後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は武蔵国分寺跡の櫻の下でお花見弁当を食べてきました

2015年03月31日 | 写真
快晴です。9時半に家を出て上野原公園、小金井公園、そして貫井弁天下の野川の満開の櫻をゆっくり見ました。途中、京樽の花見弁当を買って国分寺跡の桜の下に行きました。車の後部座席に小さな食卓を出して、周囲の櫻を窓から見ながら花見弁当を食べてきました。いわゆる桜の名所でないので、人も少なく悠々と弁当を食べてきました。明日はそこで抹茶道具を持って行って野点をしようと思います。

上の写真は近所の上野原公園の櫻です。

上と下の写真は今朝の小金井公園の櫻です。



上は武蔵国分寺跡の櫻の下に停めた車です。花見弁当はこの車の後部座席でゆっくり食べました。

上の写真は車の後部座席の窓から見た櫻のある風景です。車の周囲はみな満開の櫻でした。

日韓関係、日中関係の奥深さ(1)ある朝鮮人の菩提寺と神社

2015年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
日韓関係と日中関係は日中韓の三国にとって非常に重要です。友好関係を築けばそれぞれの国にとって大きな利益が得られます。しかるに最近、韓国や中国のことを感情的になって攻撃する日本人が増えているのです。感情的になればなる程失うものが大きくなるということは古今東西の真理です。そこで今日から「日韓関係、日中関係の奥深さ」と題する連載記事を書いていきたいと思います。
第一回はある朝鮮人の菩提寺とその人を祀る神社のご紹介です。それは埼玉県にある聖天院と高麗神社です。数年前に訪れて写真を撮って来ました。
この話は西暦700年頃の昔話です。短く纏めましたので是非お読み下さい。
その頃の朝鮮半島では、高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に来ていた王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。
この若光は703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。
そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は朝鮮の高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。
高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。私の自宅から車で2時間以内に行ける所です。写真を撮りに行きました。
さて、高麗王の部下には先進文化を導入したり、農産物の増産を指導する人もいたらしく、高麗郡は農作物で豊かになったそうです。そして農民にとって無理な税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。
高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。
兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。
その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。
高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。
聖天院の隣には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。
朝鮮から亡命したある王族が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。
時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。
朝鮮と日本の関係の奥深さを示す一例です。下に撮ってきた写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人

上の写真は高麗王の子孫、一族の菩提寺の聖天院の写真です。

上の写真は聖天院の本堂前にある高麗王のお墓(廟)です。

上の神社は高麗神社で、神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

満開の櫻を見ながら食事を楽しめるイタリアン店、ピエトロ

2015年03月30日 | 写真
このお店は国立市にあります。桜が満開になると毎年一回必ず家内と昼食を食べに行きます。今日はそのテラス席でイタリアンを食べながら満開の櫻を楽しみました。料理も美味しいです。
詳しくは、http://www.pietro.co.jp/restaurant/tokyo/39.html をご覧下さい。
写真は今日撮ったものです。





満開の小金井桜と国立大通り桜と旧鉄道学園の桜をお楽しみ下さい

2015年03月30日 | 写真
今朝はすっかり晴れ上がりました。9時30分に家を出て小金井公園、国立大通りと國分寺に昔あった旧鉄道学園の3ケ所の櫻の写真を撮りに行きました。
最後の2枚の写真は旧鉄道学園の構内に植えてあった桜の古木の写真です。
最近の人々はここに広大な旧国鉄の鉄道学園があって電車がぐるぐる走り回っていたことを知りません。桜の古木だけが往時の名残です。現在は広い公園になっています。
昼食は桜の時期に必ず行く国立市のピエトロという名前のイタリアンのテラスで桜を見ながら食べました。桜が満開で暖かい日だったので家内もご機嫌でした。
櫻の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

この写真からの3枚が小金井公園の桜です。





この四番目から五番目、六番目の3枚の写真は国立市大通りの桜の写真です。





上と下の写真は旧鉄道学園の構内に植えてあった桜の古木のです。





混迷の内戦続く中東アラブ諸国を見放すアメリカと新たな型の戦争

2015年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
経済力と軍事力を急速に伸展させている中国とロシアに対抗することがアメリカの安全保障の第一の急務と考えるのが一番合理的な考え方です。
従って中東の内戦はどのような結果で終着してもアメリカにとって比較的に重要ではありません。その上、中東の内戦の原因は欧米的な考え方の理解を越えたアラブ文化にあるのです。
アメリカ人もヨーロッパ人も嫌気を感じ、中東から一切手を引く考えが次第に強くなっています。
そんな折りにサウジアラビアとペルシャ湾岸諸国やヨルダンの連合軍がアメリカ抜きでイエメンのシーア派の反体制派を空爆したのです。反体制派は同じシーア派の大国イランの支援をうけています。大国のサウジアラビアと大国イランの代理戦争になりつつあるのです。
これは全く新しい型の戦争です。従来の中東での戦争には必ずアメリカやロシアが干渉してきたのです。
中東の内戦がアメリカやロシアの干渉なしでアラブ諸国同志の熾烈な内戦の様相になってきています。それにイスラム国の台頭が一層混迷を深めています。
これが大きな歴史の流れと私は感じています。
アメリカは今迄のいきがかり上で、今後も小規模の軍隊を中東に派遣するでしょうが、最終的にはベトナムの場合のように完全に撤退するでしょう。
それではここでもう一度、中東地域の拡大図を見てみましょう。

中東拡大図の出典は、http://blog.h-h.jp/investnews/?p=283 です。
こような図をみると国境が明確で、それぞれが独立国のように理解されがちです。しかし、次の図のシーア派とスンニ派の分布図をみると国境線の意味が曖昧に感じられます。

シーア派イランやスンニ派ソウジアラビアなどの宗派分布図の出典は、http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_257.html です。
この宗派の分布図には示してありませんが、それぞれの国々にシーア派とスンニ派が混在しているのです。それが内戦の様子を一層複雑にしているのです。
以下に最近のニュースの抜粋を引用いたします。
「湾岸のアラブ諸国 イエメン反体制派を空爆」3月26日 19時09分
中東イエメンで、首都サヌアを掌握し大統領と対立している反体制派の武装勢力に対し、隣国のサウジアラビアなど湾岸のアラブ諸国が空爆を始め、イエメン国内の紛争に周辺諸国が介入して中東地域がさらに不安定化する様相を見せています。
中東のイエメンでは、首都サヌアを掌握している反体制派のイスラム教シーア派の武装勢力に対し、26日、スンニ派の隣国サウジアラビアなど湾岸のアラブ諸国が空爆を始めました。
サウジアラビアはじめ湾岸の5か国は26日、「イエメンのハディ大統領の要請に応じて反体制派の武装勢力に対し、イエメンとその国民を守ることにした」とする共同声明を発表しました。サウジアラビアの国営通信は、軍事作戦はサルマン国王が指示し、合わせて10か国が参加していると伝えています。(NHKニュース:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150326/k10010028281000.html などより。)
一方、イエメンのサレハ前大統領は1970年代から長期にわたって軍事独裁政権を維持していましたが、アラブの春をきっかけに国内で反政府運動が高まり、2011年に大統領を辞任しました。その後、副大統領だったハディ氏が大統領に就任し、現在まで政権の座についていました。ハディ政権は、中東諸国と米国との間でバランスを取る戦略を採用しており、イスラム系国際テロ組織アルカイダに対する空爆を認めるなど、米国にとっては、中東情勢のカギを握る国とみなされてきました。
 しかし、2015年1月19日、イエメン国内のイスラム教シーア派に属するザイド派民兵組織が武装蜂起し、大統領官邸や主要メディアを制圧するという事態になりました。ハディ大統領は22日、辞意表明を行い、武装蜂起はクーデーターに発展しており、先が見えない状態にあります。・・・以上は、The Capital Tribune Japan「イエメン情勢が急速に悪化、国際政治に極めて大きな影響も」、The Page、ー気になるニュースわかりやすくーより。・・・・・
ここで重要になってきたのが湾岸協力会議です。
加盟国は、アラブ首長国連邦・バーレーン・クウェート・オマーン・カタール・サウジアラビアの6カ国です。しかしアラビア湾に面するすべての国が加盟しているわけではありません。イラン及びイラクは、現在非加盟だが、イラクは湾岸戦争前までは準メンバーであり、イラク戦争後から加盟を希望しているのです。イエメンは、2009年末現在、加盟交渉中であり、2016年までには加盟する意思を見せている。また、同じ王制国家であるヨルダンとモロッコの加盟も交渉中です。
いずれにしても中東情勢はますます複雑怪奇な様相になりその戦乱は数十年続くような感じがします。従って欧米諸国は自分の国の中にだけいるイスラム過激派を徹底的に弾圧し、排除する活動を強化し、中東地域からは撤退することになるでしょう。そして欧米諸国は過激派の暴力を武力で排除するために社会が右傾化しつつあります。アメリカと強い同盟関係にある日本はこの歴史の流れに同調するのは当然です。それは事の善し悪しを越えた歴史の必然です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

急に桜が満開になりました

2015年03月29日 | 写真
今日は朝は晴れ、のち曇りでした。夕方には小雨も降って来ました。小金井市の近辺のあちこちのソメイヨシノの桜花を求めて、毎年見物に行くお気に入りの場所を数ケ所行きました。
写真の順にカトリック小金井教会の前の桜、そして続く2枚は貫井神社前の野川の桜、4番目の写真は本町公務員住宅の桜、5番目は武蔵境の桜堤団地の桜、6番目は国際キリスト教大学の桜、そして最後は多磨墓地内の桜です。
明日、晴天になったら写真を撮りなおしに再度行ってきます。
櫻の開化状況をご報告するために不鮮明な写真ですがお送りいたします。
みなさまのお住まいの地域の桜の開花状況は如何でしょうか?甲子園は雨でしたね。













今日は日曜日なので宗教に関することを書きます

2015年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
全ての宗教には優劣がありません。原始宗教や高等宗教も同じように重要なのです。
全ての宗教は平等に重要であり、どんな宗教や宗派にも優劣が無いと私は信じています。
しかし私は古いキリスト教が好きです。宗教改革の前から受けたつがれて来たカトリックやロシア正教が好きです。マルチン・ルターの宗教改革のおかげで、カトリックの悪習や政治権力との融合が無くなり随分と改良されました。それも含めて、私は何故か古いものに魅力を感じます。
とくにカトリックは1549年にザビエルによって日本へもたらされました。他のキリスト教の全ての宗派は江戸末期か明治時代になってから日本へやって来ました。
今日は私の個人的な好みに従ってカトリックからはヨハネ・パウロ2世とロシア正教からは
ニコライのことを紹介したいと存じます。
====傑出していたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世のこと===
2枚の写真の初めの写真は1920年にポーランドで生まれ、12歳の時の写真です。
次の写真はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)



このヨハネ・パウロ2世が2011年に福者に列せられるという決定が、ローマ法王、ベネディクト16世から正式に発表されました。福者とはカトリックの聖者の次の名誉称号であり、いずれ聖者になる可能性が大きいのです。
ヨハネ・パウロ2世が死後6年足らずで福者に列せられるのは異例のことで、如何に傑出した法王だったかの証です。
彼の偉大な功績は、法王なのに巡礼のように世界中を隅々まで旅をして、各地の言葉でミサをたて、洗礼式や叙階式をした事です。日本へも1981年に来て、長崎へも巡礼の旅に行きました。これほどローマ法王が身近に感じ、親しく感じた事はありません。
ポーランドの連帯代表のワルサさんに会いに行き、ポーランドの自由化を支援した事も忘れられません。
もう一つの偉大な功績は、いろいろな宗教間の和解運動を進めたことです。カトリック教会の過去の間違いにも謝罪しました。ガリレオの裁判も間違いだったと謝罪したのです。本当に温かい血の通ったローマ法王でした。十字軍も間違いだったと謝罪したのです。
ヨハネ・パウロ2世のお葬式へは世界中の国家元主が出席しましたが、日本政府からは首相クラスの人は出席しなかったのです。ヨハネ・パウロ2世は偉大でした。傑出していました。熱い血の通った人でした。
次は、ロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことをご紹介します。
====神田のニコライ堂を建てたあるロシア人の物語=====
ロシア正教は他の東方教会とともにマルチン・ルターの宗教改革の洗礼を直接は受けませんでした。ですから本当に古いタイプの宗派です。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。そして翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
 函館に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

この写真はニコライです。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。
今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています) 
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記の日本語全訳は2007年に刊行されました。(『宣教師ニコライの全日記』教文館全9巻)。
列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれています。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)です。
・・・如何でしたか?お茶の水のニコライ堂のそばを通るこいとがあったら上の話を思い出して下さい。
それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

一瞬見た月見草の花の情景が生涯心を豊かにしてくれる

2015年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
花々の写真を掲載すると多くの方が喜んで下さいます。
あちこちに車を走らせて花の写真を撮っていると自分が花畑に溶け込んだような錯覚におそわれます。そんな花畑の情景がしばらく心に焼き付いて私の心を豊かにしてくれています。
ところが少年、少女の頃に一瞬見た花畑の情景が忘れられない人もいます。そしてその思い出が生涯心を豊かにしてくれるのです。今日は、そのような人の文章をご紹介いたします。
細川呉港さんという作家の作品の抜粋です。細川さんのことは終わりにご紹介してあります。
===細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋========
何度も言うようだが、長い人生において、誰しも、驚くほど素敵な花の風景に出くわしたことがあるはずである。特に野草の好きな私は、山歩きや、野山のハイキングの最中に、思いがけず、思いがけない野草の群落を発見し、思わず立ち尽くしてしまうことがあった。その光景は、長い間脳裏に強く刻み込まれていて、時折、頭をもたげては、私を幸せにしてくれる。ちょっとオーバーにいえば、その思い出は人生の宝でもある。その花の群落の美しかったことだけを強烈に覚えているから、はたしてその花の群落がどこであったか、ということも分からなくなっていることもある。いくつかの思い出は、まるで走馬灯のように何度も浮かんでくる。
まだ子どもだったころ、小学校の中ぐらいの学年のころだったかも知れない。私はよく一人で、自宅から山に登った。私の町の背後に、700メートルと少しの起立した山があり、そのすそ野に住んでいた私は、峠に向かう未舗装のバス道路に沿って、しばらく登り、そこからよく山に入った。少し登ったところに、地元の人たちが小松原と呼んでいる松林があって、よくそこで松葉かきをした。持って帰って、焚きつけにするのだ。空いた炭俵にギュウギュウに松葉を押し込んで、ふた俵、追い子に背負って、さらにその上に、松の枯れ枝を束にして積んだ。子どものすることながら、しっかりと家の役に立っていたと思う。
峠に続くバス道は、グルグルと山の斜面を縫うように登っていき、その両側は段々畑だった。このあたりの段々畑は、水の確保が難しく、湧き水のある広い谷のようになったところだけ、田圃があった。春には少ない田圃にレンゲの花が一面、きれいだった。そのころは緑肥としてレンゲを植えていたのである。
山の谷が、狭く、傾斜が急なところは、段々畑も作れないので、そんなところは、昔から墓にしたらしい。段々墓である。縦縞のように襞のたくさんある山の斜面に、尾根の部分や、広い谷の部分は、段々畑や田圃として利用し、狭い谷や、日当たりの悪い谷は、段々墓というわけである。段々墓はあちこちにあった。・・・・・
小学校四年生か、あるいは五年生だったかもしれない。もう夏が終わろうとしていたころ。私は一人で、山に入った。ちょっと長めの散歩である。あちこち歩いては草や花、ヤマガラやジョウビタキを捜し、あるいは谷に降りて清水の流れるのを見たりした後で、山を降りてきた。小松原を通り、いつもと違う道を下ってくると、ちょうどある段々墓の上に出た。段々墓の一番上の方は、少しばかりの尾根になっていて、平らな広場に墓がたくさん立っている。左右はやはり段々墓になっていて谷のそこまで続いていた。夕暮れが迫っていた。まだ少しばかり夕焼け空が残っていて、あたりはほんのりと明るかった。早く降りなければ、暗くなってしまう。
ところが、次の瞬間、私は異様な光景に気がついた。辺り一面、墓という墓の周りに一杯に月見草が咲いていたのだ。黄色い小さな花が、夕暮れのほんのりとしたあかるさの中で、まるで蛍光色のように光って咲いていた。そしてその黄色の群落をさらに盛り上げるように、昨日咲いたであろう濃い橙色のすぼんだ花も無数についている。二種類の色の違う花の混ざり具合が、華やかでそれでいて可憐である。それは谷の下の方まで続いていた。誰もいない、無音の、淡い夕焼けの山――。
すばらしい山の夕暮れであった。この時の月見草の群落を、六十年近くたった今でも私は覚えている。その後、一度もそういった月見草の風景と、時を、体験したことはなかったから、少年時代の貴重な一瞬だったといえよう。人生、たった一度の巡り合わせだった。・・・・
挿絵代わりに月見草の花の写真をお送り致します。
この月見草の写真は長野県の伊那地方にお住いの方のブログ:http://tsutomu3.blog43.fc2.com/blog-entry-12.html からお借りした写真です。
なお細川呉港さんは、「草原のラーゲリ」、「紫の花伝書」、「ノモンハンの地平」、「満ちてくる湖」、「日本人は鰯の群れ」などの美しい作品を出版している堅実な作家です。詳しくは、http://www.junkudo.co.jp/mj/products/list.php?zssearch_author=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%20%E5%91%89%E6%B8%AF をご覧下さい。そして東文会(東洋文化研究会)を長年、主宰しています。私はこの東文会のメーリングリストに入れて頂いていますので時折、作品を送って頂いています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




やっと小金井公園のソメイヨシノ櫻も咲き出しました

2015年03月27日 | 写真
先程、小金井公園へ様子を見に行きましたら数本だけチラホラ咲いていました。ソメイヨシノは遅咲きなので街路樹のピンクの八重桜はもう満開です。
一番後の写真がその八重桜で初めから4番目までの写真は小金井公園のソメイヨシノです。この調子ですと満開は来週の火曜日や水曜日くらいになりそうです。
この近所には小金井公園の他にも武蔵境の桜堤団地の桜、井之頭公園の桜、国際キリスト教大学の桜、国立市の大通りの桜、神代植物園の桜など沢山の桜の名所があります。来週には一斉に絢爛と咲き出すと思います。
来週いっぱいは花見で右往左往する心算です。
咲き出した桜の今日の写真をお楽しみ下さい。









鎌倉霊園の丘に立ちて、あちこちの墓地や霊園のことを想う

2015年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
もう昔々の昭和15年の頃の初夏の夜の情景を私は鮮明に憶えています。私は4歳の幼児でした。仙台の鹿落ち坂を大学生だった叔父に肩車をしてもらって登っていた時の情景です。左下の広瀬川から河鹿蛙の鳴き声が美しく響いていたのです。それは不思議な心地よい声でした。あの世から聞こえてくる美しい音楽のようだったのです。しいて例えれば夏の夕暮れに林の奥から聞こえてくるヒグラシ蝉の声のようなのです。この情景は私の心に棲みついて、何度も思い出しています。
私は幼かったので広瀬川に鳴き声の美しいカジカという魚が棲んでいてその魚が鳴いていると長い間信じていまし。しかしそれはカジカガエルという蛙だったのです。
この叔父にはその後私が結婚したあとも家内と共に随分と親切にして貰ったのです。そして叔父夫婦は私共の事をいつまでも大切にしてくれたのです。昨日、鎌倉霊園にある叔父夫婦のお墓参りをして来ました。下がそのお墓の写真です。

この墓に眠る叔父夫妻の思い出を書きつづれは長くなりますので止めます。
それよりも墓地や霊園にこれから申し込もうとしている皆様の為にご参考になるようなことを少しだけ書いてみたいと思います。下は鎌倉霊園の丘の上から見下ろした写真です。

鎌倉霊園のHPにはこんなことが書いてあります。・・・・歴史と文化の香り高い古都鎌倉。朝比奈峠の丘陵地帯に55万平方メートル(約28万坪)の広大な敷地を有し、開園以来半世紀の歴史を刻む格式ある公園墓地です。・・・・

私はあちこちの墓地や霊園をよく散策します。それが好きなのです。しかし広さ28万坪の丘陵にある霊園には驚きました。兎に角、広いのです。霊園内を墓参り客専用のバスが巡回しているのです。
私がよく散歩するのは多磨墓地や小平墓地、そして数多くのお寺の墓地です。
多磨墓地や小平墓地は都立の墓地です。しかし鎌倉霊園は内藤石材店が造成した民営の霊園です。そのHPは、https://www.naitou-sekizai.co.jp/lp_kamakura/ です。この内藤石材店は広い墓地や霊園を4つも作って、管理している大きな株式会社なのです。
それはさておき、墓地や霊園を申し込むときには「全国公営墓地」とか「宮城県の民営墓地」とかいろいろなキーワードを考えて検索すると詳しい情報がたくさん出ています。
昨日、鎌倉霊園の丘に立って、自分の知っている数多くの墓地や霊園のことを考えていました。そしてこの広大な霊園にある無数のお墓に眠る人々のことを想っていました。
ここは宗派にこだわらない霊園です。無宗教の人も沢山眠っています。残された子供が父母の眠る場所としてお墓を作るのです。それは親子の自然な情愛なのです。
お釈迦様は死んでもお墓を作るなと言って、自分の遺骨は弟子たちに野原に捨てさせました。はるばるインドに旅をしてお経を沢山持ち帰った玄奘三蔵法師も唐の長安で亡くなったとき弟子たちへ遺骨を荒れ野に捨てさせました。
しかし鎌倉霊園の丘には無数のお墓が広がっています。
お釈迦様の言葉の意味を想いながらも、親子の絆や情愛の強さを感じるのです。そんな想いで鎌倉霊園の丘にしばし立っていました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(4)

2015年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(4)その内容と日本人の考え方との決定的な相違」
ドイツの元大統領のヴァイツゼッカー 氏の演説の内容を少し深く考えています。
日本人の第二次世界大戦へ対する考え方と非常に違う内容なのです。誤解を恐れずに2つの相違点を書きますと以下の二つになります。
(1)第二次世界大戦を振り返って考える場合、ヴァイツゼッカー氏はヨーロッパのことしか視野に入れていません。アジアで起きた大規模な暴力支配と殺戮は完全に無視されています。
日本人が第二次世界大戦を歴史的に考える時は必ずヨーロッパ戦線とアジアでの戦争を関連づけて考えます。この点が非常に大きな相違です。
(2)日本人が第二次世界大戦を考える場合には米軍による原爆投下と全国の都市の空襲のことを考えます。そしてグアム島やサイパン島、そして硫黄島の玉砕のことを考えます。すなわち日本人が被害にあって酷い体験をしたことを考えます。
一方、ヴァイツゼッカー氏はドイツが行った人道に反する数々の残虐行為を具体的に書きあげて被害者へ同情し、心を寄せています。しかるに日本人はあからさまに日本軍の残虐行為を書いたり発表したりはしません。
勿論、良識ある日本人は日本軍の残虐行為を調べ上げいろいろな本も沢山出版されています。しかし日本の首相や政治家がこのような発言をすることは皆無です。この点がドイツと日本の政治家の考え方の決定的な相違です。
この2つの相違点はドイツ民族の文化と日本民族の文化の相違です。どんな民族の文化にも優劣はありませんから私はドイツも日本も同じレベルの文化だと考えています。しかしレベルが同じでも内容が非常に違うのがいろいろな民族の文化の本質なのです。
上記の(1)の相違点は何故起きたのでしょうか?本来、ヨーロッパ人はヨーロッパだけが世界の全てだと思いこんでいる傾向があります。特にアジアに植民地を持っていなかったドイツ人にとってはアジアは意識の外にあるのです。「荒野の40年」ではアジアの殺戮については一切言及されていません。完全無視です。この狭量さを日本人は笑えないと思います。我々日本人は外国人を無視したり差別する傾向があるのです。島国根性といえばそれも一つの要素ですが、他にも江戸時代250年の厳しい鎖国制度が心の底に影を落としているのかも知れません。もっといろいろな原因がありそうです。
(2)についてはその背景をもっと考えなければいけないと感じています。しかしその背景の違いは一方はキリスト教が重要な要素になっていて、一方は大乗仏教がバックボーンになっていることも考えるべき要素と思います。
その前にドイツ人と日本人の道徳レベルの高低について誤解のないように明記すべきことがあります。ドイツ人の多くは。「荒野の40年」に同感しているわけではないと考えるのが自然です。それを朝日新聞のシンパはドイツ人の反省の方が日本人の反省より真摯だと言わんばかりの論陣をはります。道徳とは個人の問題であり民族全体のものではありません。
日本にも戦争反対を貫き通して刑務所に入れられた仏教僧がいたのです。
このドイツと日本の民族文化の相違はいずれ続編で書いて見たいと思っています。
(1)と(2)をご理解頂く為に、ヴァイツゼッカー氏の『荒れ野の40年』の冒頭部分だけをもう一度掲載いたします。
・・・5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実に、かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。 (ソ連では 1611万5千人がポーランドでは 555万人が犠牲になりました・・・後藤による注
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・以下省略
今日の挿絵写真はケルンの大聖堂です。出典は、http://bjhimatsubushi.blog29.fc2.com/blog-entry-89.htmlです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

春の京王フローラルガーデンの写真をお楽しみください

2015年03月25日 | 写真
冬の間は花が無かった京王フローラルガーデンも、現在は春の花々でおふれています。特にマグノリア園は多種多様な花が咲いていて圧巻です。
そしてその他の春の花々も満開です。ガーデン一杯に美しい花々が植えてあり、その配置が美しい絵画のようになっています。上品な色彩の配置なので優雅な雰囲気がかもし出されています。
昨日、撮って来た写真をお送りします。この週末は桜も咲き出すようですが、是非、京王フローラルガーデンも訪れるのも良いと思います。心からお薦め出来る花園です。
下に昨日の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。













京王フローラルガーデンのホームページ:http://www.keio-ange.info/info/index.html
交通案内、
■電車:
京王線調布駅より各停または快速橋本行で1駅目
京王多摩川駅下車駅前
■駐車場:
隣接の『京王コインパーク』をご利用ください。
収容台数約35台、料金100円/20分

人間をとりこにする水の美しさ、不思議さ

2015年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
一生を通じてとても重要に感じている趣味を二つ持っていました。
その一つは甲斐駒岳の麓の山林の中の質素な小屋へ通う趣味です。始めてから42年になります。私の趣味の中で一番長続きしたものです。
そしてもう一つは49歳から始めて75歳まで26年間続いたヨットの趣味です。
その趣味が長続きした理由はヨットの不思議な動き方と、たよりないヨットの上から見た水の美しさでした。霧を通して弱々しい朝日を反射している水面の風波。何処までも深い群青の海のうねり。そして人間の儚さを感じさせる夕陽に映える水の広がり。それが私をとりこにして、気がついたら26年もヨットに毎週のように通っていました。
水の不思議さと美しさを語り出したらきりがありません。皆様も水のある風景には数々の忘れられない思い出を沢山お持ちのことと思います。
先日も富士山の山中湖に行きましたら富士山と雪解け水の不思議な関係を想いました。そして忍野村に豊富に湧き出ている雪解け水の美しさに魅了されてしまいました。
会津の磐梯山の湧水のたまった猪苗代湖で今は亡き星野君のヨットでレースに出たことなどを思い出していました。
水のある風景を見るときっと皆様もいろいろな思い出を「連想」すると思います。
そこで以下にこの3月4日に撮った山中湖や忍野村の湧水の写真をお送りします。下は雪に覆われた富士山と山中湖の風景です。

山中湖には川が流れ込んでいません。したがってこの豊かな水は湖底のあちこちから湧き出している富士山の雪解け水なのです。水をよく通し、溶岩で出来た土地の下にある水路のような場所を通って湖底あちこちのから湧き出しているのです。
この山中湖からは流れ出ている川が一本だけあります。桂川と言いますが下流のほうは相模川と呼びます。
この山中湖とは別系統の湧水がそばの忍野村にも8ケ所あります。湧水が美しいので忍野八海という観光名所になっています。

写真で池の底からコンコンと湧きあがっている様子が見られるのです。

八つの湧水池の一つです。金色の大きなマスが透明な水の中を悠々と泳いでいるのが見えます。

これは八つの湧水池から流れ出ている小川の風景です。

美しい小川が忍野村を西の方向へ流下っている風景です、そして村の西の端で山中湖から流れて来た桂川と合流します。
桂川はやがて相模川と名前を変えて相模湾へ流れ出しているのです。相模湾にはヨットの葉山マリーナ、逗子マリーナ、江の島マリーナなどがあり数多くのヨットの白い帆が風に舞っているのです。
それはさておき、忍野八海はまだの方々は是非一度ご覧になって下さい。駐車場が遠方にもありますが遠慮しないで遊水地のそばまで車を入れると至近距離にも駐車場があります。忍野八海の中にある有料の庭園もお薦めのポントです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)