後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

元朝参りとお賽銭の話の思い出

2008年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃の仙台の愛宕神社の思い出。市街地の南、広瀬川の崖が盛り上がって小高い山になっている。頂上に愛宕神社と虚空蔵堂がある。毎日、朝の5時、夕方の5時に虚空蔵堂の鐘が鳴る。保存緑地なのか、あれから70年にもなる現在も、大木に覆われ緑豊かな愛宕山が新幹線の車窓から見える。

お正月には雪深い階段を登って元朝参りをした。手足が凍えて辛い思いをしたが、厳しかった父が喜ぶので必ず行くことにしていた。父は兵庫県の田舎のお寺の出で、祖父が住職をしていた。その父が、「神社やお寺にいったら少なくてもよいから必ずお賽銭を上げるものだよ」と言っていた。いくら小さなお賽銭でも参詣する人が多いと大きな金額になるのだよ、それに神社やお寺の人にとっては参詣した人の拝む気持ちが分かって嬉しいものだよ、とも教えてくれた。

父は分析化学の研究者として毎晩書斎でタイプを叩きながら論文を書いていた。厳しい父親で子供とは滅多に会話をしない。そんな父が本気で話しかけたのだ。

これが遺言のように心に残り、一生の間、お賽銭を上げてきた。通りがかった村の神社で、ふらりと寄ったお寺で、その上、ヨーロッパの田舎の教会で、とにかくささやかな賽銭を上げてきた。

現在住んでいる土地にも神社やお寺が数多くある。季節の良いころには散歩をしたり、子供や孫をつれて遊ばせたりしている。お正月になると一年間お世話になったお礼の意味も込めてお賽銭をあげに行く。これを「元朝参り」という。

今年は拙いブログをお読み頂いた方々のご健康と幸多きこともお祈りして来たいと思う。

どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。    藤山杜人

                    


海上でヨットの舵が壊れたらどうしますか?(続き)

2008年12月30日 | うんちく・小ネタ

Hoota’s Yacht Life というブログを書いていらっしゃる、hoota さんと友人になり、メールでヨット術の指導を受けています。( http://hoota.blog.so-net.ne.jp/ )

海上でヨットの舵が壊れた場合にはセールをトリミングしながら、舵無しでも帰港できます、というご指導を受けました。霞ヶ浦へ船をだして、自分で試みて見ました。ところが上手くゆきません。2度行って実験しましたが小生のヨット術では出来ないと思いました。その結果をhoota さんへご報告したら、「エマージェンシー・ラダー」の写真を送って下さいました。教えられた通り、材料をいろいろ買ってきて昨日完成しました。

下の写真がそれです。舵と直角に長い棒が固定してありますが、舵が水中でクルクル回転しないようにハルへ止まるようにしました。

自分のヨットにはスターンにプレイデッキが大きく出ているので、その先に自作の舵を取り付ける必要があります。丈夫に取り付けるにはプレイデッキの先端2ケ所に折り曲げた厚い鉄板を引っ掛けて、ワイヤーで前方へ引いて固定するつもりです。

その2本の鉄板の間に舵をロープでゆるく取り付け、テラーが左右に動くように取り付ける予定です。実際にヨットへ行って、アチコチの寸法を正確に測定して、もう一度材料を買いに行くつもりです。そんな手間暇かけることが面白いのです。

暮れの大掃除はなんとかして逃げ回ろうとしましたが、ついに家内に捕まって少し協力しました。しかしヨットのことは手を抜かず、良い仕事をゆっくりします。趣味の楽しみですね。

下の写真にはストーム・ジブが背景に写っています。前のオーナーも一度も使わなかったようです。新品の超小型なジブを揃えて、嵐の中のセイリングを心の中で楽しんでいたのでしょう。

ヨットはいろいろ想像して楽しむことも多い趣味です。(終わり)

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日本が世界に誇れる大旅行家の話

2008年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。

ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。ついこの前の11月24日に長崎の列福式でローマ法王によって福者として認めらた。知らなかった。(しかし遠藤周作の著作には詳しく紹介されていたそうである。)今回の列福式でやっとその名を知ったに過ぎない。

マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族のの助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ想像してみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の旅をした玄蔵法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。

岐部にも玄蔵法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。

大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。

ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。これも岐部の人徳の威力によると筆者は考えている。その後2年して彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船で密かに日本へ帰ってきた。1630年と言われている。

以上が、日本が世界に誇れる大旅行家としての岐部の紹介である。以下は殉教したペトロ岐部司祭の宗教人としての紹介である。宗教に興味のない方には参考にならない部分。

1620年から1622年までローマの修道院で司祭として活動していたが、その間にイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラとザビエルの列聖式に参列する幸運に恵まれている。

ペトロ岐部司祭は大分県に1587年に生まれ、長崎の神学校を卒業し、1614年に徳川家康によって国外追放される。徳川の時代も三代将軍、家光になり、キリシタンの迫害や殉教が一層熾烈になってきた。その時にペトロ岐部司祭は隠れキリシタンの希望と慰めを与えるために日本へ潜入したのだ。

潜入後、9 年間も日本各地を司祭として巡回し、ついに水沢で捕まる。江戸で処刑されるが処刑したときの記録が残っている。「ころびもうさらずのでしょけいした」という意味の文言が見える。処刑した人も気の毒だったと思う。(終わり)

引用文献:http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1822791.html?reload=2008-12-29T20:20:03


亡き人々が心の中で生きている、その(3)ある中学校の同級生のこと

2008年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

年末になると亡くなった恩師、知人、友人の顔や声が心の中によみ返って来る。

その中に中学校時代のある遊び仲間の顔が見える。村木良彦君の顔や声である。

今年の1月に芝の増上寺で葬儀があった。その後でブログへ掲載した記事を再度出して物静かだった村木君へ感謝したい。

======2008年1月29日掲載記事の再掲載です======

「あるテレビマンの死」

村木良彦が死んだ。筆者の中学の同級生である。TBS社から独立し同志3人とともにテレビマンユニオンを1969年につくった。村木良彦という名で検索すると、「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしたという輝かしい業績が並んでいる。そんなことは一切知らなかった。同窓会で何度も会って話したが、彼は自分の仕事のことは話さない。ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけであった。今日、都内のあるお寺で葬儀があった。弔辞を読んだのは昔の同志の今野氏であった。村木氏の業績のことは殆ど触れない。やさしく、穏やかで、決して怒らず。いつもまわりの人々に愛されていたと話す。ただ仕事のことになると、視聴率がもの言うテレビ番組作りへ鋭い批判を繰り返し、何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたそうだ。その思いでテレビ番組制作者連盟という組織を創り、自ら理事長を務めていた。日本のテレビ番組の質的向上へ意欲を燃やし続けてきたそうである。

どんな業界にも良識派という人々が居る。しかし彼らはとかく同業者を批判はするが自分は手を汚さない。今野氏の弔辞によると村木氏は番組を作る仕事で手を汚しながら低俗な番組に果敢に立ち向かったらしい。よほど情熱を燃やし続けないとうまく行かない。そんな内容の弔辞であった。

死んだ人の輝かしい業績だけを羅列する弔辞も多い。しかし、死者の優れた人間性を賞賛する弔辞ほど生き残った人々へ勇気を与えるものは無い。

昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことを思い出しながら葬儀会場を後にした。知人、恩人の葬儀のことをブログに書くのは憚られるが、マスコミの業績のみを羅列した短い記事へささやかな補足をしたいと思う。

            合掌。                     藤山杜人

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亡き人々が心の中で生きている、その(2)本田宗一郎さんの思い出

2008年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

その中には一度だけ会ったが印象が深い人もいる。そのような人に本田宗一郎さんがいる。強い個性とその元気さは今でも忘れられない。とにかく元気な方であった。昨年の12月に掲載した記事に事の顛末がある。

本田宗一郎さんのご冥福を祈りつつ以下に再度掲載いたします。

======2007年12月7日掲載記事の再掲載です======

◎米国で尊敬される本田宗一郎

1988年、オハイオ州立大学で働いていたとき、本田宗一郎氏がオハイオ・ホンダ工場を視察に来た。工場はフル操業しており地元経済は活況を呈していた。地方紙が一面トップで本田氏来訪を伝え、翌日の新聞には黒人の労働者と握手している写真が大きく出た。広大な工場を視察し、多くの労働者と親しく会話し、握手をしたと報じた。

アメリカの大企業幹部は工場労働者とは握手をしない。食堂もトイレも社員と労働者は別である。ところがホンダ工場は一緒。本田氏は「自由と平等」をホンダ工場の中で徹底した英雄といえる。

よく知られているように、本田氏は小さなオートバイ工場を出発点にして、世界中に乗用車製造工場を建設した。この話はアメリカ人の好むアメリカン・ドリームの物語である。飾らない開放的な人柄も手伝って、多くのアメリカ人に尊敬されている。

@面白い体験

オハイオに住んでいると、日本人という理由で親切にされる。ホンダ工場のおかげである。近所のガソリンスタンドで車を修理してもらった。「日本人か?」と修理工。「そうだ」「ならホンダ工場の日本人に頼んで就職できるよう話をつないでくれない?」

ホンダ工場とは付き合いが無い。1週間後にホンダの採用窓口の電話番号を調べて教えたら、「有難う!忘れていなかったのが嬉しい」。アメリカ人に頼まれたらできる範囲のことをしてあげる。なぜそこまでしかできなかったのかを説明する。

学科の同僚教授へ呼び掛けてホンダ工場を見学に行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、労働者は色々な人種が混じっている。組み立てラインでキビキビと正確に部品を取り付ける。こんなに楽しそうに働くアメリカ人の集団を見たことがない。一緒に行ったアメリカ人教授も皆この集団に圧倒されていた。

アメリカの頭痛の種はリンカーン大統領の昔から人種差別の問題。ホンダ工場では黒人も白人もアジア人も同じ組み立てラインに平等に働く。ラインはいつも動いており、チームワークが絶対に必要である。声を掛け合って部品の取り付けが遅れたり不完全になったりしないようにする。

「黒人と白人が一緒に楽しく食卓を囲む日が必ずやって来る!」―暗殺された公民権運動の黒人リーダー、キング牧師の言葉を思い出す。ホンダの組み立てラインをキング牧師に見てもらいたかった。

@本田氏を訪問

その年の初冬、オハイオの恩師夫妻と東京駅八重洲口のホンダ会館へ本田氏を訪問した。目的はホンダ工場と大学との共同研究をお願いすることだった。本田氏は機嫌がよかった。戦前に芸者さんと飛行機に乗った話、初めてオートバイを作ったころの話、マン島レースでの優勝の話などを楽しそうに語ってくれた。

民間企業から研究費を貰う交渉に抜群の能力を発揮する恩師が本田氏の話をウットリして聞いている。上気して顔が赤くなり、尊敬の眼差しで本田氏の顔を見上げている。帰途、「終始黙っていましたね。研究費を貰う話はどうなったのですか?」と聞くと、「そんな話は出せなかった。お話を直接聞けたことが人生で二度とない貴重な体験だった」。

オハイオ州立大学のアメリカンフットボール競技場に立つ巨大な電光掲示板はオハイオ・ホンダの寄付と聞く。(終わり)


今は亡き人々が心の中で生きていて人生を豊かにしてくれる

2008年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は12月27日(土曜日)です。年末になるとテレビや新聞は、亡くなった有名人の追悼番組や記事を出す。自分も何年も前に亡くなった恩人、知人、友人のことをあれこれ思い出す。みんな死んだ筈なのに心の中では生きている。表情がアリアリと見え、話し声がはっきりと聞こえてくる。

考えてみると自分が如何に助けられ、親切にされて来たか、年末になるとしみじみと思い知る。何か人生が豊かになり、心が明るくなる。

年末だけではない。常日頃なにもきっかけも無いのにフッと心の中に現われてくる。

生来、社交的でないため親しい友人が居ない。孤独な人生だと思い込んで仕事だけをしてきた。

しかり現役を引退し、自分の人生を振り返ってみると、孤独な人生だなどと考えてきたことが許せない思い上がりで、大間違いであることに思い至る。

特にブログを始め、ネット上のクラブに入ってみると人々の善意と友情に圧倒される。始めて意見を交換する人々の優しい心づかいに感動する。直接会ってみると昔からの友人のように感じる。

タイや、そしてネパール、ドイツ、ハンガリー、アメリカ、オーストラリア、中国に住んでいる日本人からメールを貰う。心がこもっている。

お会いすることは無いであろう。でも心に深く残る。

大学時代の同級生であったT君は50歳位で亡くなった。昭和33年当時、下宿代が勿体ないと小さな土地を借りて、廃材を貰ってきて3畳一間の掘立小屋をつくり住んでいた。学校ではいつもニコニコとして陽気な男で、家を自分で作ってしまった顛末を何度か聞いた。彼は特殊鋼専門の会社の技師になったが、卒業後も何度も会ってお酒を飲んだ。特殊鋼を精錬する難しさをしゃべった後は自作の家の話、そして学生時代の思い出話と続く。彼の影響で自分も住宅金融公庫から借金をして気軽に、早々と家を作ってしまった。その家が終の棲家になりそうだ。いつもT君の笑顔を思い出すと、「家なんか簡単に作れるよ」と言っていた彼に感謝している。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人


ネットで知り合った方が山林に感動する

2008年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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知り合った甲斐駒さんの別荘を再びたずねました。

別荘は豪華で、この写真のような立派な薪ストーブがあります。

小生の小さな小屋へ車を連ねてご案内しました。

遠い狭い山道を高級車が後からゆっくり登ってきます。やっと小生の小屋に着きます。

甲斐駒さんは回りの林をジッと見ています。

「素晴らしい林だ」

自然が好きな方は林の佇まいを見て感動するようです。

小屋の庭に小川が流れているのを見て、

「うん。これは良い」としきりに独りでうなずいています。

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回りの木々の春先の様子、新緑の頃、夏の夕暮れ、秋の紅葉と、いろいろな季節の移り変わりが見えるようだともおっしゃいます。

夏の夕暮れ、日暮蝉の合唱のなかでビールを一緒にのむ約束をして帰って行きました。

(終わり)

撮影場所:山梨県北杜市の横手(始めの1枚)、武川(下の2枚)の山沿いにて、

撮影日時:12月25日午後2時頃。


ネットで知り合った方の別荘を再び訪問します

2008年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ネットで知り合った方の別荘を再び訪問します。

おはよう御座います。

今日は、朝早く車で出発して、中央高速道路を走り、山梨県北杜市の山奥の小屋へ遊びに行きます。午前中は小屋で薪ストーブを燃やして今月号の文芸春秋を読みます。午後にブログで知り合った甲斐駒さんの別荘を再び訪問します。

日帰りなので夕方自宅へ帰ります。甲斐駒さんの別荘の写真をここに掲載します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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この別荘や甲斐駒さんについての詳しいご紹介はブログの12月5日掲載記事にございます。

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クリスマスにちなんだちょっと良い話

2008年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

毎週通う教会の山本量太郎神父様の説教にはいつも感心します。短くて感銘深い話ばかりです。この前の日曜日は神父様と幼稚園の女の子の会話でした。

子供が神父さんへ聞きます、「イエスさまは、ずうっと昔に死んでしまったのに、なぜ毎年誕生日のお祝いをするの?」

返事に困った神父さんが(イエスさまがよく聞き返したように)、「どうして、そう思ったの?」と聞き返したそうです。

女の子はおじいちゃんが大好きでした。毎年おじいちゃんの誕生日のお祝いの宴が楽しいのです。ところがある年からその楽しい宴会が突然なくなりました。おじいさんが死んでしまったからです。死んだら誕生日はお祝いしない。女の子は悲しい理解をしました。でも教会では毎年クリスマスにイエス様の誕生をお祝いします。

神父さまはこの思いもかけない質問に一瞬戸惑います。が、次の瞬間あたかも精霊がおりてきたような感じで、良い返事を思いつきました。

「それはね。イエスさまは今でも生きているからですよ。いや毎日私達の中に生まれれているから、誕生日をお祝いするのですよ」、続けて神父さんがおっしゃいました。

「この答えに女の子は納得した様子ですが、一番よく納得したのは私自身でした」

この一言で教会中が笑い出しました。

山本神父様の説教はこれだけでした。明日はそういう意味のお祝い日です。

家族が集まって夕食を召し上がるとき、このお話を思い出して頂ければ嬉しく思います。そして一人でクリスマスを迎える人々のことも思いだして下さい。

(終わり)


荒れ狂う里山

2008年12月20日 | 写真

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昔の村の里山は人々の生活に必要な材木や薪のため重要であった。大切に手入れをされてきた。でも、高度成長期によって農村が豊かになる。燃料がLPGになり、材木は輸入したほうが安くなった。もう誰も雑木林の手入れをしなくなった。

雑木林は荒れ果てている。薄情な人間にたいして怒り狂っているようだ。この2枚の写真は、人々の心の貧しさを訴えているようだ。見たくない写真だがこれが日本の一つの現実である。しかしこれが原始の森の自然な風景と考えると複雑な感慨にとらわれる。皆様はどのようにお考えでしょうか?  (終わり)

撮影場所:山梨県北杜市武川町柳沢の里山にて、撮影日時:12月18日午後2時頃

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人間が好きだから旅をする(8)営業の天才との旅路

2008年12月20日 | 旅行記

本当の友人とはこういう人と思っている。本名、鬼澤慎さんのことだ。彼のことをブログへ書こうと思いつつ1年もたってしまった。まだ若いのに、あまりにも奥深い人なので描き方が思いつかない。それに書いてしまうとこの友情が薄れるような気もして躊躇していた。

彼は大型コンピューターを大会社や大学の計算機センターへ売り歩く営業マンだ。私が昔大学で働いていたので、彼が大学へ営業に行く手伝いをした。彼の個性が好きになってので、手伝いたくなっただけである。頼まれた訳では無い。一緒に、雪国の長岡、富山、金沢、福井にある国立大学の計算機センターをめぐり歩く冬の旅だった。計算機センターの事務官と交渉してセンター長の教授と会えるようにするのが私の役目。その後はセンター長へ鬼澤さんが説明する。私は黙って見ている。売り歩いているのはアメリカの大型計算機システムだが、その説明はしない。センター長の話を聞く。どんな計算をしたいのか?大型計算機の使用頻度は?どういう故障で困ってるか?とにかく話を聞くことに徹している。ここまで来ると営業成功の可能性が見えてくる。

鬼澤さんとセンター長の初対面の会話を横から観察する。すると始めの数分で、何処のセンター長も鬼澤さんが好きになってしまう。何故かは分からない。それで、私は彼を天才的営業マンだと今でも思っている。最後になると、センター長は鬼澤さんの経歴を聞き始める。すこしばかり友人になりたがっている様子だ。彼は明るく言う。千葉工業大学を卒業しました。沖電気の工場で通信機器の製造の仕事をしていました。数年後、あるきっかけで大型計算機の営業をしないかと人に誘われてこの道に入りました。そんな話を淡々とする。よどみが無い。

センター長は「大学ではIBMや富士通のマシンを使っているのが多いよ。君の会社のような小さな会社からIBM以外のアメリカのコンピューターを買うと保守管理が大変で心配ですね」という。正しい意見である。私も賛成だ。しかし鬼澤さんは販売の可能性のあるところへ何回か通って、結局売ってしまう。彼一人の2005年頃の年間の販売実績は5億円くらいであったと記憶している。

雪国の冬は夜が長い。旅のつれずれに話を聞く。営業の成功の為にはまず相手を好きになることという。相手もこちらへ好意を持ってくれれば少し話し始める。その瞬間が一番重要で、もっと内実を話したくなるような気分にさせるのだと言う。このへんは幾ら聞いてもどうすれば良いのか理解が出来ない。天賦の才としか言えようがない。

国立大学が大型計算機を買うときは官報で広報して説明会をして入札で決める。当然、IBMや富士通が有利になる。しかし鬼澤さんは幾つかの大学、大型国立研究所、大会社などの計算機センターへ売る実績をあげる。勿論、失敗することも多い。三島の遺伝学研究所や三鷹の国立天文台への販売は不成功であった。

鬼澤さんと雪国の冬の旅をしたおかげで、世の中の営業マンへ親しみを感ずるようになった。営業マンには天賦の才と努力が必要だ。どんな職業でも同じ。時々自宅へ営業の電話がくる。その度に鬼澤さんのことを思い出して、つい温かい言葉を返していることが多い。冷たく電話を切るより後味が良い。友人とは別れた後でもこちらの人生を楽しくさせる人なのかも知れない。

下の写真は最近、あるパーティで撮った鬼澤慎さんの写真である。実名と顔写真をブログへ出しても良いか何度も聞いたが、キッパリと清々しく、そうして下さいと言うので掲載する。

(終わり)

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あるベンチャー金融会社の安達俊久社長の思い出

2008年12月19日 | うんちく・小ネタ

引退して暇になると、以前に知り合った印象深い人々のことをあれこれ思い出して楽しんでいる。そんなことも一つの趣味になる。

現役最後のころ、あるベンチャー会社の役員をしていたことがある。株式公開に向けて努力している会社であった。その会社の毎月の役員会で安達俊久さんという方と同席した。伊藤忠テクノロジーベンチャーズ株式会社の社長である。ベンチャー企業へ投資している場合はその会社の役員会に出席しているという。

物静かで滅多に発言しない。たまに発言するときは会社の発展に具体的に役に立ちそうな建設的な意見である。数多くのベンチャー企業へ投資し役員会へ出ているので成功・失敗の原因を直接見て、知っているのだ。投資している相手の会社を監視するために来ているのではない。業績が向上し株式公開が早く実現できるようにさりげなく指導しているようだ。しかし発言の言葉が丁寧で、外部役員としてのつつましやかさを忘れない。なにか深い教養がある感じがする。しばらくして、私が働いていたベンチャー企業が株式公開を断念した。株式公開しなければ安達さんの投資したお金が無駄になる。決っして少ないお金ではない。安達さんの会社の損害になって終わるのだ。その決定をする最後の役員会での安達さんの態度と発言が印象深い。「この会社が株式公開して私の会社に利潤が返ってくると判断し、投資したのは私です。そうならなくても、この会社の責任では有りません。自分の会社へ損害を与えたのは、一切私の責任です。どうぞ気になさらないでください。ベンチャ-キャピタルのミッションはそういうものなのです」

その日の役員会では株式公開中止の決議をすることになっていた。当然、安達さんから厳しい叱責や批難論があると皆が首をなでていたのだ。叱責のあとで多数決で決める予定であった。しかし安達さんの格調高い、短い発言で誰も厭な思いもしないで役員会が円満に終わった。

あまりにも立派な態度だったので、後日、青山にある伊藤忠本社ビルを訪ね安達さんとお会いした。素人の私へ、ベンチャーキャピタルとは投資した数十社の中で一社でも株式公開に成功すれば利潤が上がるシステムになっていることを分かりやすく説明してくれた。それにしても最後の役員会での態度が立派ですねと褒めた。そうすると、「いやお宅の会社の社長が立派でしたよ。役員会の前に丁寧に相談してくれて十分お互いに立場を理解し合ったあとでした」と言う。

引退前の最後の会社で、こんな良い経験をしたのは幸運としか言えない。

ちなみに、伊藤忠テクノロジーベンチャー株式会社は2000年に創設され2008年までに79社のベンチャー企業へ、総額157億円の投資をしてきた。

この79社のうち11社も株式公開に成功している。栄枯盛衰の激しいベンチャーキャピタル会社の社長として安達俊久さんは8年間も社長を続投している。非凡な才の持ち主なのだろう。単に経営能力が高いだけでない、他人が厭がることを絶対にしないという人間的訓練を積んだ人なのだ。商社で育った人々を毛嫌いする人も多いがそれは偏見なのだ。人間は一人一人みんな違う。そんな当たり前のことを身をもって教えてくれた。

020 老後の現在、印象深かった人々を思い出すのが楽しい趣味のひとつになっている。

なお安達さんの投資先はIT関連ベンチャーに限定しています。その分野で株式公開を計画中の方々が是非、安達さんにお会いするのが良いと信じています。

連絡先は伊藤忠テクノロジーベンチャー株式会社を検索すると出てきます。

この記事が広告として成功していれば嬉しいです。好きになった人とその企業の広告をするのもこのブログの目的にしています。人間が好きだから記事を書いているのです。

(終わり)


ネットで知り合った人と付き合うための5つの条件

2008年12月19日 | うんちく・小ネタ

現役で、毎日仕事が忙しい間は、仕事に関係のない人とは付き合う暇が無い。

引退して毎日が日曜日の老人は、今更、見知らぬ人とのお付き合いなんて真っ平御免。

それが普通です。特に引退後は死ぬまでの時間が貴重に思えて、精一杯遊んで楽しく過ごしたいと思います。なにせ現役の間はろくに遊ばなかったのですから。

しかし、私はブログで知り合った3人の方に実際にお会いしました。このブログで何度もご紹介した、ひかるのさん、甲斐駒さん、オカブさんです。その他、メールの交換をしている人もいます。その結果、老後の趣味や遊びがますます楽しくなって来ました。そのように老後の趣味や遊びを一層楽しくするための実際的な条件を下に書いてみます。

(1)異性はお付き合いしないこと。

(2)相手がブログやHPを持っていて、自分の趣味や考え方を大量に発表していること。

(3)人生相談などになりそうな面倒なことは一切避けること。

(4)趣味への考えかたが同じで、いろいろ教えてくれそうな人と確信がもてること。

(5)ブログやHPの内容が明るくて建設的な考えの持ち主であること。

こんなことを考えてお付き合いをするが良いのではないでしょうか?

皆様のご健康と平和を今日もお祈り申し上げます。 (終わり)