後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

銀座通りはユニクロや外国ブランド店が多くなった・・・街の風景の時代変化

2012年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、銀座に行ってブラブラ歩きながら風景写真を撮って来ました。何時の間にか、ユニクロが4丁目の一番良い場所に出来、外国の店が増え、時代の流れを感じさせられました。

下にそのような新しい店々の写真を示します。

一番上は日本のユニクロであとは全て外国の店です。

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次に商品の飾り方を観察してみました。多くの女性用の服飾店の展示方法はアウトレットや安い大型販売店と同じようです。お客が尻ごみするような高級感を避けているのです。その一例が下の写真の左端です。

しかし銀座らしい高級感ある飾り付けもあるだろうと探しました。下の写真の真ん中と右端の写真です。和光とディオールの店です。

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さて歩いている人々の服装はどのようなものかと観察してみました。

昔は銀座へ行くとなるとお洒落な服装をしました。正装に近いきちんとした身なりの人もいました。街を歩く人が綺麗な服装でを着て、表情や歩き方まで気を遣ったものです。

ところがそんな気配がありません。普通の恰好で、ぼんやり信号待ちをしています。時代の変化が歩く人々の様子にも感じられるのです。そんな写真を3枚示します。

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そこで考え込んでしまいました。近所の街や、先日行った函館の街の様子とあまり変わらないことに気がつきました。日本、全国の街々が同じようになったのです。

強いて言えば全国が平等になり地域格差が無くなったのです。喜ぶべき事ですが、古い人間にとっては少し淋しい感じです。しかしそれも時代の流れです。平和な時代なのです。何故か満足して帰路につきました。(終り)


日本秘湯を守る会と温泉文化の変遷・・・そして私の秘湯

2012年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

東北地方の宮城県に生まれ育った私にとって温泉は安らぎの場所でした。幼時の楽しい思い出の場所でした。なぜか恐ろしい秘密の場所でした。硫黄で白く濁った湯から立ちのぼい独特の臭いは郷愁を誘います。暖房の無い寒い冬の湯治宿では温泉に長い間浸かってから冷たい布団にもぐりこんで寝たものです。温泉は暖房をとる方法だったのです。ですから一日中何度も浸かったのです。健康法でもあったのです。石鹸を使って体を洗ってはいけません。皮膚についた温泉の成分が流れてしまいます。そこが銭湯と違います。

それは貧しかった東北地方の不思議な「温泉文化」だったのです。

時代が変わりました。そんな日本の原風景的な温泉が消えて行くのです。

しかしそれを守ろうとして立ちあがった人々が居たのです。昭和50年、1975年に33軒の温泉旅館の主人たちが「日本秘湯を守る」(http://www.hitou.or.jp/index.html)を結成したのです。現在の会員の温泉旅館は188軒です。その大部分は車で玄関先まで行けます。

秘湯とは、たどりつくのが大変な所です。温泉宿が豊かな自然のに囲まれてポツンとある別世界です。源泉かけ流しのところもあるし冷たい鉱泉を加熱して供しているところもあります。例えば乳頭温泉、酢ケ湯、ふけの湯、蔵王山麓の青根温泉、峩々温泉などが日本秘湯を守る会のメンバーになっています。これらの温泉は私も行きました。特に、青根温泉、峩々温泉へは幼少の頃から大学生になるまで何度も行った懐かしい所です。作並温泉も鳴子温泉も足しげく通った温泉でした。

これらの温泉場には騒々しい宴会はありません。美味な洋食や中華料理もありません。日本古来の山菜料理と清水から作った豆腐にヤマメの串焼きです。お酒は地酒です。都会の美食に飽きた人々が健康食を食べて、健全な精神を貰う所なのです。

それは昔からの日本人の食生活でした。伝統でした。

最近、地方の自治体は地下1000m以上のボーリングをして、大型の温泉センターを作っています。お風呂が3つも4つもあり休憩する座敷も清潔で広いのです。その上そのセンターには美味しい和食や簡単なイタリアンまで出すのです。

これは決して悪いことではありませんが、伝統的な温泉文化とはあまりにもかけ離れています。

私はよく山梨へ行きますので、山梨県に自分の秘湯を持っています。あまり公表はしたくないのですが、北杜市の甲斐駒の山麓の「籔の湯」の見晴荘と鈴木旅館です。他は「信玄の隠し湯」(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/ma0011/kakushiyu/)の中の幾つかです。

周囲は深い森です。山の中です。行ってガッカリしないで下さい。料理が感動的でないのです。部屋が感動的でないのです。風呂場が広くありません。

しかし静かです。空気がよいのです。その静かさと空気に対して料金を払うのです。それでも「信玄の隠し湯」にこだわるのは私の体内に沁み込んだ東北地方の温泉文化のせいです。余談ながら家人には理解出来ない世界のようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

下に日本秘湯の写真を検索し、出て来た秘湯にふさわしい写真をご紹介いたします。大きい写真は上から順に、ぬる湯、尻焼温泉、ふけの湯です。

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小沢一郎氏を批判する

2012年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

最近のマスコミは小沢一郎氏が民主党を離脱して、新党を作るか、否かという問題で騒いでいます。

あるいは小沢氏の奥さんが、放射能におびえて逃げ回った夫を見下げて離婚したという噂を書く週刊誌もあります。

無罪になっても、政治献金の不明朗さが彼の身辺につきまとって一層疑惑を深めています。

あるマスコミは小沢氏の政治家としての過去を振り返り、彼が何時も自分の権力を誇示し、それを楽しみながらいろいろな政党を壊しては新党を作って来たことを書き立て、それを非難しています。

昔から、火の無いところに煙は立たずと言います。ですからマスコミが書いていることはいずれも少しは真実が含まれているのかも知れません。

しかし小沢一郎氏のこのような個人的な攻撃は善いことではないと思います。

すくなくとも彼のルックスが悪く、憎々しげな顔つきで女性達が嫌っています。小沢さんは顔で損をしているのです。しかし、それは見かけによる個人差別です。

マスコミの俗耳になじみやすい意見や、大衆に迎合した書き方も私は好きになれません。

しかしこのブログではマスコミとは違う視点で、敢えて小沢氏の批判を書きたいと思います。

それは前々から考えていたことです。

小沢氏には将来の日本をどのような国家にするかというビジョンが皆無なのです。

増税反対を叫べば選挙のとき票が集まるという目先のことしか考えない政治屋なのです。

このまま増税もせず、予算削減もしないで現状を維持すれば、早晩、日本という国家は倒産するのです。

政治家なら誰だって増税はしたくないのです。

それを野田首相があえて決断して、自民党や公明党まで説得し、賛成に導いたことをもっと重く考えるべきです。

民主党の党員なら増税法案に賛成すべきなのです。反対なら、反対投票をする前に民主党を辞めるべきだったのです。やりかたが卑怯なのです。民主党の中に居て、だたっ子のように騒いでいるのが見苦しいのです。

小沢さんの政治家としての欠陥は、増税しないで日本の倒産を避ける方法とその実行政策を一切提示しないことです。

彼が個人的に問題が多いとしても、日本の倒産を防止する方法を提案すれば、国民は小沢氏を支持するのです。

日本の将来をより良くする政策の提示が無い人は、政治屋になれても政治家にはなれません。

ついでに書けば、彼は外交政策についても展望が無いのです。

先の衆議院選挙で100名以上の小沢チルドレンが当選しました。その後で140名の国会議員を引き連れて中国を訪問したのです。その目的は自分の権力を中国へ誇示するためなのです。あるいは田中角栄元首相をいつまでも大切にしてくれる中国へ恩返ししたかったのかもしれません。

この訪問をアメリカはどのように評価したのでしょうか?アメリカの不快感をどの様に処理して日米安保体制を強化しようとしたのでしょうか?

外交とは多くの国々との付き合いのバランスで成り立っているのです。2国間だけの問題ではないのです。小沢氏にはその感覚が欠落しているように感じます。とにかく困った政治屋です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


歴史のあるブラジルコーヒー店物語・銀座8丁目カフエーパウリスタを訪ねて

2012年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は曇りなので「銀ブラでもしてこようかな」と家内に言ったところ、「ブラブラすることではなくブラジルコーヒーを飲むことだと先日テレビで聞いたわ」と言われてしまいました。コーヒーを飲む店はカフエーパウリスタという店に限るそうです。ブラジルから直輸入した豆を使っている店です。

一般に語源とはいろいろあり、複数の由来があることが多いのです。銀座をブラブラするから「銀ブラ」と言い出した人も居るし、銀座でブラジルコーヒーを飲むから「銀ブラ」と言い出した人もいるのです。前者が多数で、後者が少数なら多数決で決めるのが良いのです。目くじら立てて議論するほど重要な事ではありません。

それにしてもそのコーヒー店を訪問して決着をつけようと思い立ちました。幸い雨は降りそうにないので電車で行きました。車で行きたかったのですが運動にもなるので電車にしました。

下に銀座8丁目の中央通りに面したその店の写真とブラジルコーヒーの写真を示します。

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まず吃驚したのはそのブラジルコーヒーが実に美味なのです。焙煎を少し強めにした苦いコーヒーです。焙煎が強いのでコーヒー独特の香りが豊かです。懐かしい昔の味です。混じりっけのない純粋な、本物のコーヒーです。

ワインに例えれば甘くない辛口のドイツワインのようです。それでいてブドウの香りが漂っているのです。広いブドウ畑の風が感じられるのです。

この店のコーヒーには文化の香りがします。戦前の文化の香りです。その頃のことを急に思い出してしばし甘い思い出を楽しみました。電車に45分も乗ってきたムシャクシャが魔法のように消えてしまいました。

大正時代のパウリスタは文化活動の一拠点で、常連客には水上滝太郎、吉井勇、菊地寛、久米正雄、徳田秋声、正宗白鳥、宇野浩二、芥川龍之介、久保田万太郎、広津和郎、佐藤春夫、獅子文六、小島政二郎、などなどが居たそうです。

それにしても懐かしい名前が並んでいます。

今日、この店には普通の子供連や若いカップルがいて、近所のファミリーレストランのお客層と同じです。庶民の来る普通の値段のお店なのです。時代の流れに感慨を覚えます。その客の様子とメニューの写真をしめします。

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この店の歴史は明治37年の水野龍による皇国殖民合資会社の設立から始まります。この合資会社の目的は、ブラジル移民推進と、彼等の生産物のコーヒーを日本で売りさばいてその生活を支援するという大きな目的でした。

日本の明治時代の殖産興業の一つの歴史が深くかかわっているのです。

水野龍は明治41年、1908年、最初の移民団の団長として、笠戸丸に乗ってブラジルへ渡ったのです。ブラジルではサンパウロ州政府の信頼を得て、サントスコーヒー豆の東洋における独占販売権を手に入れたのです。

そして明治44年、1911年に銀座六丁目ににカフェパウリスタを開店したのです。現在の八丁目の店は昭和45年、1970年にできました。

新しい店は規模こそ小さくなりましたが、コーヒーカップやスプーンやミルク入れは昔のままを復元し、ソーサーのマークはサンパウロ市の紋章に似せて作ってあるそうです。壁紙や照明を工夫して昔のカフェパウリスタの面影をとどめています。

下に移民団の写真や関連写真と昔の雰囲気の暗い店内の様子の写真を示します。

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さて銀ブラの語源の決着です。

銀座をブラブラ逍遥する人々は明治時代の中期から沢山居たはずです。その人々が家に帰ってきて家人へ銀ブラしてきたと言ったに違いありません。極めて自然な言葉の省略法です。

一方、大正時代に慶応義塾の学生の間で銀座に行って、パウリスタでブラジルコーヒーを飲む事を「銀ブラ」と言ったのも確かなようです。しかしこの言葉には省略法としてはかなり無理があります。むしろ学生の間だけの隠語のようなものと理解するのが自然です。隠語には普遍性がありません。

ですから私は銀座をブラブラするから「銀ブラ」という由来に軍配を上げます。あまりこじつけた説は普遍性に欠け、真実からは遠方にあるのが普通です。

詰まらない問題ですが、あなたのご意見をお聞かせ下さい。(終り)


男爵イモと川田龍吉の殖産興業への巨大な貢献

2012年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

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皆様がよく食べるジャガイモの多くは男爵いもです。他には煮崩れしないメイクイーンがよく食べられています。

この男爵いもは1908年、明治41年、川田龍吉男爵がアイルランドから持ち込んで日本へ普及させた品種です。

川田男爵は日本の造船業を興し、その近代化や北海道の乳牛畜産や農業の近代化を力強く推し進めた偉大な事業家でした。明治時代の殖産興業というものを情熱的に進めた快男子でした。その関連の資料を集めて展示している場所が「男爵資料館」です。

下にその写真と展示物の写真があります。場所は函館の西30kmくらいの所にあるJR当別駅の傍です。トラピスト修道院から2kmくらい東です。

この資料館は彼が使っていた乳牛用牧舎だった建物です。

中には日本へ初めてアメリカから輸入された農業用のトラクターをはじめ数々の農業用の道具が展示されています。多くは輸入品です。これら全ては川田男爵の私財を使って輸入したのです。

日本の近代化のために乳牛を育て、牛乳やバターやチーズを普及させようとする川田龍吉男爵の溢れるような情熱が感じられます。そのお陰で北海道で乳製品の生産が盛んになったのです。

この展示館にはもう一つ注目すべき展示物があります。

日本で初めてアメリカから輸入し、彼が通勤に毎日使っていた自動車が復元展示してあるのです。日本で初めての自家用車です。彼は日本で初めての自動車の所有者として有名です。

自動車は当時、蒸気機関で動く「蒸気エンジン自動車」でした。

下に示した川田男爵の自動車は椅子の下に蒸気エンジンが格納されています。この展示物は東京工業大学の一色教授によって動くように復元されたもので、時速は10km前後と言われています。

この男爵展示館には農業用の機械と蒸気自動車しかありませんが、川田男爵のもう一つの大きな功績は造船業の近代化にあったのです。日本の各地にある造船所にドックを作り、大型船の製造を推進したのです。

その一つには「函館ドック」があり長年、函館で大型船の製造が続いたのです。

現在、私共は学校で明治時代の富国強兵・殖産興業という言葉を習います。

富国強兵はかなり明快なイメージで理解できますが、殖産興業とは理解が難しい言葉です。

しかしこの男爵資料館をみるとその言葉の意味が実感的に理解できます。

話は飛びますが、群馬県にある富岡製糸工場を見て、この男爵資料館をみると明治時代の殖産興業への熱情が深く理解できるのです。

明治時代は日本の近代化の怒涛の時代だってことが理解できます。

下に関連の写真と参考資料を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

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・参考資料:

ロコモビル(国内最古の自家用乗用自動車)

http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_035.html

 1902(明治35)年4月、8台のロコモビル社製蒸気自動車がアメリカから輸入された。これらは市販用としてはわが国最初の自動車群で、このうち1台を当時横浜船渠社長であった川田龍吉男爵が2,500円で購入し、通勤用に使用しはじめた。川田男爵はわが国ではじめて自家用車を所有した人物ということになる。
 このロコモビルは、のちに函館船渠の社長となった川田男爵が北海道に持ち込み、市内の自宅と男爵イモの農場があった七飯との間の往来に使用したという。1908(明治41)年頃故障で動かなくなり、その後長く農場の倉庫の片隅に放置されていた。1978(昭和53)年にNHK札幌局のディレクターであった伊丹政太郎氏によって発見が報告され、のちに東京工業大学一色尚次教授の指導により、現在の規格に合わせて新製されたボイラ以外は当時の部材をそのまま用いるという方針のもと、1980(昭和55)年に稼動状態に復元整備されている。現在、男爵資料館に展示中で、修復資料は完全保存されているほか、復元時取り外した機器も展示中である。


モリアオガエル樹上生活の全てと鳴き声のYou Tubeをご紹介します

2012年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
木内正夫さに昨日お会いした時、モリアオガエルの樹上生活の全てと、鳴き声のYou Tube を是非見て下さいと言われました。
彼のブログの記事、「モリアオガエルのその後(http://sizen068.blog95.fc2.com/)」で紹介しているNHKのYou Tube です。
今日見ましたら実に良く出来た映像です。鳴き声も明瞭です。
一生、樹上で生活している様子が写し出されています。
産卵の様子も明快に写しています。
さすがNHKと感動しました。是非一度ご覧下さい。

墓地を見るとその土地の歴史が分かる・・・函館のロシア人墓地

2012年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

日本各地の墓地は江戸時代以降のお墓が並んでいます。その墓石を見ながら散策するとその土地の歴史や当時の人々の感情がそこはかとなく分かってきます。

先週行った函館でもロシア人墓地とその隣にある函館ハリスト正教会墓地を見てきました。

ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。

はるか遠くの蝦夷の地で死んだロシア人の家族は墓参も出来ません。函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているようです。

その函館ハリスト正教会の日本人の墓地が隣にあります。

私どもが訪れたときいはエゾハルゼミが、あの世からの声のように悲しい声でしきりに鳴いていました。目の前の函館湾の碧さが目にしみます。

両方の墓地に眠る全ての故人の冥福を祈ってまいりました。

函館は江戸末期から明治にかけてロシア文化の影響を深く受けた特別な地域だったのです。横濱や神戸よりもロシア文化の息づかいが強く感じられる土地です。

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このブログの記事は取材して書きます・・・長期的取材の一例

2012年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログの記事はなるべく取材の旅を繰り返して書くようにしています。

現地を何度も訪問して、長期間の取材をして丁寧に書く場合もあります。

しかし、おざなりな取材やいい加減な調査で書く場合も多いのです。

ですから記事は玉(?)石混交で、あまり信用できません。

しかし長期間、何度も現地を訪問して丁寧に取材して書いた一連の記事もあります。

その一例に、モリアオガエルに関する記事があります。

その一連の記事は、この文章の末尾に一覧表がで示してあります。かなり良心的に現地取材をしてきたと自負しています。

記事の題目をクリックしても前の記事は開きません。サイドバーにあるバックナンバーを開いて、検索すると読めます。

昨日は再度、木内正夫(以前のペンネームは鬼家雅雄)さんの山荘を訪問し、樹上に生みつけられた卵塊の写真を撮ってきました。

現地に行って実物を見ると、その卵塊の巨大さに吃驚します。感動します。

卵塊は野球のボールかソフトボールくらいの大きさです。

それが池の上にかぶさっている樹木の枝に産み付けられているのです。その塊は白い泡で、中に数百の卵がつまっています。

モリアオガエルの取材は2008年から始めましたが、樹上の卵塊の実物を見るのは初めてです。

その大きさに驚きます。そしてそれが必ず静止した水溜まりの上の枝に産んである不思議さに驚きます。小川や沢のような流れの上には生んでいないのです。

実はこのカエルの取材を続けている理由は2つあるのです。

一つは本州と佐渡島の山奥にしか棲んでいない珍しい樹上生活のカエルだからです。

もう一つはこのカエルを保護している木内正夫さんの生き方や人生観に興味があるからです。

彼はもう30年間も山林の中の山荘に一人で暮らしています。誰にも迷惑をかけず、一人で野草の花や自然を愛して静かに暮らしているのです。その生活は現代の仙人のような雰囲気する感じられます。

以下に昨日撮ってきた写真を示します。

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これは偶然、2匹のカエルが前後に同じ場所に卵塊を産んだものです。下の卵塊からは少しずつオタマジャクシが下の池に落ちています。一週間くらいでオタマジャクシになるそうです。

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確実に池に落ちない恐れのある枝にある卵塊は、写真のように底が網状になっている箱に移して、オタマジャクシになるのを待ちます。この写真では4つの卵塊が保護されています。

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このような池を木内さんは5つ作りました。池を沢山作ったので今年は卵塊の数が15にもなりました。池を作れば産卵のためにモリアオガエルが集まって来るようです。上の池には樹上から落ちて来た小さなオタマジャクシが沢山泳いでいました。

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この写真のような暗い雑木林をモリアオガエルは好きなようです。

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木内さんの山荘もこの写真のような暗い雑木林に覆われています。この位、自然な所でないとモリアオガエルは出て来ないのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘

=====モリアオガエルに関する記事の一覧表====

神秘的な生き物、モリアオガルと共に深い森の中に生きている人

12/06/12

森林の伐採に関する林業専門家からのご意見を頂きました

11/12/29

森林の伐採をあなたはどのようにお考えですか?

11/12/28

あなたの生きがいは何ですか?・・・明快に答えられますか?

11/12/09

山里に独り住む楽しさをご紹介いたします

11/06/27

こんなつまらない趣味を38年間も続ける私の愚かさ

11/05/11

孤独死のいろいろ(3)山の雑木林の中に独り住む人々それぞれの事情


こういう森の奥へ行ったことがありますか?

2012年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

自分の山の小屋へ時々行きますが、行く度に凄い森林の奥にあるものだと感心しています。林の奥へ悪路をゆっくり車で登りながら、何故か怖くなります。

人間は大自然に囲まれると恐怖感を感じるのでしょうか?

根気よく登って行く悪路の写真を示します。

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車を傷つけないように慎重に運転して行きます。ハルセミの鳴き声が車を包みます。

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山道を登って行くと、時々、天井が抜けたように美しい蒼空が樹間に見えます。

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自分の質素な小屋に着くと庭を流れる小川が10年、30年たっても全然変わらずに美しい木霊を響かせて流れ下っています。

この写真は数年前に作った写真の上の方に黒く写っている魚道が相変わらず役目を果たしている様子を示しています。

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梅雨の晴れ間に出た夏雲の写真をお楽しみください

2012年06月26日 | 写真

今日は久しぶりの快晴です。車を駆って甲斐駒の麓の山林の中の小屋へ行ってきました。

甲斐駒岳に夏雲のような白い雲が厚くかかっていました。雲のたたずまいが夏が近いことを告げています。

山林の中に分け入ると、ハルセミが鳴き、爽快な風が吹いて居ました。

下に夏雲の写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

北杜市武川町柳沢の武川米の水田から撮った写真です。

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函館駅隣の朝市の写真をお楽しみ下さい

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函館駅の左に観光名所の朝市があります。前に広い駐車場があって車で行っても便利です。

朝市は昼間でも開いていて、観光客で賑わっています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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駐車場に一番近いところに「どんぶり横町」といものがあり、数多くの店屋が海鮮ドンブリを出しています。下の写真のような海鮮ドンブリです。食べると駐車料が無料になります。

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北海道の生活の厳しさと雄大な自然(5)静寂な湖、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、そして大沼

2012年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道へ心が惹かれる。その魅力のために何度も訪ねる人々が多いと聞きます。

何がそんなに魅力的なのでしょうか?何度も自問自答をして考えています。

まず大地が不思議な起伏を繰り返して広がる景観に取りつかれてしまいます。

氷河時代に厚い氷が大地を覆い、でなだらかな曲面に削ったのでしょう。

その起伏を繰り返している大地が一面の麦畑だったりジャガイモ畑になっています。そして緑の畑の境界には白樺やポプラの木が一列に植えてあるのです。

景色がヨーロッパの農村と実によく似ているのです。

このように北海道の風景が何故かエキゾチックで、心が駆り立てられのです。

旭川、富良野、帯広、十勝、釧路などの平野部の農業地帯の風景に魅了されてしまうのです。いまは色とりどりの花が観光客を楽しませていることでしょう。

気候が寒冷なので、大農場経営でないと生活が出来ません。その結果、一枚の畑が途方もなく広くなるのです。見ている人間の心まで広くなります。

北海道の魅力のもう一つの原因は自然のままの湖にあると思います。静寂な湖です。本州の芦の湖や富士五湖のように観光開発がなされていません。自然のままなのです。

何度か見た阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、そして大沼など全て雄大で静かな湖です。

知床5湖、網走湖、オネントー湖、支笏湖、洞爺湖、ウトナイ湖、そして大沼公園の大沼、小沼なども2,3度訪ね、静かな時を過ごすことが出来ました。

考えてみると私は若い頃から湖にある種の憧れを持っていました。

ですから十和田湖、田沢湖、猪苗代湖、五色沼、中禅寺湖、湯元の湖、丸沼、霞ヶ浦、諏訪湖、富士五湖、芦の湖、野尻湖、琵琶湖などは何度か訪問しました。

これといった特別な目的もありません。ただ湖の畔をゆっくり歩き、そこはかとなく流れる静かな時間を楽しむだけです。

この時、重要なのは湖の水面の輝きや水の美しさです。そしてそれを取り囲む林や森と、背景にある山々のたたずまいが重要です。

北海道の湖と本州の湖を比較してみると、北海道のは本州のと決定的に違う印象を受けます。

静寂の深さが違うのです。その上、北海道の湖は神秘的なのです。アイヌの神々が棲んでいるのです。

そんなことを考えながら先週、函館に行った折に大沼公園を散策してきました。

生憎の曇り日で、駒ケ岳の美しい姿は見えませんでした。

大沼の周囲を根気よく車で一周しました。

驚いたことに観光開発されているところはたった一ケ所だけです。大型観光バスの広大な駐車場のある観光船の発着場だけなのです。その他の地域は雑木林がえんえんと続き、その雑木林の向こうに湖水が透けて見えるのです。

一か所だけ雑木林の中に木道があって、岸辺に出ることが出来ました。

大沼の周囲は手つかずの自然林のままなのです。ですからこそ水が綺麗なのです。

下に先週撮って来た大沼の風景写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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観光船の発着場以外で湖の岸辺に出ることの出来る場所は上の木道のある所だけです。

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・木道を歩いて岸辺に出て、駒ケ岳を撮りました。

木道の出発点には牧場があり、馬や羊がのんびりと草を食べていました。

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人間は何に感動するか想像もつかない!・・・千代の山と千代の富士

2012年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

先週の北海道への旅で、函館から木古内を通って松前藩の城跡を見に行きました。

江戸時代に北海道でただ一つ幕府に認められた藩です。米が取れないので石高は無い珍しい藩です。木材や昆布、魚の干物などを幕府に納めていました。北前船が通い、大阪の豪商や近江八幡の商人の出店が並び城下町は大いに賑わったのです。

木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところに福島町という小さな町があります。車を走らせてると家内が大いに興奮して「千代の山と千代の富士の記念館がある!」と叫びます。感動しています。私はスポーツ音痴で相撲にも野球にも一切興味がありません。当然、そのまま素通りしました。車の中で「こんな小さな町から二人も横綱がでたの~」など独りごとを言っています。

松前城を見た後、家内があんまり感動するので帰りに車を停めました。下の記念写真を撮ったあとでカメラを持ってどこかへ消えてしまいました。生憎閉館日でガッカリした様子で帰って来ました。

今日、家内が何処かで撮ってきた写真を見ましたら、王貞治、江川卓、中野浩一などの名が出ている幟の写真があります。

幟の下は広い駐車場になっていて土産物店が並んで居ます。千代の山や千代の富士の名の入ったグッヅやお菓子を買いに行ったらしいです。しかし生憎、定休日でした。買えなくて残念そうでした。

それにしても、人間は何に感動するか想像もつかない!と感心しながら車を走らせて函館へ帰ってきました。

相撲ファンの方々のために下に写真をお送り致します。

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幕府軍と明治政府軍の最後の決戦、箱館戦争の戦跡を訪ねて

2012年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられた幕府の軍艦8隻が品川沖を出港し、北海道へ向かったのが明治元年(1868年)の8月19日でした。

そして箱館の五稜郭で、整列した将兵へ奮戦ぶりを感謝し、最後の別れをし、明治政府軍へ投降したのが明治2年の5月18日です。この間丁度9ケ月です。

明治政府は反抗した榎本武揚の幕府の戦績を正確に伝えてきたでしょうか?

政府軍が簡単に幕府軍を打ち破り、北海道を占領したような記録だけを残すようにしていたら、それは権力側の書く歴史です。

土方歳三が馬上で銃に撃たれ壮烈な戦死をし、榎本武揚が最後の決戦をしないで、簡単に五稜郭を明け渡し、降伏したということになっています。

しかし箱館戦争の実態はそのような生易しいものではなかったようです。

箱館戦争には3つの山場がありました。

函館の五稜郭を占領した榎本軍が土方歳三を指揮官にして松前藩を11月5日に占領し、事実上、北海道に仮政府を組織したことが第一の山場です。しかしこの仮政府の命運は翌年の5月18日に尽きました。

第二の山場は明治政府軍が翌年の4月9日に江差に上陸し、一進一退の攻防戦が5月17日まで続いたことです。

第三は幕府海軍と明治政府海軍との間の2回にわたる海戦です。3月には幕府軍の戦艦2隻は長駆して三陸の宮古湾に侵入しました。そこにいた明治政府軍の海軍を奇襲したのですが失敗しています。そして、第二回目は5月に箱館湾で行われました。

この2つの海戦の結果、政府軍側の海軍が圧倒的な優位に立ちました。

明治政府軍の軍艦が進撃する陸軍を砲撃で支援したり、幕府軍の背後に上陸部隊を揚げるなど海軍の活躍が総攻撃をする政府軍の勝利に大きく貢献したのです。

このように客観的な記録は現地に行くと簡単に入手出来ます。東京では入手が難しいのが普通です。今回、函館で購入した本を参考にしてこの記事を書いています。

なお、インターネットでも、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89 には、もかなり詳しい情報が出ています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

以下は今回訪ねた箱館戦争の戦跡をたどりながら激しい攻防戦の経緯を簡略に書いたものです。

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・1868年8月19日(このブログ記事では全て旧暦)江戸を出港した榎本武揚の艦船8隻は途中、仙台湾に寄り明治政府軍に反抗する東北諸藩の武士を収容し、3000人の大軍になり北海道に10月20日に上陸しました。

上陸地点は箱館山の麓の弁天台場の大砲で守られた函館を避けて、その北方35kmの太平洋岸の鷲の木海岸でした。

イカめしで有名な森町のそばです。上の写真のような海岸でした。沖に投錨し、カッターで将兵が続々と上陸したのです。

上陸した部隊はふた手に別れ大島圭介指揮する一隊が内陸路を、土方歳三が指揮する一隊が海岸沿いに函館に攻め入りました。

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明治政府の箱館府知事の清水谷公考が青森に逃げて行ったあとで五稜郭へ入城したのは10月26日でした。上が明治政府の箱館府知事が居た五稜郭の現在の写真です。隣接する観光タワーの上から撮った写真です。

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五稜郭に入城し、函館を占領した江戸幕府軍はその西に35kmの松前藩の攻略を始めます。松前藩は明治政府軍を支持し、榎本武揚軍を攻める態度を示したと言われています。

10月28日、土方の指揮する800人は松前藩を襲い、11月5日にその福山城を落城させます。城は焼き尽くされ、現在は何も無くなりました。

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わずかに隅櫓が一つ残っているだけです。

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上の写真は松前藩歴代の藩主のお墓です。最後の藩主、松前徳広は江差の北の熊石へ逃げ、さらに津軽まで逃げのび、そこで病死します。

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明治政府軍は反撃にでたのは3月9日海軍が品川沖を出港した時です。そして4月9日には北海道に上陸します。

明治政府は戦艦「甲鉄」を中心にした艦体を組み、江差の北10kmの乙部村に到着し、一斉に上陸を始めたのです。

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・明治政府軍は破竹の勢いで、占領されていた松前藩の城下町を開放し、箱館に迫ります。それに対抗するために幕府軍は上の写真のように四稜郭を造り、防御を固めます。

四稜郭を訪ねてみると、それは五稜郭の北の丘の上ににあります。

大砲と小銃で武装した軍隊を置いておけば、五稜郭の幕府軍を支援出来る戦略的な場所にあります。しかし結局、五稜郭へ撤収してしまい四稜郭は使われませんでした。

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上の写真は箱館山の麓の弁天台場付近から見降ろした函館湾の風景です。

明治政府軍の箱館総攻撃は5月11日に始まります。それを受けて政府側の艦隊が箱館湾へ侵入し、海戦が行われました。幕府軍の戦艦「蟠龍」が砲撃で政府軍の戦艦「朝陽」と轟沈させる激しい海戦でした。しかし結局は政府軍が優勢に終わります。

この箱館戦争は江戸幕府側と倒幕側との最後の戦争でした。

降伏した榎本は明治政府の海軍大臣になりその他の将兵も寛大な処置を受けたのです。価値のあるものは過去を忘れて利用するという明治政府の性質が伺えるようです。

それにしても明治維新は日本の歴史の中でも非常に大きな革命だったと感概深いものがあります。(終り)