後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨーロッパ文化の香りのする北海道への旅

2015年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道は本州や九州とは違った地質でシベリア的な植物が育っています。そして農村地帯へ行くと、なだらかに起伏する丘に牧草地が広がり、風景がヨーロッパに似ているのです。牧草地や麦畑の仕切りに美しい白樺が並んでいます。
この自然の景観だけでなく、北海道には明治維新後、ヨーロッパ文化がやって来て根付いている場所もあちこちにあります。北海道にはアイヌ文化だけでなくいろいろな異文化が混在し、独特のローカル文化があるのです。
北海道の旅の魅力は美しい風景を楽しみながら異文化の探訪も出来ることにあります。
そこで今日は異文化の色濃い函館の郊外にあるフランスのトラピスト修道院をご紹介したいと存じます。
2012年の6月に函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南の一部を丁寧に見て回りました。
函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園は太平洋に面しています。
2日目には津軽海峡沿いに西へ丁寧にたどり松前の城下町を訪ねました。
次の日は東海岸太平洋沿いの海岸を根気よく森町まで北上しまさした。
特に東海岸は、函館、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、森、大沼公園、とかなり丁寧に見て回りました。
このレンターカーによる旅の中で、特に強烈な印象を受けたのがフランスのシトー派のトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。
この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。
石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて畑や乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。
レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。
何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。周囲の景観が素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。
このトラピスト修道院の中での生活は、HPの、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/index.html に書いてあります。
まず一番大切なのは「祈り」です。
聖務日祷の時刻には、合図が聞こえるや否や、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならないそうです。修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。
聖体の安置されている聖堂で全員集まって熱心な祈りをささげます。
修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての世間の人のためにささげられているのです。
そして労働をします。
怠慢は霊魂の敵です。みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのです。
絶え間ない祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。
修道者たちは自然界の中での労働(酪農・菜園・果樹園・庭園)を行います。
このようなことを考えながらトラピスト修道院の外を散歩しました。
この当別修道院は、函館から西方に約30・、JR江差線「渡島当別駅(おしまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにあります。
この地にヨーロッパから数名の修道者が来て、生活をはじめたのです。広大な敷地は今でこそ肥沃な美しい土地ですが、当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野だったそうです。
 渡来した修道士たちは徐々に日本人の入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷をうずめて畑に変え、今日の姿にしていったのです。
生活の糧として、牛乳から作ったバターやチーズを売り出しました。
当初、乳製品は日本人に売れません。なじみが少なかったのです。製酪工場の経営は困難をきわめたようです。しかし、よく耐え抜いたのです。
現在、修道院の下にある売店ではトラピスト・バターやそれを使ったクッキー等が人気で、多くの観光客が買っていました。
現在の修道士は外国人も居ますが、殆ど日本人男性です。
修道院の見学は女性禁止で、男子のみ往復ハガキで申請すれば可能です。
下に私の撮った写真をご紹介いたします。
一番目の写真は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。
二番目の写真は修道院の入り口です。
正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。
三番目の写真は古い牛舎の写真です
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。
四番目の写真は修道院の下に広がっている牧草地です。
そして五番目の写真は修道院の内部の聖堂でのミサの光景です。
この写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

以上のように北海道の旅は美しい風景とともに何か異文化の探訪もまじえると楽しみが深くなると思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











「本当に小さなヨットで南極まで単独航海した片岡さん」

2015年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
お会いしたこともない方を片岡さんと気安く呼ぶのは私の若い友人のY君が彼のことを紹介してくれたからです。片岡さんは盛岡の高校と東北大学でY君の後輩だったそうです。その片岡佳哉さんが書いた「ブルーウオーター・ストーリー」という本を(株)舵社から出版したのです。それをY君が買って昨夜、宅急便で送ってくれたのです。
ヨットをしている人なら誰でも知っているブルーウオーター21というヨットがあります。長さがたった21フィート(6.3m)ですが腰が低く見るからに頑丈そうな作りです。
設計は武市・村本ヨットデザイナーズ で1970年頃から鎌倉で造られていました。キャビンが狭くエンジンがコックピットの中についていて、重心が低く荒れた外洋でも生還できるように設計してあります。
私が25年間、霞ヶ浦にヨットを係留していた、その隣にブルーウオーター21が並んで係留してありました。乗っていたのは山本船長で、私も少しだけこのヨットに乗せて貰いました。本当に頑丈に出来ていますが、キャビンが狭すぎて飲み会など出来ません。とてもストイックなヨットの構造です。
そのブルーウオーター24(長さ24フィート)で南極まで、荒れるドレーク海を越えて単独航海したのですから凄い話です。
南米の南で転覆してマストを失います。恐怖のあまり南極行きを断念します。しかし暫くして船を修理して遂に南極大陸に上陸したのです。
この本には荒れる海の鮮明な写真が多数あります。氷山の浮かぶ静かな海に停泊しているヨットの写真があります。とにかく美しい写真が満載です。
そして文章が読みやすい美しい日本語なのです。帰港した土地のローカル文化をいきいきと描いています。
ヨットに関心の無い方々にも夏の清涼剤のように楽しめます。読んでいるとこの猛暑を忘れるのです。
片岡佳哉著「ブルーウオーター・ストーリー」を検索するとネット購入が出来ます。税抜きで1800円です。
この本を昨夜送ってくれたY君は古い友人で、彼の盛岡での結婚式の仲人をしたこともあります。美しい奥様と盛岡一の神社で挙げた結婚式には古い神道の音楽と巫女さん達の優雅な舞がありました。こずかたの城跡の草に上に寝転んで啄木の歌など思い出しました。それから茫々数十年、Y君は現在、本郷の大学で働いています。私の趣味がヨットと知っていてこの片岡さんの「ブルーウオーター・ストーリー」を送ってくれたのです。持つべきは良き友です。
初めの写真がこの本の写真です。二枚目と三枚目は現在中古艇として売買されているブルーウオーター21というヨットです。発売以来40年以上たっていますが根強い人気があり今でも購入希望者が絶えません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






今は無きネムの花を想い、世の争論を静かに考える

2015年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
花々の写真を撮っている間がとても楽しいので、蜜蜂のように花を探してあちこちと歩き回ります。何時の間にかそれが趣味のようになっています。
ですから季節ごとに何処に行けば何が咲いているか知っています。
ところが一年ぶりに期待して行ってみるとその花が消えてしまっていることがあります。
栽培している人が高齢になり花の栽培を止めてしまうのです。あるいは花を咲かせる樹木をきれいさっぱり切り倒してしまっている場合もあります。そんな場合の落胆は忘れられません。
ここでご紹介するネムの木に咲いていた花の写真は7年前の2008年7月19日の夜と次の日の朝に撮った写真です。それが翌年には切り倒されていたのです。残念です。あの繊細な綿毛を持った幻想的で、美しい花を二度と見ることが出来なくなったのです。
この木は北杜市武川町、横手の「みよしや」という食料品店の前の三叉路の北角に有りました。高さ8mくらいの大木が3本あったのです。
ここで昔の3本の木に咲いていた花の写真をお送りします。はじめの2枚は夜に撮ったもので、後の2枚は翌朝撮った写真です。







さてこのような花の写真をさきに出したのは、これから書くことを静かな気持ちでお読み頂きたいからです。
最近、安倍総理は安保関法案の改正を国家で審議し、衆議院では可決し、現在は参議院で審議中です。
安倍さんの考えは軍備を強化し、アメリカとの軍事協力を強めればそれが戦争の抑止力になり日本の平和を守れるという考えです。この考え方を安倍さんは積極的平和主義と言っています。
これに反対する人々は積極的平和主義により、自衛隊の海外出兵を実行するので日本はアメリカの戦争巻き込まれ、結果として日本が平和でなくなると主張します。
そして安保関連法案は改正すべきではなく、従来通り日本の平和はアメリカ軍に守って貰えば良いと考えます。そして自衛隊は国連の平和維持軍以外は絶対に海外派兵はすべきでないと主張しています。
上の相反する二つの主張は双方の考え方の概略を描いたものです。詳細に書けばキリがありません。この点をまずご容赦ください。
さて最近、この相反する主張で世の中が騒然となっています。双方とも感情的になりがちです。
静かな客観的な議論があまりにも少ないように感じます。
そこで私の考えを書きます。私はどちらも正しいと考えています。
もっとはっきり書けばどちらが正しいか実験をして証明が出来ないのです。歴史は実験で予測したり再現することが不可能なのです。
ですからこそ上記の二つの考え方のどちらが正解なのかは誰にも判りません。
従って、架空の仮定や予測にもとずいた感情的議論しか展開出来ないのです。
私は安倍総理に賛成ですか?反対ですか?と問われれば、「どちらとも言えない」というのが私の正確な答えです。情緒的には積極的平和主義に賛成ですが、戦争には絶対に巻き込まれたくないので安保関連法案改正には反対です。これは戦争の悲惨さを体験した日本人の感情ではないでしょうか?
しかし感情論だけで厳しい国際情勢のなかで良いのか否かが私には分からないのです。
ここで主張したいことは反対派の人格を傷付けるような無思慮な発言はすべきでないということです。
私は他人を傷つけるような議論を見ると暗い気持ちになります。日本は、個人の尊厳を守る民主国家だった筈です。最近、少し暗い気分になっているのは私だけでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

調布飛行場の墜落事故と静かな今日の飛行場の様子

2015年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
調布飛行場は東京の杉並区や世田谷区に近い便利な場所にあります。
その飛行場で悲しい事故が起きてしまったのです。
7月26日午前10時58分頃、調布市富士見町の住宅街で、近くの調布飛行場を離陸した直後の米パイパー社製小型飛行機(全長8・7メートル、)が墜落しました。
5人が乗った小型機と民家が炎上し、操縦士を含む男性2人と、民家にいた女性1人の計3人が死亡し、小型機の同乗者の男性3人と、住民女性2人の計5人が重軽傷を負ったのです。
死亡したのは小型機を操縦していたとみられる川村泰史機長(36)(川崎市)、同乗の30歳代の早川充さん(東京都練馬区)、小型機が墜落した民家に住む鈴木希望さん(34)の3人でした。
 機体の後部座席に乗っていた田村康之さん(51)(埼玉県三郷市)、森口徳昭さん(36)(港区)、花房剛さん(35)(文京区)の3人も、やけどや腰椎骨折などで重傷です。
この小型機は、調布飛行場を南に向けて離陸し、やや左に曲がりながら高度を下げ、約700メートル先の民家2棟の屋根に接触した後、鈴木さん宅に突っ込んで炎上したのでした。
大変不幸な出来事です。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
この調布飛行場は私の家から車で10分位の近所です。
伊豆七島の大島、新島、神津島、そして三宅島へ定期航空路があり、東京と離島を結ぶ重要な空港です。そして会社や個人が所有する小型機が使っている楽しい飛行場でもあったのです。
そんな飛行場で悲しい事故が起きてしまったのです。
事故から3日がたち、少し落ち着いた頃と思い、先程、調布飛行所の写真を撮りに行きました。
それはそれとしてこの飛行場は1941年(昭和16年)4月30日、竣工式が行われ、東京府により公共用飛行場として開設されたのです。
第二次世界戦争末期は、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは飛燕戦闘機です。この戦闘機の掩体壕は現在でも保存、展示されています。
飛燕は京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げましたが、沖縄戦が始まると特攻作戦支援のために九州へ移動したため、調布飛行場には偵察機だけが残されたのです。この戦闘機の体当たりを当時、調布で目撃した西 澤 和 衛 さんの話を以下にご紹介します。出典は、
http://bokusen-nszw.jimdo.com/%E6%98%AD%E5%92%8C20%E5%B9%B4-b%EF%BC%92%EF%BC%99-%E6%92%83%E5%A2%9C/ です。 
・・・ボクは、いつものように防空壕の扉の隙間から必死に空を見上げていました。 日本の戦闘機が大きなB29を追いかけながら、果敢に攻撃を仕掛け、高射砲陣地からも盛んに射撃をしていましたが、B29には弾が届いていないのか、はるか低い所で破裂しているみたいでした。
 そして、7,8機のB29の梯団が次々に東京方面へ飛び去った時、新たに西のほうから飛んできた編隊の2番機に、日本の小さな戦闘機がキラリと光って体当たりをしたのです。
一瞬、白煙が出て、B29はガクンと速度を落として編隊を離れ、ゆっくりと回転しながら落下しはじめました。
「 やったっ! やったっ!」表で見ていたらしい、人たちの歓声や手を叩く音が聞こえました。 しかし、その後 B29は落下する途中でバラバラに空中分解し、ボクたちの住む調布の方に落ちてきたのです。
「 ぅわーっ! 逃げろ!」と言う声と共に、皆われ先に自分の家の防空壕に飛び込みました。・・・・
そして、少し離れた人垣の足の間から潜り込んで見たのは、仰向けに寝かされたアメリカ兵の姿でした。 ボクは、お兄ちゃんに「 怪我してるの?」と聞いたら、「 もう、死んでるんだよ」と言う返事でした。 そして、大人の人達は、「 コンチクショウ! お前たちのおかげで・・・」とか、「 コノヤロウ!」とか言って、蹴飛ばしたり、唾を吐きかけたりしていました。 中には「 お前たちには勿体無い!」等と言いながら、その兵隊さんの指輪などを抜き取ったり、ポケットに手を突っ込んで何かを取り上げたりしている人もいたのです。
ボクは幼なごころにも、そんな事までしなくても、と兵隊さんが可愛そうで悲しくなりました。
 その兵隊さんのカーキ色の軍服には、胸の辺りから足の方にかけて血で真っ赤に染まっていました。
 ボクがこわごわ、そっと覗いた茶色の飛行帽の中の顔は、茶色の髪の毛と薄く目を開いている、青い目をした綺麗な顔でした。
 ボクは、またまた驚きました。 アメリカ兵は「 鬼畜米英 」と聞かされていましたから、アメリカやイギリスの兵隊さんは、みんな鬼のような恐い顔をして、物凄く恐ろしい、獣のような人ばかりだと思っていたからです。
 ボクは、家に帰ってから出来るだけ詳しく、一生懸命母に話しました。
母は、先ず言う事を聞かなかった僕を𠮟った後、「 犬や猫でも、毛の色や顔が違っていても、犬は犬、猫は猫でしょう? 人間も一緒なのよ。 肌の色や髪の色や、言葉が違う外国人も、ボクたちと同じ人間なのにね。 どうして仲良くできないんだろうね~?」と言い、「 あの人たちにも、子供や家族が居るんだろうに、可哀想にね。」と言って、あの兵隊さんの方に向かって手を合わせました。
ボクは、母の言ってる意味が良く解らないまま、一緒に手を合わせました。
 後から聞いた話では、あの B29には10人ほどの戦闘員が乗っていたそうです、そのうちの3人は、一応、あちこちに落下傘でおりて怪我をしていたものの生きていたそうですが、一人は捕虜として憲兵隊に引き渡され、二人は民間人に鍬などで暴行されて死んだそうです。
 体当たりをした「 飛燕 」の兵隊さんは、当たる直前に落下傘で脱出し、世田谷あたりで救出されたそうです。・・・・以下省略。
こんなことを思いながら調布飛行場の写真を撮って来ました。
大島、新島、神津島、そして三宅島へ定期航空の飛行機(二番目の写真)は定刻通り飛んでいる様子でした。
三番目と四番目の写真は会社や個人の所有する小型機です。随分以前に義兄がセスナ機を共同所有していて乗せてもらい北関東を一回りしたことを思い出しました。
五番目の写真は戦時中の戦闘機の掩体壕です。
それにしても時代の移り変わりには驚きます。

上の写真の出典は、http://jin115.com/archives/52091267.html です。







40年前にスエーデンで教わった山小屋へ通う趣味

2015年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
それは1973年の夏のことでした。ストックホルムの王立工科大学へ私を招待してくれたエケトルプ先生が、海の傍にある粗末な木造の小屋につれていってくれたのです。
海に突き出た岬にある小屋の周囲には人家も無く荒涼とした岩山の上にポツンと建っています。はっきり言えば掘っ立て小屋です。潮風に吹き倒されそうに少し傾いています。
小屋に着くと先生夫妻は小屋の掃除や、周囲の雑草を取りをして忙しそうに働いています。私も手伝いました。
労働でお腹が空いたころ庭先のテーブルの上でランチです。フライドチキンと生のキューリをかじるだけの食事でした。周囲は入組んだ海です。
北欧の暗い海は夏になると碧く輝くことを発見しました。大きなカモメが時々鳴きながら飛んで行きます。
エケトルプ先生はこの小屋に来てボンヤリ海を眺めたり、小屋が倒れないように修理をするのが趣味だと言います。何も無い自然の中で時を過ごすだけで楽しいのですと言います。
もう何年もこの小屋に通っているそうです。
夏だけでなく厳寒の冬にも来るそうです。昼前に着いて、薪ストーブを焚いて昼食を食べ、そして夕方帰るのです。
帰りの車の中で、私はこの自然の中の小屋に通うエケトルプ先生の趣味を日本で始めることを決心したのです。
海ではなく山林の中に粗末な小屋を建てる決心をしたのです。そして1974年の晩秋に山梨県の甲斐駒岳の麓に小屋を建てました。
大工さんが小川の傍で深い森の中は湿気がひどいので木造ではすぐに腐りますと言います。そこで4畳と6畳とトイレの鉄筋コンクリートの小屋を建てて貰いました。その小屋は41年たっても腐らずに建てたままの姿です。
41年間、毎週のように通ったその山林の中の小屋へ先週も家内と行ってきました。
どのような所かを写真でご説明たします。
小屋は北杜市の甲斐駒岳の麓の武川町にあります。寒すぎて水田が出来ない標高の高い深い森の中にあります。

この写真が最後の水田です。これより高い所は寒すぎて稲が育たないのです。写真の右奥には鳳凰三山の地蔵岳が少し写っています。

水田地帯を過ぎると上の写真のように山道がえんえんと続いています。ゆっくり車を走らせます。

上の写真は小屋の屋根の上から撮った写真です。身軽な家内が屋根の上に生えた木を引き抜いてくれました。周囲には大きな樹木がビッシリと生えています。

この小屋が好きな理由はその庭を上の写真のような小川が何時も美しい音を立てて流れていることです。過去41年間、冬になっても豊かに清い水が流れているのです。
小屋に着くと掃除や雑草取りをします。それが終わると夏以外は薪ストーブを焚いて昼食です。しかし夏はこの小川に入って、その冷たい流れに足を入れて涼みます。

上の写真は家内が清流に足を入れて涼んでいる様子です。以前は男の孫3人がこの小川に全身を浸けて遊んでいたものでした。もう大きくなって一緒に小屋に来なくなりました。それも時の流れです。
小屋の周りの森では松蝉やヒグラシが鳴いていました。
その後、近所の山荘に住んでいる木内さん所に寄り、里に下りて花々の写真を撮りました。
山々の風景を見ながら写真を撮っている間が楽しいのです。
農産物の道の駅により、ズッキーニや七色のプチトマトと規格外の桃を多量に買って帰宅しました。
毎年、規格外の桃を買いますが味は同じで美味しいのです。規格外の桃は東京では売っていませんが、昔は野菜や果物に「規格」などと言うものが無かったのです。規格など無い方が自然で良いと信じています。余計なことまで書いて失礼しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「巨大な中国の脅威(4)中国の軍隊と自衛隊の比較」

2015年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
人はいろいろです。軍備とか戦力などという殺伐とした話は読みたくないという方々も多いと思います。そういう方々の為に昨日、甲斐駒岳の麓で撮ってきた花や風景の写真をお送りします。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
さて前の記事では日本の自衛隊の持っていない核弾頭ミサイルと原子力潜水艦のことをご紹介しました。今回は通常兵器の範囲で中国の軍隊と自衛隊の比較を簡単にしたいと思います。
中国人民解放軍のことは、(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D)から抜粋します。
イギリス国際戦略研究所が発行した『2013年ミリタリーバランス』によると、2012年11月時点の人民解放軍の総人員数は、現役兵は228万5千人、予備役51万人と推定されています。これに対して我が国の自衛隊の総兵力は24万人です。数だけを単純に比較すると日本はあまりにも少ない兵員数です。
そこで中国の陸軍、海軍、空軍をもう少し詳しく見てみましょう。
陸軍
兵力160万人(2010年度)、近代化のため兵力削減傾向にあり、最新鋭戦車の生産数よりも兵旧式の59式戦車などの退役数が上回っているため、戦車の保有数は段階的に縮小しています。
兵役は志願兵制をしいていますが、不足に応じて、選抜徴兵制を実施することになっています。しかし、不足した事は今までにないと言います。
海軍
1949年4月23日創立。2011年時点で、現役兵力約250,000人、うち海軍航空隊約26,000人、沿岸防衛陸上部隊約28,000人、海兵隊に相当する中国人民解放軍海軍陸戦隊24000-40000人を有します。
駆逐艦26隻、フリゲート54隻、弾道ミサイル搭載原子力潜水艦3隻、航空母艦「遼寧」を有します。原潜は(夏級を1隻と晋級を2-4隻)、攻撃型原子力潜水艦の漢級を3隻、商型原子力潜水艦を2-4隻、通常動力型潜水艦54-60隻を保有します。
また、海軍航空隊は、5個海航師(海軍航空師団)、4個独立飛行団から成り、各種軍用機571機を保有しています。
他に沿岸防衛陸上部隊として、35個岸防導弾砲兵団(海岸防衛ミサイル砲兵団。65,300人)が存在します。
空軍
1949年11月12日創立。総兵力38万人(空挺部隊を含む)。作戦機約1950機。このうち、数における主力は、中国がMiG-21を国産化したJ-7、およびこれをベースに開発した拡大改良版のJ-8II、またSu-27、さらに旧式のQ-5などです。以前数千機という多数を保有していたMiG-19の国産型機J-6は既に退役しています。
以上のように数だけをすると自衛隊はひどく少ないようです。
それでは日本の自衛隊の規模を(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A)から見てみましょう。
高い練度と高度な装備を保有するが、総兵力は約24万人(女性1万2,300人)で対人口比で主要国中最低水準です。
年間防衛予算も約4兆7千億円で絶対値的でこそ世界的に7位に位置するものの、対GDP比では1%を割って主要国中最低水準です。
予算は陸海空で概ね4:3:3の比率であり、予算総額の約44%は人件費で、装備品の調達費は、比較的高額な水準となっています。戦力維持のために若年定年退職制度を導入しており、多くの自衛官の定年退職が53歳です。
近年、国家財政の悪化と少子高齢化のために防衛予算と兵力は減少傾向にあったが、周辺国、特に中国の軍拡や尖閣諸島問題の影響で2013年度以降は対前年比で増加に転じました。
また、自衛隊が保有する装備の維持・運用・管理などにおいて日米安全保障条約によりアメリカに強く依存している装備も多く、実戦におけるノウハウ習得や幹部自衛官教育、新型装備に関する技術講習などでもアメリカとの協力関係が重要視されています。
また、憲法9条の解釈上、大規模な敵地攻撃能力は不要なことから、敵の根拠地を攻撃する能力は少ないのです。
情報戦や情報通信機器のインフラ整備、教育、補給といった後方支援に問題があると指摘されることがあり、防衛秘密の漏洩問題等が繰り返し報道されているのも弱点です。
軍事予算の比較をしてみると以下のようにアメリカ、中国、イギリス、フランス、ロシア、ドイツの次で世界7位です。
軍事費(実質為替レート アメリカドル)(2009年)、末尾の%は対GDP比です。
1 アメリカ合衆国、663,255,000,000   4.3%
2 中華人民共和国、 98,800,000,000   2.0%
3 イギリス 、69,271,000,000      2.5%
4 フランス、 67,316,000,000      2.3%
5 ロシア、 61,000,000,000       3.5%
6 ドイツ 、48,022,000,000       1.3%
7 日本 、46,859,000,000        0.9%
8 サウジアラビア、39,257,000,000    8.2%
9 イタリア、 37,427,000,000      1.7%
10 インド、 36,600,000,000       2.6%
11 大韓民国、 27,130,000,000      2.8%
23 中華民国、 9,866,000,000       2.1%
以上の情報を客観的に比較すると中国は通常軍備でも日本の自衛隊よりかなり優位に立っていると考えられます。その上、核兵器や長距離ミサイルも持っているのです。
上に書いた情報は軍事機密にも関連して正確な実態でないとも思われます。もっと正確な情報が欲しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











甲斐駒岳の山麓の里の花々の写真をお楽しみ下さい

2015年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は久しぶりに家内と山林の中の小屋に行きました。
庭の小川のそばのテーブルでオニギリを食べ、小川へ入り足を冷やして、雑木林の中を少しだけ散歩して来ました。
甲斐駒岳が碧く輝いています。山麓の里には夏の花々が咲き乱れていました。
花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









巨大な中国の脅威(3)米本土を射程に入れた核弾頭ミサイルと原子力潜水艦

2015年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
中国の脅威の一つに、その核兵器と航空母艦や原子力潜水艦があります。いずれも日本の自衛隊が保有していない強力な攻撃用軍備です。この中国の軍備は経済発展とともに次第に増強されてきました。今やアメリカ、ロシアにつぐ強大な軍事力を有する大国になっているのです。
私は軍事の専門家ではありませんが、今回は中国の核弾頭ミサイルと原子力潜水艦について概略をご紹介いたします。
まずそのそも何故中国が核兵器を保有しているのでしょうか?その歴史的いきさつを調べました。以下はその概略です。
毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下以来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けたそうです。朝鮮戦争中にアメリカから核攻撃を暗示された際に、毛沢東はスターリンに原爆製造技術供与を要請しました。この時にソ連側は技術供与を拒否したのですが、後の1954年の台湾海峡危機を機会に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功しました。
1960年代初頭に設立した北西核兵器研究設計学会により、核兵器の開発が進められました。1964年10月16日に新疆ウイグル自治区のロプノール湖にて初の核実験が成功し、1967年6月17日には初の水爆実験が行われたのです。そしてチベットなどに核廃棄物の処分場も設置されたのです。
中国政府はこれまで46回におよぶ核実験を行ったと公式発表していますが、小規模の実験も含めると核実験は50回以上に及ぶと推定されています。 1980年10月16日に最後の大気圏内核実験が行われ、1996年7月29日に最後の地下核実験が行われました。この経緯の中で原爆を小型化してミサイルに搭載できる核弾頭の開発も行われていたと想像出来ます。
それでは核弾頭はどのようになっているのでしょうか?
以下の文献に詳細な情報があります。
「中国の核兵器」:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%87%8F%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E5%85%B5%E5%99%A8
この詳細な情報から主な部分を抜粋しますと以下のようになります。
米国科学者連盟によれば、中国は2009年に約180個の戦略核弾頭を含む合計240個の核弾頭を保有していています。
そして陸上基地発射型大陸間弾道ミサイルについては、西側研究者は中国が1980年代から18から36基のDF-5(東風5)大陸間弾道ミサイルを配備したものと見ています。改良型のDF-5A(東風5A)は単弾頭搭載で、3段式液体燃料ミサイルでその射程距離は13,000 km 以上です。
2000年、アメリカ戦略軍司令官ユージーン・E. ハビガー合衆国空軍大将は、中国は18基のサイロ発射型DF-5sを保有していると議会で証言しました。
21世紀初頭から中国人民解放軍第二砲兵部隊はまた10基の移動式固体燃料大陸間弾道ミサイルDF-3 (東風31)を配備し、中国はさらに改良型のDF-31A (東風31A)を開発し、これは射程距離11,200 km 以上で 3 – 6 個のMIRV弾頭を搭載可能なものとなっていると言われています。
そしてさらに、東海10 (DH-10) は中国で開発された巡航ミサイルです。
ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリィによれば、東海10は第2世代の対地巡航ミサイル(LACM)で、射程距離4,000 km以上、統合慣性航法システム、GPS、地形照合システム、デジタル情景照合誘導装置を搭載していると報じています。このミサイルの平均誤差半径は10メートルと推定されています。
このような核弾頭長距離ミサイルは原子力潜水艦からも発射されるので、原潜を太平洋に展開し発射すればアメリカ本土の全ての範囲を射程内に入れることが出来るのです。
それでは中国の原子力潜水艦はどのように配備されているのでしょうか?
以下の文献に詳しく出ています。
原子力潜水艦:https://ja.wikipedia.org/wiki/094%E5%9E%8B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6
093型原子力潜水艦(商級)は、その船体を延長し潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を搭載した潜水艦でです。この潜水艦は核抑止力確保のための弾道ミサイル搭載原子力潜水艦なのです。
1番艦(407号艦:長征7号)は、遼寧省の葫蘆島造船所で2004年に進水、2番艦(408号艦:長征8号)も進水済みです。就役時期は1番艦が2008年頃、2番艦が2010年頃と推測されていましたが、平成22年度防衛白書においては、その就役は確認されていません。ただし、2014年時点では3隻が就役し、後続艦も建造が続いている報じています。
そして潜水艦発射長距離ミサイルの現状は以下の文献にあります。
潜水艦発射長距離ミサイル:https://ja.wikipedia.org/wikiJL-2_(%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB)
JL-2(Julang-2,巨浪2号)は中華人民共和国が開発中の潜水艦発射弾道ミサイルです。アメリカ国防総省のコードネームとしてCSS-NX-4が付けられています。1980年代中頃より開発が開始されました。
大陸間弾道ミサイルDF-31(東風31号)は潜水艦発射型であります。
三段式の固体燃料ロケットで、晋型原子力潜水艦(094型)に12基搭載されます。弾頭は3個以上のMIRVと推測されています。夏型原子力潜水艦に搭載・配備中のJL-1 SLBMは射程が2,000km台の単弾頭で、ハワイ以東に進出せねばアメリカ合衆国本土を攻撃できず、アメリカに対する核戦力としてはあまり有効でないものであったのです。
しかし、JL-2は射程が8,000km以上と推測されており、中国近海からアメリカ本土を核攻撃できる能力を持つと言われています。
以上を簡潔にまとめると中国がアメリア本土を攻撃できる核弾頭ミサイルを多数保有し、その発射装置も中国本土太平洋上の原子力潜水艦の両方に設置しています。
現在、航空母艦の遼寧号の一隻だけですが、ニ隻目も建造中と推定出来ますので中国はやがて複数の空母艦隊を太平洋に展開するようになるでしょう。
そうすればアメリカ軍と互角の抗争になります。
中国の軍備がアメリカと互角になれば、それは日本にとっても大きな脅威になります。
将来、日本はこの中国の脅威に対してどのようにしたら良いのでしょうか?
皆様のご意見を聞かせて頂ければ幸いです。今日の挿絵は中国の空母、遼寧と原子力潜水艦の写真2枚の合計3枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





洗礼のお蔭で中国人も韓国人も西洋人も好きになった

2015年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
1971年に洗礼を受けました。自分の悪い人間性はさっぱり良くなりませんが、洗礼を受けたお蔭で考え方が少し変わったと思っています。いろいろな事柄を考える時の視点が少しだけイエス様の影響を受け、変わってきたのかも知れません。
今日は外国人に対する私の排他的な考えが無くなったことを書いてみます。全ての外国人に親しみを感じるようになったのです。
洗礼を受けたのはカトリックという宗派でした。この宗派はローマのバチカンに本山があり世界中に無数の教会があります。そしてその教会の扉の鍵は四六時中開いていて、毎日、ミサがあるのです。ミサの式次第は万国共通で同じです。
ですから仕事の出張でも観光旅行でも気軽に外国の教会に入って行けます。
そこで祈っている人の様子を見ると何故か、「青菜に塩」という風情です。自分の弱さで、教えにそむいて悪いことをしてしまったようです。私と同じです。
旅先で私はいろいろな外国のカトリック教会に行きました。中国で、韓国で、南米のベネズエラで、ドイツで、フランスで、そしてスイスで。
そんな思い出の中で、一番衝撃的な場面を見たのが中国の瀋陽市のカトリックの教会でした。
それは1981年のことでした。東北工学院の金応培教授が連れて行ってくれました。
その教会はかなり大きな西洋風の建物でしたが、見る影もなく荒れ果てていたのです。
1966年から1976年の10年間の文化革命という凄惨な内戦で全ての宗教施設が紅衛兵の襲撃を受けて破壊されたのです。
当時の中国は丁度、日本の終戦後のように疲弊し、町々には闇市場が広がっていたのです。
現在の繁栄した中国からは想像も出来ない貧困と荒廃があったのです。
そんな状況は瀋陽も同様でした。
外観が荒れた教会の屋根には急ごしらえの十字架が立っています。中に入って見ると満員です。その満員の信者がささくれだった木の床にじかに座って礼拝をしていたのです。教会中の椅子は紅衛兵が薪にしてしまったそうです。
ミサの終わりころに神父さんがイエスの体と言ってパン切れを信者一人一人の口に入れて食べさせてくれます。粗末な身なりで栄養失調のような人々が行列をして祭壇の前で膝まづいて口を開け神父さんがパン切れを食べさせているのです。パンを受けた人々の顔が輝いていたのです。
そんな光景を見た私は中国人の強い親しみを覚えました。その気持ちは終生変わりません。
同じ様な体験を韓国でもしました。日本の援助で出来た浦江製鉄所の技師だった韓さんが大丘市にあるカトリック教会へ連れていってくれたのです。
教会の内部やミサの様子は日本と全く同じでした。私は韓国人が好きになってしまいました。
最後に忘れ得ぬ外国での体験を書きます。
それは1986年の頃でした。南米のベネズエラの首都のカラカスのことでした。
広大な闘牛場での野外ミサに出席したのです。広場の中心に赤い絨毯を敷き祭壇が置いてあります。観客席は信者で埋まっていました。皆は郊外の丘の上に住んでいる貧民だそうです。しかし清潔な服装をしています。
その人たちと一緒に聖歌を歌いお祈りをしたことが忘れられません。イエス様は取税人や貧しい人々を愛したということを思い出しながら祈ったのです。
このような体験をすると他の宗教もみな同じではないかと感じるようになるのです。
そこには仏教もイスラム教も人間の弱さと許しの祈りをしていることには相違が無いと思います。
その体験から私は全ての外国人に差別なく親しみ感じいるのです。
今日の挿絵は4月に訪問した五島列島の教会の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





西洋人と日本人の共通性と相違・・・中国の脅威を深く考える為に

2015年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
この数日、「巨大な中国の脅威」という連載記事を書いています。
そうすると脅威の根源には中国人と日本人との違いが関係しているのかという疑問に突き当たります。ですから私は中国の脅威の原因は人間性の違いなのか政治体制の違いなのかという問題を考えています。
その問題に進む前に比較的明快な問題を取上げてみたいと思います。
それは「西洋人と日本人の共通性と相違」という問題です。個人的な例外を上げればきりがありませんが、大雑把な比較をして見ようと思います。
素人の夏の夜の小話ですから目くじらを立てないで読み飛ばして下さい。
さて明治の文明開化以来、日本にとって、欧米人を理解して、その文明文化を早急に輸入することが国家目標であったのです。蒸気機関、ジーゼルエンジンなどの科学技術の導入は素早く出来ました。
しかし欧米人を理解するという問題は困難なこととして現在も残っています。
欧米人を理解するにはキリスト教徒になるのが手っ取り早いという説もあり、明治時代から洗礼を受けた人も少なくありません。
キリスト教徒になると欧米人の人間としての弱さはよく理解できます。日本人と同じように人間としての弱さを持っていて親しみを感じます。その側面は日本人と共通な性質です。
しかし相違点が見えて来ません。単に人間の弱さは世界のどの民族も同じだという感慨に捉われるだけです。
そこで宗教から離れて、彼等の考え方や行動を冷静に観察してみます。
すると欧米人の違いの一つは、合理主義が大きく人生に根付いていることです。この点が日本人と非常に違います。
人間は鳥でないから空を飛べない! そんなことはありません。ライト兄弟が飛行機を発明したではありませんか! 帆船は追い風を受けて走るのだから風上には走れない! 本当にそうでしょうか? それなら実験をしてみよう!
そういう発想を持つのが西洋人の実験実証主義です。合理主義の基盤になっています。 
帆の形を色々変えて実験をしてみたところ、風上に走ったのです。 もっと早く風上へ走る船の形と帆の形はどう改良すればよいか? 改良を重ねる度に実験をする。そうして1500年ころに3本マストの外洋航海用の帆船が出来上がったのです。
東洋人には実験実証主義的な考え方が弱いようです。これこそが東洋人と西洋人の重大な一つの相違と私は信じています。
西洋人が他の民族を制圧して多数の植民地を手に入れることが出来たのは、この実験実証主義のお陰ではないでしょうか?
私は25年間、クルーザーヨットで帆走する趣味を持っていました。
ヨットに乗って、その部品一つ一つにひどく感心したのです。部品はその役目を果たすために実に合理的に出来ているのです。そして船全体の構造の無駄の無さ、絶対に転覆しないキールの重さ、などなどを体感的に理解すると、欧米人の合理主義の極地が理解できるのです。
これこそヨーロッパ文化の合理主義の真髄と、クルーザーに乗る度に感動しました。
キリスト教は欧米人の精神文化です。そして彼等の物質文明の本質は合理性にあります。
工業製品では無駄をそぎ落とし、目的の性能や機能を出すために徹底的に改良していきます。自動車も飛行機もインターネット技術もそのような努力の積み重ねによって出来あがってきたのです。この技術発展の分野では、日本人の貢献は非常に少ないのが実態です。
科学者や技術者はこのことをよく知っていますが、それ以外の人々はそのように理解していません。
さてここで日本人と中国人を大雑把に比較してみましょう。
雑に言えば日本人も中国人も同じような人間性を持っています。ですから中国人は人間性に劣るという非難は間違っています。私は立派な人間性を持っている中国人を幾人も知っています。
しかし中国人も合理主義的な考えが弱いのです。そしてその弱さが共産党独裁を受け入れているようにも思います。昔から何代も王朝文化の中で生き、専制君主の元で平穏に暮らす知恵を本能的に身につけているのではないでしょうか?
現在の専制君主は国家主席です。中国が日本にとって脅威なのはこの専制君主制のような政治体制とそれを自然だと思う文化なのだとも考えられます。そうして、時の国家主席が自分の権力維持の為に意図的に外国との争いを作るのも中国の政治ではないでしょうか?
中国の個人の人間性と政治体制とを区別して考えると中国の脅威の原因が少し分かるような気がいたします。雑な夏の夜話でした。今日の挿絵の写真は伝統的な日本の農家の写真です。以前に富士山の山麓の忍野村で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







湧水が涼しげに流れる日野市黒川清流公園

2015年07月24日 | 写真
浅川の河岸段丘の雑木林の崖の下に清い水が沢山の泉から湧き出しています。
どんな暑い日でも、そこに行けば清流があり、雑木林が風に揺れていて、涼しい気分になります。
多摩平の森と、その下の住宅街が接する縁に湧き出る湧水を利用した、道路沿いの細長い公園です。 2006(平成18)年、手づくり郷土賞大賞を受賞し、東京の名湧水57選にも選定されています。
一昨日、写真を撮りに行きました。 暗い森に覆われているので写真がうまく撮れません。涼しげな感じも表現出来ていません。
でも皆様の想像力で涼しい感じをお楽しみ下さい。五枚目の写真は、下記から転載させて頂きました。場所のご案内も出ています。
http://www.mapbinder.com/…/T…/Hinoshi/Kurokawa/Kurokawa.html









巨大な中国の脅威(2)習近平の粛清政治の脅威

2015年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
かつてソ連のスターリン首相は政敵をつぎつぎに処刑することによって長期政権をほいしままににしました。
最近でも北朝鮮の金正恩書記によって張成沢元国防副委員長が粛清処刑され、その上、張氏の親族の大半も処刑されたのです。この粛清は金正恩書記の個人的な指示により行われ、処刑の対象者には幼い子どもも含まれていたそうです。
このような粛清は共産党独裁体制ではどうしても避けて通ることの出来ない暗黒政治のようです。
中国では、流石にいきなり政敵を銃殺はしませんが、汚職摘発という理由で拘束し、裁判にかけ有罪にし、政界を追放する手法がとられています。
習近平主席は昨年以来大物の政敵を汚職罪で有罪にして終身刑にしてきました。
最近では、前任者の胡錦濤主席の側近だった令計画氏を汚職容疑で逮捕しました。有罪、政界追放は今後の展開です。令計画氏は中国の胡錦濤主席の政治基盤だった「共産主義青年団」の出身で、胡錦濤主席を支え、その政治手腕は抜群だったという評判でした。
習近平の粛清の対称は江沢民政権の側近にも及んでいます。
元重慶市のトップだった簿氏は汚職容疑で逮捕され裁判にかけられ2013年10月に無期懲役が確定しています。
そして江沢民時代に政治局常務委員だった周永康も今年の6月に収賄罪で無期懲役が確定しています。
これら3人は有名な政治家でしたので日本の新聞にも報道されています。しかし汚職の罪で有罪になったり、左遷された政治家は非常に数多くいると想像されます。
そして当然のことながら、その粛清の対称は習近平主席に対抗する政治家に限られています。
汚職や収賄の摘発は習近平主席の派閥に入っている人は対象にされません。
これは中国の常識です。
汚職や収賄は古代から中国文化の重要な一部なのです。その時代の習慣にしたがって文化的に行えば誰も非難しません。しかし限度を超えて露骨に行えば非難され左遷されて来たのです。
最近の習近平主席による汚職摘発は政敵の粛清なのです。
何人かを逮捕、粛清すれば他の数多くの対抗者が恐怖します。そして否応なしに習近平主席に平身低頭して従うようになるのです。
これが中国の政治なのです。
それでは、この政治形態が何故、日本の脅威になるのでしょうか?
中国国内のことだから日本には関係ないと言う人もいるでしょう。
しかしこの粛清による恐怖政治は中国人の考え方にも深い影響を与えます。
中国の民衆は時の政権の言うことに従順に従うようになるのです。従わないと中国社会では生きて行けないのです。ですから中国人は中央政治の権力闘争に敏感に反応します。その権力闘争の詳細を新聞に頼らないで口コミで瞬時に知っているのです。
実は、このような中国人の政権に対する従順さが日本にとっての脅威になるのです。
中央政権が南京事件で30万人虐殺されたと発表すれば15億人の中国人が、そうだ!と叫んで政府を支持します。尖閣諸島は中国のものだと言えば民衆は熱狂的に支持します。
南シナ海で飛行場を作って軍事基地にすれば中国の大衆がその政策を支持するのです。
これが共産党一党独裁のもとで起きる極く自然な社会現象のようです。
以上を分かりやすく要約します。
(1)共産党一党独裁が原因になって、粛清による恐怖政治が出来上がります。
(2)この恐怖政治が国民大衆を時の政権の熱烈な支持者にします。そうしないと中国では生きて行けないのです。
(3)この大衆の従順さが日本の脅威になるのです。
中国人全員が南京で30万人虐殺されたと信じています。尖閣諸島は中国領だと信じています。それは彼等の生きる延びる方法なのです。日本人がそれは間違っているといくら叫んでも文字通り馬耳東風なのです。

私は1980年から10年間くらい中国へ何度も行き、中国人と深いお付き合いをしました。
その体験から、私は、中国人の現在の政治制度とそれへの従順さは欧米の植民地主義がその原因になっているのではないかと考えています。これは私の思い込みかもしれませんが、中国はソ連の援助のお蔭でで独立出来たと思います。
英国や欧米の植民地にならず、独立国家を樹立するためにはソ連の助けをかりて、共産主義を選ぶ方法しかなったのです。その結果、ソ連は中国を財政的に援助し、1949年から1959年まで中ソの蜜月期間があったのです。
しかし共産主義を選んだことは中国人の悲劇であり、悲運なのです。
ですから私は中国人を見下すことが出来ません。同じ人間として同情を禁じ得ないのです。(続く)
今日の挿絵の写真は中国の風景写真3枚です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






巨大な中国の脅威(1)公海における軍事基地とガス田掘削施設の建設

2015年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
経済的に躍進している中国は日本にとっていろいろな意味で脅威です。
そこで今日から「巨大な中国の脅威」と題する連載記事を書いていきたいと思います。私はももとより専門家でもありません。一人の素人として日頃考えてる中国の脅威の具体的な幾つかの例を気楽に書いて行くつもりです。
間違いや私の思い込みがあったらどうぞお許し下さい。
何故、中国が脅威かという根本的な原因は共産党一党支配という政治体制にあります。民主主義という考えが皆無なので国際的にも独裁的な政策を取るようになるのです。
この観点から考えると韓国は民主的な政治体制を持っているので、究極においては日本の脅威にはなりません。ですから中国のいろいろな意味での脅威の根は深いのです。
第一回目の今日は、脅威の具体的な実例として日本に近い東シナ海での中国による16基の海上ガス田掘削施設の建設と、南シナ海における飛行場などの軍事基地の建設を取上げたいと思います。
まず海上ガス田掘削施設の写真や記事は、http://www.nikkei.com/article/DGXLASDE22H0G_S5A720C1000000/ に掲載してあるのでご覧下さい。
記事によると日本と中国の中間線の近辺で中国側は一方的に2013年以降、あらたに12基もの海洋プラットホームを建設したのです。以前からあった4基と合計すると16基の海上プラットホームが出来上がったのです。
これらの巨大な構造物は海底の天然ガスの掘削のためです。しかし軍事的な目的のレーダー基地にも利用出来るのです。それだけでなくヘリコプター基地として利用可能な上、中国海軍の補給基地も使えることは素人の私でも想像出来ます。
この海上施設は日本と中国の中間線の中国側なので中国は勝手に作ってしまったのです。
国際世論など無視です。民主主義的な考えがありませんから外国の意見など始めから無視です。とにかく外国が何と言ってもその意見は無視して良いと固く信じているのです。ですから何を言っても無駄なのです。だからと言って沈黙したら、中国はますます公海上に軍事補給基地を作るでしょう。
その実例が南シナ海における飛行場の建設です。建て前は民間機のための飛行場と称していますが、誰が考えても軍事目的だと判断出来ます。何故なら、その附近は観光開発されていないからです。
観光客が行かないのに民間の航空会社が飛行機を飛ばすでしょうか?
下に建設中の飛行場の写真と完成後の滑走路の写真を示します。

上の写真の出典は、https://www.youtube.com/watch?v=jwLA1gO6aY8 です。

これらの軍事基地の建設は中国の土木技術の進歩によるものです。
そして16基の海上プラットホームは海底の天然ガスの掘削技術の進歩によるのです。
日本人は中国製品の品質が悪いと言い、中国の科学技術が劣っていると批判します。
しかし日本の高度成長が日本の技術を躍進させた例を考えれば中国の科学技術も現在急速に進歩中なのです。
それがもう一つの脅威になるのです
中国の技術の進歩は例えば建築技術の進歩にも見られます。下の写真は上海の新市街の風景です。
外国の建設会社が関係した高層ビルもあるでしょう。しかし中国の建築技術は侮れません。

中国の技術が進歩しても恐れることは無いと言う日本人が多いようです。しかし日本の工業分野の幾つかの分野は大きな衰退を招くでしう。例えば日本が誇っていた金型製造技術は中国に追いつかれたと言う人もいます。
中国の脅威は根本的には共産主義にあると冒頭に書きました。
下の写真は現在の天安門の写真です。相変らず中国の最大の偉人は毛沢東首席なのです。
彼は相変らず、「中華人民共和国万歳!」と、そして「世界人民大団結万歳!」と叫んでいるのです。

中国は小平の時代から市場主義的経済に変わりました。経済は資本主義で発展しているのです。それでつい我々は日本と中国の違いを忘れがちになります。共産党独裁は国際社会でも独裁的になりがちです。それを正当化するのは人民の団結による人民の開放なのです。人民の生活向上なのです。(続く)

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

暑い昼間に墓参りに行ってきました

2015年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
その方とは1962年の冬から53年間の淡いお付き合いでした。時々お会いして少し話をするだけでしたが、彼の優しい性格が印象深いものでした。昨年の5月に急に亡くなり、今年の5月に墓に入りました。
彼岸でもなくお盆でもなく、誰もいない静かな頃に独りで墓参りをしようと思っていました。今日の昼食後、お線香を持って出かけました。
そこは私の家から車で1時間くらいのところで、独立した墓地でした。昔は水田に囲まれた村の共同墓地だったようです。
独りで真昼の墓地にたって、裏山を見上げると夏の風が梢をなびかせていました。
静かです。墓地の散歩が好きな私はこの墓地も時々訪れて彼の優しさを偲びたいと思います。