後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明日はもう10月、北国からの渡り鳥が待遠しい

2019年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
猛暑の夏が終わったと思ったら明日は早くも10月になります。年を取ると月日の流れが速くなります。日一日と秋が深まってきました。
こんな季節になると北国からの渡り鳥が待遠しくなります。
まもなくシベリアからカモ類やハクチョウ達が飛んできます。
渡り鳥の姿を見ていると2千キロメートル位も渡って来たその長旅のつらさが偲ばれます。そしてシベリアの大地に広がる湿地帯や白樺の樹林の風景が目の前に浮かんできます。
特にコハクチョウは数も多く、全国の川や湖に飛来して人々の目を楽しませてくれます。

白鳥の渡来地として、昔から全国的に有名なのは新潟県阿賀野市の瓢湖(ひょうこ)です。
故吉川重三郎氏が昭和29年(1954年)2月4日に日本で初めて野生の白鳥の餌付けに成功したことで注目を浴びて有名になりました。
その後、国の天然記念物に指定され、平成20年にはラムサール条約登録湿地となりました。毎年11月下旬頃のピーク時には5,000羽を超える白鳥が飛来するそうです。

1番目の写真はその瓢湖(ひょうこ)の白鳥の写真です。
(写真の出典は、http://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=10803 です)
瓢湖の白鳥が有名になった昭和29年 、私は高校生でした。戦後の暗い社会でこのニュースは復興の希望の灯のように感じました。多くの人々もそのように感じたらしくて新聞は瓢湖の記事を大々的に報道しました。
家内の祖母はこの記事を読んで、毎日茶殻を乾して貯めては郵便で送っていたそうです。
多くの高齢者にとって瓢湖の白鳥は忘れ得ない明るい希望の風物詩だったのです。
現在、瓢湖の白鳥は吉川重三郎さんの息子の吉川繁男さんが餌を与えて大切に保護しています。重三郎さんは2006年に85歳で他界しました。

瓢湖の白鳥が有名になってから数十年が過ぎ去りました。 現在の日本では白鳥は数多く各地に渡って来るようになりました。日本が豊かな邦になったのが実感できます。あちこちの多くの白鳥を見ると幸せな気分になります。
そんな訳で私は現在でも時々車を駆って見に行きます。富士五湖の山中湖には白鳥が棲みついています。そして霞が浦にも晩秋に数多くの白鳥が飛来します。

2番目の写真は霞ヶ浦で私が数年前に撮った冬鳥の写真です。

3番目の写真も霞ヶ浦で私が撮った冬鳥の写真です。
白鳥、鴨類、ゆりかもめ、鳩などが混じって日向を楽しんでいます。ほかにオシドリ、カイツブリ、川鵜、小白鷺がよく遊んでいました。

4番目の写真は美しいユリカモメです。同じく霞ヶ浦で撮った写真です。

5番目の写真ははコハクチョウが大空を飛んで渡っている姿です。
(写真の出典は、http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2012:10:09:4948 です)

最後に個人的は話で恐縮ですが、昔ドイツに住んでいたころは川や湖で白鳥を沢山見ました。
2人の子供がいましたので、その子供たちが喜ぶのです。白鳥のほうから近づいて来て子供達と遊ぶのです。白鳥を見ると、まだ若かった家内がパンをちぎって投げていたドイツの生活を思い出します。

冬の白鳥は風物詩です。日本の戦後の復興の灯でした。私の家族の楽しい思い出です。この冬も白鳥を見に行こうと考えています。下に日本の渡り鳥の参考資料をつけます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:日本の渡り鳥===================
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E3%82%8A%E9%B3%A5 からの抜粋:
地域をどの範囲まで広げる(狭める)かによって、同一の鳥でも異なる分け方になる場合があるが、日本を基準とした場合、以下のような分け方となる。

夏鳥:主として繁殖のために日本より南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥。ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなど。

冬鳥:主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなど。

旅鳥:日本より北の国で繁殖し、日本より南の国で越冬するため、渡りの移動の途中に日本を通過して行く鳥。主として移動時期である春と秋に見られる。シギ、チドリの仲間に多い。

カトリック小金井教会44年と初代司祭ムニ神父様の思い出

2019年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック小金井教会は1975年に発足しました。
私共は1975年の小金井教区の正式認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので、もう44年以上もこの教会に通っていたことになります。
この小金井教会にはいろいろな思い出があります。

今日はその中から2015年11月23日に行われた創立40周年の記念ミサと初代主任司祭ムニ神父様の思い出を書いてみたいと思います。

さて40周年記念ミサを写真にしたがってご説明いたします。

1番目のの写真は岡田大司教が香炉を振り回して会堂の中を清めている場面です。
この40周年記念ミサには小金井教会の3代目の主任司祭の山本量太郎神父さまや4代目の辻茂神父さまなどが来賓として出席していました。
特に3代目の主任司祭の山本神父さまは私の洗礼の時、代父をしてくださった山本大二郎先生のご子息なのでいろいろとお世話になりました。その山本神父さまが傍に居てくださるだけで感動しました。
40周年記念ミサは何時もの日曜日の主日のミサと同じでした。
聖歌を歌い、聖書の朗読があり岡田大司教さまの説教がありました。
ミサの終りの方ではイエスの体としてパン片を信者一人一人へ手渡します。

2番目の写真は山本神父様が信者へパン片を手渡している光景です。

3番目の写真はミサ後の記念写真を撮る準備をしている様子です。皆が楽しそうにしています。

4番目の写真はミサ後の祝賀会の様子です。小金井市にあるいろいろな宗派のプロテスタント教会の代表者も出席してくれました。
祝賀会の時、山本神父さまと握手をしました。山本神父様は時々このブログをご覧になっているそうです。

当日は朝から、親しくお世話になった初代主任司祭のヨゼフ・ムニ神父さまのことを思い出していました。
ボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。
めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。
そして1988年の夏に突然のように帰天したのです。
聖堂に置かれたお棺の中のやすらかなお顔を見たのが最後になりました。

5番目の写真は府中市にあるカトリック墓地にあるムニ神父さまのお墓です。右側の質素な木造の十字架が墓です。
ムニ神父さまのことは何度かこのブログに書きました。
そこでその一部を再録いたします。

「2008年4月24日掲載記事の一部」
・・・ヨゼフ・ムニさまの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り花を供える。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思う。・・・以下省略。

実はムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に着任して、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。その当時の信者さん中根さんから私のブログへ以下のような投書がありました。
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた...
「2012-04-11掲載記事のへの中根さんからのコメントの一部」
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、私(中根さん)は朝のミサでの侍者をする為、自転車でよく教会に通いました。まだ小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、私(中根さん)は今でも大切に保管をしています。
もう私も(中根さん)60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントと、あの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。・・・

そして以下のようなコメントも、四日市でムニ神父の侍者をしていた中根さんから頂きました。
「ムニ神父様を偲んで」、http://www4.cty-net.ne.jp/~johnmary/ribero217.htm
・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたし(中根さん)は翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星学園に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。・・・以下省略・・・

ヨゼフ・ムニ神父の追悼集の本は平成元年8月14日に発行されています。この446ページの本を見ると情熱的に活躍し、ご自分を日本の信者の為に捧げたムニ神父の業績が詳しく書いてあります。私共の知っていることはその万分の一に過ぎないことがしみじみと判ります。
日本を占領したアメリカ人軍人達とは全く違った考えで日本人を助け、日本の地になったアメリ人もいたのです。わすれられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

秋の都立小金井公園の花々の写真

2019年09月27日 | 写真
爽快な風が吹き渡る小金井公園の花々の写真を送りします。
ここ小金井市に小さな家を建てたのは1964年です。もう55年も前のことです。
家は古くなった陋屋ですが小金井公園は年々整備され四季をとうして美しい花々が咲いています。自分の家の裏庭のように感じよく行きます。
小金井市の南側にはやはり都立の武蔵野公園と野川公園が広がっています。
公園を設計して作った都庁の昔の役人さん達へ感謝しています。
秋の小金井公園の花々の写真をお送りいたします。













ベトナムの美しい教会と私どものディン神父の数奇な運命

2019年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ベトナムは釈迦の教えに忠実な上座部仏教の国です。
しかし1862年6月第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を領有し、1867年にはフランス領コーチシナが成立しました。
フランスによる支配は1941年の日本による占領まで続いたのです。
このフランス領の時代に数多くの美しいカトリック教会が建てられたのです。
ベトナムは現在、敬虔な仏教国ですがカトリックの信者も人口の約10%もいる国です。

今日は代表的な美しいカトリック教会の写真をご紹介します。そしてベトナム戦争の後にボートピープルとして日本へ亡命して来た私達のディン神父の数奇な運命もご紹介いたします。
それにしても1966年から10年間も続いたベトナム戦争は本当に悲惨な戦争でした。
それはさて置きベトナムのカトリック教会の写真をご覧下さい。

1番目の写真は 1886年創建の市内で最大のハノイ大聖堂です。カトリック教会です。
現在の姿に至ったのは1900年のことです。写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。

2番目の写真はハノイ大聖堂の内部です。美しいステンドグラスはイタリアのベネチアから輸入されました。色とりどりのガラス片をつなぎ合わせて幻想的な風景を表現しています。
写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。

3番目の写真はホーチミン市の聖母マリア教会です。フランス植民地時代の1877年に着工され、3年後の1880年に完成しました。
写真の出典は、https://www.viet-jo.com/news/social/170711011854-pic1.html です。

4番目の写真は聖ザビエル教会(チャータム教会)です。
ホーチーミン市に1900年に創建されたカトリック教会です。教会内は奥行きが深く、高い天井が特徴です。写真の出典は、https://www.vietnamnavi.com/miru/227/ です。

さて1966年から10年間も続いたベトナム戦争では北ベトナムの共産党が勝利しました。北ベトナムはソ連と中国の支援のもとでアメリカ軍を打ち破ったのです。
10年間もの戦争は残虐なものでしたが戦後の共産党政権の南ベトナムへの弾圧も凄惨でした。
特に経済を握っていた華僑とキリスト教関係者には過酷でした。キリスト教関係者は忌まわしいフランスの植民地の記憶として憎んでいたのです。
その結果多数の華僑とキリスト教関係者が船に乗って海へ逃れました。この人々をボートピープルと言います。
当時神学生だったゴ・クアン・ディンさんも命からがらボートに乗って海に逃げ最終的に日本に亡命したのです。そして東京大司教区の神父になったのです。
そのディン神父は2007年頃から10年ほど私共のカトリック小金井教会の主任司祭として我々の世話をじてくれたのです。

5番目の写真はゴ・クアン・ディン神父様(中央)です。2010年11月07日 のミサの時に撮った写真です。
このミサは、岡田大司教様の司式でディン新主任司祭様の着任を祝いながら行われました。
山本量太郎主任司祭さまのほぼ10年の任務の後、しばらく後任の主任司祭様が決まらなかったので一層嬉しいミサになりました。
ディン神父さまは日本で白柳大司教様の支援とご指導で、カトリックの神父様になった方です。

話はいきなり飛びます。話が飛びますがお許し下さい。
ベトナム戦争後のボートピープルを救助するために、アメリカと西ドイツなどの欧米の民間団体がベトナム沖に船を出したのです。
その頃、私はオハイオの大学のR教授の家に泊ったことがあります。
そうしたらR教授は日本人がベトナム難民を助ける船を出していないことを激しく非難するのです。
日本人は人道的でないと言います。ドイツ出身の奥様も西ドイツでは客船を出していますと非難に加わります。R教授夫妻はベトナム難民を数人自宅に引き取り、就職が決まるまで生活の支援をしたそうです。私は日本人として恥ずかしくなりました。
それ以来、「日本人はヒョットして人道的でないのではないか?」という想いを持つようになったのです。
この想いは現在続いて居ます。アフリカからヨーロッパへの多数の難民流入問題や内戦続く近東の難民問題ついて日本のマスコミは冷淡です。多くの日本人は無関心です。
第二次大戦後に約100万人以上の日本人が満州から悲惨な引揚を経験しました。これは日本人の歴史的な難民の経験でした。
それはまさしくアフリカや中東あの難民と同じようなことです。
日本人はもっとアフリカや中東からの難民に対して人道的な支援をすべきではないでしょうか?

話が飛び過ぎてしまいました。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

自給自足への憧れとヤマギシ会の繁栄

2019年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
通称「ヤマギシ会」は正式には「幸福会ヤマギシ会」と言います。
この農事組合法人は農業・牧畜業を基盤とするユートピアをめざす活動体です。
私は一種の宗教団体だと考えています。
その資料(https://ja.wikipedia.org/wiki/幸福会ヤマギシ会 )には次のような説明があります。
この団体は1953年(昭和28年)に山岸巳代蔵の提唱する理念の活動実践母体「山岸式養鶏会」として発足しました。
1995年(平成7年)に名称を「幸福会ヤマギシ会」と変更します。
個人所有の概念を全否定し「無所有一体」の生活を信条としています。
この団体は最近、自給自足に憧れる人々が増えたことを背景に繁栄しているのです。
このヤマギシズムを実践する場であるヤマギシズム社会実顕地が全国に26か所もあり、約1500人が共同生活を営んでいます。
またブラジルやスイス、韓国、オーストラリア、アメリカ合衆国、タイなどの外国にも6箇所の実顕地があり、この実顕地を支援している会員が5万人ほどいると言われています。
ヤマギシズム実顕地では野菜や果物、家畜などが育てられており、農産物加工品を全国販売しているのです。
私はこの宗教的な団体に興味があり先週、東京都町田市忠生2-26-23にある「多摩実顕地」を訪れ取材して来ました。
パン工房もあり併設してあるスーパーではいろいろな農産物を売っていました。
聞くと、それらの農産物はおもに「ヤマギシズム生活榛名実顕地」で生産しているそうです。その群馬県の榛名実顕地には約40名の家族が暮らしています。
(https://www.yamagishi.or.jp/?jk-spot=%E5%B2%A1%E9%83%A8-okabe ) 
それでは写真にしたがってご説明いたします。

1番目の写真は先週取材に訪れた町田市にある「多摩実顕地」です。左奥の白い建物は会員の住宅です。

2番目の写真は「多摩実顕地」で焼いたパンの売り場です。

3番目の写真は「榛名実顕地」の様子です。
写真の出典は、https://www.yamagishi.or.jp/?jk-spot=%e5%b2%a1%e9%83%a8-okabe
 です。

4番目の写真は「榛名実顕地」に住んでいる家族の集合写真です。
写真の出典は、https://www.yamagishi.or.jp/?jk-spot=%e5%b2%a1%e9%83%a8-okabe
 です。

5番目の写真は全国にある26ケ所のヤマギシズム社会実顕地を示す図です。
写真の出典は、https://www.yamagishi.or.jp/?page_id=1593 です。

このヤマギシ会の活動目的は「すべての人が幸福である社会」を作ることです。
そのための行動原理として「無所有・共用・共活」を内容とする理念を掲げています。
そして上述のように ブラジルやスイス、韓国、オーストラリア、アメリカ合衆国、タイなどの外国にも6箇所の社会実顕地を展開しています。
このように順風満帆のように見えるヤマギシ会にも問題があったことも付記して公平な記事にしたいと思います。それは「山岸事件」のことです。
・・・山岸会事件を報じた毎日新聞(1959年7月5日付)・・・
ヤマギシ会が1958年(昭和33年)に三重県に設立した共同体「山岸式百万羽科学工業養鶏株式会社」が、同県阿山郡伊賀町で百万羽の鶏の飼育を目的に開拓を目指したものの難航する中、構成員の知人らを「ヨウアリ、スグコイ」など真意を隠した内容の電報で呼び寄せ、1959年(昭和34年)7月の特別講習研鑽会に参加させた事件。「家族が監禁されて講習を受けさせられている」といった訴えが数多く寄せられ、7月10日に山岸会幹部9名が三重県警に逮捕された。山岸巳代蔵にも逮捕状が出たが行方をくらまし、9か月の逃亡生活を送った末に逮捕された。山岸会は「謎めいた思想集団」、「謎の革命集団」として報道された。「春日山50年のあゆみ」によると山岸会事件が実顕地に与えた影響は甚大で、春日山実顕地の財政は逼迫し、食料や衣料にも事欠き、多くの構成員が出稼ぎに出たという。1961年4月28日、逮捕された14人に禁固1年から10カ月、執行猶予2年の判決が下った。 ・・・

時代は変わりましたが、ヤマギシ会の理念は変わっていません。しかし自由な民主国家の日本では違法行為が無いかぎりこのような団体が自由に活動して良いのです。善悪の判断は難しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



高い秋の空のもとコスモスの咲いている広場

2019年09月25日 | 写真
1ケ月ほど前に高原にある富士五湖の畔でコスモスの花が咲いていました。それが東京では1ケ月おくれで最近咲き出しました。
今日は三鷹の「緑と花の広場」に行き、咲き出したコスモスの花の写真を撮りました。
家内があちこち花の間を走り回って写真を撮りました。
これからしだいに秋が深まります。季節がどんどん流れて行きます。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









日本への布教活動の基地、マカオの教会の写真

2019年09月25日 | 日記
ポルトガルの領地だったマカオは日本へのカトリックの布教活動の基地でした。
ザビエル神父もロドリゴ神父もガルペ神父もマカオを出発して日本に来たのです。
当時のマカオの様子は原作遠藤周作、スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』の初めの方の場面に出てきます。(2017年01月28日 掲載記事)
島原の乱も終り、江戸幕府のキリシタン弾圧がほぼ終了した時代に、2人のポルトガル人神父が行方不明の司祭を探しに無謀にも九州へ潜入して来たのです。ロドリゴ神父とガルペ神父です。この2人がマカオの教会を背景にして石段を下りて来る場面が印象深いのです。
かつて尊敬していた司祭のフェレイラ神父は棄教し、幕府側になってキリシタンを捕縛、棄教させる役をしているという噂です。潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者にかくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。

この映画の話はさておき今日はマカオのカトリック教会の写真をお送りいたします。

1番目の写真は世界遺産聖ポール天主堂跡です。1637年に建てられました。
写真の出典は、https://www.compathy.net/tripnotes/17616 です。
3回の火災で建物の前面しか残っていない状態が歴史を考えさせます。 存在感があるのです。

2番目の写真は聖ドミニコ教会です。
世界遺産に指定されている聖ドミニコ教会は1587年に建てられました。中国で最も古い教会の一つです。 写真の出典は、https://www.compathy.net/tripnotes/17616 です。

3番目の写真は聖ドミニコ教会の内部です。
写真の出典は、https://www.compathy.net/tripnotes/17616 です。

4番目の写真は聖フランシスコ・ザビエル教会です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/聖フランシスコ・ザビエル教会_(マカオ) です。
1928年に創建されました。日本初のキリスト教布教をしたザビエルを記念する教会です。
かつてはザビエルの右腕の骨などが納められていました。現在は聖ヨゼフ修道院及び聖堂に移されているそうです。

5番目の写真はマカオのペンニャ教会です。
写真の出典は、https://macaunavi.com/recommend/ペンニャ教会/ です。
最初の教会は航海の安全を守る聖人を祭るために1622年に建てられたと言われており、その後一度消滅し1837年に再建、1935年にマカオカトリックの主教館を併設する現在の教会が建てられました。
歴史的には十分世界遺産の価値がありながら、建て直しと増築によってリストから外れた教会です。
教会前の広場から階段を下りると、フランス聖地のルルドを模した洞窟とルルドの聖母像があるそうです。

さて話は変わりますが、ついでに日本にあるサビエル記念聖堂の写真もお送りします。

6番目の写真は山口市にあるザビエル記念聖堂です。
ザビエルの山口での布教活動から400年記念として1952年(昭和27年)に建てられました。
初代の聖堂はザビエルの生家のスペインのナバーラ州パンプローナ近郊にあるザビエル城を模して建てられました。パンプローナ市は1980年に山口市と姉妹都市提携を結んでいます。
しかし初代の聖堂は1991年(平成3年)9月5日に失火により全焼しました。
その後サビエル記念聖堂の所有者であるイエズス会より多くの資金援助を受け、更に山口市民、全国から寄せられた善意の募金により1998年(平成10年)4月29日に再建されました。

私共は 昭和27年に建てられ初代の教会を訪れたことがあります。それは古風な教会でした。しかしザビエルの生家を想像するのは難しかったことを覚えています。懐かしい以前のサビエル記念聖堂の光景を思い出します。

さてこうして私は中国や台湾や韓国やフィリピンのカトリック教会の写真をご紹介してきました。
これは私にとって巡礼の旅のような気分になります。この旅はまだまだ続きます。ベトナム、インドへと続いて行きます。
こんな旅の道連れになって下さる皆様へ感謝します。尊敬します。どうぞ今後もお気軽に道連れになって頂けたら幸いです。有難う御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「多摩尾根幹線道路のドライブと風景写真」

2019年09月24日 | 写真
私の趣味はドライブです。
暇さえあれば緑豊かな道路を探してゆっくり車を走らせます。
昨日は風景の良い多摩尾根幹線道路を楽しんで来ました。車窓から家内が撮った写真をお送りします。









秋になって誰もいなくなった淋しい多摩川の風景写真

2019年09月23日 | 写真
夏の間中、子供連れの家族が溢れるように川遊びをしていた多摩川にも秋が来ました。子供の声が消えてすっかり静かになりました。淋しそうに川だけが流れているのです。
こうしてまた奥多摩川に静寂が戻りました。少し寂しいです。
そんな秋の多摩川の風景写真をお送りします。





ニューヨーク市の国連のSDGsの取り組みとSDGsの欠点

2019年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のSDGs(持続可能な開発目標)は2016年に始まり2030年には世界の貧困と飢餓問題を無くすという理想を掲げた巨大プロジェクトです。
この欄でこのSDGsに関して掲載した記事は末尾に示した通りです。

これらの記事を書いて分かったことは世界の貧困と飢餓問題を無くす目標は不可能と思いました。これこそがSDGsの欠点なのです。SDGsは非現実的な目標を始めの方に掲げているのです。
しかし5番目から17迄の目標はある程度達成は可能だと思います。
ここにSDGsの重要さがあるのです。SDGsを浅薄な流行で終わらせないことが重要です。

国連本部のあるニューヨーク市は2018年10月にSDGs(持続可能な開発目標)の進捗を国連に報告しました。その内容は末尾に示した通りです。
ニューヨーク市は世界で唯一、進捗報告を宣言した都市です。ニューヨークは国家ではなく都市ですが温室効果ガス排出量を2050年までに80%削減することを宣言しています。

国連のSDGsの壮大な目的は世界中の人々が幸福に暮らせるようにしようとするものなのです。それは究極の人類の理想です。
しかし人々が幸福になるためには自分の努力が欠かせません。幸福は他人が与えることが出来ないのです。
その実例は自分達独自の生活様式を守り幸せそうに暮らしているアーミッシュ民族です。
その生活の様子をご紹介します。これは国連のSDGsに対する問題提起なのです。深くお考え頂ければ幸いです。

アーミッシュ民族は禁欲的なキリスト教の一派です。私はこんなアーミッシュの村を訪問し、一泊した体験があります。
約25万人いるこの一派の人々は全てのアメリカ文明を拒否し農村地帯に孤立した村を形成して自由に暮らしています。
アーミッシュの村は、ペンシルバニア州、オハオ州などの中西部に散在しています。
禁欲的な質素な生活を守り、職業は農牧業のみです。電気・ガス・水道、自動車、耕運機、電信電話など近代文明の産物は一切使用しないのです。
義務教育はないし税金もありません。
アメリカの市民権は認められ、白人ではありますが、まったく異質の文化を守り、孤立した村として散在しているのです。それは現在のアメリカ人とは全く異質のアーミッシュ民族とも呼べる人々なのです。
1989年にオハイオ州コロンバス市に住んでいた時、訪問し一泊して来ました。
車で二時間の所にありました。まったく想像を絶する原始キリスト教のような生活をしているのです。
アーミッシュの村に入ると、「路上で黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が増えて来ました。周りは一面の実り豊かな麦畑。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしています。
看板通り、黒塗りの箱形馬車が近付いて来たので慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違います。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返します。
麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げています。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いていました。
アーミッシュ村に車で観光に行った場合のマナー です。
「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行する。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパー店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること」「御土産店では村への入場料のつもりで多めにチーズやヨーグルトを買って上げなさい」 そんなことがルールだそうです。
夜は木造2階建ての民宿に泊まりました。
部屋にはローソクしかないのですが、外の方が明るいのです。窓から見ると、満天の星空。星明りで外が明るいのです。

「夕食ですよ」と呼びに来たので、食堂に下りて行くと、そこには電気がついています。新鮮なホーレン草のサラダと鶏肉のソテーのみでしたが、自然栽培なので実に美味しいのです。残念ながらビールや酒類は一切ありません。 布に包んだ温かい焼きたてのパンが籠に入って出て来ました。
そばに座ってくれている女主人にいろいろ聞きました。
電気は使っていますが、冷蔵庫、洗濯機、井戸水汲み上げポンプ、食堂と調理場の電燈に限って使っているそうです。
そしてアーミッシュの人の職業は農牧業しか許されていないので、民宿やスーパーマーケット、御土産店などの経営者は普通のアメリカ人が経営しているそうです。
「ところで、明日、アーミッシュの人々の生活を見たいし、話も聞きたいので、誰か紹介してくれませんか」と頼んでみました。
すると女主人が、「泊り客はそういうことをよく頼みます。でも丁重にお断りしています。アーミッシュの信仰中心の日常生活を邪魔しない。それが人として正しい接し方と思いますよ。」と答えます。そして続けて聞いてきます、「日本にもキリスト教徒がいるのですか?」
私は、五島列島の隠れキリシタンの二百六十年の歴史や現在のキリスト教信者の話をしました。
食後はローソクの炎の揺れる暗い自分の部屋へ引き揚げ、星明りの窓の外をもう一度見てベッドへ潜り込んだのです。

アーミッシュの村には静けさに満ち、時がゆっくり流れているようです。
聖書の教えを守り、絶対平和主義を貫く彼らは「電気」「ガス」「電話」「車」などの近代文明は、トラブルの元になり、信仰の邪魔になると信じているのです。思想が異なる外部の世界と接触しないで孤立した生活を送っているのです。
男女ともに早朝5時に起き、日の入りまで働きます。子どもたちはコミュニティーの学校に通い、8年生(中学2年生)以降は職業教育のみを受けるのです。
 衣服は、下着を含め、主婦がすべて縫います。
テレビも見なければ、「冷蔵庫」「冷房」「洗濯機」も使いません。
電話も、外部の世界と接触することになるため使用しません。交通手段も馬車で、農耕も馬や牛に助けてもらいます。病気や怪我も、自然治療や伝統療法で治すのです。結婚も10代後半でするケースが多く、避妊も禁じられているため、子だくさんが多く、女性は子育てに家事に、農業などに忙しい生活を送っているのです。

 アーミッシュの人口数は少しずつ増えており、現在ペンシルベニアやオハイオを中心とした米22州に約25万人のアーミッシュが住んでいるといわれています。
殺伐として現代において、「アーミッシュの思想や生活こそが理想なのではないのか」と、彼らに興味を持つアメリカ人もいるそうです。

その生活ぶりの写真をお送りします。特に3枚目の室内の写真を注意深くご覧下さい。部屋には電燈が無く、薪ストーブが中央にあるだけです。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るすほど沢山持っていません。下着は箱に仕舞い、農作業と礼服を常に共用する服を毎日着ています。農作業にはトラクターは一切使いませんので、4枚目の写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。
上の3枚の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish
4枚目の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish
5枚目の写真の出典:写真の出典は、The Huffington Post:http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/12/amish-life_n_6313752.htmlです。










今日はニューヨーク市のSDGsの取り組みをご紹介しました。そしてSDGsへの問題提起としてアーミッシュの人々の生活をご紹介しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料================
(1)この欄でこのSDGsに関して掲載した記事は次の通りです。

1、革新的なSDGs思想を取り入れる海外の会社と日本の会社(2019年09月22日 掲載)
2、国連のSDGsは世界の貧困国を救えるか?(2019年09月19日 掲載)
3、世界の飢餓人口の増加続く現状とSDGsの役割(2019年09月16日 掲載)
4、小泉進次郎の国際的視野の広さに感嘆(2019年09月13日 掲載)

(2)ニューヨーク市がSDGsの中でも優先的に取り組んでいる5項目は次の通りです。
ゴール6: 安全な水とトイレを世界中に (Clean Water and Sanitation)
ゴール7: エネルギーをみんなに そしてクリーンに (Affordable and Clean Energy)
ゴール11: 住み続けられるまちづくりを (Sustainable Cities and Communities)
ゴール12: つくる責任 つかう責任 (Responsible Consumption and Production)
ゴール15: 陸の豊かさも守ろう (Life on Land)
(https://www.sustainablebrands.jp/news/os/detail/1190966_1531.html)

「フランシスコ法王の来日とミサへの参加申し込み方法」

2019年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のカトリック小金井教会のミサに行きましたところフランシスコ法王さまの日本でのミサへの申し込み方法が掲示板にありました。
東京では11月25日に東京ドームであります。
長崎では11月24日にNagasaki Baseball Stadiumで開催されます。
ミサへの参加申し込みは、https://popeinjapan2019.jp へインターネットで申し込みます。抽選で当選した方が参加できます。

教皇ミサ in 東京
Papal Mass in Tokyo
東京ドーム
Tokyo Dome
11月25日 15:30~17:45
先着順ではございません。
応募締め切り 10月15日

教皇ミサ in 長崎
Papal Mass in Nagasaki
長崎県営野球場
Nagasaki Baseball Stadium
11月24日 13:30~15:30

参加申し込みの入力画面は、https://popeinjapan2019.jp/cgi-bin/general/ca.cgi にあります。
以上、謹んでご案内申し上げます。
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日本カトリック司教協議会会長
長崎大司教 ヨセフ 髙見 三明
このたび、日本を訪問してくださるフランシスコ教皇様に、日本のカトリック教会を代表して心から感謝申し上げるとともに、日本の皆様とご一緒に歓迎し喜びたいと思います。
教皇フランシスコの就任は2013年3月13日でしたが、翌年7月に、当時の司教協議会会長岡田武夫大司教と副会長だったわたしが、招待状を携えてバチカンに参りました。その後、数回にわたって手紙などを通して訪日を要請して参りました。教皇ご自身も、一般謁見の講話の中で日本のキリシタン時代のことに言及したり、「焼き場に立つ少年」の写真の頒布を指示されたりして、訪日に向けていわば伏線を敷いておられたように思います。
それにしても、教皇訪日は、実に多くの方々の理解と協力がなければ実現できない、大きな出来事であると感じております。数ある国々の中で、キリスト信者が極めて少ない日本に来てくださることを感謝しつつ、少しでも有意義な訪日になるよう、一層気を引き締めて準備に務めて参りたいと思います。皆様方のご支援をいただければ幸いでございます。

「フィリピン最古の教会、サン・アグスチン教会」

2019年09月22日 | 日記
サン・アグスチン教会はマニラ市のイントラムロス歴史地区にあるフィリピン最古のバロック様式の石造り教会です。現在の建物は1587年に着工され、1606年に完成しました。
建造された目的はキリスト教の布教です。16世紀、フィリピンはスペインの統治下にありました。その時のスペイン人の使命の一つがキリスト教の布教でした。その拠点として多くの教会と共にこちらも建てられたのです。
第二次世界大戦や大地震にも耐え抜け、イントラムロスの中で一度も破壊されずに残っているのはここだけという貴重な建物です。
上記の文章と写真の出典は、https://u-ful.com/12528#i-2 です。









フィリピンのカトリック教会、マニラのキアポ教会の写真

2019年09月22日 | 日記
キアポ教会はスペイン統治時代の1582年に宣教師によって建てられたローマカトリックの教会です。
ここにある「ブラックナザレ」と呼ばれる黒いキリスト像が有名で、像の足に触れると願いが叶うと言われています。詳しくは、https://u-ful.com/12815 をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)