後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

花々が咲いて季節がめぐる(2)モクレン、桃、桜が咲いて春が過ぎ行く

2017年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
時の流れは早いものですね。つい先ほど新年を迎えたと思ったら、もう5ケ月も過ぎさったのです。
そんな季節の移り代わりを振り返るために時の流れに従って折々の花の写真をお送りいたします。
ロウバイの花から始まった新しい年も3月になるとコブシや白いモクレンが咲きだします。
そしてモモが咲き、サクラが咲き出します。春爛漫の季節になるのです。ヤマブキやユキヤナギも咲きいろいろな春の花々が一斉に咲き出します。フジの花や桐の花も咲きます。
こうして季節はめぐり晩春になるのです。
今日の連載は「春の花々」です、お送りしたい花は沢山ありますが、白いモクレンの花、残雪の南アルプスの背景にした桃の花、小金井公園のサクラの写真をお送りいたします。
モクレンの花は京王フローラル・ガーデンに3回行って写しました。桃の花は山梨県の韮崎市で撮りました。
サクラは小金井公園の写真ですが、国立市のサクラ大通りや国際キリスト教大学の桜並木も写真に残しました。
小金井市の貫井弁天の近くの野川沿いの桜並木も楚々として風情があります。
また奥多摩のヤマザクラの写真を撮りに行ったのも良い思い出になりました。

皆様はどんな桜をお楽しみになられたでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









花々が咲いて季節がめぐる(1)今年もロウバイと梅から始まる

2017年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
時の流れは早いものですね。つい先ほど新年を迎えたと思ったら、もう5ケ月も過ぎさったのです。
そんな季節の移り代わりを振り返るために時の流れに従って折々の花の写真をお送りいたします。
何と言ってもロウバイの花から新しい年が初めります。そして梅が咲き、クロッカスや水仙も咲きます。
今日から連載で、「年初めの花々」、「春のの花々」、「梅雨を迎える季節の花々」の写真をお送りいたします。
今日は府中市、郷土の森博物館公園のロウバイと梅の写真をお送りします。
今年は野点に4回も行きました。

皆様はロウバイや梅の花々をお楽しみになられたでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「今日の日記、潮来から引っ越して来た庭のアヤメが咲きました」

2017年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
9年前に潮来のアヤメ祭りで買って来たアヤメが今年も咲き出しました。まだ3輪しか咲いていませんが、蕾が10ケ位あるので、明日からしばらくは華麗に咲くでしょう。
お昼は趣味人倶楽部の友人の石山 望さんと家内と3人でレッドロブスターで食事をしました。石山さんはロンドンに住んでいる方でお話が面白い方です・
写真は今日はじめて咲いた潮来のアヤメです。





混迷する世界情勢とG7主要先進国首脳会議の重要性の低下

2017年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
サミット、主要先進国先進首脳会議の第一回会議は1975年11月、フランスのジスカールデスタン大統領の提案により、フランス、米国、英国、西ドイツ(当時)、日本、イタリアの6カ国の首脳がパリ郊外のランブイエ城に集まり、開催されました。
それ以来、毎年開催され、今年のG7サミットはイタリアで開催されました。

この1番目の写真は今年の出席者です。左右の端に写っている2名はヨーロッパ連合の代表者です。
このサミットは元来、経済的な諸問題を議論し、先進国の間で調整する目的で開催されていました。
しかし1975年の当時は冷戦の最中だったので西側勢力がソ連や中国との対立の構図の中での西側首脳会議でした。従って経済的な問題もさることながら冷戦の問題への影響も大きかったのです。その影響は西側勢力とロシアと中国との対立での勢力争いにも及ぶと考えらられます。
従って従来のサミットは団結を誇示する傾向があったようです。しかし今回はアメリカ第一主義のトランプ大統領の出席でこの団結が弱くなった印象があります。
今回のサミットのそんな様子を報道した記事を以下に連載いたします。
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『米大統領はサミットでわが道行く-G7、首脳宣言でぎりぎり合意』
Helene Fouquet, Arne Delfs and Josh Wingrove
2017年5月28日 09:27 JST、https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-05-28/OQMYU26TTDS001

トランプ米大統領はイタリア・シチリア島のタオルミナで開かれた先進7カ国(G7)首脳会議(サミット)で、地球温暖化対策の「パリ協定」で他国に追従せず、自由貿易にもより懐疑的なアプローチを迫り、国際的な枠組みに従わない決意を示した。
  G7サミットは27日午後(日本時間同日夜)、議論を呼んだ2つの議題でぎりぎり合意し、首脳宣言をまとめて閉幕した。米国はオバマ前大統領が署名したパリ協定を押し戻し、貿易は「自由で公正で、互恵的」である必要との文言を首脳宣言に盛り込むことに成功した。
  トランプ大統領はサミットについて「極めて生産的な会合」で、「真に歴史的な週」を締めくくったと述べた。会議後にイタリア国内の米軍基地で演説した。

  米国を除くG7首脳はトランプ政権が「気候変動に関する政策を見直して」おり、「コンセンサスに加わる状況にない」として、6カ国でパリ協定を再確認。トランプ大統領は会議中に、来週決断を下すとツイートした。
  自由貿易に関しては、トランプ大統領と他国の調整で技術的な交渉が27日午前3時まで続いた。議長国イタリアのジェンティローニ首相によると「均衡点」が見いだされ、「貿易は常にすべての人々の利益になるわけではない」と認める一方、「開かれた市場を維持するとともに、保護主義と闘う」ことで合意した。
原題:Trump Goes His Own Way as G-7 Cobbles Together an Awkward Truce(抜粋)
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このようにサミットの団結が弱くなると、現在の混迷する世界情勢の中でその意義や重要性は低下せざるを得ません。
1990年頃、冷戦構造が解消し、平和が来たような気分になりましたがアメリカでの同時多発テロをきっかけに中東が激しい戦争状態になりました。
そして中国が世界2位の経済大国に成長し航空母艦隊を編成し太平洋に乗り出したのです。南シナ海には埋め立てて軍事基地を作りました。尖閣諸島の領海をたびたび侵しています。
その上、北朝鮮が核兵器を開発しながら弾道ミサイルを何度も日本海へ打ち上げています。
世界的視野で見ると、タイの軍事独裁政権でタイは混乱状態です。またブラジルの大統領の汚職でブラジルは政情が不安定です。
中東はますます激しい戦争が続行しています。いつまでも「イスラム国」が陥落しないで抵抗しているのです。
ウクライナの東部はロシア勢力に占領されたままです。
1990年頃の冷戦まではそれなりに分かり易い秩序がありました。悪い秩序でもそれなりに平穏でした。
それが現在は世界全体が混乱し、政情が安定していません。
このような情勢のなかでG7主要先進国主要会議の重要性が低下するのも止むを得ません。
経済の協調はEUもありアセアン貿易協定や中国主導の会議やその他の各種の貿易協定もあります。サミットの役目を必要としません。
軍事的にはNATOがヨーロッパを守っています。アジア地区では日米安保があり韓国とアメリカの間にも軍事同盟があります。
その上、アメリカは単独で北朝鮮の沖に航空母艦打撃隊を張りつけています。

主要先進国首脳会議は実質的な役割が無くなったと言っても過言ではありません。
しかし私はこの会議は主要西側諸国の民主主義の価値観の共有を確認し、それを公表するという非常に重要な役目を担っていると信じています。
個人の自由と平等が一番大切だという思想です。それはあらゆる独裁政権を否定しています。共産主義も否定しています。
この重要性の故にG7サミットは将来も長く存続し、毎年開催されるでしょう。
さて皆様のご意見はいかがでしょうか? コメントを歓迎いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

母親の子に対する圧倒的な愛の力

2017年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
私は毎日、毎日、つれづれなるままに思うことを書いて掲載しています。
毎日、書いていると自分でも何を書いたか忘れてしまいます。そこで以前掲載した記事を何度も読み直しています。すると、嗚呼、この記事は素晴らしいと思う記事に行き当たることがあります。この5月に掲載したものの中にそのような記事がありました。
その記事は女性の愛の力の圧倒的なことを感じさせます。男性には絶対に真似の出来ない深い愛なのです。ある種の発達障害を持った息子に対する母の美しい愛です。
今日はその記事を再掲載することにしました。
===『見えない障害のために転職を繰り返す人とその周りの方に贈る書』=========
(2017年05月09日掲載)
Esu Keiさんの息子さんはフランスの小学校で飛び級をするほど優秀な子でした。
帰国し、日本の学校に転校したら協調性が無いとの理由でうまくいきませんでした。成人してからも社会になじめなくて苦悩します。
ところがよく診断して貰うと生まれつきの隠れた障害を持っていたのです。自閉症スペクトラムという一種の発達障害だったのです。
学校を卒業して就職する人の一部には転職を繰り返す人がいます。転職をしても上司や周りの人と適切な人間関係がどうしても出来ないのです。
このような人々の一部には、本人も周囲の人も気がついていない隠れた発達障害を持っている可能性があるのです。
そのことを自覚し、周囲の人がそれを知ればその弊害が軽くなり、みんなが幸せになれるのです。

今日はこの自閉症スペクトラムをよく理解して貰うために簡明な説明文をお送りいたします。
転職を繰り返す人とその周囲の人々に幸多かれと願いつつ贈る書です。
自閉症スペクトラムの息子さんを育てた母、Esu Keiさんと私、Gotoとの対談形式として以下をお送りいたします。
なおEsu Keiさんは連載記事「パリの寸描、その哀歓」の著者です。今日の記事に関連したEsu Keiさんの書いた記事の題目と掲載月日を末尾につけてあります。合わせてお読み頂けたら、より一層明快にいきさつが分かると思います。

====『Esu KeiさんとGotoとの対談:発達障害について』=========
Esu 最近私が書いた文章の中で、長男の発達障害に触れたものですから、それはどんな障害なのかというご質問をいただきました。右往左往して模索した経験で、お答えできることをお話ししたいと思います。私は専門家ではありませんから、広い知識を持っているわけではありませんが、一人の子どもを長く深く見てきたという意味で母親として、また、たくさんの同じ仲間と触れ合ってきた経験者としてお答えできることがあると思っています。ただ私の主観的な考えであるということはお断りしておきます。

Gotoテレビなどでも発達障害という言葉を時々聞きますね。どんな障害なのですか?いろいろな種類があるのですか?


Esu この障害は精神の障害と思われがちですが、実際には脳の機能障害だそうです。障害という言葉を使うことには迷いがありますが、持って生まれた特質や、傾向が社会の中で生きていくのに困難となる場合(社会参加ができない場合)、障害と呼ばれます。発達障害の種類については現在の分類は私にはよく分かりません。20年前に広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群と呼ばれていたものを最近は自閉症スペクトラムと呼ぶようです。これらが自閉症の連続の中にあると分かってきたからでしょう。

Goto 息子さんの発達障害はなんという障害ですか?症状などは?プライバシーの問題がない範囲で聞かせてください。

Esu 息子もこのインタビューを承知していますし、自分のことを知ってもらうことに意味があると思っているようです。彼は中学入学前までは、主に外国で育っていましたが、10歳で日本人学校に移って以来、集団に全くなじめず、苛めやいろいろな問題が起きて、成人するまでにすっかり意欲を失っていました。長男がアスペルガー症候群と診断されたのは26~27歳くらいの時でした。その3年前くらいに、テレビのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、アメリカから平易な文体で書かれた本を取り寄せたりして、私は自閉症を疑いました。ただ幼いころから言葉の発達が非常に早かったので、そういう例外的な自閉症もあるのかもしれないと思っていました。
症状ですが、集団になじめないことこそが端的にアスペルガー症候群の特徴のようでした。アスペルガー症候群または自閉症スペクトラムとひとくくりに言っても、ひとりひとりは実に様々な人間像を持っていて、共通項は何かというと、はっきりしているのは、人間関係の困難を抱えていること、こだわりが強い(こだわりの対象は個々違うのですが)ことの2つのような気がします。体力も、能力も、性格も様々で、その辺に共通項はないように思いますが、ただこだわりが強い分、神経質で、好みの許容範囲が狭い気がしますし、神経が耐えない場面では疲れやすく苛立ちやすいように見えます。2つの特徴以外にもこの障害の特徴とされることはいくつもありますが、現れ方に違いや差があって分かりづらいこともあるので専門家でない私が説明をすることはできません。

Goto 適切な診断医はどうしたらみつかるのでしょう。

Esu 今では発達障害の専門医も増えているし、専門外の医師でも少なくともこの障害を知
らないということはありませんから、20年前に比べればずっと早く診断がつくようになっていると思います。最初は相談センターや互助組織などが窓口になってくれるのではないでしょうか。ただ、特に精神に関することですから、当人と相性のいい先生に出会えることが大事だと思います。早く障害が分かって、適切な対処ができることは、本人が無用に苦しまないためにも、将来の二次障害を防ぐためにも大変重要だと思います。息子の場合もそうでしたが、20年位前までは成人してから障害が分かる人が多かったのです。目に見えない障害で、知的障害もないと分かりにくく、今でも、成人してから障害が分かる場合もあります。以前は軽度発達障害などと呼ばれていましたが、本人の抱える困難は軽度どころではなく、積み重なった分だけ重い障害になることもあります。そういう人にも丁寧に対応できる医師やセラピストが増えることを切望します。

Goto 障害がわかったら家族は何ができるでしょうか?職場はどのように対処できるでしょうか?

Esu まず言いたいことは、障害という名前に驚いてはいけないということです。“良し悪しは抜きに、普通と違うところを持っている”と考えた方が良いと思います。実際、特別なセンスや才能を持っている人は多いものです。彼らのユニークなところが生かせるように応援するのが家族です。それはどんな障害でも同じです。息子に「この障害を持つ子供に対して親や家族は何ができるかしら」と聞いてみたことがあります。返ってきた言葉は「愛すること」でした。親や家族の愛情が伝わって、安心して子供が育つことの大切さを親は強く自覚しなければと思います。障害のあるなしにかかわらずですが… 発達障害などを抱えている子どもは、独特の生理的感覚、感じ方や考え方を持っていて、悪意はないのですが、振舞いが普通とは違い、他の人との距離感が分からずに行動することが多いので、子どもの頃から叱られたり、非難されたり、苛められることが多くなりがちです。そういう状況が長く続くと、自分は不出来な人間だと思い込み、追い詰められ、意欲を失うことにつながります。そのまま成人すると社会参加が難しくなります。
息子にさらに「愛するってどういうこと?」と聞くと「信じて待つこと」という答えでした。社会性の発達の遅い彼等ですが、彼等はゆっくり考え、学び、成長しているのです。その成長を信じて待つことが大切だと思いました。息子は、「当人の基準と普通と言われる基準との差があるために、違いを理解するのに時間が必要になる。普通との違いから人間関係が不通になり、人間関係を学ぶ機会が少なくなる。結果として社会における在り方、社会性の習得が遅くなる。」と分析しています。
私は愛され、信頼された人間が、愛され、信頼される人間に、そして人を愛し、信じる人間になるのだと思っています。どの親も成人する前に、社会に出ていく最低限の力をつけてやりたいと思うのですが、思い通りになるとは限りません。そんな時も、親は世間の常識の方を向くのでなく、子どもが自分らしく生きることを時間をかけて応援してやりたいものです。
職場の対処はどうでしょうか。対処の仕方によって、社会参加の成否が決まることは確かです。今では受け入れ態勢の整った会社ではジョブコーチを置いて、発達障害の特徴をわかったうえで指導しているところもあるようです。ただ、皆が恵まれた環境で働けるわけではないし、どんなに善意で指導しても、うまく行く場合と、そうでない場合はあるでしょう。障害者の指導をするのも大事ですが、一般の人達にこのような障害があること、どのような弱点があり、どのような長所があるという説明(職場教育)をすること、そして許容性のある職場づくりをすることが効果的ではないかと私は思います。障害者がいるいないにかかわらず、日本の社会は学校も職場も許容性という意味では狭い社会のような気がします。

Goto 治療は難しいようですが、本人の才能を生かす方法が絶対にあると思います。職業によって向き不向きはあるでしょうね?どんなことが向いていますか?

Esu Gotoさんがおっしゃる治療という意味ですが… この障害を治すことは多分できないでしょうし、治してはいけないと思います。その人らしさを失わせると思うのです…
ただ、生きやすくする工夫はできると思います。二次的に鬱状態、強迫神経症、不安神経症、そのほか病的な状態が出てきたときには早く気付いて治療が必要でしょうし、精神科医はその病的状態を治す方法を持っていると思います。ただ、何よりも家庭や、学校、職場で受け入れられることによって病的な状態が起きないことが一番いいのです。良い環境がなければ医療も生きないと思います。
職業の適性ですが、こだわりの強さはこの障害の特徴ですが、それは集中の強さと持続につながります。一方で複雑な人間関係は苦手な人が多いですから、一人で、あるいは相性の合う小人数の中で働ける場があるといいと思います。障害の特性を生かして充実したジョブライフを楽しんでいる人もいます。人と同じ能率を求められるような仕事より、その人ならではのこだわりとか、正確さや綿密さなどが生きる仕事に出会えるといいと思います。親は成人する頃までの自立に目安を置きますが、難しい場合も多く、焦らずにゆっくり自分の道を探した方が良いと思います。世間体や経済的なことにこだわらず、「我が道を行く」でいいのではないかと私は考えています。
この障害は才能でもあります。学者、作家、作曲家、画家、芸人の中にもこのような障害特性を持った人達は少なくありません。こういう人達がいないと、発明、発見、創造の世界は今ほど豊かではなかったのではないでしょうか。自分の子どもは障害を持っているけれど才能はないなどと卑下することはないと思います。たまたま特異なところを世の中で認められると、天才と呼びますが、才能として気付かれなければ、障害者と呼ぶのが世の中です。みんな宝物を持っているのではないでしょうか。神様の目から見れば同じものではないでしょうか。
最後に息子達の言葉を引用させてください。
次男は20年以上料理人として働いていましたが、後輩の指導も仕事のうちでした。ある時期務めていたレストランでは障害者雇用の枠で発達障害の人たちが入ってきたことがあったそうです。「最初は本当に何もできなくて、大丈夫かと思ったけれど、できないことは時間もいとわず黙々と練習し、気が付くと思ってもみなかったような丁寧ないい仕事をしてくれるんだ。すごいことだね。」と彼等の真面目で妥協のない働きに感心しきりでした。
発達障害のある長男は知的障害のある人達のサポートの手伝いをしていますが、その支援団体の会報に、どのように当事者に向き合っているかを問われて書いた長男の文章が載っていました。「彼等に期待します。期待されてやってみて、もし失敗したら、失敗しても大丈夫と言ってあげます」期待されることで能力は伸び、失敗することも次の段階への足掛かりになることを言っているのです。そして、「彼等も僕も発展途上です」と結んでいました。

Gotoさんのご質問に十分にお答えできたかどうか自信がありませんが、発達障害に関心をお寄せくださって有難うございます。感謝しております。障害が理解されるということが、障害を持つ人達が社会参加できるようになるカギだと思うのです。どんな障害であれ、障害を持つ人が幸福な社会は、障害のない人にも幸福な社会です。息子からもう一言ありました。「社会に障害といわれる特異性を理解し、生かす力があれば、障害は障害でなくなり、社会的損失も少なくなる。」
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以下は上記の記事内容に関連のある連載記事です。あわせてお読みください。

1)「やはり日本の学校教育には問題がある」
2017年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
===「パリの寸描、その哀歓(14)外国人クラスの問題児のその後」Esu Kei著====

2)「パリの寸描、その哀歓(13)問題児の教育法と息子の飛び級」
2017年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著

3)「パリの寸描、その哀歓(12)規則に反して給食を申し込む」
2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

4)「パリの寸描、その哀歓(11)フランスのエリート教育の光と影」
2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
===「パリの寸描、その哀歓(11)進級、落第、飛び級」Esu Kei著======

今日の挿し絵代わりの写真はマリアさまの写真です。ネットで「マリア様の画像」を検索すると沢山の写真が出て来ます。その中から自分の好きな写真を3枚転載させて頂きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






今日の日記、水郷、水元公園の花菖蒲を見に行く

2017年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
水元公園は東京の東端の葛飾区にあります。昔は水郷が広がっていました。
そのために水元公園には広い昔の運河があります。都立公園としては珍しく昔の運河を利用した広大な公園です。
自宅からは練馬区の大泉で東京外環道路に入り、終点の三郷南出口で下ります。そこからは10分ほどの場所にあります。
自宅から65Km,1時間10分で行きつきました。
運河の岸辺には樹林地帯が続き、芝生の広場もある広大な公園です。
今日は公園の東端にある花菖蒲を見に行きました。駐車場から1Kmほど歩きました。
花菖蒲はちらちら咲き出したばかりで満開になるのは1週間ほど後になるようです。
白い睡蓮も咲いていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













南米の山の斜面の貧民街の光景に胸が痛む

2017年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国で、その南には広大なブラジルが広がっています。
あれは随分昔のことですが、私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。
その首都のカラカスで胸が痛む光景を見てしまったのです。近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいたのです。それは後で知ったことですが、南米特有の山の斜面にある貧民街だったのです。
私はベネズエラに行く前は、その国は豊かで幸せな国だと思っていました。熱帯特有の青空の下で人々は陽気で明るく生きていると想像をしていました。しかし、来てみるとあまりにも大きい貧富の差と貧民街のひどい光景に度肝を抜かれたのです。
好奇心の強い私はその実態を知りたくなって、カラカス市で開催された国際研究会で知り合った現地の研究者に案内をお願いしました。
偶然にも彼は山の貧民地帯の出身だと言います。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。彼と老婆が何か話し合っています。
後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。

その数日後の土曜日に、ホテルの受付でキリスト教のミサに行きたいと相談しました。それなら裏にある競技場へ明日の朝7時に行きなさいと教えてくれました。
翌朝行ってみると、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。清潔そうですが、みんな貧しげな身なりです。闘牛場の真ん中の土の上に小さな赤い絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者の姿が見えます。
普通のカトリックのミサですが、スペイン語です。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと同じです。
回りの人々は黒人が多く、混血のような人もいました。そんな現地の人々の中へ溶け込んでしまい、一緒に祈りました。賛美歌も一緒に歌ったのです。私は神に「この山の斜面の貧民街を何とか助けて下さい」とお祈りしました。
私の訪れた貧民街の人々と一緒にイエス様に祈ったのです。荒れた闘牛場での野外ミサでした。
金持ちの人々は中心街のポルトガル風の立派な教会のミサに行き、山の斜面の人々は荒れた闘牛場の野外ミサに来るのです。
それ以来、私は時々、カラカスの山の斜面の光景を思い出しては胸が痛みます。
何故、南米の貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。

そうしたら最近、ブラジル在住の平峰盛敏さんから「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事のご寄稿があったのです。2017年04月22日 に掲載した記事です。
この記事の中に次のような記述があったのです。
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(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。
そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。
1888年の奴隷解放の当時は、解放された奴隷たちが、途方に暮れて、餓死を余儀なくされていたのです。この悲劇は短い期間ではなかったのです。生活能力が無い人々は、野垂れ死にするより手段が無かった時代が暫く続いていたらしいのです。
最底辺での生活者の間で真面目に話題にされる事の一つに、又 どろぼうでもして、暫く刑務所で過ごす事にしよう。あそこでは、飯の食い上げはないというのがあります。
肌の色では無く、人種ではなく、腹の空き具合で絶望的になっている群衆が、社会の底辺に多数いたのです。この貧困層は昔のブラジルの歴史の中で何度かあったわけです。昔あったし、現在もあるのです。
警察の一つの仕事に、奴隷的労働条件下の雇用の摘発があります。時々ニュースになります。街にも田舎にも、金儲けだけを目的にしている悪徳事業主がいるのです。背に腹は替えられないと餓死を恐れ、なんでもする気の人がいつも沢山いるのです。
従って現在のブラジルは、経済的、 政治的、道徳的、治安的に、凄く厳しい情勢です。
上は、大統領、宰相たちから、下は、町役所の公務員に至るまで、汚職が満延しています
有能で高潔な政治家や指導者が多くなり、その善政で、是非 秩序と繁栄を回復して欲しいと願うばかりです。
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この南米特有の貧民街は ファヴェーラと言いますが。それが生まれた歴史と何故解消出来ないかについては続編で考えて見たいと思います。
5枚の写真にブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真を示します。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
ベネズエラの貧民街の写真も示すべきでしょうが、ブラジルの風景と同じと言われています。南米全体の都市の郊外には同じような貧民街が広がっているようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はリオデジャネイロ市のヴィディガル(ビジガル、Vidigal)の貧民街です。イパネマ海岸のシェラトンホテル(右)の裏に広がっています。

2番目の写真はリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。

3番目の写真もリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。

4番目の写真は貧民街(ファヴェーラ)で警戒する武装警官の様子です。
 
5番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街(ファヴェーラ)です。6万人以上が住むが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所です。

花々の好みは人それぞれ、あなたはどの写真がお好きでしょうか?

2017年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数日、トランプ大統領の国際政策に関して次のような記事を掲載しました。
「トランプ大統領の人権無視、武力重視の外交戦略の明快さと危険さ」、
2017年05月24日掲載。 
「トランプ大統領は宗教も思想も主義も全て取引の手段にする」
2017年05月25日 掲載。

記事を書いていてあまり幸せな感じがしませんでした。国際政治ではどうしてもそれぞれの国の武力や経済力を考えて現実的な妥協を求めなければなりません。それは人類の持つ美しい理想とはかけ離れたものになります。それで私は幸せな気分になれません。
そこで今日は最近、箱根の仙石原にある箱根町湿性花園で撮ったいろいろな花の写真をお送りいたします。

花の写真の好みは人それぞれです。
1番目の写真のように人の手で組み合わせた花々の写真は好きでないという人もいます。
2番目から4番目の写真のように野に自然に咲いている花の写真が好きだという人もいます。
或いは花も良いが緑の樹々の姿が大好きだと上の方を見上げてばかりいる人もいます。
花の写真の撮り方でいつも家人と意見の相違があります。
家人は野に咲いている花を、その野原の背景とともに撮るのが好きです。花だけのクローズアップは良くないと言います。
そして人工的に組み合わせて植えこんだ花々の写真も好きではないと言います。
ごもっともな意見ですが、花の写真の好みは人それぞれです。
その上、インターネット上に写真を掲載する場合はどうしても画面が小さくなります。
肉眼では、一面に咲いている花々を見回して、周囲の残像も楽しめます。しかしネット上の限られた大きさの画面では周囲の光景の残像がありません。したがってどうしてもクロ-ズアップにして花そのものの美しさを表現することになります。

そんなことを考えながら花の写真を掲載しています。
あなたはどのような写真がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は湿性花園に入ったすぐの場所にある花々を組み合わせて植えこんだ花壇です。

2番目の写真は苧環 (オダマキ)です。東京近辺に咲いています。

3番目の花は石楠花です。箱根付近の山に咲いていていそうな風情です。

4番目の写真は湿地帯の水際に咲いていた海芋です。最近はカラーという名前で花屋さんでもよく売っています。

5番目の写真は花の写真も良いが、この季節は新緑の樹々の姿も素晴らしいという方々へお送りする写真です。

昨日の日記、日本サクラソウの原生地に行きました

2017年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
来週、車で仙台市まで旅をする予定です。自宅から練馬区の大泉で東京外環道路に入り、川口インターで東北自動車道路に入ります。
昨日の午後にこの道順を確認するために東北自動車道路の浦和出口まで行きました。
帰りに田島ヶ原サクラソウ自生地の傍を通りました。
何度も日本サクラソウの写真を撮りに来た場所です。
花の咲く時期は4月の初旬なので、昨日は花は終わっています。しかし何度も来た懐かしい場所なので寄ることにしたのです。
広大な秋ヶ瀬公園を西から東に縦断し田島ヶ原に抜けました。
そこには丈が1m位の禾本科の植物がびっしりと生えていまさいた。サクラソウの可憐な花は一切ありません。
しばし佇んでその草原を眺めていました。眺めていると4月初旬に見た一面のサクラソウの花の広がりが眼前に現れたのです。
可憐な桜草を見た気分になったのです。

田島ヶ原サクラソウ自生地は埼玉県さいたま市桜区にある国の特別天然記念物に指定されたサクラソウの自生地です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E3%83%B6%E5%8E%9F をご覧下さい。

はじめの3枚の写真は他の方のHPからお借りしたサクラソウの花の写真です。続く2枚の写真は昨日撮った秋ヶ瀬公園の風景です。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









トランプ大統領は宗教も思想も主義も全て取引の手段にする

2017年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領は国際政治も不動産の売り買いの取引のように現実的な計算のもとづいて進めると言われていました。
それが今回ローマ法王を表敬訪問したことで私にも良く理解出来ました。
ローマ訪問の前にはユダヤ教の『嘆きの壁』も訪問しました。その以前にはイスラム教の聖地のあるサウジアラビアを訪問し大規模な武器供与の約束をしたのです。
このように宗教にこだわらず現実的な利害得失のみで外交を進めるのがトランプ大統領の特徴です。それは理想主義のオバマ前大統領との際立った違いです。
国際政治は現実的な姿勢で進めるべきとよく言われています。トランプ大統領は稀に見る強烈な現実的な大統領だということが分りました。
昨年の選挙運動中にトランプ氏はフランシスコ教皇にメキシコとの国境に壁を作る人はキリスト教徒ではないと手厳しく非難されました。
それに対してトランプ氏は、「宗教指導者が人の信仰を批判するなどみっともない」と激しく反発し、さらに続けたのです。
「もしバチカンが『イスラム国』に攻撃されたら、法王はドナルド・トランプが大統領だったら良かったのにと嘆くに違いない」と演説していたのです。
そんな喧嘩のことは一切忘れたかのようにトランプ大統領はフランシスコ教皇をうやうやしく訪問したのです。これには私も驚きました。
それではこの訪問を報ずるBBCの日本語版を以下に転載します。

『トランプ米大統領、ローマ法王と初会談 過去にあつれき』
http://www.bbc.com/japanese/40030387

就任後初の外遊で中東と欧州を歴訪しているドナルド・トランプ米大統領は5月24日、バチカンを訪れ、ローマ法王フランシスコ1世と初めて直接会談した。トランプ氏と法王は、大統領選中からトランプ氏の移民政策や環境政策をめぐり厳しい言葉を交わしている。
大統領一行は午前8時半(日本時間午後3時半)の少し前に法王庁に到着。会談は直前になって予定が決まったため、早朝の対面となった。メラニア夫人や娘のイバンカさん、イバンカさんの夫ジャレド・クシュナー上級顧問が、レックス・ティラーソン国務長官、H.R.マクマスター大統領補佐官(国家安全保障問題担当)が同行した。
法王庁公邸管理部のゲオルク・ガンスバイン大司教に出迎えられた大統領一行は、スイス衛兵の護衛と共に法王の執務室へ向かった。
トランプ氏は法王に「素晴らしい名誉です」と伝え、2人はにこやかに言葉を交わしたという。非公開で20分ほど会談した後、再び報道陣の前に姿を現し、贈り物を交換した。
トランプ氏は、黒人指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の著作集を贈り、法王は世界平和の日に行った説教の写しにサインしたほか、環境保護の必要性を説いた自分の著作を贈った。
トランプ氏は「では、拝読します」と法王に答えた。
フランシスコ法王は昨年2月、大統領候補のトランプ氏がメキシコとの国境に不法移民を防ぐ壁を建設すると発言していることについて、「橋を築くことでなく、壁を造ろうと、それだけを考えている人は、それがどこであろうと、キリスト教徒ではありません」と語っていた。
これに応えてトランプ氏は当時、「宗教指導者が人の信仰を批判するなどみっともない」と反発し、「もしバチカンがISIS(いわゆる「イスラム国」)に攻撃されたら、法王はドナルド・トランプが大統領だったら良かったのにと嘆くに違いない」と演説していた。
また今年1月から2月にかけてトランプ氏が大統領として、イスラム教徒の多い6カ国からの入国を制限し難民受け入れを一時停止しようとした際、法王はツイッターで、「主なる神が聖書でどれだけ頻繁に、移民や外国人を受け入れるよう私たちに求めていることか! 私たちも外国人なのだと、どれほど思い出させてくださることか!」と書いた。
BBCのジョン・ソープル北米編集長は「これほど対照的な2人がいるだろうか? フランシスコ法王はかすかな微笑みの気配だけをたたえ、トランプ大統領は満面の笑顔で。2人は法王の書斎で向かい合って座った。まるで片方の就職面接のようだった」と指摘する。
「世界指導者同士がこうして会談する際には、私たちには相違点よりも共通点の方が多い――などと言うのが普通だ。それは確かにその通りだろう。しかし、この2人を分ける相違点も本物だ」
トランプ氏は法王庁の次に、イタリアの大統領と首相を訪問し、次いでブリュッセルで北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出席する。さらに26日にはイタリア・シチリアで主要7カ国(G7)サミットに出席し、外遊を終える。
ローマとバチカン周辺の警備は強化されたものの、23日夜にはローマ市内の広場でトランプ氏に抗議する集会が開かれ約100人が参加した。(英語記事 Trump holds first face-to-face talks with Pope Francis)
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上の記事のBBCのジョン・ソープル北米編集長のコメントの中にも「驚きの感じ」がよく出ていたと思います。
そしてローマ市でもトランプ氏に抗議するデモがあったのです。

何を抗議していたのでしょうか?多分、トランプ大統領の宗教も主義、思想も全て取引材料にする姿勢へ対して抗議していたのでしょうか?
それこそがトランプ大統領の強みでもあります。アメリカの為になる大統領なのでしょう。
私は好きではありませんが尊敬しています。凄い人間だと思います。
添付の写真はBBCの電子版から借りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は握手をするトランプ大統領とフランシスコ教皇です。

2番目の写真は会談中の2人の写真です。

3番目の写真は大統領に同行した娘のイバンカさん(後方左)とメラニア夫人(同右)です。

トランプ大統領の人権無視、武力重視の外交戦略の明快さと危険さ

2017年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ政権の外交戦略が次第に明らかになって来ました。
北朝鮮の沖にカールビンソン空母と、それを護衛する駆逐艦2隻、ミサイル防衛用のフリゲート艦2隻とその他の補助艦から編成された艦隊を巡航させて武力で威圧しています。その上、もう一つの空母艦隊を日本海に送ろうとしています。
この動きだけではトランプ大統領の外交戦略は明確に判りませんでした。
ところが最近の大統領のサウジアラビア訪問でその外交戦略が次第に明らかになって来たのです。
混乱を極める中東で親米国のサウジアラビアへ大規模な武器供与の契約をし、反米のイランを牽制しました。イスラエル訪問では同国とアメリカの絆を一層強化すると言明しました。
そして従来から親米路線をとっていたクエート、アラブ首長国連合などの湾岸諸国の首長をサウジアラビアに呼び寄せ、友好関係を確認しました。これでアメリカの中東の外交戦略が明確になったと思います。
結論を言えば、トランプ大統領は親米国の国内の人権無視には目をつぶり、親米国へは武力を供与するという武力重視の外交戦略なのです。
この外交戦略は旗色鮮明で分かり易いのです。しかし従来のアメリカの人権を守るという理想主義が消えてしまったのです。その上、武力による威圧を乱用すれば外交交渉が困難になります。戦争が勃発する可能性もあります。
このようなトランプ大統領の人権無視、武力重視の外交戦略は世界中の国々の外交戦略へも大きな影響を与えます。
このような戦略が平和維持のために良いのか悪いのかは将来の歴史を見なければ判定が出来ませんが、危険なものであります。
一方、アメリカ国内のメディアはトランプ大統領の中東訪問を非難しています。日本のマスコミはトランプ大統領の中東訪問に対して批判的な記事を掲載していないので、以下に引用いたします。

「アメリカのメディアが、トランプ大統領のサウジ訪問を強く非難」
http://parstoday.com/ja/news/world-i30496

アメリカの複数のメディアが、「アメリカのトランプ大統領のサウジアラビア訪問は、同国の弾圧政権を支持する枠組みで行われた、倫理に反するものだ」と報じました。
アメリカの新聞ニューヨークタイムズは、「トランプ大統領は今後、サウジのサウード政権による犯罪行為や弾圧の主な支援国となる決意を固めている」と報じています。
また、ワシントンポスト紙も、「サウジでのトランプ大統領の発言は、中東におけるアメリカのお決まりの政策の繰り返しであり、彼が呼びかけた相手は中東諸国の国民ではなく、それらの国の専制政権の支配者たちだった」としました。
さらに、アメリカの新聞アトランティックも、「トランプ大統領はサウジ訪問において、サウジでの人権侵害をはじめとするテーマには言及しなかった」としています。
トランプ大統領の中東訪問は22日月曜、終了しており、同大統領はイスラエルへの訪問の後、イタリアに向かいます。
トランプ大統領は今回のサウジ訪問で、同国の政府関係者との間で4800億ドルに相当する、対サウジ武器輸出に関する10年契約を締結しました。

さてこのようにトランプ大統領の外交戦略は安倍総理にはどのように見えるのでしょうか?
日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などは正しかったという考えの安倍総理はとかく自衛隊の武力増大に努力し、憲法も改正しようとしています。このような思想の安倍総理はトランプ大統領に共鳴する筈です。
大統領の就任前にトランプ氏を訪問し、その後も安倍総理とトランプ大統領は親密な関係を持っています。そして安倍総理はトランプ大統領の政策に追従する態度をとっています。調子に乗りすぎて北朝鮮をいたずらに刺激する発言を繰り返しています。
そんな安倍総理の外交を忖度して、日本のマスコミはトランプ大統領の外交戦略を非難しません。
北朝鮮沖のカールビンソン空母打撃隊に関しても横須賀を母港にしているもう一隻の原子力空母に関しても一切報道をしません。
日本は急に軍事機密を一切報道しなくなったのです。それに対して国民は気にしていません。無言です。
このような最近の情勢を私は憂鬱に感じています。
そこで今日の挿し絵代わりの写真は気持ちが晴れ晴れする樹々の風景写真をお送りいたします。先日、都立小宮公園で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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参考までに以下の記事もご覧ください。
『アムネスティ、サウジ・バーレーンへの兵器売却停止を要請』
http://parstoday.com/ja/news/world-i27704

国際人権団体アムネスティーインターナショナルが、アメリカの大統領に対して、サウジラビアやバーレーンなどのアラブ諸国に兵器を売却するのを停止するよう求めています。
アメリカ議会の公式メディアが伝えたところによりますと、アムネスティは14日火曜、アメリカのトランプ大統領に対し、イエメンの人々へのサウジアラビアが主導する連合軍の攻撃を理由に、同国への兵器売却の流れを停止するよう求めました。
アムネスティは、この文書の中で、「サウジアラビア、バーレーン、その他の連合軍が、イエメンで罪のない民間人を多数殺害するために、アメリカの新型兵器を使用する危険が高まっている」としました。
この文書が提示された一方で、アムネスティは、アメリカの不発弾などがイエメン人の受託の廃墟の中や民間の場所から見つかっているとしています。さらに、アメリカ政府は、30億ドルの戦闘機をバーレーンに売却しようとしていると述べています。
アメリカのオバマ政権時代の終わりに、人権団体などの圧力、さらにイエメンの民間人の被害拡大に関する懸念から、サウジへの兵器売却計画が停止されましたが、トランプ政権のティラーソン新国務長官が、兵器売却を再開しました。





軽井沢にある西洋文化と日本人

2017年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
明治の文明開化以来、日本人は西洋文化をこの国に取り込むことに努力して来ました。
明治政府は優れた西洋人も雇い、日本の学問や文化を西洋風に発展させました。
『東洋と西洋』はせめぎ合い、西洋文化は日本に合うようにして根着いてきたのです。そんな東洋と西洋の文化を比較しながら楽しむのが私の趣味です。
この趣味を満足させるところは数多くあります。函館、横浜、神戸、長崎などには明治期の西洋文化が残っています。
そして明治期に西洋人が開いた八ヶ岳の清里、上高地等の避暑地もあります。その代表的な場所が軽井沢と思います。
そこで今日は軽井沢をご紹介したいと思います。

軽井沢は中山道の宿場町でしたが明治19年に宣教師のショーが別荘を作ってからいろいろな外人宣教師が避暑に訪れ有名な別荘地となりました。そのような経緯があるので軽井沢には西洋文化の香りが現在でもそこはかとなく漂っています。
軽井沢は何度か訪れ散策していました。特にはっきりした目的があるわけでなく、そんな異国情緒と周囲の山々の緑を楽しむため訪れるのです。
そこを散策していると、軽井沢の近くの信濃追分に住んでいた堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出します。
2年前の5月に撮った写真に従いながら軽井沢の魅力を示したいと思います。

1番目の写真は軽井沢で好きな場所の雲場池です。十年一日の如く、何時行っても静寂につつまれています。変わらぬ風景に会うと何故か心が深く休まります。

2番目の写真は旧三笠ホテルです。営業はしていませんが明治期のホテル建造物として公開しています。駐車場が少し離れているのが残念です。

3番目の写真は万平ホテルです。ここも昔よく行ったところです。明治時代のクラシック・ホテルの雰囲気が漂っています。
ホテルのメイン・ダイニングルームの前の廊下にあるステンドグラスが古風なヨーロッパ文化を彷彿とさせます。館内は伝統的な古いヨーロッパのホテルの内装になっていて落ち着いた空気が流れています。食事も古風なフランス料理で、サービスも行き届いています。

4番目の写真はは聖パウロ・カトリック教会です。すべてのカトリック教会は門扉が開けてあり、訪れる人を歓迎します。勿論入場料など不要です。裏に広い駐車場もあります。信者でなくても出入り自由です。今回は少しだけお祈りをして来ました。

5番目の写真は聖パウロ・カトリック教会の内部の様子です。太い丸太を使った木造です。

6番目の写真は文明化開化で導入されたソーセージやハムを売っている腸詰屋の写真です。当時の作り方と味を守っている店です。余分な添加物が入っていないので素朴な美味しさです。
その他、軽井沢にはジャムの沢屋など昔風の美味しいものを売っている店があります。

7番目の写真は旧軽井沢銀座という商店街です。ここはは若い人々に人気があり、何時行っても多くの人で賑わっています。
そして実はこの旧軽井沢銀座は昔の中山道なのです。この商店街を抜け、真っ直ぐ山に登ると旧碓氷峠に出るのです。車で登ると10分位で峠に行けるのです。峠には茶店や神社がありましたが店は閉まっていました。峠まで来る観光客は少ないのでしょう。
そして軽井沢の良いところは別荘地の中の小道を歩くことです。そこには西洋風の別荘地が静かに広がっているのです。

8番目の写真は別荘地の風景です。
別荘の一軒、一軒の敷地が広く、庭には巨木が茂っているのです。緑の日影の中を少し散歩し、ああこれが軽井沢なのだと故も無く感動します。
なおJR軽井沢駅の南口には大きなアウトレットもありますが行かない事にしています。
写真をご覧になりながら高原の軽井沢を散策しているような気分になって頂けたら嬉しく思います。

さて表題の軽井沢にある西洋文化とは何でしょう?
それは明治期に建てられた建物が、その雰囲気を残して現在も存在していることです。
旧三笠ホテル、万平ホテル、古いたたずまいの別荘建築、そして教会の建物などです。
建物だけではありません、腸詰屋のように昔のヨーロッパのソーセージの味を守っている店もあるのです。
そこに行くとヨーロッパ文化の魅力が感じるのです。そしてそれを完全に同化した日本人の知恵が感じられるのです。
それは大げさに言えば『東洋と西洋の融合』なのです。平和的な融合なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
軽井沢の歴史:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2
江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。また、浅間山を望む景勝地としても有名であった。
※ 関連 江戸← 坂本宿 - 碓氷峠 - 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 →京
江戸時代が終わり明治時代に入ると、一旦は宿場町としての機能を失って没落した。しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーがたまたま訪問し、高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じた。
1888年(明治21年)、ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門のあっせんによって大塚山に別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものである。後に移築され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。
以下省略します。

潮来のあやめ祭りものがたり

2017年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催しています。それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりです。
花菖蒲もアヤメもカキツバタも見分けがつきません。でも潮来では昔から「あやめ祭り」と言っています。
この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名です。そして昭和30年3月に美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。
美しい娘さんが船頭になった小さな船に観光客が乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。何かロマンチックで美しい風景です。
私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので一度行って見たいと思っていました。
そこでついに2008年の6月17日に行ったのです。それでは写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。

1番目の写真は先程庭で撮った我が家の潮来から移住してきたアヤメです。まだ葉だけですが蕾が数個ついているので今年も咲くでしょう。

2番目の写真は2008年6月10日頃に妻が岸壁の上から私とヨットを取った写真です。
私がジブ・シートを手放してしまい、ヨットが傾いて怖い思いをしている場面です。こんな見っともない写真は珍しい光景なので忘れられません。

3番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に出た時の風景です。はるか沖の東端の潮来までヨットで行けないかどうか調べるために沖へ沖へと走りました。湖の中央まで行くと東端の岸辺が見えます。なんとそこには低い橋がかかっているのです。
帆柱の高いヨットは到底通過出来ません。仕方がないので、その日はそのまま帰って来ました。
そして一週間後、今度は私が独りで土浦港から高速ジェットホイル船に乗って、霞ヶ浦を横断して潮来まで行きました。この観光船は何時もは霞ヶ浦を一周している遊覧船です。しかし『潮来あやめ祭り』の期間中だけ潮来と土浦港を直行で往復しているのです。

4番目の写真はとそれ以下の写真はこうして潮来に行って撮った写真です。
お祭りなので、あやめの咲いている周囲の路地には露天が沢山出ています。根のついた色々な色彩のアヤメの株も売っています。
数株買って来ました。それ以来、9年になりますが、毎年、毎年、我が家の庭に潮来のアヤメが咲いています。

このように花のある場所を訪れたら、根の着いた花の株を買うようににしています。
伊豆半島の下田の爪木岬では野生の日本水仙を買いました。それも毎年、春に花を咲かせています。

潮来では娘船頭さんの小舟で水郷巡りもしました。帰宅した私に妻が、「娘船頭さんは可愛かったでしょうか?」と聞きます。私は苦笑いをしながら、「美空ひばりさんの『娘船頭さん』という映画のあった50年前の可愛い娘さんがそのまま年を経て船頭さんをしてた。ご想像にまかせます」とだけ答えておきました。

こんな写真を撮ってから9年になります。月日の流れは早いですね。
年老いて体力も無くなり6年前にヨットも止めました。
皆様には花にまつわる楽しい思い出はございますでしょうか?ご投稿をお待ちしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料====================
潮来市の観光の歴史;http://www.city.itako.lg.jp/index.php?code=1175

潮来市は、古くから水運陸路の要所として栄え、大化の改新のころ国府(現在の石岡市)から鹿島神宮ヘ通じる駅路「板来の駅」を設けたのがまちの始まりだと伝えられています。その昔は、地名を「伊多古」「伊多久」と称し、また常陸風土記には「板来」と書かれていたのを、元禄年間に徳川光圀公が「鹿島の潮宮」にあやかって「潮来」と書き改め、今日に至っていると云われています。
近世になると、奥州諸藩の物産を集めて江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川にて潮来に至り、潮来で1~2反帆の高瀬舟に積み荷の積み替えを行い、前川は行き交う大小の船で賑わい、荷の揚げ降ろしの船付場(河岸)が続き中継港として大いに繁栄をしました。
しかし、潮来が大いに繁栄したのは、この江戸時代中期ころまでであり、元文年代(1736~1740年)の大洪水で利根川の本流が佐原地方に移ると、中継港としての機能を失ってしまいました。

さらに、明治に入って常磐線が開通し、陸運が盛んになってからは、水運は一挙に衰退し、それに歩調を合わせるかのようにして潮来も寂れてしまいました。
それ以来、この地方では、産業らしき産業もなかったことから、地元の若い娘の収入源として、観光客の案内を兼ねてサッパを操ったところ観光客に好評を博したことから“娘船頭さん”として知られるようになりました。
昭和30年3月には、美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的に知られるようになりました。
この地方は、周囲を水に囲まれた水郷地帯であったことから、この地域一体には水路(江間)が縦横に張りめぐらされ、嫁入りする際に花嫁や嫁入り道具を運搬するときにもサッパ舟が使われており、昭和30年前半ごろまでは日常的に行われていました。
この嫁入舟が、全国的に知られるようになったのは、昭和31年10月に松竹映画「花嫁募集中」とタイアップし“ミス花嫁”を募集したことがきっかけとなり、花村菊江さんが歌った「潮来花嫁さん」の大ヒットによりさらに全国的に知られるようになりました。

今日の日記、都立小宮公園の花の写真を撮りに行く

2017年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は快晴の日曜日です。午前中は教会のミサに行きました。
主任司祭のディン神父さまの母上と弟さんがベトナムから来日し、一緒にミサを捧げました。
ディン神父さまが母上に会うのは20年ぶりだそうです。弟さんはベトナムのカトリック教会の神父なので今日のミサの司式の補佐をしていました。神父になった兄弟が司式するミサに出た母上の喜びを想うと心が和みます。
午後からは八王子市にある都立小宮公園の花々の写真を撮りに行きました。
最高気温が30度と夏のようでしたが、公園の雑木林を吹き抜けて来る風が心地良かったです。
花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













ヨーロッパ文化が生んだ共産主義という人類の壮大な悪夢

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な悪夢を生んだのです。
キリスト教では労働者や貧しい農民は幸せになれないので武力革命を起こし彼等を幸福にする政府を樹立するという考えです。
この考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
しかしこの思想の欠陥に気が付か付かなかったのです。この思想を使って政治を行う場合の最大の欠陥に気がつかなかったのです。
この理想的な思想は人間の持っている利己心、権力欲、支配欲などの欠点を完全に無視した思想でした。
この大きな欠点が露呈し、大部分の人類が共産主義を放棄するまでには、いろいろな悪夢のような悲劇が起きたのです。

世界で初めて共産主義革命で政府を造られたのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。そのソ連は1991年に崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧が続きました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。はかり知れない悲劇が起きました。
一つの例だけを示します。

1番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。

2番目の写真は1991年のソ連崩壊後に再建された同じ大聖堂です。聖堂の前の参道を人々がのんびりと歩いている様子をご覧ください。嗚呼、平和って良いものだ とお感じになりませんか?

このソ連は全世界を共産化しようとしました。
例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。
その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
ベトナム戦争は1964年のトンキン湾事件でアメリカの本格的介入が始まり1975年のパリ協定で終了しました。その間アメリカ軍の戦死者は5万人にのぼる熾烈な戦争だったのです。べトナム人の犠牲者は数百万人と推定されています。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
アメリカをはじめ自由主義の国々がボートピープルを拾い上げる為に大型船を沖合に派遣しました。

このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として着任してからもう8年もたっています。
とても優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様です。

3番目の写真は初聖体を貰う女の子と母親にミサの始める前に初聖体の受け方の手順を説明しいる場面です。

4番目の写真はミサの最中にこの女の子へ初めてパンの聖体を渡している場面です。

5番目の写真はミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。

このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後の弾圧を逃れ日本に来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になるための勉強を続け25年前に正式に叙階されたのです。
東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父はベトナムで過酷な体験をした筈です。しかし一切話しません。沈黙しています。たまにベトナムから兄弟や親族が会いに来ます。神父様は日本の土になるのでしょう。
この神父さまの説教は分かりやすい説教です。難しい神学は出てきません。イエス様の愛を信じ、そのことをわかりやすく話します。素朴で信仰心の強い神父様です。
ミサの間、いつもは忘れていた共産党のキリスト教弾圧のことを時々思い出します。そしてディン神父の神学生時代のベトナムでの困難な生活を想像していました。
神学生と言えば1番目の写真にある教会の爆破を命じたスターリンも神学生だった時代があったのです。グルジアの神学校に通っていたのです。それなのに何千万人も粛清した残忍な独裁者になったのです。人間の恐ろしさに粛然とした思いになります。
平和が70年続く日本に住んでいる幸せに毎日感謝しています。今日もこれからディン神父の司式するミサに行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)