1981年に私を中国での集中講義に招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授は共産党員でした。国民党と戦って天津市を開放し、その行政に参加した経験を持っていました。
大変親しくなり彼が数年前に亡くなるまで家族同士の付き合いをした友人でした。北京鴨の店で五星ビールを飲みながら共産主義の得失を何度も議論したものです。彼は共産主義の欠点も理解しているようですが決して中国共産党を非難しませんでした。共産党へ忠誠を尽くしていたのです。
その彼がよく五四運動のことを話題にしていました。
日本が1915年に中国に突きつけた「対華21ケ条要求」に反対する学生が1919年の5月4日に起こした反日デモを記念して「五四運動」と呼ぶそうです。
そしてこの「五四運動」のおかげで1921年に中国共産党が成立するのです。
従って中国共産党はその歴史的出発点は抗日運動の「五四運動」であると宣伝しているのです。
周栄章教授は私を非難しません。親しげに笑いながら静かに語るだけです。
「対華21ケ条要求で「五四運動」が全国的に広がり、やがて、中国共産党が成立したのです」と、静かに語るだけです。
そして、「対華21ケ条要求も満州事変も日中戦争もすべて日本の軍閥が行ったことです。現在の日本人とは全く違う人々が行ったことです。これからは日中友好の時代です」と微笑みながら言うのでした。
しかし鄧小平の時代が終わると日中間の友好関係は暗転するのです。
それは当然な現象なのです。以下の対華21ケ条要求の内容と五四運動の説明文をお読みになればご理解頂けます。
中国に共産党独裁が続くかぎり日中友好は決して容易ではないのです。
下に五四運動関連の写真を掲載します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========対華21ケ条要求の内容=======
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
日本政府は袁世凱大統領と直接交渉することで事態の打開に動いた。1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。
第1号 山東省について
1、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
2、山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
3、芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
4、山東省の主要都市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること
第2号 南満州及び東部内蒙古について
5、旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
6、日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
7、日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
8、日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
9、他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
10、政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
11、吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
12、漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
13、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
第4号 中国の領土保全について
14、沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
15、中国政府に政治経済軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
16、中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
17、これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
18、一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
19、武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
20、福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
21、中国において日本人の布教権を認めること
====21ケ条要求が五四運動を引き起こした===============
(1)何故、五四運動と呼ぶか?
大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。
(2)五四運動の政治的背景
政治的背景は2つある。まず対華21ヶ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21ヶ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求が突きつけられた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。一説には袁世凱が後に中国皇帝となるのを日本が黙認することが取引条件とされたという。
次の政治的背景には中国軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは中国における様々な利権であった。1918年5月には「日華軍事防敵協定」が結ばれ、日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、中国民衆の激しい反発を呼び起こし、反日感情を非常に高める結果となった。
(3)中国共産党の歴史は五四運動から始まってと主張している
五四運動は、中国(正確には中国共産党)に高く評価されてきた。その研究の蓄積は他国の追随を許さない。しかし、政治イデオロギーに縛られ硬直した部分があるのも事実である。大陸では、五四運動をナショナリズムが真に大衆化した転機として捉え、中国現代史の起点をここに置いている。すなわちストライキやボイコットといった運動手法を積極的に利用した五四運動に高い評価を与えているのである。これは、1921年、中国共産党が五四運動の影響から誕生したことも大きく関係している。こうした中国共産党的歴史観を革命史観ともいうが、この史観は、一時期の日本にも多大な影響を与えた。
上は1919年5月4日の天安門広場でのデモの写真です。下は宣伝用の絵画です。
五四運動のデモは中国共産党の恒例行事です。下の写真はカナダのバンクーバーでの最近の五四運動のデモの様子です。