(1) 39歳、ガンで逝った織田美保子さんの遺稿集の書評(1)分かりやすい文章、美しい日本語、(2)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(2)結婚しようとしている男性、夫婦生活をしている夫が読むべき書
上の2つの記事は「風を愛したひと」という本の書評です。取り澄ました冷静な書評です。しかし私の本当の気持ちを書きませんでした。書けば感情的に取り乱した意味不明な書評になってしまうからです。今回は取り乱した私の感情の動きを書きます。そしてそんな悲しい、辛い思いをして何故この本を読むべきかという理由を整理してご説明いたします。
まずこの本の著者をご紹介いたします。織田美保子さんの遺稿が4割ほどのページ数を占めています。そして夫の寧人さんの病状の進行の説明と折々の感想文や詩が4割ほどです。あとの2割位のページは美保子さんの数多くの友人からの手紙です。
ですから著者は織田美保子、織田寧人、友人達の共著なのです。編集を担当したのが織田寧人さんです。
38歳で胃ガンになり転移がどんどん進み、39歳で亡くなった織田美保子さんが苦しい、痛い、病状を克明に書いています。全身の痛さと辛さで叫びたいほどです。次第に身が痩せ細っていきます。中学生の娘と小学生の息子を残して逝ってしまう無念さが行間に溢れています。毎日のように見舞いに来て、泊って行く夫とも間もなく別れるのです。その事だけを読んでも涙が流れ落ちます。
その上、夫の書いた文章や詩がせつせつとして悲しみに満ち溢れています。何故こんな残酷な試練を神が下すのでしょうか。涙無しには読み進めません。私はカトリックの信者ですが、今回ほど神様のことが分からなくなったことがありません。神様はあまりにも無情です。何故かくも善良な人だけを選んで苦しめるのでしょうか?
そして本当に数多くの友人達が毎日お見舞いに行きます。見舞いの手紙をくれます。その手紙にまた泣けるのです。どんなに友情が篤くてもガンの進行は止められません。見舞いに行く度に美保子さんの身は細く、細くなって行くのです。病床で身の置き所が無い位苦しんでいる様子が分かります。友人みんなが病室を出たとたん泣きながら帰って行きます。
この本を読むと悲しさで辛くなります。涙が流れ慟哭したくなります。
それでは何故そんな辛い思いをしてまでこの本を読むべきなのでしょうか?
読めば自分が死ぬときの状況が分かるのです。いさぎよく死ぬための心の準備が出来るのです。そして39歳以上長生きした全ての人々は自分の幸運さが分かるのです。感謝の気持ちが心を支えてくれるのです。この二つが辛い思いをして読んだことに対する報酬なのです。大きな、大きな報酬です。
しかし私はもう一つの事を考えています。
この「風を愛したひと」という本を手にとって読んでは机の上に置き、また手にとって読みます。そうすることが亡くなった美保子さんの供養になるのです。私は宗教を時々信じていますから、供養になると確信しているのです。
美保子さんの供養になれば夫の寧人さんも心安らかになります。遺族の方々の心がなごみます。美保子さんの友人達も少しだけ心がなごみます。
この本の入手方法は、http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/kazeai.htm に御座います。「風を愛したひと」を検索するとこのURLが出て来まして、織田寧人さんへのメールが送れます。
是非多くの方がこの本を読んで下さい。あなたの為になるだけでなく、美保子さんの供養になるのです。
下の写真は夫の寧人さんのブログからお借りしました。
この10月29日にTadnobleという方へ愛艇を譲りわたし、いさぎよくヨットを止めました。
26年間にわたりヨットの趣味を楽しみました。その間、本当にいろいろな方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無く終える事が出来たのです。
ヨットを通しての友人達と、もうお会いすることもありません。お別れの手紙を送りたいと思いますが、今日はある一人の方への手紙を書きました。
Hootaさんという方です。3年ほど前に彼の艇を訪問し、一晩ビールを飲みました。それから駿河湾で素晴らしい帆走に誘ってくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の大型艇、Bambino で東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方です。
そのBambino号は千葉県の保田港を母港にしていました。遠路を車で行き、やっとたどり着きました。 3年半前の春の暖かい日でした。
彼は他のヨット乗りをまじえて4人で木造艇のニスをサンドペーパーで落とす作業をしていました。古いニスを丁寧に落とし、新しいニスを塗る作業です。職人のように丁寧な仕事ぶりです。
夕方からはHootaさんと2人だけでビールを飲みながら歓談しました。
私は、「このような豪華なヨットにのっている人々は別世界の人のような気がしますが?」と、彼に聞きました。
「皆さん、普通の人々です。生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」。
私は何となく安心して、Hootaさんと気持ち良く冷えたビールを楽しみました。時折波が来て静かに船を揺らしてくれます。マホガニーで内装したキャビンにはいかにも帆船らしい古風な電灯がついています。気分が良いので夜遅くまで飲んで、それから私は陸に上がって近くの旅館に泊まりました。彼はヨットの中の寝室に泊まったのです。
Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。安定した職業をサラリと止めて、黒姫山に住んでいるニコルさんが主宰していた「レンジャー養成学校」の先生になりました。
ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。初めて保田港でお会いした当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。
千葉県の内房総の保田漁港に係留してある大型北欧風ヨット、Bambinoの保守管理を任されていました。
話題は16歳のとき、ヨットを指導してくれた師匠の素晴らしさ、ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫に造成した美しい林のこと、東京ベイヨットクラブを主宰しているK氏の卓見などなどでした。
全ての出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだ、と感じました。奥様の話も出ました。法務省に務めているそうです。結婚のいきさつなどを楽しそうに話してくれました。
始めは夕陽を見ながら甲板で飲んでいました。夜になったので、美しいキャビンの中で飲み合いました。そしてこの北欧の大型ヨットで是非一緒に帆走しませんかと招待してくださったのです。その約束は後に駿河湾で実現しました。
下に初めて一緒に飲んだ時の夕陽の写真、Bambinoの写真、Hootaさんの写真などを示します。
北海道の洞爺湖の傍に昭和新山があります。
昭和18年から20年の2年間で17回もの火山爆発が起き、平らな麦畑に突如火山が出来たのです。土地の郵便局長だった三松正夫さんが火山一帯を購入し、私有地にしました。毎日、観測し、火山の成長を観測したことで世界中の地質学者の間で有名になりました。彼が描いた「ミマツ・ダイヤグラム」は、その火山の成長ぶりを図面で示したものです。現在、昭和新山の麓に「三松正夫記念館」があります。
昭和新山の麓から有珠山の頂上までロープウェイがあり、それに乗ると昭和新山を見降ろすことが出来ます。洞爺湖も見えます。
今回は有珠山へロープウエイで登りました。昭和新山の写真の下に有珠山の写真を示します。有珠山は昭和新山の向かい側にある高い火山です。昭和新山よりは古い山ですが、それでも比較的新しい火山です。
それにしてもこのような巨大な火山が2年間で出来、それを人間がまじかに見ていたという事は驚きです。奇蹟の山と呼ばれる所以でもあります。地質学の上での驚異的な観察結果です。このようにして日本中の火山が出来ていったのです。感慨深いものがあります。
織田美保子さんは27年前の1984年に39歳で亡くなりました。夫の寧人さんはすぐに遺稿集を出版し、27年経過した現在でもこの本を多くの方々に読んで頂きたいと思っています。私も是非、一人でも多くの方々に読んで頂きたいと思います。
その理由は幾つかありますが、今日はその中から一つの理由を書きます。
「結婚して夫婦生活を始めた男性はどのように妻に接すべきか?」。この疑問に対して具体的に幾つかのことが書いてあります。それは織田美保子さんが夫へ要求しているのではありません。夫との愛情に満足し、幸多い生活をしているのです。そしてどういう時、幸せと感じたかを書いているのです。
世の中の男性はその文章を考えれば、妻をより幸せにする為にどうすれば良いかが理解出来るのです。いきなり具体的なことを書いてすみません。例えば夫婦で寝ているとき妻は手を伸ばして夫の体に触りながら寝ると幸せなのです。その手を振り払ってはいけません。そのような事が随筆風にさりげなく書いてあります。
夫の寧人さんと職場で知り合い結婚するまでのいきさつが短編小説風に書いてあります。寧人さんの男らしさに魅かれて結婚したようです。私は数日、「男らしさ」とはどういうことかを考えています。
「夫婦」と題したミニ随筆では街で偶然みた老夫婦が乗るべきバスを探して走っている様子を水彩画のようにスケッチしています。そしてその老夫婦の姿に自分達の日常生活を重ねて、少しだけ書いています。夫の趣味は若い時から鉄道写真を撮ることだったことが理解できます。妻はそれを受け入れ、協力しているのです。
自分達の夫婦生活から、一歩はなれて遠くから眺めて折々の感想をミニ随筆として書いています。「夫は妻を愛しなさい」とか「妻へ優しく接しなさい」という言葉は出て来ません。そのような直接的な表現が無いだけに男性のすべきこと一層明快に分かるのです。
「出城」と題するミニ随筆では城跡の大きな石を見ながら息子との楽しげな会話が書いてあります。息子へ対する切々たる愛情が感じられます。
さりげない書き方は苦しい病床から眺めたお医者さんや看護師さんたちへも変わりません。誰をも好意的にみているのです。その事実に感動します。
遺稿集「風に愛されたひと」にはお見舞いに来た多くの友人へのお礼状や友人からの手紙も掲載されています。織田美保子さんの周りに集まってくる人々は全て良い人です。善い人です。
けっして綺麗事だけが書いてあるのではありません。ガン病棟の生々しい現実も書いてあります。しかしなにか潔よい(いさぎよい)書き方です。
私は、「ああ、この方はガンに勝っている」と感じました。その勝利の支えには、夫や娘、息子、そして多くの友人がなっているのです。ですからこそ結婚しようとしている男性、夫婦生活をしている夫が読むべき書と思います。そのように信じています。
今日はこれからミサへ行きます。織田美保子さんのご冥福を心から祈ってきます。
下の花の写真は織田美保子さんへお供えする写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
49歳とかなり年をとってから江ノ島や葉山で小型ヨットを始めました。2年半で小型ヨットからクルーザーに乗り換え、10年、さらに少し大きいクルーザーに乗り換えて13年半です。通算26年間のヨットの趣味を今日キチンと止めました。かなり打ちこんでいたヨット趣味でしたが75歳になると体が言うことを聞いてくれません。
本当にヨボヨボになる前に早目に幕を閉じることにしました。
5月ころに後を継いでくれるTKさんが現れました。若々しい方です。一緒に3回のセイリングをして私のクルーザーの癖や性格を丁寧にお伝えしました。そして約束通り、10月29日の今日、正式に「譲渡証明書」をお渡しし、船体と法定備品など全てを引き継ぎました。
老齢で運動能力が無くなってヨットの趣味を止めることは悲しいものです。
今日はヨットのいろいろな備品の説明をTKさんへ説明しました。そしてこのクルーザーと過ごした忘れられない場面を走馬灯のように思い出していました。風を帆に受けて疾走する経験を何度もしました。突風にヒールし白い三角波に囲まれて、家内がおびえメインセイルを二人で必死に下ろし慌てて帰港したこと、深い霧の中で「五里霧中だ」と冗談を言いながらゆるゆるセイリングしたことなど・・・夕方からデッキの上で冷えたビールも飲みました。友人とキャビンの中でシャンパンを飲んだこともあります。家内や家族とキャビンに何度も泊りました。
一通りの説明が済んでから、TKさんをラクス・マリーナへ案内し、ハーバーマスターの佐藤敏郎さんへご紹介しました。私が23年半、いろいろとお世話になった方です。ヨットの故障を何度も気持ち良く直してくれた親切な方です。23年半もお世話になったお礼を丁寧に述べ、後を引き継ぐTKさんを宜しくお願いしますと頼みました。
これで佐藤さんとはもう会うこともないのです。悲しいです。
ヨットの趣味を卒業してまた新しい世界へ旅立つ決心が出来ました。そして5月以来、友人のように付き合ってきたTKさんと別れようとしました。と、その時、TKさんがフランスのシャンパンを取り出し、お会いした記念にと差し出しました。なんと有り難いプレゼントなのでしょう!単純な私は高級なシャンパンを見た途端に元気が出てきました。なお上記で、TKさんと書きました方はTadnobleとうハンドル・ネームで、秋の空を眺め、先月急死した友人のことを想う と題する記事へコメントを投稿して下さっている方のことです。
常磐高速道路を鼻歌まじりで飛ばしてときどき鼻をすすりながら帰ってきました。そんな一日でした。
26年間打ち込んだヨットの趣味を止めることは悲しいことでもありますが、何か深い充実感を覚えます。怖い思い。辛いセイリング。根気の要るセールや備品の修理。バッテリーの管理の苦労。水漏れの穴の修理。その全てを乗り越え、無事にヨットの趣味を卒業出来たのです。そのせいで充実感があるのかも知れません。
下にはもう見ることも無い愛艇の写真と係留地の風景写真です。
ホロコーストは東ヨーロッパとドイツ占領地域のロシアで主に起きた
ヒットラーの行ったユダヤ人の大量殺戮はホロコーストと呼ばれ、西洋文化の歴史で最大の汚点です。それは世界中の人々が知っています。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロパとソ連西部地域から狩り集められたのです。この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは行き過ぎと考えるのが公平な見方でしょう。
一体、東ヨーロッパやソ連のドイツ占領地域では何が起きたのでしょうか?少し冷静に、そして客観的に考えてみたいと思います。
我々日本人は東ヨーロッパ諸国の歴史や文化にあまり興味がありません。明治維新以来の富国強兵の為に役に立たない国々であった為です。大日本帝国の軍隊組織は英国、フランス、ドイツを参考にし作られました。軍艦も戦闘機もこれらのイギリスなどの西ヨーロッパの国々から輸入したのです。チェコの機関銃以外、東ヨーロッパから輸入したものはありませんでした。
東ヨーロッパ諸国は第二次大戦後、ソ連の衛星国になってしまい、情報は途絶えてしまいました。
1945年から1989年のゴルバチョフによる情報開示まで東ヨーロッパは情報の暗黒地帯だったのです。従って、私は何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したか?その理由が理解出来ませんでした。東ヨーロッパ事情に興味が無かったからです。この知的怠慢を私は非常に恥かしく思っています。
最近、ポーランドの悲劇を少し調べて見て分かりました。ポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。ヒットラーがユダヤ人絶滅戦略の為には、まずポーランドのユダヤ人を殺すのが一番効率の良い方法です。
そしてソ連のドイツ占領地域やハンガリーやチェコスロヴァキアなどに多くのユダヤ人が住んでいたのです。
他の地方のユダヤ人は数も少なく、集める労力がかかり過ぎます。従って結果的に殺戮率も少なくて終りました。
それに比べて、ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人は600万人と言われています。その出身国を以下に示します。ポーランド、ソ連、ハンガリーがず抜けて多いことにご注目下さい。
その原因はユダヤ人の人口が東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かったからです。
キリスト教徒によるユダヤ人の歴史的迫害とホロコーストは同じ根で繋がっている
西ヨーロッパ諸国ではキリスト教徒による歴史的な迫害が続いたので東のヨーロッパ地方へ逃げて、移住していったのです。
しかし、そこでもヒットラーの殺戮が始まると、その地域のキリスト教徒もユダヤ人の逮捕と収容に協力したのです。人間とは権力に弱く、その上、他民族を支配、抹殺したいという本能を持っている悲しい存在なのです。
・・・・・・・・「ドイツ人に殺されたユダヤ人 の出身地」・・・・・・・・・・・
ドイツ: 165,000 、オーストリア: 65,000 、フランスおよびベルギー: 32,000 、オランダ: 10,000以上 、ギリシャ: 60,000 、ユーゴスラヴィア: 60,000 、チェコスロヴァキア: 140,000以上、ハンガリー: 500,000 、ソ連: 2,200,000 、ポーランド: 2,700,000
この他も合計すると1100万人前後(ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人)となる。(数字の出典:Wikipediaの「ホロコースト」の項目より)
日本には66年間戦争がありませんでした。皆が戦争のことを忘れ、その悲惨さも忘れようとしています。しかしユダヤ人の大量殺戮を忘れてはいけません。
ヒトラーとその協力者が600万人ものユダヤ人を理由も無く殺したのです。そのドイツと日本は軍事同盟を組んで共に第二次世界大戦を戦ったのです。
ホロコーストに関しては日本人は完全に無罪です
ところで、ユダヤ人の大量殺戮に日本人は責任が一切ありません。むしろユダヤ人を満州へ移民させ救おうとしたのです。それはこのブログでも紹介した、奇想天外!関東軍のユダヤ人の大規模救済計画ー河豚計画 です。現在のユダヤ人の間では有名な話になっているそうです。この記事をクリックしてご覧頂ければ嬉しく思います。
さてヒットラーに協力した人々が東ヨーロッパに沢山居たのです。
従ってユダヤ人の殺戮の背景には、長い間連綿として続いて来たユダヤ教徒とキリスト教徒の宗教的敵対関係が存在していたのです。そのように理解するのがごく自然な理解の仕方と信じています。悲しい事です。宗教の対立で殺し合うことこそ愚かなことはありません。
幸いにも佛教国だった日本の歴史には、宗教の対立でこれほど大規模な殺戮はありません。日本人が西洋人より優しい文化、柔らかい文化を持っていると思うのは間違いでしょうか?
しかし日本人も西洋人と同じだった時代もあったのです。
日本人が権力に弱く、その上、他民族を支配、抹殺したいという欲望を再び持たないようにお祈りいたします。
二度と日清、日露、シナ事変、満州事変、太平洋戦争の時代のような事が日本民族に来ないようにお祈りいたします。
皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
温泉の善し悪しは、一に泉質と湯量(風呂場の広さと清潔さも含む)、二に周囲の景観、三に宿の建物の趣味の良い華麗さ、四にサービスの質、五に料理の美味さ。そんな私の個人的な尺度で言えば登別温泉は北海道一と思います。他に匹敵するのは層雲峡温泉くらいと思います。
日本全国でみれば別府温泉、草津温泉、などと甲乙つけがたいと思います。
登別温泉の場所は千歳空港から西へ太平洋岸沿いに行った所にあります。苫小牧と室蘭の間です。高速道路があります。交通の便利が良い温泉です。
泊った宿は石水亭という大規模な旅館でした。部屋も良く、バイキング形式の夕食も北海道の新鮮な野菜やサケなどが豊かな味わいを添えています。宿泊料も団体なので非常に低額でした。温泉の湯船は広く、露天風呂からは満天の星空が楽しめました。泉質はイオウで白くなった半透明の湯でやわらかい肌触りの湯でした。湯量が豊富で相当な勢いで源泉が湯船へ流れ込んでいます。湯から上がっても体がいつまでもポカポカ温かったです。
下の写真は上から順に、宿の廊下の窓からの眺めと、部屋の窓からの紅葉の景観です。
3枚目の写真は温泉の源泉地帯の地獄谷の風景です。最後の写真は地獄谷から上がる蒸気の白さが周りの紅葉を一層引き立てている風景です。
織田美保子、1945年生まれ、1984年、ガン全身転移で死す。享年39歳。中学1年の娘と小学4年の息子と夫を残して。
夫の織田寧人氏から遺稿集「風を愛したひと」(葦書房1985年6月初版)を送って頂く。・・・・・
このブログでは何回か書評を掲載してきました。しかし、この本を手にした時思わずウーンと唸ってしまいました。あまりにも苦しくて書評の構成が思いつかないのです。
家族を残して若くして突然ガンで死んだ女性です。そのあまりにも若くして死んだ彼女への同情を中心にした内容にすれば簡単です。しかし、それだけでは書評になりません。その上、「文章の書き方」を若いときから勉強していた彼女へ対して失礼です。
迷いながら読みはじめました。
織田美保子さんは何年も、同人誌「群雀」や毎日新聞へ随筆を投稿していました。読み進んで行くうちに彼女が書評の書き方を教えてくれました。感じたことや思ったことをすなおに分かり易く書けば良いと。その上、随筆にも「ミニ随筆」という分野があることを教えてくれました。短いながら鋭い、そして美しい文章で綴った随筆です。散文詩のようでもあります。
その教え通り、これから折々に断片的な感想を書き続けて行くことにしました。そうです。ミニ書評です。これで私はすっかり気楽になりました。
それでは「風を愛したひと」という本の感想を気楽に、素直に書きます。
まずこの本には分かり易い文章しか出て来ません。自分な感じたことを素直に書いています。感動したとか、悲しみに打ちひしがれたなどという大げさな表現がありません。漢語の熟語や気の利いたカタカナの外国語が出て来ません。生きる意味を考えるというような、何を言っているのか分からない抽象的な言葉が出て来ません。
純粋な日本語だけで書くと美しい文章になるのです。彼女の良い人柄、優しさがそのまま表れている文章です。
体が苦しい病床にありながら自分の運命を嘆いてはいません。淡々と苦しさだけは分かり易く書いています。泣いたことは書いていますが悲しさは書きません。
自分と周りの家族の様子を素直に見て、その様子を書いています。
その事実が読む人の心を揺さぶるのです。ガンの恐ろしさが分かるのです。
彼女は状況を分析したり、臆測をしません。素直に医者や看護師の言うことを信じています。夫や子供達を信じています。多くの友人が見舞いに来ます。さわやかに会話を楽しんで、後に見舞いへ対するお礼状を書いています。
性質の非常に良い女性です。多くの友人達が集まって来るのです。
今日のミニ書評はこれでお終いです。この本は「推薦したいブログ」の織田寧人@風工房 へお申込み下さい。贈呈本が送られてきます。下に夫の寧人さんが撮った蒸気機関車の写真を掲載します。彼女の思い出の作品であると想像しています。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
このブログは藤山杜人という名前で書き続けてすでに4年になります。引退して実社会と縁が切れた私にとってはこのネット社会こそが一番大切な存在になっています。かけがえの無い友人も出来ました。毎日のようにコメントを下さる方々もいます。
よくネット社会は虚の社会で、ウソが横行しているトンデモナイ世界ですという意見を聞きます。しかし私にとっては人々の愛と誠意が溢れている素晴らしい社会です。
しかしネット社会と実社会の間には大きな断絶があると信じていました。そこには深い、深い谷間があり、行き来することは不可能だと思いこんでいたのです。
ところが昨日、偶然その断絶は私の誤解であった事に気がついたのです。
高齢になりいつ旅立ってもおかしくない年齢になってきました。知人や友人も次第にこの世から消えて行きます。そこでこの辺で自分のハンドル・ネームと実名を繋いで置くことにしました。
藤山杜人の本名は後藤和弘です。1936年に仙台で生まれました。
実社会で私がしていた仕事は大学で学生の指導と研究をすることでした。検索してみたところその研究論文の一覧が出ていました。http://sc.chat-shuffle.net/human/id:1214447 です。
驚いたことに数多くの研究論文を作るとき手伝ってくれたかつての学生さん達の名前が全て出ているのです。川上君、永田君、雀部君、山口周君、須佐君、佐藤一則君、伊藤威安君、砂山君・・・・などなどの若き頃の顔が鮮明に浮かび上がったのです。
懐かしさと感謝の気持ちが入り混じって、しばし呆然と見詰めていました。そして自分の実社会での仕事のリストがネット社会に厳然として存在しているのです。
大学を辞めてから以後の仕事の内容も後藤和弘として検索すると、「後藤和弘 - 株式会社技術経営創研」という項目に出ています(http://www.tb-innovations.co.jp/link.10.htm)。
その頃は通産省の仕事を手伝っていました。おもに大学と産業界と官庁の協力関係を推進し、日本の経済を活性化する応援をしていたのです。その頃書いた論文も「どうする?ズバリ直球!」という項目で全文が紹介してあるのを見つけました。そのURLは、http://www.tb-innovations.co.jp/link.forum.goto.0.htm です。
このような発見を繋いで行くと、虚のネット社会と実社会の間の断絶を次第に埋める事が出来ます。
もう一つの実例です。このブログによくコメントを下さるyuyuさんという方がいらっしゃいます。その方のHPをみると尾張雄峯という陶芸家であると分かります。その名前で検索すると本名は渡邉勇治さんであり、他の号に尾張雄峯、尾張勇剛があることが分かります。昭和9年福島県郡山市生まれです。そして、平成2年春日井市に移築。全国小鉢展京成賞、サージマルジス賞、ニューヨークジャパン大賞、国際伝統美術博覧会カリフォルニア州観光局長賞、韓国心美会国際交流展金賞、国際芸術文化賞、世界学術文化審議会最高文化功労賞など数々の受賞歴を誇る。などと実社会での活躍が紹介してあります。 http://chubutougeisakka1.seesaa.net/article/40669205.html
このように検索をすると虚のネット社会は実社会と確実に繋がっています。断絶など無いのです。
何故、私がこんな事に気がついたのでしょうか?
実は昨日、私の若い友人の追悼の会の案内状を奥様から頂いたからです。京都大学教授の岩瀬正則さんが亡くなったのです。63歳尾でした。追悼会は京都のカトリック聖ヴィアトール北白川教会とのことです。
出席は出来そうもないので追悼の文章をこのブログに書きたいと思います。その為には私も実名、そして彼も実名で書いた方が礼儀にかなっていると思い始めました。そこで実名でいろいろ検索をしていました。
そうしたらネット社会と実社会は緊密に繋がっている事を発見したのです。
賢明な皆様はそんな事は既にご存知だったことと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
左サイドバーの「推薦したいブログ」という欄があります。先日、突然に織田寧人さんの写真ブログを追加しました。
私の方針として一度推薦したいブログに決めたら、それは永久に推薦したいブログなのです。ですから本人にお会いしたり、あるいはその方のブログを数カ月見て、深い感動を覚えた場合のみにしています。
しかし織田寧人さんの写真ブログの場合は違います。数回写真集だけを見て一瞬にして決めました。少し軽率過ぎると後悔しつつ、その後、何度も織田寧人さんの写真ブログを開けて見ています。しかし現在は確信を持てるようになりました。
そこで、その本当の理由を書いて置きたいと思います。
世の中には高価な写真機を使って、根気良くシャッターチャンスを待って撮影した傑作写真が多くあります。大体は綺麗な自然の風景だったり、美しい鳥や動物の写真です。美しい樹林や棚田の写真も多いものです。そのような傑作作品に感動し、撮った人へ敬意を感じることも何度も経験しました。
しかし織田寧人さんの写真は少しだけ違います。鮮明で美しいだけではないのです。写真の中に死者との楽しい会話が写っているのです。悲しい会話もあります。祈りもあります。鎮魂もあります。現在の家族の様子を死者へ報告しているようでもあります。カトリックを信仰しているようでもあり仏教徒でもあるようです。本人が意識しているかいないかは定かではありません。兎に角、宗教的な雰囲気が写真の裏に写っているのです。これは私の間違いかもわかりません。しかしたとえ間違っていたとしても私にはそのように感じているのです。
初めて写真を見た時、こんな感じを受けたのです。彼のブログの名前は「風に吹かれて」です。そうして自己紹介欄に若くして亡くなった奥様の遺稿集が紹介してありました。その本の名前が「風を愛したひと」です。
これで私は判然としました。39歳で中学生の娘と小学生の息子を残して旅立った奥様との会話集なのです。すくなくとも私にはそのように思われたのです。
「風を愛したひと」と「風に吹かれて」は見事な対句になっています。美しい対句です。
その遺稿集を送って下さるというのでお願いしました。装丁の良い本を読んでいます。若くして亡くなった方への同情も深いものがあります。しかし今日は写真についてだけの感想文にとどめます。「風を愛したひと」という本の書評はいずれ書きます。もっと読みこんで、考えてから書評を書きたいと思います。
しかし思わず感心したことを一行だけ書いて置きます。遺稿集をすぐに出すことにして中学生の娘さんの意見を聞きました。「このたぐいの本はワンパターンになりがちだからあまり賛成出来ない」という意味の反対意見を述べてそうです。そうです。私もこの本を見るまでは重荷に感じていました。このたぐいの本は読了するのが大変なことがあるのです。しかし今回はまったくの間違いでした。
さてそれはそれとして、写真集にもどります。何故、織田寧人さんの写真が宗教的な感じがするか?いろいろな理由がありますが、一つには人間が全然写っていません。天気が良い日もありますが、曇った日、雪の日など光の取り扱い方が「この世」的ではないのです。その上数枚の写真を組写真にして割りつけていますが、その効果もこの世的でないのです。ですから1枚、1枚を取り出してこちらのブログに掲載すると全く別な印象になります。
こういう写真ブログは写真の表現の限界を超えていると思います。そのように思うのは私の勝手です。間違っているとも思いますが、それは私にとっては楽しい間違いなのです。
以上が私が「風に吹かれて」という写真ブログを「推薦したいブログ」に選んだ本当の理由です。皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います(終り)
紅葉の北海道を旅して来ました。登別温泉の石水亭とキロロリゾートのホテル・ピアノに泊った2泊3日の旅でした。23日に羽田空港を出て、千歳着、バスで室蘭の工場の夜景を眺めてから登別温泉の旅館に泊りました。良い宿でした。温泉の泉質も硫黄系ですが肌に優しい滑らかな湯でした。
24日はオロフレ峠を越えて、ロープウェーに乗り昭和新山と有珠山の景観を楽しみました。洞爺湖の岸をバスで走り、ニセコパノラマラインへ登って行きます。高地の湿地帯の木道を往復2km歩いて神仙沼を見ました。ヒグマが見えると言う人がいて、皆が慌てて帰ってきました。本当にクマが居たか疑問でしたが、皆が興奮して面白そうでした。
暗くなるのなるのを待って小樽市の夜景を楽しむために毛無山展望台へ行ってからキロロリゾートへ到着しました。ホテル・ピアノは以前にも泊ったことのある良いホテルです。
次の日はバスで小樽市に行って町を散策したあとで「ニシン御殿・旧青山別邸」へ行き豪華な和風建築を見ました。酒田の本間邸に似た建物です。
その後は札幌を少し観光してから千歳空港から帰ってきました。
明日から「北海道への旅の誘い」と題した連載でその魅力的なところをご案内したいと思います。
北海道は何故か私にとっては何時までも憧れの土地であり、旧懐の情が掻き立てられるところです。土地の景観や目にする樹木がとてもヨーロッパ大陸に似ているのです。ヨーロッパに憧れ、若いころ家族と一緒に住んだことがあるドイツの風景に似ています。スエーデンの風景にも似ています。氷河が削った滑らかな丘、白樺やカラマツの林。ポプラ並木。そして何となくヨーロッパ的な牧場や農村地帯の風景が私の旧懐の情が掻き立てるのです。
今回は曇り日の連続でしたので写真が鮮明でありませんでした。紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人