Yahooの検索で各都道府県にある城跡の一覧を見つけたのでご紹介したい。東京都内にあった城や館の大部分は市街地に呑み込まれ記念碑や説明板だけになっている。
しかし、郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれる。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡などは当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されている。発掘調査も行き届き、説明板も明快である。
これらは車で行くと便利が良いが、滝山城だけ駐車場が無い。近所の農家に特別にお礼をして停める。壮大な規模の城跡がそのまま残っているだけに残念である。
一覧表から現在の地名に関係したものだけに整理したものを以下に記す。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどである。(これらは元々の一覧表の半分くらいの数である)
それにしても城の数の多いのに驚かされる。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深い。なお高幡不動の裏山にも高幡城跡がありこの一覧表の他にも城があったのでは無いかと思われる。
現在住んでいる多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多い。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来つつある。皆様からの城跡や館跡に関する情報のご投稿をお待ちしています。(終わり)
伊東市にある文学会「岩漿」の木内光夫代表より第二期創刊号が送られてきた。
平成9年7月16日の第一期創刊号から11年、通巻第16号である。140ページの雑誌ながら俳句、詩、小説、エッセイ、追悼記などを網羅する総合文芸誌である。
読みはじめて止められなくなり最後の入会規定、投稿規程まで読んでしまった。なんと言っても全ての文章が明快で、小説はストーリーが面白い。詩や俳句もレベルが高くそれぞれ独特な香がある。
岩越孝治氏の巻頭小説「あなたの心の片隅で」は叙情的な力作である。話がドロドロした男女間の悲劇を描いているが筆致がロマンチックで救われている。
橘史輝氏の小説、「イルカ騒擾」は伊豆の富戸と川奈村でイルカを捕って食用にしていた明治時代からの縄張り争いの実態を描いたもので日本の貧しい漁村の生活が描かれていて興味深い。
深水一翠氏の小説「幻の金」は蝉取りをしている少年達と話しながら50年前の昆虫採集のことを回想した小説である。少年達との会話がいきいきとして軽快で、つい読み進んでしてしまう。
最後の力作小説、馬場駿氏(木内光夫の筆名)の「死なない蟻の群れ」は老夫婦の恋愛や離婚を取り上げた作品である。高齢者の恋愛感情や夫婦間の確執をいろいろな視点から描いた重厚な作品であり興味が尽きない。
エッセイでは森周映雄氏の「山桜のテーブル」は分厚い桜の一枚板でテーブルを完成するまでの悪戦苦闘の描写である。洒脱な文章がテンポ良く展開し、作者のユーモア感覚についニャリとしてしまう。
その他、俳句や詩も多く楽しい。伊東を中心にしたローカルな文化の香りがして、地方の文学会の特徴が分かり面白い。とくに詩人、小山修一氏による追悼記、「阿部英雄さんのこと」は故人の謙虚な性格と詩作を讃えている。この追悼記によると阿部英雄氏は実業家としても成功した人で、東京に本社を置く富士経済グループの七つの会社の社長であった。経営者には文学を愛する人格者も居るということが分かり興味深い。
この文学会は結成後、11年、伊豆半島東海岸の地方文化を豊かにして来た。このような小さな文学会の運営や活動内容に興味があるので今後2、3回調査して関連記事を掲載したいと思う。詳しくは、http://www.gan-sho.book-store.jp/index.html をご参照下さい(終わり)
1972年ニクソン大統領が北京の周恩来を訪問して米中国交正常化が出来た。田中角栄が日中国交正常化をしたのは同じ年の後のことである。これでベトナム戦争も終わった。ベルリンの壁も崩壊した。ゴリバチョフも冷戦構造を解かざるを得なかった。
共産党の中国が独立した1949年のあと大躍進政策の大失政と文化大革命で内戦状態を起こした毛沢東に忠実に従いながら、しかも毛沢東の暴虐、残忍な治世から人民を少しでも救うと一生の間、身も心も磨り減らしたのが周恩来総理である。そのすさまじい有様を具体的に書いたのがこの本である。専制的独裁皇帝である毛沢東が忠実な家臣である周恩来の人格と人民の声望に嫉妬し、身を捩り、その忠実な家臣を狡猾な方法で死へ追いやる陰険な毛沢東のやり方を書き暴いたのがこの本である。読むと人間の魔性にたいする怖気で身が震える。と、同時に自分の癌の治療を止めさせ死に追いやる、主君、毛沢東への忠義の言葉をつぶやきながら息絶えた周恩来の姿に涙が流れる。しばし次のメージが開けない。
周恩来は、「私は毛主席にも人民にも忠実にしようとした!」と言いながら死んでいで行ったという。
スケールは小さいが主君の扇谷上杉家へ忠義を尽くすが故に、無防備で部下に殺された人格者、大田道灌と同じことである。
最後に小生のブログで、2007年11月12日に発表した記事の一部を下記に再録して今は亡き周恩来総理へ捧げる。
外国体験いろいろ(2)ー随筆シリーズ
「外国体験いろいろー随筆シリーズ」は茨城県の常陽新聞に2005年6月22日から2006年9月6日まで67回に分けて掲載された「東洋と西洋のはざまで」をブログ用に多少の修正をして投稿するものである。ブログへの転載は常陽新聞社より了承を得ている。
外国体験いろいろ(2)
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年の周恩来の命日にたまたま北京にいた私にベルサイユで知り合った周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、大学の深い地下室でした。明るい照明の大きな部屋の壁一面には周恩来の写真、詩文、花などが飾られていました。周教授は
「中国人が一番好きなのは毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
このようなことは国中の色々な場所でこっそりと行われていたそうである。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。これで小生は中国人の信頼を得たと確信しました。また、このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。
(終わり)
2007年11月27日掲載の「「小説大田道潅」の読後感の補足として川越城の歴史をご紹介したい。この小説の舞台は江戸城と川越城である。1457年、この二つの城を作ったのは当時の関東管領、扇谷上杉家の家臣、大田道潅である。
主君である扇谷上杉家の命令によるという。
小説の主人公の道潅は江戸城を与えられ、川越城を居城とする関東管領、扇谷上杉定正へ家臣として仕えていた。小説の筋書きは、江戸城の大田道灌が主君と仰ぐ扇谷上杉定正に殺されるまでの話である。大田道灌に手を下したしたのは道灌子飼いの武将曽我兵庫である。兵庫が何故尊敬している道灌を切らねばならなかったか?道灌も兵庫も人間味溢れる武将である。お互いに敬意をもっていながら道灌を切るという悲劇が何故起きたのか?これがこの長編小説の主題である。主君定正が忠実な家臣である道灌を兵庫を使って殺す。歴史に繰り返される悲劇である。(次回掲載予定の毛沢東と周恩来の関係も同じ悲劇の繰り返しであろう)
それはさて置いて、大田道潅の築いた川越城のその後の変遷を見よう。扇谷上杉家は川越城を1457年から1537年までの80年間守った。しかし1537年、小田原の本拠を置く後北条氏によって落城する。後北条氏は福島(北条)綱成を城代として川越城へ送る。これで後北条氏は関東一円の平定を完了する。しかし、それも長続きしない。43年後の天正18年、1580年、秀吉一派の前田利家によって攻め滅ぼされた。この年には甲州の武田家も、後北条氏の寄居城も八王子城も関東一円の後北条氏の全ての城とともに滅んだ。
関が原で勝利した徳川家康は江戸に幕府を置くと同時に武田家や後北条氏の領地であった甲州と関東一円を直轄領とする。
1601年、川越城へ始めて配されたのは酒井河内守重忠である。その後は備後守忠利、酒井讃岐守忠勝、そして七代目に松平伊豆守信綱と続き、江戸幕府終焉まで22代の幕閣が城主として配された。
関東一円の戦国時代の多くの城は江戸幕府の出先行政機関的な役割を果たしたが、八王子城のように江戸時代は全く放置され、草の茂るだけになった城も多い。
それにしても大田道灌の築いた川越城は明治維新まで使用されたし、江戸城址にいたっては現在も皇居として使われている。家臣として忠実に仕え、主君に殺された悲劇の主の魂は今も二つの城を見守っているのであろうか。(終わり)
尚、馬場駿は木内光夫の筆名で左側のサイドバーにホームページが紹介してある。
東京都調布市の都立神代植物公園の梅林が今年も咲き始めました。まだほんの数本しか咲いていませんが写真でご紹介します。撮影日時は2月20日、12:00時ー13:00時です。
JR中央線の吉祥寺駅と三鷹駅よりバスが頻繁に出ています。又京王線調布駅からもバスが便利です。吉祥寺駅からバス20分位、調布駅からはバス10分くらいでしょうか。
車では公園専用の広い駐車場は正門横にあります。(有料)
また深大寺山門付近にも1回700円の有料駐車場が幾つかあります。そのなかに蕎麦などを合計2000円以上食べると駐車料が無料になる店もあります。蕎麦を食べ、深大寺をお参りし、裏にのぼって、神代植物公園の深大寺側門から入ると梅園が近いです。
◎アメリカ開拓とアメリカ原住民の虐殺
オハイオ州の北にエリー湖という広大な湖がある。1989年ごろ、州都コロンバスから湖岸のサンダスキーという町によく通った。クルーザーヨットの講習会へ出て、船長資格を取るためである。高速道路がないので、狭い田舎道を2時間ほど走る。貧しそうな田舎町を通ると、所々に小さな駐車スペースとトイレの施設がある。
トイレ入れ口には銅製の看板が掛かっており、「1785年、この地域のインディアン40名をワーナー隊長率いる騎兵隊が殺した」と書いてある。また、別のトイレの看板には「1810年、スミス中尉指揮の騎兵隊がインディアン35名を殺した」と記してある。コロンバスとサンダスキーの間の田舎道にはこういった看板が5枚もあった。1990年頃にはインディアンは差別用語になってアメリカ原住民と呼んでいた。しかし道沿いの看板はあえて昔のままインディアンと残してある。
フルブライト留学生として初めてアメリカへ行った1960年頃は西部劇の全盛期であった。インデイアンが善良な白人家族を襲い、それを騎兵隊が皆殺しにするといったストーリーが多かった。しかし、1989年には「インデイアン」は差別用語になっていて、「アメリカ原住民」と表現されていた。
トイレから出てきた中年男性に聞く。「インディアンという言葉はなくなったはずだが、なぜこんな看板を残してあるのか」「インディアン殺戮(さつりく)は忘れたい歴史。しかし、アメリカ人はその歴史を忘れてはいけない」「立派な考えですね」「絶滅したオハイオ・インディアンの名前だけを原住民と変えて殺戮の歴史を忘れようとしてはいけない」。中年太りの男は少し顔を赤らめ、意味深長なウインクをして車に乗り込んだ。
○北海道に住んでいたアイヌ民族も、
終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいた。学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいた。同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行った。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をする。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白い。
少年は学校に行っていない。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしていた。話はしないが、歓迎してくれているのが眼で分かる。居心地がよいから長居する。夕方、働きに行っていた両親が帰ってくる。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑む。それをしおに帰る。アイヌ家族はいつ行っても温かく迎えてくれた。
第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていた。しかし、その後、アイヌの姿を見た事がない。北海道でもアイヌは無くなったという。
北海道・日高の平取町二風谷に行くと、町営のアイヌ歴史博物館とアイヌの野外展示場がある。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館がある。町営の方は立派な建物だが取り澄ましていてアイヌ民族の息づかいが感じられない。アイヌ人経営の博物館には絶滅しつつある民族の悲しみが感じられる。
オハイオの地で殺戮されたインディアンにも、ベーリング海峡が陸続きのころ、はるばる渡って行ったモンゴルの血が流れている。絶滅して行く民族へ限りない同情と惜別の念が沸いて来るのはなぜであろうか?(終わり)人間は優しさと残忍さを持つ。洋の東西を問わない。人間の殺戮の歴史を忘れないために、今回は戦国時代末期の八王子城の悲劇と、次回記事ではアメリカ開拓時代のインデアンの殺戮の歴史を掲載する。
小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主は北条氏政。関東を支配ししていたのがその弟の氏照。武田信玄に攻められ苦戦した滝山城から山中の八王子城へ移ったのが1586年。しかしその4年後の天正18年、1590年6月23日に落城。
八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍である。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させた。生き残った家臣、婦女子は主殿裏の滝の上で自害し滝壺へ飛び込んだという。滝壺から続く谷川は血で三日三晩赤く染まったと言い伝えられている。
八王子城が落ちた6月23日は城主の氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因という。
生き残った捕虜は小田原の秀吉のもとへ送られ、7月7日の小田原城の開城後、7月11日の氏政と氏照の切腹と前後して極刑を科せられたという。
天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年である。八王子城のような悲劇は各地で起きた。
日本人と日本人が殺しあう。そんな時代がつい明治維新後の西南戦争まで当たり前であった。歴史を忘れる者は同じ過ちを繰り返すという。住んでいる場所の近くで起きた悲劇なら忘れ難いと思い、今日は八王子城跡を静かに歩いてきた。針葉樹に囲まれた暗い谷間に雪道が寂寥として続いていた。
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撮影日時;2月19日午前11時ー12時、
撮影場所、八王子市城山東斜面の八王子城主殿跡付近(尚、本丸は主殿うしろの城山山頂にあり、徒歩40分かかる)
東京都内から車で行く場合;中央高速道、八王子ICを出て16号線を甲州街道20号線まで行き右折し20号線をJR高尾駅手前の町田街道を右折。間もなく八王子霊園方面へ左折し中央高速道の下をくぐればすぐ左折。案内板にしたがって800メートル上ると八王子城跡専用無料駐車場がある。JR中央線で行く場合は終点の高尾駅下車、北口からバスがあるが、よく調べてから行く必要がある。(以上)
山梨県北杜市営の白州名水公園内の「尾白の湯」をご紹介したい。野天風呂と内湯の両方から雄大な八ヶ岳の眺望が楽しめるような設計になっている。
建物全体がゆったりした1階建てで広くて清潔なロビー、食堂、休憩室、などがある。
温泉は地下1000メートルから湧き出すフォッサマグマの湯。源泉は酸化鉄を多量に含む赤褐色。源泉そのままの湯は2つある野天風呂の右側にある。幾つもある他の湯船へは、この源泉を白州の名水で薄めたものを使っている。
尾白の湯のある白州名水公園にはレストラン、オートキャンプ場、川遊び場、森林散策路などがそろっていて夏には多くの家族づれで賑わっている。
近くに同じ泉質で、鳳凰三山の眺望を楽しめる露天風呂のある市営「武川の湯」もある。
ただし、建物や周りの敷地は尾白の湯に比較すると少し小さい。
尾白の湯の料金は700円。休館日は年末年始・火曜日休館(火曜日祝祭日の場合翌日)
交通:東京から約140Km,中央高速道路を使うと約2時間である。道順は中央高速の韮崎ICを出て甲州街道に出る。(ETC通勤割引を使うと八王子ー韮崎間の高速料金2700円が1350円になる。次の須玉ICを出ると100Km以上の距離になりETC通勤半額割引が使えなくなる)
甲州街道を西北方向へ行くと韮崎市を出て北杜市、武川町に入る。
牧原交差点を左折すれば武川の湯、そのまま直進し白須地区に入り「白州道の駅」の手前のJA前の交差点を左折。あとは看板に従って道なりに行く。正面の甲斐駒の方向へ少し上る。
撮影場所;山梨県北杜市白州町白州名水公園、 撮影日時;2月15日午後2時ー3時