白崎謙太郎著「日本ヨット史」と渡辺修治著「どんがめ物語」の内容を紹介した記事を合計8回連載して来ました。戦前、戦後の日本のヨット史に直接関係する記事は以下の5編です。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース
渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(4)我が国での外洋ヨットレースを確立する
この連載の目的は日本のヨットの趣味がどのような経緯で始まり、どのように広がって行ったかを明らかにする事でした。
明治維新から大正時代の関東大震災までは横濱や神戸に住んで居た外国人が盛んにヨットレースを楽しんでいました。しかし日本人は興味を示さず、日本人の趣味にはなりませんでした。
関東大震災で横濱港が壊滅すると外人が一斉に帰国します。昭和になり日本の軍国主義が優勢になるに従って外人が引きあげて行きます。これで日本にあった外人のヨットクラブも無くなります。しかし昭和11年のベルリンオリンピックの前からオリンピックに刺激されたヨット趣味が次第に広がります。日本はベルリンオリンピックへヨット選手の代表団を派遣します。結果は惨敗でした。
一方、日本の初めての外洋ヨットレースは昭和12年に大島廻航コースで開催されます。しかしそのヨットの趣味は満州事変、上海事変、真珠湾攻撃と続く戦争で途絶してしまいます。
敗戦後、進駐して来たアメリカ軍将校がヨット趣味を日本人へ教えます。クルーザーヨットの設計方法と建造技術を日本人へ教えたのです。
その上、性能の違うヨットが同じコースのレースに出場する場合のハンディキャップの精密な計算方法を教えてくれたのです。
それが土台になり日本に初めて日本人の運営による全日本ヨット協会や日本オーシャンレーシングクラブの基盤が充実したのです。全日本ヨット協会は一応戦前からありましたが、戦後に学生ヨットレースの隆盛で運営基盤が確立したのです。日本オーシャンレーシングクラブは進駐軍将校の指導で日本人の手によって作られたのです。
朝鮮戦争やベトナム戦争で日本の経済が高度成長するに従って、ヤマハという会社が小型ヨットだけでなくクルーザーヨットの大量製造に乗り出すのです。
これで日本人のヨット趣味が一挙に拡大したのです。1990年頃のバブル経済の崩壊までは拡大を続けたのです。しかしそこをピークにして、ヨット趣味は次第に勢いを失い始めるのです。
ヤマハは明治30年に創業された楽器製造会社です。それが次第に他の業種へ展開し、オートバイから漁船に至るまで広い分野の製品を生産している会社です。品質が高く、比較的廉価なのでその製品は世界中へ輸出されています。
私もYAMAHA-19という小型のクルーザーに10年間乗っていました。復元力が大きくてセイルと船体のバランスが良く、信頼出来るヨットでした。金具類は絶対に故障しない品質です。勿論、水は一滴も漏りません。エンジンはヤマハの船外機でしたが一度も故障をしたことがありません。
たった一つの欠点は、製品が何故か優等生のようで、面白みに欠けるのです。欠点が無さ過ぎて、なにか魅力的な船ではないのです。完璧過ぎる秀才を相手にしているようで、本物のクルーザーではないような気分になるのです。その後、アメリカの26フィートのクルーザーに13年間乗りましたが、ヤマハー19との違いが興味深いのです。あちこちに欠点のあるクルーザーなのですが、その欠点のせいで面白くなるのです。
ヤマハとかヤマハ発動機というキーワードで検索すると詳しい情報があります。
ある一つの会社が日本の音楽趣味やオートバイ趣味やヨットの趣味の拡大に大きな 貢献をしたのです。業務内容がとても面白い会社です。以下に本業のピアノとヨットやモーターボートの写真を掲載します。
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昨日の、森林の伐採をあなたはどのようにお考えですか? という記事について林業専門家からの貴重なご意見を頂きましたので以下に全文をご紹介致します。私の訂正すべき事は伐採の広さが素人の大雑把な堪で2km四方と書きましたが1km四方のような気が致します。済みませんでした。それ以外は正しいと思います。
======saboさんからのコメント==========
初めまして。私は別の地域で林業に携わっています。(ので、ほとんど存在しないと言われるとちょっと…)
さて、松の丸太以外は打ち捨ててあるという状況は写真からは判然としませんが、
ごく普通の作業現場に見えます。(アカマツですかねー)面積については2km四方つまり400haというのならそれはとんでもない話です。そんな大面積を皆伐するという点、その昔人力でそんな大面積に単一樹種を植えたという点、両方からとんでもないです。東京ドーム85個分ですからね。ただ、残っている木を見る限り、手入れ不足で手遅れの木、つまりあとは枯れるのを待つだけの木に見えます(2枚目の写真は特に)。
完全に枯れる前に手を入れて、再植する費用を捻出するというのならば、そう悪い考えではないと思います。これだけ平らなところを400haもやれば十分収益が上がるでしょうし。ところで、山ツツジもコブシもウツギもヤマザクラも明るいところを好む陽樹です。鬱蒼とした森林の中では生育できません。ゆっくり枯れていき姿を消します。
雉も野ウサギもカヤネズミも草原を好みます。モリアオガエルについては4~7月の産卵期に水を濁すようなことをしなければ絶滅するような大きな被害は出ないでしょう。
そして昆虫、は虫類、両生類、動物類は移動できます。あるいは近年、クマタカをはじめとして猛禽類の減少が問題となっていますが、この原因として伐採(皆伐)を行わなくなったために草原(植栽後の幼齢の森林)が減り、えさとなるウサギやネズミを捕獲できなくなったことが一因として挙げられています。伐採跡地というのは美しくないかもしれません。しかし、2枚目の写真にある枝を積み重ねたところなどはネズミやウサギのすみかです。彼らにとっては好ましい環境なのです。
物事にはいろんな側面があります。ですから、必ずしも森林が地方都市の持ち物であるとは限らないですし、費用が役所から出てるとも限りません。ましてや、経済的に成り立たないとまで言われている林業で地元の人が潤うのでしょうか。もし役所がやってる仕事ならば(私も詳しくはないですが)法廷受託事務における行政の不作為と言えるかもしれません。行政審査という文句が言えます。
先ほど述べたように動物は移動できますので、山で食べるものが減れば畑の作物を食べるために今までより多く出てくることになるでしょう。先ほど述べたとおり、物事にはいろんな側面がありますから、八方良いことだけってことはほとんどないでしょう。また、成り立たない産業に3年毎の細やかな手入れを求めるのも酷な話です。
もちろん私も400ha一斉皆伐することが正しいとは思っていませんが、手入れをできないから手をつけないというよりかは、こんな最低限の形ででも手入れができるならするに越したことはないです。なんだか反論ばかりになってしまいましたけどもご容赦ください。追伸
>>日本の林業は安い輸入材のおかげで経済的に成り立ちません。これも本当にいろんな側面があります。(国産材の質、日本の住宅需要などなど)。あと、近年は(実質的なものも含め)諸外国の丸太禁輸政策により国産材の利用率は高くなってきています。投稿 sabo | 2011/12/28 19:14
====これに関連したyuyuさんからのコメント========
森林を木材を得るための対象とだけするだけでは、確かに、海外の安価なものに価格面で太刀打ちが出来ないのだと思います。これまでに増改築を含めて普請を何度もした経験で申しますと外材は価格が示す通りの問題があるものばかりです。南洋材の短期に成長した材質の脆さ、北洋材の米松なども国内の松とは比較にならない弱さを持っています。不況の間接的な影響もありますが、低価格のみに拘り、耐久性を考慮すれば寧ろ値打ちな国産材を認識すべきなのです。
建築中に経験したのは、背の届かない高さの作業を職人がする場合に、材木の足場を使うのですが、日本材で今まで行ってきた作業をすると突然、太い木材が人の重みに耐えられず折れてしまうのです。棟梁は「北洋材は油気が足りないのです」といいます。安くて当然です。
下草刈りと混んだ樹木の間引きと言う、森林を守る基礎の作業の手抜きが成長を阻害し、良い材木が育たないという悪循環となったいるのでしょうか。三Kとかと称していやな仕事を敬遠する日本人が山仕事に従事する人を激減させていると思います。若者が全て、高学歴のホワイトカラー族ばかりになっているのが今の日本ではないでしょうか。檜や松や杉も密集してしまっては、成長のしようがなくなってしまいます。写真の松林でも、全部を切り倒すのではなく、間引きすることで残った樹木が利用できる太さに生長するのではないかと思います。自然を破壊して山保水力をなくした結果、土石流や洪水を起こしているのだと思います。国有林も地方の森林も有効利用に知恵を使って欲しいですね。投稿 yuyu | 2011/12/28 15:31
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初めのご意見は林業専門家としての御意見ですが、後のコメントは木材の利用者の立場の方のご意見です。
日本産の材木の良さが分かり大変参考になりました。