巨星墜つ。中曾根康弘氏が旅立ちました。
今日の新聞は中曾根元総理の死を悼み政治家としての偉大な功績を讃える記事で埋めつくされています。
私は昔から高い見識があり国際感覚に優れた中曽根さんを尊敬していました。彼は海軍で学んだ戦略の重要性を政治に生かし日本の復興と経済の高度成長に大きな貢献をしたのです。
ロン-ヤス関係を築き日米関係を盤石にしました。総理就任後すぐに韓国を訪問し韓国語で演説し日韓友好を推進します。
中国の胡耀邦主席と親友になり、彼のために靖国神社参拝を止めました。胡耀邦主席との友情のために止めたのです。こうして日中友好を守ったのです。
戦後日本の偉大な政治家を3人上げれば吉田茂と中曾根康弘がまず上がります。3人目は佐藤栄作か田中角栄でしょう。
この様に私は中曾根さんを尊敬していたので彼の別荘だった「日の出山荘」を2008年10月15日に訪れました。
この山荘は東京都日の出町の山中にあります。ここで1983年、中曽根首相とレーガン大統領が会談したのです。
日の出山荘などと風流な名前をつけていますが、実に質素な2間だけの別荘です。
江戸時代末期か明治時代に立てられたような家で、材木があまり良くないのです。
昔はガラス戸の代わりに雨戸が付いていて奥の座敷だけ畳だった様子です。真ん中の大きな部屋で1983年に日米会談をしたのです。
中曽根さんは、よくこんな山中の粗末別荘へレーガンさんを連れてきたものだと感心しました。
しかし彼は堂々とした態度で抹茶をたて大統領夫妻を迎えています。昼食も幕の内弁当のようなものを楽し気に食べています。そして長時間2人で会談をしたそうです。
その山荘の隣には「書院」と称する大きな建物があり中曽根さんの一生の間の華々しい政治活動の様子の写真が多数展示してあります。
展示してある写真を見て廻ると、それぞれの時代の日本の社会の雰囲気を思い出します。それは高度成長期で騒然とはしていましたが、皆が活き活きとしていた時代でした。
私どもが訪問した時に撮った写真をお送りします。
この日の出町が管理している「日の出山荘」では以下のように献花台と記帳台が用意してあります。
山荘内青雲堂前に献花台及び記帳台を11月30日(土)から12月13日(金)まで設置します。そしてこの期間は日の出山荘の入館料は無料となっています。
皆様の記帳は後程、日の出町の町長が中曽根家へ持参するそうです。
この山荘の場所は五日市市と青梅市を結ぶ秋川街道から山中へ2Kmくらい入ったところで、分かり難い山間にあります。
HPなどで地図を確かめてから行かれますことをお勧めします。HP:http://www.town.hinode.tokyo.jp/sansou/index.html
中曽根さんのものの考え方は1941年から1945年の海軍時代に出来た部分が大きいようですので末尾にその資料をつけました。
中曾根康弘元総理のご冥福を心からお祈り申し上げます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===海軍時代の中曽根============
内務省に1941年入省後すぐに短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官。同年8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される。高知県の土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた。
同年11月20日、第二設営班班員に補職 。11月26日に広島県呉市の呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着。同鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。
11月29日、輸送船団は出発。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、親分(中曽根)・子分(古田)の関係となって人心掌握に努めた。
同年12月8日の太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸する。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた。
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内にオランダとイギリスの駆逐艦および潜水艦が突入してくる。こちらには軽巡洋艦「神通」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。
「
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
以下省略。 詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/中曽根康弘 をご覧下さい。
今日の新聞は中曾根元総理の死を悼み政治家としての偉大な功績を讃える記事で埋めつくされています。
私は昔から高い見識があり国際感覚に優れた中曽根さんを尊敬していました。彼は海軍で学んだ戦略の重要性を政治に生かし日本の復興と経済の高度成長に大きな貢献をしたのです。
ロン-ヤス関係を築き日米関係を盤石にしました。総理就任後すぐに韓国を訪問し韓国語で演説し日韓友好を推進します。
中国の胡耀邦主席と親友になり、彼のために靖国神社参拝を止めました。胡耀邦主席との友情のために止めたのです。こうして日中友好を守ったのです。
戦後日本の偉大な政治家を3人上げれば吉田茂と中曾根康弘がまず上がります。3人目は佐藤栄作か田中角栄でしょう。
この様に私は中曾根さんを尊敬していたので彼の別荘だった「日の出山荘」を2008年10月15日に訪れました。
この山荘は東京都日の出町の山中にあります。ここで1983年、中曽根首相とレーガン大統領が会談したのです。
日の出山荘などと風流な名前をつけていますが、実に質素な2間だけの別荘です。
江戸時代末期か明治時代に立てられたような家で、材木があまり良くないのです。
昔はガラス戸の代わりに雨戸が付いていて奥の座敷だけ畳だった様子です。真ん中の大きな部屋で1983年に日米会談をしたのです。
中曽根さんは、よくこんな山中の粗末別荘へレーガンさんを連れてきたものだと感心しました。
しかし彼は堂々とした態度で抹茶をたて大統領夫妻を迎えています。昼食も幕の内弁当のようなものを楽し気に食べています。そして長時間2人で会談をしたそうです。
その山荘の隣には「書院」と称する大きな建物があり中曽根さんの一生の間の華々しい政治活動の様子の写真が多数展示してあります。
展示してある写真を見て廻ると、それぞれの時代の日本の社会の雰囲気を思い出します。それは高度成長期で騒然とはしていましたが、皆が活き活きとしていた時代でした。
私どもが訪問した時に撮った写真をお送りします。
この日の出町が管理している「日の出山荘」では以下のように献花台と記帳台が用意してあります。
山荘内青雲堂前に献花台及び記帳台を11月30日(土)から12月13日(金)まで設置します。そしてこの期間は日の出山荘の入館料は無料となっています。
皆様の記帳は後程、日の出町の町長が中曽根家へ持参するそうです。
この山荘の場所は五日市市と青梅市を結ぶ秋川街道から山中へ2Kmくらい入ったところで、分かり難い山間にあります。
HPなどで地図を確かめてから行かれますことをお勧めします。HP:http://www.town.hinode.tokyo.jp/sansou/index.html
中曽根さんのものの考え方は1941年から1945年の海軍時代に出来た部分が大きいようですので末尾にその資料をつけました。
中曾根康弘元総理のご冥福を心からお祈り申し上げます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===海軍時代の中曽根============
内務省に1941年入省後すぐに短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官。同年8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される。高知県の土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた。
同年11月20日、第二設営班班員に補職 。11月26日に広島県呉市の呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着。同鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。
11月29日、輸送船団は出発。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、親分(中曽根)・子分(古田)の関係となって人心掌握に努めた。
同年12月8日の太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸する。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた。
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内にオランダとイギリスの駆逐艦および潜水艦が突入してくる。こちらには軽巡洋艦「神通」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。
「
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
以下省略。 詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/中曽根康弘 をご覧下さい。