後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦後の日本映画全盛の頃を懐かしむ」

2021年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後、日本全国にテレビが普及するまで約20年間かかりました。この戦後20年間は映画全盛の時代でした。当時は邦画や洋画の看板が映画館に華やかに飾ってあったものです。戦前生まれ、戦後育ちの私は映画が大好きでした。
今日は懐かしい戦後の日本映画のポスターの写真と、それぞれの「あらすじ」をお送りいたします。私の記憶に鮮明に残っている感銘深い映画を七つ選びました。
この記事は長文ですのでまず7枚のポスターの写真だけをご覧ください。興味深い映画を選んで「あらすじ」をお読み下さい。次に原作の文学作品の全文を読みたくなったら「青空文庫」を検索すれば全文を読むことが出来ます。
「青空文庫」の総合インデックスの作家別か作品別に希望の名前をクリックすると作品が出てきます。
今日の「戦後の日本映画の写真とあらすじ」は以下の資料などから引用しました。「昭和の名作邦画」、http://showa-love.jp/movie/showa1950s_japanese_movie 。 お楽しみ頂ければ幸いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「青い山脈」 (1949年)のポスターです。
青い山脈 (1949年)は石坂洋二郎の小説を、今井正監督が、原節子を主演に迎え映画化した青春映画です。
戦後間もないころ田舎町の女学校に赴任してきた女性教師が、封建的な街の体制と戦う姿を描いたものです。青年に池部良、少女に杉葉子、芸者に木暮実千代など懐かしい人々が出ています。主題歌は服部良一作曲で、明るいメロディーーは今でも歌い継がれています。
封建的な町の青春映画です。戦後の自由と民主主義になろうとしていた社会に受け入れられ映画館は連日満員でした。

2番目の写真は『坊つちやん』のポスターです。
この映画は夏目漱石の小説『坊つちやん』を原作とした映画化作品です。これまでに5度映画化され、1935年版、1953年版、1958年版、1966年版、1977年版があります。1953年版は東京映画製作。1953年8月12日公開で監督 、 丸山誠治でした。
キャストは、坊ちゃん : 池部良、 山嵐 : 小沢栄、 赤シャツ : 森繁久弥、 たぬき : 小堀誠、 うらなり : 瀬良明、 野太鼓 : 多々良純などでした。
子供の頃から周囲と折り合いをつけることが苦手な不器用だった東京の青年が、愛媛の教師となり奮闘する物語です。理不尽なことを許さないもともとの性質は教師になっても抑えることはできず、己を信じて、正義のために戦うが、最後は破れて東京に帰ってしまう映画です。
坊ちゃんは子供のころから無鉄砲で、気性が荒かったので、親や兄からは嫌われていました。そんな中、いつも坊ちゃんの味方をしてくれたのはばあやの清だけでした。
清は坊ちゃんの性格をまっすぐでいい性格だと事あるごとに褒めてくれました。坊っちゃんにとっても清は心のよりどころであり、唯一の理解者でした。そうして坊っちゃんは中学校の教師となりましたが生徒達と良い関係を築けません。
坊ちゃんは街の中で天ぷらそばを4杯食べているところを生徒に見られて「天麩羅先生」とあだ名をつけられたり、宿直として学校に泊まっていると、生徒に宿直室に大量のイナゴを入れられるといういたずらをされたりしました。
ある日、赤シャツと野だいこに誘われて坊ちゃんは釣りに行きます。二人は坊ちゃんのことを少しバカにしていました。
天麩羅先生やイナゴのことをネタにして陰でこそこそと笑ってました。
・・・中略・・・
坊っちゃんは、事あるごとに他人を陥れる赤シャツの横暴ぶりに堪忍袋の緒が切れ、赤シャツをこらしめる計画を山嵐とともに立てることにしましたのです。
坊ちゃんは赤シャツと野だいこが芸者遊びをしているところを取っ捕まえようと山嵐と一緒に待ち伏せをします。
そしてついに朝帰りをする二人ををこらしめてやりました。坊っちゃんはその勢いでそのまま学校を辞めました。東京に戻った坊ちゃんは街鉄の技手となりました。そして、清を呼び戻して、清が肺炎で亡くなるまでずっと一緒に暮らしました。

3番目の写真は「東京物語」昭和28年(1953年)のポスターです。
監督 小津安二郎、主演 笠智衆 原節子でした。
尾道から子供たち3人のいる大都会東京に出てきた老夫婦の周吉(笠智衆)ととみ(東山千栄子)でした。長男(山村聡)は開業医、長女(杉村春子)は下町で美容院を営み、戦死した次男の妻紀子がいまし。
子供たちにはそれぞれの生活で忙しく、居場所がない老夫婦でした。ただ温かくしてくれたのは血のつながりのない紀子(原節子)でした。
複雑な思いで帰途についた二人でしたが、東京で疲れたとみが倒れてやがて息を引き取ったのでした。
尾道に皆が集まりましたが、葬儀が終わっても周吉の世話をしてくれたのが紀子(原節子)でした。「あんたはいい人じゃ」と周吉がいい、周吉から妻の形見だといって時計を渡されて、紀子は号泣する。紀子はやがて新しい人生を決めたかのように尾道から東京に戻る。周吉は一人残って尾道の海を静かに眺めていた。
ちょうど朝鮮戦争が休戦となったころでした。なんの変哲もない日常の家族を描いた「小津調」と今でも慕われる名画でした。

4番目の写真は「七人の侍」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 黒澤明、主演 志村喬 三船敏郎でした。
戦国時代も末期、豊作の村を毎年のように襲ってくる野盗集団がいました。村の長老は侍を雇って村を守ろうとしました。その熱意に答えて七人の侍が村にきます。村人の竹槍と共に七人は柵や堀に敵を導き討ち取り、やがて追い払ったのです。
当時この人馬あいうつ死闘などが、米西部劇より迫力があって面白いと評価されたのです。黒澤明監督は大成功をおさめました。もともと黒澤監督が尊敬していたジョン・フォード監督西部劇の影響も受けていたそうです。
配役はリーダーを志村喬、菊千代を三船敏郎、その他木村功、稲葉義男、加藤大介、千秋実る、宮口精二の七人でした。
この映画は後に焼き直されて「荒野の七人」としてハリウッドでもリメイク制作され大ヒットしたのです。ヴェネチア国際映画祭銀師子賞受賞しました。

5番目の写真は「二十四の瞳」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 高峰 秀子でした。
壺井栄の小説「二十四の瞳」が原作です。監督が木下恵介でロケは小豆島にある小さな分教場でした。そこの教師の大石先生を高峰秀子が演じました。時代は日本で不況がつづき、やがて満州事変、日中戦争へとまっさかさまに破局に向っていくような時代でした。島の若者も次々と出征して戦死、大石先生は軍人になりたいという教え子を「命を大切に」と諭しました。「アカ」との噂が立ちました。
やがて先生は若い遊覧船の機関士と結婚して3人の子供に恵まれました。しかし夫は召集されて戦死。そして敗戦、食糧難で娘も亡くなり、先生も変転を重ねていきました。
終戦後になって分教場に戻った先生は、かっての子供たちと同窓会をして集まります。昔は子供だった瞳が大石先生を見上げていた光景を思い出します。大人になった者が戦争中の苦しみを話します。出征し戦傷を負い盲目になったソンキが哀れです。昔の集合写真の一人一人を指で差しながら名前を言って行きます。その指が少しずれてさしています。この場面は涙を抑えることが出来ません。
日本が戦争に突入し、これに呑み込まれていった女教師と子どもたち、その苦難と悲劇から戦争の悲惨さと悲劇を描いた映画でした。

6番目の写真は「野菊の如き君なりき」昭和30年(1955年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 有田紀子 田中晋二 でした。
原作は歌人伊藤左千夫の小説「野菊の墓」です。木下恵介監督は自然豊かな北信濃で主人公政夫(田中晋二)と二歳年上の美しい従姉妹の悲恋物語を描いた映画です。
もう半世紀を経ていた主人公政夫(演じるのは笠智衆)は年老いてから恋人だった民子(有田紀子)の墓に野菊を供えにふるさとへ帰省し、そこで当時の回想に浸ったのでした。
そのころ政夫の母が体が弱いので、従姉妹の民子が住み込みで手伝いにきてくれていました。村の住民が妬むほど仲がよくて時に喧嘩もしますが、なにはばかることもないような仲の良さが、やがて恋に変っていきました。ところが政夫は旧制中学に進み、遠くで入寮することになったのでした。ふたりは霧の流れる渡し場で別れなくてはなりませんでした。
時が流れ、民子は政夫を忘れての結婚を説得され嫁ぎましたが、嫁いだ後も政夫のことが忘れられなかったので、婚家では疎まれ続け、やがて流産をして体を痛めた末に息を引き取ってしまいました。手には政夫の手紙と写真が握られたままだったのです。
昔の場所に戻った政夫は、あの頃に自分がリンドウで、民子は野菊の花のようと語り合ったことを思い出すのでした。
当時の時代が持っていた田舎特有の因習や貧しさから、天真爛漫の二人の恋は途絶えたのでした。
経済が復興から成長を始めた世相に逆らうような純粋で美しい悲恋物語でした。

7番目の写真は「無法松の一生」昭和32年(1957年)のポスターです。
監督 稲垣浩、主演 三船敏郎 高峰秀子 でした。1958年にベネチア映画祭グランプリを受けました。
この映画は、かって戦時中1943年に一度稲垣監督で映画になっていて、公開がちょうど学徒出陣のころで、戦局は負けの様相で、生活も窮乏を極めたころでした。
舞台は九州の小倉、独身の人力車夫松五郎(坂東妻三郎、1957年のリメイクでは三船敏郎)は飲む打つ買うの無軌道な男で曲がったことは大嫌いでした。
ある日堀に落ちてけがをした少年・敏雄(長門裕之)を助ける。敏雄の父親は陸軍吉岡大尉(永田靖)で、その性格を気に入られた松五郎はその家に出入りするようになりました。しかし大尉はやがて急病で亡くなり、後には良子夫人(園井恵子、リメイクで高峰秀子)と一人息子敏雄が残される。婦人は息子を強い男にしてほしいと松五郎に期待したのです。松五郎もやる気で張り切り、やがて夫人への思いが募りだしたのです。
敏雄はやがて剛毅に育つが松五郎が「ぼんぼん」と呼ぶのを嫌って離れだすのでした。祭りの祇園太鼓を情熱をこめて叩く松五郎は恋慕の表情だったが、暗い時代は恋慕の画面を検閲でカットしました。やがて衰えて死んでいった松五郎、その貧弱な遺品の中から、夫人と敏雄のために預金を貯めていた通帳を見つけ、夫人は松五郎の真情をこのときに気づき泣き崩れるのでした。
稲垣監督のリメーク版はカラーででした。その後、「無法松の一生」は舞台演劇や歌謡としてもたくさん上演されてきました。

以上ここには7つの映画だけをご紹介しましたが、他にも沢山名作がありました。戦後の約30年間は映画全盛の時代だったのです。

「久しぶりに長駆し相模湖と桂川の写真を撮りに行った」

2021年06月29日 | 写真
今日は久しぶりに遠方までドライブしました。相模湖と桂川の写真を撮りに行ったのです。桂川は富士山の山中湖から流れ出て相模湖へそそいでいます。はじめに相模湖の写真を撮り、その後で上野原市の桂川の写真を撮りました。写真をお送り致します。緑豊かな水辺の風景をお楽しみ下さい。

1番目の写真は相模湖のダムのある方向の風景写真です。

2番目の写真は相模湖の反対方向、上流方向の風景写真です。

3番目の写真は上野原市の崖下を左の方向へ流れている桂川の風景です。岸辺に点々と鮎釣りの人が並んで熱心に釣っています。

4番目の写真は流れの中に入っている鮎釣りの人です。
こんな風景写真をご覧になり寛いだ気分になって頂きたいと祈っています。

「日本人は何故アメリカ人に親しみを感じないのか?」

2021年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
私はブログにいろいろな話題で記事を書いています。その中にはアメリカ人を褒めた記事や欧米人の良い考えを書いた記事もあります。そうすると必ずのように欧米人を非難したコメントを頂きます。それはそれで良いのですが、多くの日本人は欧米人を憎んでいるような感じがします。この点が気になります。何故か間違っているのです。
そこで何故私がアメリカ人に親しみを持っているかあらためて考えてみました。
その原因はどうも若い頃のアメリカ留学にあるようです。
そこで今日は若い時の米国留学で私の受けた影響を簡略に書いてみたいと思います。そうすれば「日本人は何故欧米人に親しみを感じないのか?」という問いの答えになると思います。

老人になった私は今更ながらアメリカ留学の影響の深さを感じています。それは心の底に眠っていて、時々頭をもたげるのです。私は無意識のうちにアメリカ留学の体験が自分の判断を左右していることに気がつきます。
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。当時のアメリカ人は敗戦国の日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。
ですからアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
例えば博士過程で私が実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
そして学科主任のフォンタナ教授が「頑張っているね」「良い成果をあげた!」などと励ましてくれたのです。

1番目の写真はロードホールという建物です。この建物の一階の右端の部屋にその実験装置を作りました。

2番目の写真は親切だった学科主任のフォンタナ教授の部屋のあった建物です。彼が寄付をした建物なのでフォンタナ実験室と言う名前がついていました。
玄関を入ってすぐ右側に彼の部屋があり、ヘレンという秘書がいつも親切にしてくれました。経験豊富で優しさに溢れた女性でした。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオ州のコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。

3番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ生後6か月の長女を家内が抱いて行った帰り道で車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。
ここでオハイオ州の田舎に似た風景写真を2枚示します。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。

4番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行く道に似た風景です。

5番目の写真はトウモロコシ畑の収穫後に似た風景です。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回経験しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。
例えばベトナム戦争の時もアメリカ側を心情的に応援していました。枯葉剤の散布や村落を焼き尽くすような残酷な戦争行為には心を痛めましたが、ベ平連の反戦運動には参加しませんでした。
私は戦争には絶対反対ですが、アメリカのする戦争をつい好意的に見てしまうのです。自分自身が矛盾しているのです。
以前この欄に狩猟の趣味について好意的な記事を掲載しましたが、それも狩猟が趣味として受け入れられているアメリカの影響を下敷きにした考えだったもかも知れません。しかし狩猟は日本社会ではあまり歓迎されない趣味のようでした。
このように私の考え方はアメリカの影響を無意識に受けているのです。
誤解を避けるたに書けばアメリカの影響は全てが良いものではないと判っています。当然、悪い影響もあったと思います。

それはさておき、もう一つの影響は私が愛国心を持つようになったことです。私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じっているアメリカに住んだからです。アメリカで生活していると自然にそんな気持ちになるのです。

さて最後に「日本人は何故アメリカ人に親しみを感じないのか?」という問いの答えを考えてみます。その一番大きな原因はアメリカや欧米のどこかの国に住んだ経験の有無なのです。住んだ経験があればアメリカ人や欧米人に親しみを感じます。住んだ経験がなければ親しみを感じません。多くの日本人は住んだ経験がありません。多くの日本人がアメリカ人や欧米人に親しみないのは自然ではないでしょうか。これも地球上の自然現象の一つなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「はるか多摩の横山の向こうの田圃の写真を撮りに行く」

2021年06月28日 | 写真
東京の府中市から西に延びる多摩の横山の尾根に立派な自動車道路が走っています。時々ドライブを楽しむ場所です。昨日ははるか多摩の横山の向こうの田圃の写真を撮りに行って来ました。その向こうにある田圃は町田市の郊外です。
田圃のまわりにヤブカンゾウとアジサイが咲いていました。写真をお楽しみけたら嬉しく思います。









「中国の共産党員の人権と国民の人権の大きな格差」

2021年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから中国には人権が無いと言います。しかしこのような認識は大間違いです。ただ共産党員の人権と一般国民の人権には大きな格差があります。
そこで今日は中国社会における人権のあり方の実態を考えたいと思います。共産党員は幅広いの人権を有し一般国民は政府に管理された限定的な人権を有しているのです。この格差をご紹介したいと思います。
さて私は偶然に中国の共産党員と非常に親しくなりました。北京の周栄章さんと瀋陽の金応培さんです。この2人のお陰で中国社会の実態をかなり深くかつ詳細に知ることが出来たのです。それは1980年代のことでした。
中国の社会情勢は以下のようないろいろな時代によって激しく揺れ動きました。
(1)1949年10月の天安門上での毛沢東による建国宣言した頃の時代。
(2)1966年から1976年までの毛沢東主導による文化大革命という内戦の時代。
(3)1976年4月の周恩来追悼に端を発した第一次天安門事件以後の時代。
(4)1989年6月の胡耀邦追悼に端を発した第ニ次天安門事件以後の時代。
(5)2012年11月の習近平が胡錦濤氏から中共総書記を受け継いだ以後の現在の習近平の時代。

これら5つの時代によって中国社会における人権のあり方も大きく揺れ動きました。
大雑把に言えば比較的に人権が尊重された時代は(3)と(4)でした。
人権が比較的あったのは周恩来の時代、鄧小平の時代、胡耀邦の時代、胡錦濤の時代でした。

しかし何時の時代でも共産党員は幅広い人権を有し一般国民は政府に管理された限定的な人権を有していたのです。この格差を具体的に示してみましょう。そのためには人権というものを以下のように具体的に考える必要があります。
(1)生きるために必要な最低の衣食住を獲得する権利。(個人の財産権も含む)
(2)政治家を投票によって自由に選らべる権利。
(3)政府による検閲が無く新聞やテレビが自由に政治的発言をする権利。
(4)デモや集会を自由にしても良い権利。
(5)職業を自由に選べる権利。
(6)外国旅行を自由にして良い権利。
(7)移住を自由に選らべる権利。
(8)同性婚も含めて結婚相手を自由に選らべる権利。
(9)どんな宗教でも選らべる権利。
(10)宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を自由に選らべる権利。
(12)その他いろいろな個人の権利。
この様に具体的に書き出してみると人権にはいろいろな種類があって人権と纏めて議論することの間違いが明快に分かります。
それでは中国の特権階級である共産党員の持っている権利を示します。
共産党独裁国では上記の(2)(3)(4)は厳禁されますが、その他の権利を持っています。しかし一方一般国民は(5)職業を自由に選べる権利や(6)外国旅行を自由にして良い権利や(7)移住を自由に選らべる権利は厳しく制限されています。そして勿論、上記の(2)(3)(4)は厳禁されています。
中国では下記の権利は共産党に逆らわない限り広く認められています。
(8)同性婚も含めて結婚相手を自由に選らべる権利。
(9)どんな宗教でも選らべる権利。
(10)宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を自由に選らべる権利。
それでは何故共産党員と一般国民の間に差別があるにでしょうか?
それは共産党員は生まれつきのエリ-トであり一般国民はそのエリートの指導を受ける社会体制になっているのです。
生まれつきのエリ-トは小学校、中学校、大学の成績優秀な者から掬い上げていきます。家系は重視せず成績だけで決めます。そして大学を優秀な成績で卒業した共産党員を社会の教育界、経済界、芸術分野、宗教の分野などあらゆる分野へ指導者として送り込むのです。共産党員になるには学校の成績が優秀あることが絶対条件です。共産主義思想の強弱はあまり重要では無いのです。
こうして中国の共産党独裁の社会が出来ているのです。一部の日本人は中国の共産党独裁はそのうち崩壊すると言います。しかしそれは楽観論に過ぎません。困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は中国ウイグル自治区のカシュガルの風景写真です。出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/27775/ です。女性の写真の出典は、 https://atarashi-fasshon.blogspot.com/2020/06/blog-post_94.htmlです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「欧米人の人権とアジア的人権は大きく違うのです」

2021年06月27日 | インポート
人権とは何でしょうか?あなたは明快に説明出来るでしょうか?
よく人権は「人間が人間らしく生きる権利で全ての人間が持っている権利」と言われています。この言い方は抽象的で意味が分かりません。
そこで人間が人間らしく生きる権利を次のように具体的に書いてみます。
(1)生きるために必要な最低の衣食住を獲得する権利。(個人の財産権も含む)
(2)政治家を投票によって自由に選らべる権利。
(3)政府による検閲が無く新聞やテレビが自由に政治的発言をする権利。
(4)デモや集会を自由にしても良い権利。
(5)職業を自由に選べる権利。
(6)外国旅行を自由にして良い権利。
(7)移住を自由に選らべる権利。
(8)同性婚も含めて結婚相手を自由に選らべる権利。
(9)どんな宗教でも選らべる権利。
(10)宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を自由に選らべる権利。
(12)その他いろいろな個人の権利。

この様に具体的に書き出してみると人権にはいろいろな種類があって人権と纏めて議論することの間違いが明快に分かります。
それでは欧米人の考える人権と独裁国家の人々とイスラム教国の人々の人権を別けて書くと次のようになります。
(1)欧米人の考える人権とは上記の(1)から(12)の全て。
(2)軍事独裁国や共産党独裁国の人権は上記の(2)(3)(4)は厳禁されます。
(3)イスラム教国では上記の(9)(10)(11)は当然ながら厳禁されます。
尚その他の(5)(6)(7)(8)のような項目は皆様ご存知のように国々のよって差異があります。

このように具体的に書くと欧米人の考える人権は絶対的な価値が無く重要でないとも考えられます。
つまり欧米人の考える人権はアジア人の考える人権とは非常に違うのです。
この主張を強く宣言したのが1993年の「バンコク宣言」です。
人権の普遍性に真っ向から対立するこの主張は次のようなものです。
(https://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2010/03/post-10.html )
冷戦後、はじめて開催される「世界人権会議」の準備のため、アジアで開かれた地域会合で、いくつかの国の政府代表者が「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」と強力に主張したのです。
その結果、人権とは相対的なもので、アジアでは国家の社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきだという主張に賛同が集まったのです。
そして人権は国内問題であるから欧米や外部の介入は許されるべきではないという主張が強くなされたのです。
この結果この主張を書いた「バンコク宣言」が採択されたのです。
これらが「アジア的人権論」と呼ばれる考え方なのです。
この「アジア的人権論」が出来た原因には次の2つの深い理由があるのです。
(1)発展途上のアジア諸国では欧米人の考える人権では内戦が起き餓死者が多くなるという切実な理由。
(2)欧米人の考える人権はイスラム教や仏教やヒンズー教に違反している。
例えばお釈迦さまはこの世の全ては空なのだから私欲を捨てて悟りの境地へ入れと言いました。私欲を満足させるような人権は捨てるべきなのです。
「バンコク宣言」はアジア人の叫びなのです。

しかし私は最後に1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したいと思います。
アムネスティ・インターナショナルは世界中で起きている人権侵害の存在を知り、「苦しんでいる人を助けたい」と願う人びとが集まり結成されたのです。
誰もが紛争や貧困、拷問、差別などの人権侵害で苦しむことのない世界の実現を目指しているのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/アムネスティ・インターナショナル )
独裁政権下のポルトガルで学生2人がカフェで「自由のために!」と、乾杯したために逮捕されたことに対して、1961年5月28日の新聞に英国の弁護士、ピーター・ベネンソンが記事を投稿したことをきっかけに多数の人々の支持を得てアムネスティ・インターナショナルが発足したのです。
その組織は国際連合にならって編成されており事務総長が組織全体の総責任者となっています。
アムネスティ・インターナショナルは1976年にエラスムス賞を受賞し、1977年にはノーベル平和賞を受賞しました。また翌年の1978年には国連人権賞も受賞しています。
アムネスティを私が讃える理由はその活動が一切の政治権力と関係なく「苦しんでいる人を助けたい」という願いで活動を行っているからです。
この政治的中立性故に、幾つかの国々の政治権力者がアムネスティを恐れています。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日小金井公園で撮ったタチアオイの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日の 年間第13主日のミサの動画の紹介」

2021年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は年間第13主日です。
2021年6月27日の10時から始まるミサのカトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。
カトリック関口教会、https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw

聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


写真は全世界のカトリックの本部のヴァチカンの風景とフランシスコ教皇のお姿の写真です。





「鬱陶しい梅雨の季節はゴッホの絵を見て元気を出す」

2021年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨の季節は鬱陶しく気分の悪い日が多いものです。こんな季節にはゴッホの力強いタッチの絵を見ると元気が出てきます。何故か生きる勇気が湧いてきます。絵を描き続けたゴッホのエネルギーを想像すると元気が湧いてきます。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)は、オランダに生まれ、主にフランスで活動した後期印象派の代表的画家です。37歳で夭折した天才でした。
ゴッホが画家を志したのは、27歳になった1880年のことです。ブリュッセルでデッサンの勉強を始め、1881年、28歳の時にに実家の自宅に画室を作ったのです。それまでは職を転々としていたのでした。ですからゴッホの画家としての活動はたった約10年間と短いものでした。その10年間で描いた油彩は900点であると言われています。しかし生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。
現在でこそ極めて高い評価を得ていますが、不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。そして現在有名な傑作は晩年の2年半に集中しているのです。
今日はフィンセント・ファン・ゴッホの油彩画を12点お送り致します。鬱陶しい季節ですが皆様お元気にお過ごし下さい。

1番目の写真は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。
この油彩画はかれの初期の作品で、1885に描かれました。それはキリスト者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。
しかしこの画風は続きませんでした。1886年に、ゴッホはパリの弟テオのところに同居します。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどの作品を目の当たりにしたのです。
華やかな印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に活き活きした色彩へと変貌したのです。1番目の暗い画風から2番目以降の作品の印象派らしい明るい作風へ大きく変化したのです。

2番目の写真は1887年の「春の釣り」です。

3番目の写真は1888年の「ひまわり15本」です。

4番目の写真は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。

5番目の写真は1888年の「夜のカフェテラス」です。

6番目の写真は1888年の「黄色い家」です。

7番目の写真は1888年の「アルルの跳ね橋」です。

8番目の写真は1888年の「ファン・ゴッホの寝室」です。

9番目の写真は1889年の「星月夜」です。

10番目の写真は1890年の「麦畑」です。

11番目の写真は「カラスのいる麦畑」です。この作品は、ゴッホが拳銃自殺を図った1890年7月に完成されたもので、「巨匠最後の作品」です。

12番目の写真は1888年11月にゴッホによって描かれた絵画、『赤い葡萄畑』です。
生前に売れた唯一の絵でした。ベルギーのブリュッセルで行われた展覧会「20人会展」に出品され、ゴッホのアルル時代の友人でもあったベルギーの詩人のウジェーヌ・ボックの姉で女流画家のアンナ・ボックが400フランで買ったのです。
ゴッホの絵画については解説は不要です。見れば何故か心が揺さぶられるのです。
解説ではなく一つだけ私の体験的な感動を書かせて下さい。
それは中年の頃、アメリカの中西部のある町で研究の仕事をしていた時のことです。そこの市立美術館にゴッホの絵が2枚だけあったのです。
仕事に行きづまり、落ち込んでだことが何度かありました。そのたびにゴッホの絵を見に行ったのです。感動しました。胸が熱くなります。勇気が湧いてきます。また研究に対する情熱が燃えたのです。
ゴッホの傑作は何点も以前にフランスの美術館で見ていました。アメリカのその町の市立美術館の2点は決して良い出来ではありませんでした。しかしその筆使いと部分的な色彩が、以前に見た感動的な作品を瞬時に眼前に再現してくれるのです。
絵画から勇気を貰い研究に対する情熱を貰った経験は生涯一度だけでした。

今日はゴッホの絵を沢山みながら自分の好き12点を選びました。それは実に楽しい仕事でした。こころよい静かな時間がゆっくり流れて行きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「初夏の風物詩、蓮の花が今年も咲きました」

2021年06月25日 | 写真
小金井の真蔵院の蓮の花が今年も咲きました。初夏の風物詩です。さっそく行って写真を撮って来ました。
小金井だけでなく、全国のお寺の境内や各地の城のお堀にも咲いていると思います。
幻想的な色の蓮の花は心に沁み込みます。そしてまた今年も夏が来るのです。
今撮って来た蓮の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。









「親兄弟、友人が消えて行く悲しみ、甲斐駒岳だけが残った」

2021年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は深い群青色の悲しみです。そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
その一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。
その別荘地では、25人くらいのメンバーで「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。50年ほど前のことです。毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。

1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。別荘地のある場所は麓の深い森の中です。森が少し平らになっている場所です。木を伐採して別荘地にしたのです。この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を数軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に遊びに行き他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を育てていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。最後の年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度もしていたものです。その中川さんは娘の自慢話をした直後に亡くなりました。2008年の初夏に旅立ってしまったのです。

2番目の写真は別荘地への入り口の田圃の写真です。中川さんが亡くなった直後です。初夏の田植えの頃でした、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。

3番目の写真は別荘地へ上って行く道です。美しい雑木林の中の道です。
この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。彼も旅立ってしまってもう10年くらにになります。懐かしい人です。
懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まずバケツで多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。ブドウの皮には天然の発酵菌がついているのです。水で洗っていない規格外のブドウを買って来るのが鉄則です。これは密造です。別荘地にも官憲が摘発に来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう20年になります。

こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。気がついてみると、友人たちが次々と消えて行き、そして甲斐駒岳だけが残ったのです。甲斐駒岳だけが何事も無かったように静かに見下ろしています。すべては邯鄲の夢です。
この別荘地の東の丘に乳牛の牧場と大きな養鶏場がありました。牧場主の石原さんと養鶏場のおばさんと非常に親しくなり随分とお世話になったものです。
養鶏場のおばさんは花が好きで冬以外は庭の花や門の外の道端にも花々を絶やしませんでした。
昔はご主人も元気で養鶏をしていました。普通の卵の2、3倍大きい種卵を何度も貰い、山小屋の朝食が豊かになり楽しかったものです。栽培した椎茸や野生の胡桃なども頂き、幼かった子供たちが珍しがって大喜びしました。
しばらくして訪ねると、小母さんが独りいて、「主人はこんなふうになりました」と新しい仏壇を指さします。
それから茫々35年の2008年に久しぶりに寄ってみました。当時、重機の運転をしていた息子が出て来て、小母さんは元気だが、定期検査で留守だという。昔話をしてから相変わらず沢山咲いている花々の写真を撮らせてもらいました。梅も櫻も、そして棚の藤も散った後でしたが、ジャーマンアイリス、オオデマリ、デージー、ボタンなどが咲き誇っています。
そして時が流れ2019年の4月にまた行きました。門が鎖で厳重に閉まっていて人の気配がありません。鎖で厳重に縛ってある門の向こうには花の無い庭が荒れた様子です。
あの花好きだったおばさんも旅立ったのでしょう。2008年に息子さんに会ったのが最後になりました。

4番目の写真は2008年におばさんの庭で撮ったジャーマンアイリスです。

5番目の写真も2008年におばさんの庭で撮ったアイジサイです。
このおばさんの他、乳業の牧場をしていた石原さん一家にはいろいろとお世話になりました。そのことを書いていたら長い話になるので今日は止めておきます。

それにしても月日の流れは年々早くなります。甲斐駒岳の麓の別荘地で知り合った人々が旅立ってからもう10年くらいになるのです。
親兄弟、親戚、恩人、友人が旅立ってからも随分になります。老境の悲しみはこれらの人々が一人、また一人と旅立って行くことです。
私の邯鄲の夢も間もなく店仕舞いです。でも満足です。何故か嬉しい気分です。感謝の気持ちが心を明るくしてくれるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「外国の壮大で美しい花畑の写真をお楽しみ下さい」

2021年06月24日 | 写真
外国は一般に日本より広い国々があります。土地が広いので日本で見られないは壮大な花畑があります。そんな風景写真をあれこれ探していたら高井 章太郎さんの「大地を覆い尽くすファンタジー、世界の絶景お花畑」という写真集を見つけました。URLは、https://welove.expedia.co.jp/destination/17245/ です。
その中から5枚の写真を選んでお送り致します。写真をお楽しみ頂けたら幸いです。

1番目の写真はニュージーランド南島きっての美景スポットのテカポ湖です。初夏に咲くルピナスで有名です。紫やピンク、白のルピナスが咲き乱れる華やかな風景は見事です。

2番目の写真はアメリカの西海岸、カールスバッドの丘が色とりどりのラナンキュラスに覆われた風景です。フラワー・フィールドという公園に広がる花畑は、なんと20万㎡(東京ドーム4個以上)あります。赤や黄、白、オレンジなどに色づいた花畑が見渡すかぎりどこまでも続いています。

3番目の写真は南仏プロヴァンスの内陸のラベンダー畠です。あたり一面を鮮やかな紫に染まっいます。
ラベンダーは日本でもアロマオイルで有ですす。ほのかに甘いアロマが、不安や緊張感を和らげリラックス効果をもたらすといわれています。

4番目の写真は荒涼とした大地が広がる南アフリカの北ケープ州にある天然のフラワーパークです。8~9月に雨が降ると、土の下に眠っていた植物が一斉に芽を出し、カラフルな花畑に変わります。数週間だけ出現する天然のフラワーパークです。

5番目の写真はスペイン南部のアンダルシア地方のヒマワリ畑です。さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びた大輪のヒマワリが、地平線までびっしりと大地を覆っています。この時期のアンダルシアは気温が40度を超える日も多いのです。雨が少ないためヒマワリの開花は5月末から6月くらいまでにピークになります。

「昭和時代の憧れ、ロールスロイス、ベンツそしてシャネル、ルイヴィトン物語」

2021年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
何時の時代も人の心は有名なブランドの名前に対して憧れを感じるものです。そして有名なブランド名のついた品物を尊重し大切に使います。
今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致したいと思います。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
はじめは英国の栄光を示すようなロールス・ロイス社の自動車です。
古い日本人の憧れの車はロールス・ロイスでした。昭和天皇も長い間ロールス・ロイス車に乗り、戦後の地方巡幸でも乗って行きました。その車は現在、昭和記念公園にある昭和天皇記念館に展示してあります。

1番目の写真は昔のロールスロイスです。写真の出典は、https://pulin.hateblo.jp/entry/20101230/1293667641 です。
この乗用車は信頼性の高い高品質な高級車でした。日本が輸入した数も限られていて、昭和天皇や一部の大金持ちしか乗れなかったのです。ですから人々は一生に一度は乗ってみたいと憧れていたのです。
私自身も戦後、東京の街でたまにロールス・ロイスの走る姿を見て感激したことが数回あります。しかし一度も触ったことがありませんでした。
しかしロールス・ロイスという会社は日本の高度成長期に経営難にあえぎ、1971年にはイギリスの国営会社になりました。
そして紆余曲折のあと、1998年にはドイツのフォルクスワーゲン社に買収されてしまったのです。このニュースを新聞で読んだ時、私は大英帝国の凋落を実感し、その栄枯盛衰の激しさに悲しい思いをしたものです。
その後いろいろありましたがロールスロイス車の製造、販売権はドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)が保持しています。
現在の日本人はロールスロイス車を忘れたように誰も話題にしません。
さて一方、ドイツのベンツも憧れの的でした。

2番目の写真は疾駆しているベンツの写真です。出典は、https://openers.jp/car/car_features/s15xl です。
1926年にベンツ社が発足しました。以降社名はダイムラー・ベンツ(1926年-1998年)、現在はダイムラー(2007年-)と変更されてきました。現在ドイツのシュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車の製造、販売を「メルセデス・ベンツ」で展開しています。
私は家族連れで1969年ー1970年にシュトゥットガルトに留学したので、その間にベンツの工場見学しました。ベンツ・ミュージアムも見ました。木製の車輪からゴムのタイヤに移る過程が何段階もあるのが子供達にも分かり易く展示してありました。
現在、日本ではベンツは300万円台から販売されており、同クラスの日本車に比して高価格です。欧州ではタクシー用に使われています。
車の話をしていると長くなりますので次はご婦人方の憧れのシャネル、ルイヴィトンの話に変えます。
さてシャネル社の創業は1909年でありルイ・ヴィトン社は1854年です。どちらもパリでの店が隆盛をきわめ、フランス文化のしゃれた華麗さが魅力になっています。

3番目の写真はフランス文化のしゃれた華麗さが溢れるファッションショーの写真です。
シャネルとルイ・ヴィトンはフランス文化を背景にして商品のイメージを高め、世界中の女性の心を掴んでいるのです。

4番目の写真は香水のシャネル5番です。昭和時代は外国出張のお土産品としてよくこの香水を買って来たものです。私も妻に何度か 買って来ました。
しかし現在は香水を使う人が居ません。もう日本人はシャネル5番をすっかり忘れてたようです。

5番目の写真はルイ・ヴィトンのハンドバックです。ルイ・ヴィトンのHPからの写真です。(ULouisvuittonfashionshowcampaignlv_w )
ルイ・ヴィトンのハンドバックは現在でも世界中で売れています。ルイ・ヴィトンでは様々な大きさの旅行鞄など出しています。
それにしても販売価格が高すぎると思います。高ければ高いほど売れるそうです。購入する女性の虚栄心が少し関係しているようです。
それはさておき、美しい夢を売っている商品です。世界の経済が発展すれば、ますます隆盛する一分野と考えられます。

今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致しました。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
===シャネルの起業、ルイヴィトンの起業などについて========
(1)ココ・シャネル(1883年 - 1971年)の活躍:
前の部分は省略します・・・・その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。1918年に、第一次世界大戦が終戦。・・・以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB にあります。

(2)ルイ・ヴィトン(1821年 - 1892年)の起業と死後の隆盛:
前の部分は省略します・・・・ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイが亡くなった後のことである。ヴィトン社はまず「グリ・トリアノン・キャンバス」(Gris Trianon) というトランク工場として創始された。このトランクは灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものであった。1854年、ルイはエミリー (Emilie Clemence Pariaux) と結婚、同年、世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。3年後の1857年には息子のジョルジュ (Georges Vuitton) が生まれた。
1859年、アニエール=シュル=セーヌに最初のアトリエを構える。

1860年、ヴィトン社は需要に押されて規模を拡大した。1867年、万国博覧会で銅メダルを獲得。これにより世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注した。また、当時世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からもトランクの注文を受けるなど、主にスラブ、ラテン系王侯族に重用された。

トランクの上から布地を貼るというルイの技法は賢明であったが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ルイは別の布地を使うようになった。この布地は、「Striped Canvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地である。しかし、これもすぐにコピー商品が出回ることとなった。・・・・・

以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3 にあります。

「ポーランドの淋しい原野に咲く夏の花の写真をお楽しみ下さい」

2021年06月23日 | 写真
ポーランドに在住している日本人のブログからお借りし写真です。ブログは、https://larciatoja.blog.fc2.com/blog-category-5.html です。淋しい原野に夏の花が静かに咲いています。そんな夏の花の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真はポーランドの原野にキバナムギナデシコの花が咲いている風景です。

2番目の写真はヤシオネ・モンタナ または英語名からシープスビットです。ヨーロッパ原産の野草で 乾いた砂地や岩場のような所を好みます。

3番目の写真はヨーロッパ原産のブタナです。原野に群生しています。

4番目の写真はヤシオネ・モンタナです。この国の夏は乾いているので乾燥で枯れかけた所もあります。

5番目の写真はヤシオネ・モンタナの拡大写真です。細長い茎にぼんぼりのような花が咲きます。 細長い花弁の先端の赤い部分が更に開いて 極小の白い花がおまけのように付きます。

それにしても日本では写真のような草原は無くなってしまいました。昔はタンポポやレンゲの花が咲いている草原が存在していました。その草原に寝転がって遊んだ記憶があります。遠い昔の思い出です。