後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明治の文明開化と黒田清輝の絵画世界

2016年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、上野の平成館で開催中の「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」を見て来ました。5月15日(日)まで開催中です。
黒田清輝は1884年から1893年まで10年間もフランスに留学をし、現地で初めて西洋の油彩画を本格的に学び、日本へ導入した最初の画家でした。
この展覧会で、あらためて清輝の絵画世界に強く魅了されました。 そしてそれと同時に、西洋の芸術を日本へ移入する黒田清輝の努力と苦労に強く胸打たれました。その説明は後回しにしてまず黒田清輝の絵画世界をお楽しみ下さい。
写真で示した5点の絵画は昨日見た展覧会に出品されています。
なお写真の出典は、http://www.salvastyle.com/menu_japanese/kuroda.html です。

1890-1891年にフランスで描いた「読書」です。この絵はパリの南東60キロほどに位置する小村グレー・シュル・ロワンで豚肉屋を営んでいた家の娘で、マリア・ビョー(当時20歳頃)をモデルにしました。1891年、フランス芸術家協会主催のサロンに出品され見事入選し、フランス画壇における黒田のデビュー作となりました。

1990年にフランスで描いた「針仕事」です。この絵は黒田清輝の絵画のなかで私が一番好きな色彩の絵です。

この絵もフランスで1990年に入選し、「朝妝」(女の朝の身だしなみ)と題する絵です。帰朝後の1895年に1895年にこの「朝妝」を内国勧業博覧会に出展して論争を呼び腰に布をつけて展示されました。新聞で騒がれ、「腰まき事件」として有名になりました。この絵はその後焼失し、今回の展覧会では写真が展示してありました。

この絵は箱根の芦ノ湖の湖畔で1897年に書かれた「湖畔」という油彩画です。後に黒田夫人(妻)となる金田種子(当時23歳。のちに照子と改名)をモデルに描いた絵画で、最も世に知られる作品です。

1900年に開催されたパリ万博へ「裸婦習作」として出品され、銀賞受賞に輝いた絵画です。本作は、小川花と幸という姉妹をモデルに僅か一ヶ月弱で制作され、後に右から智・感・情という題で知られています。日本人女性をモデルに制作された最初の油彩裸婦作品としても広く知られています。

さて写真に示した5枚の絵をフランスで描いた3枚と日本で描いた2枚に分類して比較してみると西洋芸術の導入の難しさが明快に分かります。
始めの3枚の絵はフランス人が描いた絵のようです。ところが後の2枚は日本人の絵になっています。フランスの油彩画を日本人として解釈し、日本人にも好かれるように努力して描いた作品なのです。しかしその努力は並大抵のものではありません。西洋の文化の本質を変えないで日本流に表現することに黒田は苦悩したに違いありません。
5枚目の「智・感・情」という題の絵をしげしげと見て私は3つのことを感じました。
1、まずこのような体形の女性は明治時代にはいなかった。それにもかかわらずこのような体形に描いたのは男性が想像する理想的な女性像を描いたのです。これは芸術の根底の一つをなすロマンシズムの表れなのです。
2、この絵を見ていると私はギリシャの彫刻を絵にしたと感じるのです。ギリシャ文化はヨーロッパ文化の母であることをこの絵は明快に示しているように感じられるのです。
3、そしてこの絵の色調や女性の表情を見るとルネサンスのよる人間賛歌を感じるのです。中世のキリスト教の暗い桎梏から解放された人間の幸せそうな状態を感じさせる絵のようです。
この絵は黒田清輝の集大成的な大作と言われています。それは西洋文化を完全に咀嚼、吸収したのちに自分のものにした独自の世界なのです。
それでは西洋人がこの絵を見たら何を感じるでしょうか?回りくどい説明を省略して一言で書けば、「東洋の文化」を感じる筈です。自国の文化だけでなく東洋に関心がある西洋人なら必ずや感動するのではないでしょうか。
富国強兵に必要な科学技術の導入は比較的容易ですが、芸術の導入の難しさを考えさせられました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年(大正13年)7月15日);https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E8%BC%9D

薩摩国鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、のちに伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。1872年(明治5年)に上京し、平河小学校(現麹町小学校)に入学。小学校では巌谷小波と友人であった。卒業後は漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に通う。1878年、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。上級学校進学を意識し、当時の受験予備校であった共立学校、すぐに築地英学校に転校、その後は東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。

1891年には『読書』、1893年には『朝妝』(ちょうしょう)がフランスの展覧会で入賞した。同年、アメリカ経由で帰朝すると、美術教育者として活躍する。
1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させた。
1895年にはフランスで入選した全裸で立つフランス女性を描いた『朝妝』を内国勧業博覧会に出展して論争を呼ぶ。
1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1898年、東京美術学校教授に就任。
1900年10月、白馬会展に全裸の裸婦を描いた『裸体婦人像』を展示して、警察に咎められ、絵の下半分が布で覆われる「腰巻事件」が起きる。
1910年10月18日[4]には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、1920年に貴族院議員に就任している。
1924年、尿毒症のため死去。

黒田清輝の主要作品の解説、http://www.salvastyle.com/menu_japanese/kuroda.html
当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意。19世紀後半から20世紀初頭にかけて同国で活躍した外光派のフランス人画家、ラファエル・コランに師事。以後、師の下で外光派様式の絵画を学びながらサロン(官展)に出品するなど精力的に活動をおこなう。また同時期にフランス人女性マリア・ビョーと出会う。1893年、10年ぶりに帰朝、美術教育者として活躍する。1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天真道場を開設し「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」と規定をもうけ、指導方針とした。印象派の影響を取り入れた外光派様式を国内で提唱。1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。西洋美術の伝統に基づき、人体を描くことを重視し、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着させ、解剖学と実際の裸体モデルを使った人体デッサンを大学の教育課程に組み入れたなどの美術界への功績も大きい。1909年には洋画家として最初の帝室技芸員に選出、また帝国美術院院長などを歴任。

オバマ大統領の広島訪問に対する3つの異なる考え方

2016年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、日米の政府間でオバマ大統領の広島訪問のための調整をしているようです。
もしオバマ大統領が広島へ行ければ、原爆投下後70年にして初めてアメリカの現役大統領が犠牲者の慰霊碑に献花することになります。
一般市民が犠牲者になり、その人数は広島で20万人、長崎で14万人と言われています。
もう少し詳しく書くと、広島の当時の人口42万人で原爆投下直後の死者、行方不明合わせて 12万2338人でした。一方、長崎は当時の人口24万人のうち 死者、行方不明合わせて7万3884人が犠牲になったのです。当時の人口の実に4分の1程の市民が一瞬にして亡くなってしまったのです。そして被爆後5年間の間に広島で合計20万人、長崎で合計14万人が亡くなったのです。
それから茫々70年、はじめてアメリカの現役の大統領が犠牲者の慰霊碑に献花に行くのです。
もっとも元大統領のカーター氏は献花しています。
オバマ大統領の広島訪問は日米の関係の歴史において重要な意義があると考えられます。
しかしそれに対していろいろな考え方があると思います。全ての考え方を羅列出来ませんが、以下のように3つの考え方に纏めることが出来るのではないでしょうか。
(1)たとえ戦争とはいえ、残忍極まりない原爆を一般市民の頭上に落としたアメリカの大統領はもっと早く広島を訪問し謝罪すべきだった。アメリカ軍の人道上の罪はこれで帳消しにはならないが犠牲者の霊も少しは癒されると考えられる。
(2)確かにアメリカの原爆投下は非難すべきだが、戦後アメリカは日本の復興を助け日米安保条約で日本の安全を守ってくれたのだからアメリカへ謝罪しろと大声で要求すべきではない。
日本は戦争に負けたのだから武士道の精神にしたがって潔い態度をとるべきである。敗者が勝った者にあれこれ注文をつけるのは潔くない。大統領が広島を訪問するか、しないかは黙って眺めているのが正解である。沈黙を守れば良い。
(3)以下は一部のアメリカ人の考え方です。真珠湾攻撃は宣戦布告の有る無しにかかわらず卑怯な奇襲攻撃だった。その仕返しが原爆投下なのです。
その上、原爆投下によって日本の降伏を早くさせてアメリカ兵の犠牲者数と、本州上陸作戦による市民と兵員の損耗数を少なくしたのだから良い戦略だったのです。
それに、もし仮に日本がアメリカより先に原爆を開発していたら日本軍は躊躇なくアメリカ軍へ原爆を落とし戦況の好転をはかったに違いありません。
したがってアメリカは絶対に謝罪すべきではありません。謝罪したと誤解される広島訪問は中止すべきです。
さて皆様は以上の考え方をどのように感じられますでしょうか。
私自身はおもに(1)に賛成ですが、(2)も時々、良いとも思っています。
勿論、上に書いた考え方とは違うご意見も多いと存じます。皆様のご意見を頂けたら嬉しく思います。
尚、この際書きたいことがあります。原爆の慰霊碑に、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と彫ってあるそうです。私はこのような意味不明の日本語が大嫌いです。過ちは繰返しませぬからという表現は背筋がかゆくなる偽善的な表現で嫌いです。
私は「安らかに眠って下さい、ご冥福をお祈りいたします」と書き直した方が良いと思っています。

それはそれとして、今日は広島と長崎の原爆投下による犠牲者のご冥福を深くお祈りいたします。藤山杜人(後藤和弘)
今日の挿し絵代わりの写真は庭の花々です。順にジャーマンアイリス、ウノハナ、八重のユキヤナギ、シバザクラとスミレ、シャガの5枚の写真です。









突然消えてしまったアイヌの友人と少数民族の悲しさ

2016年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の北海道にはあちこちにアイヌの人々の集落が散在していたそうです。
仙台に生まれ育った私にも少年の頃アイヌの友人がいました。その友人がある日忽然と消えてしまったのです。80歳になった現在でもその時の別離の悲しさを忘れられません。
戦後すぐに北海道のアイヌの人々の生活向上のため東北地方に移住させる運動があったそうです。真偽のほどは知りませんが共産党が進めていたらしいです。
小学6年生だった当時、私の家は仙台の八木山という郊外にありました。あちこちに雑木林があり引揚者がそれを切り開いて農業を始めた頃です。その一角に父母と息子の3人家族のアイヌの人が入植してきました。その噂を聞いた私は好奇心に駆られて行って見たのです。
雑木林の中に粗末な家があり、十歳くらいのアイヌの少年が一人だけ淋しそうにしていました。すぐに仲良くなり、聞くと父と母は山を下り町中の道路工事の仕事に行っているそうです。
何度も遊びに行きました。アイヌの少年は学校にも行かずに一人で遊んでいます。
ある寒い日に、夕方おそくまで遊んでいたら両親が帰って来ました。父親は色白で髪や髭が黒々としていていかにもアイヌ人のような風貌です。母親も色が白くて美しい人です。
父親が私を見つけると歓迎し、小屋に招じ入れ囲炉裏に薪をくべて暖めてくれました。淋しくしている息子と遊んでくれて有難うと言うのです。
その一家が突然、こつ然と消えてしまったのです。サヨナラも言わずに何処かへ引っ越して行ったのです。
遊びに行った私が見たのは雑木林の中にある狭い広場だけです。家が跡形も無く撤去されています。わずかに囲炉裏のあった場所に黒い薪の燃え残りがあるだけです。その光景に唖然としました。
現在考えてみると違法に入植してきたアイヌの一家を地主が追い出したのかも知れません。
しかしまだ小学6年生だった私にはそんな事情は想像も出来ません。
まるで神隠しにあったように私を歓迎してくれた一家が消えてしまったのです。
そのことは私の心の悲しみになりました。そしてその悲しみは80歳になった現在も決して忘れられません。
下にアイヌの人々の写真を示します。

(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C です。)
そんなアイヌの一家のことを時々思い出すような旅に出ました。それは昨年の10月の知床地方などを巡る旅でした。四六時中アイヌのことを考えていたのではありませんが、時々思い出すのです。
知床の風景を見るとアイヌの人々はこんな場所に住んでいたと想うのです。
そしてヒグマやエゾシカを見ると彼らの猟の様子を想像するのです。
鶴も見ればアイヌと鶴の関係はどうたったのだろうかと思いを巡らせるのです。
下に昨年の10月に知床で撮ったそんな写真を示します。







ここでいきなり話は飛びます。いつもの事ですが今日もお許し下さい。
国連の調査によると世界の2500種の言語が絶滅危惧におちいっているそうです。
日本ではアイヌ語、琉球語、八丈語などの8言語が国連によって絶滅危惧と言われています。
ある民族の文化や言語が消えることは悲しいことです。その民族が存在し、人々が幸せに暮らしていた事実が完全に忘れ去られるのです。何故か理解出来ませんが、私にとってそれが深い悲しみなのです。

一般的に民族の消滅はその民族が使っていた言語の消滅で判断出来ます。
アイヌ人の血を受け継ぐ人々が現在日本には23000人余が居ると言いますが、アイヌ語を日常使う人は絶えました。ですからアイヌ語は事実上消滅したと言っても大きな間違いではありません。言葉が無くなったので、アイヌ文化は消滅したと考えても良いわけです。固有の文化が消滅すれば、その民族が消滅したとも考えることが出来ます。
アイヌ語については話し手が15人いるとも言いますが、日常使っている人は殆ど居ないのが実態です。これは財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)もこの実態を認めています。

かつて北海道や本州の北半分に住んでいたアイヌの人々は消滅したのです。
この現象は生物界の絶滅危惧種の悲しい運命と似ているようです。
人間界の文化も弱肉強食と考えると悲しい限りです。
そして一つの言語や民族の消滅は悲しいものです。親しかった知人や友人の死の悲しみとは違う何か奥深い悲しみを感じるのです。
皆様は如何でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


田舎暮らしへの憧れと現実、その40年間の観察から

2016年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
都会に住んでいる多くの人は何となく田舎暮らしに憧れているようです。そのための専門的な本や雑誌も沢山あります。
私もそれに憧れて、40年前に山梨県、北杜市の甲斐駒岳山麓の森の中に小さな小屋を作りました。
本格的に移住するつもりは無く、週末に時々一泊か二泊だけして帰って来ます。80歳になった現在は山小屋に泊まるのは厳し過ぎるように感じています。そこで毎月1回は日帰りで遊びにいきます。その場所は四季折々自然の景観が素晴らしいのです。空気も新鮮で鹿や猿も棲んでいます。そんな場所の風景写真を3枚お送り致します。





私の山小屋の周囲には都会から移住して田舎暮らしをしている人が沢山います。
写真に示したような美しい自然に魅せられて、田舎暮らしをしたいという人が絶えません。
私自身は移住はしませんでしたが、40年以上通っていると移住してきた人々とも仲良くなりました。友人も出来ました。
そして彼らの生活ぶりを詳しく観察したり、移住後の苦労話を何度も聞きました。
結論を先に書けば、「夢と現実は違う」ということになります。
それはさておき下の2枚の写真に都会から移住して来た人々の家の写真を示します。



写真のように美しい自然の中で暮らしていると、どのような現実的な苦労があるでしょうか。簡潔に書いてみたいと思います。
田舎暮らしで農業をしようとして移住する場合と、それを全くしないで別荘に引っ越してきて田舎暮らしをする場合の2つに分けて考えてみます。
まず移住後、農業をする場合に挫折しないための条件を列挙いたします。
私は以下のような条件の全てが満足されていなければ田舎へ移住し農業をすべきでないと考えています。
(1)夫婦揃って本当に田舎暮らしが好きで、夫婦がそれぞれ車の運転が出来る。
(2)夫は稲作や農作業が大好きで、自給自足以上の米や野菜を作る決心をしている。
(3)奥さんも農作業やガーデニングが好きで、独自の趣味をしっかり持っている。
(4)自宅の中は完全に都会風で、日常の生活が清潔で便利に出来ている家である。
(5)日当たりが良くて、近くにスーパーや病院があるような立地条件になっている。
(6)ゴミ収集や無料の健康診断のような市役所のサービスが悪くても不平不満を言わない。
(7)村落の地区の区費を毎月出して共同作業に参加する決心をしている。

地元の不動産業者が移住希望者の相談を本気で受ける時は以上の条件がそろっている場合だけだそうです。そうでない場合は不幸な結果に終わるので相談に乗らないそうです。
私の訪問した不動産業者は地元を愛していて、本当に定住して農業をしてくれる人だけに家を売り、その後の面倒もよく見ていると言っていました。
一方、移住した人に聞くと、上の7つの条件のうち(6)と(7)が一番の鬼門で、苦労していると言います。

全国そうでしょうが農村や漁村では地方自治体の行政は集落ごとに設定した地区に任せます。その地区の区長が中心になった自治組合が市役所と交渉してゴミ集めや自治体のバスの停留所の場所や巡回頻度を決めます。
農村や漁村では市役所ではなく区長との付き合いと交渉が不可欠なのです。
区長は毎年か2年おきに交代しますが、本来の住民がします。移住者は区長になれません。
この仕組みを深く理解し、上手に対応出来る場合は田舎暮らしが成功するのです。
例えば移住後に農作業を楽しもうとしたら、まず区長に相談すると、農機具を無料で貸してくれる農家を紹介してくれることもあるそうです。

さて次に農作業を一切しないで別荘に引っ越して田舎暮らしを続ける場合を考えてみましょう。
単に別荘に転居して、住民票だけは田舎の自治体へ提出して、都会から引っ越す人も多いものです。
その別荘地に隣接する村落の地区の組合いには加入しないで独自の生活をするのです。
このような移住の仕方のほうが問題が少なく、かえって良いようです。
私の森の奥の小屋の近所にもこのように農業をしないで、貯金だけで生活して別荘に住み込んでいる人が5人ほど居ます。
大体は奥さんを都会において自分だけが別荘に住んでいます。
住民票は北杜市へ提出し、住民税も北杜市へ支払います。しかし地区の組合に入っていなのでゴミ集めなどの行政サービスはほとんど無いようです。しかし市民なので北杜市の市営の温泉センターは格安で入浴できます。
地区の組合に入っていないので面倒な共同作業には出る必要がありません。ですから地元の人々とは没交渉です。
見ているとその方が両方にとって良いようです。
従って無理に農業をする田舎暮らしをするより、冬のあいだ別荘に住んでみることをお薦めします。
それで住み続けられる自信がついたら住民票を動かせば良いのです。
この場合、都会の家はそのまま残して置きます。
高齢になって病気になったら病院施設の完備している都会へ戻ったほうが良いのです。実際に私の小屋の近所の人も病気になって都会へ戻った人が何人もいます。

いずれの場合もまず近所の人々と仲良くなり、その土地の習慣を重んじることが大切です。
さて皆様は田舎暮らしにどのようなご考えをお持ちでしょうか?ご意見をお聞かせ頂けたら嬉しく思います。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

親子関係の不可思議さ、そして人間の幸せと不幸

2016年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
親子関係ほど不思議な関係はありません。
そして人間の幸せや不幸はどのような親の子として生まれたかによって大きく左右されるものです。貧乏な親のもとに生まれ、進学もできず一生苦労する人もいます。貧乏でも優しい親の愛情をいっぱいうけ幸福な一生を送る人もいます。
その上、親子の関係ほど強い絆は無いと思います。
強いだけに一旦こじれると修復が非常に困難です。修復には20年、30年と長い年月がかかる場合もあります。そして世間体の為に親子関係が円満なように装っていても心の底では深い問題を抱えている場合もあります。

一番書きにくい人間の絆ですが、今日は気楽にさらりと書くことにしました。
親子関係を父と息子の関係と母と息子の関係だけに限定して描くと明快に整理出来そうです。
一般的に父親は息子が自分の思うようにしないと直ぐに立腹し叱る傾向があります。
息子に理想的な人生を歩んで貰いたいと思うあまり、つい失望したり怒りを感じるのです。しかし息子は父親とは違う自分の考えを持っています。
そんな訳で父と息子の関係は多くの場合良くないのが不思議ではありません。
しかしその問題も孫が出来てから次第に解消してきます。
ところが一方、母親と息子の関係を見ると、ほとんどの場合、始めから仲が良いのです。娘と母親の関係も同じようです。
この世で母子の関係ほど強い絆は無いというのが本当ではないでしょうか。
街に出ると幼児を連れた若い母親によく会います。幼児が可愛いので見とれていると母親が挨拶をします。「どうです。素晴らしい子でしょう!」という自慢が笑顔に見え隠れします。女性にとって一番幸せな時期なのです。
このように書くと結婚していない人や子供のいない人は気の毒に思えます。ですから子連れの母親に会った時は子供のいない人の心に寄り添うようにしています。
話は飛びますが私は許嫁を日本から呼び寄せてアメリカのオハイオ州で結婚式を上げました。そんな事情からアメリカの親子関係を観察する機会が多くありました。
雑駁に言えばアメリカの親子関係は日本ほど濃密でないのです。子供が高校生くらいになると親離れをして精神的には独立します。赤ん坊の育て方も一見冷酷で、泣いても抱き上げてはいけないと言います。寝室も別です。要するに子供を甘やかさないのが理想的な育て方だと信じているのです。
ですから息子は父に頼りません。父も息子の就職や結婚には一切意見を言いません。
日本では里帰りを毎年行う人がいますがアメリカでは人にもよりますが家族で両親に会いに行くのは数年に一回くらいです。誤解を恐れずにはっきり書けばアメリカの親子関係は疎遠なのです。日本では親子関係が濃密過ぎて不幸になる場合が多いのです。良い親子関係を保つには疎遠と思える位の距離を置いたほうが良いと私は考えていました。
したがって、私はアメリカ人は理想的な家族関係を持っている一番幸せな人々と信じていました。
ところがその後何度もアメリカに行って彼等と親しくなってみると私の理解が完全に間違っていることに気がつきました。ある統計調査によると彼等が一番困って、悩んでいる人間関係は親子関係だと分かりました。
これは案外、日本でも同じかも知れません。
悪い夫婦関係は離婚すれば一件落着です。しかし親子関係には終わりが無いのです。
また話は飛びますが、親が死んでしまったり、いろいろな事情で親と別れてしまった場合について一言書いておきます。
私の家の近くにサレジオ学園があります。事情があって親と別れた子供達が一緒に住んで、サレジオ学園の小学校と中学校に通っています。高校からは一般社会の高校に行きます。その学園の中に大きなカトリックの教会があります。近所の人たちもサレジオの子供達と一緒にミサに参加していた教会でした。私はある年のクリスマスに、そこのミサに出ました。そうしたら昔、サレジオ学園で育った人々が家族連れでミサに出ていたのです。里帰りです。それは感動的な光景でした。忘れられない光景でした。親子関係を書く以上このようなケースについても考えるべきと思っています。
それはさておきアメリカの幸せな親子関係を示す一例として友人の家族の写真を示します。

上は親友のRobert Rappさんと奥様のHeidi、ハイヂさんの4人の子供と孫たちの集合写真です。
奥さんのハイジさんが左端に写っています。夫は何処にいるのか判然としません。一人のハイジさんという女性がこれだけの人数の人間を幸せにしている事実に驚嘆します。そして親子関係の不可思議さに心が打たれています。
この家庭には何度か泊めて貰いました。
奥さんのハイジは何事にもおおらかで、やさしくて、家庭的な女性でした。庭に草花を沢山植えていて、飼い犬の世話をしながら2人の息子と2人の娘といつも仲良くしていました。
彼女はドイツ人で、夫とは1959年にドイツのゲッチンゲンで知り合い、翌年結婚したのです。
一 昨年12月にフランスに住んでいる娘の一家を訪問している間に心臓発作に襲われ1月になってから亡くなりました。享年84歳でした。 火葬後の遺灰はアルプスの麓一面に広がる雪原に散骨したそうです。
これは幸運な女性と子供たちの親子の一例です。
しかし不運にも親子の絆が無くて公的な施設で育った子供たちも沢山います。しかし彼らは自分の気持ちを克服して幸せに一生を終えた人も少なからずいます。親子の絆は一番強いというのも事実です。しかし親のいない人々も世の中に沢山います。
そして幸せや不幸は人それぞれです。どちらにしても死ねば夜空の星の一つになるのです。倶会一処なのです。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮ってきた都立水元公園の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





「宗教は貧困問題も戦争も防止出来ない、しかし私が信じる理由」

2016年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム





まず初めに今日の記事の挿し絵代わりの写真をご説明いたします。4日前の水曜日に箱根町立の湿性植物花園で撮った写真です。水芭蕉、山吹、碇草、石楠花などが水辺に咲いていました。
さて今日は日曜日なので宗教に関する気楽な随筆を書いてみます。
宗教のことを取り上げると途端に宗教は貧困問題も解決できないし戦争も防止できないから存在価値が無いというご意見を投稿される方がいます。
その上、西洋人が南米を侵略し植民地にしたとき聖職者も軍隊と共同して原住民を無理やりキリスト教徒にしたからキリスト教は悪です。とても信じらないというご意見も必ずのように頂きます。

さてここで日本人は宗教にた対して2つの別々な対応をします。
1、宗教は悪い結果をもたらすからこの世から放逐すべきだ。
2、注意して信じれば良い結果のほうが大になるから信じるのだ。

宗教は他人に強要してはいけません。宗教を理由に戦争をしてはいけません。
この二つを厳しく守っている限り、宗教を理解したり信じると数々の良い結果をもたらすのです。
私がカトリックになって体験的に感じている良いことです。列挙いたします。
(1)何と言っても嬉しいことは仏教の事が明快に理解出来るようになったことです。そして仏教を信じている日本人を誇りに思えるようになったことです。理由は簡単です。仏教もキリスト教もイスラム教もみな同じ宗教としての共通な考え方を持っているのです。
キリスト教を信じたおかげで玄奘三蔵法師や弘法大師に親近感を持ち、尊敬出来るようになったのです。嬉いことです。
(2)キリスト教国の欧米人の心の奥が判るようになりました。
欧米人は一見傲慢のように感じられる時があります。しかしキリスト教を知ると欧米人の心の裏も見えるようになります。すると同じ人間としての悩みや迷いを持っていることが分かります。その結果、彼らに親近感を持てるのです。
同じ様にしてフィリピンやブラジルやアルゼンチンなどの南米の国々に住んでいる人々に親近感を持てるのです。
そして仏教国のミャンマーやタイやベトナムの人々を友人と同じような親近感が持てるのです。そしてイスラム諸国の人々も敵に見えません。
これは私自身を幸せにします。
(3)私共は40年ほど前に一緒に洗礼を受けました。毎週、日曜日には一緒にミサに行きます。これで夫婦喧嘩が解消します?
宗教が夫婦喧嘩の解消や予防に役に立つのです?
(4)最後に一番重要なことを書きます。宗教を信じていると何時かは全世界が平和になると信じられるのです。そして永遠の命を得られると信じることが出来るのです。この希望のおかげで毎日が明るい気持で過ごせるのです。毎日が幸せになるのです。

ですから私は宗教は注意して信じれば良い結果のほうが大になるかと信じています。宗教は貧困問題も戦争も防止出来ませんが、このような理由で私は信じています。しかし信じていない全ての人々も大切にし、尊敬もしています。それが宗教が良い結果をもたらすための絶対条件なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







彫刻は分かり難い!芸術は難しい

2016年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
西洋の油絵でもクラシック音楽でも東洋人の私にもよく分かるつもりです。感動して涙さえ流すことがしばしばです。
西洋という異文化圏にうまれ育った芸術は東洋人の私に理解され、感動で胸が熱くなることを不思議に思っています。不思議でも心地良いものは良いので何度も、何度も油絵を見たり西洋音楽を聴きます。するとますます感動が深まります。
しかし西洋の近代彫刻だけは何度見ても感動しません。涙も流れません。私は彫刻音痴なのです。
しかし家内は彫刻音痴でななく大好きなようです。箱根に行くと必ず「彫刻の森」という近代彫刻の野外展示場を訪問します。今回も一番初めにここを訪れました。
それでは写真でこの「彫刻の森」をご紹介致します。

この写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。

上はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。

上はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブルーデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。

上は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。

上はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。

上はイタリア人のジュリアーニ・ヴァンジ(1931年生まれ)の2004年作の「偉大な物語」という彫刻です。

上はフランス人のオーギュスト・ロダン(1840年ー1917年)の1898年作の文豪バルザックのブロンズ彫刻です。

彫刻の森に展示されている作品は膨大です。その作品一点、一点の詳しい紹介は、http://www.hakone-oam.or.jp/permanent/?id=4 に掲載されています。
例えばヘンリ-・ムーアについて以下のように書いてあります;ムーアは彫刻を野外に展示することを好みました。
「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」と語っています。
彫刻の森美術館の緑陰広場の庭園には、ムーアの彫刻作品11体のコレクションがゆっくりと時間を刻んでいます。
四季を通じて、彫刻の堅固な形態とその空間が作り出すコントラストはとても魅力的です。
そして1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」については以下のような解説があります。

・・・人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に坐っているもの、そして横たわっているものである。3つのポーズのうちで、横たわる人体像は、最も自由がきき、構成しやすく、また空間性を持っている。坐っている人体像には腰掛けるためのものが何か必要になる。彫刻を台座から解放してやることができない。横たわる人体像はどんな床面にも横たえることが可能だ。自由がきくと同時に安定性もある。・・・

さてこの解説をお読みになってヘンリー・ムーアの作品が理解出来たでしょうか?
私には分かりません。ただ2つのことは言えます。
大型の彫刻作品は、風景の良い屋外に展示したほうが良く見えると私も思います。そして「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ像の前にしばらく立っていると何とも自然なやすらぎを感じます。しかし作者の意図は分かりせん。そこで動き出して次の作品へと歩きます。
そしてバルザックの像については次のような説明があります。
「バルザック」1891-98年;ブロンズ、270×120×127cm
ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼され、肖像写真をもとにして制作した。
1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表したが、これが雪だるま、溶岩、異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した」と、協会から作品の引き取りを拒否された。
ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかった。彼の死後、1939年になってパリ市内に設置、除幕された。
ガウンによって写実的なディテールが覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じるものである。
このような解説を読んで初めてこの彫刻の意味が分かるのです。
私には分かりませんでした。しかしこの像の前に立つと人間の苦悩の深さと、それを克服しようとする人間の勇気を感じます。しかし胸が熱くなるほどの感動は覚えません。私は彫刻音痴なのです。
一方、家内は谷の下の方にあるピカソ館までつぶさに見てきてご機嫌です。西洋の近代彫刻だけでなく日本の彫刻家のことも詳しく知っているのですからかないません。私は高村光太郎の十和田湖畔の「おとめの像」と舟越保武の田沢湖畔の「たつこ姫」の像しか知りません。
それはさておき箱根の「彫刻の森」は間違いなく素晴らし散歩道です。素晴らしい散歩道と言えば、「美ケ原高原美術館」(http://www.utsukushi-oam.jp/ )も同じような所です。
そのような訳ですので読者の皆様に「彫刻芸術の観賞の仕方」をお教え頂きたいと思います。どうぞふるってご投稿ください。感謝いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「薬草植物園にも春が来ました」

2016年04月22日 | 写真
冬の間は何も無かった薬草植物園にも春が来て、いろいろな花々が咲き出しました。午後にぶらりと行って写真を撮って来ました。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。場所は東京都立薬草植物園を検索すると出ています。

花の名前は1番目から7番目まで以下の通りです。
1、フジの花
2、ボタン
3、ニオイイリス、洗剤や歯磨き粉の香料に使います。
4、イチハツ、吐剤や下剤になります。
5、ホソバタイセイ、古くから染料として使用されてきました。
6、ホタルカズラ、
7、ドイツスズラン、食べると猛毒です。













「荒れる春の海の写真」

2016年04月21日 | 写真
春は暖かく穏やかな日もありますが強風が吹き荒れる日もあります。
ヨットを趣味にしている人にとっては危険な季節です。
昨日、箱根に泊まって、今日、十国峠を越えて熱海に降りました。
熱海からは海岸沿いの道を湯河原、小田原、大磯、平塚、茅ヶ崎と走りながら曇天の下で強風に荒れる海を飽かずに眺めていました。
茅ケ崎で海岸に出て、吹き飛ばされそうになりながら、荒れる春の海の写真を撮りました。サーファーもいず、海岸工事・清掃の姿が見えるだけでした。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









ヨットの趣味はお金がかかる、危険、仲間が必要という大きな誤解

2016年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨットの趣味は50歳から75歳まで25年間楽しみました。体力が無くなり75歳で止めてからもう5年たちました。
ヨットの趣味は素晴らしい体験でした。もっと多くの日本人に普及するようにと祈っています。
しかしヨットの趣味はお金がかかる、危険だ、仲間が必要だという大きな誤解があってなかなか普及しないようです。
そこでこの3つの誤解を解くためにいささか自分の体験をふまえてご説明したいと思います。
(1)ヨットはお金のかかる趣味で自分にはむいていないという誤解
確かにヨットの新品を買おうとしたら300万円から600万円くらい必要です。しかしヨットの中古品なら驚くほど安いのです。
キャビン付の長さ26フィート位のヨットなら100万円くらいで新品同様の中古品が買えるのです。琵琶湖や瀬戸内海方面には安い中古艇が沢山あります。ネットでヨットの中古品を検索すると沢山の情報があります。30万円や50万円の船もあります。しかしあまり安いのは水漏れがあったり、エンジンが老朽化していることがあるので要注意です。
問題はヨットの係留料です。湘南のマリーナなら年間100万円以上ですが、霞ヶ浦の茨城県の経営の場所なら年間5万円の係留料です。全国の県庁が管理している係留場所は格安なのです。根気よく探せば安い係留場所があると思います。
ですから100万円から150万円もあればキャビン付の中古のヨットを買って、ヨットの趣味が始められのです。
ヨットの趣味はお金がかかるというのは誤解で、少しの準備金があれば始められる素晴らしい趣味なのです。
(2)ヨットは転覆して危険だという誤解
ヨットはすぐに転覆してしまうので危険きわまりないと思っている人がいます。
しかしヨットには2種類あって、「すぐに転覆するヨット」と「絶対に転覆しないヨット」があります。前者はキャビン(客室)の無い小型ヨットでディンギーと言い、後者はキャビンがあり、クルーザー・ヨットと言います。
ディンギーは公園の池などでよく見かける手漕ぎボートのような舟にマストを立てた構造で、長さも普通5m以下です。
一方、クルーザー・ヨットは長さが普通6m以上で、屋根のついた気密なキャビンを持っています。そして船底に転覆防止のために重い鉄板が水中へ突き出ています。この重い鉄板のことをキールと言います。
キールは丁度、釣りのとき使う「浮き」の下にある「重り」と同じ役目をしています。その重りのお陰で、浮きがどんなに傾いても直ぐに起き上がります。
ですから「ヨットはすぐに転覆する」という理解はディンギーに関しては正しく、クルーザー・ヨットに関しては大きな誤解なのです。
それでは写真に従ってもう少し分かり易く説明いたします。

上の写真はディンギーを2人の若者が、舟が右側に倒れないようにマストからのロープを左方向へ引っ張りながら走っています。帆を3枚上げているのでロープを引っ張る若者達は必死です。風が突然これ以上左から吹けば、ヨットは右側に転覆します。風前の灯のような状態です。危険だからスリルがあって楽しいのです。
私は50歳になってからヨットを始めました。江の島にあったヨットスクールへ何度も通い、ディンギーの帆走方法を習いました。
沖に出ます。快調に帆走していると、突風が襲うことがあります。転覆します。横倒しになったヨットの舷側や底に掴まります。
すると教官がモーターボートの上から「ヨットは自分の力で起こすものだあ!」と怒鳴ります。その通りで自分の力で起こせます。しかし転覆する時は強風なのです。波も荒れています。せっかく起こしたヨットが今度は反対側へ倒れます。50歳の中年過ぎの男にとってこの作業は厳し過ぎます。葉山のディンギー倶楽部に2年位通って帆走を習いましたが、かなり上手になっても横倒しになります。
そこで絶対に転覆しない構造のクルーザーヨットの中古を購入したのです。
クルーザーには23年間乗りましたが一度も横倒しになりませんでした。転覆もしませんでした。

上の写真は突風にあおわれて私が慌てている様子です。見っともない状態ですが、家内が陸上から撮った写真です。

上の写真は危険な状態を立てなおして正常な姿で港の外に出て行こうとしている姿です。
右からの風を2枚のセールに受けて、快速で走っています。このようにキャビンのついたクルーザーヨットは絶対に転覆しない安全な乗り物なのです。
ですからヨットは転覆して危険だというのは誤解なのです。
(3)ヨットには仲間が必要という誤解
私はヨットには独りで乗りました。時々家内が一緒に乗って、帆走を手伝いますが、基本的には独りで帆走します。どんな強風が来てもクルーザー・ヨットは横倒しになりません。安心です。ですから私は何時も一人で乗りました。

上の写真は一人でもヨットがいかに安全な構造になっているかを示す図面です。
クルーザー・ヨットが絶対に沈まない巧妙な構造をもう少し説明致します。
2つの巧妙な構造があるのです。一つは、前にも書きましたが、重いキールが下についていることです。もう一つは横倒しになっても、真っ逆さまになっても水が入らない気密なキャビンがあることです。上の絵をご覧下さい。船底から下に突き出ているのがキールです。部厚い、丈夫な鉄板が船底にシッカリ固定してあるのです。そしてキールの重さは舟の全重量の3割から4割もあるのです。

舟の甲板の下は全て気密な空間になっていて、幾つかの船室になっています。中央の船室をメイン・キャビンと言います。前部をバウ・キャビン、後部をスターン・キャビンと言います。その他に水洗トイレの小部屋があります。ロッカーもついています。炊事用のコンロや流しも付いています。要するに生活出来るような構造になっているのです。後ろの出入り口さえ閉めてしまえば、この生活空間には絶対に水が入らないような気密構造になっているのです。
凄く荒れる海では波が逆巻いて大きなヨットを回転させます。運が悪いと真っ逆さまのまま動きを停止することもあります。本で読んだことですが、この場合でも暫く辛抱していると次の大波でヨットは再び起き上がるそうです。水さえキャビンに入らなければ絶対に沈まないそうです。
霞ヶ浦のような平水では逆巻く大波はめったに起きません。怖いのは強風だけです。しかし強風になりヨットが傾き、マストが水面につきそうになると風はセイルの上を吹きぬけて行きます。セイルに風の力が加わらない状態になるのです。ですから横倒し近くなっても暫く辛抱しているとヨットがひとりで起き上がります。起きあがったら、すかさずセイルを下ろして、エンジンをかけて帰港するば良いのです。
こういう怖い経験を何度かしました。スリル満点で後から愉快になります。
しかしたった一人で沖に出てもヨットの趣味は危険ではありません。安全な構造になっているのです。ですから仲間は要らないのです。


上の写真は 流しと2口コンロのある料理コーナーの写真です。
夜になれば港に係留して、キャビンで簡単な料理を作ってビールを飲みます。
眠くなったら、そのままキャビンに蒲団を敷いて寝ます。寒い冬でも泊ります。朝食は上の写真のようにコーヒーとパンだけです。お正月は重箱につめたお節料理を持ちこんで家内と食べて帰ってきます。
係留したヨットが冬の風波で心地良く揺れているのです。
人間は水から生まれたのでしょうか。水に揺れていると何故か原始の自然を想うのです。
普通は一人でビールを楽しみますが、たまには昔の同級生やヨットで知り合った友人を招待して一緒にキャビンやデッキでパーティをします。一緒にレースにも参加します。
デッキやキャビンのパーティは、場所が狭いせいかすぐに打ち解けたパーティになります。お客がシャンパンなどを持参してきます。私はオードブルの大皿を準備します。
ヨットの楽しみ方はいろいろです。仲間を組織化してレースに出場するだけの人もいます。自分流にいろいろな楽しみ方をする人もいます。いろいろな楽しみ方があるのです。ヨットは奥行きのある趣味なのです。

皆様もクルーザー・ヨットの趣味を始めては如何でしょうか?これからセイリング・ボートを自分の趣味にしようとする方々の参考になれば嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

80歳になると別な人生に入る、小さな花々が好きになる

2016年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
これは単なる主観です、私の思い込みです。それは80歳になったら別な人生に入ったような気分になったのです。
私は今年の1月に満80歳になりました。そうしたら突然まったく別の人生に踏み込んだような気分になったのです。
この個人的な感じかたには普遍性もありません。しかし案外同じ感じを持って80代の日々を過ごしている方も多いのではないかと思います。知っている人々がみないなくなります。そうして80歳以前のことごとが遠い忘却のかなたに薄れていきます。我が人生は邯鄲の夢なのです。
そうすると些細なことに驚き、感動するようになります。そして毎日生きていることが貴重であり感謝の念が湧いてくるのです。
今日もその一つの例を書いてみます。
それは足もとに咲く小さな、小さな花々が輝いて見え出したことです。
春は連日あちこちの桜並木の見物で忙しい時を過ごしました。桜も散ってしまいアッという間に春は過ぎて行きます。「世の中に 絶えて桜の無かりせば 春の心は のどけからまし」 
若い頃の春は桜とともに終わりました。
しかし春になると桜だけでなく実に数多くの小さな花々が咲くことに気がついたのです。その気になって自宅の庭を見ると、そこにもいろいろな花が咲いています。そこで今日は小さく愛らしい花々の写真を10枚、お送り致します。
花々の名前は1番目の写真から順番に下に書きました。
1、すみれ
2、イカリソウ(錨草)
3、ケマンソウ(華鬘草)
4、シロヤマブキ(白山吹)
5、ニラバナ(韮花)
6、ショカツサイ(諸葛菜)
7、シャガ(射干)
8、オーニソガラム
9、と10はユキワリソウ(雪割草)ですが、この2枚は趣味人倶楽部の「花まるさん」から頂いた写真です。

なお自宅の庭に咲いている草花は他にも沢山あります。スズランスイセン、サクラソウ、ヒトリシズカ、ホウチャクソウ、卯の花、満天星(ドウダン)ツツジ、ユキヤナギ、フリージヤ、シバザクラなどなどが咲いています。
狭い庭に家内が次から次へと植えて育てている花々です。大体白い花が多く、地味なものが好きなようです。
考えてみると若い頃の私は小さな、そして地味な花には興味がありませんでした。樹木の上に燦然と咲くタイサンボクの花や満開の桜木の華やかさだけに酔いしれていたのです。
それが今年から急に庭に自然に咲くスミレを見つけ感動したのです。自然に咲いているのではなく家内がいろいろな場所からスミレを移植していたのです。そして庭には上に書いたように種々の小さな花が咲いていたのです。みな家内が育てたそうです。80歳になってやっと共通の話題が一つ増えたのです。
その上、仏教が好きな私はお釈迦さまの教えをすぐに思い出しました。それはどんな小さな生き物でも殺してはいけないという教えです。いはゆる殺生の禁止です。それは動物に限らないのかも知れないと思ったのです。
小さな花々にもかけがえの無い命があるのです。花々はその命の一瞬の輝きなのです。お釈迦様はそれをも大切にしなさいとおっしゃったのかも知れません。
この広大な宇宙に咲く小さな花々を大切に眺めると宇宙の不可思議さが感じられます。そして何やら悟りの境地へといざなえられるようです。バカバカしい話で恐縮です。
しかし書きながらある寺の住職をしていた叔父が夏の夜に蚊を殺さずに扇子で追いやっていた行為の意味が今、急に理解出来たのです。その頃は叔父のやり方に失笑していたのです。でもそれには深い意味があったのです。
「殺生の禁止」は厳しい戒律です。いいかげんな私には守れません。でも時々思い出して考えています。

小さな花々が好きになると蚊や虫の命の輝きの美しさも分かるような気がします。ですから80歳になったら別な人生に入ったような気分になったのかも知れません。これも私の思い込みです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




















80歳になり驚き感動した二つの体験

2016年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
まったく個人的なことで恐縮ですが、私は今年の1月に満80歳になりました。そうしたら突然まったく別の人生に踏み込んだような気分になったのです。勿論これも個人的な感じ方で何の普遍性もありません。しかし気がついてみると知っている人々がみないなくなりました。淋しくなります。そうして80歳以前の全てのことごとがセピア色に色あせて、遠い忘却のかなたに薄れていきます。我が人生は邯鄲の夢に過ぎないとしみじみ思うようになりました。
それと同時につまらない些細なことに驚き感動するようになりました。そして毎日生きていることが貴重であり感謝の念が湧いてくるのです。
そこで一昨日体験した驚き感動したことを二つ簡単にご報告したいと思います。
一つは八百屋さんの川野トモさんが立派な美術館を作ったことに感動したのです。
二つ目の驚きは浅学な自分の知らなかった三栖右嗣さんの絵画に感動し、圧倒されたのです。
一昨日その美術館を訪問し、展示してあった三栖さんの絵画を見て来ました。
八百屋さんの女主人といえばいかにも庶民的な姿を思い浮かべます。その川野トモさんがある日、三栖さんのコスモスの絵を買って、感動して、以来画伯と親交を深めました。そして自分の住む川越市に2012年ご子息幸男さんとヤオコー美術館を建てたのです。そしてそこには三栖右嗣さんの絵画だけを集めて常設展示しているのです。この川野トモさんの絵画に対する情熱に感動したのです。
下に一昨日訪れたヤオコー川越美術館の写真を示します。

建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。

内部の展示室はこのような部屋が二つあり、三栖右嗣さんの絵画だけが33点も展示されているのです。そして33点の絵画の題目や描かれたいきさつが丁寧に説明されています。
結論を一言で言えば33点が全て私が好きな絵なのです。
その中から3枚だけを下に示します。

この絵は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

この絵は「麓郷早春」と題した500号の長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。

この絵は「春園」という題の大作です。三栖さんの晩年の傑作です。
絵画の世界にうとい私は三栖右嗣さんという画家を知りませんでした。
驚きと感動を体験したのです。そしてスーパーを経営する川野トモさんと子息の幸夫氏が立派な美術館を作ったことに感動したのです。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。
春の日に相応しい深い穏やかな感動に浸った一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 現代リアリズムの巨匠といわれ、人気作家であった彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。物を捉える並はずれた技術力と温かみのある描写の作品の数々は、何度でもその前に足を運び、対峙したくなる非常に質の高い、充実したコレクション群です。
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、
大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:」
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。


宗教に関心があるとどんな良いことがあるでしょうか?

2016年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の新聞を見ると熊本地方の地震で亡くなった方が41名と出ていました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
そして怪我をしたり家が被害にあった方々に深く同情いたします。
本震より余震の方が大きいと誰もが想像しなかったと思います。余震の被害が甚大だったことにも心が痛みます。希望の灯を燃やして復旧されますようにお祈りいたしています。

さて今日は日曜日なので宗教に関する気楽な随筆を書いてみます。
宗教は他人に強要してはいけません。宗教を理由に戦争をしてはいけません。
この二つを厳しく守っている限り、宗教を理解したり信じると数々の良いことがあります。
私がカトリックになって体験的に感じている良いことです。列挙いたします。
(1)何と言っても嬉しいことは仏教の事が明快に理解出来るようになったことです。そして仏教を信じている日本人を誇りに思えるようになったことです。理由は簡単です。仏教もキリスト教もイスラム教もみな同じ宗教としての共通な考え方を持っているのです。
キリスト教を信じたおかげで玄奘三蔵法師や弘法大師に親近感を持ち、尊敬出来るようになったのです。嬉いことです。
(2)キリスト教国の欧米人の心の奥が判るようになりました。
欧米人は一見傲慢のように感じられる時があります。しかしキリスト教を知ると欧米人の心の裏も見えるようになります。すると同じ人間としての悩みや迷いを持っていることが分かります。その結果、彼らに親近感を持てるのです。
同じ様にしてフィリピンやブラジルやアルゼンチンなどの南米の国々に住んでいる人々に親近感を持てるのです。
そして仏教国のミャンマーやタイやベトナムの人々を友人と同じような親近感が持てるのです。そしてイスラモ諸国の人々も敵に見えません。
これは私自身を幸せにします。
(3)いきなり矮小なことで恐縮です。私共は40年ほど前に一緒に洗礼を受けました。毎週、日曜日には一緒にミサに行きます。これで夫婦喧嘩が解消します?
宗教が夫婦喧嘩の解消や予防に役に立つとは思いもよりませんでした。
あまり下らないことを書いていると怒られますのでこの辺で止めます。
最後に冒頭に書いた、「宗教は他人に強要してはいけません。宗教を理由に戦争をしてはいけません。」ということをもう一度強調して終りとします。

今日の挿絵代わりの写真は、自分で撮った山中湖と富士山の写真です。挿絵は毎度のように文章の内容と何の関わりもありませんが、お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「三輪 修さんの絵画の写真をもう3点追加いたします。」

2016年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
この前にお送りした3点は私の好きな3点でしたが、家内の好きな3点の絵画を追加させて下さい。

この1番目の写真は、「存在した時の証し」(U賞)100F 2003年作 キャンバス 油彩 です。

この2番目の写真は、「果物と貝 」10F 1994年作 油彩 です。

この3番目の写真は、「プルーン」3S 2007年作 キャンバス 油彩 です。

参考までに、
展覧会のお知らせ:
洋画家 三輪 修 甦る記憶との間で・・・
日々の制作のことや日常の出来事などを感じたままに・・
2016東武 春の絵画市

■4/14(木)~19(火)
■8F催事場(1~3番地)
[営業時間]午前10時~午後8時
※最終日は午後5時閉場。

東武百貨店 池袋店
 電話:03-3981-2211
 住所:〒171-8512 東京都豊島区西池袋1-1-25