後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出を書きたいと思います。私は愛宕中学校をを1951年に卒業しました。
それそれから61年目の2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。 若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。 今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。2回生は全部で350人でした。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。 その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私でした。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。

 まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。 君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。

 内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。 今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

 有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。 何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。 

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。 満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。 大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。 

村木良彦君。きみは10年以上前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。 テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な番組を沢山つくりましたね。 仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。 仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無かったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を前に掲載しましたよ。 

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。 その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。 そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。 早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。

その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。 今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。 そして亡くなったことも知らないもっと多くの愛宕中学校の2回生の方々の冥福をお祈りいたします。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。 

1番目の写真は愛宕橋の上から広瀬川の下流を見た風景です。はるか向こうに宮沢橋が見えています。 そして2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会があったのです。そして皆、77歳の喜寿になったので、今回をもって最後の同窓会にするというのです。 幹事長は懐かしい杉下成美君です。野球やバレーボールが上手だった彼の顔を鮮明に記憶しています。 私はこの最後の同窓会に出席してきました。 
2番目の写真は2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会の出席者です。
今日は「愛宕中学校の友人たちの思い出」をお送り致しました。





「年老いて懐かしい仙台一高のこと」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて懐かしく思うのは昔卒業した仙台一高でのいろいなことです。
私は昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な仙台市立愛宕中学校から古い雰囲気の宮城県立の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高の思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「老人になると昔の高校時代の友人がやたら懐かしく思う」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
老人になると昔のことがやたら懐かしく思うものです。
今日は高校時代の友人の思い出を書きたいと思います。面白くないと思いますが、まあ一読してみてください。
私は仙台一高を卒業しました。その高校時代に2人の友人がいましいた。
一人の友人は野田君と言いました。彼はフルートを吹いていました。戦後のバラック建ての暗い彼の家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。母子家庭だった彼の母は働いていたので家にはいつも誰もいませんでした。
フルートの曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」だと言います。
野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。その野田君とは高校卒業以来二度と会えません。消息不明なのです。
どんな人生を送ったのでしょうか。「トッカータとフーガ」のオルガン曲を聞くたびに野田君の事を思い出します。暗いバラック建ての家に響いたフルートの音をありありと思い出すのです。

もうひとりの友人は皆川君です。彼はフランスの象徴詩を読んでいました。当時大学生のあいだに流行っていた象徴詩です。彼は私に装丁の立派な象徴詩の本を一冊手渡して読んで見ろと言います。そしてその本を友情のしるしとして贈呈すると言うのです。そんなキザな言い方が似合ったハイカラな雰囲気の少年でした。
彼は私に象徴詩を読む楽しさを教えようとしたのでしょう。彼の赤みがかった髪がちぢれていてロシア人のような風貌をしていました。背丈も高くなんとなくヨーロッパ文化を連想させる雰囲気を持っていました。
高校卒業以来消息が分かりません。私の本棚には彼のくれた装丁の立派な象徴詩の本が一冊長い間残っていました。この記事を書くために2階の書棚を丁寧に見ましたが、このフランスの象徴詩集はもう見つかりませんでた。
時々この本の事を思い出し、彼の人生安らかなれと祈っています。

こうして老境に高校時代のことをもう一度考えなおして見ると、それは自分にとって楽しい青春の一こまだったことに気がついたのです。
別離の悲しみも思い出しますが、その別離も懐かしい美しい思い出になりました。

今日の挿し絵代わりの写真は大好きな箱根の彫刻の森で撮った風景写真です。このような彫刻の間をゆっくり散歩しながら野田君と皆川君のことを思い出していたのです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の神社信仰の風景」

2025年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本人と神社とのかかわりについてスケッチ風に簡単に描いてみたいと思っています。
神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、もろもろの神様や偉い人達がご神体として祀ってあります。家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。
多くの日本人は神社を遊び場にして育ったと思います。家内安全を祈った場所でした。この様な場所を持っている日本人は幸せだと思います。
このように日本人と神社や神道とのかかわりは軽やかで一見重要でないようにも見えます。
しかし神社や神道は日本民族の基底にある独特な文化の一部なのです。
以下では数多くの神社の写真と富士山信仰の宗教的な登山の風景写真を掲載します。
神社の写真は九州の祐徳稲荷神社と京都の賀茂別雷神社と北海道の札幌稲荷神社の写真です。
祐徳稲荷神社は何年か以前に行きましたが日本一豪華な神社です。神主さんたちが沢山いました。とても子供が境内で野球をして遊べるような雰囲気ではありませんでした。故郷の神主さんがいない質素な神社を懐かしく思い出しました。

1番目の写真は日本一豪華な九州の祐徳稲荷神社です。

2番目の写真は京都の賀茂別雷神社です。賀茂別雷神社の写真の出典は、http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005602.html です。

3番目の写真は北海道の札幌の伏見稲荷神社です。

4番目の写真は富士山の宗教的登山の風景写真です。出典は、http://www.fusokyo.org/activity.html です。
さてこの4番目の写真の富士山の宗教的登山の風景は珍しいと思いますので、少し説明を加えておきます。
富士山の宗教的登山とは富士山を神と信じ、富士山へ登ることです。登れば神のふところに抱かれて、神と自分が一体になるのです。自分の人間としての汚さを洗い流してくれるのです。「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら杖をつき、白い装束で一列になって登るのです。
それは深い宗教的な境地なのです。
このように神と自分の合体感を得る体験はどんな宗教でも重要な事としています。

5番目の写真は近所にある小金井の稲穂神社です。近所なのでよく行きます。

今日は日本人と神社とのかかわりについて簡単に描いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の仏教の無力さを示す太平洋戦争と私自身の仏教体験」

2025年02月27日 | ブログ
日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり 、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。
一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。
このような仏教国の日本が真珠湾攻撃をし太平洋戦争でアメリカと熾烈な戦争をしたのです。日本の仏教の無力さを示したのです。
以下は、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いたものです。私自身の仏教体験です。

1番目の写真は私の故郷の仙台市にある大きな観音像です。
さて私の父方の祖父は兵庫県のの村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。

2番目の写真は曹洞宗の正林寺の石碑と鐘楼です。
正林寺は石垣の上の高台にありました、その高台の下には農家の集落が広がっていました。毎年、夏になるとお盆には施餓鬼供養という一大イベントがあります。

3番目の写真は施餓鬼供養でお経を唱えている住職さんです。

4番目の写真は施餓鬼供養に参列している人々の様子です。
お寺での施餓鬼供養が終わると、叔父の住職さんと一緒に私も檀家まわりをします。村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
私はこうした宗教的体験をしたのです。この体験がその後の私の宗教感に深い影響を与えたのです。
現在、私はカトリックの信者です。私は大人になってからカトリックのことを知りました。そして洗礼を受けました。この時、小さな頃にした宗教的な体験が非常に役立っていたと感じました。
私はお釈迦様を尊敬しています。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師も大好きです。お遍路さんを尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「キリスト教の無力さを示すウクライナの戦乱」

2025年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナもロシアもキリスト教国です。キリスト教の正教という同じ宗派です。
そこで今日はキリスト教の無力さを示すウクライナの戦乱を書いてみたいと思います。キリスト教の無力さを考えてみたいと思います。
ウクライナの宗教は、東方正教会(ロシア正教)72%、東方典礼カトリック教会(ロシア正教の礼式でカトリックを受容)14.1%、プロテスタント2.4%、カトリック1.7%、イスラム教0.6%、ユダヤ教0.2%、その他9%となりました。2003年の統計です。
ですからウクライナ人の大部分、90%以上はロシア正教を信じているのです。「汝殺すなかれ」と教えるキリスト教を信じているのです。
ウクライナとロシアの教会の写真を示します。
1番目の写真はウクライナのキエフにある聖ヴォロディームィル大聖堂です。。
2番目の写真はモスクワにあるロシア正教会の総本山、救世主ハリストス大聖堂です。
さてロシア正教の歴史です。ロシアには東ローマ帝国からキリスト教が伝えられ、正教会が多くの信徒を獲得しました。そしてピョートル大帝の時代には正教会に対する国家管理が強化されました。
一方、プロテスタント教会は西欧との接触により15世紀以降ほとんどすべての教派がロシアへ入ってきました。そしてルター派やペンテコステ派も存在しています。
何故ロシアは同じキリスト教のウクライナへ武力侵攻をしたのでしょうか?何故殺し合いを続けているのでしょうか?
キリスト教の無力さを露呈しているのです。
そこで私の宗教的な体験を書いてみたいと思います。体験してわかったキリスト教の無力さです。
私はカトリック教徒です。ところがドイツに住んで、ドイツの教会のミサに何度も出るという体験をしてみるといろいろな事が分かりました。
多くのドイツ人は口角泡を飛ばしながら大声で議論するのが好きです。そんな印象を持っていた私が一番驚いたことは彼らが教会に来ると「青菜に塩」という様子で静かに頭を下げ、いろいろと反省している様子なのです。この光景を見て私はドイツ人に人間としての親近感を感じたのです。
それで気がついたのですがキリスト教国にも信心の篤い人もいるし、全然信仰心の無い人もいることです。
戦争になると彼等は平気で教会を破壊します。教会には銃撃戦の弾の跡が残っているのです。同じことをロシアはウクライナでしているのでしょう。
多くのウクライナ人もロシア人も習慣としてクリスマスや復活祭にだけ教会に行く場合もあります。
これが西洋の文化の基底をなすのがキリスト教の実態なのです。
ウクライナ人もロシア人も同じ人間です。彼らも日本人と同じように良いこともしますが悪いこともします。
仏教に輝きがあるようにキリスト教も輝いています。しかし戦争が起きてしまうと闇の世界になります。
もう一つ私がつくづくが感じることは欧米の教会が立派なことです。立派過ぎて圧倒され、威圧感を感じることもあります。
ケルンの大聖堂と中で祈っている人々の写真を示します。私はこの様に巨大な教会には威圧感を感じ、好きになれません。しかし中で祈っている人々の様子を見ると親近感を感じるのです。
このケルン教会の教区の人々は戦後すぐに疲弊した日本のカトリックの東京大司教区を経済的に援助してくれたのです。敗戦で自分たちが苦しいのに東京大司教区を助けてくらたのです。
ですから私共のカトリック教会には「ケルン・ディー」といものがあり、毎年感謝の祈りを捧げます。こんな事情で現在、私はケルンの教会を感謝の気持ちでも見守っています。

ロシアのウクライナへの武力侵攻とミサイル攻撃はキリスト教の無力さを証明してます。しかしロシア人にもキリストの教えを思い出してもらいたいのです。ウクライナ人もロシア人もキリストの教えを思い出して一刻も早く平和になるように祈っています。

今日はロシアもウクライナもキリスト教の同じ宗派の正教の国であること説明しました。そして同じ宗教を信じているのに何故ロシアが武力侵攻し、さらにミサイル攻撃を続けているか書きました。それこそがキリスト教の無力さを証明です。しかし私は一刻も早く平和になるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「世界に現存する唯一の野生馬の、モウコノウマ」

2025年02月26日 | 写真
野生馬は、1878年にロシアの地理学者・探検家ニコライ・プルジェワリスキー(1839~1888年)によって発見されたが、1960年代後半までにほぼ絶滅した。その理由は、1944~1945 年の極めて厳しい冬で、生息数が激減したせいです。
 現存するはすべて、当時世界各国の動物園や自然保護区に残っていた野生馬の子孫のです。
モウコノウマは、ロシア版レッドブックおよび国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストに記載されています。
世界のいくつかの国では生息数回復の取り組みがなされています。 
その結果、ロシアのオレンブルク草原では2018年に最初の子孫が誕生し、現在、当地の馬の数は約100頭に増えています。(https://jp.gw2ru.com/travel/216606-przewalski-roshia-yasei-uma )
そのモウコノウマの写真を示します。


「木曽馬の開田高原への小さな旅」

2025年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
以前に木曽の開田高原に1泊2日の小さな旅をしました。
この旅のテーマは日本在来種の木曽馬をたずねることです。
木曽福島の関所跡から御嶽山の麓を西に登った広い開田高原には木曽馬の放牧場があるのです。気性の優しい働き者の小型の馬が群れ遊んでいます。元気に走り回っている馬もいます。今年生まれた子馬が母親と並んで歩いています。嗚呼、はるばる来て良かったなと感じる光景でした。
山下家の加村金正さんが詳しく木曽馬の飼育方法、馬市へ出す時の家族との別れのことなどを話してくれました。山下家は代々、多数の馬を農家に預け、飼育して貰い馬市へ出していたそうです。馬の売上金の四分の一だけを飼い主へ与え、四分の三は山下家のものにしていたそうです。その一番盛んな頃は毎年300頭の馬を馬市へ出していたといいます。
それでは撮ってきた写真を示します。
1番目の写真は「木曽馬の里」という牧場です。白樺林の前の放牧場に木曽馬が群れている様子は如何にも高原の牧場の風景です。
2番目の写真は木曽馬が放牧場を駆けている姿です。木曽馬は走り回るのが好きで草を食べるとすぐに走りまわる馬がいます。ところが走らないで悠々としている馬もいます。性格がいろいろで面白いのです。
3番目の写真は遠方の放牧場から帰ってきた親子の馬です。子馬が遊びすぎて疲れた様子でトボトボ歩いています。
4番目の写真は親子の馬を一緒に馬屋の部屋に入れている場面です。自分の家に帰れてホッとしているようです。

多数の木曽馬を馬市に出していた山下家は長野県指定の重要文化財になっています。入場料を払うと広い家の中の展示品を見ることが出来ます。
庭にある長い蔵の中には旧石器時代の石器や縄文土器が多数展示してあります。開田高原には2万年前の旧跡時代とそれに続く縄文時代から人が住んでいたのです。

このように自分で車を運転して旅をすると日本は意外に広いと感じます。そしてそれぞれの地方には独特な雰囲気と文化が息づいていることに気がつきます。地方には地方の歴史があることを改めて発見して驚きます。

そして何処に行っても旧石器時代の石器や縄文土器が発掘されていることに驚きます。日本は本当に広く長い歴史を持っている邦なのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「人と馬が遊んでいる写真」

2025年02月26日 | 写真
埼玉県の新座乗馬クラブは雑木林に隣接した広い乗馬クラブです。人と馬が遊んでいる様子を見るとくつろいぎます。
3枚の写真は女の人が馬と遊んでいる風景です。馬が楽しそうに走り回っていました。
 なお新座乗馬クラブの詳細は、http://nojimagroup.sakura.ne.jp/jouba.htm に出ています。
新座乗馬クラブの動画も是非ご覧下さい。https://www.youtube.com/watch?v=SqD2Lns6Agg にあります。


「人と馬との絆を楽しむ八王子乗馬倶楽部の写真」

2025年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
乗馬クラブのことを書きたいと思います。
乗馬クラブは北海道から沖縄県まで数多くあります。乗馬クラブの良いことは会費さえ納めれば、老若男女、誰でも馬に気軽に乗れることです。その上、多くの乗馬クラブでは乗馬する人に馬の世話をさせます。すると人と馬の絆が深まり乗馬する人の意思のままに馬が言うことを聞くようになるのです。こうして乗馬クラブでは単に乗るだけでなく、人と馬との温かい絆を楽しむことが出来るのです。
以前に八王子乗馬倶楽部に行って写真を撮って来ました。撮った写真をお送りいたします。
1番目の写真は乗馬初心者の若い女子の写真です。姿勢が悪く、数分見ていると鞍にしがみ付くような行動をしていました。
2番目の写真はかなり上達した女子の写真です。姿勢が良く馬を好きなように走らせています。自分の膝を折り上下の揺れに対してクッションをきかせています。
3番目の写真は初心者の男性の写真です。体が棒状になっています。これでは馬が気持ちよく走れません。
4番目の写真は裏の馬小屋の風景です。大型の乗馬用の馬が出払っていてポニーだけが退屈そうにしています。
5番目の写真はポニー専用の馬場で走り回る調教後に休んでいたポニーです。
写真を撮りに行った家内に甘えようと近づいてきます。それを女性の調教師がポニーを押し止めている場面です。家内と調教師が何やら親しげに話し合っていました。ポニーはもう20歳ですがとても元気で子供が大好きということです。

さて八王子乗馬倶楽部は東京都八王子市丹木野町1-501にあります。馬が約70頭いるそうです。この乗馬クラブの正会員になるには、入会金35万円と毎月の会費1万円かかります。その上更に乗馬する度に5000円かかります。少し高額に思いますがゴルフ場の会員金やヨットをマリーナに係留する場合の年間係留料金に比べると格安とも思えます。
さらに低額なプランもあります。平日だけ6ケ月だけ乗馬する場合は、入会金6万円と毎月の会費1万円と乗馬する度に5000円だけ払えば良いのです。
詳細は次のホームページ、http://www.hachioji-rc.co.jp にあります。
さて全国にある数多くの乗馬クラブの入会金、毎月の会費、騎乗料金は八王子乗馬倶楽部とほぼ同じです。ただ東京の明治神宮のそばにある東京乗馬倶楽部だけは格段に高いようです。

最後に全国の乗馬クラブの一覧の出ている資料をご紹介しておきます。
それは、https://www.jouba.jrao.ne.jp/wp/club/ で全国の都道府県別に詳しい情報が掲載してあります。例えば北海道には20以上の乗馬クラブがあり、南の果ての沖縄県には2つしか無いことが分ります。
ご自分のお住まいになっている都道府県の乗馬クラブを調べると面白いと存じます。暇と興味があれば見学に行くもの楽しいと存じます。

今日は八王子乗馬倶楽部のご紹介をし、あわせて全国の乗馬クラブのご案内を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根は東京から2時間以内に行ける観光地です。小田急のロマンスカーだけでなく新幹線の小田原駅乗換えで湯本や強羅に簡単に行けます。湯本から芦ノ湖、仙石原、宮ノ下、大涌谷などなどへは頻繁にバスやケーブルカーが出ていて交通が至極便利に出来ています。勿論、車で行っても便利です。
自然の中の散策が好きなら芦ノ湖畔の遊歩道や仙石原の広大なススキ原があります。そして仙石原には魅力的な湿性植物園があります。
東海道の歴史に興味のある人のためには箱根の関所の建物が精巧に復元されています。往時の杉並木もあります。
芸術の好きな人のためには箱根彫刻の森美術館やポーラ美術館や成川美術館や岡田美術館があります。
ヨーロッパの香りがする工芸品の展示場として箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館もあります。
そして星の王子さまミュージアムもあります。
これら全てをご紹介するわけにはいきませんので、今日は気楽に楽しめる箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館だけを簡単にご紹介したいと思います。

この2つは近くにあります。共にヨーロッパの工芸品が展示してあります。敷地全体に散在する建物が古いヨーロッパの街のような雰囲気をかもしだしているのです。古い町を散歩しながら昔の工芸品を見て楽しめるのです。
箱根ガラスの森美術館はヴェネチアのガラス工芸の美を集めた美術館です。なにか世紀末の退廃への道行きを暗示するような展示物が丁寧に蒐集されてあります。
以前訪れた時の写真でまず箱根ガラスの森美術館の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は箱根ガラスの森美術館の園内の風景をカフェの階段の上から撮った風景です。向かいの建物はヨーロッパのガラス細工のお土産店です。

2番目の写真は園内の散歩道を3人の家族連れが楽しそうに歩いている風景です。

3番目の写真は園内にあるヴェネチアのガラス工芸品の展示場の建物です。

4番目の写真はヴェネチアのガラス工芸品の展示場の内部の様子です。愚妻が楽しそうにしています。

次に箱根ラリック美術館をご紹介します。
ルネ・ラリックは20世紀初頭に活躍したフランスのガラス工芸家です。
日常使うガラス食器や花瓶から装身具、室内装飾用のガラス壁の彫刻など、その作品は多種多様です。そのどれもが藝術性を感じさせます。
それらの作品を集めたのが箱根ラリック美術館です。
その上、ルネ・ラリック・ミュージアムにはオリエント急行の車両もあります。
ルネ・ラリックが作った室内の装飾用のガラス壁が見事です。その壁や電燈の笠を展示するために車両ごと日本へ運んで来たのです。
車両内ではコーヒー・紅茶とケーキを楽しみながら寛げます。1929年製の車両でパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。毎月1回はトルコのイスタンブールまで行っていたそうです。
この一輌だけを輸入して船で運んで来ました。下に、サロンカーの写真をお送り致します。

5番目の写真はパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。
鉄道ファンには興味深い車両ではないでしょうか?

6番目の写真はサロンカーの内部です。室内の部屋を仕切る壁にはめ込んだすりガラスの板がラリックの作品です。

7番目の写真はこの車両で使われていた食器です。座席に座り注文するとこんな感じの食器で紅茶とケーキが出て来ます。アガサ・クリスティの映画、「オリエント急行殺人事件」の場面を思い出しながらゆっくり紅茶を喫します。

8番目の写真は手持ちの信号灯です。中にランプの火を入れた当時の実用品です。

このように19世紀末から20世紀初頭にかかてのヨーロッパの文化を楽しめるのが箱根ラリック美術館なのです。
ヨーロッパの香りがする箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館の両方を見ることをお薦めします。2つは近くにある美術館です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)