江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられた幕府の軍艦8隻が品川沖を出港し、北海道へ向かったのが明治元年(1868年)の8月19日でした。
そして箱館の五稜郭で、整列した将兵へ奮戦ぶりを感謝し、最後の別れをし、明治政府軍へ投降したのが明治2年の5月18日です。この間丁度9ケ月です。
明治政府は反抗した榎本武揚の幕府軍の戦績を正確に伝えてきたでしょうか?
政府軍が簡単に幕府軍を打ち破り、北海道を占領したような記録だけを残すようにしていたら、それは権力側の書く歴史です。
土方歳三が馬上で銃に撃たれ壮烈な戦死をし、榎本武揚が最後の決戦をしないで、簡単に五稜郭を明け渡し、降伏したということになっています。
しかし箱館戦争の実態はそのような生易しいものではなかったようです。
箱館戦争には3つの山場がありました。
函館の五稜郭を占領した榎本軍が土方歳三を指揮官にして松前藩を11月5日に占領し、事実上、北海道に仮政府を組織したことが第一の山場です。しかしこの仮政府の命運は翌年の5月18日に尽きました。
第二の山場は明治政府軍が翌年の4月9日に江差に上陸し、一進一退の攻防戦が5月17日まで続いたことです。
第三は幕府海軍と明治政府海軍との間の2回にわたる海戦です。3月には幕府軍の戦艦2隻は長駆して三陸の宮古湾に侵入しました。そこにいた明治政府軍の海軍を奇襲したのですが失敗しています。そして、第二回目は5月に箱館湾で行われました。
この2つの海戦の結果、政府軍側の海軍が圧倒的な優位に立ちました。
明治政府軍の軍艦が進撃する陸軍を砲撃で支援したり、幕府軍の背後に上陸部隊を揚げるなど海軍の活躍が総攻撃をする政府軍の勝利に大きく貢献したのです。
このように客観的な記録は現地に行くと簡単に入手出来ます。東京では入手が難しいのが普通です。今回、函館で購入した本を参考にしてこの記事を書いています。
なお、インターネットでも、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89 には、もかなり詳しい情報が出ています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
以下は今回訪ねた箱館戦争の戦跡をたどりながら激しい攻防戦の経緯を簡略に書いたものです。
・1868年8月19日(このブログ記事では全て旧暦)江戸を出港した榎本武揚の艦船8隻は途中、仙台湾に寄り明治政府軍に反抗する東北諸藩の武士を収容し、3000人の大軍になり北海道に10月20日に上陸しました。
上陸地点は箱館山の麓の弁天台場の大砲で守られた函館を避けて、その北方35kmの太平洋岸の鷲の木海岸でした。
イカめしで有名な森町のそばです。上の写真のような海岸でした。沖に投錨し、カッターで将兵が続々と上陸したのです。
上陸した部隊はふた手に別れ大島圭介指揮する一隊が内陸路を、土方歳三が指揮する一隊が海岸沿いに函館に攻め入りました。
明治政府の箱館府知事の清水谷公考が青森に逃げて行ったあとで五稜郭へ入城したのは10月26日でした。上が明治政府の箱館府知事が居た五稜郭の現在の写真です。隣接する観光タワーの上から撮った写真です。
五稜郭に入城し、函館を占領した江戸幕府軍はその西に35kmの松前藩の攻略を始めます。松前藩は明治政府軍を支持し、榎本武揚軍を攻める態度を示したと言われています。
10月28日、土方の指揮する800人は松前藩を襲い、11月5日にその福山城を落城させます。城は焼き尽くされ、現在は何も無くなりました。
わずかに隅櫓が一つ残っているだけです。
上の写真は松前藩歴代の藩主のお墓です。最後の藩主、松前徳広は江差の北の熊石へ逃げ、さらに津軽まで逃げのび、そこで病死します。
明治政府軍は反撃にでたのは3月9日海軍が品川沖を出港した時です。そして4月9日には北海道に上陸します。
明治政府は戦艦「甲鉄」を中心にした艦体を組み、江差の北10kmの乙部村に到着し、一斉に上陸を始めたのです。
・明治政府軍は破竹の勢いで、占領されていた松前藩の城下町を開放し、箱館に迫ります。それに対抗するために幕府軍は上の写真のように四稜郭を造り、防御を固めます。
四稜郭を訪ねてみると、それは五稜郭の北の丘の上ににあります。
大砲と小銃で武装した軍隊を置いておけば、五稜郭の幕府軍を支援出来る戦略的な場所にあります。しかし結局、五稜郭へ撤収してしまい四稜郭は使われませんでした。
上の写真は箱館山の麓の弁天台場付近から見降ろした函館湾の風景です。
明治政府軍の箱館総攻撃は5月11日に始まります。それを受けて政府側の艦隊が箱館湾へ侵入し、海戦が行われました。幕府軍の戦艦「蟠龍」が砲撃で政府軍の戦艦「朝陽」と轟沈させる激しい海戦でした。しかし結局は政府軍が優勢に終わります。
この箱館戦争は江戸幕府側と倒幕側との最後の戦争でした。
降伏した榎本は明治政府の海軍大臣になりその他の将兵も寛大な処置を受けたのです。価値のあるものは過去を忘れて利用するという明治政府の性質が伺えるようです。
それにしても明治維新は日本の歴史の中でも非常に大きな革命だったと感概深いものがあります。(終り)