後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

欧米に咲く可憐な野バラ5種と日本の野バラ

2019年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
花の栽培をしている方々は多いものです。しかし種を外国からも取り寄せて丁寧に育て、花々を咲かせている方は少ないようです。
その珍しい花々の写真を沢山掲載してあるブログがあります。
『KITAHOのデジカメ散歩』というブログで、URLは、http://kitaho321.blog25.fc2.com です。
KITAHOさんは横浜に住んでおられ、毎日のように自転車で郊外の野原やお寺を巡りながら自然に生えている小さな草花を見つけては美しい写真を撮っています。
自宅の庭じつにいろいろな珍しい原種の花を育てています。
そして山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓にロマンチックな別荘を持っていて、そこでも草花を育てています。別荘の隣の雑木林を地元の人から借りてそこに自然に咲く草花も観察しています。私は何年か以前にその別荘を訪れて花々のお話を聞いたことがあります。博識で、まるで植物学者のようです。
今回、その『KITAHOのデジカメ散歩』からから欧米の野原に咲く原種系の可憐な野バラ5種の花々の写真と説明文を以下にご紹介することにしました。尚、説明文の中にある「秘密基地」とは甲斐駒岳の山麓にある別荘のことです。そして日本の野バラもご紹介します。
===『KITAHOのデジカメ散歩』からの抜粋==========
原種系のバラの開花が進んでいます。
今までこのようなたくさんの、原種系のバラの開花に間に合うこともなかったのですが、嬉しい出来事です。
連休中には、秘密基地の滞在は避けていますので、ほとんどが連休中に開花が進み、ほとんど開花のタイミングを逃していたのが実情でした。
しかし、今回はびっくりするほど開花にぴったりです。

1番目の写真はRosa eglanteriaという名前の野バラです。 英名はスィートブライアー(sweet briar)といいます。
 イギリスから北ヨーロッパ、コーカサス地方や小アジアに分布しています。葉には青リンゴの香りがほのかにします。

2番目の写真はドッグローズと言われますヨーロッパの野バラです。Rosa.caninaです。
秋には美しいローズヒップを付けます。それは見事なものです。花は一重の小さなものですが、うっすらとピンクを帯び、清楚な感じがします。

3番目の写真はスコッチローズの花です。Rosa spinosissima `bicolor’です。
ヨーロッパ、西アジア原産で、暑がり屋で、横浜当たりでは栽培に難儀しますが、ここ八ヶ岳南麓ではなんとか生育しています。

4番目の写真は北米原産の野バラです。Rosa Nutkanaです。
北アメリカ北西部、アラスカからカリフォルニア北部までの海岸に分布しています。
なかなか出会うことの少ない野バラです。やっとの思いで入手。秘密基地で元気に育っています。

5番目の写真は彩りとして、はっとするような赤色を彩るRosa.moyesiiという野バラです。
1890年に英国のプラントハンター ウイルソン(Ernest Henry Wilson(1876-1930)により発見され、1894年に紹介された原種バラ。
自生地は四川省と雲南省の標高3000m付近と言われています。

さて野バラと言えば「わらべは見たり、野なかのバラ・・・」という歌を思い浮かべる人お多いと存じます。
有名なゲーテの「野バラ」の詩にシューベルトが作曲した美しい歌謡です。
https://www.youtube.com/watch?v=hT4j56FjUiE をクリックすると聞こえます。
同じ詩にウェルナーも曲をつけました。https://www.youtube.com/watch?v=YXaqcsvB-aE をクリックすると聞こえます。
下記に歌詞をお送りします。
「野なかの薔薇」
ゲーテ詩・近藤朔風訳詞

童(わらべ)は見たり、野なかの薔薇(ばら)。
清らに咲ける、その色愛(め)でつ、
飽(あ)かずながむ。紅(くれない)におう、野なかの薔薇。

手折(たお)りて往(ゆ)かん、野なかの薔薇。
手折らば手折れ、思出ぐさに、
君を刺さん。紅におう、野なかの薔薇。

童は折りぬ、野なかの薔薇。
折られてあわれ、清らの色香、
永久(とわ)にあせぬ。紅におう、野なかの薔薇。

ゲーテの詩もお送りします。
Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
war so jung und morgenschön,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

Knabe sprach: "Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!"
Röslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
ところで日本の野バラはノイバラとも呼ばれ、原野の日当たりのいいような場所でたくさんの白花をつけています。以下は、https://seppuka.exblog.jp/18090875/ からの抜粋です。
ノイバラはツル性のようですが、ツルが引っかかる場所がない所では、高さ1m程度に叢生しています。日本のノイバラは九州産の「ツクシイバラ」を除くと、白花で花の直径が2~3cmで小さいものです。枝先の花序につく花数は、ヨーロパ産は7以下ですが、ノイバラは10以上になります。

6番目の写真は日本の野バラです。この野バラは日本に古くから咲いていて俳句や和歌にもうたわれてきました。
江戸時代の与謝蕪村の俳句です。
 愁いつつ 丘に登れば はないばら  蕪村
 花いばら古郷の路に似たるかな    蕪村 

そして万葉集にも謳われています。イバラは万葉時代にはウマラと言いました。トゲのある植物の総称です
 道の辺の うまらの末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を はなれか行かむ
   丈部鳥(はせつかべのとり)、巻二十 4352

バラの起源は一説によると今から約7,000万年前~約3500万年前とも言われています。チベット周辺、中国の雲南省からミャンマーにかけて野生の原種が多く生息していることから、このあたりで生まれた可能性が高いのではないかと言われています。ロサ・シノウィルソニーという白い小さな野バラが原種とされており、この花は現存し、今も育てられています。

7番目の写真はこのノイバラの写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ノイバラ です。

今日は欧米に咲く可憐な野バラ5種と日本の野バラを写真で示し、それにまつわる詩や俳句や和歌もご紹介しました。7,000万年前~約3500万年前に地球上に現れた野バラは古今東西の人々を長い間楽しませてくれたのです。
こんなに長い歴史のある花は他にあるでしょうか? 考えると不思議です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

台湾の少数民族保護政策を讃える

2019年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
私の趣味は文化人類学です。学者でなく素人ですが、世界中の少数民族の文化をあれこれ調べては楽しんでいます。
今日は台湾の少数民族をご紹介したいと思います。特に台湾は少数民族を保護し、専用のテレビ局があるので感動しています。
台湾には現在でも16もの異なる民族が住んでいる興味深い国です。台湾の中華民国政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その人口は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増えています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい。
それでは早速、現在の台湾の原住民の写真をご覧ください。

1番目の写真は2015年のミス世界コンテストへ中華民国代表として参加した女性の写真です。台湾原住民のアミ族出身の陳海琳さん(21歳)がミス台湾のグランプリに選ばれたのです。 台湾には少数民族への差別の無い証拠ではないでしょうか?
この写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。

2番目の写真は原住民の祭の踊りの写真です。
この出典は、http://newhoshu.blog.jp/archives/4513845.htmlです。

3番目の写真は2015年に東京で開催された台湾との交流会での台湾原住民舞踊団のパフォーマンスです。
写真の出典は、http://blog.taiwannews.jp/?p=13944 です。

4番目の写真はパンツァー(北部アミ族・南勢アミ族)のチケプ集落の豊年祭の様子です。
一般的にはアミ族と呼ばれますが、花蓮周辺の人々は自らをパンツァーと称しており意識の上でもはっきりとした独自性をもっているのでパンツァー族と記します。
写真の出典は、http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress/index.php?cat=18 です。

さて私の趣味は文化人類学なので、いろいろな民族の観光客向けの写真を多数見てきました。多くは失われた祖先の文化を悲しみながら踊りを見せている写真です。観光客のために笑顔を作っていますが何か悲しそうにしています。
ところが台湾の4枚の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。現在、このような屈託の無い顔をしている少数民族は珍しいと思います。
そして台湾の原住民は女系民族が多いので女性が大切にされ祭の主役も女性が7なることが多いのです。

そして台湾の政府がこのような少数民族を大切にしているのです。
そこでその政策を簡単にご紹介します。
以下は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 からの抜粋です。
1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されました。そして民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年には「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしたのです。
さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められています。
台湾では少数民族は大切にされているのです。

台湾の原住民は現在、平地原住民と山地原住民(高山族)に分けられております。
2008年6月末、高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占めています。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高いのです。
以下は政府認定16民族と人口です。
各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、

セデック族統計無し。
アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人

5番目の写真の図面は各民族の主な居住地を示しています。
この図面の出典は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 です。

さてこれらの台湾の原住民は何処から来て、何処へ移住して行ったのでしょうか?
この謎は、「台湾資料」(http://www.gicas.jp/taiwan/index.html )に明快に解明されています。
台湾原住民の言語はオーストロネシア語族に属しているので南方から移住したと考えられています。
そして他のオーストロネシア諸語で既に失われた古い特徴をよく保っていることから、オーストロネシア祖語からもっとも早く分かれた言語だろうと考えられています。
しかし詳しいことは長くなり過ぎるので続編に譲ることにします。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?続き

2019年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
1929年12月2日、中国の考古学者 裴文中が北京原人の完全な頭蓋骨を発見します。そして合計十数人分の原人の骨を発掘したのです。
この北京原人は我々の祖先の現生人類ではなく絶滅種でした。
現生人類のホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで進化したのち、6万年前にアフリカを離れて長い歳月を経て世界各地へ広がったのです。先住の北京原人やアンデルタール人が絶滅した後をついだのです。
日本には約4万年前から人間が住んでいたと考えられます。その頃はまだ土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。この時代を無土器、旧石器時代と言います。
その一方中国には北京原人が68~78万年前から住んでいました。この北京原人も土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。旧石器時代だったのです。北京と陸続きの朝鮮半島にも当然数十万年前から人間が住んでいたと考えられます。
今日は昨日の記事「日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?」の続きをお送りします。
日本の旧石器時代の人々がどのような生活をしていたかを写真でご紹介いたします。なお新石器時代とは土器と石器を併用していた時代で日本では縄文時代と言います。

神奈川県の相模原市の田名向原には旧石器時代の人間の生活の様子を絵にした展示が何枚もあります。
田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されているのです。
私は展示館にある絵画を写真に撮りました。以下にその写真を示します。

1番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

2番目の写真は旧石器時代の数人の男性が石器の穂先をつけた槍で大ツノシカを倒している様子を示しています。

3番目の写真葉は旧石器時代の狩人の姿です。槍の先には黒曜石で出来た鋭利な穂先がついています。黒曜石は長野県の和田峠や伊豆七島の神津島でとれ全国に流通していたのです。

4番目の写真は2人の男が小屋の前で石器を作っている様子です。小屋の屋根は獣皮で葺いています。これは裕福な家で、普通は木の枝葉や茅で屋根を葺いていました。

5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。発掘された動物の骨から大ツノシカとイノシシがよく食べられていたことが分かっています。
これらの写真を見ると日本の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。

ここで強調したいことは焚火があったが土器が一切無かった事実です。採集や狩猟て得た食料は焼いて食べるしか仕方が仕方が無かったのです。焚火の中に立てて煮る土器の鍋が皆無だったのです。土鍋で蒸したり炒めたりして料理することが不可能だったのです。
これでは採集や狩猟て得たもののアクを抜き柔らかく煮て食べることが出来なかったのです。
ですから無土器の旧石器時代の人々は度々飢饉になったと考えられています。
この苦難を救ったのが焚火の中に立て煮る土器の鍋でした。蒸したり炒めたりして料理出来るようになったのです。これこそ古代の人間にとって革命的な出来事でした。その後、日本の人口が増えて行ったのです。

そして石製の刃先をつけた鍬や農機具は石臼と共に縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方ではほとんど変わらなかったのです。
支配階級の生活は時代が進むと中国文化の導入によって大きく変わって華美になりました。
しかし地方の農民は掘っ立て小屋に住み、土器や木製や石器の農具をも相変わらず使っていたのです。
青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。

農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったのです。
学校で教える日本の歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝えています。
一般の人々の生活の実態は教えません。

今日は日本に2万年前、初めて住み着いた人々の生活の様子を写真で間単にご紹介しました。
北京原人の時代に比べると68~78万年も後のことなのです。日本には北京原人は移住しなかったのです。
日本が海に囲まれている事実の重さをあらてめて考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
(1)http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

(2)はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。

「日本最大級の広大なユリの花畑の写真」

2019年05月29日 | 写真
日本の東北地方の宮城県、一迫(いちはさま)ゆり園には花々の大群落が初夏の丘陵に広がっています。
私どもは2008年の初夏に訪れました。その時撮った写真をお送りします。ユリの花の群落をお楽しみ下さい」
詳しくは、『「南くりこま高原一迫ゆり園」
https://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=1408』をご覧下さい。









日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?

2019年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には約4万年前から人間が住んでいたと考えられます。その頃はまだ土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。この時代を無土器、旧石器時代と言います。
その一方中国には北京原人が68~78万年前から住んでいました。この北京原人も土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。旧石器時代だったのです。北京と陸続きの朝鮮半島にも当然数十万年前から人間が住んでいたと考えられます。
今日は日本の旧石器時代の人々がどのような生活をしていたかご紹介いたします。なお新石器時代とは土器と石器を併用していた時代で日本では縄文時代と言います。

それではまず北京原人の簡単なご紹介から始めます。
北京原人とは北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された人類です。そこには立派な展示館があり北京原人の生活の様子が展示してあります。私は1981年に北京鋼鉄学院の周栄章教授の案内ではるばる訪問したことがあります。南アフリカで誕生した人類が遠方の中国までやって来たのです。それは感動的な展示館でした。
北京原人は2015年現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として分類されています。
北京原人が生きていた時代は更新世でした。そして北京原人の化石の年代は68~78万年前と推定されています。
北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人ですが現生人類の祖先ではなく、ネアンデルタール人と同じように絶滅しました。
石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたと分かっています。動物の骨が見つかったことから、獣を狩猟して焼いて食べていたと考えられています。
しかし土器のかけらも見つかっていないのです。ですから北京原人は無土器の旧石器時代の生活をしていたのです。

1番目の写真は周口店にある北京原人の遺跡と展示館の入り口の写真です。
さて話は変わって日本の無土器の旧石器時代のことをご紹介したいと思います。
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。すると以下のような時代区分が出来ます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (24000年間)
縄文時代 14000年前頃 – 前3世紀頃 (11700年間)
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年 、
これ以降は平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山、江戸時代、現代となります。
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約12000年間(正確には11700年間)も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、新石器時代と呼ばれる縄文時代の合計約36000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かりいただけると思います。
ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や獣肉や魚介類は煮て食べることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。
日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い旧石器時代の生活の実態が少し分かりました。

2番目の写真は20000年前の旧石器時代の住居跡です。相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。
この写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見と言う理由を簡略に以下に書きます。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の岩宿遺跡の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成時代になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まるまでの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。
ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

3番目の写真は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されているのです。

これ以上は長くなりますので明日の続編にします。

今日は日本に初めて住み着いた旧石器時代の生活の様子を間単にご紹介しました。北京原人の時代に比べると68~78万年も後のことなのです。日本が海に囲まれている事実の重さをあらてめて考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本一 130万本のヒマワリが咲く風景

2019年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
日本列島は南北に長くつらなる国です。ですから花々の咲く時期が場所によって違います。気候も非常に違います。
来週は6月に入り、いよいよ鬱陶しい梅雨の季節がはじまります。この梅雨という雨期は北の北海道にはありません。
今日は曇り後雨という天気予報で暗い気分です。
そこで梅雨の無い北海道の花畑の風景写真を検索しては、あれこれ眺めて楽しんでいました。
その花々の写真から「北竜町ひまわりまつり」の風景写真をお送り致します。
この5枚の写真の出典は次の通りです。
https://photos.google.com/share/AF1QipPw7JWhwGQIkMn-BL_PMGsvm6ceTqcshI_wiEygM8QgmMtH-D0Y81HPJAEmEwTTzA?key=YTBjSzd5aTlSRTZEM1FxQXNiSml0aDBiSzd5THl3









この北竜町(ほくりゅうちょう)のヒマワリ畑の説明を簡単に致します。
説明は、https://www.travel.co.jp/guide/article/1618/ によります。
北竜町は旭川と同緯度にあり北海道の中でも北に位置しています。
従ってヒマワリの開花は少し遅めです。天候などによりヒマワリの見頃の時期は毎年同じではありません。
日本のヒマワリの畑だけではなく「世界のひまわり」エリアも併設されているのでいろいろな品種の花が楽しめます。
またダチョウ牧場や合鴨牧場もあるのでダチョウや合鴨の元気な姿も楽しめます。特に子供たちには人気の牧場です。
このイベントは毎年「北竜町ひまわりまつり」として開催しています。
・開催場所:北海道雨竜郡北竜町宇板谷143-2
・入場料:無料(24時間観覧可)
・駐車場:500台(無料)

こんな記事を書いていると楽しいです。
今朝の新聞はトランプ大統領の天皇、皇后訪問や安倍総理とのゴルフの写真が大きく出ていました。
アメリカとそして他の外国とも仲良くすることは良いことです。気持ちの良いことです。安倍総理は良く働きます。外交にも力を入れる姿には好感を抱きます。今後も日中友好と日韓友好に努力してくれるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

昔の学生さんが栽培した野菜を送ってくれました

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
T君と知り合ったのは茫々50年くらい前のことです。初めて研究室で会った時は凛々しい青年でした。
その昔の学生さんが採れたてのソラマメと新玉ネギを沢山送ってくれたのです。T君は野菜の栽培が趣味なのです。毎年頂くたびに幸せな気分になります。

1番目の写真が今日届いた野菜の写真です。

T君は私が研究指導をして工学博士になった大学院の学生さんでした。そのような大学院の学生さんは数人いましたが、T君は気性の良い優しい人柄だったので印象が特に深いのです。
私のもとに5、6年いましたのでよく一緒に遊んだものです。
冬は家内や子供達と奥多摩のスケート場に何度も行きました。
甲斐駒の麓の山小屋にも泊まりがけで遊びにいきました。その折、釜無川でハヤ釣りを教えて貰ったのも楽しい思い出です。
T君の家は多摩川沿いの立川市にあったのでハヤ釣りの名人でした。
そんなこともあって私の山小屋の薪ストーブも作ってくれました。

2番目の写真の小川の手前の右側にある黒い鉄製の箱がその薪ストーブです。T君のお父さんが自分の経営していた工場で作ってくれたストーブです。
このストーブは毎冬やく30年間ほど使いました。その後、他の薪ストーブを買ったので不要になりました。
しかしT君との楽しい思い出が忘れられず、写真のように小屋の庭に安置したのです。この写真は2017年の4月に撮ったものです。
それはさておき、T君は工学博士になって大きな製鉄会社に就職し、そこの研究所に勤務します。
結婚式にもよばれましたので可愛い美人の奥さんにもお会いしたことがあります。
T君の勤務していた研究所は千葉市と瀬戸内海の水島市にありました。水島市の研究所にいた間は毎年、キビナゴの酢漬けを送ってくれました。T君の研究所での評判は抜群でした。人柄が良く周囲の人と協調して大きな研究成果を上げていたのです。
T君は定年後には千葉の自宅に住み、悠々と趣味の畑の仕事も楽しんでいます。奥さんもお子さんも孫達も皆健康だそうです。
私の一生は文字通り恥多い一生でしたが、T君やその他多くの学生君と知り合ったことが実に楽しい思い出になりました。
あれから茫々50年、T君も70歳前後になったはずです。
今日はT君が野菜を送ってくれたお陰で昔の楽しい思い出を次から次へと想い浮かべています。こうして老境の今日も感謝の念とともに流れ行きます。晴れ晴れした良い一日です。

北日本にある縄文時代の環状列石の謎

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
イギリスには巨石を使った環状列石(ストーンサークル)が多数あります。有名なストーンヘンジもストーンサークルの一種です。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル )
イギリスの環状列石は紀元前2,500年から2,000年の間に建てられました。
そして世界遺産に登録されたアフリカのセネガンビアの環状列石では発掘調査が行われ、8世紀から12世紀にかけての配石墓であることが判明しています。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル )
一方、このような環状列石は日本でも発見され、178もあることが分かっています。
しかもその4割があるのは秋田県です。(https://trip-s.world/stone-circle_akita )
この環状列石は北海道にもあります。しかし長野県から西では非常に数が少なくなります。
これら日本の環状列石は6000年前頃から造られたと言われています。
それは縄文時代の中頃です。
北海道と青森、秋田、岩手の北東北は縄文文化が非常に栄えた地方です。
しかしこのような大きな環状列石は何故造られたのでしょうか?
今日はこの謎に迫ってみたいと思います。

環状列石(ストーンサークル)とは石を円形状に並べた遺跡です。石の輪が一重、二重三重にもなっているケースもあります。何故このような構造になっているのか?またこの施設をどのように使っていたのか?などは分かっていません。
それでは環状列石の写真を示します。

1番目の写真はイギリスの環状列石です。イギリス湖水地方のスウェインサイド・ストーンサークルです。
イギリスにはこのような環状列石が多数見つかっています。

2番目の写真は北海道の森町にあるストーンサークルの写真です。写真に放射線状に走っているものは見学者用に作られた歩道です。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715 です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

3番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。直径が50m位あります。
この写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.html です。

4番目の写真は秋田県大湯のストーンサークルの周囲に復元した縄文時代の村の展示です。

5番目の写真は青森県の縄文遺跡の地図です。この青森と同じような縄文遺跡が多数北海道南部でも発見されているのです。北海道南部と青森には縄文文化が同時に花咲いたのです。
そこで北海道の歴史を概観してみましょう。
北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。
何故、北海道には、弥生時代や古墳時という時代区分がなかった?
そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。
本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道の縄文人(アイヌ人)は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」を迎えていました。(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/grp/04/nenpyou.pdf )

こんな縄文の歴史の中で北海道の森町の環状列石が造られたのです、
日本全土の縄文文化は主にアイヌ人の祖先が作ったのです。
本州の弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した人々と混血した日本人が担っていたのです。
従って、弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく理解できます。

さて環状列石は何故造られたのでしょうか?
その理由については次のような諸説があります。
(1)天文台説、
(2)お墓説、
(3)祭祀場説、
(4)これらを組み合わせた説。
縄文時代は漢字も導入されていませんから文献資料が皆無です。
ですから謎解きは想像に頼る他はありません。
縄文時代には天文観測の施設の遺跡が他に発見されていませんので(1)天文台説は可能性が非常に小さいと判断されます。
イギリスの環状列石の周囲から多数の人骨が見つかっているので(2)お墓説が有力です。
そしてイギリスで見つかっている人骨から頭蓋骨と大腿骨だけが無いことから、それらを取り出して部族の安全と幸せを祈る祭祀が行われたと推定されています。
先祖の霊が子孫の安全と幸せを守るという信仰は古代の多くの民族共通の信仰なのです。
縄文人も同じだったのでしょう。
それにしても環状列石は弥生時代以後は一切造られていないのです。何故でしょうか?
大胆な想像ですが弥生時代以後は中国特に朝鮮の文化の古墳文化が強力に導入されたため環状列石は消えて行ったのでしょう。環状列石はシベリア北部の民族の文化で古墳は中国、朝鮮の文化と言ったら間違いでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日のカトリック小金井教会のミサ風景です

2019年05月26日 | 写真
カトリック小金井教会の日曜日のミサは10:00時から11:00時までです。
今日のミサ風景の写真をお送りいたします。









教会というところは何方でも歓迎します。見学も自由です。どうぞ一度お出掛けになってみて下さい。
カトリック小金井教会の詳細は以下をご覧下さい。
http://tokyo.catholic.jp/archdiocese/church/tama/16037/
https://www.koganei-catholic-church.com/

ローマ法王と世界に広がる13憶人のカトリック共同体

2019年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
世界のカトリック信者の総数は12憶9900万人です。世界人口に占めるカトリック信者の割合は2016年には17.67パーセントです。
この約13憶人が全世界に広がるカトリック共同体なのです。
私もこの大人数の一人なのです。 そしてこのカトリック共同体の頂点がローマ法王なのです。
カトリックの組織は全て直接ヴァチカンの教皇庁の傘下になっています。
現在のフランシスコ法王は実に気さくな方で、世界各国の一般信者、とくに貧しい信者からは親しみをもって慕われています。
貧富の差が激しい南米から初めてローマ法王になって、いつも貧困階級に寄り添っている様子が従来のローマ法王とは非常に違う様子です。
フランシスコ法王の気持ちを想像すると、その人間的な考えに親しみを覚えます。法王との距離感が無くなりました。
新聞によると安倍総理も会見し、今年には来日する運びになりそうです。
嬉しいことなので書いてみました。
写真に安倍総理のローマ法王訪問の時の様子を示します。
続く2枚の写真は韓国訪問の時の写真です。
続く2枚もフランシスコ法王と信者の交流の様子を示す写真です。









今日はローマ法王と全世界に広がるカトリック共同体のことを簡単にご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

潮来のあやめのの思い出

2019年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ほぼ11年前の6月17日に私は霞ヶ浦の西端の土浦港から観光船に乗り、遥か東端の潮来のあやめ祭を見に行きました。
帰りがけに潮来のあやめの切り花を10本と根の株のついたあやめを3本買って来ました。
根の株のついたあやめを庭の水盤に植えたら株が次第に増えて毎年10本以上の茎に20個くらいの花が咲きます。
今年はまだ蕾も見えません。潮来のあやめ祭を思い出しながら今年も我が庭に咲くように祈っています。
今日は11年前に撮った潮来のあやめの写真をお送りします。

1番目の写真は今年、初めに咲いた潮来のあやめです。

11年前に買ってきた当時の10本の切り花のあやめです。
水揚げの良い花なので途中は水無しでも心配ありません。水切りをして大きな花瓶に入れ2日後に写真のように咲いたのです。
潮来で売っていた小母さんが、大輪の花を咲かせるには、「肥料を少しずつ途切れずに11月まで上げなさい。その間は水を張って置きなさい。冬は乾いた土で良いよ」と教えてくれました。
帰宅後、根っこのついた株を水盤に植え、十分な土を入れました。それから肥料を絶えさないで育てたのです。ご参考までに、切花10本で500円。株付きアヤメ花3本で1000円でした。
あれからもう11年になります。歳月の流れは早いものです。しかし潮来のあやめは律儀に毎年咲いて私ども幸せにしてくれるのです。
さらに3枚の写真で、2008年6月17日に撮った潮来のあやめの風景をお送りいたします。
どうぞ写真をお楽しみ下さい。





超大国アメリカの北朝鮮への経済制裁は理不尽

2019年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは世界で群を抜いた超大国と言われています。
そのアメリカが北朝鮮とイランへ核開発阻止のための厳しい経済制裁を実行しています。
その上アメリカは同盟国のEU諸国や台湾、韓国、日本にも北朝鮮とイランへの経済制裁を実行するように強要しています。
これに対して北朝鮮は経済制裁を緩和すれば核兵器廃絶を段階的に進めると言っています。
しかしアメリカは頑なに経済制裁を一切緩和しようとしません。
これはアメリカの感情問題でもあるのです。
北朝鮮は朝鮮戦争で数万人のアメリカ兵を殺し、その後もアメリカ海軍のフエブロ号を拿捕し反米活動を行って来たのです。
イランはイラン革命で親米のパーレビ国王を追放し、アメリカ大使館を襲い外交官を人質にしたのです。
アメリカはこれらの屈辱を絶対に忘れません。イランと北朝鮮に怨念が無いと言ったら嘘になります。
国際関係には残念ながらこのような感情問題が影響している場合があるのです。ですからアメリカのかたくなな態度を私は理解しているつもりです。
それにしても私は北朝鮮への経済制裁を緩和しない態度は理不尽だと思っています。
はっきり言えばこの問題ではアメリカが悪いのです。
今日は昨年の2018年04月28日 に掲載した「血も涙も無いと思われていた金正恩委員長の本物の笑顔に感動」という記事を再度お送りしたいと思います。
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金正恩委員長は側近の高官を冷酷にも処刑しました。韓国の延坪島を無残にも砲撃しました。実の兄を暗殺させました。何千人の韓国人と十数人の日本人を拉致しました。荒れる冬の日本海へ数百人の漁師を粗末な木造船に乗せ出漁させました。このイカ漁で多数の遭難者を出たのです。そして昨年は長距離ミサイルを連発し、核実験も実行したのです。
ですから多くの人々は金正恩委員長には血も涙も無いと思っていたのです。それは当然なことではないでしょうか?
その金正恩委員長は文在寅韓国大統領の2人だけの会談で次のように語ったと報じられています。
「(板門店まで車で来る途中で)朝鮮戦争で故郷を失った失郷民や砲撃を受けた延坪島の住民のように砲撃を怖がっている方々が、今日の南北会談に期待を持っていることを想いました」
そして私は昨日、今日のテレビニュースで金正恩委員長の本物の笑顔を見たのです。
今迄は偉そうに威張った顔しか見たことが無かった私は心中から感動したのです。
まさに歴史の転換点の場面を見て胸に熱いものが湧き上がってきました。
それは戦後73年間続いた南北朝鮮の緊張が氷解した瞬間でした。真に朝鮮半島に暖か春がやって来たのです。
それでは金正恩委員長の本物の笑顔の写真を示します。

1番目の写真は文大統領に笑顔で近寄し手をとって一緒に南北の境界線をまたいだ場面です。文大統領が「私はいつごろ(境界線を)越えていけるだろう」と話したのに対し、金委員長が「いま越えましょう」と誘い、文大統領の手を取って北朝鮮側に入った。事前のシナリオにはない演出だったそうです。

2番目の写真はその後、文大統領と金委員長が抱き合っている光景です。

3番目の写真は板門店の韓国側の徒歩の橋のベンチに座って30分間、2人だけで話合っている場面です。2人は昔からの知り合いのように寛いで楽しそうに話合っています。とても和やかで良い場面でした。同じ民族で通訳の要らない朝鮮語で喋っている様子が良かったです。

4番目の写真は記者発表をしている金委員長の笑顔です。このように活き活きした笑顔を従来見たことがありません。素晴らしい写真です。

5番目の写真は会談の前に文大統領と金委員長が笑い合いながら歩いている場面です。2人の笑い顔が暖かい空気を醸し出しているようです。

6番目の写真は昨夜の歓迎夕食会を前にした文大統領夫妻と金委員長夫妻の記念写真です。

7番目の写真は文大統領の奥さんと金委員長の奥さんの写真です。若い金委員長の奥さんが年上の文大統領の奥さんより少し後ろに立っています。長幼の序をわきまえた賢さが偲ばれます。何処かの総理大臣の奥さんと比較してはいけません。

こうして韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長は会談し、年内に朝鮮戦争の終戦宣言を行い、休戦協定を平和協定に転換するため南北米、または南北米中の首脳会談を推進することで合意したのです。朝鮮半島の非核化もあらためて確認したのです。

 両首脳はこうした内容を柱とする「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」を発表したのです。
 「新しい平和の時代が開かれたことを8000万人のわが民族と世界に厳粛に宣言した」として、南北は朝鮮半島で先鋭化する軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するため共同で努力していくことを決めたのです。

さてこの後、6月のトランプ大統領と金委員長の会談が順調に行けば、朝鮮半島は完全に終戦し、平和条約が出来るのです。
そうすると北朝鮮は日本による朝鮮併合の賠償金を要求してきます。日本は韓国に巨額の賠償をいろいろな形で支払って来たのです。
これから工業の近代化に手する北朝鮮が日本からの資金援助を期待するのは自然な成り行きではないでしょうか?
それは必ず拉致問題の解決と連動すると考えた方が良いかも知れません。(終り)
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アメリカが経済制裁を緩和すれば北朝鮮の経済は発展するのは間違いありません。
韓国や中国が北朝鮮の中に工場を作り経済交流が盛んになるでしょう。
しかし金正恩委員長の独裁体制は変わりません。そして金正恩委員長は表向きは核兵器を廃絶し秘密の地下深く核兵器を温存するでしょう。
その一方で韓国人の訪問を自由にし中国からの観光客も歓迎するでしょう。
日本へは厳しい外交政策を取るでしょう。それでも北朝鮮のミサイル攻撃を受けるよりは良いのです。
このような状態は真の平和ではありません。しかし戦争が起きないだけでも良いのです。
現在の世界には真の平和がないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「面白い名前、煙の木の花が満開になりました」

2019年05月24日 | 写真
先日、面白い名前の「煙の木の花」をご紹介しました。
昨日、同じ木の所に行ったら満開になっていました。
今日はその満開の花の写真をお送りいたします。
生えていた場所は三鷹市の花と緑の公園です。

煙の木の花はピンクの花です。煙のように見えるので煙の木と言うそうです。
英語ではスモークツリーと言います。
この木はウルシ科 の ハグマノキ属の木です。
初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布します。
枝先につく花は長さ約20cmで多数枝分かれし、伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見えるのです。

満開の煙の木の花をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。





ミャンマー、タイ、韓国、中国、日本は仏教共同体

2019年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教は紀元前6世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
従ってこれらのアジアの国々は仏教国として共通の価値観を持っている佛教文明共同体なのです。
それはさて置き仏教国のタイにおける托鉢風景の写真を見ましょう。







これらの写真の出典は「タイ仏教修行」で、そのURLは以下の通りです。
https://www.bing.com/images/search?q=%E3%82%BF%E3%82%A4+%E4%BB%8F%E6%95%99+%E4%BF%AE%E8%A1%8C&go=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&qs=ds&form=QBIDMH
佛教文明共同体の国々の人はこの様な写真を見ると感動する筈です。そして自分の人生について考えます。
これらの写真はアジアの国々の仏教国として共通の価値観の一つの実例です。出家と托鉢修行は非常に重要なものだという共通の価値感なのです。

それではお釈迦さまの教えはどういうものだったのでしょうか?
私は次のように要約しました。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと教えました。
(2)釈迦は佛像を拝んではいけない、仏像など作ってはいけないと教えました。
(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
(4)釈迦は妻や家族から離れて出家せよと教えました。
(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」であると教えました。
   これを本当に深く理解し信じるために家族から離れて出家せよと教えました。

佛教には神がいません。人間はあくまでも自分の修行で悟りの境地に入れると教えたのでし。悟りの境地に入れば人間の全ての欲が消え、全ての執着も苦悩も消えてしまうのです。それこそが人間が一番幸せな境地なのです。
しかし上記の5つの教えを実行することは普通の人間にとっては不可能です。そこで実行しやすい方法をいろいろ考えました。インド人が考えたのです。
その方法の違いを大別すると上座部仏教と大乗仏教の2つに分類出来るのです。

5番目の写真は何時、何処で上座部仏教と大乗仏教が生まれ、何処へどの様に伝承されたかを分かり安く示した図面です。
この図面が明快に示すように仏教は上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教は紀元前4世紀頃に初期仏教からインドで生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
インドでの仏教は13世紀初頭には完全に消滅してしまい、仏教が生まれ派生したヒンズー教の国になったのです。
中国や朝鮮や日本に伝承された大乗仏教は玄奘三蔵法師が伝えたものです。
大乗仏教の教典を玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したのです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。
玄奘三蔵法師をモデルにした西遊記は中国、台湾、韓国、北朝鮮、そして日本の人々は同じように読んで知っています。
それはそれとて上座部仏教を忠実に信仰しているタイ王国のことを簡単に書いておきます。
タイ王国という国名が示すように、この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。
そしてタイの社会では出家は成人への通過儀礼として非常に重要なのです。
出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるのです。
ですから今日の4枚の写真が示すように、修業中の人へ食物を献上する行為も自分の親や先祖の恩に報いるということになるのです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 をご覧下さい。

個人的なことで恐縮ですが私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。それで仏教関係の本を多く読みました。
日本の仏教は中国や朝鮮の百済を通って飛鳥時代に入って来ました、そのせいで中国の道教や儒教や朝鮮の原始宗教と習合し多神教的な宗教になっているようです。お寺のご本尊はお釈迦様ではなく薬師様、観音様、弘法大師様、伝教大師様などいろいろです。
しかしタイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。お釈迦さまの座った姿の仏像か、寝た姿の涅槃像なのです。
そして出家による修行を大切にしています。私個人は修行無くしては宗教を理解出来ないと信じていますので、タイの仏教こそ本物だと魅力を感じるのです。そんな事を書いていると長くなるので今日はここまでにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)