1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。
その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。
茫々50年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。
しかし間もな?会一処で、あの世で会えるのです。
われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。
昔、お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために50年前の写真を掲載します。
上の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。
左の2人は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイで右端はその奥さんのゲイルです。この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。
上は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。
右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。
結婚式の案内状は奥さんのボビーの呼びかけで代母のゲイルが手書きで書いて送ってくれたのです。家内は奥さん達にウエディングシャワーおをして貰い、新生活に必要な品々を沢山頂きました。(翌年長女が産まれる前にもベイビイシャワーをしてもらいました)
上の写真の左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。
以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。
1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。
セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。
激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。
その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。
恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。
同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。
ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。
人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。
アメリカという遠い異国でお世話になった方々を思い出して、感謝しています。
1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。
その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。
茫々50年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。
しかし間もな?会一処で、あの世で会えるのです。
われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。
昔、お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために50年前の写真を掲載します。
上の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。
左の2人は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイで右端はその奥さんのゲイルです。この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。
上は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。
右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。
結婚式の案内状は奥さんのボビーの呼びかけで代母のゲイルが手書きで書いて送ってくれたのです。家内は奥さん達にウエディングシャワーおをして貰い、新生活に必要な品々を沢山頂きました。(翌年長女が産まれる前にもベイビイシャワーをしてもらいました)
上の写真の左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。
以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。
1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。
セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。
激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。
その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。
恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。
同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。
ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。
人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
「コーヒー淹れたよ」<o:p></o:p>
頭のなかを 現在(いま)に戻す言葉だった。<o:p></o:p>
鉛筆を栞(しおり)代わりに冊子に挟んで私は、妻の側に座った。<o:p></o:p>
「明日、みさきのところに行ってくる」<o:p></o:p>
「うん、一年以上会ってないなぁ、俺は」<o:p></o:p>
三歳になっている孫の顔は写真でしか知らない。<o:p></o:p>
「おとなみたいな口きくのよ、頭いいのかも」<o:p></o:p>
「大人の真似をするからこどもなんだ。傍にいる大人は親だから、口調が親そっくりになる」<o:p></o:p>
だから可愛いとも言える。水を注すようだが頭の良し悪しはこの段階では判らないものだ。真似の速さや記憶力などとは本来無縁のものだからだ。他人との関係の捌(さば)きの中にこそ現われる。そう思う。<o:p></o:p>
「コーヒーの淹れ方、うまいな、相変わらず」<o:p></o:p>
「またまた」<o:p></o:p>
そう言いながらも笑顔で「おかわりでしょ」と妻が腰を上げる。<o:p></o:p>
「親はさ」<o:p></o:p>
「え? 何」<o:p></o:p>
湯沸しの音で、つぶやき調の声ではよく聞こえないのだろう。<o:p></o:p>
「寄り添って、信じて、褒めてやることだよ」と大声を出した。<o:p></o:p>
そうすれば子供は、親の想いから大きく外れたりはしない。だから学齢前の親子の大事な時期を、可愛がるだけの爺婆が邪魔をしてはいけないと、そう思う。変わり者の発想かもしれないのだが。<o:p></o:p>
「可愛くば五つ教えて三つ褒め、二つ叱って良き人とせよって言ってね」<o:p></o:p>
「標語みたいね、語呂が良くて」<o:p></o:p>
「そのとおり。四十年ほど前に運送のバイトをしていて湘南の道路で見たんだ」<o:p></o:p>
「すぐメモしたとか」<o:p></o:p>
「うん、あとでミソ帳にもシッカリ書き留めた」<o:p></o:p>
「そういうとこ普通じゃないな、やっぱり」<o:p></o:p>
禁止と命令だけというのは親の愚行でしかない。無視・無関心は最悪の罪とさえいえる。これも私の持論だ。<o:p></o:p>
「学校の先生、似合うかもね、もう遅すぎるけど」<o:p></o:p>
妻が首をすくめて笑った。<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
母は私を無視したのだろうか。自伝の中に出てくる「私」は二行だけだった。糅(か)てて加えてそれが出てくる頁も、何と四四。縁起も悪い。<o:p></o:p>
『その頃三男(駿)が生まれました。あぶなく三男を忘れるところでした。昭和二十二年四月九日、六人目の子です』<o:p></o:p>
その忘れそうになった子が、自伝の編集をしたとは、泉下の母も苦笑しているのではないか。<o:p></o:p>
(いや、違うかも……)<o:p></o:p>
遠い記憶を辿った。<o:p></o:p>
そうだ、母の自伝がいつの間にか分厚くなったのを見て、私が「本になるねぇ、この分量なら」と言ったときだ。<o:p></o:p>
「きれいに書き直してるだけだよ、そうしとけば、いつか誰かが読んでくれるだろ」と、皺が目立ってきた小さな顔を、悪戯っぽく崩した母。<o:p></o:p>
その「いつか誰か」の初めが私になるだろうことを予測し、期待していたのではないか。「何とゆう字?」の相手は常に私だったのだから。<o:p></o:p>
母のその想いが、死が来る前に自作を何冊か上梓して遺しておきたいという現在(いま)の私の想いに繋がっている。もしそうだとしたら……。<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
『母の作品の真意を過(あやま)りなく第三者に伝達すること、果たしてそれは可能なのか。私が筆を執っては擱(お)き執っては擱きした事情はここにある。<o:p></o:p>
しかし私は負けた。気をとり直した。<o:p></o:p>
第二稿の終り頃に「目を瞑る」の字を見たときに。第一稿では書けなかった「一生懸命」の漢字を第二稿で見つけたときに。尋常小学校中退の母が、仏典の解釈を自分なりに自分の言葉で叙述しているのを見たときに。もしかしたら母は、私の数倍の学問をしてきたのではないか。そうであれば私が母の作品を編めるわけがない。逆接に言うことがゆるされるならば、右の自覚が急速に私の筆を速めた。母の声を聞こうと思ったからである。当初百八十枚になると思っていた稿が九十一枚で終わったのも同じ理由に因る。<o:p></o:p>
この作品は父の死亡によって終焉を迎えるべき、と思ったのである。夫への愛憎は相半ばして母の人生に彩(いろど)りを添えた。それは余りにも激しく、余りにも極端であった。夫の行状に怒り首を絞めて殺そうとして子供に現場を見られ、朝が来るのが怖かったという条(くだり)は文字面を追っただけでも哀しい。父の一周忌近く、母が狂った事実を長兄と私は知っている。一年の歳月が父と母を限りなく近づけたのである。二人の間に生まれた息子でしかない私たち二人が出来たことは母を病院に運ぶことだけであった。あの場面で母が半狂乱の中で頼ったのは既に物故していた父であり、長兄でもなければ、ましてや三男の私でもなかった。このことに気付いたとき私は、この作品の骨格を初めてイメージできたのかもしれない。』<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
……初めて見る危うい姿だった。私だけでなく、長兄にとってもそうだったろう。八畳間に置かれた二段ベッドの下段で、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、髪を振り乱して囈言(うわごと)を繰り返す母は、確かに女だった。<o:p></o:p>
(オヤジが迎えに来ている?)<o:p></o:p>
子どもの目から見ても家庭人としての父は最悪の男だった。苦労をさせられ続けた夫から呼ばれ、それに従おうとして自分が置かれた現実と戦っている。見せている狂態はその証だ。そんな気がした。<o:p></o:p>
長兄が近所の内科医院に走った。<o:p></o:p>
母と二人だけになったそのとき、私は一生忘れないであろう台詞を耳にする。<o:p></o:p>
「駿、勉強しなよ、駿、勉強…し、なよ』<o:p></o:p>
二度目は声がかすれて不完全だった。<o:p></o:p>
(嘘だろう? 何でいまなんだよ)<o:p></o:p>
しばらくの間その場に立ち尽くした私。<o:p></o:p>
毅然たる無関心、そうではなかったのか。だとしたらこれまでの「仕打ち」の意味は? 親に、家庭に対する怒りを熱源にして独学を続け、父が逝った昭和四十三年に文部省大学入学資格検定に合格した私、その意味さえも覆す一言だった。<o:p></o:p>
(おふくろが、いまさら勉強って、何。いまさらだろう? ……何言ってんだ)<o:p></o:p>
俄かに目頭が熱くなり何も答えられなかった。ただジッと母を見詰めて、医者が来るのを待った。<o:p></o:p>
「脳軟化(脳梗塞)の疑いがあります。救急車を呼びましょう」と、往診に来た医師が言った。救急車の中で長兄と私は、迫り来る何かに囚われている母を凝視しながら、極度に緊張をしていた。<o:p></o:p>
ところが運び込んだ総合病院の医師は診察後、救急隊員に質問されて明確に答えたのだ。<o:p></o:p>
「何でもありません」<o:p></o:p>
それでは困ると隊員に念を押されても、彼の確信は変わらなかった。ある意味では「仮病」と診断されたことになる。<o:p></o:p>
長兄と私が、「ちょっとこちらへ」と医師に呼ばれた。<o:p></o:p>
「お母さんに、きょう、何かきついことを言いませんでしたか? 所見自体はありません、精神的なものです、症状は全てそこから出ています」<o:p></o:p>
身に覚えが無かった長兄と私はキョトンとして顔を見合わせた。<o:p></o:p>
処置室に戻ると、身繕いをすませた母がベッドから降りようとしている。<o:p></o:p>
落ち着いたいつもの表情になっていた。まるでカタルシスのあとのように。<o:p></o:p>
(また放り出されてしまった)<o:p></o:p>
ここでも私は、そう感じて横を向いた。(続く)<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
福島の4つの原発が爆発して甚大な被害が出ました。
しかし日本人は自らの手で、その責任者を追及して裁判にかけ、処罰しようとしませんでした。個人の責任は問わないという文化なのです。
この文化は先の大戦で日本が完膚無きまでの敗戦になっても、その責任者を追求しなかったと同じです。
日本には脈々として無責任体制を良しとする文化が根付いているのです。ヨーロッパ文化と日本文化の相違を忘れないためにもう一度日本とドイツの比較をしたいと思います。
戦後、日本では戦争を指導した政治家や軍人をみずからの手で逮捕し、裁判にかけ、処刑をしようという発想がありませんでした。
ところがドイツ人は全く違ったのです。ナチス一派の政治家や軍人を6500人以上逮捕し有罪にしました。オーストリアでは13607人が有罪になり43名が死刑判決でした。
ドイツ人自身がドイツ人のナチス一派を戦争犯罪者として逮捕したのです。
日本人は生き残った参謀や高級将校を逮捕して、裁判にかけようとはしませんでした。
開戦を指導した政治家も逮捕しません。
軍に没収された財産の返還を求める裁判もしません。
特高警察で違法な暴力を受けた市民も裁判にかけませんでした。
インパール作戦のような無駄死を命令した参謀を逮捕しませんでした。
未成年の沖縄の女学生や中学生を駆り出して、死なせた沖縄防衛軍の生き残り将校を逮捕しませんでした。
この日本とドイツの相違は文化の相違です。個人の責任を重視する欧米の文化と、個人の責任があいまいで、個人の責任を重視しない日本の文化の違いです。
21世紀を完全な世界平和の世紀にするためにはこの文化の違いも考えて、どちらの文化にしても戦争のキッカケになる事をしないことが重要です。
以下に、ドイツ現代の歴史の非常に優れた研究者である清水正義氏の研究発表をご紹介いたします。清水正義氏の研究を、日本人は高く評価して、もっと注意深く読むべきと思います。
特にドイツの戦後の戦争にまつわる裁判は日本の新聞が殆ど報道しなかったようです。
私も詳しく知りませんでした。多分マッカーサー司令部が新聞報道を規制していたものと私は想像しています。
日本とドイツの占領政策は切り離して、マッカーサー司令部は日本だけを混乱なく統治したかったのかも知れません。
あるいは昭和天皇を裁判にかけようとする運動を無いものにしたかったのかも知りません。
以下の清水正義氏の明快な研究成果も是非お読み下さい。
=====ドイツ人自身によるナチス一派の裁判===========
出典は清水正義氏のホームページです。
(http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/vergangenheitsbewaeltigung.htm)
戦後ドイツはナチスの過去と深刻に向き合ってきました。この過去との対決のことをドイツ語では「Vergangenheitsbewaeltigung」といい、日本では「過去の克服」と訳しています。
「過去の克服」は次の5つくらいの方向でなされています。
第一に、ナチス犯罪者を処罰することです。
第二次世界大戦後、連合国のニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスなどナチス指導者が裁かれました。また戦勝各国それぞれがナチスの犯罪者を裁く裁判を行いました。
さらにその後、ドイツの国内裁判でナチスの幹部や犯罪実行者などが裁かれ、この国内裁判だけで現在までにおよそ6500人程度が有罪にされています。
日本でも、太平洋戦争後、連合国による東京国際軍事裁判や連合国によるBC級戦犯裁判が開かれていますが、その後、ドイツのように国内裁判で戦争犯罪人を処罰することはありませんでした。
この点で、ドイツがナチス犯罪者を処罰しようとする姿勢は、日本人から見ると際立っているように見えました。しかしユダヤ人など被害者側から見ると、まだ不徹底であるという批判がされています。
第二に、ナチス関係者を公職から追放したことです。
戦後、連合国によってナチス党は禁止され、ナチス党員は自らの過去を占領軍当局に報告することが義務付けられ、公職を追放されました。ただし、公職追放は連合国の方針の不統一や冷戦の開始などの政治状況の変化によって不徹底なものにとどまりました。とくに裁判官などの場合は簡単に人員交代ができないこともあって、元ナチス党員が戦後も枢要な地位にとどまったと言われています。
第三に、ナチス暴力の被害者となった個人に対して金銭や現物返却による補償措置がとられました。
最初のうち、ナチスによって財産を没収された人(とくにユダヤ人)の財産返却のための措置がとられ、ついで、イスラエルやヨーロッパ諸国の人たちを対象に金銭による補償措置がとられました。そして、ドイツ国内在住の被害者に対して連邦補償法による金銭の補償措置がとられるようになり、これがドイツ戦後補償の基本となりました。
近年になって東欧諸国からの戦時強制労働被害者に対して基金の設立のような形で補償措置がとられるようになっています。
第四に、憲法や法律などの中でナチス的なものが極力排除されました。
ドイツ憲法は、ナチスの再来を許さないようなさまざまな工夫がこらされています。例えば、ヒトラー政権誕生にいたる過程で、当時のワイマール共和国憲法下の大統領権限の大きさが問題とされたので、戦後はこうした大統領の政治的権限を著しく弱体化させました。またワイマール時代に議会が少数政党の乱立から機能不全に陥り、結果的にナチス党のような極右政党の進出を許したことから、戦後憲法では有権者の5%の得票を得ない少数政党は連邦議会議席を得られないことにしました。また、ナチス党を賛美したり、ナチス式敬礼(「ハイル・ヒトラー!」と右手を挙げる敬礼)をすることは法律によって禁止されました。
第五に、学校教育における反ナチス教育の徹底です。
ドイツでは中学校くらいのときにナチス時代のことを集中的に学ぶ機会があり、ナチスの権力掌握の意味や、当時のドイツ国民の考え方、どうしてナチスを支持したか、アウシュヴィッツなど強制収容所の実態などが細かく学習されます。ナチスの被害者となったポーランドとの間では歴史教科書をめぐる対話が進んでいます。
以上の5つの方向以外に、戦後の言論界におけるナチス的ものに対する批判、ドイツ国防軍の行動範囲の限定、歴史的なドイツ国境の放棄と戦後国境の承認などなど、戦後ドイツの内外政はナチスの過去と無関係に扱われるものは少ないのです。
こうした戦後ドイツのナチスとの向き合いについて、これを高く評価する見方がある一方、まだまだ不徹底であるとする見方もあります。
とくに1989年のベルリンの壁の崩壊、翌年の東西ドイツ統一以後、旧東ドイツ部分で再びナチス的な考え方が目立ってきたという見方もあります。
それは経済的に困難な地位に置かれた旧東ドイツの人々が、ドイツにたくさんいる外国人労働者に対して排外的な態度をとりがちであることも関係しています。
このように、ドイツではナチスの過去に対して真剣に取り組む実績を持ちつつ、しかし、今もなお、その努力が充分であったかと問い直すことが行われています。
日本での戦争責任論、歴史教科書問題などの問題を考える際にも、ドイツの事例がしばしばとりあげられるのはこうした背景があります。
======以下省略======================
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
「雪積む樒」(ゆきつむしきみ) 馬場 駿
寒中のわりには暖かい日だった。西高東低の気圧配置が大崩れをしたらしい。コーポラスの三階から見るいつもの景色が陽光をたっぷり受けて輝いている。遠い山々が霞み、浮かんでいる雲さえ半ば橙色に染まって春を思わせる。<o:p></o:p>
「それ終わったらコーヒー頼むな、自分で淹(い)れると濃さが変なんだ」<o:p></o:p>
「きょう本を整理するって言ってなかった?」<o:p></o:p>
炬燵(こたつ)に戻ろうとする私に、妻がベランダで洗濯物を干しながら言った。
出張先に置いてある書籍類が還ってくる。あと一と月で六十五歳、定年で仕事が終わるのだ。老夫婦だけの小さな年金生活が始まる。そう思って早々に本棚を一つにしてしまった関係で、出戻り本の収納場所が無い。もう二度と読まないものや、長年月を経て用をなさなくなった資料などを資源ゴミとして出す必要があった。<o:p></o:p>
「そう、なんだけど…」と、処分をためらう自分がグズグズと居座っている。<o:p></o:p>
書籍というものは、購入して傍らに置いたときから特別なものになる。書店に並んでいたときとは違う何かが、「関係」として生まれるのだ。実際に紐解いたり、学んだりすればその絆はより深くなる。自分が作者や編集者ならなおさらだ。<o:p></o:p>
そんなことを想いながらも観音開きの扉を開けて、最上段から一冊ずつ、指で背表紙に触れていく。<o:p></o:p>
本棚の二段目の色褪せた朱色の小冊子――<o:p></o:p>
レザックの背表紙にタイトルがやっと刷れる程度の厚みで、分厚いハードカバー本の間に遠慮がちに挟まっている。タイトルは平仮名で『しきみのように』、平成元年十二月に逝去した母、雪の自伝だ。享年七十四。仲良しの貧乏神と一生連れ添うことになった女の、前半生がこの中に遺されている。<o:p></o:p>
引き出して左掌に載せてみた。書籍用紙で九十三頁なので、比較的軽い。<o:p></o:p>
『重かったけどな、あの原稿用紙は…いや、内容も、編集も…』<o:p></o:p>
懐かしい冊子をパソコンの前に置いて、自作の編集後記を開いてみる。<o:p></o:p>
からからからっというサッシ戸が締まる音が、それに重なった。室内の空気が小さく渦巻いたような気がした。<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
『一周忌に配布すべく編集にかかりながらとうとう三回忌ぎりぎりの発刊となった。ひとえに私の怠慢に因るが弁解が許されるなら一言発したい、<o:p></o:p>
「これ以上はないというほど困難な作業だった」と。<o:p></o:p>
長兄から母の遺稿を手渡され、本にして欲しいと依頼された私は、一読して正直なところ途方に暮れた。<o:p></o:p>
「自でん」と題された母の遺稿は一つではなかった。四百字詰原稿用紙百二十八枚に及ぶ第一稿と、その改訂稿とも言うべき六十七枚の第二稿があり、それぞれが異質な香りを放っているばかりではなく読み比べていくうちに相互に矛盾する叙述に幾度か遭遇したのである。私は先ずどちらの作品を基本として編集していくのかで迷った。文章の出来で選ぶなら第二稿であり、めちゃめちゃではあっても心情の吐露の完全さで、文章のボルテージの高さで選ぶなら第一稿であった。<o:p></o:p>
結果的に私は、本作品の前半では第一稿を、後半では第二稿を採るのだが、ここで母の作品(原作)の文章上の特徴を羅列しておこう。<o:p></o:p>
先ず、句読点が全く無い。文章に段落というものがない結果、行変えという操作をしていない。分かりやすく言えば原稿用紙のマスは全て字で埋め尽くされている。台詞のルール(「」又は『』)に従わず直接話法の形で無造作に文中に入っている。加えて主語、述語の欠落が目立ち、文章の前後がかみ合わないところへもってきて、意味上の倒置法を多用し、本人にしか分からない事実を一方的に省略しているので、第三者は立ち往生せざるをえない。接続詞は皆無に等しく、誤字、脱字、あて字が氾濫している。<o:p></o:p>
それにもかかわらず、否、そうであればなおさらに、母の無知、苦悩、逡巡、善意がせつせつと胸に迫り涙をさそうのは不思議である。』<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
「駿、これ何て読むの? どういう意味?」<o:p></o:p>
いったい何回問われただろう、この母に。<o:p></o:p>
かつて一世を風靡した漫才のミヤコ蝶々が上方トンボに「何とゆう字?」と何度も訊いたことから相方の芸名が南都雄二(なんとゆうじ)に改まったという逸話は有名だが、私も母にとっては同様な存在だったのだろうか。当用漢字を読めるというだけでは応えきれないと悟った私は、母が差し出す単行本や学会雑誌、宗教新聞そのものを読破するようになった。当時の新興宗教に関するものだけに、日蓮の「御書」をはじめ仏教用語の数々、歴史上の人物の名や官位名・職名といったものまで調べる羽目に陥っている。一体が罰当たりなので、長じても宗派の折伏(しゃくぶく)に理論的に抗して宗教的な中立を護ってはいたが、母のお陰で信者に匹敵する知識を蓄えてしまった。もっとも小学校一、二年の頃までは母に従って朝の勤行(ごんぎょう)もしていた。母が私を傍らに座らせ拝ませるときの殺し文句は、「丈夫になる」と、「頭が良くなる」の二つだったと記憶している。このいずれのご利益も時を経て、自分自身でその存否を判定することではあるまい。<o:p></o:p>
そう言えば、ずっと蟠(わだかま)っていたことがある。勉強とか、学問とか、教育とか、そういったものに母は、表面上全くと言ってもいいほど関心を示さなかったが、実際はどうだったのかということだ。試験で満点を取っても、毎年委員長になっても、児童会長になっても、何に表彰されても、「それがどうした」という顔で通した母。成績の通信票などは出しても見向きもしなかった。「自分でハンコ押しな」と認め印のある場所を指差すだけなのだ。中学生になるとさすがに私も諦め、何も報告しなくなった。生活に追われ、それどころではないのだろうと勝手に納得もした。「いい成績なのになぁ」と私は、口を尖らせて校庭の隅で空を見上げた 記憶がある。「勉強しろ」とか「宿題やったか」といった類の台詞を一度も吐かなかった母の真意が奈辺(なへん)にあったのかは不明だ。一方、大工だった父には名言がある。「教室で先生に習ってまた家で勉強してるってのは頭が悪いからか」。これを聞いてから私は、家での予習、復習や試験準備を一切止めている。<o:p></o:p>
昭和三十九年県立高校一年の秋、父が何度目かの脳溢血で倒れた。父は塩を嘗め嘗め冷酒をあおるような男だった。<o:p></o:p>
私は思い詰めて確かこんな質問をした。<o:p></o:p>
「大学まで行かせてくれるの、どうなの?」<o:p></o:p>
針を動かし繕(つくろ)い物をしていた母は、私の顔も見ずにただ黙りこくっていた。そんなこと聞くほうが可笑しい、とでも言うように。否定を伝えるには最も有効な対応だった。<o:p></o:p>
結局私は、寝たきりの父の「義務教育は終ったんだから働いて食い扶持(くいぶち)を入れろ」という言葉を間接的に知らされて愕然とし、その年の暮を待たずに、任意退学をしている。あえて言えばこのときの学級は選抜クラスだった。決断した場面でも母のコメントは何も無かった。胸の中で名状しがたい虚しさが渦巻いたのを憶えている。<o:p></o:p>
「独学とアルバイト生活の二十年」はこのときから始まる。(続く)
====連載を始めるにあたって、後藤和弘============
小生の友人に木内光夫さんという人がいます。伊豆の伊東市に住んでいて、岩漿文学会のお世話をしています。その同人誌、「岩漿」の毎号に、筆名の馬場 駿で力作の小説を掲載しています。
今年、発行の21号では、短編「雪積む樒」という小説を発表しています。貧困だった生い立ちを自分の母を主人公にした感動的な話でした。母親の深い情愛と破天荒な生き方が描き出されていて、しかもストーリー展開が面白いのです。小説はやっぱりストーリーが面白いことが一番重要だと改めて知りました。
そこで著者の馬場 駿さんへその小説、「雪積む樒」をこのブログで連載にして掲載することをお願い致しました。
本日、快諾のご返事とともに全文が送られてきました。原稿は縦書きですが、ブログでは横書きに変更せざるをえませんでした。
慎重に推敲のなされた文章は読んでいて気持ちの良いものです。
馬場 駿の文章世界をお楽しみ下されば嬉しく思います。
是非、ご覧下さい。なお挿絵の写真は樒(しきみ)の花です。
なお関連記事は:総合文芸誌、「岩漿」第21号のご紹介です です。あわせてご覧下さい。
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私のブログ記事へたびたびコメントを下さるyuyuさんは尾張裕峯という有名な盆栽鉢の陶芸家です。勿論、盆栽もなさいます。
以前からそのことは存じておりましたが、6月4日発売の「近代盆栽」という専門誌に尾張裕峯師の盆栽鉢作家としての特集記事が掲載されます。
この「近代盆栽」という専門誌はたいていの図書館にありますし、本屋さんの店頭にもあります。是非、ご覧ください。
さて、この機会に尾張裕峯師の盆栽鉢の作品を3点だけ以下にご紹介いたします。
「尾張裕峯師の盆栽鉢」というキーワードで検索すると非常に多くの作品の写真を掲載した数々の情報があります。例えば、http://store.shopping.yahoo.co.jp/boroku/c8f8c4a5cd2.html にはいろいろな作品があります。
下の3点はその中から選んだものです。
このような盆栽鉢の使い方の例を下に示します。昨日、府中の森博物館公園で撮影したサツキの盆栽です。
盆栽というものは植えてある樹木の枝ぶり、根ばり、古木の風格、花の美しさ、葉の風情などなどが重要ですが、それにもまして鉢の焼き物としての芸術性が重要なのです。
尾張裕峯師の盆栽鉢が引く手あまたなのは、ご自身も盆栽の名人なので鉢に要求される形・大きさ・模様などを熟知しておられるからです。
近年、盆栽は欧米諸国でも愛好されて世界的な芸術に発展しています。
尾張裕峯師の、ますますのご活躍を祈っております。(終わり)
明治のはじめまで日本の家々には電燈が無く、毎日暗い夜を過ごしていました。
勿論、行燈やローソクや石油ランプはありましたが、その燃料代を節約するために必要の無いときや月夜のときはなるべく消していました。
農村には街燈もなく、夜になると真っ暗になります。そのせいで空の星がよく見えます。晴天の夜は満天の星空です。流れ星が降っているのも見えます。
しかし明治政府は日本中の家々に電燈を普及させようとして各地の水力発電所の建設を支援したのです。開発は電燈会社がしましたが河川の水利権を水力発電所へ与えて、その事業をいろいろと支援したのです。
文明開花のともしびをかかげて明治の人々は明るい希望に燃えていたのです。
その頃作った水力発電所が全国で今でも発電を続行しているのです。
日本には現在2000ケ所もの水力発電所があることをご存じでしょうか?
私は水力発電所が好きなので、あちこちを訪ね歩き写真を撮っています。下に山梨県の八ケ沢発電所と山梨県企業局所有の柚ノ木水力発電所:ttp://www.suiryoku.com/gallery/yamanasi/yunoki/yunoki.html の写真を示します。
上の写真のような水力発電所の光景をジット眺めていると何故か心が静かになって幸せな気分になります。
水の力だけを利用した自然な発電所なのです。環境に良くない排ガスも汚染水も出しません。そして半永久的に電気を起こして家々の電燈をつけて明るくしているのです。燃料代もかからないので心豊かになります。
これでこの話はお終いです。読むのはここで止めたほうが良いかもしれません。
しかし少し理屈っぽくなりますが、水力発電所にはもう一つ隠れた重要極まりないもう一つの役割があるのです。私はその事を考えると血潮が熱くなります。近代技術というものを多少研究したから興奮するのかも知れません。
それはそれとして、下の図面をご覧ください。
上の図面の左に「上部ダム」が描いてあり、右側に「下部ダム」があります。
この水力発電所の役割は東京電力の発電量を需要にあわせて瞬時に増加することにあります。
例えば真夏の昼間に東京地域の電力需要が5000万キロワットを越えそうになった時に導水管の弁を開けて、数分間で160万キロワットの電力を供給するのです。(現在は80万キロワットですが、いずれ160万キロワットに拡張します)
こうして昼間の電力危機を救ったら夜には余剰電力で水車を反対向きに回して下部ダムの水を上部ダムへ上げておくのです。
このような水力発電所を揚水型水力発電所といって全国にあります。
揚水型水力発電所こそが巨大な蓄電池なのです。
発展途上国では、しばしば停電が起きるのはこの揚水型水力発電所という巨大な蓄電池を持っていないのも一つの原因なのです。工業先進国とはこういうものなのです。
このように揚水型水力発電所が巨大な蓄電池だと想像するたびに私は知的な昂揚感を覚えるのです。数多くの技術者の努力でこのような巨大な蓄電池が完成したと思うと血潮が湧きたつのです。技術者ならこの気持ちが判かってもらえると思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
今朝の記事、田舎暮らしへの憧れと厳しい現実・・・移住はやめた方が良い では、「田舎暮らし」の定義として、「農業を楽しむ目的の移住」と限定しました。
しかし実際には農業を一切しないで、単に別荘に転居して、住民票は田舎の自治体へ提出して、都会から引っ越す人も多いものです。
その別荘地に隣接する村落の地区の組み合いには加入しないで独自の生活をするのです。
このような移住の仕方のほうが問題が少なく、かえって良いようです。
私の森の奥の小屋の近所にもこのように農業をしないで、貯金だけで生活して別荘に住み込んでいる人が5人ほど居ます。
大体は奥さんを都会において自分だけが別荘に住んでいます。
住民票は北杜市へ提出し、住民税も北杜市へ支払います。しかし地区の組合に入っていなのでゴミ集めなどの行政サービスは無いようです。
しかし市民なので北杜市の市営の温泉センターは格安で入浴できます。
地区の組合に入っていないので面倒な共同作業には出る必要がありません。ですから地元の人々とは没交渉です。
見ているとその方が両方にとって良いようです。
従って無理に農業をする田舎暮らしをするより、まず住民票を動かさないで、冬のあいだ別荘に住んでみることをお薦めします。
それで5年は住み続けられる自信がついたら住民票を動かせば良いのです。
この場合、都会の家はそのまま残して置きます。
高齢になって病気になったら病院施設の完備している都会へ戻ったほうが良いのです。実際に私の小屋の近所の人も病気になって都会へ戻った人もいます。
以上のように都会から田舎暮らしへ移行する場合には、段階的に少しずつするのが安全なのです。
今朝の記事、田舎暮らしへの憧れと厳しい現実・・・移住はやめた方が良いへの補足として書き加えました。(終わり)
山梨県、北杜市の甲斐駒岳山麓の森の中に小さな小屋を作って40年間通っています。一泊か二泊だけして帰って来ます。
ここで、「田舎暮らしを周りの農民と同じ暮らし方をする生活」と定義してみます。
そうすると私には田舎暮らしは無理です。出来ません。
それにもかかわらず、田舎暮らしをしたいという人が絶えません。
下のような風景写真と八ヶ岳の麓の住宅の写真を見て田舎暮らしへ憧れる人が多いらしくて、時々、移住の相談を受けることがあります。
先方の希望やお話を聞くのは楽しいものです。愉快な話が多いので、つい長話になります。しかし私は静かに徹頭徹尾、田舎暮らしには反対です。そういう意見を丁寧な言葉で言います。
今日の記事では、何故、私が反対意見を静かに言い続けるか、その理由を書きます。
上は甲斐駒岳山麓の蕪(かぶら)開拓地の風景です。下は北杜市白州地区の新しい住宅区で、後の山は八ヶ岳です。
東京の家の半額近い値段なので定年後は都会の自宅を売って空気の良い北杜市へ移住し農業をしたいという相談を何度か受けたことがあります。
そこで実際に移住した人々を数人訪問してその体験談を少し聞き集めたことがあります。
その結果、私は以下のような条件の全てが満足されていなければ田舎への移住し農民と同じ生活をすべきでないという結論にいたりました。
(1)夫婦揃って本当に田舎暮らしが好きで、夫婦がそれぞれ車の運転が出来る。
(2)夫は稲作や農作業が大好きで、自給自足以上の米や野菜を作る決心をしている。
(3)奥さんもガーデニングが好きで、独自の趣味をしっかり持っている。
(4)自宅の中は完全に都会風で、日常の生活が清潔で便利に出来ている家である。
(5)日当たりが良くて、近くにスーパーや病院があるような立地条件になっている。
(6)ゴミ収集や無料の健康診断のような市役所のサービスが悪くても不平不満を言わない。
(7)村落の地区の区費を毎月出して共同作業に参加する決心をしている。
地元の不動産業者も訪問して話を聞きました。そこで聞いたことを以下に書きます。
まず夫婦そろって訪問したら物件の写真を見せて、丁寧に説明するそうです。しかし奥さんがしっかり者で、移住に反対そうなら、それ以上、現地を案内したりしないそうです。いずれ夫は奥さんに説得されて移住は断念するそうです。
夫婦で2度、3度と熱心に同じ不動産業者を訪問したら本気で対応し、物件を幾つも案内するそうです。
そして案内しながら上の7つの条件のことをさりげなく説明するそうです。
私の訪問した不動産業者は地元を愛していて、本当に定住してくれる人だけに家を売り、その後の面倒もよく見ていると言っていました。
一方、移住した人に聞くと、上の7つの条件のうち(6)と(7)が一番の鬼門で、苦労していると言います。
全国そうでしょうが農村や漁村では地方自治体の行政を村落ごとに設定した00地区に任せます。その地区の区長が中心になった自治組合が市役所と交渉してゴミ集めや自治体のバスの停留所の場所や巡回頻度を決めます。
移住後に農作業を楽しもうとしたら、まず区長に相談し、農機具を無料で貸してくれる農家を紹介してもらいます。
農村や漁村では市役所ではなく区長との付き合いと交渉が不可欠なのです。
区長は毎年か2年おきに交代しますが、本来の住民がします。移住者は区長になれません。
この仕組みを深く理解し、上手に対応出来る場合は田舎暮らしが成功するのです。
私も小屋を作ったとき区長と話をし、区費も払っていましたが、2年で脱会しました。東京での仕事の合間に、たまにしか小屋に泊まりに行く私は村落で毎月行う共同作業には参加できません。区費も高いのです。
都会に家を持って、都会で働いていて時々だけ田舎に泊まるであれば、区の住民にならないほうが良いのです。
ですからこそ、上の7つの条件の全てが満足していないかぎり、私は田舎への移住し、農業をすることに反対なのです。
しかし田舎暮らしに成功し、大いに人生を謳歌している人もいます。以下にその一例をご報告します。
この家は北杜市の白州の尾白の湯の周囲の田圃に囲まれた村落にあります。
5年ほど前に、夕焼けの八ヶ岳や甲斐駒の写真を撮ろうとブラブラしていました。
そうしたら、大根を一輪車に満載した男性に出会いました。
田舎暮らしをしたくて、定年後、都会生活を引き払いご夫婦で引っ越してきて、10年くらいになるそうです。 まあ、お茶でもどうぞ、と招じられました。
上の写真のように都会風の家です。下の方は広々とした水田になっています。
南には地蔵、甲斐駒、北には八ヶ岳、東には金峰山が見えます。
下の左の写真は、声楽がご趣味の奥様の作ったカボチャです。奥様はもっぱらガーデニングが趣味で、ロマンチックな洋風の庭を作り上げています。
下の右の写真はご主人のK氏が使っている300坪の水田です。これで毎年7俵(420Kg)のお米が取れるそうです。他に畑も借りて野菜も作っています。米も野菜も完全有機栽培で農薬は使っていません。
農機具や水田はほんの少しのお金で村落の人が貸してくれるそうです。農作業の仕方も親切に教えてくれるそうです。どうもその地区の区長さんと仲が良いようです。
k氏は有名なあるベアリング製造会社の研究所で定年まで働いていたそうです。研究所長をしていたそうで、悠揚迫らない雰囲気です。筆者も技術的な研究をして居ましたので話が合いました。
家の1階の大きな部屋には高級なステレオ装置とピアノがあります。
一角には食卓用のテーブルがあり、そこに座れば地蔵岳や金峰山が見えます。手前に目をやると芝生と草花の庭があり、その先には水田が広がっています。陽射しが明るい場所で、昔からの村落の端にあります。
ピアノが置いてあっても狭く感じません。奥様は毎月、何度か都会の声楽の先生の所へ通い、ソロの演奏もしています。田舎でレッスンの合宿もするそうです。近くの花白州というペンションに泊まりながら。(このペンションへもその後取材のために寄ってみました) 。
偶然にお会いしたK氏の暮らしは上の7つの条件を完璧に満たしています。
多くの人々は農作業が好きではありません。 しかし、農作業が好きでも野菜作りまでです。水稲栽培が出来る都会人は少ないものです。
一般的には奥さんが都会に残り、ご主人だけで田舎に住んでいる人が多いです。こういう場合は家庭を犠牲にしているので長続きしません。
山林の中は日当たりが悪くて、ジメジメしています。ですから山林の中の別荘は安価なのです。
ですから、k氏は土地が高価でも日当たりの良い農地を購入し、宅地へ変更申請をしたそうです。水田は借りたそうです。
各種のベアリングは現代技術の根幹技術です。この地味な分野の研究をこつこつ努力してきたK氏だからこそ実行出来た、「完璧な田舎暮らし」ではないでしょうか?(撮影日時:2008年10月28日夕方、撮影場所:山梨県北杜市、甲斐駒や八ヶ岳山麓にあるK氏宅にて、)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
朝食の終わった我が家では新聞の誌面をバラバラにして家内と私がそれぞれの関心の深い記事を読みます。
家内はジャイアンツの試合や大相撲の記事、そしていろいろなスポーツ記事を真っ先に見ます。それから短歌や俳句の文芸記事やその評論記事を読みます。
私は政治記事、特に国際政治のニュースを丁寧に読みます。そして科学や技術に関する記事も熱心に見ます。
短歌や俳句も代表的なものだけ拾い読みします。スポーツ記事も見出しだけは見ます。これは本気で読むのではなく家内と会話が出来るように準備しているだけです。
新聞のどの誌面と、どんな記事を熱心に読むかは人それぞれの趣味です。
このように趣味を軽い意味で使うことも多いものです。他人の服装を見て悪い趣味だと言うこともあります。このように趣味という言葉を使う場合は趣味の広い意味で使っています。ですから「趣味」を「好み」と置き換えても差支えがありません。
さて、ここから本題です。私は趣味の意味を限定して、次のように定義します。
「趣味とは生活を犠牲にして、執拗に続行し、自分だけが楽しむもの」です。
これは私独自の定義ですから反対する人が多くても一向にかまいません。
しかしこの定義を用いると人間のいろいろな行動が、職業なのか趣味なのかが明快に判定されませ。そして、変な趣味、悪い趣味、良い趣味の基準を自分なりに明快に言えるのです。
さて金銭や生活を多少犠牲にしなければ趣味とは言いません。
一例は、少ない月給を使って陶磁器を自分の好みで買い集めるのは趣味といえます。有給休暇を使って伊万里や九谷の里まで買いに行くのが趣味と言います。
ですから金持ちが余ったお金で焼き物を買い集めるのは私は趣味と言いません。それは道楽と呼びます。
勿論、趣味の対象は陶磁器だけでなく書画骨董、絵画、切手、何でも良いのです。またいろいろなスポーツや日本舞踊、茶道、華道なでも良いのです。
しかし生活を切り詰めて、有給休暇を犠牲にしていなければ、それは道楽であって趣味ではありません。少なくとも私はそのように区別しています。
さて「執拗に続行する」という条件も満足させなければなりません。
例えば月給をはたいて気に入った盆栽を買って来て独りで眺めていてもそれは趣味ではありません。少なくとも毎日、剪定して水をやって5年間続行したら、私はそれを趣味と言います。盆栽は難しいものです。2年や3年だけ続けて放り出したなら、それはお遊びであって趣味ではありません。
そして最後の「自分だけが楽しむもの」という条件も重要です。
よく奥さんと一緒の趣味ですという人がいますが、私は内心ニヤニヤしています。それは夫婦の好みが同じで、夫婦仲が良いと自慢しているのです。
趣味とは、奥さんの反対や子供の反対をものともせずに自分だけの世界を構築して、自分だけで楽しむものと私は定義しているのです。
学者には、「学問は私の趣味です」と平気で言う人がいます。冗談ではありません。学問はお金と地位と名声をかけ、一流のプロになって始めて成果が上がるのです。
ここまで書くと変な趣味、悪い趣味、良い趣味の違いがお分かりと思います。
変な趣味とは他人の思いつかない奇想天外な趣味のことです。たとえば月給と有給休暇を犠牲にして世界中の蟻の脚だけを収集することを5年以上楽しんだら変な趣味になります。蟻の脚だけでは生物学の進歩になんの役に立たない上、後に高価に売れるわけでもないので全く無意味な変な趣味なのです。こういうたぐいの趣味を変な趣味といいます。
悪い趣味は社会の良俗に悪い影響を与える趣味です。良い趣味とはその地域の文化に良い影響を与える趣味です。それぞれ実例を書くと「さしさわり」があるので勘弁してください。
以上のように趣味の意味を限定して考えると、長い自分の一生で生活を犠牲にした趣味と言えるものは25年間のヨットの趣味と、40年間の山小屋通いの趣味だけです。下にその写真を一枚ずつ掲載します。
家内は夫婦の義理でよく付き合ってくれました。彼女はヨットより豪華客船が、そして質素な山小屋より洒落たホテルの方が好きだったのではないかと想像しています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
以下は1970年、現在から43年前にドイツで撮った写真です。妻と子供2人、そして妻の父と私が写っています。かつてこんな家族を持っていました。
しかしそれは夢まぼろしのように消えてしまいました。
義父は亡くなりましたが他は生きています。しかしその肉体も心もすっかり変わってしまって別人のようになってしまいました。あの家族はもう居ないのです。そして間もなく死がやって来て家族はばらばらに消えて行きます。
今朝の読売新聞に出ていた和歌です。
「遠きひと 近き人など 呼びており かぐはしきかな あちらの時間」 辺見じゅん
人間は死んで浄土に行けば生前の家族、友人、知人、と皆一緒にお釈迦様に会えるという意味の「?会一処」という言葉と通ずる和歌です。
キリスト教では皆が死ねば全てイエス様に会える、一緒に天国に住むという信仰を持ちます。人間の本来の住処は天にあるのです。ですから死ぬことを帰天といいます。
人間はどんなに変わっていっても又会えると私は信じています。
そんな想いを込めてかつての家族の写真を掲載します。
なお写真を撮ったドイツの気候は、暗い、厳しい寒さのドイツの思い出 に書いてあります。
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今日は日曜日です。小生はカトリックの信者です。狂信はしていません。仏教も好きです。
このブログでは日曜日の朝はキリスト教関連の記事を書いています。
日本にはキリスト教徒は非常に少ない仏教国ですが、その考え方は日本の政治、社会、文化などに深い影響を与えています。ですから毎週一回くらいはキリスト教のことを考えてみたいと思っています。
今日は幕末から明治初期のキリシタン弾圧の壮絶さについて簡単に書きます。
1853年、アメリカのペリー提督が浦賀に来て日本を開国させました。そして5年後の1858年(安政5年)に江戸幕府はフランス、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシアと修好通商条約を結び、1859年には横浜に各国の総領事館が出来ます。
江戸時代の末期の1862年に横浜の山下にカトリック教会が出来ました。徳川家康の禁教以来、260年、初めての近代的な教会堂がフランス人神父によって完成したのです。
しかし家康のの禁教令はそのままで、外国人だけが宗教の自由を許されていたのです。この横浜の「フランス寺」を見物に集まった日本人は幕吏によって逮捕され牢へ送られたのです。
その後、1864年には長崎に大浦天主堂が完成し、長崎奉行も招待して完成式典が盛大に行わたのです。しかし招待された長崎奉行は出席せず、反対に隠れキリシタンは大浦天主堂に現れるのを厳重に警戒していたのです。
そんな長崎奉行の警戒の中にもかかわらず、1865年の3月17日に大浦天主堂に15名程の農民が近づいて来て、プチジャン神父へ告白します、「私達は貴方様と同じ心です。長い間(250年間)、パーデレ様(神父様)が帰って来るのを待っていました」と言うのです。そして、「サンタ・マリアの御像はどこですか?」と聞きます。
プチジャン神父は驚喜します。これで隠れキリシタンが皆フランス寺の信者になってミサに参加出来れば、メデタシ、メデタシで一件落着になるのです。
しかし歴史は過酷でした。信仰を申し出た浦上村の村民は全員逮捕され、長崎奉行所の牢に入れられてしまったのです。そうしているうちに江戸幕府は大政奉還し、明治政府が成立します。
牢獄に入れられていたキリシタン達は釈放されると歓びます。しかし明治政府は一層過酷な弾圧をします。延べ3384人の逮捕者を数百人ずつ分けて中国地方の役所の牢獄へ預けたのです。流罪です。この流罪を「大浦崩れ」と言います。
「114匹を備前岡山預け、179匹を安芸広島預け、、、、、」などと、キリシタン信徒を公然と家畜なみに公文書に記載してあります。
各地の牢獄は不潔極まりなく、食事もひどいものだったのです。その上、牢獄の食料代として多額のお金を請求されました。
こうした残酷な流罪によるキリシタンの弾圧が、実に明治6年(1873年)に禁教令が廃止されるまで続行されたのです。
1862年、横浜にカトリック教会が出来、見物人が逮捕されて以来、1873年の禁教令の廃止まで、実に11年の長きにわたり信仰を告白したキリシタン達が弾圧されたのです。
明治維新になって宗教の自由が認められたと簡単に理解している人が多いようですが、日本に宗教の自由が定着するまでには多くの犠牲があったのです。
(上に記した事は森 禮子著、「神父ド・ロの冒険」教文館、2000年出版を参考にしました。著者へ感謝の意を表します。)
それでは流罪になった浦上の農民はどうなったのでしょうか?
一つの例として、津和野へ送られた農民の運命を紹介したいと思います。
2年ほど前に津和野へ観光旅行に行きました。その時、ある大きなお土産屋の主人がボランティアとして観光案内をしてくれました。
津和野の家老町や白壁の街並みを説明しているとき、「津和野では36人のキリシタンを殺しています」とそこだけ悲しそうに、残念そうに話すのを聞きました。
一通りの案内が終って自分の店へ私達を連れて行って銘菓の「源氏巻き」を買うようにと勧めるのです。皆はその店でいろいろなお土産物を買いました。町の中心にある大きな土産店で、奥座敷で抹茶と源氏巻きを楽しみました。
その店の向かいに大浦天主堂を小さくしたようなカトリック教会があるのを私は見ました。
私は店を抜け出して、独りで教会を訪ねました。
長崎によくあるような畳敷きの教会です。
維新後の明治政府による弾圧(浦上4番崩れ)のとき、113名のキリシタンが津和野へ送られ、拷問に遭い、36人が殺されたのです。その殉教者の鎮魂のために、この教会を大浦天主堂に似せて建てたのです。津和野の町の真ん中にです。人々は36人も殺してしまったので建てるのを黙認したのでしょう。その教会の横には大きなカトリックの幼稚園があり数多くの園児が遊んでいました。
36人の拷問死は津和野の人々の心の中に、町の歴史として残っているのです。下にカトリック津和野教会の写真を示します。
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津和野でのキリシタンの殉教につては「乙女峠友の会」を検索すると詳しく出ています。キリシタン弾圧の一例を紹介いたしました。
それはそれとして、津和野は城下町でした。戦災に合わなかったので江戸時代の街並みが良く残っています。白い壁や家老門の連なる風景は美しい風景です。
感動したのは町役場が昔の家老門の中に古風な木造の建物を現在でも使っていることです。日本全国で江戸時代の家老門を構えている役場は津和野だけだそうです。
下に津和野の風景写真を示します。一番上の写真が町役場です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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