などトンでも無いことです。このこのような平等すぎる全員医療費1割という制度は絶対にアメリカ人には賛成できません。これがアメリカ人の本音なのです。

(4)日本は見たことも無い巨大な船で車を運んでアメリカで自由に売っている!
その感情論は本音です。日本では確かにアメリカ車の関税はゼロです。しかし日本の安全基準や排ガス規制に合格しないとどんな車でも売ってはいけません。この日本の安全基準や排ガス規制は日本の車に合わせて作っているのでアメリカ車が排除されるのです。これがアメリカ人の本音です。なにせ感情論ですから日本の駐車場の狭さや道路の狭さもアメリカ車の締め出すためだと見るのでしょう。

(5)米軍基地の費用は100%、日本が払え!70%では足りない!
アメリカ軍が日本まで行って駐留し日本を中国と北朝鮮の攻撃から守ってやっているのだから、当然その費用は全額支払うべきだという感情的本音なのです。
日本人は駐留米軍の人件費や消耗品の費用だけを考えていますが、アメリカ人の本音は別かもしれません。
アメリカ軍の先端的な戦闘機や戦車や原子力潜水艦の膨大な開発費も日本は応分に負担すべきだという本音が背景にあるかも知れません。
そこまでは流石に要求しないでしょうが「次世代戦闘機の共同開発」といような名目で日本の出費が要求されるのではないでしょうか。

他にもいろいろありますが、長くなりましたの今日はこのへんにします。誤解しないでください!アメリカ人の本音に賛成しているわけではありません。絶対反対です。そのことは別の記事で書きます。

今日の挿し絵代わりの写真は多摩川上流の冬景色です。一昨日撮ってきました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










自動車の運転は趣味か否か?そしてクラシックカーの写真集

2017年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
自動車の運転はその目的によって仕事と趣味に分かれます。これというはっきりした目的も無く運転すればドライブと言う趣味になります。一方、家族の送り迎えや仕事のために運転すれば趣味とは言えません。
老境にある私の場合は90%が趣味のドライブです。
意味も無く走り回るのが楽しいのです。
毎日運転します。小金井市の公園沿いの道や玉川上水沿いの道は樹木が多くてドライブが一層楽しくなります。
遠方までドライブする時もあります。昨日のように奥多摩に行ったり富士五湖にドライブします。江の島や鎌倉、そして三崎港まで行くこともあります。
山梨県の西の端の甲斐駒岳の麓の山林の小屋にも車で行きます。

車を運転している間が楽しいのです。幸せな気分になるのです。
車の趣味のもう一つにクラシックカーを見ることがあります。
何度も行った所が河口湖自動車博物館です。隣には河口湖飛行機館も並んであります。こ両方の博物館の展示物は原田信雄氏の個人的なコレクションなのです。
この自動車博物館の方は数十年前に開設され、以前は通年開館していました。私も何度も見に行きました。
ところが最近は夏の8月だけ公開されるようになっています。
自動車の展示では、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなど各国の数多くのクラシックカーが展示してありました。
1886年から1950年までの車はHALL-Aに展示してあり、1950年から2000年までの車はHALL-Bに展示してあります。

自働車には作られた国々のいろいろな時代の文化を積んであります。乗り回した家族の喜びと悲しみが沁みこんでいます。戦前生まれの私にとって、いろいろな時代の車を見ると当時の社会の雰囲気がよみがえって来ます。
自動車はまさしく文化遺産です。展示してある自動車の一台、一台を見ながら過ぎ去りし日々の思い出を楽しんでいます。
そこで2014年の8月に河口湖自動車博物館で撮ってきた戦前のヨーロッパと日本の乗用車の写真をお送りします。
ヨーロッパの国々の文化の違いを暗示しているようです。自動車には作られた国と時代の雰囲気を反映しているのです。

1番目の写真は1933年のイギリスのライレー/ケストレルで6気筒1083cc・26馬力のスポーティ・セダンです。イギリスの落着いた伝統的なスタイルをしています。当時のイギリスの中流階級に人気があったそうです。

2番目の写真は1934年のシトロエン7CVで4気筒1303cc・32馬力です。
前輪駆動、フラット床、独立懸架など現在の前輪駆動の乗用車の構造の基礎を作った車です。
1934年から1957年までの23年間で75万台が作られたそうです。

3番目の写真はよく分かりませんが、色彩が綺麗なのでお送りします。自動車が作られ始めた頃のプジョー・ベベらしいです。この当時はまだ走れば良いという時代ですから、現代の基準を当てはめるならエンジンは非力。ようやく冷却のためのラジエーターグリルが誕生したという時代です。

4番目の写真は1938年のイタリアのランチアアプリリア、1352CC,Ⅴ型4気筒、4輪独立懸架。120Kmの巡航速度でした。実用車らしい頑丈な作りになっています。

5番目の写真はアルファロメオ、6気筒、2500CCです。いかにもイタリアらしい華麗なデザインです。

6番目のの写真はヒットラーがよく乗っていたベンツと同じ型のメルセデス・ベンツ/540Kです。3500CCのエンジンで2.7トンと重い車体でも時速170Kmで走れました。やがて第二次世界大戦を始めるドイツの武力を連想させるような重厚な作りになっています。
その他の車は,http://auto.ultimative.org/2012/car-airmuseum/ にも掲載されています。

7番目の写真は戦前、1936年から1938年の日産のダットサン乗用車の写真です。
日本で初めて量産された乗用車で、4気筒、722cc、でした。

8番目の写真はオオタOD型トラックの写真です。
オオタOD型トラックは1937年製、736CC,16馬力でした。
写真は全て2014年8月に河口湖自動車博物館で撮ったものです。

尚、河口湖自動車博物館の別館には河口湖飛行機博物館もありゼロ戦や戦後のジェット戦闘機が展示してあります。
詳しくは、http://www.car-airmuseum.com/  をご覧下さい。
なお、http://www.interq.or.jp/sun/mm-kas/hakubutu/hakubutu.htm や、http://waypower.blog.so-net.ne.jp/2012-09-02 にもいろいろ情報があります。

河口湖自動車博物館と河口湖飛行機館のオーナーの原田信雄氏の写真は、
この写真の出典は、http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/130922-5.html に掲載されています。 
記事が長くなりましたので今日はこのへんで失礼致します。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日は鳩ノ巣までドライブしてコーヒーを飲んで来ました

2017年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中に家を出て奥多摩の鳩ノ巣までドライブして来ました。
家内が一緒だったので、昔家族でスケートを楽しんだ天然氷の沢井スケートリンクを見に行きました。
とっくに営業は止めていますが天然氷のリンクには昔のように氷が張っていました。
誰も居ないデコボコのリンクに弱弱しい冬の陽が射し込んでいました。
それから御岳駅前の橋の上から多摩川の写真を撮りJR鳩ノ巣駅で遊びながら電車の写真を撮りました。鳩ノ巣駅の下の「山鳩」という店で香の良いコーヒー飲んで帰って来ました。
のんびりとした冬の一日です。

1番目の写真は御岳駅前の橋の上から多摩川の上流方向の写真です。

2番目の写真は御岳駅前の橋の上から多摩川の下流方向の写真です。川の右手に写真には写っていませんが玉堂美術館があります。

3番目の写真は鳩ノ巣駅の下の「山鳩」という店の写真です。以前はよく寄ってビーフシチューを食べた店です。同じご主人と昔話をして来ました。よく何十年も根気良くお店を続けているのは偉いものです。

写真を撮るのは趣味か、趣味でないか?

2017年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味の定義は自分で勝手にすれば良いのです。自分が趣味だと思っていたら趣味なのです。
しかしあることが趣味か否かとう問題にはおのずと常識的な境界があるのではないでしょうか?
写真を撮るという場合を考えてみましょう。
例えば重くて大きなカメラと三脚を担いで山野を歩き、根気よく被写体の現れるのを待って写真を撮るのなら、それは立派な趣味です。
大きな望遠レンズを付けたカメラを頑丈な三脚の上に固定し、寒気の中、富士山が夕日に輝くのを待っている人々を見るとその忍耐心に感心します。そのような苦行と共に写真を撮っている場合は立派な趣味として尊敬したくなります。
写真が趣味か、そうでない境は苦行を伴うか否かによって分かれます。

この定義に従うと私の写真はとうてい趣味とは言えません。老境のおもちゃの一つに過ぎません。
しかし軽くて小さなデジカメを何時も首から下げて車を運転しています。片手でハンドルを握り片手でカメラのシャッターを押すのです。
この早業には前後左右に車や人がいないことが鉄則です。
そして四六時中、首に軽いデジカメをぶら下げていると思いがけない写真が撮れるのです。


1番目の写真は毎月1回は行く北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。昨年の晩秋に車から撮った写真です。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。

3番目の写真は山小屋のそばに遊んでいる猿の写真です。猿は数匹の群れでよく遊んでいますが写真を撮られるのが嫌いで、デジカメを出すと一瞬にして逃げてしまいます。この猿は私に興味を持ったらしくて私を覗き込んでいました。

4番目の写真はキツネの写真です。このキツネは独りで庭でビールを飲んでいたら森から出て来て私の周りをウロウロして、数分したら又森の中へ消えて行きました。
何時ものように首からデジカメを下げていたので素早く写真を撮りました。
こんなことは40年以上も山小屋に通っていますが初めてのことです。その後もキツネは姿を現せませんでした。昔からキツネは人を騙すと言います。野生のキツネには人のそばに出て来て親し気に歩き回る習性があるのだろうと独り想像しながら、楽しくビールを飲んだのが忘れられません。

5番目の写真は山道を車で走っている時、車窓から撮った鹿の写真です。
山小屋へ上る雑木林の道ではシカが飛ぶように車の前を横切って行くのを何度も見ましたが、あまりにも素早くて写真は撮れませんでした。
この写真は珍しく鹿が私に興味を持ってくれて車の中を覗き込んでいたのです。

このようにデジカメは私の玩具です。趣味ではありません。
しかしそのお陰で大きな感動を受けたのです。嗚呼、私は野生動物に好かれる優しい人間にやっとなれたのだという感動です。
勿論、これはこちらの思い込みでしょうが、老境とは幸せなものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


何故、ドイツ人が反省しているのに日本はしていないという非難があるか?、その(3)

2017年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
始めに誤解の無いように明記しておきます。
私がこの3回の連載記事で主張したいことは次の2つのことだけです。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。

ある人間が真摯に謝罪しているか否かということは確証の無いことなので、この問題はこの連載の範囲では無いのです。今回の議論の対象では無いのです。
『荒れ野の40年』という演説は欧米では有名になり、これ以上感動的な謝罪文は無いと絶賛されました。
2015年1月31日にヴァイツゼッカー氏が亡くなりましたが、メルケル首相は「荒野の40年」に関連してヴァイツゼッカー氏の追悼文を発表しています。

さて一方、多神教文化圏の日本人はこの有名な演説を謝罪文ではないと誤解して無視したり非難しています。それは文化の違いによる全くの誤解なのです。
日本人はこの演説を以下のように誤解しがちです。
(1)この演説には反省しているとか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な謝罪とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度は間違っている。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。

さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対して個人がするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。

(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。多数の良識的なドイツ人なら同様に考えています。この演説は数多くの良識的なドイツ人の代表として考えるべきです。ヴァイツゼッカーさんは政治家です。国民の大多数の人々の意見を集大成して具体的な事例をあますことなく明記した演説原稿を書いたのです。

(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。

日本人は心にもないくせに反省します。そして気楽に謝罪する文化です。
しかし深刻に以下の数々の事件の犠牲者と遺族の悲しみを心に刻み、心を寄せ同情しているでしょうか?
満州事変と張作霖の爆死。
石井部隊による中国兵の生体実験。
満州における農地の半強制的買い上げと満蒙開拓団への提供。
上海事変における市民の難民化と犠牲。
南京事件と言われる残虐行為。
南中国の桂林まで占領する折の農村の破壊。
中国兵捕虜の強制労働と死刑処分。
中国人の強制連行と日本国内における使役。
もっといろいろあるでしょうが、このような忌まわしい事実を明記し、その犠牲者と遺族に心を寄せるのです。彼等の底知れない悲しみを日本人は心に刻んでいるでしょうか?
現在の日本人は犠牲になった人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているでありましょうか?・・・・・

心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・

以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。

反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。
もし読者に異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあれば、ヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。

以下の2つの主張に対するコメントを歓迎します。
(1)ドイツ人は反省しているが日本人は反省していないという誤解の原因の一つは、ヴァイツゼッカー 大統領の有名な『荒れ野の40年』という演説にあるという主張です。
(2)キリスト教文化圏の中の謝罪文は多神教文化圏の日本人の謝罪文と比較すると、その形式と具体的記述の内容がまったく異なるという主張です。

今日の挿し絵代わりの写真は冬の花園の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






何故、ドイツ人が反省しているのに日本はしていないという非難があるか?、その(2)

2017年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴァイツゼッカー大統領 の演説の題目、『荒れ野の40年』は新約聖書の中にある「荒れ野の40日」をなぞらえた題目です。
「荒れ野の40日」はキリスト教教理において重要でおり、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフなのです。
キリスト教で有名な『人はパンだけで生きるものではない』という言葉はこの部分に書かれています。
ですからこの演説はキリスト教徒によるキリスト教徒に対する謝罪演説なのです。
この『荒れ野の40年』を大乗仏教の海の中にいる日本人が読むと以下のような3つの反応に分かれます。
(1)キリスト教徒の日本人は涙を流しながら感動して読みます。
(2)キリスト教の教えを知識として正確に持っている日本人は、なるほどこれは立派な謝罪文だと理解します。
(3)キリスト教をまったく知らないか、キリスト教に無関心な日本人にとっては到底、謝罪文とは理解出来ません。

ドイツ人が罪を犯した相手の国々のソ連もポーランドもチェコソロバキアも、そして西側のフランスもベルギーもオランダも皆キリスト教文化圏です。戦死者を多く出したイギリスもアメリカもキリスト教文化圏です。そこには当然キリスト教徒も多く住んでいます。
従ってヴァイツゼッカー の『荒れ野の40年』は拍手喝采を受けたのです。
この謝罪の形式と内容はキリスト教に従っています。その解説は続編で行う予定です。
ですから仏教文化圏の日本には関係ない無縁のものとも言えます。
しかしその内容は日本人が一個の人間として深く考えるべきものが含まれているのです。人類共通の罪と赦しが描かれているのです。
ですからこそ今日は昨日に引き続き『荒れ野の40年』の後半をお送りいたします。
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 『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー 、その(2)

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。    
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (『荒れ野の40年』の終わり)

今日の挿し絵代わりの写真はスミレを改良したパンジーの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






何故、ドイツ人が反省しているのに日本はしていないという非難があるか?、その(1)

2017年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
先の第二次大戦後、最近の日本政府は「村山談話」を堅持していて謝罪は済んだという立場を続けています。
しかし日本の評論家は何度もドイツ人が反省しているのに日本はしていないという意見を言っています。
そして朝日新聞は慰安婦問題に関して間違った報道をしました。間違いを認め謝罪しましたが、韓国は政治決着したこの問題を執拗に蒸し返しています。
韓国や中国の政治家は朝日新聞に大きな影響を受けて来ました。朝日新聞は国益に反して困った新聞社です。しかし日本には言論の自由があるのです。民間会社の新聞社が何を書こうが全く自由なのです。

トランプ大統領の就任で日本も憲法を改正し、軍備を強化する方向が加速されそうです。
このような時期にあたって、朝日新聞の問題を離れ、日中韓の3国の対立についてもう一度深く考えてみたいと思います。
日中間や日韓間の感情的な対立の原因は複雑で数多くの原因が重なり合っていて簡単に解決出来ないようです。
一つの原因は中国や韓国の教科書に日本軍の残酷な行為がいつまでも掲載されていることもあります。
しかしその他にも原因が数多くありそうです。
例えば一つの原因にドイツと日本の政治家の謝罪文の違いもあると思います。

そこで今日はドイツ大統領の具体的な謝罪と反省として世界中で有名なヴァイツゼッカー大統領の演説を見てみましょう。
内容が抽象的な村山談話と比較してみると、ドイツ人が真摯に、そして具体的に反省していることが分ります。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの第6代連邦大統領(1984年 - 1994年)でした。
彼は敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で以下の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なので何回かに分け連載としてご紹介いたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html よりの転載です。

 『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー

 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、

故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。 (続く)

そして写真はヴァイツゼッカーさんです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

3つの泉に心魅かれ写真を撮って来ました

2017年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、午前中は教会のミサに行きました。
午後は国分寺崖線の下に湧き出ている3つの泉に心魅かれ写真を撮って来ました。

武蔵野台地とは荒川と多摩川に挟まれた広大な台地です。そこには美しい雑木林や畑が広がっています。
この武蔵野台地は決して平らでなく丘や崖があちこちに散在しています。
その丘や崖の下には泉が湧いているのです。
昨日ご紹介した善福寺池や武蔵関公園の富士見池は皆湧水で出来た自然の池です。

泉とか湧水には何かロマンを感じます。
滔々と湧き出る清い泉は必ずや昔の縄文時代の人々を支えて来た筈です。奈良、平安、江戸と時代が流れ人々が農業をするようになると、これらの湧水はかけがえの無いものになりました。そのような泉の周りに集落が出来たに違いありません。

それではまづ姿見の池をご紹介します。
かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って 身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。
平成10年度東京都と国分寺市は、池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 として整備しました。かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。

1番目と2番目の写真が「姿見の池」の風景です


次はお鷹の道にある「真姿の池湧水群」です。
 1748年(寛延元年)から国分寺は徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となりました。
武蔵野台地の崖下の泉と清流の脇に小道が整備され、これを「お鷹の道」と呼ぶようになったのです。

3番目の写真は「真姿の池」の風景です。下流で野川に流入し多摩川へ流れ出ています。

次は小金井貫井神社の裏手で幾つかの泉から湧き出している貫井神社湧水群です。
国分寺崖線が小金井まで延び、その崖下からコンコンと湧き出しています。

4番目の写真は神社の裏で幾つかの泉からの湧水を集めて流れている水路です。

5番目の写真は神社の前の湧水で出来た深い池の風景です。

このような泉の写真を撮って歩き回っていると古の人々のことが偲ばれて楽しいのです。
縄文時代はこの泉の付近に環濠集落があったそうです。
そして畑作や稲作の時代になると湧水群の周囲に農地が出来、集落も出来ました。
国分寺でも小金井でも崖線の下側に昔から農村が出来ます。崖の上の台地には開発されない時代が長く続いたのです。

泉や湧水に感謝しながら写真を撮って来ました。そして今日も平穏に日が暮れて行きます。

日本人の精神文化を讃えた映画がアメリカで制作、公開

2017年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので少しキリスト教のお話をいたします。
昨日アメリカの巨匠、スコセッシ監督が作った「沈黙ーサイレンス」が日本でも公開されました。。
この映画は遠藤周作の「沈黙」を原作にして、アメリカで制作され世界中で上映されています。
アメリカ人のスコセッシ監督が江戸時代の禁教に耐えた日本人に感動して、丁寧に作り上げたという大作なのです。

そこで今日はこの映画の背景になった江戸時代の禁教の歴史をかいつまんでご紹介したいと思います。
さて江戸幕府が出来て、1615年からキリシタンの禁教が一層厳しくなりました。日本ではキリシタンの信者は絶滅したと誰でも思っていました。ローマ法王も江戸幕府の人々もそのように考えていました、ところが九州では多数の信者が代々キリスト教の信仰を密かに受け継いでいたのです。

そして1865年3月17日、15人ほどの人々が、長崎・大浦天主堂の門の前にやってきました。錠前を開けようとしますが、西洋のものなので開け方がわかりません。錠前の音を聞きつけたプチジャン神父は、いそいでやってきて門を開けました。彼らは浦上村の信徒たちでした。聖堂の中をめずらしそうにみていましたが、祭壇の前で祈っているプチジャン神父のそばに、一人の中年の女性がやってきてささやきました。「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と伝えました。さらに、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。プチジャン神父は、彼らを聖堂内のマリア像の前に導きました。

この日は、「長崎の信徒発見記念日」として祝われてきました。2015年からは、「日本の信徒発見記念日」として祝われます。この日から150年目を迎える2015年3月17日は、長崎で盛大な祝いが行われました。
そこで、大浦天主堂にある信徒発見の碑の写真をご紹介いたします。

この写真は、http://laudate.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/150-5e5e.html から転載させて頂きました。

カトリックの総本山バチカンでは日本の「隠れキリシタン」が近年、脚光を浴びているそうです。
日本に強い関心を持つフランシスコ法王が、弾圧に耐えた歴史を「信徒の模範」とたたえ、長く保管されてきた史料について日本側との共同研究を始めたのです。
江戸時代末期の「信徒発見」から150周年になる2015年3月17日には「信徒発見150年」を祝い、長崎・大浦天主堂で記念ミサがとり行われました。
このミサには教皇フランシスコの特使として、フィリピン・コタバト大司教のオルランド・ケベド枢機卿が出席しました。

教皇はこの機会に、特使のケベド枢機卿に書簡を託しました。ラテン語の書簡で、2015年2月15日付となっているそうです。
書簡の中で教皇は、このミサへ日本中の教会から信者らを招くと共に、信仰のために自らの命を捧げた多くの殉教者たちに思いをはせているそうです。

今回、「沈黙ーサイレンス」という映画を作ったスコセッシ監督はイタリア系のアメリカ人でカトリック信者です。
上記のフランシスコ法王の「隠れキリシタン」の重視に影響を受けたに違いありません。
そして長崎まで巡礼の旅をしたヨハネ・パウロ2世の影響を深く受けていたと思います。スコセッシ監督はこの映画を作るにあたっては数年の長い準備をしてきたのです。この映画の予告編は、 http://ciatr.jp/topics/15586 にあります。


このようなことはカトリックの信者にとっては重要なことですが、一般の日本人にとっては関係が無いことと考えられがちです。
しかしこの日本の歴史は日本人の精神の強さと美しさを証明していて、世界中によく知られているのです。

日本が世界に誇れる文化遺産はいろいろあります。
もまもなく、長崎のキリシタン遺跡や教会群が国連の文化遺産として認定される予定です。
日本にとって誇らしいことです。
日本にはこの他にも外国へ自慢できるような文化が沢山あります。
私はこのような日本の歴史や伝統文化を誇りに思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の日記、武蔵野台地の湧水で出来た善福寺池と富士見池の写真を撮って来ました

2017年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野台地にはあちこちに湧水が湧き出ています。
おのずと池が出来、それを中心にして公園が整備さています。
善福寺公園や武蔵関公園や石神井公園や井の頭公園などは皆湧水で出来た自然の池を中心にしています。
今日の午後に善福寺池と武蔵関公園の富士見池の写真を撮ってきました。

1,2,3番目の写真が善福寺池の今日の風景です。



善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、江戸時代には、貴重な水源ででした。またこの池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は別名遅野井村とも言わていました。
善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、江戸時代に廃寺となっています。しかし近所に「善福寺」という寺が現在ありますが、それは福寿庵という元々違う名前だった寺で、後年地名をとって改名したお寺であり、池の名前の由来にはなっていません。



4番目と5番目の写真は武蔵関公園の富士見池の風景です。
武蔵関公園は大正時代に私設公園としてボート場や遊具施設などが整備され、1938年10月に東京市立公園として開園したそうです。
池には西側と東側に「葦の島」と「松の島」という島があり、葦の島は春先に紫色の花ダイコンのような花が一面に生えてきれいです。

今日は青空ながら寒い北風が吹いていたので人影も少なく、静かな池の風景でした。



アメリカの日本に対する優位性の本質とトランプ大統領

2017年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はトランプ大統領の就任式があり、彼が新しい大統領に正式に決まります。
日本のマスコミは連日そのニュースで大騒をしています。
昨年の11月に、予想に反してトランプ氏が次期大統領に当選してから、マスコミは「おもちゃ箱」をひっくり返したような騒ぎです。
テレビや新聞に彼の顔が現れない日はありません。
トランプ氏がアメリカを変革し、世界を混乱に巻き込むと言い立てています。
しかし本当に変わるのでしょうか?
もう少しアメリカ文化の優位性の本質を深く考えるべきではないでしょうか?ここで言う文化は軍事、経済、科学、芸術などの全ての分野を含んでいます。

問題をもう少し限定し、アメリカの日本に対する優位性の本質を考えることにします。
そうすれば変わらない部分と変わる部分がもう少しはっきり見えて来るのではないでしょうか?
昨日、そんなことを考えながら写真のような冬の公園を散歩して来ました。

1,2,3番目の写真は東京都清瀬市の北山緑地公園の冬景色です。




さて世界中にはいろいろな民族文化があります。そしてそのいろいろな民族文化には絶対に優劣はありません。しかし文化というものの種々の分野を取り出して、比較するとそれぞれにはおのずと優劣があるのです。そして優劣を論ずる場合には評価の基準が問題になります。ですから以下は全て私の個人的な意見です。

アメリカ文化の日本文化に対する優位性の本質は軍備の優秀性や経済力の強さにあるのではないのです。
アメリカ文化の中にある基本的人権の尊重や個人の独創性の尊重にあるのです。ある人間の過去に目を向けず、チャンスを与え将来の活躍を考えるという文化が日本より優れているのです。アメリカ人は人間の平等性を信じています。転職の自由、移住の自由、残業を断る自由などなど個人の自由が定着しているのです。
これらのアメリカ文化の部分的特徴は、やはり日本文化に比較してみると優位にあると断言せざるを得ません。
考えてみてください。仮に太平洋戦争で日本がアメリカに勝ったとします。そうすると日本は軍事力でアメリカより優位に立つかも知れません。
しかし上に書いたアメリカ文化の中にある基本的人権の尊重や個人の独創性の尊重という特徴は絶対的に優位になると私は信じています。
この個人の独創性の尊重という特徴がアメリカの科学の先進性を生み、経済活動の日本への絶大な影響を与えているのです。

このような抽象的な言い方は分かり難いものです。そこで具体的に書きます。
スーパーマーケットの電気製品の大型量販店も大型ホームセンターもすべてアメリカ文化の産物なのです。
ファミリーレストランもコンビニもすべてアメリカ文化の産物なのです。それらは日本を席巻して、日本文化の質を根底から変えているのです。日本の町の小売店を消し、シャッター通りにしてしまったのです。
そればかりではありません。アメリカの自動車文化が日本の自動車産業を発達させ、日本の高速自動車道路の発展をもたらしたのです。
アメリカは戦後、軍事的に占領したから優位に立っているだけではないのです。
その文化の優位性が日本文化に大きな影響を与えているのです。

さてこのように書くとトランプ氏が次の大統領になろうがなるまいかは、さして重要なことでは無いように思えるから不思議です。
マスコミはアメリカの国論が割れて、アメリアが分断国家になると騒いでいます。
しかしアメリカの国論が割れて、社会が分断されたことは過去にもありました。
卑近な例では、ベトナム戦争当時の反戦運動でアメリカ社会が分断された例があります。この反戦運動でアメリカの社会は平穏でなくまりました。ベトナム戦争を嫌ったアメリカ兵は日本で逃亡しました。ある日本人はその逃亡兵を助けソ連へ逃げさせたのです。その折も日本は大きな影響を受けたのです。ベトナム戦争の特需だけでなく社会が戦争反対で揺れ動いたのです。
ベトナム戦争では5万人のアメリカ兵が戦死しました。
その当時に比べればトランプ氏が大統領になってもアメリカにそれほど大きな変化は無いと私は考えています。
アメリカの文化の本質は、日本文化のそれと同様に一朝一夕では変わらないのです。
アメリカ文化の優位性のみ書きましたのでご不満に感じる人もいると思います。しかし全ての民族文化には絶対に優劣は無いのです。
あなたは日本文化の優位性は何処にあるとお考えでしょうか?コメントを頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

川にまつわる思い出(3)ライン河の鰻の蒲焼と船上パーティ

2017年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

1番目の写真はドイツの鰻の写真です。写真の出典は、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。

2番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。

3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目と5番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です

4番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。

5番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。

6番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)